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2024年3月1日金曜日

キリスト再臨アドベント16◆7分でわかる地上天国憲法_文信俊三代王◆A video for the Suffering Soul _The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

 日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント16

7分でわかる地上天国憲法

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.

16. (20240227) 

The Kingdom of Heaven on Earth's Constitution in 7 Minutes

 

7分でわかる地上天国憲法

 

こんにちは。

統一教会の憲法をご存知でしょうか?

7分にまとめてみました。

まず知っておいていただきたいのは、これは教会の憲法ではなく、将来いつか、どこかに存在する実際の国家の憲法だということです。

 

この国家は国民の土地と主権を持ちます。

天一国憲法は要するに、神尊重、生命尊重、自由尊重、銃器擁護、反共産主義を核とする、リバタリアン(自由主義)君主制共和国です。


 


まず、君主制の側面に焦点を当てて見ましょう。

すべてのキリスト教徒は、キリストが再臨する時、キリストは天の王国を地上にもたらし、永遠の君主制国家を築かれると信じています。



私たちは、キリストが文鮮明という人として再臨されたと信じているので、彼の相続者であり後継者が王の座につくことになります。

しかしながら、この君主制国家は、過去の悪魔の専制君主制のようなものではありません。


 


これまでの君主制には重大な欠陥がありました。

国王は、立法、行政、司法という政府のすべての部門を支配してきました。

一人の人間が権力を持ちすぎます。


 


そのため、アクトン卿の有名な言葉のように、国王は餌食となります。

「権力は腐敗し、絶対的権力は絶対的に腐敗する。」

王が権力を濫用した歴史は、不幸にも後を絶ちません。

 

不当な法律を作り、それに反対するどんな人をも軍事力で踏みつぶすという、かつての悪魔のような王権とは全く対照的です。

 

天一国の王は、行政府と立法府のいずれにおいても権力を持ちません。

しかし、憲法を守るという使命を担う司法府の立場に立ちます。

そして、教典と伝統による天の文化を維持します。

 

腐敗した国王という最悪の事態であっても、国民を統制するための常備軍がない以上、国王ができることは多くありません。

他の政府部門から厳しく制限されるだけでなく、国民の軽蔑と物理的な反発を招くことは言うまでもありません。

常備軍が地方や州レベルの民兵に取って代わられることにより、権力はさらに分散化され、腐敗した政治家たちが不当な戦争を仕掛け、他人の息子や娘を肉挽き機に送り込みながら、自分たちは何百万ドルもの利益を得るのを防ぎます。


 


それでは次に、天一国の共和国としての側面をより詳しく見てみましょう。

合衆国憲法と神の王国の憲法の間には、さまざまな決定的な違いがあることがわかります。

 

何よりもまず、ディープ・ステート(闇の政府)の増大を防ぐために、任期制限があります。

 

[第2条 第1節

最高裁判所および下位裁判所の裁判官は、いずれも、その任期を12年とし、]

 

任期制限がなければ、腐敗した政治家は、国民の敵として違憲の法律に仕えながら、永久に権力の座に就くことができます。

 

特に下院における権力の座をさらに分散させます。

下院の各議員は2100人の人々を代表することになります。

代表議員の数が非常に多いので、天一国国民が何を望んでいるのか、国民に対する精度の高い描写が可能になるだけでなく、代表者は国民に対して説明責任を果たし、誠実でなければならなくなります。

 

国民の利益は国家の利益よりも優先されます。

結局のところ、政治家が有権者層から切り離されているからこそ、ディープ・ステートが形成されたのです。

従って、下院議員の大規模化とともに、任期制限は権力を分散させ、その権力を神の王国の人々に与えるでしょう。

 

憲法のプロ・ライフ(生命尊重)の側面に焦点を当てると、

 

[原則 1 : 神の清い血統を維持せよ。

議会は、生まれし者、未だ生まれし者に危害を及ぼすことを許容する法律を決して制定してはならない。]

 

論理的な延長として、プロ・ファミリー(家族尊重)です。

憲法は嬰児殺しを禁止し、神の定めた男女間の結婚の理想を支持しています。

 

家庭内においては、連邦政府は教育に関与できません。

教育の民間への移行です。

なぜなら、中央集権的な政府の教育は、常に若者を、政府の後ろ盾のあるもの、つまり、「承認されたイデオロギー」しか教えられないようにするからです。国家の奴隷を作るのです。

 

しかしながら、家族を守ることにおける最も重要な部分は、連邦レベルでの福祉を禁止し、それを民間部門に移すことです。


 


アメリカの政策を例にとると、1964年のリンドン・B・ジョンソンの「貧困との戦い」が証明しています。

60年間で22兆ドル以上を費やしたにもかかわらず、ほとんど効果がありませんでした。

 

むしろ、無料の福祉小切手は責任に結びつかないので、婚外での乱れたセックスと無頓着な離婚の文化を助長します。離婚は社会の基盤である家族構造を崩壊させます。

その結果、一人親世帯の社会が助長され、ホームレス、薬物乱用、ティーンエイジャーの自殺、行動障害などより多くの社会問題が増加します。

 

福祉を民間部門に移管することで、福祉はまだ可能になります。

しかし決定的に重要なのは、福祉はその人の行動の変化に結びついた責任と切り離せないということです。

 

福祉の禁止と同じように、天一国はまた、連邦政府に中央集権的な医療(健康管理)、そして先に述べた教育を禁じています。

医療と教育と福祉が中央集権化されなくなれば、医療も教育も福祉も豊富になります。

ひとつのグループがそれを独占することができないからです。

ひとつのグループが独占できなくなれば、自由市場は自然に価格を下げるでしょう。

 

その結果、あなたに最適な最高の医療と教育を選択することができるだけでなく、医療と教育の両方の価格が非常に手頃になります。

言い換えれば、医療・教育・福祉において、神の国は、量的にも質的にも、より多くのものを持つことになります。

そして決定的に重要なのは、それを決めるのは国民であるということです。


 


権力の集中を防ぐために、王国憲法は、議会が平和時に国内総生産(GDP)の10%以上を支出することを禁じています。

さらに、経済の中央計画を妨げる中央銀行も存在しません。

むしろ、すべての経済を動かす見えざる手が、自由市場を有機的にコントロールすることになります。


 


これまで、自由を促進する地上天国の主要な側面について述べてきたましたが、

私たちはまた、約2世紀半前にジェファーソンが独立宣言に書いた言葉を信じています。

「すべての人は平等に創造され、創造主によって不可侵の権利を与えられている。」

 

その結果、権利章典が天一国に制定されます。

その中には、言論の自由、宗教の自由、武器を持つ権利があります。

 

さらに憲法は、議会が所得税や固定資産税、相続税などを制定することを禁じています。

国民は自分が苦労して稼いだお金を使う権利があるはずです。

 

このように、前述したすべての例から、天一国にはかつてないほどの自由があることがわかります。

政府はしもべとしての本来の立場にとどまり、国民が真に社会の王であり王妃になります。

 

しかしながら、このレベルの自由は、根本的に責任と結びついています。

どちらか片方だけというわけにはいきません。


 


ホロコーストの生存者であり、著名な心理療法士であるヴィクトール・フランクルは、自由と責任の関係について次のように述べています。

「自由は最後の言葉ではない。自由は真実の半分でしかない。自由は、責任という観点から生きない限りは、単なる恣意に陥る危険がある。」 

 

このように、基本的に、神の王国は自由と責任の王国です。

このようなビジョンから生まれる比類のないレベルの自由は、憲法という良い果実をもたらす良い木への強力な証しとなるでしょう。

 

王の王であるキリストは、正義と公正で治め、その民とともに諸国を導きます。

天の文化を礎とする神聖な人々は、繁栄し、神が人類に授けた本来の使命を果たすことができるようになります。

 

この王国が来るまで、私たちクリスチャンは熱心に祈ります。



み国を来たらせたまえ。 み心の天に成るごとく 地にもなさせたまえ。

2024年2月17日土曜日

キリスト再臨アドベント15 イエスは死ぬはずではなかったという聖書的証明_文信俊三代王◆A video for the Suffering Soul _The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

 日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント15

イエスは死ぬはずではなかったという聖書的証明

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.


15. (20240207) 

Principle Series 4d - 

Biblical Proof that Jesus was NOT Supposed to Die

原則シリーズ4d -

イエスは死ぬはずではなかったという聖書的証明


伝統的なキリスト教神学は、神がイエスを遣わされたのは、人類の救済計画のためにイエスを十字架上で死なせるためだと、長い間主張してきました。しかし、イエスはご自身の使命を何だと考えていたのでしょうか?メシアの使命についてのシリーズを続けながら、私たちは、神が御子のために計画された栄光のビジョンと、彼が悲劇的に殺される理由を理解し始めるでしょう。どうか、このビデオを楽しみ、祝福された一日をお過ごしください。



メシアは死ぬはずではなかったという見解は、イエス御自身の証言だけでなく、旧約聖書と新約聖書の両方の預言に、聖書的な強い根拠があることを見てきました。


イエスが死ぬはずではなかったという証拠を見る前に、

私たちはまず、願われた第一のコースから悲劇的な第二のコースへの段階的な移行が、いつ始まったのかを問わねばなりません。



まず、ヨハネによる福音書から、キリストのミニストリー(公生涯)には4つの過越の祭があったことがわかります。(ヨハネ2:13、5:1、6:4、13:1)



このことから、第一次から第二次への移行は、キリストの宣教(公生涯)の3年目近くから始まったことがわかります。(マタイ14:13、マルコ6:31-32、ルカ9:10、ヨハネ6:1-4)


およそ最初の2年間、イエスは神の王国が近づいていると力強く宣言されました。

(マルコ1:15) 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

そして、引用すると、

(マタイ4:17) 「悔い改めよ。天国は近づいた」。


イエスの言う福音とは、キリストの死と葬りと復活のことではありません。

福音とは、王国の福音です。次の言葉を引用します。

(ヨハネ6:29) 「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。


苦難の道の表明を私たちが目撃し始めるのは、宣教(公生涯)3年目のことです。

マタイによる福音書16章21節には、次のように書かれています。

(マタイ16:21) この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。



この時から」という言葉は、弟子たちがその時まで十字架刑の運命について聞かされていなかったことを示しています。

キリストが苦難の道を歩まなければならないと告げた後の弟子たちの混乱した反応にも、突然の使命の転換が表れています。


ルカによる福音書18章34節に、他の節と同様に記されています。(ルカ9:45、マルコ9:32)

(ルカ18:34) 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われたことが理解できなかった。


さらに、弟子たちが昇天の直前にイエスに尋ねた質問、

(使徒行伝1:6) 「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時なのですか」。


イエスがイスラエルを通して神の実体的な王国の到来を告げるはずだったという期待が証拠です。

この3年間、イエスとともに毎日を過ごしてきた弟子たちは、なぜイエスが王国を復帰してくださると期待したのでしょうか。

もし、イエスが最初から受難のメッセージを説いていたのなら、期待したでしょうか?

弟子たちは、メシアの使命について誤った観念を抱くほど愚かではありませんでした。

なぜなら、弟子たちは、3年間毎日、神の御子と話すという貴重な機会があったからです。


このように、キリストの発言に加え、前述の理由のすべてが、メシアの本来の使命における重大な変更の証拠です。



キリストは、イスラエルが御自身との一体化に失敗したことを悟り、イスラエルのために泣かれました。


(マタイ23:37-38、ルカ13:34-35)

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。


エルサレムの強情な不服従に対するイエスの嘆きは、別の聖句にも表されています。

イスラエルがイエスを十字架につけようと画策するのではなく、神の恵み深い呼びかけに耳を傾けてほしいというイエスの願いを証しています。

イエスは、御自身も含めて、神の預言者たちを殺すというイスラエルの一貫した繰り返しが、天の父の御心とは正反対であると明言されています。


神が、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、集めようとしたと表現された願いを果たすことができないのは、神の無条件の愛に直面したとき、彼らが頑なであると決めた彼らの決断のためです。

(マタイ23:37-38、ルカ13:34-35)


イエスはイスラエルの将来を宣言されます。 

(ルカ13:34-35マタイ23:37-38) 見捨てられてしまう (荒れ果ててしまう)


メシヤ時代に関するイザヤ書62章の預言とは真っ向から対立しています。

(イザヤ62:3) また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。

(イザヤ62:4) あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、



イエスは涙を流しながら、イスラエルはイスラエルの黄金時代をもたらすはずの方を受け入れることができなかったと、聴衆に率直に語っています。

それゆえ、イスラエルは、「見捨てられてしまう」 (ルカ13:34-35)。

彼らが救い主を十字架につけたので、荒れ果ててしまうのです。


ルカ19:41-44で、イエスはさらに付け加えて、

(ルカ19:42) 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を、知ってさえいたら...」


44節で、イエスは裁きを宣言し、イスラエルを明確に呪われました。なぜなら、

(ルカ19:44) 神のおとずれの時を知らないでいたからである」。


イエスが「この日に」と明確に述べたのは、イスラエルの民が、「平和をもたらす道を、知って(ルカ19:42)」いるのはイエスに違いないとわかることができたことを証明します。

イエスが祭司長や律法学者の手によって十字架につけられることが神の本来の御心であったならば、なぜイエスは彼らがおとずれの時を知らなかったと嘆くのでしょうか。


イエスが涙を流されたのは、御自身の初臨によって、実体の王国が築かれないことを認識され、神の第一の願いを実現するために再臨しなければならないことを悟られたからです。

このように、エルサレムに関するイエスの悲痛な御言葉は、神の御心がイスラエルを通して成し遂げられないことを示しています。


神の摂理の変化を嘆くのは、イエス一人に限ったことではありません。

サンヘドリン(ユダヤ教の最高法院)の聴衆の中に立ったステパノは、正義の憤りをもってユダヤ人指導者たちを非難しました。


(使徒行伝7:51-53) 

(7:51) ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。

(7:52) いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しい方の来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しい方を裏切る者、また、殺す者となった。

(7:53) あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。


ユダヤ人の振る舞いを罪深い彼らの先祖たちと比較しながら、ステパノは、自分たちを救うために遣わされた正しい方を裏切ったと主張しているのです。


しかし、もしキリストの十字架刑が世の初めからの神の御心であったなら、なぜ「裏切る者、また、殺す者」になるのでしょうか?

ユダヤの指導者たちが聖霊に抵抗したと宣言することによって、ステパノは、彼らの行動が神の願われた御心に反していたことを明確に示しています。


さらに、最初の殉教者の、パリサイ派に対する怒りは、イエスが本来ユダヤ教の指導者たちによって殺されるはずではなかったことを表しています。

そうでなければ、イエスの十字架刑が神の最初からの御心であったなら、彼らに対する彼の侮辱は完全に筋違いということになります。

もしユダヤ人がイエスを十字架につけることによってのみ神の第一の御旨を行なっていたとすれば、なぜステパノは、神の願われた御心が今、成し遂げられた喜びの賛美を叫ばなかったのでしょうか。


歴史上、神の預言者たちと聖徒たちが拒絶され、殺害されたることによって、神の御旨が成就された時代がかつてあったでしょうか?

従って、ステパノのイスラエルの民に対する非難は、ユダヤ人の手によって、イエスが「裏切られ、殺され使徒7:52)」るはずではなかったという、もう一つの実例を提供しています。


神はイスラエルを通して地上に王国を築こうとされました。

イスラエルはキリストと一つになるはずでした。


伝統的なキリスト教神学は、イエスのゲッセマネの嘆願、「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」を、イエスの人間性の表現として解釈してきました。


この説明が成り立たないのは、一つの中心的な理由からです。

イエスの唯一の使命が十字架であったというのが真実であるならば、「わたしが天から下ってきたのは、わたしの心のままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである(ヨハネ6:38)」と言われた方でしょうか?


あなたは神のことを思わないで、人のことを思っているマタイ16:23)」と、ペテロをサタンだと厳しく非難した彼が、御自身の宣教(公生涯)の最も重要な時に、ひるむでしょうか。

死ぬべき運命のもとで、崩れていくのでしょうか。

彼の中心的弟子に対して「誘惑に陥らないように祈りなさい(ルカ22:40)」と命じる程、イエスは偽善者でしょうか?


その次の瞬間に、衝動に駆られて、歎願しながら、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。(ルカ22:42)」と言うキリストの悲しみが、彼の揺らぐ信仰の結果であるのでしょうか。


イエスの十字架の必然的な結果として、その後のすべてのキリスト教の殉教者は、「わたしと父とは一つである。ヨハネ10:30)」よりも大きな愛と信仰を持つことになります。


これは私の主張ですが、

十字架を避けようとするよりも、キリストは神とイスラエルの民の摂理を案じておられたのだという説明の方が、キリストがそのような祈りをされた動機について、より筋の通った説明になります。


しかし、この解釈は、十字架が堕落した人類を救う唯一の選択肢であったと主張するメシアの使命に関する伝統的な見解では、不可能であることに注意してください。


旧約聖書も新約聖書も、実体的な王国の樹立を支持しています。

神の第一の願いは、イエスの御言葉と行動、そしてこれまで述べてきたすべてのことから、メシアが神の主権を全世界にもたらすことであったことを圧倒的に示しています。

イエスは父の願いを認識していたはずです。

イエスは許諾して下さるように主に歎願されました。


神の本来の御旨を成就するためにもう少し時間が必要だったというのが、キリストの絶対的な誠実さを貶めることのない唯一の説明です。

天の父の地上王国への熱烈な願望に対するイエスの親孝行な態度が、イエスの必死の歎願を引き起こしたのです。


「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。(マタイ26:39)


伝統的なキリスト教の解釈に反して、神は、イエスの時代には神の御心が現れないことがわかりました。

イエスの父に対する忠誠心のハイライトです。

と同時に、イエスが昔の預言者たちによって語られた、統治する王となることを意図していたという、もう一つの証拠も示しています。


しかしながら、この説明もまた、キリストの本来の使命は十字架につけられる運命ではなかったという考えを示して初めて理路整然としたものになります。


このように私たちは、キリストの運命が十字架ではなかったことを示す、旧約聖書と新約聖書の膨大な証拠の数々を見てきました。

歴史と絡み合ったキリスト教神学の一面に飛び込んでいくと、神の新しいイスラエルに向けられた神の祝福の継続が見えてくるでしょう。(ガラテヤ 6:16)


このシフトが歴史と現在進行中の復帰摂理に甚大な影響を及ぼすことが、これからわかるでしょう。

それまで、あなたとあなたのご家族が祝福された日々を過ごされることを願っています。