2026年9月1日火曜日

トマス主義キリスト教の問題 ◆2026年8月16日台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<2> 文亨進二代王 監修:fanclub三原

 トマス主義キリスト教の問題

2026年8月16日台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<2>

文亨進二代王

監修:fanclub三原

文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 일요예배 08 16 

翻訳minion


正教会の敬拝精誠

これを見てください。これは何ですか?だから、韓国のキリスト教、日本のキリスト教、それから西洋、アメリカも同じ。私たちも、アメリカ人達も、アメリカのキリスト教も、こういうキリスト教を全く見ません。これは正教会のキリスト教、最も古いキリスト教です。


しかし見てください。彼らが、この一般的なキリスト教、ペンテコステ画なんですか?長老教、プロテスタント、とにかくペンテコステなどなど、このような派に入ったら、このような敬拝の精誠が全く見えない。

そうですか?そうではないですか?もの凄く東洋的です。敬拝することは。そうでしょう?実は聖書にもたくさん出てきますが。


しかし、古代のキリスト教を見たら敬拝の精誠、この修道士たちが聖堂で一日に7回、敬拝の誠意を捧げています。敬拝の訓練。そうですね?


だから、韓国のキリスト教もアメリカからきたキリスト教に従っているではないですか。

あるいはカトリック。カトリックとアメリカからきたキリスト教が同じ、・・・つまりキリスト教神学において、私たちがどのように見るかといえば、これは西洋キリスト教と言います。西洋キリスト教。そうですね?


西洋キリスト教はトマス・アクィナスの哲学


西洋キリスト教とは何か?カトリックとプロテスタント。プロテスタントのすべての派。プロテスタントのすべての派は、カトリックの哲学から出ています。


特に最も有名な哲学者は誰ですか?カトリックではトマス・アクィナス。アウグスティヌスですね?

しかし、アウグスティヌスよりもっと有名なのはトマス・アクィナス

英語ではこれをトミスティック神学と言います。トミスティック神学(トマス主義)、トミスティック哲学。そうですね。だから、カトリックとプロテスタントは、トマス・アクィナス神学から出ています。OK?


正教会は違います。正教会ははるかに全く異なる哲学を持っています。

つまり、こういう礼拝の誠意も、カトリックでは見られません。こういう礼拝の精誠はカトリックでは見られず、次に、プロテスタントでは絶対に見ません。しかし、正教会で見られます正教会では。そうですね。


だから、なぜ同じキリスト教なのに、その訓練が完全に違うのでしょうか?

完全に違います。

なぜ?トマス・アクィナスは、今や私たちは哲学の言葉でトマス・アクィナスとプロテスタントとカトリック、トマス・アクィナス神学の最初の原理が何かといえば、何ですか?


西洋キリストはスコラ哲学(合理性主義)


その人たちの最初の哲学的原理は何ですか?

一緒に言ってみましょう。「ペリパティック・アクシオム(Peripatetic axiom )感覚に先に存在しなかったものは、知性には存在しない 」*。

一度言ってみなさい。「ペリパティック・アクシオム(Peripatetic axiom )」。

これは自分たちの最初の原則です。自分の世界観の最初の原則。

*ペリパティック・アクシオム(Peripatetic axiom ):ペリパトス派(逍遙学派)



これは何ですか?この信仰が何か?

トマス・アクィナスは何で有名なんですか?自然神学。自然神学。つまり自然を見て私たちは神様を知ることができる。そうですね?これを通して科学も出てきて、その他もろもろ、こういうものが出てきたではないですか。

つまり、こういう哲学の出発点は何ですか?ペリパティック・アクシオムこれは何かというと、私たちの五感、五感を通して、私たちの知識があらゆることを知るようになる。五感を通して。そうですね?

つまり、トマス・アクィナスが信じることは何ですか?知識の中にある内容はすべて、私たちの五感から来る。五感を通して。五感を通して、私たちの知識にあるすべての内容は、五感を通して来る。理解できますか?

これが何ですか。ペリパティック・アクシオムですね?


つまり、五感を通して私たちはすべてを知るようになるので、神様を知りたいなら、私たちは自然を見たり、科学を学んだり、科学では、例えば、豆を育てる時、これがどのように発芽するのか、またどのように実を結ぶのかか、そういうことですね。そうですね?


こういう内容を勉強します。この全体学校が何かというと、トマス・アクィナスの、カトリックの根本、そしてプロテスタントの根本哲学。


これは全てこの哲学から始まります。私たちの知識にあるすべてのものは五感を通して入らなければならない。


ですから、カトリックでは勉強が重要です。そうですね?

カトリックの学校はたくさんありますね。宗教、学校も多くて、それに、初期の時代、中世の時代にカトリックの学校を通して、科学も学び、科学を通して私たちは神様の道を知ることができるから。そうですね。


だから、この神学から出て来ます。この哲学から。トマス・アクィナスの根本的な哲学から、英語でスコラスティシズム(Scholasticism:スコラ哲学)、学主義、勉強の学主義。あるいは合理主義。


これはクリスチャン学主義。クリスチャン・スコラスティシズム、クリスチャン学主義、あるいはクリスチャン・ラショナリズム(Rationalism/合理主義・理性主義)、クリスチャン合理主義神学がここから出て来ます。これが、わかりますか?分かりますか?これ分かりますか?分からない?難しくありません。


どうしてこれが重要なのか。彼らは、この学主義と合理主義、キリスト教神学を通して、神様の本質について考えるようになります。

だからこれが重要ですね。

神様の本体について文章も書くし、彼ら本も書いて。そうですね。トマス・アクィナスもそうです。アウグスティヌスもそうです。もちろんアウグスティヌスはもっと前だけれど。

だから、西洋キリスト教の香りが学問主義になってしまいます。


正教会のキリスト教はもっと古いキリスト教。この方がずっと東洋の雰囲気が強い。はるかに東洋の雰囲気が強いです。

こういう敬拝の精誠もしますね。これはこういう敬拝の精誠、何百回も礼拝する、これはカトリックにはありません。そして、キリスト教には絶対にありません。そうですね?


だからこれが重要です。

西洋キリスト教、カトリックキリスト教、西洋キリスト教はこのような哲学があるので、五感を通してすべてが入ってくる。知識として。

それなら、神様を知りたいなら私たちは頭を使わなければなりません。知識を使わなければなりません。そうですね?なぜ?私のすべての知識は五感を通して入ってくるから、神様を知りたいなら知識で理解しなければならない。そうですか?そうではないですか?


トマス主義の問題点1

合理主義の神の本質分類は多神教になる


だから、神様の根本とは何か?神様を考えるとき、神様のエッセンスがありますね。エッセンス。皆さん、エッセンスがわかりますか?

この英語の単語「エッセンス」、本質や本能、本質の方が近いですね。そうですね?

エッセンスは韓国語でも使いますね。エッセンス、そうですね?

こういう哲学的な「エッセンス」とは何か、と言いますね。エッセンスとは何ですか?

最も中心的な本質。(精髄と言います)精髄?精髄。精髄、本質、そうですね。


神様の本質を考えると、本質の中に神様には何があるでしょうか?愛もありますね。そうですね?愛もありますね。また、恩恵もありますね。恩恵、恩寵。恩恵がありますね。

また、神様の本質の中には何がありますか?神様の御心。御心もありますね。御心。意志。御心もありますね。愛。そうですね。

善。神様の本質は善もありますね。


しかし考えてみなさい。これが神様の本質の中で、これが神様の部分部分であれば、つまり、神様の本質の中には、ある部分は恩恵、ある部分は愛、ある部分は御心、ある部分は知識、このように分離してしまうと、問題は何ですか?

神様の本質を分別(分類)し始めると問題は何ですか?

多神教が出てきます。


例えば、神様の本質の中に愛は一つの部分です。その愛の中に入れば、その愛は完全に神様です。そうですね?完全に神様、完全に神様です。これは100%神様です。

これを分離することはできません。そうですね?

恩恵の中に入れば、これは恩恵の部分が愛の部分とは少し違います。

そして、意思、そして御心という部分もまた違います。

そこに入れば、その中も100%神様です。この中は恩恵が100%神様です。ここは愛が・・・。


それではどうなりますか?多神教になってしまいます。

どうして?この全ての部分が神様になります。複数の神様になります。

理解できますか?だから、問題が生じます。


だから、神様を知識的に理解すると、神様を知識的に「私たちは神様を分別(分類)してはいけない」と知ることになります。

そうですね?


分別(分類)してはいけない。

神様の意志は一つの部分、愛は一つの部分、恩恵が一つの部分、神様の光、永遠の光。聖書の言葉で神様からは永遠の光が出ると書かれていますね。聖書で。

また聖書では、神様の光と火、火も出てきますね。モーセの火、あれは何?何だ?燃える柴。そうですね?


それから『使徒行伝』では、使徒たちのために火が降るではないですか?神学的に言うとディオプニス( dynamis デュナミス  )。


このような部分から、神様の光、神様の聖霊の炎、火、そうですね?神様の恩恵、神様の愛、神様の能力、神様の意思、どれも違います。

しかし、神様を分別し始めたら問題が何かといえば、神様の能力に入れば、それも100%神様です。

神様の愛も、それも100%神様です。そうですね?


これが何かといえば、これはだんだん多神教になってしまいます。100%神様という部分が神様の中にあるので、多くの神々が出てきます。仏教のように、あるいはヒンドゥー教のように。理解しますか?


だから、カトリックとキリスト教はこのような始発点があるので、・・・良い部分はあります。

自然を見て、「神様も意識しよう」と、この意志は良いです。そうですね?とても良いです。


私たちは、実は、キリスト教弁証論で、科学をたくさん使っていますね。私たちの若い連中も伝道する時、そうですね?外で若い人たちを伝道する時、キリスト教の弁証論を説く時、科学をたくさん使っていますね。そうですね?


特にクリスチャン達、あるいは、無神論者に対して話す時も同じです。科学をたくさん使います。

そうですね?私たちの弁証論のシステムにおいて、そうですね。


だから、神様を分別(分類)し始めると、これは問題です。問題です。だから、カトリックやプロテスタント、西洋のキリスト教がどうなっているかと、だから、私たちは神様を分別(分類)してはいけない。そうですね?



トマス主義の問題点2:神の神聖な単純性

*注釈(神学理解のために注釈します)

合理主義によって神の属性を分類すると多神教になります。それでトマス・アクィナスは神の単純性を主張しましたが、今度は人が神になるという問題が生じます。

それで人が体験する神の属性は神の創造物だと主張します。

しかしこれは神が永遠に遠くなってしまう。

以上の、トマス・アクィナスに対する批判をしておられます。

それなら、神様は一番簡単に、一番簡単にラテン語でアクトス・プールス(Actus purus:純粋現実態 )( 英語:Pure Actuality) 「アクトス・プールス」言ってみてください。「アクトス・プールス」

プールスが何ですか?完全に清らかな、そうですね。英語で「ピュア、ピュア」というではないですか。「ピュア」、完全に純潔で、清らかな。そうですね。「ピュア」それから「アクトス」は何? アクト、アクトが何ですか? 行動、そうですね。


だから、これは全て、どんな内容かと言えば、「ディバイン・シンプリシティ(Divine Simplicity.:神的単純性 )」を一度調べてみて、韓国語でどう翻訳されるか。

ディバイン・シンプリシティ神学。「ディバイン・シンプリシティ神学、これは何かというと、神様の神聖な簡単さ、神聖な簡単さという内容が出てきます。

なぜですか?

神様を分離し始めると、他の100%の神々も出てくるではないですか。そうですね?ああ、神様の単純性。単純性、そうですね?神様の単純性、神的な単純性、そうですね?ディバイン・シンプリシティ


神様のこの神学がなぜ生まれたのか?

それは、アクィナスペリパティック・アクシオムの始発点から、神様を分かろうとするのですが、神様の中を分別(分類)し始めると、その部分も神様になるので、100%の神になってしまうから、「そうしてはならない」ということです。


だから神様は単純性、神的単純性がある。

神的単純性。その言葉は何ですか?神様の本質と神様のアクティビティ。


例えば、神様の意思は神様の行為ですね。行為。恩恵も行為ですね。恩恵。そうですね?働き、そうですね?

あるいは神様の、使徒行伝で火が下りた時、使徒達に。それも何らかの行動ではないですか。そうですね?


しかし、この神様の行動、つまり恩恵、あるいは愛の行動を、これと神様を分離したら他の多神教の問題が始まります。

どうして?


だから、神様は単純性がある。その言葉は、神様は単純な、完璧な単純な行動。

だから、神様の本質と神様の愛、あるいは神様の本質と神様の恩恵、神様の本質と神様の役事、神様の本質と神様の能力、これは分離することができない。

これは短縮しなければならず、単純性を理解しなければならない。理解できますか?


だから、このような神的単純性を、キリスト教神学において中心的な神学です。これはただ、「これは一体何だ?二代王様はどうしてこのような複雑な・・・」違います。

皆さんはキリスト教神学が理解できません。これが根本なのです。キリスト教神学の根本。根本です、根本。


家を建てる時、まず石を積み上げますね。これがその石です。その石の基盤です。分かりますか?

だから、カトリック、キリスト教の信仰が何か?『使徒行伝』で火がさーっと使徒たちの上に降りてくるではないですか。『使徒行伝』で火が降りてきましたが、神様には単純性がありますね。そうですね?

神様には単純性があるということです。


だから、神様の単純性が降りてきて、人々の頭に火が降りぐではないですか。

その火とは何ですか?この火とは何ですか?この火がもし神様の単純性であるなら、例えばここで、朴勧士様の上に神様の火が見える。

もしこれが神様の単純性の故に、つまり神様の本質であるなら、これはどういうことでしょうか?

この神様の本質は、この人が神様の本質に触れることができるということです。触れているではないですか、今。


あ、あ、問題です、問題。神様の本質に触れるようになれば、あなたも神様です。

問題です。あなたが神様なら、これはサタン教ではないですか。

なぜ?神様の本質に触れることができるなら、神様の本質に触ることができるなら、本質を理解し、触れるために、私たちも100%の知識、神様と同じだけの知識、つまり神様でなければならない。

この問題が生じます。カトリックにおいて。カトリックキリスト教の問題です。理解できますか?


プロテスタントも同じです。あいつらは哲学を、キリスト教神学を哲学を深く勉強しないから、プロテスタントの牧師たちはとても無知です。

こういう問題、自分たちの神学システムの問題、本質の問題。これらをうまく理解できていません。こういう勉強をしません。


しかし、もし私たちが神様の本質に会うことができるとしたら、これは何でしょうか?キリスト教の神学において、三位一体、三位一体があるではないですか。三位一体。そうですね?三位一体。

三位一体が何ですか?神様の本質の中に聖父、聖子、聖神がいる。それなら、もしあなたがその本質に、入って触れることができれば、あなたもその三位一体に入ったということになる。そうですね?


それなら、もしあなたが三位一体に入ったなら、あなたも神様です。おっと。この問題、これが問題ですね。

だから、カトリックとキリスト教はこれをどのようにしますか?この問題を持って。この問題を持って。


トマス主義の問題点3:聖霊の御業も創造物


だから、つまり、朴勧士様の上にこの聖霊の火がパッと降りてきた時、これは神様ではありません。これは神様が創造された、天使のように創造された被造物なのです。分かりますか?神様が特別に創造された、あの火のような、モンスター。分かりますか?


それでは、その言葉は何ですか?私たちが神様の光に出会う時、神様の愛に出会う時、神様の恩恵に出会う時、神様の御心に出会う時、神様の何らかの部分に出会う時、これは神様が被造物を作り、私たちに見せてくださっているのです。

その問題は何ですか?

その言葉は、神様は永遠に遠いということです。永遠に遠い。遠い。遠いのです。奥に来ることはできません。

被造物だけが近くに来ることができるのであって、創造主は永遠に遠いです。理解できますか?そうですね?


だから、神様が聖霊の火を与えてくださったのに、その聖霊の火がパッとここに見える。もしその聖霊の火が被造物なら、この意味は、神様を愛する者は、神様を体験することができず、神様の被造物しか体験できないということになります。分かりますか?

その意味は、神様は私たちと永遠に遠いということなのです。常に被造物が中間に来なければなりません。理解できますか?


韓国語で、「あーーー。」日本語では「えーーー。」韓国語では「あーーー。」そうですね。


だから、私たちが知識を使って神様を知ることになれば結論は何か?神様は永遠に遠い。こういうことになってしまう。


(出エジプト記3章1〜6節)

1モーセは、妻の父、ミディアンの祭司エトロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。

2主の使いは、柴の間の火の炎の中に彼に現れた。彼が見ると、柴は火に燃えているのに、その柴はなくならなかった。

3そこでモーセは言った、「わたしは進んでいって、この大きな見ものを見、なぜ柴が燃えつ尽きないかを見よう」。

4主は彼が進んできて見ようとするのを見られた。神は柴の中から彼を呼ばれて、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「わたしはここにいます」と言った。

5神は言われた、「ここに近づいてはいけない。あなたの足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる地だからである」。

6また言われた、「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので、顔を覆った。


それなら聖書に出てくるすべての内容が、いや、聖書に出てくるではないですか。モーセが燃える芝の間に神様を見るではないですか。

それは何ですか?神様の光ですね。火の中から光。

そして、聖書には、モーセは神様の御顔を見た。いや、聖書を見れば、いつも使徒たちや預言者たちは神様に直接出会った人たちですね。

しかし、その神学が正しければ、モーセは神様のその芝の中で神様の火に出会ったのではなく、神様が造られた被造物である火、だから何かのデジタル、AIの火に会ったという結論になります。

そうですね?


だから、モーセは聖書の言葉と反対です。聖書ではモーセが神様に直接出会ったと書かれていますが、トマス・アクィナスの神学に従えば、モーセは神様に直接会っていない。

(1:00:23)翻訳 clean

モーセは神のAIの火に出会ったのです。わかりますか?


もう少しわかりやすく言うと、AIのような、本当の被造物。これが、わかりますか?


だから、ここで問題が生じます。問題。問題が生じます。


だから、カトリックやキリスト教では頭で全て理解してしまうから、五感を通じて頭への知識がすべて知識として入ってくるので、頭とこの「知っていること」が一番重要です。


なぜ?神を実際に経験できないからです。

この哲学では神を経験できないではないですか。神の被造物であるAI、神だけに出会う事が出来るのです。

この神学の結論を見ると、これが、わかりますか?


つまり、西洋のキリスト教、キリスト教、カトリックでは、彼らはあまり精誠を尽くさない。

なぜ?精誠は知的に何何、ということではないから。


勉強の方がもっと重要だ。毎日聖書を読むこと、毎日トマス・アクィナスを読むこと、毎日哲学を学ぶこと……だから、彼らも学校や博士がたくさんいるわけだけど。

なぜなら、これが自分の原則、根本原則、ペリパティック・アクシオム、原則から始まるからです。わかりますか?


正教会は精誠訓練を重んじる


正教会は違います。正教会ははるかに違います。私が今、正教会について勉強すればするほど、これは原理にはるかに近いです。はるかに近い、そして、これは天主教よりずっと古いです。


これは実は初期のキリスト教です。正教会ではこれ(トマス・アクトスの神学)を信じていません。この正教会ではトマス・アクィナスのシステムを信じていません。

実は正教会において、これは異端なのです。異端。


あ、一、二、三。ああ。(笑)そうですよね?


正教会とは何?

正教会はアフリカですよね?エチオピアは…アッシリアにもまた正教会があって、ロシアの正教会もありますよね?

ギリシャの正教会ですね。


世界には宗教がたくさんあります。しかし、私たちは西洋の教育を受けています。韓国や日本の一般の人たちも、皆さん、アメリカの西洋教育システムに洗脳されています。

だから皆さんは、私も同じです。私も洗脳されていて、あの西洋の教育を受けたので。


キリスト教は、ただカトリックとプロテスタントだと思ってるでしょう?

これは、間違っているのです。

もっとずっと古いキリスト教があるのです。それは正教会です。あの人たちは、あの人たちは私たちのように精誠をたくさん尽くしているのです。


二代王は御父様のために2万1千回敬拝し、シンジュン3代王も今回は1万2千回拝礼したではないですか。

それをそうやってやった時、御父様はどれほど喜んでおられたでしょうか?あの2万1千回拝をした時です。


あの、何だ、達成したとき…御父様はどれほど喜んでおられたでしょうか?御父様は、二代王について何とおっしゃいましたか?「こいつは道人だ」と。うん。亨進より上のものはいいない。そんな言葉、言われたではないですか。


御父様もその精誠をそれ程喜んでいらっしゃいました。そうですよね?


御父様も「これは何だ?」甲寺の絵、ですよね?あの絵、あの甲寺の100日間の精誠が、100日間で、米粒、米粒、米粒だけを食べて、簡単に言えば食べないという精誠ですね。天主教、プロテスタントのこういうもの、こういうものは使えない内容です。


これは、私たちはすべて知識的に知らなければならないから。神を。でも知識的に神を知ろうと掘り下げれば、結論はどうなってしまう?

神は永遠に遠い。問題だ、問題。


西洋知性主義の問題


これは私たちの哲学の世界、キリスト教哲学の世界において、私たちは「ノエティック(noetic  精神や知性に関するもの )」――これは「ノーシスnoēs(nous:知性、精神、心)」や知るというギリシャ語の知るということから出てくるではないですか。


それは神を知的に知るためのものですが、これを見てください。

甲寺。神、御父様、もう神を知っているなら、知ることこそが最も重要なら、神、御父様、もう神と一つですね。

なぜこれをしなければならないのか。なぜ、なぜ、なぜ100日間もご飯を食べないのですか?米粒だけで毎日。


これは使えない内容ですね。私たちが西洋、西洋の頭で、こういうことを理解しようとすると、使えない内容なのです。

なぜ?こういうことをしても、聖霊の火が降りても、聖霊の火が降りても、それは聖霊ではない。




あれは創造物なのです。聖霊のAI、聖霊。簡単に言えば、AI聖霊のようなものなのです。神様ご自身でない。ああ。ああ。

これは、面白いですか?それとも眠いですか?(「面白いです。」)


つまり、西洋の教育で皆さん洗脳されたから、知識が一番重要だと思っています。


そうですよね?お父様が知情意で一番重要なのは何ですか?

神様との、神との関係において、知識が一番重要ですか?

サタンは知識が一番重要ですね。

知情意の神との関係と、知情意の部分で何が一番重要ですか?心情と愛。心情の関係ですね。


しかし、私たちはこのカトリック教やキリスト教のシステムの中で、これらすべてを神を知的に五感を通して知ることができる事が一番優れていて最も高い内容であるなら、それなら心情もその下です。


神を体験するときも、神を体験するときも、神を熱い愛と恵みとして体験する時も、それも全部AIなのです。AIに似たものなのです。

わかりますか?


へへへ。あ、問題だ。せーの。えっー。OK。寝てないね。オーケー。


分かりますか?これがなぜ重要なのか、わかりますか?

私たちの信仰生活にとって、とても重要です。

なぜ私たちは、たくさん祈り、神の驚くべき体験や聖霊の恵みを受けた。でも実は、それはAIだ。

それがAIなら、これは神ではありませんよね。これは神の幻だったわけですね。AIみたいに。


え何だ?virtuality、仮想。仮想的な、OK、その通り、仮想的な。そうですね。

これは神様ではなく、これは仮想。

つまり簡単に言えばAI、AIって、あれ、えっと、ここにいるデジタルコードおじさん、おじさん、あの長老ニムのインスタグラムのデジタルコードですね。(ああ。ああ。そうです。)

この長老ニムのAI、AIの絵、私が見ると、あれは長老ニムではない。そうでしょう?そうではない?


いくら長老ニムに似ていても、「あ、これだ」と思って、そのAIの写真とどれだけ関係があっても、事実はこの人とは関係ないではないですか。


神様はもっと大きな問題です。私たちが神様を知っていると思い込んでいますが、神様が私たちに体験を与えても、それはすべてAI、仮想的な神様で、実は分からないのです。関係ありません。AIとの関係しかないのです。そうですよね?

神様とは関係ありません。

あれは詐欺です。詐欺。分かりますか?


これがなぜ問題になるのか?

つまり東洋のキリスト教は、はるかにうまく区別していたのです。はるかにうまく区別していた。


東洋キリスト教の神学:知的に神を知ることができない


東洋のキリスト教は、知的には神様を知ることはできないと言われています。知ることができない。

なぜ?私たちの脳が小さすぎるからです。簡単に言えば。

私たちの脳は小さすぎるし、簡単に言えばバカだ。


私たちが宇宙を創造された創造主の驚くべき知識を理解できるか?実際、私たち、宇宙さえ理解できていないのに、そうでしょう?

宇宙さえ理解できていない、いや、他人の本心さえ分からないのに、どうして神様の内面まですべて分かるか?


人たちは小さいではないか、ほこりのように小さいではないですか。アリのように。

アリの本心さえ分からないのに、どうやって?宇宙さえよく分からないのに。


私たちにどうして神、宇宙の創造主、宇宙よりも万倍、億倍、兆倍……などなど、永遠に続く驚くべき知識をすべて理解できるでしょうか?

いや、アリ、アリ、他のアリさえ理解できないのに。

そうですね、そうですよね?(「そうです。」)そうですよね?


だから、東洋の天……いや、キリスト教はもっとずっと謙虚です。