「人生の目的」ID論(インテリジェント・デザイン)と神の王国
2016年6月26日 文亨進様 英語礼拝
今回はTimothy Kellerの講演を中心とした説教です。
2016年6月26日 翻訳by oceanus
今日はファミリー・キャンプの初日です。ビデオを見ようと思っていますが、まずその前にはっきりと言っておきたいことがあります。
たとえ公に話すことがはばかられることでも、あらかじめ話しておくことでサタンの攻撃から免れることができます。だから早いうちに話しておきます。
特に若者にとって私は霊的な父の立場にたっています。ですから自分の実の息子、娘に語るように皆さんにも話すのです。現実を話します。綺麗事を語って現実を隠そうとは思いません。
過去に行われたこういうキャンプにおいて、それがキリスト教徒のものであれ、他の宗教のものであれ、また家庭連合のものであったとしても、必ずと言っていいほど男女問題が浮上するのです。知らないふりをしても現実には起こっています。キャンプの最中に異性を漁(あさ)るということが起きているのです。だから男の子は誘いをかけてくる女性に気をつけなさい。また女の子は誘惑して思いを遂げようとする男性に気をつけなさい。
率直に現実を直視しなければなりません。善の側にいて良さそうな人に見えたとしても人は完璧ではないということです。知らない人が来て一緒に行こうといっても決してついて行ってはなりません。これが基本です。
たとえサンクチュアリのみんなが集まっているキャンプだからといってハプニングが起きない保証などどこにもないのです。このような現実を踏まえておいて下さい。また今回の開催地は公共の、国立のキャンプ地です。他のグループも大勢いるのです。お酒を飲む場所やパーティをしている場所もあるでしょう。ひものようなビキニを着て走り回っているかもしれません。だからくれぐれも注意を払って自分で警戒して下さい。常に用心しておかなければなりません。「ここはエデンの園だ~。ここにいる人たちは皆信用できる~」などと能天気に調子に乗ってはいけません。誰でもが入ることのできる公共施設です。十分警戒しなければなりません。変態がトイレで盗撮しているかもしれません。くれぐれも気をつけて下さい。
ある場所で何か不審なものを感じたら、第六感に耳を傾けなさい。私も2・3人で見回りますし、兄さんと一緒に行くこともあるでしょう。くれぐれも正気を失わないようにして下さい。
最初にこのような話をせずにいきなりキャンプ地にでかけるとどうなるでしょう。色々、風変わりな出来事に出会ううちにサタンに惑わされてしまいます。だからあらかじめ話しておくのです。全員が注意して心掛け、責任ある成熟した人間としてお互いを助け合うのです。十分な注意を払ってください。
誰でも使える国立公園ですから、いろんなかたちの誘惑があるでしょう。他から来た子供たちも色々と働きかけてくることでしょう。私有地ではないのです。全員が気をつけなければなりません。
私は可愛いウサギを飼っています。その内の一匹が八匹の赤ちゃんを産みましたが全部死んでしまいました。母親ウサギが食べてしまったのです。これは赤ちゃんウサギの扱いを私たちが誤ったせいです。私たちの5%です。
ともかくそのウサギは本当に可愛らしいウサギでしたが或る夜、外に出て行ったらしく、朝4時ごろ何か叫び声を聞きました。一体何の騒ぎだろうと思って外に出てみると、そのウサギの首がちぎれていたのです。キツネが来てウサギを襲ったのです。
私の妻は韓国語で可愛らしいアニメーションを作っています。そこではウサギとキツネが一緒にピクニックに出かけたり、ウサギがキツネにコーヒーを振る舞ったり、赤白チェック柄のマットの上で一緒に星空を見上げている場面があります。自然界ではそんなことをしていると五分以内にキツネはウサギを食べてしまうでしょう。それが現実世界です。お花畑の世界ではなく現実世界に生きて下さい。
キャンプでクロクマさんと遊ぶことなど無理なことです。どうしてもそうしたいというなら勝手にすればいいのですが、警告はしておきます。自然界にはファンタジーの中にはない現実的な法則があります。ですからリアリズムをもって警戒して下さい。キャンプ地には野生動物だけではなく、二本足で歩く危険な動物もいるのです。
ですから青年の皆さん、しっかり意識して自分を守ってください。それが神様の宮としての責任です。誰かが襲い掛かってきたら大声を出して命懸けで戦ってその場から逃げ出しなさい。成すべきことをするのです。相手の眼球を突くなど、できる限りのことをして自分を守りなさい。それが皆さんの権利であるとともに皆さんの義務です。しっかりと意識していれば悪いことは起こらないでしょう。それを願っています。楽しむことは結構ですがガードをおろしてはならないということです。
ここでビデオをお見せしたいと思います。キリスト教弁証学について語るとき、いつもこのビデオを最初に見せます。これは恰好の入門編です。弁証学にもレベルがあります。その最も基本的なものは「神は存在するのか」という問題です。この部屋にいる人の大半はもはやこういう疑問を抱かないでしょう。しかし多くの人がこの問題で悩んでいることも事実です。とくに若い人の95%以上はこの問題で悩んでいるといっていいでしょう。その中に入っていない人は恵まれた人です。
「神の存在」が分からない理由には様々な原因が考えられますが、一般社会、メディア、インターネットなどに囲まれて生活していることの影響が大きいでしょう。神様を疑うような環境です。神様の存在が分からなければ、イエスも、真のお父様も、アダム、エバもすべて意味のないものになってしまいます。明日は弁証学そのものを勉強し、神様の存在について様々弁証していきます。また無神論からのそれらに対する質の高い反論も見ていくことにします。その前に今日は、ティモシー・ケラー牧師のビデオを見ます。私も彼の著書を通して多くのことを学びました。
私が学んだ東洋の宗教、とくに仏教では神の存在や超越した創造主などの概念を必要としません。最終的に神様は存在するのかどうかという問いにそれらの宗教は答えを与えてはくれない、それが私にとってもどかしいことでした。哲学など学ぶうちに、ネット上でおそらくは現在で最も優れた思想家、大学教授である弁証家のウィリアム・クレイグ氏の討論を見つけました。クレイグ氏は世界中のトップクラスの無神論者と議論を戦わせてきました。オックスフォード大学では(著名な無神論生物学者の)リチャード・ド―キンスと討論していますし他にも数多くの討論を重ねています。
それらの討論を見ていくうちに無神論者は神を信じることは非科学的で時代遅れだとよく言いいますが、神様を信じるということは彼らの言うほど「単純」なことではないということに気付きました。いまやそれらの言説はことごとく反論されています。今日はそこには立ち入りませんが、このクレイグ氏やプラティンガー博士、そしてケラー牧師は討論という平和なやり方で無神論者と最前線で戦っているのです。無神論者に対して、自信があるなら私たちと議論してみなさいと常に門戸を開いて挑戦しています。
討論は多くの聴衆を前にして行われます。聴衆はその討論を聞いて自分の見方を決めていきます。討論は理論的、学術的にも非常にレベルの高い内容です。そういう世界に私はひどく興奮しました。神の存在を議論する中で人間の世界観や人生観が形成していくような大きなインパクトを人に与えることが分かったのです。
今から視聴するティモシー・ケラー牧師のビデオは弁証学の入門としていつも私が見せるものです。ここで神様の存在を前提とする世界観をいくつかケラー牧師は提示しています。今日はそのさわりだけをお見せします。また明日詳しいビデオをお見せすることになるでしょう。
このビデオも神様が存在するか否か、真剣に考えている人に有益な論議を提供することでしょう。自分は不可知論者だし神様はいないのでは…という人も自分の考えが論理的であるかどうか検証するきっかけとなるでしょう。ともかく有神論者の議論を真剣に聞いたことがあるのかというのです。
ケラー牧師は人が自分の世界観を決める際、三つのものを基準とするといいます。
その一つはその内容が十分知的であるか、合理的な根拠に基づいているかということ。
二つ目は個人的理由です。知的な理由とは別にあくまでも個人的な体験にもとづいて神様を信じるというものです。無神論者もある個人的体験があって無神論者になるということもあるでしょう。子供の頃ある教会に腹を立てたとか、ある牧師がどうしたこうしたというようなものです。
そして三番目は社会学的理由にもとづくものです。自分が所属したいと思うグループのもつ世界観には極めて同調しやすいものです。親元を離れて大学に進学し、都会に出てきた。都会の連中は神様なんて信じない。ここの皆と楽しくやろう。こういう調子です。
こうして新しいグループに入るとき、その社会は以前所属したものとは全く違った考えを持っているかも知れません。そこで自分の考え方がまた新たに形成されるかもしれないというのです。そのグループに適応したいがゆえに社会文化的に世界観が変えられるのです。
それが無神論であれ有神論であれ世界観を獲得するには、以上述べたような合理的根拠、個人的体験、社会的要因の三つのきっかけがあるというのです。これをあらかじめ知っておくことが重要です。
「宗教を信じる人は周りの影響や圧力を受けてそんなものを信じるのであって、われわれ無神論者はもっと自由な人間で周りから影響など受けない」
このような発言はまったく馬鹿げています。無神論を選ぶ人は大抵大学教育や大学生活という社会文化的影響という要因が極めて強いのです。
宗教を信じる人は個人的体験や社会文化的影響が大きい一方で無神論者は知的で合理的根拠にもとづく-という意見は合理的ではなく社会的にも個人レベルでも不誠実な物言いです。その主張は欺瞞(ぎまん)です。
いかなる世界観、「思考の枠組み」も必ずこれらの三つの根拠に応じて獲得されるほかありません。以上のことを頭に入れてこれからビデオを視聴しましょう。
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このビデオとは別にグーグル・トークである人の説教を見たことがあります。年齢は60才くらいの人でしょうか。とても教養のある方で読書量も半端ではないようでした。美術や演劇、とくにシェークスピアに通じていました。そしてその考え方は素晴らしいものでした。
その著書を紹介するためグーグル本社(カリフォルニア)に呼ばれたようでした。そこで今見たビデオのような内容を語っていたのですが、一つとても面白いことを語っていました。
「神が降臨したなどというキリスト教をどうして信じることができるのかと無神論者はよくいうが、問題はキリスト教でも、なにか形而上学的原則を受け入れることや法に従うことではなく、創造主に対する愛、創造主を愛せるかということこそが問題なのだ。」
そしてシェークスピアとハムレットを例に挙げて説明を続けます。
シェークスピアは作者でありハムレットは作られた登場人物です。
「シェークスピアなんて知らない。シェークスピアが存在する証拠を私に見せてくれ」
とハムレットが言ったとします。シェークスピアはハムレットに自分の存在を知らせるために物語の中にシェークスピア自身を練りこむように書き込まなければなりません。そうして登場人物のハムレットと会話できるようにしているのです。だからハムレットは世界のどこを探してもシェークスピアの存在する証拠を見つけ出すことはできません。世界の中に書き込まれたシェークスピアを見出さなければならないのです。こういうように無神論者に語っていたのですが、グーグル・トークの対話の中でも無神論の立場の人はこう言うことを言っていました。
「なにか神が存在する証拠をみせてくれ。たとえば宇宙にある星雲の上にヘブライ語で十戒が書かれていれば信じるけどね。」
しかしこのような発言はハムレットが世界を見回して彼を創造したシェークスピアの存在の証を求めるようなものだと彼は言います。シェークスピアの証は作品の中に書き込まれているというのです。
そこでまた彼は20世紀の女流作家の例をあげます。イギリスの有名な推理小説作家(アガサ・クリスティか)でBBCでもよくドラマ化されたものが放映されていました。この作家の有名なシリーズの中で主人公の探偵はある女性と出会います。その女性は彼が属する世界であるその物語の作者だったのです。主人公はその女性(原作者)と恋に落ち、幸せに暮らすというものです。
これこそキリスト教の姿だといいます。この世界から創造主の存在する証拠を見つけるのではなく、世界の中に入りこんでいる創造主を見出して交流するのです。それが私たちの人生の目的です。
世界のサンクチュアリ人はイエス様、キリストとの関係性の価値を理解していることと思います。それは再臨のイエスとも直接かかわる話です。私たちの設計者、創造者と関わる話です。この世界の中に描きこまれた創造主と現実に関わることができるという話です。神の存在で悩む人にはこの話は大きな飛躍があるかも知れませんが、明日、夜9時からまた講義します。関心ある人は参加して下さい。より深く掘り下げて考えていくでしょう。
神様の存在する証拠についても考えます。五大問題の他、無神論側からの高度な批判についても見ていきます。友達や大学の同級生のレベルではありません。それらは極めて初歩的で素朴な無神論に過ぎません。いわば微生物レベルの無神論だというのです。ここでは明日、世界でも有数の強力な無神論を検討します。是非参加して下さい。
この内容を深く考えることで神様についての考え、感じ方、また道徳、倫理、政治などについての見方が変わるかも知れません。世界とのかかわり方までかわるでしょう。私の考えだけではなく様々な資料を見ながら考えていきます。
神の存在についての理解が進まない限り、聖書について語ることもできません。神の存在、神が人となった存在を疑い始めると、神の言葉であるという聖書も問を題が生じます。この世には自分こそ「み言葉」を持っていると主張する人が大勢いるのですから。それに現代の若者は洗脳され、相対主義的な考え方に侵されているというのです。
まずは神の存在について検証しなければなりません。有神論的考えに合理性はあるのか。有神論的世界観は論理的なのか。科学の検証に耐えうるのか。現代と有神論、等々検討することが最初の段階です。
神様の存在が確信できれば次は聖書です。聖書は神の言葉を記したものか。それともそう言われているだけのものなのか、これを検証します。そうして原理の内容を人に教えることができるようになります。
しかしまずは、神様への信仰、聖書が神様のみ言であるという確信、これらが基礎になります。
今私が述べたことからどうして多くの子供たちが無神論を始めとしてフリーセックス文化、大衆文化、相対主義に陥るのか、その理由がわかります。
この間お見せした進化論のビデオの中に登場した大学教授の内ただの一人もダーウィン進化論、つまり巨視的進化についての一つの証拠もあげることができませんでした。一流大学で教えられている内容が科学ではなく「宗教」だということが明らかになりました。
あのビデオを見た人の中には「なんていうビデオだ。ずるくて卑怯だ。そういう(キリスト教徒の)世界観はわれわれにはそぐわない。ヘイトスピーチだ。取り締まるべきだ!」と嘆いている人がいました。こういう人を愚か者と呼びます。文字通りそういう反応をする人もいるのです。そこで彼らの既存の認識が動揺させられるからです。大学の先生でも答えられない。私たちの考えがまるで愚か者のそれのようだ-という訳です。
「一つの意見にすぎないでしょう」こういう人もいます。しかし論理的に理論の弱点が明らかされた、弱点を明かしたということはそれはただの意見ではなく真実だということです。
「おまえは神なんて信じているのか。一体どうしたんだ」などという若者。ひとたび弁証学をマスターすれば他の若者をぐうの根もでないほどやり込めることができるでしょう。結局そういう彼らが何も考えていないことを白日の下にさらすことになるのです。そういう意味で弁証学は重要です。それはただ「親が信仰していたから」「教会で言っていたから」ということとは違います。神様を信じる明らかな根拠を与え、信仰を守ってくれるのです。
ビデオで見たようにダーウィンの進化論を信奉する学生も「教授が正しいといっているから」「生物学会でいっているから」と、それくらいの根拠しか持っていません。
これから先も継続してこの弁証学の問題を深く掘り下げて学んでいくつもりです。私たちは必ずしも聖書の権威や神の存在を当たり前のように受け入れる環境を与えられていません。ですから子供たちにいきなり原理を教えるとき、「アダム、エバ、エデンの園?ヤコブとエソウ?ピンとこないな…」「わたしに何の関係があるの?」こうなるのがおちです。
神様が心のうちにない神様が明確にわからないところにアダムやエバ、ノア、モーセ、イエス、再臨主の話をしたところで何の意味があるでしょう。モーセ、イエスなどの摂理的人物の話やメシアの概念などを伝える前の段階、基礎が必要だといういうのです。
今回のファミリー・キャンプで詳しく学びます。もちろんこの問題は将来にわたって取り上げていくものですが、今回が弁証学の世界を理解する最初の試みだということです。神様を信仰する根拠を与え、信仰を防御することは重要な問題です。聖書にも「信仰を守り、健全な言葉を語りなさい」とあります。
私たちが信仰する理由を知り、他の人にそれを伝える能力を持つことは非常に重要なことです。そのような能力を身に付けていくならすべてのつじつまが合うようになっています。
聖書が理にかなっており、神様が理にかなった存在となるのです。真のお父様も「理に適う」という言葉を用いられました。
しかしこれらすべての前に答えるべき問題があります。「人生は無意味であるのか」。
「自由に生きることがすべてだ」といって思いのままに自分のルール、自分の生き方を決めて生きるとき論理的に人は必ず「無意味な人生」に逢着(ほうちゃく)せざるを得ません。
神様も人生の目的も存在せず人がただ原子の偶然の集合体であるとするならば、またそれらが構成する大きな宇宙自体も終わりを迎えるとするならば、宇宙的時間から見て一瞬に過ぎない人間の人生にどんな意味があるというのでしょうか。ただアリのように忙しく動き回るだけの人間に何の価値があるというのでしょうか。
実はこの問題は深刻な深刻な問題です。この問題を避けて逃げ回ったとしても最後には惨めになるだけです。幸福も喜びも見出すことができません。その場限りの一時の楽しみを追いかけてばかりいると人生の目的を見失ってしまいます。
しかしいつかこの問題に向き合うときが来ます。この瞬間か、死の間際かそれはわかりません。常識のある人ならこの問題に向き合おうとするでしょう。勇敢な人はそうするはずです。
すべての勇敢な人々は明日の講義に参加して下さい。質疑応答も討論も行います。無神論者のレベルの高い批判やそれに対する有神論側からの回答も検討します。これらの人々は世間の人とは比較にならないほど深くこの問題について日々思索しているのです。
世間の若者の無神論はほとんど「脳死」人間のたわごとに過ぎません。無神論者のまともな著作は1982年以降一冊も出されていません。すべて駄作です。哲学書としては完全に失敗作です。それでも無知な若者は同じレトリックを使っているのです。彼らは自分たちの議論のレベルの低さを自覚していません。
ここで取り上げる議論はかなりレベルが高い議論です。しかし集中して聞くなら「信仰とは世間でいうほど無知で愚かなものではないのだなあ」と確信することでしょう。
エクアドルリーダー任命の油塗りの儀式がありました。
下の写真をクリックしてその場面を御覧下さい。
https://youtu.be/uY6ddUGtUZU?t=7854
これで世界34カ国にサンクチュアリの教会が立ちました。
129の教会ですか。
日本の46箇所は日本サンクチュアリの拠点の事でしょうか。
熊本安永、Cyber、こころはこの中には入ってなさそうですね。
このパワーポイントを作った人の意識の中には無いのでしょう。
私もこの一年半頑張った使命終わったと思っていたところ6月26日日曜、アボジが突然来られ小さくてもやり続けなさいと叱咤激励をうけたのでやるしかないようです。