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2025年3月15日土曜日

キリスト再臨アドベント33 ◆イエスの使命に関するデイヴィッド・ウッドへの挑戦 ◆文信俊三代王◆The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント33

イエスの使命に関するデイヴィッド・ウッドへの挑戦


文信俊三代王

翻訳&提供:Michiy

33. (20250302) 

Challenge to David Wood on Jesus' 

イエスの使命に関するデイヴィッド・ウッドへの挑戦


<下のコメント欄に>

〔皆さん、こんにちは!今回は投稿が遅くなって申し訳ありません。現在、祈祷ツアー中で、そのため投稿できませんでした。もし、ウッド博士(Dr.Wood)をご覧になっていましたら、ぜひお返事をお待ちしています!このビデオをご覧になっているあなたと皆さんが楽しんでくださることを願っています!それでは良い一日を!〕


〔数ヶ月前、デイヴィッド・ウッド博士(@apologeticsroadshow)がイエスの使命について語られたビデオに出会いました。このビデオでは、聖書を通して神の第一の願いの全体像を示そうと試みています。ご一緒にどうぞ。〕



論証の脈絡をすべて理解するために、ビデオ全体をご覧ください。



数ヶ月前、私はデビッド・ウッド博士の素晴らしいビデオに出会いました。

[弁証論ロードショウ(Apologetics Roadshow) 「なぜメシアは十字架につけられなければならなかったのか - イエスが死ぬために来られた10の理由」]


イエスが死ぬために来られた10の理由です。

伝統的なキリスト教が、永遠の昔からのキリストの唯一の運命は十字架であると信じてきた、核心的な理由を明確に説明していると感じました。

しかし、聖書には、神とキリストの第一の願いは、十字架という二次的な道よりも、王国であったと書かれていると私は信じているので、

私はウッド博士の10の理由に答えるビデオを作りたいと思いました。

つまり、十字架の道は事実、神の計画の一つではあったけれども、それは神の第一の計画ではなく、本来の願いでもありませんでした。


しかし、始める前に、私はウッド博士の長年のファンであり、博士を大変尊敬していることを、先ず申し上げておきたいです。

ですから、このビデオは決して彼を軽んじる意図はありません。

むしろ私は、イエスはただ単に十字架につけられるだけの運命にあったという、ウッド博士の主張に反応しているのです。

博士のビデオに関しては、彼が挙げたすべての理由に私は実際に同意しますので、そういうわけで、とても気まずい応答ビデオになってしまいました。

でも、どうか最後まで聞いてください。


ビデオの各ポイントの結論を超えて、私は、イエスは永遠の昔から死ぬためだけに来られたという包括的な主張が、聖書によって最終的に反証される主張であることを示すのを目的としています。

それでは始めましょう 

ウッド博士の第一の理由は、

1. キリストは旧約聖書の預言を成就するために死ななければならなかった


というものです。

この主張を擁護するため、彼はイザヤ書53章を引用しています。

イザヤ書53章はメシアの使命に関する力強い預言であることは間違いありません。

イエスが苦難のしもべの道を歩まなければならなかったとき、イザヤ書53章は、イエスの十字架上の犠牲の死を通して間違いなく成就しました。


しかしながら、旧約聖書の預言を全体として見れば、その預言の大半は、神がご自身の息子に何を願われたのか、世界に平和と繁栄をもたらす永遠のエルサレムを復興し建てる、義なるメシア王について語っていることが、実証的に明らかであると私は信じます。


旧約聖書あるいはタナハ(Tanakh、ユダヤ人の聖書)は、メシアの使命に関する預言でいっぱいです。

3つの簡単な例を見てみましょう。


エレミヤ書33:15-16には、

15 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。

16 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。(…)


ゼカリヤ書8:23にも、こうあります。

万軍の主は、こう仰せられる、その日には。もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたと共にいますことを聞いたから』と言う」。


最後にひとつだけ例を挙げますが、皆さんはこの聖句をよくご存知でしょう。

イザヤ書9:6-7は語ります。 

6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。


時間を節約するために2、3節を読んだだけですが、各預言の章全体を読むと、それぞれの預言が強化されます。

実際、メシアとメシア時代の枠組みに関する旧約聖書の預言を見てみると、旧約聖書の預言の大部分は栄光の王のビジョンを宣言しているのに対して、苦難のしもべの道はほんの一握りの聖句で言及されているだけです。

申命記28章で、神がイスラエルの前に二つの道を示されたように、メシアが来られるとき、イスラエルが選ぶことのできる道は二つあります。

神は絶対的な存在であり、不変であるので、神が人類に対処する方法は不変です。


この永遠の原理を反映して、イスラエルは2つの可能な道に直面しています。

一方は、旧約聖書の預言の大部分が成就され、メシア王と神の王国が遺憾なく到来する従順の道であり、

もう一方は、民がメシアを捕らえて殺すという拒絶の道であり、一握りの預言は成就するとしても、摂理を遅らせます。

決定的なものではないですが、栄光の王を描いた預言の数が苦難のしもべの預言に比べて圧倒的に多いのは、神が神の民に、前者を選ぶことを望んでいたことを示唆しています。


私たちは二人とも、ユダヤ人がイエスをメシアとして拒絶したことには激しく異議を唱えますが、

なぜユダヤ人がメシアの使命の本質について自分たちの立場を堅持してきたのか、その理由もまた私たちは認めることができると、私は思います。

ユダヤ人が迫害と死に直面してさえも、この信念を守ってきたのには理由があります。


イザヤ書53章は、祝福と呪いの二つの道という神のパターンに従って、紛れもなくキリストが成就した預言である一方で、旧約聖書の預言の大多数を考慮すると、別の道の可能もありました。


ウッド博士の第二の理由は、

2. キリストが新しい契約を結ぶため 


このような理由で、キリストが十字架上で血を流されたことによって新しい契約を創造されたことも、私は否定しません。

実際、キリストの受けた傷を通して与えられる霊的救いにあずかることは、途方もない恵みであり祝福です。


福音書全体を通して圧倒的にはっきりしている一つのことは、キリストは周囲の人々に、キリストを信じるようにキリストを裏切らないようにと繰り返し強調されたことです。

ヨハネによる福音書6章28節から29節は、キリストの信仰を求める命令が象徴的です。

28 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか?」 

29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。


ですから、神の御業は、人々がキリストを信じることでした。そうですね?


では、もし、イエスがユダヤ人に命じたように、神の御業が実際に完成したとしたら、どうでしょう?

それでもなお、キリストは十字架につけられたのでしょうか?


イエスが十字架につけられたのは、ユダヤ人がイエスの願いに従わなかったからではなかったのですか?

言い換えれば、信じなさいというキリストの命令に基づいて、キリストの本来の願いは十字架刑ではなく、むしろ、キリストが彼らにそうするように語ったように、人々がキリストを受け入れることだったのではないでしょうか?

神の御心が、キリストに対する不信仰と拒絶と裏切りによってのみ達成することができるというのは、到底理解しがたいことです。


キリストはなぜ人々に神の業を行い、彼を信じるように命じたのでしょうか?

もし、永遠の昔から、人々が最初の場所でキリストを信じると決して想定されておらず、キリストを裏切り殺すと想定されていたのだとしたら。


もしユダヤの民が実際にキリストに従ったとしたら、キリストが表明した信仰への願望に照らせば、神はそのような道も使われたのではないでしょうか?

このように、イエスが絶えず受け入れるよう求めているのは、イスラエルがキリストを信じ、キリストを十字架に送らないようにというキリストの実際の願いの証拠なのです。


3. 多くの人の罪の赦しのための代償となる


特にこの点については、私は自身の立場をできるだけ明確にしておきたいです。

イエスは確かに、人類の罪の代償としてご自身の命を捧げられました。

それだけでなく、もしユダヤ人がキリストを裏切ったなら、残念ながら彼らは裏切ったのですが、キリストが代償となるのは明確に神の御計画でした。


キリストが罪の赦しのために十字架上で血を流されたことは、絶対に真実であるけれど、

キリストがイスラエルの信仰の欠如を激しく叱責した数多くの実例は、キリストの第一の願いが十字架ではなかったことの重要な証拠です。


ご覧になっている皆さんはよくご存じでしょうが、新約聖書は、キリストがイスラエルを叱責する場面でいっぱいです。

このビデオをあまり長くしないために、その実例のうちの2つだけを見てみましょう。

まず、ヨハネによる福音書8章37節から47節に記されているアブラハム。

そして、ヨハネの福音書5章と7章に記されているモーセです。

最初のアブラハムの聖句を読んでみましょう。


(ヨハネによる福音書8:37) わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。


キリストの言葉に注目しましょう。

一世紀のイスラエルには、キリストの言葉を受け入れる余地がないから、イエスを殺そうとしているのです。 

キリストの叱責の明白な意味は、アブラハムの肉体の子孫はキリストを信じるべきであり、キリストを十字架につけるべきではないということです。

言い換えれば、イエスの説いたことを信じないからこそ、キリストを殺そうとするのです。


本文に戻って、

(ヨハネによる福音書8:39-41)

39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのするわざをするがよい。

40 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。

41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。


イエスは、信仰深い先祖アブラハムと彼らの行動を比較することによって、イエスを十字架につけようとする彼らの行動は、信仰の父がしたであろうことと正反対であると述べています。

明確な意味は、イスラエルはアブラハムの信仰の足跡をたどるべきであり、神の子を十字架につけるべきではないということです。

イスラエルがキリストに実際に従ったなら、十字架とは別の道があったと、イエスははっきりと考えておられました。


続けましょう。

(ヨハネによる福音書8:41-47)

41 彼らは言った、「わたしたちは不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である。

42 イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。(…)

43 どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたは、わたしの言葉を悟ることができないからである。

44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。(…)

45 しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。

46 あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたはわたしを信じないのか。

47 神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。


この聖句を全体として見ると、キリストはなぜ、彼らの十字架刑の計画は神から出たものではないと力強く述べているのでしょうか。

もし、ユダヤ人指導者が神の息子を殺害する計画を立てたのが、天地創造以前からの神の唯一の計画であったとしたら、イエスが彼らの数多くの不信仰の度に、彼らを何度も戒めたのは、ユダヤ人がメシアを十字架につけるのではなく、むしろメシアを信じることになっていたという明白な証拠ではないですか?


もし、ユダヤの民がキリストの大義に耳を傾け、悔い改めることができることが可能な世界がなかったとすれば、十字架が唯一の可能な選択肢だったわけですから、イエスが何を言っても無駄です。

さらに、イエスは、キリストを十字架につけようとする邪悪な陰謀は、彼らの信仰の父アブラハムの行動と完全に矛盾していると断言しています。


明白な含意は、ユダヤ人は信仰を持つアブラハムのように行動し、神の子を十字架につけようとすべきではないということです。

イエスが、ユダヤの指導者たちは、「神からきた者ではなく」、むしろ、「自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている(ヨハネ8:44)」と述べたのは、まさにその理由のためです。


これは、十字架の道が神の子に対する神の第一の願いではないことの十分な証明ではないでしょうか?

イエスが、彼らの殺人計画を繰り返し叱責し、彼らの計画が神の意志に反すると宣言し、それらの計画をサタンと関連付けることによって、十字架が神の本来の意図ではなかったことを、これ以上どうやって明確に示すことができるでしょうか?


何千年に次ぐ何千年もの間、神の計画を妨げてきた悪魔は、神の目的、特に、人類を罪の掌握から解放するという基本計画に、意図的に加担するほど愚かではありません。

もし、サタンの計画が、民がキリストを十字架につけることであったならば、

神の計画とは何だったのでしょうか? 

それは、サタンの計画とまったく同じ計画だったのでしょうか?


このように、前述のすべての理由により、ヨハネによる福音書8章37節から47節では、十字架刑はイスラエルとイエスに対する神の本来の御計画ではないという概念を直接証拠を挙げて、イエスが十字架刑をサタンの計画であると、明らかにしています。


キリストが明らかに好み、望んだ別の道がありました。

ヨハネによる福音書5章では、キリストがユダヤ人集会の前で次のように語っています。

(ヨハネによる福音書5:36-38)

36 (…)父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。

37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。(…)

38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。


彼の父の明確な証言とユダヤ人の不信仰を対比させることによって、イエスは間接的に、イスラエルの神がイエスを証しするのであれば、それゆえユダヤの民も彼らの王を証しすべきである、と宣言しています。

さらに、キリストは、「神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない(ヨハネ5:38)」と述べています。


キリストの戒めの直接的な推論は、ユダヤ人は神が遣わされた方を信じるべきだということです。

キリストはまた、間接的に、十字架よりも優先される別の道があったことを述べています。

そうでなければ、もしキリストが永遠の昔から十字架で死ぬことになっていたとしたら、なぜ彼はユダヤ教の指導者たちをこれほど厳しく叱責するのでしょうか。


イエスは、続けます。

(ヨハネ5:39-47)

39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに来ようともしない。 (…)

45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが

頼みとしているモーセその人である。

46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセはわたしについて書いたのである。

47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうして私の言葉を信じるだろうか」。


またしても、イエスは、選ばれた民が新しい命を受けるためにイエスのもとに来ることを拒むので、戒めておられるのです。

イエスが、「あなたがたを裁くのはわたしではなく、モーセである。(ヨハネ5:45)」と効果的に述べているのは、彼らがイエスを信じないからです。


キリストは、ヨハネによる福音書7章19節で、この心情を繰り返しています。

モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。


再び、キリストの言葉「あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」の含意は、ユダヤ人が、自分たちの王を十字架につけるのではなく、キリストを信じ高めるために、モーセに従うべきだということを明確に表しています。

ユダヤ教の最大の預言者であり律法制定者であるモーセは、ユダヤ民族の歴史を通して最高の尊敬を集めてきましたし、現在もそうです。

神に導かれ、イスラエルの民を奇跡的に束縛から解放し、約束の地へと導いた、その人であることを忘れてはなりません。

もしこの人が、不信仰なイスラエルの指導者たちの行動と真っ向から対立する人であるならば、選ばれた民がイエスを受け入れ信じることを、イエスが実際に望んでおられることは明らかです。


なぜイエスは、モーセが彼らの不信仰を厳しく非難するだろうと言われたのでしょうか。

彼らが実際に神の御旨を助け、早める重要な役割を担っている時、

もし、イエスが十字架につけられることが神の第一の御心であったなら、

アブラハムとモーセは実際には、ユダヤ人がイエスを確実に十字架につけるようにするために、ユダヤ人の不信仰を鼓舞すべきではないでしょうか?


しかし、聖書はその正反対のことを述べています。

過去の聖徒が彼らを裁くのは、彼らの不信仰のためです。

したがって、キリストの叱責の意味は明白です。

1世紀のイスラエルは、十字架以外の別の運命を選ぶこともできたはずです。

そうしていれば、彼らはモーセとアブラハムによって裁かれることはなかったでしょう。

もし、彼らが実際に神の業を行ない、キリストが命じたとおりにキリストを信じたなら、

彼らは幾度となく、「この日に、平和をもたらす道を知った(ルカ19:42)」ことでしょう。


このように、モーセが彼らの行為に反対しているとキリストが述べている、ヨハネによる福音書5章37節から47節は、キリストの本来の願いが、イスラエルの中心指導者たちによって「裏切られ、殺される(使徒行伝7:51-53)」ことではなかった強力な証拠です。


ウッド博士の第四の理由は、

4. 神の私たちへの愛を示すため 


この点に関しても、イエスが私たちの罪のために進んで十字架につけられたとき、神が私たちへの愛を示されたことに私は完全に同意します。アーメン。


王国という第一の御旨に至る他のすべての道が閉ざされたとき、

キリストは完全かつ深奥な従順のうちに進み出て、杯を避けることなく飲まれました。

選ばれた民がキリストを十字架につけると固く決心したとき、キリストがなさったことを私たちは忘れてはなりません。

イエスは彼らのために泣かれました。


(マタイによる福音書23:37-38)

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。


キリストは、めんどりがひなを集めるように、イスラエルを集めたいと切望しておられた、ご自身の真摯な願いを表現しています。


質問です。

もし、彼らが永遠の昔からキリストを信じないことになっていたのなら、なぜキリストは、彼らが彼の愛に応えられなかったと民に叫ぶのでしょうか?

言い換えれば、イエスがエルサレムを嘆き悲しむのは、十字架に代わる、より好ましい選択肢が存在することを、十分に明らかにするものではないでしょうか?

そうでなければ、彼らがご自身の翼の下に避難することを望んだにもかかわらず、なぜイエスは彼の民が彼を裏切ったという事実を嘆くのでしょうか。

イエスが彼らに、救われるために彼のもとに「喜んで」来ることを願ったのは明らかに自明です。


しかし、もし、キリストが願ったように、彼らが喜んでイエスのもとに来て、実際にイエスを信じていたら、どうなったか考えて見てください。

何が起こっていたでしょうか?

キリストが、「いや、私の言うことを聞くな。私がずっと命じてきたことを聞くな。摂理のために私を信じて殺さなければならない」と言ったでしょうか?

いいえ、そうではありません。

イスラエルがキリストの好む道を拒み、彼以前の預言者たちとメッセンジャーたちを彼らが殺したように、キリストを殺そうとしているという明瞭な理由のために、キリストは嘆いているのです。


この件に関して、ウッド博士、あなたならどう答えるか、とても興味があります。

伝統的な神学では、十字架は神が永遠の昔から意図されていた唯一の道であったと主張しているにもかかわらず、キリストはなぜ、御自身の民に向かって叫び、彼らを集めたいという真摯な願いを表わされたのでしょうか?

聖書から発せられるこの物語は、イエスが、「のろいをもってこの国を撃つ/完全な破壊の命令(マラキ書4:6)」を宣告されたのは、イスラエルが「平和の君」に背を向ける決断をしたことが直接の原因であったと伝えています。


イスラエルについて、ルカによる福音書19章41節から44節を見て見ましょう。

キリストが再びエルサレムのために泣いておられます。


41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、

42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。


イエスは一連の裁きを下された後、イスラエルは呪われると宣言されました。

44 それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

別の訳では、キリストはこう言っています。

「あなたがたは、神があなたがたのところに来られる時を認識しなかったからである。」 


この聖句に関して、イエスが「この日に」と指定したのは、キリストが、1世紀のイスラエルに、彼らが長い間待ち望んでいた王を認め、神が遣わされた方を信じることを願われた、明らかな証拠です。

キリストは、再臨のときではなく、初臨のときに、ユダヤ人たちがキリストを信じることを願ったことに気づいて下さい。

質問です。

もし、キリストの唯一の使命が十字架であったなら、イスラエルが神のおとずれの時を認識しなかったのは良いことではないのでしょうか?

しかし、それならなぜキリストは、十字架以外の選択肢がなかったときに、イスラエルがキリストを受け入れるべきだったと表現して、イスラエルを惜しんで嘆いているのでしょうか?

このエルサレムへの哀歌を額面通りに受け取るなら、キリストには、紛れもなく、行くことができなかった優先すべき道があったのではないでしょうか?

イスラエルを集めようとするイエスの情熱的な心は、彼の民が、彼らの救い主を「裏切り、殺す」ことがないようにという、彼の願いの直接的な表れです。


従って、キリストが私たちのために十字架上で死ぬことによって神の愛を示されたことは、疑いようのない事実ですが、彼がエルサレムのために嘆き悲しんで泣かれたのは、彼の第一の願いは、イスラエルが裏切りよりも信仰を選ぶことであったことを明らかにしています。


ウッド博士の次の5つのポイント(5~9)について。

5. 主の義を私たちに与えるため

6. 私たちを神の神殿とするため

7. 真の道徳の道をはっきりさせるため 

8. 模範を示すため 

9. 人種、階級、性別に基づく「分断の壁」を打ち砕くため


私は、これらの点すべてに、心から同意します。

それは二次的な道ではあったけれど、キリストの絶対的な信仰と深奥な愛のゆえに、キリストを信ずる者には誰にでも、信じられないような祝福がもたらされました。

選ばれた民がキリストへの信仰を示すか、信仰が不足しているかに左右される二次的なものであったにもかかわらず、キリストの死からもたらされた恩恵は、十字架が神の意図された運命であったことを力強く証明しています。


しかしながら、十字架の祝福は、神の第一の御心が十字架であったことを証明するものではありません。

私の見解を、例え話で説明したいと思います。

戦いに勝つことを使命とする将軍を想像してください。

戦略を練るとき、当然、彼はただ一つの行動計画を持っているわけではないでしょう。

というのも、彼が最初に選んだ計画が頓挫する可能性が常にあるからです。

そのような場合、彼は少なくとも二次的なプランを持っているはずです。


彼は絶好の機会を見つけると、部下全員が彼の指示に協力すれば、自分の計画が成功することを確信しながら計画を実行します。

しかし、裏切り者や戦うことを恐れた兵士がいたために、将軍の第一次作戦が失敗したと想像してください。

第一次計画が阻止されたため、将軍は当初の第二次計画に従いました。

しかし、より不利な第二次計画は戦争を長引かせ、より多くの死傷者を出すことになるでしょう。


この不測の事態を想定した戦略は、最終的に勝利をもたらすことになります。

第一次計画の方が戦争は早く終わったでしょうが、第二次計画は、より多大な犠牲を払ったにもかかわらず、利益ももたらしました。

例えば、政治同盟が強化され、経済成長が起こり、軍事技術が発展したとしましょう。

この例えでは、第一次計画であるプランAと第二次計画であるプランBの両方とも、将軍の書面計画であったことに注目してください。


一方は明らかに他方より望ましく、好まれていました。

さらに、二次コースは一次コースより不利であったけれども、それでも利益をもたらしました。


最後に、これは重要なことですが、プランAが失敗したのは将軍の責任ではありません。

失敗したのは兵士たちの裏切りの結果です。

言い換えれば、将軍が失敗したのではなく、兵士たちが失敗したのです。


将軍がプランAの成功を確信していたにもかかわらず、兵士たちが将軍のプランを拒否したのです。

もし、彼の兵士たちが彼に忠実であり続けたなら、同じように、キリストに対する神の第一の計画は、イスラエルの民に歓迎される息子のためでした。


しかし、これまで述べてきたキリストの御言葉と行動に基づくと、

もし民がメシアを拒むなら、神はまた、キリストのために、十字架の道という第二の計画も持っていました。

つまり、キリストの十字架刑は、神の摂理からすれば、実にあまり好ましくない道であったにもかかわらず、キリストの為の神の計画を反映していたのです。


さらに、私たちがまだ神の敵であったときに、私たちのために死んでくださった平和の君の深い信仰のゆえに、第二の計画は信じられないほどの祝福をもたらしました。


(ローマ人への手紙5:8) しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。


最後に、そして最も重要なことは、使命を果たせなかったのはキリストではありません。

キリストがユダヤ教の指導者たちに、悔い改めてキリストを信じるようにと容赦なく叱責したことに基づくと、それとは全く正反対です。

キリストを十字架という二次的な道に追いやったのは、とりわけ、選ばれた民の不信仰な指導者たちでした。

失敗したのはキリストではありません。

失敗したのは民です。

(ヨハネによる福音書6:28-29) 


イスラエルの民は、信仰を求めるキリストの呼びかけを無視し、「裏切り、殺そう(使徒行伝7:52)としました。


受肉した神が、第一の使命を停止させたのです。

この責任の失敗は、サンヘドリンの前に立ったステパノの彼らに対する叱責の中で、まぎれもなく明らかにされています。


使徒行伝7:51-53 

51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。

52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。

53 あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。


ステパノは、先祖がそうであったように、ユダヤ教の指導者たちが聖霊に抵抗していることを戒めることによって、イエスの時代のユダヤ人が、神が本来意図されたことに反して積極的に働いていたことを明言しています。


質問です。

キリストを十字架につけるという行為が、キリストに対する神の唯一の御計画であったなら、なぜ「聖霊に逆らう」ことになるのでしょうか?

もし、イエスの使命が死ぬことだけであったなら、彼らは 「聖霊に逆らう」のではなく、イエスを十字架につけるように聖霊を実際に助けたのではないですか?


さらに、ステパノがユダヤ人の指導者たちを信仰のない先祖たちに例えているように、キリストの叱責と同様に、彼らがキリストを迫害し殺すべきではなかったという明確な含意があります。

摂理歴史を通じて、預言者たちが選ばれた民に遣わされたのは、罪を懲らしめ、悔い改めを説くという明確な目的があったからです。

彼らの先祖たちが預言者たちを殺すべきではなかったように、彼らもまたイエス・キリストを殺すべきではありませんでした。

サンヘドリンがキリスト教世界の最初の殉教者を捕らえ、石を投げつける直前のことです。

ステパノは、イスラエルがメシアを「裏切り、殺害した」と述べています。


しかし、なぜキリストを殺す行為が裏切りであり、殺人なのでしょうか?

もし彼らがただ単に神の摂理に従って行動していただけなら、裏切りという言葉は、確かにプランAがあったが、背任のために摂理がプランBに移行したことを強烈に意味しています。

ステパノはこのように述べながら、神がイエスを生かすことを望まれたにもかかわらず、ユダヤ人は意図的な不誠実さから行動し、神の子を殺害したのだと、聴衆に証言しているのです。


言い換えれば、別の方法があったのです。

もし、ユダヤ人がイエスを十字架につけることで、神の第一の御心を行なっていたのであれば、なぜ、今、神の願われたみ旨が達成されたという喜びの賛美を叫ばなかったのでしょうか?


その代わりに私たちが目にするのは、イスラエルがその不信仰のために裁かれるという、何度も何度も語られる同じ物語です。

もし、十字架の道だけが神の計画された道であったなら、ユダヤ人は基本的にキリストを信じない運命にあったのではないでしょうか?

それなら、先に述べたように、なぜキリストはイスラエルに裁きと呪いを宣告するのでしょうか?

もし彼らが神の御旨と一致し、神の完全な意志を実現するための重要な役目を担っているのであったら。


十字架を背負って苦しそうに丘を上られるとき、嘆き悲しむ大勢の民がイエスに従っていきます。

(ルカによる福音書23:28-30)

28 イエスは女たちの方に振り向いて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また、自分の子供たちのために泣くがよい。

29 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。

30 そのとき、人々は山に向かって、われわれの上に倒れかかれと言い、また、丘に向かって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。


これが選ばれた民の運命だったのでしょうか?

神が、「エルサレムを全地に誉を得させられる(イザヤ書62:7)」と、

そして、「万国の民はここエルサレムに集まる(エレミア書3:17)」と約束された同じ国です。


その歴史を通して、神はユダヤ民族を起こし、聖なる神殿を建て、政治機構を確立し、強力な軍隊を編成し、民が王を迎えるための国家レベルの基盤を整えられました。

このように、神がイスラエルを千年以上にわたって養成してきたのは、イスラエルが王を十字架につけるのではなく、王を受け入れることを、神が望んでおられた証拠ではないでしょうか?


イエスを十字架につけたのは、1世紀のイスラエルが、「律法を守らなかった(使徒行伝7:53)」からです。

その結果、ステパノがイスラエル人を非難したことは、イエスがイスラエルのユダヤ人指導者たちの手によって裏切られ、殺されるはずではなかったという、もう一つの例を示しています。

彼らは聖霊に抵抗するのではなく、イスラエルを通して彼の王国を地上に築こうとする、キリストの輝かしい計画を支援するはずでした。

神の願いは、イスラエルが御子と一つになることでした。


最後の理由。

10. 最大の悪は最大の善に変えられることを示すため


これは、このビデオの中で私が一番好きなポイントです。

私たちが神の御心に正しく沿うとき、神がどのような悪をも一新させ、善に変えることができるかを如実に示しています。

悪を消し去ることはできないけれど、天の父が、堕落の後も御自身の子女たちを決して見捨てなかったように、

私たちもまた、私たちが直面するかもしれない、どんなに大きな悪であっても、決してあきらめてはなりません。

彼は、この原理を、十字架上で最も偉大な方法で証明されたのです。

ですから、神が最大の善のために最大の悪を用いられたことに、私は完全に同意します。100%アーメン 


しかし、このことを考えてみましょう。

キリストによって繰り返し叱責された最大の悪行が、もし起こらなかったとしたら、どうなったでしょうか?

もし、キリストが決して、「裏切られ、殺される」ことがなかったとしたら、どうなったでしょうか?

むしろ、人々が実際に、神の業を行いなさいというキリストの命令に耳を傾け、、キリストを信じる信仰を持っていたとしたら。

キリストはそれでも、マラキ書4:6で語られているように、「完全な破壊の命令」で、イスラエルを呪ったでしょうか?

キリストはそれでもなお、アブラハムとモーセと旧約聖書のすべての信仰者たちが、イスラエルの信仰の欠如を裁くと述べたでしょうか?

キリストはそれでもなお、イスラエルの運命を嘆き、彼らを集めたいと切望していたのだと、泣き叫んだでしょうか?


しかし、彼らが十字架につけようと画策したために、そうすることができませんでした。

答えは自明です。

選ばれた民がキリストの信仰を求める呼びかけに実際に耳を傾けていたなら、信仰の欠如のために起こった最大の悪は起こらなかったでしょう。

(ヨハネ福音書5:37, 8:37-47)


信仰の父と偉大な教師/預言者に反対されることなく、アブラハムとモーセとすべての忠実な先祖たちとともに信仰で結ばれ、

(マタイ福音書12:41-42)


彼らの義なる王とともに勇敢に立ち、天の王国が地上に到来するようにというキリストの熱烈な祈りを成就していたことでしょう。

(マタイ福音書6:10)


そうであったなら、イエスは、彼らの不信心に対する裁きとして、この地に強力な呪いを宣告することはなかったでしょう。

めんどりがひなを集めるように、彼らを集めようと絶えず努力されたにもかかわらず、彼らの信仰の欠如を嘆き悲しみ、エルサレムのために泣かれることはなかったでしょう。

(マタイ福音書23:37-39)

特にこの理由から、神と御子は十字架よりも王国を心から望んでいたにもかかわらず、ということをとりわけ可能な限り、私は明確にしておきたいです。

それでもなお、イエスは十字架上で勝利されました。

ほとんどすべての人に裏切られ、完全な従順の想像を絶する重さに押しつぶされながらも、

イエスは深奥に愛を示され、イエスを仰ぐすべての人に霊的な救いを与えられました。

これこそ、神が最大の悪を最大の善に用いることができるという最高の証拠です。


このビデオに関して、

ウッド博士に、ビデオと内容全般を作ってくださったことに、心から感謝申し上げます。

概して、博士のお考えを聞き、それを通して考えるのは本当に楽しかったです。

さらに、これはおそらくキリストのミニストリーについての新しい視点であることを、私はわかっていると皆さんに申し上げたいです。

私は、あなたとご覧になっているすべての方々に、神と御子に彼らの視点を理解する手助けをしてくださるようお伺いしながら、真実に祈り、聖句を熟考されるようお願いしたいです。

最終的に、ご存知のように、真理の審判者はあなたでも私でもなく、全能の神なのです。

血の汗を流されながら、それほど必死に祈られたイエスの御言葉に、私たちが真に共鳴し、理解することができるのは、そのときだけだと私は信じています。

(マタイによる福音書26章39節)

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。


神が私たちを導いて下さいますように、皆で祈りましょう。

ウッド博士に改めてお礼を申し上げるとともに、このビデオをご覧下さった皆さんに感謝申し上げます。

皆さんとご家族が祝福された一日を過ごされることを心から願います。