2022年 09月 18日
クリスチャン小関
音声video :リンク先
キリスト教家庭に育って
皆さんはじめまして。私は小関と申します。
私はキリスト教の家庭に生まれ育ってきました。
私の両親もキリスト教で、キリスト教の中でもいわゆる、きよめ派、一般的にはホーリネス派とも言われます。
礼拝の形式としては、伴奏はオルガンで讚美をして、聖歌賛美歌を歌い、お祈りをして牧師先生の説教を聞く、そのような礼拝形式の、いわゆる伝統的な雰囲気のキリスト教の教会で育ってきました。
私の両親はクリスチャンで、私の母方は、母、母の父、母の母、母のおばあさん、すなわち私からすると曾祖母もクリスチャンでした。(父方も、父、父の父すなわち祖父もクリスチャンでした。)
戦後間もなくの頃、当時のキリスト教は東京の下町などの街中などで太鼓を叩き、のぼりをたて聖歌を高らかに歌いながら路傍にて伝道活動をする、そんな活発な時期があったんですね。
またホーリネスっていうのは、昭和初期と大正時代にホーリネス・リバイバルというのがあり、その頃は爆発的な聖霊運動ですね、そのような時代があったようでして、
私の母方のおじいさんおばあさんが伝道された時は、大正、昭和初期の聖霊のリバイバルの余波がまだあった時代なのかなと思います。
私は幼い幼稚園の時から、そして小学生 中学生の時代まで、教会において、日曜学校、現在は教会学校とキリスト教では言われているようですが、それに毎週毎週参加しておりました。
そして、日曜学校の先生という方がいらっしゃいまして、先生から聖書の話を漫画の物語のようにしてお話していただき、解説して下さいました。
失楽園の戒め
そのお話しをお聞きして一番心に引っかかったのは、神様が天地を創造されて、アダムとエバを創造し、その時アダムとエバに戒めを与えられて、園の中央に善悪を知る木というものを植えられて、そしてそれを取ってはいけない、食べてはいけないと、そういうふうな戒めを与えられたということなんですね。
神様が麗しいエデンの園の中央に、善悪を知る木というのをまあ食べるによく、見るに美しくつくられ、お話しの中ではリンゴの木の実のように言われてましたけれども、それを取って食べたらきっと死ぬであろうという戒めを 与えられたのです。
それでまだ幼いアダムとエバが結局それを食べてしまい、その事を知った神様から彼らに対し、「あなたは何ということをしたのです」と言われ、その麗しいエデンの園から彼らを追い出されてしまったという話を当時の日曜学校の先生からお伺いしました。
それを聴いた当時の私は「神様はなんて冷酷で意地悪な性質を持っている神様なんだろうか」と、幼い心ながらまだ私は小学生の低学年だったと思いますが、そのように思いました。
しかし私は心の中でそう思ってただけで、それを日曜学校の先生に質問攻めとかにはしなかったんですけども、そういったことが結構心の中に残ってました。
ノアの洪水審判、火の審判と携挙
その後はですね、ノアの時代の話しになりますと、ノアの時代に世が乱れて、そして神様がノアに大きな箱舟を作りなさいと言われ、120年かけてノアはそれを作り上げたのですね。
その箱舟にノアの8人家族が乗り込み、当時の乱れきった地上に洪水が起きて、それで箱舟に乗り込んだノアの8人家族以外の地上の人間はみんな滅ぼし尽くされてしまい、そしてその箱舟がアララテ山の頂上に着いて、神様がノアの家族をこの地上に降ろされた時、神様は契約のしるしとして空に虹を出されたのですね。
その虹が神様がノアに対して示された約束の印となり、 ノアが神様に焼き尽くす生贄を捧げた時に、神様はその香ばしい香りをかがれるとともに、もう二度と地上を水にて滅ぼすことはしないと約束をされたというのです。
ところがそのお話しの直後にその日曜学校の先生が言いました。
「でも神様は終末の時代、ヨハネの黙示録の時代に神様は今度は火を持ってこの地上を滅ぼすと言われてます。」
その事について私は非常に気になっておりました。
結局神様は、人間が素晴らしい文化を築き、当時はまだ高度経済成長とその後に起きたバブル景気の頃の時代でしたが、どんなに素晴らしい建物などを作ってもそれが結局いつか火によって滅ぼされてしまうということ。
それを子供ながらにずっと信じていたわけですね。
確かに聖書のヨハネの黙示録をそのまま読みますと、最後の審判の日に神様は、その御心にかなった生徒だけは空中に引き上げ雲に包まれるような状況のなかで、再臨のイエス様と出会うという聖書の御言葉がありまして、私はそれを信じていました。
ですので私は小学生中学生の当時、聖書のヨハネの黙示録を寝る前などによく読んでました。
そしてそのような再臨の時代に私が滅びに巻き込まれることなく再び来られるイエス様と出会えるようにと、いつもそのような心を抱いていました。
火の審判信仰の時、出会った統一教会
そのような思いを抱きつつ、さらに進学して就職し社会に出て、建築関係のゼネコンの下請けのタイル工事の設計、施工をする会社に就職したのですが、巨大なビルディングや施設などを作るといった、まあそういう仕事に携わっているのですけれど、
いつかこれらの建築物も終末時の審判によって、火によって滅ぼされてしまうという事はもう決まってるのに、
なんでこんな職場で苦労して、いろんな人間関係の苦しみもある中、こんなところでビルを作るような仕事をしなくちゃいけないのかっていう疑問を常に抱いていたのですね。
で、そんなことをずっと考えつつ仕事生活をしているうちにですね、 だんだんと心が塞いできてしまって、それで
もう会社に行くことが嫌になってしまったんですね。
そのような悶々としている日々の中、自宅から職場にいたる途中の乗り換え駅である、東京の下町のターミナル駅において、しばしば統一教会の方のアンケートをしている方によく出会うようになったんですね。
それぞれのかたは別の日にはなりますけれど、五人ぐらいの方と駅のコンコースで立ち話をしたんですね。
お一人あたり、一時間以上、場合によっては二時間以上はお話を交わしたわけですが、
不思議な感覚、キリスト教にいる時には感じられなかったなにか魂の復活のような感覚を感じ、とても心地の良いものを感じたんですよね。
四人目の方にお会いしたあと、その後五人目の方にお会いした際にその方の学んでいるところに行かせてもらえないかと、言ってみようと心に決めたのですね。
それでその5人目の方は私より10歳ぐらい年上の男性だったんですが、その方に出会った際にその学び場に案内して頂きました。
それが統一教会のビデオセンター、まぁ 統一教会がそのビデオセンターを直営してはいない、とは言ってるのですけれど、ここの目的自体はこのセンターから統一教会につなぐための場所でした。
統一教会の教会員になる前段階の自己啓発センターなんですね。その学びに入ってみますと、聖書の内容が次々と解き明かされてきたわけです。
当時は倉原講師とか佐野講師でした。
キリスト神学的疑問が解明
その内容が、私が幼い時よりキリスト教の教会学校で学んでいた時に素直に感じた疑問、
なんで神様はこんな無情なことをされるんだろうか?
といった数々の箇所、自分が疑問に思っていたことがらに対して、直球の回答が示されてるわけです。
それで私はこの内容は、ただ事ではないということを直感したわけです。
ところで私がキリスト教の子供日曜学校の礼拝を受け
てる時に、(大人の礼拝の前に子供の礼拝というのものがありました)戦後間もなくの頃、日本がまだ貧しい時期には日曜学校の礼拝だけでも100人以上の子供が集って礼拝していたという話を聞いていたんですね。
ところが私が子供の礼拝に出ていた頃には子供の礼拝の出席者は20人いないかもしくは10何人しかいないか位のレベルに人が減ってきてたんですね。
でもキリスト教の教えの中においては、聖書で言う最後の審判の日には、この選ばれたキリスト教徒が再臨されたイエス様によって空中に引き上げられて、神の国に入るという内容で、ものすごく偉大で壮大なビジョンが示されているのです、しかし実際にそこの教会に集っている人数などを見ると、だんだんと先細りしていって、とても神の中心的な摂理と言いますか、神の地球に対する働きの中心が本当にここにあるのだろうかと感じられるわけです。
またキリスト教に居ると、あまり他の宗教とかに出向いてはいけない。という話を言われるんですね。
特に仏教系統とかそっちの方とか行かないように、とかですね、あんまり行ってもしょうがないよという感じでした。
しかしながら幼心ながらに、もしかしたらこのキリスト教以外のどこかの場所で、神様の中心計画があってそこで何か大きなことが進んでるんじゃないか?ということを 子供ながらに薄々考えたりしてたんですね。
そして、私が19歳のとき、その下町のターミナル駅でのきっかけでそのビデオセンターの方と出会ったのですが、そのビデオセンターで学んでいる内容がまさにその何か、ではないかと思うようになったわけです。
失楽園、蛇の正体
その学びの内容を述べますと、まずアダムとエバの堕落の原因と結果ということですね。
説明しますと、アダムとエバが成長期間という段階中の長成期完成級の時に蛇に出会いました。
キリスト教の説明においては、エデンの園で蛇が出てきて、エバが蛇にそそのかされて、神様から禁じられていた、善悪を知る木の実をとって食べてしまって、それが人類最初の過ちだったと言われているのですが、
その出来事について統一原理では、蛇がまさしく堕落するときのルーシェル天使であって、そのルーシェル天使が霊人体を持っていて、そしてエバにも肉体と重なるかたちで、霊人体という霊の体を持っていて、 そして霊の体のエバと霊の体の天使ルーシェルが交わることによって、ルーシェルから悪なる性質を受けて、そしてそのエバがアダムと今度は霊肉ともに性関係を持ち、一体となることによってルーシェルの性質を受け継いでしまったという、それまでに思いも知らなかったことを示されたわけですね。
キリスト教会の言う救いと恐怖
またここで、霊についての話もちょっと今出ましたけれども、キリスト教においてはですね、「イエス様を信じることによって、永遠の命に預かることによって、死んだ後にイエス様のもとに天国で共に会うことになる。」
そのような教えは一応言われてるのですけれども、それはあくまでも聖書のみ言葉の中に、そのような言葉がある。
だからそのみ言通りにその言葉を受け入れる。受け入れて信じる。その様な事を根拠として、イエス様を信じる人は死んだ後に天の御国に行くでしょっていうことで信仰を持ってるわけですが、私はそれを聞いただけでは、本当に自分が死んだ後も永遠の御国があって、いつまでも死なない、ということがわからないし受け入れられなかったんですよね。
そのような思いでしたので、仕事においても気持ちも塞いでしまって、とうとう職場にも行く気がなくなってしまったのも、やはりその死の恐怖というものも結構あったと思うんですね。
人間は死んだらどうなるかわからない。もしかしたら肉体だけで終わるかもしれないという思いの中において、その一方、私は父と母にとても愛されていたので、その愛を受けていれば受けるほど、自分の肉体人生が終わった後は、もしかしたらもう何も無くなって、父と母とも永遠にお別れになって、兄弟ともお別れになってですね、何もかも意識も魂もない状態になるっていう事を想像するだけでも非常な恐怖感を覚えてたんですよね 。
それが統一原理によって回答を得ることが出来たんですね。
スウェーデンボルグ言う霊界を理解する
ちょっとアダムとエバの堕落のところから話がちょっと伸びましたが、人間には霊人体があって、その霊人体がもう最初の生まれた時から肉体とともに重なった状態であって、そしていつか肉体が滅びることによって永遠に生きていく…。
そういう風な観念はこの統一原理とスウェーデンボルグの解説ですよね。それを通して私にはっきりと明確に理解できたんですね。
このようなことを前提として理解した上において初めて、アダムとエバの堕落ということが、それは天使を通してこのように人間に事が及んだということが理解できるのですね。
この理解はキリスト教の場所にいるだけでしたら絶対に分からなかったことだということは、もうすごくわかるんですね。
なので私はこの内容を続けて学ぶ必要があると思いました。
自分が幼い時、キリスト教の教会学校で素朴に疑問に思ってたこと、その思い自体も、もしかしたら神様が全部見て見通していて、「お前(私)にいつかその思いに対する回答を示してあげよう」っていうですね、そういう神様の思いが、もしかしたら自分の気づかないところにずっと共にあったのではないかと思いますね。
ノアの洪水審判
また、アダムとエバの物語の後に、ノアの物語がありますね。
先ほども少しノアの物語についてお話ししましたが、
ノアの家庭があの洪水審判を経たのち、ノアがあの
箱舟から出て後にノアが天幕の中で裸になって
ぶどう酒を飲んで寝ていた。
そこにノアの子供の二男、ハムがその様子を見て他の兄弟たちを扇動して服をかけたということに対してですね、その事に気づいたノアは次男ハムに対して激怒するわけですよね。
そしてハムの子孫は呪われよと予言するわけですね。
それでそのハムの子孫がどうやら黒人系統の子孫であるという事は統一原理としてもまた、一般的な歴史家の解釈においてもそのようになっていると思いますが、事実その後の歴史がそのようになったんですね。
この物語についての不思議は、私も子供の時に疑問に思っていたことですが、
私は今現在もキリスト教会にも通っているのですが、
ちょうど先日にそのキリスト教会に通って来ているある、中学生の女の子が牧師先生に、このノアの物語の疑問について質問していて、そのノアの物語の顛末(てんまつ)について、なぜノアはそんなことを行ない、またハムに言ったのでしょうか?と質問しているわけですよ。
それは私も傍目で聞いていたのですが、牧師先生はこのように答えました。
「聖書にはわからないことがいっぱいあるね。神様っていうのは人間の思いを超えた、本当に不思議なことをされるね。共にお祈りしましょう。神様、このお話しについてわかりません。”どうぞ示し教えてください”とね。」
このようにして話が終わってしまうわけですね。
統一原理においては、ノアは神様から命じられた箱舟を120年かけて作ることによって、信仰の基台を立て上げ、神様に対する縦の関係を築きました。
そしてその後は実体基台といってですね、横の関係をしっかりと築かなければならないっていう教えなわけですね。
それで横の関係を築くためにはノアの子孫の次男であるハムと箱舟を作って救ったノアが心情一体という、疑いのない信頼関係を持つということが大切だったという教えなんです。
そして本来はそのノアと心情一体になったハムが、ハムの兄であるセムとですね、今度はノアの家庭の長男セムと心情一体化することによってノアの家庭を中心としてメシアを迎えるための準備基台が造成されるはずだったということなんですね。
ただハムがその時、ノアに対して嘲りの態度、嘲笑の態度を取ったということが神の前に非常に大きな罪だったわけですね。
ですからここで一つの教訓が示されているわけですね。
信仰の権威を立てた自分の教師とか親とか父親を嘲ったり又は貶す、ということは神の前に非常に大きな罪だったり摂理に対して大きな妨害になったりすることもあり得るという事をですね、ノアの家庭を通して統一原理を通して見て取ることができるわけですね。
ですので、このノアの物語につきましても非常に大きな、なんて言うんでしょうかね、解釈の深さの違いっていうのがあり、ノアの物語がまさに今現在を生きる、信仰生活をしている私たち自身にとっても大きな教訓として示されてるわけですね。
この物語は今から何千年も前の話なんですけども、そこも、統一原理を通して気づかされる大きな発見となるのですね。
ヤコブ家庭
その後にヤコブの家庭というのが出てきます。
聖書の話の大きなポイントの物語としてですね。
ヤコブという人物はですね、父のイサクから長子の祝福をですね、それを得なければならないという、ヤコブ自身が神からそういう示しを受けていたのかも知れませんが、ヤコブの母のリベカはエサウとヤコブが産まれる前に母の胎内でこの二人の子が押し合い争った時に、神の前に尋ね祈ったのですね。その時に弟の子孫は兄の子孫に勝っており、兄の子孫は弟の子孫に仕えるであろうという、そういう啓示は受けていたのですね。
神の計画から見てヤコブがその兄のエサウから長子の特権と祝福をもらわなければならないという、そのような神の御心があったということは、これは統一原理を通してはっきりと分かることではあるのですが、
一般的な クリスチャンから見るとですね、「ヤコブという人物は自分の栄光のために、兄のエサウから長子の嗣業を無理やり騙してでも奪い取って、そしてあの荒野に逃げた、非常に卑怯な人間、ずる賢い人間であったのだけれども、そのようなずる賢いようなヤコブというような人物でも神様は赦し憐れんで救いの手を伸ばしてくださるとても心の広い神様なんだ」というですね、そういう解釈がキリスト教なわけですね。
ところが統一原理を通して、ヤコブという人物には神の計画があり、その母リベカの助けを通してエサウから長子の嗣業を受け取って、その後イサクの家庭から離れて約20年のあいだ、伯父のラバン元で仕えて条件的な期間を経過した後にエサウを自然屈服させるという、そういう風な神の計画があったっていうことなんですね。
それはあのアダムの家庭において、弟アベルが兄カインを 屈服させるという、そのパターンを繰り返しているわけですね。
アダムの家庭においては、弟アベルと兄カインが神様の前に供え物をした際に、アベルの供え物は神が受け取ったけども、カインの供え物は神は受け取られなかった。
そしてカインはそのことによって腹を立てて、アベルを殺害してしまったという失敗があったので、それをヤコブの家庭において、神はもう一度、あの同じシチュエーションを作ってですね、そしてエサウを愛で自然屈服させるという風な、そのような計画を神様は繰り返しておられたというわけですね。
この様な事実を歴史的同時性というのですけどね。
神様がそのようなことをされていたということは、これは統一原理によって初めてちゃんと解釈されていることなんですよ。
それが 理解できるできるとまさにこれまた、今の時代に生きる自らにも当てはめることができるわけですね。
この様な弟ヤコブが兄エサウを自然屈服させるっていうような事は、 自分の兄弟関係とか職場の関係とかでも 似たような場面はしばしば起きてくるわけですよね。
例えば自分の会社の課長は人格的にも、ちょっと私よりも怪しいしちょっと無謀なところがあったりする。
ただし 数字だけは 営業成績だけは大きく上げる。
そういう風な上司がいたとして、例えばその上司を陰で避難したり、こき下ろしたりして、それで自らの上司について、陰で悪口を言い、その悪口を言い広めて、あることないことの噂を立ててですね、それで気に入らない自分の上司を引き下ろして自分がその上司の座にとって代わって立っ たとしたら、
それは神様がそれを喜ばれて未来永劫に導かれるかっていうと、そうではないでしょって私は思いますね。
世の中にはこの様なことがもしかしたらあるかもしれません。けれどもそれは原理が言ってるように、アベルの立場にいるもの、それはヤコブ家庭においては弟のヤコブになりますよね。
ヤコブのように、影でその神の前に執り成しをし条件を立てたりし、そして最後に兄エサウの前に、
この世で得た収穫も全てあなたにあげますよ、ということでですね。あのように地にひれ伏して。それを見てエサウがですね、感動して自然屈服する。そのようなことが未来永劫に神が責任を持ってその子孫を発展させるための態度ではないかというのですね。
ですからヤコブというのは、そういうふうな神の願われる
姿勢を兄に対して行うことができたから、多くの神の祝福を得ました。イスラエルという、今現在でもイスラエル民族、またイスラエルという国がありますけども、ヤコブがアブラハムと並び、まさにその信仰の父ですね。信仰の父という立場で、あのイスラエル民族はヤコブの信仰の子孫という立場で今も世界に存続しているということになってるわけですね。
これは単に、ずる賢いヤコブをただ憐れまれたという神の物語があったのではなくて、そこには深い神のカイン、アベルの摂理というものがヤコブの家庭にも働いていて、 ヤコブは知らず知らずそのような神の計画に沿って動いてたってことが統一原理によって明かされてるわけです。
ー つづく ー