第56回真の万物の日の行事が行われます
今日の行事に参加されたすべての方を歓迎します
お父様は1963年に万物の日を決められました
1954年5月1日に決められた世界統一教会神霊協会の設立もこの日に決められました。
皆さん起立してください
トローリー入場
勝利された万王の王とお父様の相続者、実体の2代王様ご夫妻が入場されます
2代王は、真のお父様の王冠とローブを運ばれております。
国進にむが、真のお母様をサポートされております。
2代王と王妃は、真のご父母様に敬礼いいたします。
聖のロウソクに火をつけられます
2代王と王妃が、王座につかれます。
3代王をいらしてください。
次は真の御父母様に敬礼をお捧げする時間です、
皆さんも一緒に敬礼をお捧げします
国歌斉唱です。
イーヒジョンさんが歌を導きます。
ソウル聖殿からいらっしゃいました。ソウル聖殿所属です。
次は敬礼の順番です 次は真の家庭、フンジン様を代表とした霊界の真の家庭の敬礼です。 2世、3世の祝福家庭の敬礼です。 地上世界と霊界世界を代表した2世と3世の敬礼 全世界のシックの敬礼です。 霊肉界を代表した全世界の祝福家庭の敬礼 神の摂理の3か国の敬礼 韓国、日本、アメリカ6大陸の、アジア、北米、ヨーロッパ、南米、オセアニア、アフリカ 代表者の敬礼があります。 神の摂理の宗教代表者の敬礼があります ユダヤ教、キリスト経、ヒンズー教、仏教、儒教、 イスラム,...の代表者の敬礼です。 全世界のアベル圏の代表の敬礼です。。 全世界のカイン圏の敬礼です 全霊界の代表の敬礼です。 家庭盟誓、 次は、報告祈祷の時間です。 イサンヨル協会長の代表祈祷です。 愛する天のお父様、天地人真のご父母様、3代王権に侍り、
真の万物のお祝いをすることをすること感謝いたします。 本然の理想をなすために、蕩減の路程を歩まれ、堕落した人類を救援するため、
真のお父様は堕落した人類を救うために7死復活を成されました。 名節に真の字を付けて、祝うように言われました。 この日をお祝いするために真の御父母様の前に不足なものをお許しください。 悔い改めますので、お許しください。 生命の書祝福式を通してトランプ大統領と、アレックス・ジョーンズが、
使命を果たすことができるよう導き下さい。 トランプとアレックスジョーンズ、ラリープレット会長が3代王権に侍りますように。 ケーキカットの時間です。 祝賀の歌を歌いましょう。 ハッピーデイオブトゥルーオールシングス、 ハッピーアニバーサリー56回真の万物の日 真のお父様がお食事をされる順序です。聖食。 次は訓読の時間です。
今日は、1966年の真の万物の日に4回目の2回祈祷された1回目の祈祷の内容 説教の一部を訓読いたします。
第四回万物の日のみ言葉
1966年6月19日(陰暦5月1日)
韓国・青坡洞旧本部教会にて
歴史の起源と目的
皆さんが御存知のように、きょうは万物の日です。今から四年前に、我々は万物の日を設定しました。この万物の日を設定してから、我々は全国の聖地を選び定めました。
ところで、堕落の恨みを解くための父の摂理は、アダム家庭から始まりました。アダムとエバが失敗したことを、カインとアベルを通して復帰しようとなされた父の御旨があります。しかし、アベルを殺害することによって、これがまた悲しい第二次の堕落の結果を招来するようになったので、天が摂理なさったアダム家庭の摂理は、全面的な破綻をもたらすようになったのでした。
このようにして、神はアダム家庭の八人家族の代身として、ノアの八人家族を選んで、アダム家庭で失ってしまったすべてのものを復帰しようとなさったのでした。しかし、ハムの失敗によって、再び御旨は成されず、ノア、アブラハム、モーセを経て、洗礼ヨハネを経てイエス様まで四千年という歳月が流れたのでした。この長い長い期間中に、我々の祖先たちが失敗し、縦的に曲折した事実を、イエスの時代においてイスラエル民族を横的に立てておいて、これを民族的な蕩減を条件として、勝利の基台の上にイエス様が立って、歴史的な蕩減と合わせて、新しい時代的な使命を出発しなければならなかったのでした。これがイスラエル民族とイエス様の使命でした。このような新しい時代的な出発のために、イエス様は三年公生涯の路程を出発したのです。しかし、民族的な横的基台が、縦的基準を代身して蕩減することができるような実際的な環境が成されなかったので、第二次的な摂理路程として出発したのが、新約の福音の歴史であるという事実を我々は知っております。
それでは、四千年の歴史の上に、更に加えて二千年というキリスト教の歴史を通しながら、その期間になしたことは何なのでしょうか? 事実上イエス様は、アダムからイエス様当時までの四千年期間の横的な民族の基台を中心として、歴史的なすべての過誤を蕩減しなければならなかったのです。しかし、それを成すことができなかったので、イエス様は新約の福音を中心として、新しい出発をしなければならなかったのです。このような立場から、イエス様は世界的な神の御旨に対することのできる第二イスラエルの編成を中心として出発しなければならなかったのでした。
摂理歴史の再出発
従って、今日のキリスト教の歴史は、どこから出発しなければならないかといえば、神の息子に侍ったという栄光の中から出発しなければならなかったのが事実です。しかし、そのようにできなかったのです。
栄光の中に来られたメシヤを、十字架の路程へ追いやったので、十字架を通して復活なさったイエスを信ずる場に出ようとする者は、十字架の路程を経ずしては、復活されたイエスと因縁を結ぶことがてきないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
それで、キリスト教は、最低の一番暗黒世界の場から、再び歴史時代を再編成する歴史路程をさかのぼって来るというのです。このようにして、天の御旨のために生命を覚悟した数多くの我々キリスト教信者たちは、歴史的な路程の上にあって犠牲を払いながら何をしたのでしょうか?
第一イスラエルを編成してきた歴史的なすべての曲折は、イエスを迎えて、時代的な環境の上で蕩減復帰しなければならなかったのがその時代の使命でした。しかし、その基準を失ってしまったので、イエスを信じて来る数多くの人々は、歴史時代における第一イスラエルの失敗を、第二イスラエル時代に再度収拾しながら、今まで世界的なイスラエル圏を作って来たのがキリスト教の歴史なのです。
しかし、このキリスト教の歴史が、霊と肉を中心とした第三の時代と同じ、そのような立場に立つことができず、肉的基準を除外した、霊的基準のみを中心とした第二イスラエル圏内に属しているので、ここに再び必ず要求されるのが、再臨という一日だったのです。この一日を希望して来た世界のクリスチャンは、第二イスラエルという霊的基準の上に来られる主様を迎えて、第一イスラエルの肉的基準と合わせて、第三イスラエルの世界的な善の主権復帰世界を成就しなければならないのです。これが摂理歴史の再出発です。
霊的勝利基準と肉的勝利基準
イスラエルという言葉は、皆さんがよく知っているようにヤコブが争って勝利したから、つけられた名前です。では、誰が勝利したのでしょうか? ヤコブが勝利したのです。それでは、ヤコブが誰に勝利したのか? 天使と戦って勝利したのです。ヤコブが二十一年路程を終えて、故郷の地を訪ねて入るようになる時に、ヤボクの渡しで最後の決戦がありました。その戦いは、たとえそれがヤコブ個人がなしたものであっても、その個人は、当時の数多くの人類を代身した個人でした。
ヤコブの家庭は、どこまでもその家庭のためだけにする、そのような立場ではありませんでした。数多くの民族を代身し、数多くの氏族を代表した家庭的な立場であり、ヤコブは家庭を天に懸けておいて、ヤボクの渡しで祈る中で天使と相撲をしたのでした。
それでは、これが何を意味するのでしょうか? 天使世界をひっくり返すためのものでした。それは、人間の堕落が天使世界に支配されたことによるものだったからです。これを再び逆に勝利して、天使世界を屈服させなければならない勝利のプログラムがあるために、ヤボクの渡しでヤコブは、勝利を決める場において天使と戦い、天使自身が祝福を許さざるを得ない、そのような祝福を受けるようになったのです。
それでは、この祝福は何を意味するのでしょうか? 天使世界の権限をすべて相続してこそ、地上において天の摂理を代身することのできる勝利者になるのです。それで、ヤコブ自身は、はっきり知らなかったかもしれませんが、その心を催促する天の摂理の御旨が、その心と心情を通して、本心を通して因縁を結んだのです。それで、ヤコブは、「お前(天使)は私(ヤコブ)を祝福しない限り、絶対、行くことができない。」と言って戦ったのです。
このように、ヤコブは生命を懸けて立ち向かったので、天使はそこで敗れたという確認書を与えるという直告(註:ありのままを告げること)をするようになったのです。そのようにして、勝利の栄光の場にヤコブを立てておいて、イスラエルという名を与えるようになったのです。
こうして、霊的基準をおいて天使の前に勝利の基台を整えたヤコブが、ハランの地に訪ねて入るようになったのです。そのとき、彼はまた、ヤコブの妻子が現れたならば殺そうと考えていたエサウを、再び屈服させなくては、完全に勝利したことにならなかったのです。
ヤコブ自身の本心を通して動く天の摂理は、ヤコブがヤボクの渡しで勝利したその時に、霊的基準の勝利を収めたのでした。ヤコブが勝利して備えるようになったその霊的基準の実体は、その時の世界的な実体の代身として現れるようになったものでした。
一方、エサウは血統的に見るとき、ヤコブのお兄さんでした。しかし、摂理上から見るときは、この二人の兄弟は、天と地を代表するものでした。ヤコブは天を代表したのであり、エサウは地を代表したのでした。否、ヤコブは神を代身したのであり、エサウはサタンを代身したのでした。ところで、堕落とは何だったのか? それは、天使がアダムとエバを主管したことでした。
それゆえに、勝利者としてのイスラエルの御旨を奉るためには、個人的勝利の基準と家庭的勝利の基準を決定しなければなりませんでした。このようにして、ヤコブが自分のお兄さんに会うようになったときに、お兄さんが歓迎することによって、歴史は初めてイスラエルに対して約束の祝福を霊的に与えることができたのです。一方また、約束の祝福を実質的な基台の上に、実体を中心として成し遂げることができたのでした。イスラエルの基準をここで成立することができました。エサウがヤコブに屈服したことにより、ここから新しい歴史を始めることができました。
これは、どういうことなのでしょうか? 今まで神は、我々人間を思いのままに主管することができませんでした。霊でもって主管することができなかったし、肉でもって主管することができませんでした。神は、どこまでも霊的な勝利と肉的な勝利をもたらした基準の上で、人間を主管しなければならないのです。
なぜそうなのでしょうか? 神が主管なされた創造当時においては、堕落という名前もなく、堕落というような基準は立っていませんでした。従って、堕落を離れた場、即ち、堕落と因縁のない場で神が主管されるのが本来の創造目的だったのです。それゆえ、本来の創造の原則を中心として神が主管なされるためには、どこまでも創造の原則に立脚した、その場に立った人を主管しなければならないのです。そのため、霊的基準は勝利の基準の上に立たねばならず、肉的基準も勝利の基準の上に立たなければ、神が主管することができません。ここからイスラエルの編成が出発するようになるのです。
イスラエル民族の行くべき道
皆さん! イスラエルがこのように新しい出発をするようになって、イスラエルの民族的な新しい基準が立てられるようになった時、イスラエルの一族たちは、どのような道へ行かなければなりませんか?
天の基台を準備しなければならなかった、祝福されたイスラエル民族は、天が保護する栄光の立場で出発するのではなくて、栄光の道を捨てて、開拓者としての使命の道を歩んで行かなければならなかったというのです。
それでは、開拓しなければならないその地は、どのような地なのでしょうか! この地球上が彼らの開拓地だというのです。従って、開拓者としての権威と、最後の開拓者としての勝利の基準を決定するためには、どのような所に行かなければならないのでしょうか?
開拓者が天地を中心として仕事をするときに、易しい立場で開拓しては、開拓者としての勝利の基準を決定することはできません。そのために、イスラエル民族は、想像することのできない逆境地帯へ追いやられました。若干の他の理由もあることはありましたけれども、エジプト苦役路程もこのような立場から経るようになったのです。従って、開拓者の使命を果たすにあたっては、最も難しい使命、難しい立場に立たなければならないというのです。
これが摂理の御旨を立てて来た神の作戦方法だというのです。従って、すべてのこの世を代身して、天の御旨を代身して現れた人は、全部歓迎されてはいけなかったのです。これが絶対的な公式です。善のためになし、天のためになす使命を背負って立つようになるときに、もし、この世のすべてがこれを歓迎したら、すべてが変えられてしまうので、彼らは一八〇度方向を変えるようになるというのです。
一から始まって全部が皆、簡単ではありません。従って、万一、善を歓迎する日には、善が繁殖して、悪なる世界を全部破綻せしめるために、悪なる世界の傀首たるサタンはあらゆる反対条件を立てて、天が立てた者たちを追い払うのです。
それでは、追い払うにはどのように追い払うのでしょうか? 個人として出発するときには、個人的に追い立てられるようになります。しかし、家庭的に、民族的に、国家的に出発するときには、家庭的に、民族的に、国家的に、世界的に追い立てられるようになります。それで、今日に至るまでのキリスト教の歴史は、どの時代にあっても歓迎を受けることができませんでした。
個人的に歓迎を受けることができなかったし、家庭的に、民族的に、国家、世界的に歓迎を受けることができずに来たというのです。そうでありながら、発展して来ました。打たれ、奪われて来た作戦が天の戦法です。
このようにして数多くの我々の祖先たちは、二千年の歴史を経て来ながら、血の祭壇を連結させて来たし、伝統的な思想を連結させて来たということを、皆さんがはっきりと知らなければなりません。それにもかかわらず、今日の既成教会のクリスチャンたちは、“信ずれば天国に行く”という妄想的な信仰をもって、天国に行くかのごとくに大きなことを皆、言っているのです。
祝福成就の出発
それでは、今日のこのようなキリスト教の思想は、どのような思想なのでしょうか? 彼らは、天の摂理が死の祭壇を連結させて、新しいキリスト教へ復活することのできる復活の祭壇を仰ぎ見ながら来ているという事実を忘却しているのです。
アダム家庭の歴史から、アベルが血を流す歴史が始まったために、血の峠を連結させて、血の峠を越えて行って勝利しなければならないというのです。イエス様も十字架の血の峠で勝利したので、メシヤ、すなわち、救世主の使命を代身することができたのです。
神は、原理原則を中心として戦いをして来ています。従って、その戦法には色々ある訳ではありません。大きかろうが、小さかろうが、皆同じ一つの戦法です。それでは、その戦法はどのような方法なのでしょうか? サタン世界に入って行って、サタンの巣窟を占領して出て来なければならないという、そのような戦法です。
それ故に、ヤコブも祝福を受けるためにどのようにしましたか? レンズ豆のあつものとパンをもって勝利を収めたのを見るならば、彼にどれほど考えが多かったか、我々はよく考えてみることができます。ヤコブがどれくらい知恵深く、巧みな行動をとったでしょうか? しかし、それは、そうでなければならなかったのです。
原理を学んでも分かることですが、ヤコブが神の祝福を受ける長子の嗣業を奪うためには、すべての精誠を尽くす中で、彼の生活の感情が、その一つの標準の前に精魂を打ち込んでいたのです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、このようにもつれたことを知るようになるときに、ヤコブは、天を誰よりも考えたし、また自分の祖先から与えられた祝福が何よりも大きかったということを知ったのです。
それで、心情基準においては、ヤコブは天が無視することができない基準に立ったというのです。それ故に、アブラハムが祝福を受けた以上の心情をヤコブが持たなければならなかったのです。また、イサクが、アブラハムを通して受けた以上の心情をもって、天の祝福を相続するその民族と、天が祝福するその人がどれくらい貴いかということを、ヤコブはエサウを通して体験しなければならなかったのです。
彼は、寝ても覚めてもその心の中に祝福というものを考えました。そして、この観念が彼の生活全体を支配したということを皆さんは知らなければなりません。この基準は、サタンも公認せざるを得ません。
このようになるならば、神が祝福を移してやるにも、否定しようにも否定できない基準に立っていたために、内的な心情基準の前にあっては、長子たるエサウが問題ではありませんでした。エサウを踏みつけて立ち、祝福を受けた自分の祖先たちに対する価値を誰よりももっと大きく考えたし、祝福してくれた天の価値を誰よりも大きく考えたのでした。
ヤコブの心は、神が願ってきたその祝福のことを考えました。「汝の後孫が天の星のごとくに、地の砂のごとくに増える」という祝福を受けていたために、ヤコブは、世界的なイスラエルとしての祝福を受けることを誰よりも渇望したというのです。
このようなことを考え、条件を提示して祝福を受けるようになったので、ヤコブはレンズ豆のあつものとパンを与えて長子の祝福を受けるようになりました。しかし、天が祝福したその恵みがいかに貴いかということを知らなかったエサウは、これにふざけた調子で対しました。天の祝福を無価値なものと考える彼は、追い出されなければならなかったのです。
このようにサタンも公認することのできる条件になったので、アブラハム、イサク、ヤコブとこのように三代の因縁がここで初めて立てられたのでした。アブラハムとイサクは、祝福を受けたこと、即ち、神が祝福してくれることを喜んだし、好みました。しかし、ヤコブは、祝福を成し遂げることを重要視しました。祝福を成し遂げることを希望し、好みました。それが異なるというのです。
エサウとアブラハムは、祝福を受けた場で嬉しがりました。しかし、ヤコブは、成し遂げることに対する希望がもっと大きかったということを皆さんは知らなければなりません。このような観点から見るときに、祝福を受けたことが問題ではなく、祝福を成し遂げさせることが大きな問題になるのです。ヤコブを中心として見るとき、祝福成就の出発が問題になるのです。
これは、じっと座っていてできることではありません。イスラエルの民を引き連れて行き、個人的な基台を促進しなければならず、世界的な基台を催促しなければならず、天地に奥深く染み入った根本的な基台を建設しなければならないのです。これが正しく天が願う勝利の基準なのです。
1966年6月19日(陰暦5月1日)
韓国・青坡洞旧本部教会にて
歴史の起源と目的
皆さんが御存知のように、きょうは万物の日です。今から四年前に、我々は万物の日を設定しました。この万物の日を設定してから、我々は全国の聖地を選び定めました。
ところで、堕落の恨みを解くための父の摂理は、アダム家庭から始まりました。アダムとエバが失敗したことを、カインとアベルを通して復帰しようとなされた父の御旨があります。しかし、アベルを殺害することによって、これがまた悲しい第二次の堕落の結果を招来するようになったので、天が摂理なさったアダム家庭の摂理は、全面的な破綻をもたらすようになったのでした。
このようにして、神はアダム家庭の八人家族の代身として、ノアの八人家族を選んで、アダム家庭で失ってしまったすべてのものを復帰しようとなさったのでした。しかし、ハムの失敗によって、再び御旨は成されず、ノア、アブラハム、モーセを経て、洗礼ヨハネを経てイエス様まで四千年という歳月が流れたのでした。この長い長い期間中に、我々の祖先たちが失敗し、縦的に曲折した事実を、イエスの時代においてイスラエル民族を横的に立てておいて、これを民族的な蕩減を条件として、勝利の基台の上にイエス様が立って、歴史的な蕩減と合わせて、新しい時代的な使命を出発しなければならなかったのでした。これがイスラエル民族とイエス様の使命でした。このような新しい時代的な出発のために、イエス様は三年公生涯の路程を出発したのです。しかし、民族的な横的基台が、縦的基準を代身して蕩減することができるような実際的な環境が成されなかったので、第二次的な摂理路程として出発したのが、新約の福音の歴史であるという事実を我々は知っております。
それでは、四千年の歴史の上に、更に加えて二千年というキリスト教の歴史を通しながら、その期間になしたことは何なのでしょうか? 事実上イエス様は、アダムからイエス様当時までの四千年期間の横的な民族の基台を中心として、歴史的なすべての過誤を蕩減しなければならなかったのです。しかし、それを成すことができなかったので、イエス様は新約の福音を中心として、新しい出発をしなければならなかったのです。このような立場から、イエス様は世界的な神の御旨に対することのできる第二イスラエルの編成を中心として出発しなければならなかったのでした。
摂理歴史の再出発
従って、今日のキリスト教の歴史は、どこから出発しなければならないかといえば、神の息子に侍ったという栄光の中から出発しなければならなかったのが事実です。しかし、そのようにできなかったのです。
栄光の中に来られたメシヤを、十字架の路程へ追いやったので、十字架を通して復活なさったイエスを信ずる場に出ようとする者は、十字架の路程を経ずしては、復活されたイエスと因縁を結ぶことがてきないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
それで、キリスト教は、最低の一番暗黒世界の場から、再び歴史時代を再編成する歴史路程をさかのぼって来るというのです。このようにして、天の御旨のために生命を覚悟した数多くの我々キリスト教信者たちは、歴史的な路程の上にあって犠牲を払いながら何をしたのでしょうか?
第一イスラエルを編成してきた歴史的なすべての曲折は、イエスを迎えて、時代的な環境の上で蕩減復帰しなければならなかったのがその時代の使命でした。しかし、その基準を失ってしまったので、イエスを信じて来る数多くの人々は、歴史時代における第一イスラエルの失敗を、第二イスラエル時代に再度収拾しながら、今まで世界的なイスラエル圏を作って来たのがキリスト教の歴史なのです。
しかし、このキリスト教の歴史が、霊と肉を中心とした第三の時代と同じ、そのような立場に立つことができず、肉的基準を除外した、霊的基準のみを中心とした第二イスラエル圏内に属しているので、ここに再び必ず要求されるのが、再臨という一日だったのです。この一日を希望して来た世界のクリスチャンは、第二イスラエルという霊的基準の上に来られる主様を迎えて、第一イスラエルの肉的基準と合わせて、第三イスラエルの世界的な善の主権復帰世界を成就しなければならないのです。これが摂理歴史の再出発です。
霊的勝利基準と肉的勝利基準
イスラエルという言葉は、皆さんがよく知っているようにヤコブが争って勝利したから、つけられた名前です。では、誰が勝利したのでしょうか? ヤコブが勝利したのです。それでは、ヤコブが誰に勝利したのか? 天使と戦って勝利したのです。ヤコブが二十一年路程を終えて、故郷の地を訪ねて入るようになる時に、ヤボクの渡しで最後の決戦がありました。その戦いは、たとえそれがヤコブ個人がなしたものであっても、その個人は、当時の数多くの人類を代身した個人でした。
ヤコブの家庭は、どこまでもその家庭のためだけにする、そのような立場ではありませんでした。数多くの民族を代身し、数多くの氏族を代表した家庭的な立場であり、ヤコブは家庭を天に懸けておいて、ヤボクの渡しで祈る中で天使と相撲をしたのでした。
それでは、これが何を意味するのでしょうか? 天使世界をひっくり返すためのものでした。それは、人間の堕落が天使世界に支配されたことによるものだったからです。これを再び逆に勝利して、天使世界を屈服させなければならない勝利のプログラムがあるために、ヤボクの渡しでヤコブは、勝利を決める場において天使と戦い、天使自身が祝福を許さざるを得ない、そのような祝福を受けるようになったのです。
それでは、この祝福は何を意味するのでしょうか? 天使世界の権限をすべて相続してこそ、地上において天の摂理を代身することのできる勝利者になるのです。それで、ヤコブ自身は、はっきり知らなかったかもしれませんが、その心を催促する天の摂理の御旨が、その心と心情を通して、本心を通して因縁を結んだのです。それで、ヤコブは、「お前(天使)は私(ヤコブ)を祝福しない限り、絶対、行くことができない。」と言って戦ったのです。
このように、ヤコブは生命を懸けて立ち向かったので、天使はそこで敗れたという確認書を与えるという直告(註:ありのままを告げること)をするようになったのです。そのようにして、勝利の栄光の場にヤコブを立てておいて、イスラエルという名を与えるようになったのです。
こうして、霊的基準をおいて天使の前に勝利の基台を整えたヤコブが、ハランの地に訪ねて入るようになったのです。そのとき、彼はまた、ヤコブの妻子が現れたならば殺そうと考えていたエサウを、再び屈服させなくては、完全に勝利したことにならなかったのです。
ヤコブ自身の本心を通して動く天の摂理は、ヤコブがヤボクの渡しで勝利したその時に、霊的基準の勝利を収めたのでした。ヤコブが勝利して備えるようになったその霊的基準の実体は、その時の世界的な実体の代身として現れるようになったものでした。
一方、エサウは血統的に見るとき、ヤコブのお兄さんでした。しかし、摂理上から見るときは、この二人の兄弟は、天と地を代表するものでした。ヤコブは天を代表したのであり、エサウは地を代表したのでした。否、ヤコブは神を代身したのであり、エサウはサタンを代身したのでした。ところで、堕落とは何だったのか? それは、天使がアダムとエバを主管したことでした。
それゆえに、勝利者としてのイスラエルの御旨を奉るためには、個人的勝利の基準と家庭的勝利の基準を決定しなければなりませんでした。このようにして、ヤコブが自分のお兄さんに会うようになったときに、お兄さんが歓迎することによって、歴史は初めてイスラエルに対して約束の祝福を霊的に与えることができたのです。一方また、約束の祝福を実質的な基台の上に、実体を中心として成し遂げることができたのでした。イスラエルの基準をここで成立することができました。エサウがヤコブに屈服したことにより、ここから新しい歴史を始めることができました。
これは、どういうことなのでしょうか? 今まで神は、我々人間を思いのままに主管することができませんでした。霊でもって主管することができなかったし、肉でもって主管することができませんでした。神は、どこまでも霊的な勝利と肉的な勝利をもたらした基準の上で、人間を主管しなければならないのです。
なぜそうなのでしょうか? 神が主管なされた創造当時においては、堕落という名前もなく、堕落というような基準は立っていませんでした。従って、堕落を離れた場、即ち、堕落と因縁のない場で神が主管されるのが本来の創造目的だったのです。それゆえ、本来の創造の原則を中心として神が主管なされるためには、どこまでも創造の原則に立脚した、その場に立った人を主管しなければならないのです。そのため、霊的基準は勝利の基準の上に立たねばならず、肉的基準も勝利の基準の上に立たなければ、神が主管することができません。ここからイスラエルの編成が出発するようになるのです。
イスラエル民族の行くべき道
皆さん! イスラエルがこのように新しい出発をするようになって、イスラエルの民族的な新しい基準が立てられるようになった時、イスラエルの一族たちは、どのような道へ行かなければなりませんか?
天の基台を準備しなければならなかった、祝福されたイスラエル民族は、天が保護する栄光の立場で出発するのではなくて、栄光の道を捨てて、開拓者としての使命の道を歩んで行かなければならなかったというのです。
それでは、開拓しなければならないその地は、どのような地なのでしょうか! この地球上が彼らの開拓地だというのです。従って、開拓者としての権威と、最後の開拓者としての勝利の基準を決定するためには、どのような所に行かなければならないのでしょうか?
開拓者が天地を中心として仕事をするときに、易しい立場で開拓しては、開拓者としての勝利の基準を決定することはできません。そのために、イスラエル民族は、想像することのできない逆境地帯へ追いやられました。若干の他の理由もあることはありましたけれども、エジプト苦役路程もこのような立場から経るようになったのです。従って、開拓者の使命を果たすにあたっては、最も難しい使命、難しい立場に立たなければならないというのです。
これが摂理の御旨を立てて来た神の作戦方法だというのです。従って、すべてのこの世を代身して、天の御旨を代身して現れた人は、全部歓迎されてはいけなかったのです。これが絶対的な公式です。善のためになし、天のためになす使命を背負って立つようになるときに、もし、この世のすべてがこれを歓迎したら、すべてが変えられてしまうので、彼らは一八〇度方向を変えるようになるというのです。
一から始まって全部が皆、簡単ではありません。従って、万一、善を歓迎する日には、善が繁殖して、悪なる世界を全部破綻せしめるために、悪なる世界の傀首たるサタンはあらゆる反対条件を立てて、天が立てた者たちを追い払うのです。
それでは、追い払うにはどのように追い払うのでしょうか? 個人として出発するときには、個人的に追い立てられるようになります。しかし、家庭的に、民族的に、国家的に出発するときには、家庭的に、民族的に、国家的に、世界的に追い立てられるようになります。それで、今日に至るまでのキリスト教の歴史は、どの時代にあっても歓迎を受けることができませんでした。
個人的に歓迎を受けることができなかったし、家庭的に、民族的に、国家、世界的に歓迎を受けることができずに来たというのです。そうでありながら、発展して来ました。打たれ、奪われて来た作戦が天の戦法です。
このようにして数多くの我々の祖先たちは、二千年の歴史を経て来ながら、血の祭壇を連結させて来たし、伝統的な思想を連結させて来たということを、皆さんがはっきりと知らなければなりません。それにもかかわらず、今日の既成教会のクリスチャンたちは、“信ずれば天国に行く”という妄想的な信仰をもって、天国に行くかのごとくに大きなことを皆、言っているのです。
祝福成就の出発
それでは、今日のこのようなキリスト教の思想は、どのような思想なのでしょうか? 彼らは、天の摂理が死の祭壇を連結させて、新しいキリスト教へ復活することのできる復活の祭壇を仰ぎ見ながら来ているという事実を忘却しているのです。
アダム家庭の歴史から、アベルが血を流す歴史が始まったために、血の峠を連結させて、血の峠を越えて行って勝利しなければならないというのです。イエス様も十字架の血の峠で勝利したので、メシヤ、すなわち、救世主の使命を代身することができたのです。
神は、原理原則を中心として戦いをして来ています。従って、その戦法には色々ある訳ではありません。大きかろうが、小さかろうが、皆同じ一つの戦法です。それでは、その戦法はどのような方法なのでしょうか? サタン世界に入って行って、サタンの巣窟を占領して出て来なければならないという、そのような戦法です。
それ故に、ヤコブも祝福を受けるためにどのようにしましたか? レンズ豆のあつものとパンをもって勝利を収めたのを見るならば、彼にどれほど考えが多かったか、我々はよく考えてみることができます。ヤコブがどれくらい知恵深く、巧みな行動をとったでしょうか? しかし、それは、そうでなければならなかったのです。
原理を学んでも分かることですが、ヤコブが神の祝福を受ける長子の嗣業を奪うためには、すべての精誠を尽くす中で、彼の生活の感情が、その一つの標準の前に精魂を打ち込んでいたのです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、このようにもつれたことを知るようになるときに、ヤコブは、天を誰よりも考えたし、また自分の祖先から与えられた祝福が何よりも大きかったということを知ったのです。
それで、心情基準においては、ヤコブは天が無視することができない基準に立ったというのです。それ故に、アブラハムが祝福を受けた以上の心情をヤコブが持たなければならなかったのです。また、イサクが、アブラハムを通して受けた以上の心情をもって、天の祝福を相続するその民族と、天が祝福するその人がどれくらい貴いかということを、ヤコブはエサウを通して体験しなければならなかったのです。
彼は、寝ても覚めてもその心の中に祝福というものを考えました。そして、この観念が彼の生活全体を支配したということを皆さんは知らなければなりません。この基準は、サタンも公認せざるを得ません。
このようになるならば、神が祝福を移してやるにも、否定しようにも否定できない基準に立っていたために、内的な心情基準の前にあっては、長子たるエサウが問題ではありませんでした。エサウを踏みつけて立ち、祝福を受けた自分の祖先たちに対する価値を誰よりももっと大きく考えたし、祝福してくれた天の価値を誰よりも大きく考えたのでした。
ヤコブの心は、神が願ってきたその祝福のことを考えました。「汝の後孫が天の星のごとくに、地の砂のごとくに増える」という祝福を受けていたために、ヤコブは、世界的なイスラエルとしての祝福を受けることを誰よりも渇望したというのです。
このようなことを考え、条件を提示して祝福を受けるようになったので、ヤコブはレンズ豆のあつものとパンを与えて長子の祝福を受けるようになりました。しかし、天が祝福したその恵みがいかに貴いかということを知らなかったエサウは、これにふざけた調子で対しました。天の祝福を無価値なものと考える彼は、追い出されなければならなかったのです。
このようにサタンも公認することのできる条件になったので、アブラハム、イサク、ヤコブとこのように三代の因縁がここで初めて立てられたのでした。アブラハムとイサクは、祝福を受けたこと、即ち、神が祝福してくれることを喜んだし、好みました。しかし、ヤコブは、祝福を成し遂げることを重要視しました。祝福を成し遂げることを希望し、好みました。それが異なるというのです。
エサウとアブラハムは、祝福を受けた場で嬉しがりました。しかし、ヤコブは、成し遂げることに対する希望がもっと大きかったということを皆さんは知らなければなりません。このような観点から見るときに、祝福を受けたことが問題ではなく、祝福を成し遂げさせることが大きな問題になるのです。ヤコブを中心として見るとき、祝福成就の出発が問題になるのです。
これは、じっと座っていてできることではありません。イスラエルの民を引き連れて行き、個人的な基台を促進しなければならず、世界的な基台を催促しなければならず、天地に奥深く染み入った根本的な基台を建設しなければならないのです。これが正しく天が願う勝利の基準なのです。
ヤコブがイスラエルになるときには、自分一人でなったのではありませんでした。
家庭を治めてこそ勝敗の決定は下すことができるのです。
このように、個人において決定するのではないということを皆さんは、
はっきり知らなければなりません。
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家庭を治めてこそ勝敗の決定は下すことができるのです。
このように、個人において決定するのではないということを皆さんは、
はっきり知らなければなりません。
次は天一国2代王様ご夫妻を通して真の御父母様に花束を贈呈する時間です。
以上で行事を終わります。
6月17(16)日の先祖解怨は延期になりました。6月17日は特別な福音のメッセージを伝えなさいと真のお父様が仰ったからだそうです。
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