逆主管、聖霊の仮面に頼れば滅びる
2025年5月14日テネシー清平韓国語水曜礼拝
霊的混乱の時代の分別力<2>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
監修fanclub三原
権牧師の한국 수요예배 05 14 2025
再臨協助による様々な霊現象
次に、霊的な混乱時代と分別力について、要約して説明します。
使徒行伝には、「わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。」(使徒行伝2:17)という御言があります。
それで現在、霊が地上に総動員され、再臨の役事を行っている時代です。そのため、多くの人がその霊的なメッセージを受ける人が相当多いです。
しかし、実際は混乱しています。それで、私たち信仰者たちはこれに対して分別力を持っていなければ、間違えれば悪い例の霊に巻き込まれる可能性があると言えます。
それで、地上人たちに対する霊界の役事は、霊界から地上人たちに再臨の協助をする時代だと言っています。
それで、預言を与えて治癒の役事を起こして、夢を見させて、火を与えてなど、このようなことがたくさんあります。
しかし、私がこのような話を聞きました。金勇力訓師からです。
霊的現象というものは必ず火を受けて異言をして、病気の人を直して、このようなことだけが霊界の役事ではなく、人々の信仰心が深まることもだと。
そして、ある分別力を持つこと、このようなことも霊界の役事だ。だから、知恵を得ることも霊界の役事だということです。
したがって、霊界の役事は、霊的な役事は、ある人が霊的な役事を起こすことでその人が偉大なわけではなく、誰でも霊的な役事が起こるのですが、本人が霊界、ある協助を受けても、本人が気づかなくても、本当に信仰を熱心にして、このような場合も全て聖霊の恵みを受けることだと見ることができるのです。
それで実際、霊界は大変広大な世界です。しかし地上人は、私がある霊界を通した、これは極めて一部の世界です。全てではないということです。
したがって、各自の人の特性や心霊基準に応じて通じる霊界は千差万別に現れるのです。誰だけが何をし、誰だけが何をするというわけではありません。
それで、これは原理で述べたように、地上での使命を果たせなかった霊人は、同じ使命を持つ自分と似た人間に再臨して協助するのです。
なぜなら、自分が復活しなければならないから、霊人も復活しなければならないからです。
それで、再臨するのですが、善霊人も再臨し、悪霊人も再臨するというのです。そのため、その霊人の協助を受けた地上人は、その霊人の協助によって、地上人はある目的を成し遂げたら、それは地上人が自分の使命を果たしただけでなく、協助する霊人も自分の使命を果たしたことになるため、復活することができ、次に、その霊人はその人を少しの間借りてそのような役割も果たすと見ることができるのです。
それで、私たちが学んだように、霊人体は肉身を通じて成長し完成します。ですから、霊人の復活の摂理は、地上人と相対基準を通して、地上人との霊的な活動によって成し遂げられるのです。
それで、霊的なレベルが低い霊人は、霊的なレベルが低い地上人に現れることができ、霊的なレベルが高い霊人は、霊的なレベルが高い人間に現れるのですが、実際に霊的なレベルが高い人間は、霊通の必要性を感じません。
なぜなら、彼らは原理の基準が完全に確立されており、正しい生活を実践しているのに、そのような自分の信仰として祈りで神様の恵みの中で生きていたら、そのようなものは必要ない、と考えます。
善霊も堕落性があるので傲慢となり悪を行う
しかし、霊通するようになると、人間には堕落性があります。そして霊界に行った霊人も堕落人間が行うのです。霊人も堕落性があります。そのため、間違った交流をすると、何かといえば、主管されやすいのです。悪霊の主管を受けることが簡単です。そして、霊的な傲慢に陥ります。
少し霊界を通じて、他の人が自分を認めてくれて、少し「すごい、すごい」と褒められると、高慢に陥る可能性があるということです。
だから、私たちの立場でどのようにするのが良いでしょうか。中心的存在が、私たちの霊的指導者が、その人を公式な使命者として立てる前は霊通人から支配を受けることは、特に良いことではありません。
交流をしてはいけないと言っているわけではありません。交流はすることはできます。
しかし、主管を受けることは望ましくありません。
なぜなら、分からないからです。その人について。
それで、このような霊的な現象に対する判断力がなければ、助けよりも害が大きくなる。このようなことを考えました。
そのため、悪霊は常に自分を中心にして主管しようとし、次に、たとえ善霊であっても、人間と同じです。
私たちも良い心を持っているのですが、全ての人が「あの人は素晴らしい人だ。素晴らしい人だ」と褒め称えると、自分も「自分はそんなに素晴らしいのか」としながら傲慢になります。善良な人も傲慢になるのと同じように、善良な霊も高慢に陥れば悪い役事をすることがあるということです。
そのため、私たちは交流は構いません。交流は構いませんが、縦的な関係ではなく、主管される関係ではなく、対等な関係で横的な関係を持ちなさい。横的な関係を持ちましょう。
私も昔、あの人たちと横的な関係を築こうと私が努力したからこそ、陥らなかったのであって、あの人の霊的な能力を見たら、十分に私は陥るそのような能力がありました、その人たちは。しかし、横的な関係を持つようにしました。
成熟してない霊通者は高慢になる
そして、成熟していない人たちが霊的な啓示を受けると、そのような人は独善的になり、高慢になりやすいのです。
自分だけが正しい、自分の言葉が正しいと、それを改めようとしません。客観的事実の前でもそれを改めようとしません。独善的になってしまうのです。
なぜなら、自分にメッセージを与える者が神だと認識するので、「神様が私に与えるから私の言葉が正しい」と。
そうでないと、他の人はみんな間違っていると言っても。「違う、そうではない。神様が私に直接メッセージを与えるのに、何を言っているのだ。あなたがたが悟ることができないからだ」。
こうなってしまうのです。
だから、その人はやがて、「牧師や指導者の言葉を聞かないで、私の言葉を聞け。」「私の言葉を聞きなさい、協会長の言葉を聞かないで、私の言葉だけを聞かなければならない」と、こう出てくるのです。
霊通人に従えば、その霊の主管を受ける
だから私たちは霊通人の主管を受けたらどうなるのか?その霊通人だけの主管を受けるのではなく、その霊通人が仕えるその霊の主管を受けるようになるのです。
そのため、自分もついて入っていくようになります。ついて行かないようにしても、自然とついて入ってしまいます。そこから抜け出せなくなるのです。そうなると。
これを注意しなければなりません。そうなると、私の信仰の中心が真の父母様ではなく、誰になりますか?。その霊になるのです。
そのため、真のお父様が言われた言葉、二代王様が言われた言葉も否定し、自分の言葉が正しいとそのように主張するのです。そのように現れてくるのです。
霊通人を尊重すべき
それだから、聖霊の恵みは多様的に現れます。
私たちはそれを見て、霊通者を実際は尊重すべきです。なぜなら、霊を通す者は非常に知恵深くなるからです。例えば、私たちは何かを見ても、学んだことしか知りません。原理を知っていると言っても、原理の講義を聞いて勉強した内容だけを知っているのです。
しかし、霊人は何でしょうか。それは、上から見て下りてくる人です。上から見下ろしているからです。そのため、私たちの考えるよりもはるかに賢い考えや知恵を私たちに与えてくれます。
私たちは「ああ、聞いたことのない言葉だ。本当に恵み深い」と感じるのです。
実際、その人たちは霊を受けた人、霊通者、善霊です。その人が書いた文章を見ると、私たちは驚きます。「ああ、こんなに深く悟っているんだ」と。
そのため、私もそのことを学び、多くの勉強をしています。
なぜなら、私も学ぶ必要があるからです。
しかし、それについて、 その人たちはその人々を尊重しなければなりません。無視してはなりません。
しかし、中心がなければなりません。中心を守らなければなりません。中心と異なるなら、それならそれに従うべきではありません。中心と異なる、中心の教えと異なる教えを教えるのならそれは間違っています。
しかし、その中心の内にあって、より深い内容を私たちに教えてくれるなら、それは学ぶべきです。そのために、あえて背く必要はありません。
しかし、あえて従う必要もありません。
そのため、霊通するとは何をすることなのか?天が復帰の摂理を助けるために、天がその人々を選んで用いているのだから、尊重すべきです。
しかし、悪霊に陥っていけば、それはダメです。
そして、私たちは多くの霊的な恵みを受けることになります。先ほど言ったように、夢を見たり、人の病を治したり、予言をしたり、外国の言葉を話したり、様々なことをするのですが、それがなぜそれぞれ異なるのか。何かが優れていたり、劣っていたりする違いではなく、それは何なのか?
それは、その人々が受ける 人々の特性に応じて天が適切に与えるからです。
だから、自分が受けた恵みを大切に思うべきです。天が私に贈り物をくれたのに、その贈り物を無視して他のことばかりするのも天を失望させることになります。
だから、恵みに違いはありません。自分が受けたもので、他人の幸福や他人の霊的成長に貢献するように努力することが良いのです。
使徒パウロはこう言っています。「聖霊の恵みの中で最も高いものは愛です。愛する心を持つことが、最も大きな聖霊の恵みです」。
聖書にもそのようなことが書かれています。私が何をしても、預言をしたり、病気を治したり、異言を話したりしても、私に愛がなければ、私はただの空っぽです。このような話がありますよね。
だから、愛が最も重要なのです。謙虚で、他人を思いやり、愛する心が、真の霊的価値なのです。
シークレット・ミッション、言葉が多い人
私が何者か、私が シークレット・ミッションを受け取ったからといって、そうやって前に出ることは、あまり良いことには見えません。
だから、霊通人に天が能力を与えたのは、その人に責任分担を課すためです。責任分担をさせるため与えるのであって、優れているとか、特別に信仰が深く、人格が優れ、能力があるから、受けるだけの価値のある者であるからではありません。
責任分担を与えたのです。
だから、私の役割は何なのか、神様が私に何を求めているのか、これを悟ることが重要なのであって、それをもって、他者を主管しようとするのならば、その人は非常に足りない人だということです。
だから、霊を受けた人の使命は何でしょうか?それは、摂理の中心的存在を証しし侍るということです。それが最も重要です。それが復帰摂理上、天から与えられた使命です。
次に何と言っていますか?精誠込めて祈りなさい。祈祷して精誠を捧げなさい。そして多くを語るな。多くを語らない。
多くを言う人の中で、嘘をつかない人を見たことがありません。言葉の多い人はそうです。
そして、他者と調和して、よく共に生きることは重要です。
だから人間が完成するためには、神様から与えられた言葉を中心として責任分担を完成して行って人格的に成長しなければなりません。
だから、そのような心を持たなければなりません。
御言の主張による逆主管者は滅びる
今、霊通する人の中で、真の父母様や神様やイエス様について話す人は多いのですが、真の御父母様は天一国二代王に実体役事をしておられるということを、このことを心に刻まなければなりません。これを心に刻まなければならないというのです。
「(お父様が)語ることの出来なかった御言があるので、私に与えてくださった」と主張するのではなく、『二代王様に対して、お父様が実体役事を成しておられる』と、その前(二代王様)に恭順し、その(二代王様)御言に従順でなければならないのです。
それだから霊通人に頼るのではなく、摂理の中心に従わなければならないのです。無駄なことをするな、ということです。摂理の中心が教えてくださるのに、霊通人に頼れば、御言通り破滅するでしょう。
言葉と 原理を中心に信仰をしなければなりません。信仰が深ければ深いほど、御言と原理、お父様の御言、二代王様の御言、原理を持って信仰をしなければなりません。
ある人は「私は二代王様に会わなければならない」と言いますが、それよりもその前(二代王様)に呼ばれるまで、その(二代王様の)前に従順であって、彼のために彼を敬い、よく侍ることが重要です。
「私がこの言葉を必ず二代王様に伝えなければならない」という人は、その言葉はどういうことかというと「私が逆主管するつもりだ」と言っているということなのです。
そうではないですか?
「会って私が話したいことがある。その通りにしないから、私が教えてあげよう」ということですから、逆主管なのです。
それは既に間違っているのです。
「私の言葉を聞けば良くなる」これは条件をつけること
そしてもう一つ、私たちが知らなければならないことは、天はどのような恵みを授ける時、霊的な恵みを授ける時、絶対に条件を付けません。これは心に刻まなければなりません。
悪霊は常に条件を付けて誘惑します。「私の言葉を聞けば、あなたはそれなりの人になるだろう。大きくなるだろう。将来、大きなことをなすだろう」 「お前はこうなる」
このようにすることはどういうことかと言うと、これは条件をつけることになります。
「お前が私の言葉を聞けば、今後、何かをなす、何の地位に上がる。」これは条件をつけることです。これは偽物です。
天は、何をするにも、ある条件をつけて行うことはありません。
そして逆に、私の言葉を無視したり受け入れないなら、お前は天罰を受ける。これも偽物です。偽物です。
直接を主張する霊通人は害を与え、人をゾンビにする
もちろん、彼らは害を及ぼす役事をすることはできます。できます。
先ほど私が忘れて言えなかったのですが、その後別れた後、清州の聖殿は破壊されました。
最初は15人、16人ほどの食口が集まったのですが、全て壊れました。内部で争いが起こり、追い出され、全て壊れました。
その結果、3つの家庭だけが残りました。
その3つの家庭のうち、1つの家庭は私たちを非常に非難しました。
とにかく、本当に情が切れるほどに、私に対して、そうして。
そして争いが絶えませんでした。
しかし、天罰とは言えません。
私は、おそらくその「コンス(拱手:その霊通者の先祖解怨)を受けたことが影響しているのではないか、それが条件に引っかかったのではないかと、考えています。
詳しくは分かりません。
それで「一緒に断食して祈り、精誠を捧げよう」と。
断食や祈りは悪いことではないのですが、、それを繰り返し要求します。そうして、やがてその主管を受けるようになるのです。
そして、あそこの山で祈りを一緒にしよう、私たちの聖殿でもそんなことがありました。白頭山に行った人がいました。
「チームで一緒にいきましょう、精誠を捧げに行きましょう。私は神様との直接の関係でそれをやっている」。
その言葉に従う必要はありません。
そうして、このように霊媒を通じて、霊通人を通じて霊と接するようになると、主管性を失うのです。
主管されるとどうなるか?神様から離れてしまうのです。
次に、その人に主管されてゾンビの人生になります。その人が指示する通りに従います。
結局、全てを奪われます。その後、悪霊の働きはどのように現れるか?金、権勢、組織などを要求するのです。善霊の働きはそうしません。
自分自身が精誠を捧げるのです。熱心に祈り、このようにします。
だから、私たちが常に考えなければならないのは、御言と原理の中に全てがあるということです。神霊があり、真理があります。その中に。
その他のものを中心に据えて、その方向へ進んでいくのはダメだということです。
だから、原理で区別し、分離して、関係において、その人たち霊通者との関係で横の関係を維持し、戦う必要はありません。故意に無視したり、罵ったりする必要もありません。やれと。それぞれが自分の責任分担を果たせばいいのです。
しかし、天がその人に何か その選択をして、どのような恵みを与えたとしても、それは主管するためではなく、その人の責任を分担させるため与えるのです。
それなのに何故しつこく求めるのか、ということです。私は自分の道も忙しいのに、ということです。
神様は直接には人に役事しない
そして、通常霊界の伝達者は天使や先祖を通じて伝えると言います。
しかし、ある人が霊人と通じると、自分が神から直接聖霊を受けたと錯覚するのです。
そして、神様が私に役事をされると考えるのですが、それは違います。違います。
なぜ違うのか?私は完成級の人間ではないからです。神様は完成級の人間ではない私に訪ねてくることはありません。
訪ねてきたと考えるのは、自分の判断ミスです。
完成した人間は、原理から見れば完成級に上がれば神様の直接主管権に入るのです。
完成していないではないですか。それなのにどうして神が訪ねてくるのですか。
それを信じるのは愚かです。原理を信じていないということです。
ですから、完成級の人間になっていないのに、神様の霊が訪れてくることはありません。これを心に刻まなければなりません。
悪霊は必ず聖霊の仮面をつける
そして、私の悪先祖や悪天使も、聖霊の仮面を被って役事をするのです。私は悪霊だと言って現れるわけではありません。
ルーシェルがエバを誘惑した時も、「お前を堕落させる」と言ったわけではありません。「より良い状態にする。お前がこうなれば、神様のようにあなたは上がるだろう」、このように誘惑したのです。
同じように、自分が何者か、悪霊だと教えることはありません。そうではありません。
常にイエス様や真の父様、または高い位の霊界の姿を装って働いているのです。
そのため、私たちが原理的にこれを区別できないと、悪霊を神様の働きと錯覚してしまうのです。
そして悪霊の働きを受けると、心霊が悪化し、悪の霊界に捕らわれてしまいます。
時を予言する人ではなく自分の時代として受け入れること
そのため、その時私はその人たちと生活しながら、多くの悩みを抱えていました。
どこまでこれを受け入れ、どこまで受け入れてはいけないのかと。
それで、祈りました。しかし、これも霊通なのでしょうか?神様が答えをくださいました。
祈った後、御言選集を一冊移そうとしたところ、その中で紙が一枚ポロッと落ちたのです。
その小さな紙片に、お父様の御言が書かれていました。
その内容は、
「時を予言する人よりも、その時を自分の時として受け入れる人が賢い人であり、世界的な人物になれる」
というものでした。
そのような、つまり「予言した人よりも、その時代を自分の時代として受け入れて働く人が賢い人である、そして、神様に用いられる人だ」という内容でした。
それを見て、その時、悟りました。ああ、それが重要なのではなく、私がどのように生きるか、御言を中心として、どのように生きるか、これが重要なのであって、
何か自分が預言を受けて、何を受けて、これらはすべて、低い、重要ではない。それだから私たちもそのような心構えを持って 生活していくことが良いと考え、今日このことを述べました。
ありがとうございます。話を終えます。