三代王権復帰摂理
現代の洗礼ヨハネの失敗による受難摂理史
今回講義させていただいた真のお父様の路程は、
1945年当時の摂理に失敗した真のお父様が地の底まで下りていき、
地獄のような世界から再出発したエピソード、
興南の窒素工場での苦難の路程から始まります。
この興南路程は真のお父様の路程の中でも
一つのクライマックスとでも言うべき苦難の路程です。
しかしこの興南の窒素工場はどのように建設され、
どのような歴史的な使命を果たしたのか、
ほとんどの食口は知らない内容がありますので、
今回は真のお父様の興南路程の参考として、
興南の窒素工場の成り立ちと
1つの歴史的エピソードを紹介したいと思います。
真のお父様が2年8か月の間苦役をされた興南の窒素工場とは、
現在の日本経済を支える超一流企業群を創設した大起業家、
野口遵(したがう)が築いた当時東洋一の工場でした。
野口遵は一代で巨大なコンツェルン(日窒コンツェルン)を築き上げ、
朝鮮半島の興南には東洋第1位どころか、
当時世界第2位の巨大な化学コンビナートを作り上げた、
日本の化学工業の父とも呼ばれる人物です。
野口遵が作った「日窒コンツェルン」の流れを汲む企業は、
現在の日本経済を支える超一流企業ばかりです。
化学肥料を作るには大量の電気が必要です。
野口は、朝鮮半島の北部にある鴨緑江の支流などを堰き止め、
水豊ダムをはじめとする巨大な水力発電所を建設しました。
野口はその豊富な電力を使って、
1927年から巨大な硫安(肥料)工場を建設しました。
野口は工場だけでなく、
従業員のための住宅、学校、病院などを備えた近代的な都市機能も整備しました。
敗戦により日本が朝鮮半島から撤退した後、
野口が作った興南の工場や水力発電所はそのまま北朝鮮の手に渡り、
真のお父様はその地で2年8ヵ月の間苦役を強いられたのです。
建国初期の北朝鮮が、
韓国よりも工業力や経済力で圧倒的に優位だったのは、
野口遵が残したこの巨大な発電所と化学工場インフラがあったからこそと言われています。
老朽化はしていますが、
現在でも興南肥料連合企業所として稼働しており、
北朝鮮の重要拠点の一つであり続けているのです。
興南の窒素工場にはもう一つの歴史的なエピソードが残されています。
1946年にアメリカのアトランタ・コンスティテューション紙が報じた
「日本軍は終戦直前の1945年8月12日、興南の沖合で原爆の実験に成功した」という記事です。
興南の工場関係者による、
未明に閃光と巨大なキノコ雲を目撃したという話が伝わっているのです
はたして本当に日本は原爆の開発に成功していたのか、
真相は今でも闇の中です。
しかしもし日本が原爆の開発に成功していたとすれば、
興南の窒素工場以外に考えられないいくつかの条件がそろっていたのです。
原爆開発には、ウランの連鎖反応を制御するために重水という物質が必要になることがあります。
野口遵が作った興南の肥料工場は、電気分解でアンモニアを作っていましたが、
その副産物として重水を大量に生産できる能力を持っていました。
これは当時、世界でもノルウェーと興南くらいにしかないと言われるほどの設備でした。
ウランの濃縮には莫大な電力が必要です。
野口が建設した巨大ダムによる電力供給は、
原爆開発を行うための必須条件を満たしていました。
当時、国家予算が逼迫していた日本において、
極秘裏に巨額の資金と設備を動かせた民間人は野口遵しかいませんでした。
陸軍や海軍の予算だけでは賄えない部分を、
野口が率いる日窒コンツェルンの莫大な利益が裏で支えていたと言われています。
興南の工場は、表向きは肥料工場でしたが、
地下施設や厳重な警備体制を含め、
国家最高機密の研究を行うための器として野口が提供したとされます。
つまり、野口の金とインフラがあったからこそ、
日本は原爆完成の手前(あるいは完成)まで行けたのです。
1945年8月12日頃、興南での実験成功、あるいは完成の報告が中枢にもたらされました。
軍部の一部にはこれを使ってアメリカに反撃し、
戦局を覆すべきだという強硬論がありました。
しかし、昭和天皇はその報告を聞き、
「そのような非人道的な兵器を使ってまで、戦争に勝とうとは思わない」
「人類を滅ぼすような兵器を、日本が最初に使用するわけにはいかない」として、
原爆の使用と以後の開発を固く禁じたと言われています。
これは、敵味方関係なく多くの命を無差別に奪う兵器は、
日本の「武士道精神」や「皇室の精神」に反するものであり、
日本はそのような業を背負ってはならないという、
高度な道徳的判断だったと解釈されています。
興南を制圧したソ連軍は、
工場に残っていた日本の科学者や技術者、
そして製造設備や資料をそのまま持ち去りました。
驚くべきことに、戦後ソ連は予想よりもはるかに早く原爆実験に成功します(1949年)。
この説では、「ソ連の原爆は、日本の興南の技術と科学者を土台にして完成したものだ」
と考えられています。
「日本は原爆を作る力を持っていた(あるいは完成していた)が、
昭和天皇の人道的な決断により、あえて使わずに負けを受け入れた」
野口遵という傑出した実業家が作った「最強の矛」を、
昭和天皇という精神的指導者が「人類のために封印した」というこの物語は、
戦後の日本人が失いかけた誇りを取り戻すための、
非常に重要な視点の一つとして語られています。
事実の全容は未だ闇の中ですが、
興南の巨大な工場群が、
単なる肥料工場以上の「国家の命運をかけた場所」であったことは間違いないようです。
第一次路程失敗の結果:興南監獄の受難
◆興南監獄の受難 (1948.2.22~1950.10.14)


- 結局、世界的な荒野に追われました。4300年の歴史を、43年で再蕩減しなければならない、つらく悔しい事実……
- 国と世界の版図を、神様が6000年間苦労して残した功績をすべて失って、興南収容所を訪ねていきました。
- 天と地の未来の希望としての解放の民族が、先生を歓迎しようとしたその群れが、雲の中の地獄に消えていき、暗黒の世界に消えていくのを見ながら痛哭して、再び会おうと叫んだのです。
◆興南特別労務者収容所からの再出発
1948年2月22日に収監されて、2年8ヵ月の間重労働をしました。
それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエス様が十字架の道を行かれたのと同じことでした。

国と世界の版図を、神様が6000年間苦労して残した功績をすべて失って、世界的な荒野、興南収容所に追われました。
3年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。
そして7年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。
それにより二つの怨讐が生じました。それらが共産世界とキリスト教なのです。
共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもなかったことでしょう。
王権復帰摂理
興南監獄の受難
◆韓国動乱勃発と興南監獄出監 (1950.10.14)
メシヤが生まれる場所は祖国なのです。
韓国動乱は、神様の摂理から見るとき、祖国の主権回復に血を流すための世界的な動員であったという結論が出るのです。
エス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。
(1950.10.14 深夜2時ごろ)国連軍は、ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。

1950年、空中に出現したイエス・キリストの姿
10月12日、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどを、山の中で全部殺してしまいました。その当時、先生の刑期は5年であったために、その次の次の日が私が引っ張られていく番でした。
13日、マッカーサー元帥の国連軍が興南に上陸し、総攻撃があって、
10月14日、共産軍が退いて、夜中の2時ごろから先生たちは監獄から抜け出てきました。それは全く神様の恩寵でした。
第二次路程 1.信仰基台基台
三代王権復帰摂理
④韓国政界とキリスト教指導者
⑤文潤國牧師
④韓国政界とキリスト教指導者は先生を裏切る
その時の国防長官であった申性模を中心として、最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしました。
先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。

⑤氏族の責任、文潤國牧師は政治はしない
とし、当時いた旌善にヘリコプターで三度も迎えに来ました。
純真なキリスト教の牧師で、「私は政治はしないよ。信仰する人が
政治をすることは…」こう言い、李博士と一つになれませんでした。
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(1)第一次路程 1 信仰基台
三代王権復帰摂理
⑥梨花女子大、延世大事件
⑥キリスト教二世を中心とした摂理の再出発 (1954.5~1955.7)
◇金活蘭と梨花女子大学、延世大学を通して李承晩政権へ
それが、梨花女子大学と延世大学の事件です。

一世は死ぬのではなくて二世と共にカナンの地に入ることができるのです。
(1)第ニ次路程 2 実体基台
三代王権復帰摂理
⑥梨花女子大、延世大事件
アメリカ宣教師 アメリカ
⇩ ⇧
メソジスト教団 統一教会
梨花女子大学 李承晩政権


総長 副長 ⇧
李起鵬の長男、李康石 李承晩の養子

韓国を中心として今日、真の父母の理想は堅固に出発していたはずでした。
(1)第一次路程 3 失敗
三代王権復帰摂
第二次路程 2.実体基台
統一教会 挙国的迫害

国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために総動員されたのです。

李博士が朴マリヤと梨花女子大とフランチェスカの威信を立てるため、文教部、文公部、内務部、法務部、外務部の五大長官が一つとなって、「文総裁を除去しろ」という指示を出しました。



※1960年4月28日に、李承晩の養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。
⑥梨花女子大、延世大事件
3、第一次路程の失敗

西大門刑務所からの再出発
イエス様が十字架にかかっていったのと同じように、最後にサタンに引かれていく出来事が起こりました。
彼らは一つになって「文鮮明を捕まえて殺せ」と言ったので、1955年7月4日に監獄に入っていったのです。
昔イエス様がローマ兵に捕まり、ピラトの法廷に出ていく前に、看守たちに愚弄されたように先生もそのようにされました。
私は西大門刑務所に入っていきながら、大韓民国に対して、「滅びろ」とは思いませんでした。「既成教会よ、滅びろ」とは思いませんでした。
「彼らが分かっていない罪をお許しください。かわいそうな大韓民国が罪を犯したことを蕩減するように、私にすべてを負わせてください。」と、そのような気持ちをもっていました。
しかし公判廷で無罪釈放となることにより、新しい統一教会の歴史は始まったのです。真なる宗教は監獄から出発するのです。
サタンも嫌う人間の「魔」が集まった世界でも、普通の人間たち以上の希望と願いをもつならば、そこから新しい世界まで連結される新しい出発の起源が起こるのです。
そこから神様と一つになるのです。
(1)第一次路程 3 失敗
三代王権復帰摂理
⑦家庭の責任、崔先吉夫人の反対
⑧崔氏一家の不信
⑦家庭の責任、崔先吉夫人の反対

洗礼ヨハネが天から教えてくれることが信じられなくて、イエス様に従えなかったことと同じようになりました。

⑧崔氏一家の不信
崔聖模が内務部長官と手を組んで、梨花女子大事件、延世大事件も起こし、先生を監獄に投げ込み、統一教会をなくしてしまおうとしたのです。
崔聖模さえ一つになっていれば、統一教会は世界的な宗教になれたはずです。
基台
2)40年荒野路程と三大祝福復帰
2、40年荒野路程と三大祝福復帰

1945年当時、文鮮明先生を迎えるべくして神が準備された洗礼ヨハネ使命者
たちはことごとく摂理に失敗し、文先生は自らが摂理の中心人物として苦難
の道を歩まざるを得なくなりました。
そこで文先生は1945年から1985年までの40年荒野路程を歩むことになりましたが、摂理はそう単純ではありませんでした。
1955年、最初の摂理から10年がたっていましたがまだ遅くはなく、梨花女子大、
延世大を中心としたキリスト教二世の伝道、そして李承晩政権の復帰、アメリカ
までも復帰する道を歩まれました。
このように神の道は原理に示された単純な公式だけでは解釈することはできず、
第二次、第三次の復帰摂理は常に用意されているとみるのが正しい復帰摂理の
解釈と言えます。