キリスト再臨アドベント31
洗礼ヨハネの悲劇的失敗: 辛口のコメントへの回答!
文信俊三代王
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翻訳&提供:Michiy
31. (20250124) The Tragic Failure of John the Baptist: A Response to a Spicy Comment!
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洗礼ヨハネの悲劇的失敗: 辛口のコメントへの回答!
[前回、バプテスマのヨハネに関する私のビデオについて、あるコメントが寄せられました。
とても思慮深い批評でしたので、私は、その質問に答えることは実りあることだと思いました。
かなり激しい場面もありますが、このビデオが洗礼ヨハネの使命に光を当てる一助となれば幸いです。
彼は本当に使命を果たしたのでしょうか?その詳細を知るためにご覧ください!]
洗礼ヨハネのビデオのコメントの中で、特にお答えしたいコメントがありました。
それは、根拠のない主張を宣言するのではなく、ビデオに対する実質的な批評がほとんどであったからです。
私が指摘したことの大半は今でも変わりありませんが、いくつか受け入れた点があり、訂正あるいは言い換えなければならないと思いました。これらの点をビデオで見てください。
さらに、私が明確にしたいことは、このコメントに関して私が言うことは、その人にではなく、議論に対する敬意に満ちた反応であり、批評であるということです。
それを明確にした上で、すぐにコメントについて始めましょう。
@piracy22さんのコメントは7つのパートに分かれていて、それぞれのセクションにコメントがあるので、彼のコメントを読んでみましょう。
<@piracy22>
[第一の異議: ヨハネのアイデンティティ]
あなたは、バプテスマのヨハネがエリヤとしての役割を否定していると言いますが、バプテスマのヨハネは、キリストであるとも、エリヤであるとも、預言者であるとも主張していません。ですから洗礼ヨハネは、ヨハネによる福音書1章21節で、パリサイ人たちの主張を正当に、そして正直に否定しています。実際、預言者がエリヤ(ヨハネはエリヤの霊で来ているのであって、エリヤそのものではないことはご存知の通り)を指していると考えたとしても、その数節後のヨハネ1章23節では、キリストの先駆者としての役割を肯定しています。ここを読んでください。
(ヨハネによる福音書1:21-23)
21 そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか。あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ}と答えた。
22 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
<回答>
ちょっと余談ですが、「あの預言者」とは誰を指しているのか私には完全にはわかりませんが、でも、この点は最も重要というわけではありません。
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それよりも、私はヨハネがエリヤと肉体的にも同一人物だと信じているのではなく、エリヤと同じ使命を担う者として、父の心を子に、子の心を父に向け、そして最終的にはキリストに向ける人物であると信じていることをはっきりさせておきたいです。(マラキ4:6)
バプテスマのヨハネは間違いなくエリヤを象徴しています。
これは、キリストが次のように言われたときほど強調的に説明されることはありません。
(マタイ11:14) もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人(バプテスマのヨハネ)こそは来るべきエリヤなのである。
このことは、あなたが引用した、天使ガブリエルは、「ヨハネがエリヤの霊と力をもって」来ると預言した一節からも明らかです。(ルカ1:17)
それだけでなく、マラキは、「エリヤが主の偉大で素晴らしい日が来る前につかわされる」と預言しているからです。(マラキ4:5)
特に熱心なユダヤ人たちは、メシアを待ち望み、エリヤの再来を待ち望んでいました。彼らにとって、メシアの降臨はエリヤの最初の到来と密接に関係していました。
(マタイ17:10-13)
10 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
11 答えて言われた、「確かに、エリヤが来て、万事を元どおりに改めるであろう。
12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。
13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
これこそ、イエスがメシアであるという主張に直面したときに、律法学者たちが弟子たちに、エリヤはどこにいるのかと質問した理由です。
では、洗礼ヨハネは文字通りエリヤと同一人物なのでしょうか?
いいえ、違います。しかし、エリヤと同じ使命と目的を担っています。
キリストは、ヨハネはエリヤであると明言しています。
キリストが言われたように、バプテスマのヨハネが来たるべきエリヤであることを、あなたが信じないのであれば、即座に、ユダヤ人がキリストの宣教を拒絶するのは正しいです。
今日の高速情報ネットワークと違って、当時の人々は、口コミと直接の証言によって行動していました。
今日のように非常に微妙なニュアンスの会話が意図的に誤って特徴づけられることは、殆んど無い時代でした。
このような口伝えはある程度正確であったものの、しばしば噂や偽情報、そして誤って特徴づけることを招きやすかったのです。
イエスに対する広く一般に認識されているイメージがすでに否定的なものだったとすれば、バプテスマのヨハネが、自分はエリヤではないとイエスに反論したのだとしたら、人々は誰に頼らなければならなかったのでしょうか?
前回のビデオで指摘したように、洗礼者ヨハネ以外にヨハネの正体を正確に確認できる人物はいなかったでしょう。
ヨハネの否定は、キリストの宣教に少なくとも何らかの悪影響を及ぼしたことでしょう。
この2人の人物を1世紀のユダヤ人の視点で比較するとき、彼らが誰を信じたかは明らかです。
ヨハネはイスラエル人の間で輝かしい地位にあり、荒野で耽美的な生活を送って以来、ユダヤ全土に莫大な基盤を築いていました。
一方、イエスは婚外子として疑われ、彼自身の家族とイスラエルの指導者たちから、気違いとか悪魔に取り憑かれた者というレッテルを貼られていました。
ユダヤの人々は誰を信じたでしょうか?
誰もが尊敬し、洗礼の大運動を率いた奇跡的な出生の聖なる人でしょうか?
それとも、ナザレという、事実上、「ナザレからなんのよいものが出ようか(ヨハネ1:46)」と言われるような意味を持つ所から来た、不貞によって生まれたと非難されている、一見気違いじみた悪魔に取り憑かれた男でしょうか?
答えは明白です。
もし、私たちがイエスが地上におられた時代に生きていたら、誰がエリヤであるかという主張に関しては、あなたも私も、イエスよりも洗礼者ヨハネを信じた可能性が非常に高かったでしょう。
例を挙げましょう。
私があなたに、「あそこに立っている人、フィルは、コンピューター・デザイナーだよ」と言ったとしましょう。
そこで、あなたはフィルのところに行って、こう尋ねます。
「やあ、フィル、あそこにいる人が、あなたはコンピューター・デザイナーだって言ったけど、本当?」
さて、もしフィルが、「いや、僕はコンピューター・デザイナーじゃないよ、あの人が何を言っているのかわからないね」と答えたとしましょう。
特に変わったことがなければ、あなたは誰を信用するでしょうか?
本人自身の話を信じるでしょう?
しかし、ヨハネとイエスの場合、このキリストの主張に対する否定は、もっと大きな悪影響を及ぼしたことでしょう。
評判を考慮に入れると、ヨハネがエリヤであるというイエスの主張をヨハネが否定したことは、キリストの好ましくない評判をさらに悪化させたことでしょう。
あなた(@piracy22さん)の批評の中では、「ヨハネがキリストより先に来る者であると証言した」とき、ヨハネは自分の使命を成功裏に受け入れたと述べていますね。
確かに、最初に洗礼者ヨハネに信仰があったことは私も同意します。
しかし、キリストが述べているように、
(マタイ24:13) 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
果たして、ヨハネはイエスのメッセンジャーとしての使命を継続したのでしょうか?
このビデオが進むにつれてわかるでしょう。
第二の異議は次の見出しで始まります。
<@piracy22>
[第二の異議: 獄中での疑念]
獄中のバプテスマのヨハネは、キリストがメシアであることを疑っています。-マタイ11:3
彼(@piracy22)は続けて次のように言います。
疑いを持ったからといって、バプテスマのヨハネが永久に地獄に落とされたということにはならないし、イエスはバプテスマのヨハネを叱責さえしていません。実際にはその反対です。この聖句を読んでください。
彼(@piracy22)は、マタイ11:3-6を引用します。
(マタイ11:3-6)
3 「『きたるべき方』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
5 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
慈悲深いイエスはヨハネを安心させています。彼を非難しているのではありません。もしあなたが信仰を欠いているなら、彼はあなたにも同じことをするでしょう。あなたが聖句を切り取っているからこうなるのです。キリストがヨハネに不満を感じていたというあなたの主張を裏付けるために、あなたのビデオではいくつかの節を飛ばしていることに気づいてください。
<回答>
「疑念を抱いたからといって、バプテスマのヨハネが永久に地獄に落とされるわけではありません」というあなたの考えに関しては、ヨハネが永久に地獄に落とされたという、この考えについて、ポイント3でお話しします。なぜなら、そこであなたは再びそれを取り上げたからです。
ただ、はっきりさせておきたいのですが、イエスがこう言っているのは疑いのためだと、私は思いません。
もちろん、キリストは私たちがつまずくとき、信仰者として受け入れてくださいますが、この聖句では、
(マタイ11:3-6)
3 『きたるべき方』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。
4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
5 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
キリストの発言から、全体としての聖句がヨハネを安心させる聖句ではなく、叱責であることが明らかです。
キリストは、ただいつもあなたを認めてくださるだけの方ではありません。
いいえ、違います。
あなたが神の御心とずれているとき、キリストは叱られるのです。私たちを愛しておられるからです。
特に、これらの聖句では、キリストがヨハネを叱責していないというこの考えは、根拠のないものです。
私が聖句の最後の部分だけを引用することによって、聖句を欺瞞的に切り取っていると、あなたは私を非難しました。
でも本当に正直に言うと、私は時間の関係で6節だけを引用したのです。
もし、私が3節から始まってずっと11節まで全部読んでいたら、バプテスマのヨハネがその使命を果たせなかったという私の主張が強まり、イエスがヨハネを認めたというあなたの主張が弱まることになるでしょう。
ですから、あなたは私がテキストを間違って引用したと非難したので、3節から11節まで全文を読んでみましょう。
(マタイ11:3-11)
3 『きたるべき方』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。
4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
5 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
さて、ここまでは、次の節の文脈がなければ、イエスがヨハネを叱責していないと解釈することができました。
この節を、イエスは、福音に加えて奇跡がご自身がメシアであることの明確な証拠であることをヨハネに基本的に思い出させていると、解釈することもできます。
しかし、続けて読みましょう。
6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた。「あなたがたは何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
他の訳(NIV:新国際版聖書)では、「わたしのゆえにつまずかない者は幸いである」となっています。
キリストは、ヨハネが信仰においてつまずいていると言っているのです。
しかしそれだけではありません。
さらに読み進めると、この説明がより確かなものになります。
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆に、人々は何を見つけようとして荒野に出たのかと尋ねられます。
彼らは風に揺れる葦を見つけようとしたのでしょうか。
イエスが、「風に揺らぐ」と語りながら、私たちに伝えているイメージは、少しでも抵抗があるとすぐに揺れる植物のような、あるいは、自分の核となる信念に確信が持てない人のようなものです。
続けましょう。
8 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら王の家にいる。
9 では、何のために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
10 『見よ、わたしは、わたしの使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
これはあなたの3番目の理由にも滲み出ています。
しかし、キリストが、天国で最も小さい者もヨハネよりは偉大であると言われたのは、ヨハネがその使命を果たしていなかったことを明確に示すものです。
前回指摘したように、イエスはマタイによる福音書5章19節で率直に述べています。
(マタイ5:19) これらの最も小さい戒めの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。
しかし、この聖句(マタイ11:11)では、キリストは「天国で最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である」と言っているのに注目して下さい。
ヨハネがどこにいるかについてのあなたの意見がどうであれ、3節から11節までのこの聖句全体を見れば、イエスはヨハネが自身の使命に失敗したと言っていることは明らかです。
このことについては、次の理由でもっと詳しく述べます。
次に進む前に、これだけは言わせてください。
お互いに慈しみ合いましょう。
11節まで引用しなかったことで、間接的にごまかしていると私があなたを非難することもできます。
ですから、相手のせいにするのはやめましょう。
私たち二人とも聖句を理解しようとする誠実な人間だと私は信じているのですから。
ということで、3番に行きましょう。
<@piracy22>
[第三の異議: 天国で一番小さい者はヨハネより大きい]
イエスが天国で最も小さいと言われたことは、バプテスマのヨハネが永久に地獄に落とされたことを意味するというあなたの主張には、多くの欠陥があります。
<回答>
それらを指摘させていただきますと言って、彼(@piracy22さん)は4つの理由を挙げています。
しかし、この文章を読む前に、ヨハネは地獄にいるというこの点については、あなた(@piracy22さん)が正しいと言いたいです。
あなたのこの指摘は非常に公正です。
洗礼者ヨハネが地獄にいると、私は言うべきではありませんでした。
彼が現在どこに住んでいるかは神のみぞ知ることですから。
ですから、タイトルを修正し、あのビデオの内容を言い直すことにします。
とはいえ、マタイによる福音書11章11節にあるイエスの言葉は、賛美とか肯定(確言)の言葉であるという結論には同意しません。
(マタイ11:11) あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
本文から明らかなように、ヨハネは地獄にはいないかもしれませんが、神の祝福の領域外にいます。
このことを明確にした上で、彼の4つの理由を説明しましょう。
<@piracy22>
1. イエスの発言に対するあなたの文字通りの論理的解釈は正当な理由とはなりません。キリストが人間であるとあなたが信じるなら、キリストが時には、人間の方法でコミュニケーションをとることを理解するはずです。天国で最も小さい者はヨハネよりも偉大であるという言葉は、ヨハネが最も小さい者であると言っていると解釈するのが妥当です。
2. 第二に、この発言は、バプテスマのヨハネを非難するものとしての意味をなしません。イエス・キリストご自身がその発言の前に二度断言しています。マタイによる福音書11章9節と10節で、ヨハネが使命をやめておらず、預言者としての役割を忠実に果たしていることを。さらに11章14節で、王国の中で最も小さい者であることを言及した後に、「彼こそは、きたるべきエリヤなのである」と三度目に断言しています。もしイエスがここで永罰を宣告しているのであれば、イエスが自分に課せられた使命を確実に果たしたと三度も断言する理由がどこにあるのでしょうか。
3. あなたは、洗礼者ヨハネが最も偉大であると言うのは、彼が最も本質的な地位を持っているからでしょう。ということは、「天国で最も地位が低い」という本質的な地位のパラメーターについても、同じ根拠があるはずです。そのように読むと、マタイによる福音書11章11節(ESV、標準英語訳聖書)には、次のように書かれています。「しかし、天国で最も本質的な地位が低い者は、彼よりも本質的な地位が高いのです」。ですから、あなた自身の「偉大な」という言葉の根拠では、論理的にヨハネを天国から排除することにはなりません。
4. この論理も、一番下であれば地獄に落ちるとは限りません。リストに挙げられた人たちで天国は一杯だと想像してみてください。今、ヨハネは天国に入れられますが、神は彼をどこに置くでしょうか?そうですね。最下位の人の下ですね。今、彼は最も小さい者よりも低い位置にいますが、それでも天国にいます。それは、言葉の解釈の一つの可能性に過ぎません。イエスがヨハネは地獄にいると言っていると解釈する必要はないことを示すためです。
<回答>
失礼ながら、この文章を読んだとき、1番目と3番目と4番目の理由の要旨は、ヨハネが天国では最低の存在であるけれども、彼はまだ天国の外にいるわけではないということであるように、私には思えました。
私は、真摯にあなたの視点に立ち、これを3つの異なる理由として捉えようとしました。
しかし、私には理解できませんでした。
それで、もし私がこの反論に関して誤解しているのであれば、はっきりさせてください。
イエスが言われた問題の聖句を読み直してみましょう。
(マタイ11:11) あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
私は次の2点を主張したいです。
仮定上の話として、この聖句のあなたの解釈が正しいとしても、キリストがヨハネは天国の底辺にいると述べている事実は消えません。
しかし、もし仮に、もしヨハネがメシアへの道を準備するという最大の使命を果たすことに成功したのであれば、なぜ、「女の産んだ者の中で最も偉大な」ヨハネは天国の底辺にいるのでしょうか?
もし、ヨハネが王の王であるメシアについて証しすることに成功したのなら、もっと上にいるべきなのではないでしょうか?
ですから、たとえあなたがこの聖句をこのように解釈してもかまいません。
それはやはり、キリストがヨハネが使命を果たせなかったと述べたことを示しています。
そして第二に、イエスが天国で最も小さい者もヨハネよりも偉大であると述べているのに、ヨハネが神の祝福から外れていると言うのは不適切でしょうか?
私はそうは思いません。
例え話をしましょう。
免責事項
[断っておきますが、この例えは、救いの教義に対する私の見解を反映したものではなく、順序を示すための一例です。]
すべての高校生が卒業するために毎年受ける卒業試験があるとしましょう。
その学校は2世紀以上前から存在するため、多くの生徒がこの試験を受け、合格するには最低70点を取らなければなりません。
今、ジョージという生徒がいるとしましょう。
ついに彼が試験を受ける番になりました。
しかし、彼はあまり勉強してこなかったので、本当に合格できるかどうかわかりません。
数日後、先生は試験の採点を終え、ジョージを職員室に呼んでこう言いました。
先生:「この試験で合格最低点を取った者は、君より点数が高い。」
どういう意味か考えて見てください。
つまり、ジョージは合格点の圏外にいるということです。
これをより明確にするために、例として実際の数字を挙げてみましょう。
このテストを受けた他の生徒たちは、スクリーンに映し出されたこの点数を取りました。
教師がジョージに言ったことを、この数字に当てはめてみましょう。
先生:「この試験で合格最低点を取った者は、君より点数が高い。」
このテストの合格最低点が70点で、70点を取った人がジョージより高い点数を持っている場合、ジョージは70点を取っていないことになります。69点以下ということです。
テストに合格できなかったことと同様に、天国で最も小さい者がヨハネより大きいと宣言することによって、ヨハネが神の祝福の領域から外れたことを意味します。
OK、これですっきりしました。
しかし、彼(@piracy22さん)の言う2番目の理由はどうでしょうか?
キリストは、9節10節と14節において、ヨハネが自身の使命をやめておらず、預言者としての役割に忠実であったと肯定しているのでしょうか?
しかし、文脈の節は正反対であることを示しています。
ヨハネは預言者、メッセンジャー、エリヤの使命のために生まれ、準備されていたけれども、彼は成功することができなかったと、キリストは述べています。
11:9 預言者
11:10 メッセンジャー
11:14 エリヤ
ですからイエスは、天国で最も小さい者も彼よりも偉大であり、キリストにつまずかない者はだれでも幸いであると言って、彼を叱責しているのです。
11:6 わたしにつまずかない者は、さいわいである。
キリストの発言は、イエスが実際にヨハネを称賛しているのであれば、意味をなしません。
なぜなら、イエスは叱責したり称賛したり、叱責したり称賛したりして、ご自身の発言を行ったり来たりしていることになるからです。
11:6 わたしにつまずかない者は、さいわいである。: 叱責
11:11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。: 称賛
しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。: 叱責
11:14 この人(バプテスマのヨハネ)こそは来るべきエリヤなのである。: 称賛
仮にあなたの解釈を真実だとしたとしても、イエスが実際にヨハネを三度も肯定しているのであれば、なぜヨハネが天国で最も小さい者となるのでしょうか?
この聖句の文脈全体は、キリストへの信仰を失ったヨハネにイエスが応えたことです。
神がヨハネに人類史上最も明確な啓示を与えたにもかかわらず。(マタイ3:16-17)
イエスの言葉を借りれば、ヨハネはその生涯を通して、信じられないほどの祝福を受けていました。
壮大な目的のために神に導かれ、生涯の大半を忠実に過ごしました。
しかし、決定的な瞬間が来た時に、神が彼の全生涯をかけて準備して来られた最も重要なことを成すことができませんでした。
ですから、この要点をまとめると、イエスはヨハネの信仰を褒めているのではないということです。
それどころか、ヨハネがその使命のために最も偉大な誕生を遂げたにもかかわらず、その使命に失敗したということなのです。
第四の異議の中で、彼(@piracy22さん)は次のように述べています。
<@piracy22>
[第四の異議: ヨハネによる福音書3:28-36]
ヨハネによる福音書3章30節は、ヨハネが道を切り開く責任を放棄したものだとあなたは言っています。これは私がこれまで見たこの節の解釈の中で圧倒的に最もひどいものです。この節をあなたのように解釈することは、聴いている人が誰であれ、意図的に嘘をつこうとしない限り不可能だと思います。一節しか引用していないのはそのためですか?お読みになっている方に、今すぐ全節を読んでください。
そして、彼はヨハネによる福音書3章28節から36節を読みます。
(ヨハネによる福音書3:28-36)
28 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』
29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属す者であって、地のことを語る。天から来る者はすべての上にある。
32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受け入れない。
33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
36 御子を信じる者は、永遠の命を持つ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
<回答>
私のコメントがあります。
しかし、彼(@piracy22さん)はこのセクションで私を最も強く非難しているので、私自身のコメントをする前に、彼のコメント全体を読みたいと思います。
この節に関して、彼は次のように述べています。
<@piracy22>
バプテスマのヨハネは、ヨハネによる福音書3章29節で、自分の喜び(キリストの先駆者としての役割)は完了したと言っています。-それを放棄するわけではありません。聖句全体を読むからこそ、彼が自分の役割について話していることがわかります。
(ヨハネによる福音書3:29-30)
29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
(この聖句は、ついさっき読んだので読み飛ばしました。)
ヨハネの象徴的な表現では、代表者は次のようになります:花婿としてのキリスト、キリストに従う者たちは花嫁であり、ヨハネは花婿を迎え入れる友人です。花婿付添人としてのヨハネの役割が終わった今、結婚式の時が来ました。花婿付添人は結婚式の中心的存在ではありません。中心は花婿です。今こそキリストが高められる時であり、キリストが増大する時である。ヨハネにとっては、その道から抜け出る時です。
<回答>
ですから、私がこの聖句をまたもや欺瞞的に解釈しているというこの反論について、私はこの聖句(ヨハネ3:29-30)に関する私の立場を明確にしたいと思いました。
私は、ヨハネのここでの発言は信仰表明だと思います。
しかし、それはまた、ヨハネがエリヤとしての完全な使命を誤解していることを明らかにするものでもあります。
私は申し上げたいことが複数あります。
まず最初に、ビデオのその部分までに私が提示した内容を無視しないでください。
私はすでにそれらのことについて言及しました。
1. キリストの主張と矛盾する、エリヤの使命を否定するヨハネ。
2. キリストが、天国において最も小さい者でもヨハネよりも偉大であると述べたこと。
3. ヨハネには、ユダヤ全土に何百人、何千人という驚くほど多くの信者がいた。
(ヨハネ1:7) この人は、あかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
すべての人がヨハネを通してキリストを信じることができるように、光の証人となることがヨハネの使命であるならば、そして、ヨハネには、イスラエルの指導者たちを含め、何百人、何千人という信者がいたならば、ヨハネの使命は、すべての彼の弟子たちに、メシアが来られたので、あなたがたは彼に従うべきだと宣言することではなかったのでしょうか?
キリストご自身も、差し迫った収穫のために、神がより多くの働き手を送ってくださるように祈るよう、ご自身の弟子たちに指示されました。
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(マタイ9:37-38)
37 「収穫は豊多いが、働き人が少ない。
38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
ですから、イエスが摂理において労働力不足に遭遇したことを考えれば、
ヨハネの基盤は、福音を宣べ伝えるために多くの働き手を提供する上で、非常に重要だったのではないでしょうか。
もしヨハネがそうしていたなら、彼の信仰とその信仰による行動によって、以下の聖句を可能にしていたことでしょう。
(マルコ1:5) ユダヤの全土とエルサレム全住民とが、
(ヨハネ6:28-29) 神がつかわされた者を信じ、
本当に、
(ルカ1:17) 整えられた民を主に備えるであろう。
それで、あのビデオで、ヨハネによる福音書3章30節を読むまでに、ヨハネのエリヤとしての使命は光について証しすることであり(ヨハネ 1:7)、ヨハネがイスラエル全土に強い基盤を持っていたと聖句が述べていることを、私たちはすでに見ていました。
さらに、ヨハネが本来の使命に忠実であり続けなかったことを示す兆候を、私たちはすでに取り上げていました。
ヨハネによる福音書3章30節を読んだのは、このような理由からでした。
彼(@piracy22さん)が引用した28章から、もう一度読んでみましょう。
(ヨハネによる福音書3:28-36)
28 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
29 花嫁をもつ者は花婿である。
そうです。ヨハネはキリストの前に遣わされているのです。
しかし、問題は、なぜヨハネがキリストの前に遣わされたのかということです。
これまで見てきたように、それはメシアのために人々を準備させるためです。
キリストとの結婚という聖書の比喩を拡大解釈すれば、キリストを花婿、教会を花嫁として表現し、そこにヨハネの使命を単純に置くならば、それは、花嫁あるいは教会あるいは信徒の基盤をキリストである花婿のために準備することです。
では、問題は、ヨハネはそれをしたのでしょうか?
答えは 「ノー 」です。
前回取り上げたように、もしヨハネが本当にイエスを証しすることに成功したのであれば、なぜキリストが自ら宣言する前に、誰もイエスが誰であるかに気づかなかったのでしょうか?
正確な数は不明ですが、マルコによる福音書1章5節に記されているように、洗礼者ヨハネには間違いなく何百人、何千人という信者がいました。
(マルコ1:5) ユダヤの全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
ヨハネによる福音書1章7節が述べているように、もし、すべての人がヨハネを通してキリストを信じることができるように、ヨハネが光についてあかしすることに成功したのだとしたら、
それならば、なぜ、キリストが自ら宣言される前に、イエスがメシアであるという認識がほとんどなかったのでしょうか?
私たちの他のビデオでは、キリストが人々が彼を信じ、従ってほしいと願われていることに関する多くの示唆を見ました。
キリストが町から町へと旅をしながら宣言されるとき、ヨハネとヨハネの信者たちがキリストを支持し、キリストとともに旅をする姿をほとんど見かけないのはなぜでしょうか?
町の人々は、ヨハネによってすでに準備されていたのではなく、イエスの身元について当惑し、イエスが預言者なのか、メシアなのか、あるいは洗礼者ヨハネが復活したのか、自分たちの間で疑問を抱いていました。
(マルコ8:27-28)
27 「人々は、わたしはだれと言っているか」。
28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っているものもあります」。
(ヨハネ7:40-44)
40 「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは、「このかたはキリストである」と言い、
摂理はまた、来るべき収穫のために、労働者を切実に必要としていました。
(マタイ9:37-38)
37 収穫は多いが、働き人が少ない。
38 だから、収穫の主に願って、その収穫にために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
神はヨハネを、御国の福音を広めるためにイエスを助けるという重要な働きのために特別に備えておられました。
(ルカ19:41-44) この日に
ヨハネの死後、何人かの弟子たちはキリストを信じましたが、ヨハネ自身の証しによって、キリストに直接従ったという聖句はたった一つしかありません。
(ヨハネ1:35-42)
35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、
41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシアに今出会った」。
ヨハネによる福音書第1章にだけありますし、登場するのはたった2人だけです。
上記のように、大半の場合、人々はキリストの正体について混乱しています。(マルコ8:27-28、ヨハネ7:40-44)
聖句を続けます。
(ヨハネ3:28-36)
29 (…) 花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
そうです。しかし、彼の宣教の要点は、主の道をまっすぐにし、来たるべき神の王国の実りの収穫のために労働者を提供することなのです。
ただ立ってキリストの話を聞くよりも、実際にキリストに仕え、キリストに従うことのほうが、よろこびをより深く満たすことになるのではないでしょうか?
さらに、もし、ヨハネがキリストの宣教のメッセンジャーとしての役割を実際に果たしていたなら、ヨハネとその宣教は、どのように衰えるのでしょうか?
もしそうであったなら、イエスの宣教の主要なメッセンジャーであり伝道者であった彼は、イエスに次ぐ偉大な歴史上の人物として高められていたことでしょう。
従って、ヨハネはエリヤとしての使命を果たしていないということで、このような発言がなされるのです。
(ヨハネ3:28-36)
30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネは、自分の使命を肯定しているのではなく、分離を表明しているのです。
したがって、ヨハネが、「キリストは必ず栄え、わたしは衰える」と言うのは、彼が弟子たちをイエスのもとに連れて行くという自身の使命を誤解しているか、もっと悪いことに、放棄していることを確認することができます。
続けましょう。
31 上から来る者はすべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受け入れない。
33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。
35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。
32節では、キリストが天から来て、そして、
32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
と記されています。
しかし、もう一度、なぜ誰も天からのキリストのあかしを受けいれないのでしょうか?
もし、バプテスマのヨハネがキリストに従うように彼らを導いたのなら、ユダヤ全土とエルサレムの全住民がキリストの証しを受けるのではないでしょうか?
この聖句(ヨハネ3:28-36)のように、ヨハネがイエスを証言しているときでさえも、実際にキリストに従うようにという行動の呼びかけがありません。
ヨハネとその弟子たちは、メシアに従い、高め、「霊とまこととをもって(ヨハネ4:24)」バプテスマを受けるのではなく、
彼らはキリストから離れて、自分たちの伝統を続けていました。
これまで述べてきたことを踏まえると、人々がキリストを受け入れるために道をまっすぐにするはずだった人物が、実際には反って、道をゆがめてしまったということでしょうか。
この聖句に関する私の最後のコメントは、
これは信仰の証しであると私は信じていますが、私たちを行動に駆り立てるのは信仰です。
ヨハネの場合、ただ単にイエスについて良いことを言うだけでなく、ヨハネを通してすべての人がキリストを信じることができるように、そして、差し迫った収穫のための労働者をキリストに提供することができるように、その信仰を実行に移すべきでした。
従って、この発言は全体として、前の他の指摘とともに、光について証しするエリヤとしての自身の完全な使命に対するヨハネの誤解を反映しています。
次の異議は、彼(@piracy22さん)はこう書いています。
<@piracy22>
[第五の異議: ヨハネの弟子たちは、ある習慣についてイエスに尋ねる]
あなたは、ヨハネが弟子たちにキリストを疑い、不信仰になるよう教えているのは、キリストの振る舞いのためであると言っています。
(マタイ9:14) そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
彼(@piracy22さん)は、この節について次のようにコメントしています。
ヨハネの弟子たちが、キリストの弟子たちがなぜ断食しないのかと尋ねるのは、見下すような言い方ではありません。あなたはそれを聖句に投影しています。ユダヤ人の状況に身を置けば、メシアとその弟子たちがなぜ断食しないのか不思議に思うでしょう。それはごく普通の質問です。あなたはここで、ありもしない議論やドラマを想像しているのです。また、本文には「言った」としか書かれていないのに、あなたはまた、「彼らは答えを無理に聞き出す」と言っています。本文に書いてある通りですが、あなたはまた省いています。(9:14)そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。どんなテンションも想像のうちなので、あなたはバプテスマのヨハネに対して、この奇妙な潮流を流し続けることができます。
<回答>
もう一度言いますが、あなたはこれまでのビデオの内容をかなり無視しています。
私はすでに話しました。
1. ヨハネはエリヤとしての使命を否定していた。
(ヨハネ1:21) 「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。
2. ヨハネは、どんなにキリストの主張と矛盾し、キリストの宣教を妨げたか。
(マタイ11:14) そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、来たるべきエリヤなのである。
3. キリストは、天国で最も小さい者もヨハネよりは偉大であると述べた。
(マタイ11:11-15) 11 しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
4. ヨハネはどんなにイエスを疑い、キリストがメシアであることをすでに知っていたにもかかわらず、イエスがメシアであるかどうかを確認するために弟子たちを遣わしたか。
(マタイ11:2-6)
2 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
3 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
そのような理由から、私は洗礼者ヨハネは成功しなかったと結論づけたのです。
この理由については素早く通り過ぎたので、その延長線上で、公正を期すため、私の考えをもう少し詳しく説明しましょう。
イエスは、律法主義的な儀式に縛られるのではなく、「霊とまこととをもって礼拝すべきである(ヨハネ4:24)」と言われました。
言い換えれば、私たちの心が彼の御心と彼の原理に正しく一致しているとき、私たちはどこでも彼を礼拝するのです
断食のような儀式が本質的に悪いというわけではありません。
それは、過度の律法尊重主義になったり、誤った目的のためになったときだけ、悪くなるのです。
しかし、ヨハネの弟子たちの伝統は、よりパリサイ派の誤った理解に沿って続いていることがわかります。
(ヨハネ4:24) 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。
霊とまことをもって神を礼拝せよというキリストの教えよりも、それは、洗礼者ヨハネが、キリストとともに到来した新しい契約に弟子たちを移行させなかったことを示しています。
実際、キリストがヨハネの弟子たちに、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない、古い皮袋に入れてワインがこぼれてしまわないようにと教えたのは、彼らの質問の直後です。
最後に、この指摘は単独の主張ではないことを繰り返したいです。
ですから、聖書の中には、ヨハネがその使命において成功しなかったという証拠があるという事実を知っている時、単なる想像的なテンションではないと思います。
でも、あなたの言いたいことはわかります。
もしあなたが、バプテスマのヨハネがその使命を成功させたと、既に信じているのであれば、このように解釈するのは理にかなっています。
特に、キリストが天国で最も小さい者もヨハネよりも偉大であると明確に述べていることから、聖書がその事実を支持しているとは思いません。
しかし、この点は非常に些細なことなので、同意できないことに同意すると考えましょう。
ですから、私は同意しないとしても、続けましょう。
あなた(@piracy22さん)は、続けます。
<@piracy22>
[第六の異議: ヨハネの宣教の基準といくつかのスパイス!]
なぜバプテスマのヨハネがその使命を果たせなかったのか、しかしこの推論には二つの大きな欠陥があります。理由は、1.誰がヨハネの使命の成功を定義するのか?イエスが行く先々で、ヨハネのメッセージはイエスがメシアであるというパラメータを、あなたは作り上げました。実際、ヨハネがすべきことはそんなことではありませんでした。彼は主の道を準備するのです。ヨハネが忠実に説いたメッセージ、マタイによる福音書3章1-3節に注目して下さい。読んでみましょう。
(マタイ3:1-3)
1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った。
2 「悔い改めよ、天の国は近づいた」。
3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
<回答>
さて、聖書は文字通り、ヨハネの使命をこう述べています。
(ヨハネ1:6-9)
7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
この聖句は、「作り上げた」のではなく、
「彼によってすべての人が信じるためである」という節は、イエスがメシアであることを、ヨハネが宣べ伝えるのは明らかではないのですか?
その聖句は、ヨハネがイエスがメシアであることを証言することになっているのは、かなり明確なようです。
つまり、世代を超えて待ち望まれるメシアを宣言するという、これ以上偉大なメッセージが他にあるだろうか、ということです。
ですから、私も聖句を引用していないと非難することができます。
それで、誠意をもって議論し、互いに慈しみ合いましょう。
この点での彼の第二の理由は、
<@piracy22>
2.もしヨハネがキリストに先だって来る者として成功しなかったのなら、なぜイエス・キリストはヨハネをエリヤのような預言者と断言したのでしょうか。おそらくあなたは、キリストが嘘をついているか、あるいは、キリストは洗礼者ヨハネにそれができたかどうかよくわからなかったか、あるいは、ただ彼が誤解しただけだと考えているのでしょう。
<回答>
明らかに、キリストが愚かな嘘をついているとか、間違っているとか、私は思いません。
もう一度、大人になって、誠意と慈愛を持って、相手の視点を真摯に理解しようと議論しましょう。
しかし、この点について、あなたは以前、理由3-2で主題を提起しました。
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それに対する私の回答をもう一度見たいのであれば、この動画の[17:11]に戻ってください。
彼(@piracy22님)は次のポイントに進みます。
<@piracy22>
ヨハネはキリストの宣教を妨げていないし、ヨハネはキリストを故意にも無意識にも十字架で死なせてはいません。ビデオの終わりの方では、最後の幾つかの主張に対する何の証拠も示さなかったので、あなたがあきらめて、キリストと贖罪の物語について真実であってほしいと願っていることを聞き流し始めたように聞こえました。
<回答>
あなたの発言の最初の部分は、その主張を裏付ける証拠もなく、単なる主張です。
私が何の証拠も示さなかったというあなたの主張に反して、私は洗礼者ヨハネがその使命に失敗したことを聖書が示している多くの理由を挙げました。
1. 洗礼者ヨハネはエリヤであるというキリストの主張と矛盾している。
(ヨハネ1:21) 「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。
それによって、すでに否定的だったイエスの評判に、さらに疑惑と疑念を広めた。
2. イエスはヨハネについて、天の御国で最も小さい者はヨハネよりも大きいと明言された。(マタイ11:11)
3. ヨハネが二人の人を除いては実際に光を証ししたという証拠はない。(ヨハネ1:35-42)
4. ヨハネのせいで、どこに行っても、誰もイエスを認めない。
(マルコ8:27-28)
27 (…)人々は、わたしをだれだと言っているのか。
28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、(…) 預言者のひとりだと」。
(ヨハネ7:40-44)
40 (…)「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは、「このかたはキリストである」と言い、
5. ヨハネは、復帰歴史全体の中で最も明確な啓示を受けたにもかかわらず、イエスがメシアであることを疑っている。
(マタイ11:2-6)
2 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
3 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
6. ヨハネの基盤は、キリストの絶え間ない信仰の教えの成就を可能にしたはず。
(マタイ9:37-38)
37 収穫は多いが、働き人が少ない。
38 だから、収穫の主に願って、その収穫にために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
そして、王国のためにもっと多くの労働者が必要でした。
これが証拠でないなら、何が証拠なのか私にはわかりません。
「私はただあきらめた」というあなたの発言は、あなたが述べた文章がなかったので、私はそれに答えることができません。
それでは、7番目のポイントに進みましょう。
<@piracy22>
[最後の異議: 殉教することがクリスチャンである条件なのか?]
最後に、あなたが教えている誤った福音について述べたいと思います。
あなたは、クリスチャンの召命は「私たちの主と同じ運命を分かち合う」ことだと言います。マタイによる福音書16章24節にこう書かれているとあなたは提示しながら裏付けます。24それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。ここからあなたは誤った結論を導き出しています。キリスト信者であるために殉教者として殺される必要はありません。もし、あなたが指摘しようとしていることを私が誤解しているなら、訂正してほしいですが、これは阻止しなければなりません。天国に行くためには殉教しなければならないなどと言ってはなりません。
<回答>
ご覧なさい。私はここで恩寵を拡大し、寛大でありたいです。
しかし、私は確かに、クリスチャンになるために死ななければならないとは言っていません。
それは、あなたと私もまだ二人とも生きているのですから(死んでいません)、私たちも含めて、おそらく95%以上のキリスト教徒たち、摂理史における何百何千という忠実な信者はもちろんのこと、使徒ヨハネさえも除外されることになるでしょう。
ですから、異議を唱えながらも、誠意をもって議論し、互いに慈しみ合いましょう。
私が言いたかったのは、キリストに従うには代償が必要だということです。
その代償の一つが殉教かもしれませんが、それが代償の唯一の基準ではありません。
そして、彼(@piracy22さん)の最後の指摘は、
<@piracy22>
洗礼者ヨハネが王族の享楽のために斬首されたからといって、その状況はキリストへの忠実さとは関係がない。
<回答>
そうです。私は、この出来事それ自体がキリストへの忠実さとは関係がないことに同意します。
しかし、その発言は、外界から孤立してなされたのではないでしょう?
ヨハネには、彼のために用意された驚くべき使命がありました。
彼はキリストについて人々に証しするためにエリヤの立場に立ったにもかかわらず、ヘロデ王朝の政治という比較的小さな理由で殺されました。
これが、運命だったのでしょうか?
(マタイ11:11) 女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。
女の産んだ者の中で、最も偉大な人物は、彼の証しによってすべての人がキリストを信じるように運命づけられた人です。
誤解や悪化した別れという、それ以前の兆候に基づくと、私はそうは思いません。
聖書の有用なデータからわかるように、ヨハネのイエスに対する最初の信仰は揺らぎ始め、牢獄に入れられたことで終わり、イエスへの信仰を失ったことをイエスに叱責されました。
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ヨハネのキリストへの信仰は、最初は熱烈に芽生えたが、岩地に落ちた種に似ていました。
やがて灼熱の太陽に焼かれてしまいました。
クリスチャン生活を送っていると、私たちを行動に駆り立てるのは信仰であることがわかります。
使徒ヤコブが述べているように、
(ヤコブ2:26) 行いのない信仰も死んだものなのである。
しかし、ヨハネの収穫の記録を実際に見てみると
(ヨハネ1:7) ヨハネによってすべての人がキリストを信じるためである。
ヨハネが光について証しするという使命に成功したという証拠があまりにも少ないです。
コメントに関しては、火のようなかなり激しい場面もありましたが、これほど長く、思慮深い異議を提起してくれたことに感謝したいです。
あなたの視点から物事を考え、見ようとすることは、純粋にとても楽しいことでした。
この回答が、いくつかの異議に答えるのに役立ったことを祈ります。
見ているすべての方々へ、
私たちは皆、神の国の実を増やす肥沃な土壌に降り立つ者となりましょう。
最後まで忍耐する者となりましょう。
ご視聴ありがとうございました。
そして、あなたとあなたのご家族が祝福された一日を過ごされることを願っています。
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