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2025年1月30日木曜日

LIVE 第58回 真の神の日 「年頭標語:父恩史世界平和勝利」 零時の祈祷と御言・式典 天基16年 天暦1月1日(2025年1月29日)


 LIVE第58回 真の神の日 零時の祈祷

天基16年 天暦1月1日(2025年1月29日) 

第58回真の神の日

文鮮明_康賢實真の父母様とイエス様御聖誕

神様王権即位式24周年

年頭標語 父恩世界平和勝利


通訳無し


通訳有り




揮毫 父恩史世界平和勝利



午前7時からの式典


訓読

5) 神様を中心とした主義が復帰されれば

① 神様のみ旨が成就した世界


人間の力、人間の知恵、人間の文化、このどれをもってしても真まことの意味の平和の世界や、一つに統一された世界を願うことができない時点にあるということを私たちは知っています。このような立場で世界文化を解決する上で、一番中心となる問題は何でしょうか。神様がいるのか、いないのかという問題を、確実に解明することが何よりも重要な問題だと見るのです。


もし、神様がいるということを全人類が知った日には、神様のみ旨がどのようなものを指向するのかを確実に知るようになるでしょうし、その指向するみ旨を知るときには、その世界はまさしく一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界でないはずがありません。

(56-131, 1972.5.14)


大きいものを得るために小さいものを犠牲にすることは、正常なことです。より価値のあるものと取り替える人が、知恵のある人です。これが世界に行くための正当な道です。人間は、より大きなものを憧憬どうけいするのであって、小さいものを憧憬しません。より大きいものを願うのであって、小さいものを願いません。

(35-278, 1970.10.25)


私たち統一教会が違うのは、これです。統一教会は、父母を愛するように兄弟を愛し、兄弟を愛するように宗族を愛し、民族を愛し、国家を愛そうというのです。父母を捨ててでも国家を愛そうというのです。世界を愛するためには自分の国も捨てなければならないのです。また、天を愛するためには世界まで捨てようというのです。もっと遠く大きいもののために、私に近く小さいものを犠牲にする愛の道を求めていこうというのが、統一教会の主流思想です。

(100-79, 1978.10.8)


今日、民主世界が第3解放を要求するならば、共産世界では第2解放を要求するのではないでしょうか。このような問題を考えてみるとき、第2解放、第3解放の旗手になり、その源泉とし得る新しい主義と思想は、どこから来るのでしょうか。これは、人間世界からは出てくることができません。人間は、今まで数千年の間、この解放を迎えるために身もだえして努力してきましたが、そのような環境も、内容ももつことができませんでした。それゆえ、人間だけを中心としては解放することができません。

(33-224, 1970.8.16)


皆さんは、民族主義者になりますか、世界主義者になりますか。宗教は、世界主義だけではありません。人間だけを良くしようという主義ではなく、神様まで良くしようという主義です。しかし、共産主義や民主主義は、人間だけを良くしようという主義です。それで神様まで良くしようという主義と、人間だけ良くしようという主義と、どちらの主義が良いですか。神様も良いし人間も良い主義が良いですか、主人を除いて僕しもべたちだけで喜んでいる主義が良いですか。それゆえ、宗教は良いものなのです。

(41-44, 1971.2.12)


最後に残る思想は何でしょうか。世界のために、自分の国や国民よりも、世界をもっと愛する運動、神様をもっと愛する運動だけが、最後に残る主義になるでしょうし、思想になるでしょう。ですから、この国を越え得る超民族的運動を世界的に提示し、超民族的に天が愛する立場に、あるいは世界の人々が愛する立場に、自由に行けるようにするためには、どのようにすべきかを模索する主義だけが問題となるのです。

(53-24, 1972.2.4)


今後、この世界を受け継ぐ主義、思想は、自分の国家を犠牲にしても世界を救おうとする主義、思想です。このような思想をもつ国、このような新しい運動を中心とした国家と国民が登場するようになるとき、この世の中には新しい希望の世界が顕現するでしょう。そこから新しい統一の世界、理想世界が顕現することでしょう。国を越えることができない国家観、歴史観は、神様の理想世界を引き継ぐことはできません。

(51-44, 1971.11.4)


一つの目的に帰一させ得る思想は、自分を中心とする世界観ではありません。この思想は、世界を中心とする世界観であり、万国を中心とする世界観です。これが、一つの目的に帰結させ得る思想です。これは、世界と分離された立場から自分の宗族を誇る思想ではなく、人間自体のために生きる思想です。人間ならば誰でも、このような思想によって成された世界を願っているというのです。

(36-175, 1970.11.29)


(ノアの三人の息子のように)黄色人種は長男であり、黒人は次男であり、白人は三男ですが、彼らが争うのを、韓国が「統一思想」を通じて統一し得るというのです。このようになることによって、神様を中心とした理想的祖国創建ができるというのです。そこから初めて、平和の世界、一つの世界、統一の世界、勝利の世界へと、世界は収拾されていくというのです。そのようにして地上に天国を形成すると同時に、神様と一致しなければなりません。天上天国の主体であられる神様を地上にお迎えして、統一された一つの天国を形成しなければならないのです。これが統一信徒たちのやらなければならない使命であることを、はっきり知らなければなりません。このような基盤のもとで初めて父母と一つとなることによって、平和の天国生活が始まるのです。

(79-83, 1975.6.1)


統一教会とは、いったい何ですか。右翼を抱き左翼を抱いて、これらをつかんでどこに行くのでしょうか。ここから追い込まれて争う闘争の世界を越え、天が導く幸福の世界、ユートピアの世界に導くのです。これらを抱いて平面的に行いってはいけません。これが何のことかといえば、統一教会が、思想的に体制によって没落して失敗したことを全部収拾できる論理体系をもっていると同時に、これを抱いて横的に運行できるのです。また同時に、宗教を中心として縦的な基準で運行し得る霊的な体験の基盤を中心として、超越的実体を追求しなければならない内容をもつべきなのです。

統一教会は、人間的な面での人本主義や物本主義、今までの過去のすべての神本主義も体系的に理論化し、それを統合できる内容をもつと同時に、縦的な面で宗派を超越して連結していける、超自然的な体験の宗教思想にならなければなりません。その事実を知らなければならないのです。

(162-102, 1987.3.30)


すべての物質主義者、共産主義者たちが見るとき、「統一教会の信者であるあの人は、私たち共産党よりも徹底していて、人格的に、良心的に、内外すべての面において徹底している。共産党自体があのような人を必要とする」と言うことができ、また、世俗的な人本主義者たちが見るときにも、「ああ、私たちの世界に、あのような人がいたらいい」と言うことができ、今までの既存宗団たちが見る時にも、「ああ! 統一教会の信者は、私たちの宗団を越えた立派な人だ。あのような人が、私たちの宗団の人だったらいいのに」と言うことができ、神様が御覧になれば、「ああ! この人は、私に絶対必要だ」と言うことができる、この4大面において、必要とされる資格を備えた人がいたならば、問題は解決されます。

(162-102, 1987.3.30)



エンターテイメント




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2024年11月1日金曜日

LIVE:第65回_真の子女の日 第37回_天宙統一国開天日 天基15年天暦10月1日 2024年11月1日

 LIVE:第65回_真の子女の日

第37回_天宙統一国開天日

天基15年天暦10月1日 2024年11月1日

65th True Children’s Day 37th Day of Opening of Heaven for The Unified World of Heaven and Earth


訓読


1)父母は子女をどう教育すべきか

 

父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。

天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だという事を教えなければなりません。

ですから、初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは、神様から愛の教育を受けなければなりません。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。

それでは、愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量れる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。

しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。壊れてしまったというのです。

それでは、愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには、愛の教育基準があったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何なのかということが問題です。私たちは天国に行きたいと思っています。しかし、天国に行ってからは、そのような教育は受けることができません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるというのです。その教育とは何なのでしょうか。(51-171,1971.11.21)


天国は、心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。神様が、この地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子、娘をつくるためです。どのような息子、娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露できる息子、娘をつくるためです。(9-293,1960.6.12)


 それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになればどこまでも、いつでもついていかなければなりません。父母が山に登れば山についていき、谷に下りれば谷についていき、洞窟の中に入れば洞窟の中に行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的なお方ですから、絶対的に会いたいと思われるのです。絶対的なお方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「ああ神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」と、これではいけません。絶対的でなければなりません。(51-173,1971.11.21)


もし神様と内外とも一つになった立場にいれば、学ばなくてもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっと博学になるというのです。天地がどのようになっているのか、霊界がどのようになっているのか、人生がどのようになっているのか(分かるのです)。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すというのに、万物の霊長が、学ぶことによって食べ物を探したり、死ぬことや生きることを知るのではありません。接したとたんにさっと分かるようになっています。

そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落のためです。

堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いもので覆われているので、これを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。今まで人々は、そのようにできる道を追求してきました。(56-131,1972.5.14)


2)父母は子女に何を教えるのだろうか

 

真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理の内容がいくら良いといっても、自分の夫に代わることもできず、また自分の妻や息子、娘たちに代わることはできません。

真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは、父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はありません。それでは、真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それは、どのようなことですか。みな同じことです。真理が成立するには、愛と生命がなければできないのです。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。ここでの欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。

ですから、一番の核心は何でしょうか。生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。ですから、核心は父母なのです。(21-183,1968.11.20)


また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが最も偉大で、この世にない相続です。神様を正しく紹介しなければなりません。神様の愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様のように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。(93-336,1977.6.17)


 私たち統一教会員は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まり、男性も女性も愛のために始まり、父母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなく神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(93-191,1977.5.29)


 祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子、娘に「勉強しなさい」と言ったからといって、その息子、娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。

とんでもないことです。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させ得る愛の道理を教えなければなりません。ですから父母が息子、娘を連れて、御飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には、「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。

父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。自分の子女を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を、分別がつけばつくほど知るようになるのです。

自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子女を心配したからといって、その子女たちが良くなるのではありません。

愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていける方向感覚を教えてあげなければなりません。分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だと思っていたのに、掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになります。(139-77,1986.1.26)