2026年8月8日土曜日

神のアガペーの愛、為に生きる愛を憎む者たち

 神のアガペーの愛、為に生きる愛を憎む者たち

ヨハネの黙示録19章19~20節


19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。

20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 


ヨハネの黙示録19章19~20節に預言されていた内部の異端教、サタン教、それが菅井教です。

二代王様と会うなどと息巻いて二代王様に戦いを挑み、その教え、その惑わしである「真の父母の本体論」「菅井教のお父様の聖霊」「菅井教の夜の神様」もろとも硫黄の火の池に投げ込まれる姿が書かれています。


菅井教は家庭連合を滅ぼしたサタンが、メシアの血統王権三代王権を内部から滅ぼすためにサタンが作り出した異端です。菅井教の革命運動は三代王権を滅ぼすためのサタンの発動です。

黙示録はこの菅井教という異端を滅ぼすことも預言しています。この異端に加担したのなら例え大陸会長であろうと、文亨進師の側近であろうと”本物の、御父様の聖霊”はこの”偽りの御父様の聖霊”たちを容赦なく滅ぼしてくださることでしょう。


ここでは「神のメタノイア」「神の自己中心」「神の為に生きる」をキーワードに、菅井教がいかに神のアガペーの愛、為に生きる愛を憎む者たちであり、菅井教の夜の神が、偽りの真の愛で偽装した根本本質が他者犠牲の自己愛の神、悪神、サタンであるかを見ていきます。 


菅井教がサタン教であることは簡単にシンプルに誰でも理解できます。

菅井教は「神の根本は利己主義の自己中心である」これを主張します。

性相形状中和的主体(統一体)という美しく調和し統一した神にこれはあり得ません。

菅井教のサタン的教義の内容をいちいち見る必要などありません。シンプルにこれだけで誰もが菅井教はサタン教であることが分かります。

ですが何故そうなのかについて説明します。


もちろん菅井教は強烈に反論するでしょうが、反論すればするほど、自分たち菅井教は本質が利己主義の悪神を拝するサタン教であることを、神とサタンとキリストの前に訴える事になります。



1.創造本然の御自身自身の為に生きる神を完全否定


菅井教は神様のその根本本質がアガペーの愛、為に生きる愛であることを否定します。

従って「為に生きる愛は創造後である」、これが本来の菅井教の教えでした。

*参考菅井教アドレス:https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html 


菅井教は必死にしかし今年2026年春これを論破され発狂*しながら「為に生きる愛は創造前である」と論を変えました。

*この菅井堕落性爆発発狂については最後の章

『12.「為に生きる」に関する菅井教の反論記録』をご覧ください。


しかし、菅井教は結局、夜の神の根源原初はメタノイア(悔い改め)が必要な欠乏の自己中心の神であることは変えることはありません。つまり夜の神様の根源原初がアガペーの愛、為に生きる愛であることを完全否定します。


菅井教は 文鮮明師が「たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたとき御自身のために存在しておられそれを自己中心的な一時期であったと言っておられる御言」の「御自身のためにを絶対に「与える愛」という意味の「ために生きる愛」、アガペーの愛であることを根本的に否定します。

御自身のために存在していた」の「ために」とは犠牲の愛、「与える愛」の「ために生きる愛」とはまったく違う、いわゆる自己中な愛だと定義します。


菅井教の神は、自己中心的であったというのですが、この神の自己中心とは、この世の他者犠牲という意味の「自己中」のことです。

菅井教は、この「御自身のために」の「ために」とはこの利己主義の「自己中」であり、「他者のための愛、犠牲の愛、アガペーの愛」ではないという教義です。

このような他者犠牲の「自己中」をキリスト教では悪であると定義します。

つまり菅井教の夜の神は悪神です。

このような利己主義の「自己中」を善とはいいません。悪といいます。

菅井教たちはこのような悪を善と定め、このような悪が 夜の神の根源であると言います。

これを、我々サンクチュアリ教会、キリスト教、イスラム教、他の宗教に向かって宣言しているのです。

つまり私たちキリスト教会を始めとする善の宗教界の敵であると自分たち菅井教はサタン教であると宣言しているのです。


このような教義になるのは、菅井教の本質が神様を憎悪するサタンの霊と一体となっているからです。

菅井教は自分たちのこのサタンに魂を奪われた霊性感性、要するに病的妄想を三次元を超えた霊的感性だと自画自賛します。


このように菅井教はキリスト教や、私達サンクチュアリ教会とはまったく別の次元のサタン教です。

アガペーなる為に生きる愛の神を憎み、他者犠牲の自己中心な神(サタン)を愛する異端教です。キリスト教の敵、私たちの敵、内部に入り込んだサタン教です。


では菅井教のいうようにこの悪神が、メタノイア、真の愛に覚醒すれば、真の愛を実践できる神になれるのか?できません。

なぜなら菅井教の夜の神の心情根源には(与える)為に生きる愛も心情も能力も一切無いがゆえにいくらメタノイアしても真の愛に覚醒しても、真の愛を実践する能力も愛もないからです。

完全無からは創造することも生み出すこともできないからです。


この詳細は後の章で詳しく述べますが、ここでは結論だけ伝え次に進めます。


2.菅井教の「創造本然の自己中心」の歪曲

「愛の出発点」の歪曲


次の文鮮明師匠の御言は、そのような神は自己中な神であると菅井教が根拠にする御言です。菅井教が以前から度々多用する御言です。


「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。 

「御旨と世界」  人間に対する神の希望 https://m.cafe.daum.net/ckatkfkdrhdqn/VVQ9/1161


この御言は、端的に言えば「たった一人で御自身以外の何ものをも意識なく存在しておられた神は、御自身の為に存在しておられた。神は一時期そのような自己中心的であられた」という御言です。

これは「創造本然の自己中心」の御言です。


この「今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」の部分にあたる韓国語原文にも、「自己の為にしていた

자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는  것입니다.

 自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された)

と明確に言っておられます。


文鮮明師の言う「創造本然の自己中心」とは、菅井教が言うような神が利己主義、どケチで未熟だったという意味ではありません。


性相形状中和的主体(統一体)という美しく調和する、その統一性のことを言っておられるのです。

つまり、

「神ご自身がすべての愛、生命、血統の絶対的な『中心(起源)』である。神の心情根源自体が(与える)為に生きる性質をもつ。」

ということであり

「人間や宇宙を創造される前の『絶対唯一(無相対)の神』が、「対象(愛の相手)を求めて自発的に(与える)愛を展開し始められる、その出発点の絶対主体としての状態」を指しています。 


このように神が絶対的唯一なる「中心」=中和主体(統一体)として厳然と存在されるからこそ、その中心から溢れ出る無限の「真の(与える)愛」を投入して、万物や人間という「対象」を創造することができるのです。


即ち文鮮明師は神とはそのようなたった一人の時から「(与える)為に生きる真の愛」そのものであることを、キリスト教の「神は愛なり」というその如くをここで言っておられるのです。

菅井教以外のサンクチュアリ教会の人々は皆、そのように「創造本然の真の愛の自己中心」として解釈します。神様を愛し、イエス様を愛しているからです。

われわれ創造原理を知っているものたちは「本性相と本形状の二性性相の中和的主体(統一体)」 のことであると理解するのです。

文鮮明先生がみずから中和的主体(統一体)という美しいハーモニー、その統一思想を破壊することはありません。


ところが菅井教は、神が「自分のために生きていた状態」を「与える為に生きる愛が無い未熟な自己中」「(奪う)為に自分のために生きる自己中心」として描きます。神の心情根源自体がそのような自己中だということです。

だから「メタノイア(悔い改め)」がこの神には必要だったというのです。


これは文鮮明師の語る「創造本然の自己中心」の真意を完全に主客転倒させています。

しかし、菅井教はその感性が極めてサタン的カイン的で利己的自己中心であるから、そのようにしか理解できないのです。つまり彼らの本心は創造主を憎み、文鮮明先生を憎んでいます。


理解できないどころか菅井教の本心は創造主を憎んでいますから、「与える為に生きる自己中心」「創造本然の真の愛の自己中心」であると中和的主体(統一体)の観点で理解することを、烈火の如く怒り、相手を見下しバカにするのです。

神が、一人の時から「(与える)為に生きる真の愛」そのようなそのもの(統一体)であることが絶対に許せないのです

それほど「(奪う)為に自分のために生きる自己中心」の神(サタン)を愛している宗教です。

そのような強烈な恨みの霊を背後に菅井教は持っていますから、絶対に理解できません。

即ち「神の根源は利己的自己中心である」これを主張する菅井睦雄教祖は堕落天使と完全一体化したサタンであるという証拠になります。


神の自己中心とは、菅井教のようにメタノイヤして捨てるべき「未熟な利己心」などではなく、無限の愛を外に投入するための「絶対的な核(出発点)」です。

文鮮明師は為に生きる神様の為にとは、投入し与える神であると言っておられます。神の中和的主体(統一体)の全てが、そのような与える愛だということです。


ところが菅井教は「自己中心」という言葉を、人間の堕落性(利己主義)と同列に扱い、神に投影して神の根源を汚しています。


菅井教は「罪がない悔い改め」「罪のないメタノイア」を主張します。

しかしそれは菅井教の夜の神は、「堕落した人間の堕落性とおなじ類の自己中心」を主張しこれを根源根本としていますから、結局根本が堕落した神を主張しています。つまり堕落した神、堕落天使だということです。

これは菅井教が堕落天使と同じように神を本心は憎んでいるから「メタノイアが必要な自己中心の神」を主張するのです。



3.菅井教の「自己の為にしていた」の歪曲とその神憎悪


このように菅井教は神様を憎むので、菅井教は、先ほど説明したように、自己の為の「為」とは「自己中」「利己主義」のことであり、「相対の為」の「為」とは、アガペーの愛という意味の「為」ではないと否定します。

つまり菅井教は「自己の為にしていた」とは「(利己主義の)自己中心にしていた」であるとする教義です。


文鮮明先生が言われる、

「御自身のためではなく、その対象物のために

この御言の「ため(為)」の意味は、御自身であろうと対象物であろうと、同じ「(与える)為に生きる」です。


ところが菅井教では、御自身と対象物では、意味が真逆になります。

つまり対象物の場合は「(与える)為に生きる」ですが、神御自身の場合は「(奪う)為に生きる」です。まったく真逆です。

他者を意識しない一人の神様に「与える愛」など無い!』、これが菅井神学です。


このように菅井教は、「創造本然の自己中心」を理解できる感性がまったくありません。

その理由は、彼らは神様を憎んでいるし、文鮮明師を愛する心が無いからです。文鮮明師と心情的に通じる創造本然の自己中心を持っていないからです。堕落性にまみれているからです。


菅井教の信徒たちがメタノイアできない理由がここにあります。

もちろん菅井教の神も同じです。菅井教の「メタノイアの神」はこれと同じ根本的欠陥があります。


文鮮明真のお父様が言われる「創造本然の自己中心」「真の愛の為に自己中心」、

これは菅井教が神様と真のお父様を憎む故に、菅井教には絶対理解できない神学であり信仰の境地です。これは真のお父様と心情交流できる心がなければ絶対に理解できないのです。菅井教には理解することは絶対永遠に不可能な神様、文鮮明真のお父様との心情世界です。御父様の聖霊が導く真理、心情世界です。

統一教会に信仰が無くとも人々は知的には中和的主体(統一体)における自己中心であること位は分かるのですが、菅井教にはそれを理解できる霊性も心情も無いのです。


神様を愛しキリストを愛する者たちにとって文鮮明先生の御言、「自己の為にしていた時」にしていたこの「為に」と「相対の為にする時」の「為に」とその「為に」の性質はかわりません。キリスト教でいうアガペーの愛であると認識します。それは御父様の聖霊がキリスト教を今も導いておられるからです。


もちろん、菅井教は、これを「思い込みだ、三次元の感性だ、神のメタノイアを知れ!」とこの神に対する愛を馬鹿にします。なぜなら菅井教は神を憎んでいるからです。これからもその憎悪の限りその堕落性の限りを神様、文鮮明真のお父様にぶつけていくでしょう。


その菅井教の、「メタノイア(悔い改め)によって神はために生きるようになった」という菅井教のメタノイアの神について次に考察します。


4.為に生きる神の愛を憎む菅井教


昨年の、【創造主を信じる宗教の方々へ◆ 私達は菅井(クルト)派が言う自己中心神を信じていません】の記事で

彼らは”これが御父様の真理だ”と言って、「自己中心の神が、真の愛の神に覚醒した」の類の論説で、「自己中心の神」を主張しつづけるでしょう。』

と予言しましたが、その通りの展開を菅井教はしてくれています。


いわゆる自己中という意味の自己中心の神は、菅井教の神のメタノイア論には絶対必要な未熟でどうしようもない神でなければならないからです。


2026年春になって「為に生きる神様」とは創造後であることが菅井教の根幹でしたが、それを前回、ついに木っ端微塵に論破されたため、菅井堕落性爆発の発狂*の挙句、菅井教は、自己中心的な神が悔い改めて「為に生きる神様」になったと主張してきました。

*この菅井堕落性爆発発狂については最後の章

『12.「為に生きる」に関する菅井教の反論記録』をご覧ください。


 しかも菅井教は「神様が悔い改めることなどあり得ないと、堕落性あふれる自分と同じ次元でしか見れないので、愚かな事を言い張るのです。(エントリー476)」などと実に愚かな神を憎むサタン的怨念情念を爆発させてきました。

菅井教は本当に神様が憎悪していることがよく分かります。


この菅井教のいう「神の悔い改め(メタノイア)」を題材に、菅井教の、神を憎む菅井教の深層心理を考察します。


5.菅井教のメタノイア神は根本的欠陥矛盾神


菅井教は「一人ぼっちの暗闇の中で、(利己主義、ケチで自己満足な)自己中心に満足し喜んでいた神がメタノイア、反省して利己主義の神から、利他主義の「為に生きる神」に切り替えたというのですが、


  • おぞましき神の「罪が無い悔い改め」

菅井教:神様御自身がメタノイアからの神人愛一体理想へと出発しているので、二代王様は神様について嘘や汚れが全く無い神様として証し出来るのです。エントリー476.html

まず菅井教が誇るこの「罪がない悔い改め」というこの詭弁、この神への冒涜を破壊します。


「メタノイア」とは本来、方向転換や心の刷新を意味しますが、宗教的には「誤りや罪を認めて正しい方向へ戻る」ことです。


菅井教は「罪がない悔い改め」と強弁しますが、一人きりの神が「自分中心だった、これではいけない」と後悔すること自体が「神様自身に狂いがあった誤りがあった、過ちがあった。神とはそのような本質から致命的欠陥をもった不完全な出来損ないである」と神が神自身を認めることに他なりません。


つまり、菅井教の「為に生きる神」とは、「最初は未熟で自己中だったが、途中で反省してやり直した本質根本が致命的欠陥そのものである出来損ないポンコツ神」です。

統一思想でみても中和的主体(統一体)として美しく調和している神にこれはあり得ません。

この菅井教の神自身の本当の姿を「罪がない悔い改め」によって、この夜の神は告白しているのです。


では、「与える為に生きる神」になれるのか?

この菅井教の神の「罪がない悔い改め」による神自身の根本的かつ致命的欠陥である神であることの神の自己認定は、同時に、この神は与える「為に生きる」心情も能力も本質根本において備わっていない完全に他者犠牲の自己中な神であることの自己認定です。

つまり自ら「与える為に生きる神」になれないと主張しているのです。


創造主としてあり得ない神です。



  • 量的蓄積による神の本質の質的変化


菅井教は「罪がない悔い改め」という知情意の量的な蓄積(メタノイア)によって、本質が(利己主義の)為に生きる神が、(与える)為に生きる飛躍的な「質的変化(質的転化)」を起こすというマルクス・レーニン唯物論、共産主義と同じ弁証法的詭弁を使います。


しかし、中和的主体(統一体)の本質が(利己主義の)為に生きる心情根源しかない夜の神であり、(与える)為に生きる心情根源がまったく無い夜の神が、いくら「罪がない悔い改め」という知情意の量的蓄積をしても、表面は(利他主義)為に生きているように装う偽善はできても、(利己主義の)為に生きるという本質を変えることなど出来ません。


我々が悔い改め、神に帰ることができるのは、神の子として本質が堕落しても残っているからです。だから神は復帰摂理が可能でした。

ところが、中和的主体統一体として(与える)為に生きる心情根源が無い、「前段階エネルギー」にも当然ながら(与える)為に生きるエネルギーが無い、この菅井教の夜の神には不可能です


菅井教は神は創造主だから可能だと言うでしょう。いいえ、不可能です。

創造とは(与える)為に生きる投入によって可能となります。その能動的主体性が中和的主体統一体の根源根本中心であるからこそ創造ができるのであり、その創造性に必要な根源根本が無いこの神には不可能です。

その創造に必要な、その主体性能動性、そして与える投入する心情も能力も前段階エネルギーもこの菅井教の中和主体統一体の根源から無いのですから当然創造できません。創造不可能です。創造主としての神性がまったくありません。これほど創造性の無い神、創造主として完全に不適格です。


つまり反省しようが悔い改めようが根本的に、利他的な為に生きることなどできない致命的欠陥のある神ということす。これは復帰される可能性のある堕落天使よりも酷い致命的な根本欠陥です。

創造主としてあり得ない神です。


  • この神は根本から矛盾自己破壊した存在


・原理講論序論「存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。(中略)人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。


この菅井教の主張する「メタノイアする利己主義の愛」の神は、根本的に「利他主義の愛」の能力も心情もない神です。


では菅井教のように、「利他主義」の為に生きる愛をメタノイア、あるいは対象を意識することによって持てるようになった(あるいは切り替えた)としましょう。

この場合、この原理講論の記述の通り、神自体の内部に矛盾性をもつ破壊状態の神だと断言できます。

いくらこの神が「罪がない悔い改め」によって或いは「対象を意識すること」によって「利他主義の愛」に目覚めたとしても、統一体の根源が「利己主義の愛」の神ですから、内部に矛盾をもつ破壊状態に陥った神です。自己矛盾破滅神です。中和的主体(統一体)ではなく、矛盾不調和的主体(破滅体)です。

この神の中和統一体の前段階エネルギーは「利己的奪うエネルギー」と「利他的与えるエネルギー」が衝突しあう完全矛盾破滅状態の前段階エネルギーです。完全授受作用根源の統一体である神にこれはありえません。

このような破滅状態をキリスト教では、堕落と呼ぶのです。

創造主としてあり得ない神です。


このように統一思想的に見ても創造前から破滅状態の神を唱える”真の父母様の本体論”と、これを信じる菅井教は、出発から矛盾した破滅状態の神学であり宗教なのです。

だからサタン教なのです。


もちろん菅井教もこの利己的自己中心の神を未熟な神であると定義しています。

こんな反省してやり直すような心情から根本的欠陥、根本的矛盾をかかえた破滅状態のポンコツ神が宇宙を創造するなど出来るはずがありません。明らかにサタン神です。サタンよりも酷い悪神です。これほど酷いポンコツ悪神を信じる菅井教徒たちなのです。


どうしてこんな反省する出来損ない矛盾破滅のポンコツ神が、菅井教が主張するように「二代王様は神様について嘘や汚れが全く無い神様として証し出来る」のでしょうか。


罪がなくても、こんな天宙創造する前に反省するような統一思想でみてもあり得ない天宙バカ神を文亨進師(二代王様)に提示するこの愚行は、まさに神様と文鮮明真の御父様を貶めて、二代王様を心底馬鹿にする暴挙です。

これは創造主に対する明らかな反逆です。


https://kuruto.muragon.com/entry/34.html 


菅井教は神を「究極的に未熟な存在」であると、菅井教自身が罵って貶めて喜ぶ堕落性あふれる猟奇的深層心理があるから、統一思想的にみてあり得ない、こんなメタノイア反省するおバカ神を恍惚の表情で自慢することができます。

創造神を徹底的に貶めバカにして喜ぶ究極のサタン悪魔の喜びです。


こんな悔い改めた神、メタノイアした神、矛盾破壊状態の神など、菅井教の人々以外でだれが尊敬し愛するというのでしょうか?こんなメタノイアした神、矛盾破滅状態の神など人々の憎悪の対象にしかなりません。これほどまで統一思想を破壊する神ですから、この神はサタンだと分かるからです。


菅井教の同志たちも、内心では「夜の神様も元々は自己中の神だったんだろ!メタノイアして真の愛に目覚めたんだろ!なんだ本質根本が自己中の駄目な神ではないか!」と憎悪し馬鹿にしているのです。


このように菅井教とは、対象という概念もない前から、為に生きる愛である真の愛の神を、メタノイアする神に卑しめ貶めて憎悪し憎み喜ぶ堕落性溢れるサタン宗教なのです。

菅井教は、そのような真の天宙天地創造神を心の奥底では憎悪する堕落天使そのもののサタンの深層心理の宗教です。



6.菅井教のメタノイア神は真の愛がない


ここではこのメタノイア神の愛の能力について見てみます。


菅井教が言う自己中心な神とは利己主義欠乏の愛の神ということです。欠乏の愛、つまりエロスの愛です。

この神は本質根本、心情から有も無も中和的主体(統一体)の全てが利己主義欠乏の神であるが故に、自身の中に存在しない「(与える)為に生きる愛」を持つことはできません。


そのようなエロス欠乏の神がゆえに対象の前に反省して為に生きる思想を持つようになったと菅井教は言います。


つまりこの神のメタノイアは、自己の欠乏を満たしたいという寂しい動機から「為に生きる思想」をもったということです。

この寂しい孤独な思いを満たしたい欠乏の愛が中心なので、そのようなベクトルの心情なので、どんなに「為に生きる思想」をもっても、結局この利己主義欠乏の愛を満たす心情が中核になります。


これは見せかけだけの偽り嘘の「為に生きる思想」です。いわゆる偽善です。

菅井教の「為に生きる思想」とはうわべだけで本質は満たされない自分の欠乏の思いを満たすことを目的とした極めて利己主義的自己中な「為に生きる思想」です。


即ち菅井教の「為に生きる愛」、「真の愛」とは「利己主義欠乏のエロスの為に生きる愛」の事です。偽善の愛です。

「与える為に生きる」能力もその要素も根本的に無いのですから、有るフリ、偽善で装うことはできても本質の「与える為に生きる」ことなど出来ません。出来るのは偽善の醜い愛だけです。

創造主としてあり得ない神です。


  • 「与える為に生きる能力」が有るという反論に対して


このように菅井教の神は世間的に言う「ドケチで自己満足な存在(自己中)」が、その対象に気づいたとしても、「他者の為に生きる。相手に与える」という、自身の中に存在しなかった心情や能力、(与える)前段階エネルギーを持つことは出来ません。


● 持つようになったとするならば、誰かがその心情と能力を本性相、もしくは本形状や前段階エネルギーの中に、神の知情意に感知されない無となり闇となり潜んでいたということになります。

つまり別の神が、一人でおられた神の中和的主体(統一体)の内部に潜んでいたことになり二元論になってしまいます。

二元論ではなく一なる神というのなら精神分裂症の神です。根本的に狂った神、精神障害のある神ということになります。これではとても中和的主体(統一体)とは言えません。狂った不調和体です。


●「他者の為に生きる相手に与える」心情や能力が利己的自己中心の中にもともとあったのだと反論するなら、先ほど述べたように最初から矛盾を抱えた破滅状態の神です。

この神の前段階エネルギーは「利己的奪うエネルギー」と「利他的与えるエネルギー」が衝突し自分自身で自身を破滅させる完全矛盾破滅状態の前段階エネルギーです。授受作用は不可能です。


もしも根本から「利他主義の愛の神」を主張するのなら、前段階エネルギーは利他的愛のエネルギーであると主張するのなら、我々が最初からの神学「神の与える為に生きる創造本然の自己中心」を認めることになります。

この場合、利己的自己中心は存在することができず、当然メタノイアは不要な神になります。


●或いは神自身がそのような「与える為に生きる愛と能力、そのような前段階エネルギー」を持っていたのに完全に忘れていたのでメタノイアで思い出したという論も可能です。

この場合、この夜の神は創造前から痴呆症、天宙的馬鹿神であるか、或いは知情意が完全に錯乱している精神分裂症の神ということになります。つまり根本から自己矛盾破壊して存在していた神であるということです。中和的主体(統一体)という完全授受作用統一している神にはありえません。


このように菅井教としては、本当にただのドケチな世間の言う自己中な神が、真の愛に目覚めて『悔い改めた(メタノイア)』というドラマに価値をおいて自己陶酔したいのでしょうが、とんでもない神に対する冒涜です。菅井教の知情意と霊性はまさにサタンの堕落性に溢れた知情意と霊性です。

それは天地創造神を心の底から憎むサタンの深層心理が菅井教にはあるからです。



7.菅井教の神は本形状が主体、本性相が対象の絶対受動神


キリスト教におけるメタノイアとは、神に、キリスト、メシアに愛されたという自覚することによって生じます。

メタノイアする愛を与えるのはキリストであり、メタノイアするのは信徒です。


菅井教は「キリストとは堕落したから必要になったのであって、そのキリストがどうして創造前に存在するのか」という見事な低位キリスト論です。

そうでありながら創造前において、本形状にキリストが立つと主張していました。今は論破されて、そんなことは言っていない、お前の捏造だと嘘をついています。


では菅井教の神のメタノイア、「罪がない悔い改め」によって中和的主体(統一体)した本性相と本形状においてどちらが愛を与えるキリストであり、どちらがメタノイアする信徒なのか?

本形状の前段階エネルギーから発想した対象よって神の本性相の知情意がメタノイアしたということですから、本形状の前段階エネルギーがメタノイアする愛を与えたキリスト、メシアであり、神の本性相の知情意が信徒になります。


これでは、愛の主体と対象の関係でみるならば、対象という発想を性相の知情意にもたらした対象であるはずの本形状の「前段階エネルギー」が夜の神様の主体であり、夜の神の本性相の知情意が対象になります。

アクティブ(能動)、パッシブ(受動)でみるならば、明らかに「前段階エネルギー」がアクティブ(能動)であり、夜の神の本性相の知情意がパッシブ(受動)です。


メタノイアとはキリストの愛を受け生まれ変わる、再創造されるという意味もありますから、神の本性相(知情意)が「対象の発想」と「その発想によるメタノイア」によって生み変えられ再創造されるのですから、この神の本形状の「前段階エネルギー」が創造主になってしまいます。

神の絶対服従もこの「前段階エネルギー」の絶対服従性を神の知情意が感じることからもたらされますから、「前段階エネルギー」が主体であり本性相の知情意が対象です。主体としての愛を与える自主的展開性がまったくありません。

見事な主管性転倒、逆主管です。


このように、この菅井教の神は、中和的主体(統一体)自体内において本形状と本性相の主体と対象の関係が逆転しているのです。


神は創造主、つまり創造の絶対能動主体です。(与える)愛する心情、(与える)為に生きる愛において絶対主体であり絶対能動でなければなりません。

中和的主体(統一対)の内部において、当然、絶対能動主体でなければなりません。

神の真の愛に絶対服従するとは、本来自身の与える為に生きる真の愛に絶対服従する創造主としての主体性、能動性と、その愛の能力と創造性を意味します。


ところがこの菅井教の神は、自己の中和的主体(統一体)の内部において、この自身の「前段階エネルギー」の動きに、絶対服従性と対象性と対象性を感じて、それを愛であると認識しています。極めて受動的です。

中和的統一体とは完全授受作用体なのですから神の知情意は自身の形状(前段階エネルギー)も完全理解しています。完全に理解しているから形状の展開から創造が始まります。ところが、菅井教の夜の神は愛の始動は、すべて愛を受けてから気付かされ動き出します。

このように菅井教のこの神の中和的主体(統一体)は、受動から始まる完全受動体の神です。


以上のように菅井教の神の知情意と感性には、対象的な受動的能力しかありません。創造主として主体的に自発的に能動的に(与える)為に生きる愛を展開する創造性がまったくありません。

絶対的能動性、絶対的自主主体性があってこそ創造主です。


これでは菅井教の神はロボットだと批判されるのは当然です。

菅井教は創造前の神が、このような絶対受動神であると主張しますが、創造主としてあり得ない神です。



8.絶対服従、菅井教の神の真の愛は邪悪な欠乏の愛


以上見たように、菅井教の対象が現れる前の神は菅井教自身が言っているように「為に生きる愛」が無い、矛盾と破壊に満ちたいわゆる利己主義の自己中な神です。


菅井教は対象が現れ真の愛に絶対服従するようになったというのですが、ではこの菅井教の言う真の愛とは何なのか?


文鮮明先生の真の愛への絶対服従は、神御自身が根本から利他的為に生きる神であるが故に可能です。愛は能動的で主体的であるからです。性相形状中和主体とはそのような能動的愛の主体性を表します。


しかし菅井教の自己中心の神は、(与える)為に生きる心情根源も能力も無い根本から利己的為に生きる神ですから、利他的為に生きる真の愛に絶対服従などできません。

対象が現れても(与える)為に生きるという心情は出てきません。


ですから先ほど説明したように菅井教の「為に生きる愛」、「真の愛」とは「利己主義な欠乏を満たす為に生きる愛」の事です。簡単に言えば偽善の愛です。

そうなので菅井教の言う「神が真の愛に絶対服従するようになった」とは「神が”欠乏を満たす為に生きる愛”に絶対服従するようになった」という事です。

自分の欠乏の愛を満たすことに極めて強欲に絶対服従する神です


つまり菅井教の神は対象が現れたとき、利己主義の神が自分の自己中な満たされない欠乏の愛のために「ために生きる愛」「真の愛」を偽善のために思いついたのです。極めて邪悪な神です。


菅井教の神そしてその聖霊は、他者を食い物にするために「為に生きる・アガペーの愛」を利用する偽善の神です。偽善の欠乏の愛の神です。そして偽善の欠乏の愛の聖霊ということです。


そのような動機で目覚めた真の愛ですから、このような極めて邪悪な動機と心情の愛です。このような愛を菅井教は真の愛だというのです。この菅井教の「偽の真の愛」の事実を知って「菅井教の真の愛」に決して騙されてはいけません。偽善です。


  • 菅井教のいう絶対服従の意味


与える為に生きる愛が根本に無いのですから、当然、どこまでも絶対的利己主義の為の愛に絶対服従するようになったのです。

自己の欠乏の愛を満たすだけの利己主義のためにだけ絶対服従する神であり、その利己主義の愛エネルギーの聖霊(悪霊)なのです。

満たしても満たしても満たされない永遠に続く絶対欠乏愛への絶対服従です。


自分の利己主義の欠乏の愛を満たすための絶対服従ですから即ち、菅井教の神が相対を愛し、対象を愛し、女性を愛し、その愛のために天宙天地創造したのも全て、神の自身の”欠乏の満たされない愛を絶対服従して満たす為に」創造したのです。


菅井教の天地創造世界とはこのお互いの欠乏の愛に絶対服従し、お互いをお互いに利用し騙し詐欺を行い奪い合うことに絶対服従する絶対欠乏愛の世界です。


*菅井教の絶対服従に関する考察はこちらも参考ください。

<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察2◆偽りの真の愛の起源、夜の神の母



9.菅井教の真の愛は欠乏の閉鎖的自己愛


菅井教の神の心、その感性は自身の中和的主体(統一体)において、自身の「前段階エネルギー」の動きを絶対服従性であると認知し、愛が込められていると感じメタノイア、或いは愛に目覚める極めて受動的な心、感性でした。そのような極めて受動的な中和的主体(統一体)の神です。


心理学の用語で言えば、これこそが究極の「閉鎖的自己愛(ナルシシズム)」であり、精神的な「欠乏の愛」の産物です。

そのようにこの神の心、精神は「主体能動性の無い欠乏の愛」であるので、この自己中な神は、自分の内部の形状の動きに絶対服従だ、愛が込められていると感じ、その欠乏の愛から、自分自身を愛するようになったのです

まさに究極のナルシズム、自己閉鎖的自己愛です。


この究極の「閉鎖的自己愛(ナルシシズム)」が、この欠乏の思いを満たす為に絶対服従し生きるようになったということです。欠乏の愛を埋めるための絶対服従、つまり奪うための絶対服従ということです。


このように菅井教の真の愛、為に生きる愛とは、どこまでも他の存在を自分のために利用する欠乏の愛です。つまり偽善の愛です。

この菅井教の真の愛は「与える為に生きる愛」が根本において欠落している邪悪な欠陥品です。


「与える為に生きる」という思想を悪用しながら、その実体は、この他者を利用し自分の欠乏の思いを満たすことに絶対服従する神なのですから、どれほど恐ろしい神なのでしょうか。これは悪魔です。


どんな猟奇的殺人鬼でも「(与える)為に生きる」という思想を知識として持つことはできます。しかし為に生きる愛の情も能力も無いので、むしろこの「(与える)為に生きる」を「君の為に殺してあげるよ。その方が嬉しいよね」などと邪悪に解釈して、その欠乏の愛の思いに絶対服従して殺人を続けるのです。

この猟奇的殺人者がこれが真の愛だと言うのなら、この猟奇的な殺人者にとってはそれが真の愛だということです。


つまり菅井教の為に生きる神とはこのようなサイコパスな猟奇的殺人鬼の深層心理と同じ自己中邪悪な深層心理の神です。

菅井教の「御父様の聖霊」は、そのような自己中邪悪が本質の「お父様の聖霊」です。つまり正体はサタンの霊です。

もちろんこれは菅井教祖の深層心理もそうだということです。まさにサタンです。

菅井教に集まった者たちはこのような深層心理のサタンにその寂しい深層心理を利用され、そのような心の傷をお互いに舐め合い慰め合っているのです。


菅井教の真の愛とは、菅井教の為に生きる愛とは、このような自己中で邪悪な愛です。これが菅井教の「お父様の聖霊」の本質です。

これが菅井教の言う真の愛の正体です。

そして、菅井教祖自身の本当の姿です。


欠乏の愛の神が為にいきるという思想をもっても、元来本質が為に生きる愛、アガペーの愛がもともと無い欠陥品ですので、与える為に生きる真の愛など実践できません。本質的に与える為に生きる愛の能力も心情も本来無い神なので当然です。



10.菅井教の神の良心と被造世界


以上見てきたように菅井教の夜の神は、根源が他者犠牲利己主義の創造前の神です。

ということは、そのような致命的欠陥が根本であるこの神が造ったこの致命的欠陥を持つアダムとエバが堕落するのは絶対的必然です。

この致命的欠陥の神が造ったこの世界にありとあらゆる苦しみ悲しみ不幸狂気があるのは当然です。


この創造前の致命的欠陥のある神の何処にも為に生きる愛、犠牲の愛がありませんから、この夜の神の為に生きる愛は、根源のない見せかけの偽りの為に生きる愛、偽善の真の愛ですから、この被造世界において人々がいくらメタノイアしても、それは見せかけだけで、直ぐに本来の他者犠牲の為に生きるようになります。


菅井教の人々の良心の根源である神の根本心情、その善悪基準の根源は、他者犠牲自己優先の利己主義です。

いつでも利己主義他者犠牲な邪悪なことをしても犯罪の限り、罪の限りを犯しても、もともとの夜の神の根源がそうだからだと正当化できます。

なぜなら、このメタノイアした神の根源がこの利己主義の為に生きる愛なので、利己主義の為に生きて犯罪の限りをつくした者を断罪し罰を与える権威も権限もないからです。


「メタノイアさえすれば犯した罪にたいする罰も蕩減もない!」それを正当化するために「神様だって最初は自己中から出発してメタノイヤしたんだ」という教理を作り出す必要があったのです。

これが菅井教の神の良心であり、菅井教の良心基準です。


「君の家族を全て殺戮したよ。でもメタノイアしたから赦してね。」「そうだね、我々の神ももともとは自己中な神だからね。赦すよ。こんど私もあなたの家族を全て殺戮しておくから、メタノイアしたら赦してね」。

こんな猟奇的会話が菅井教では成り立ってしまいます。

菅井教とその同志たちの良心は、そのような神の良心であり良心基準です。


そして菅井教では、創造前の夜の神様が文鮮明師の生心に臨在し、夜の神様の聖霊が菅井教の信徒たちに臨在すると言います。

その意味は、彼ら菅井教信徒たちの心、その生心は、このような猟奇的利己主義の為に生きる聖霊(正体は悪霊)のままの生心、心であるということです。そのような良心基準だということです。

そして、文鮮明先生の生心は、このような猟奇的利己心の為に生きる神と一つになった偽りの与える為に生きる偽善のキリスト・メシアであるということを菅井教は言いたいのです。これは文鮮明真の御父様を、キリストを菅井教たちは憎んでいるからです。


菅井教の「夜の神」とその「お父様の聖霊」は、このように偽りの真の愛を演じる極めて醜い汚らわしい「夜の神」とその「お父様の聖霊」でした。

これほどまでに、創造以前の存在の根本からは醜く汚らわしいこの霊は、必ずやヨハネの黙示録にあるように、硫黄の海に投げ入れ焼き尽くし滅ぼされることでしょう。


そうです。私達宗族の王と王妃たちはヨハネの黙示録にあるように、この忌まわしい菅井教の「夜の神」とその「お父様の聖霊」を焼き滅ぼすべき天命があるのです。


11.菅井教の四大心情の核も邪悪な自己中心愛


以上見てきたように、結局、菅井教の夜の神の根源は「(与える)為に生きる愛」を否定し、「(奪う)為に生きる利己主義の愛」でした。

そして「(奪う)為に生きる利己主義の愛」しかない神が、そのような能力しかない神がいくらメタノイア、悔い改めようと、結局「(奪う)為に生きる自己中愛」のために「(与える)為に生きる愛」の思想を悪用しもっと「(奪う)為に生きる自己中愛に絶対服従」するだけの極めて邪悪な猟奇的自己中な神です。


当然、子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛の四大心情圏もそのような偽善の愛、菅井教の夜の神の根源である「(奪う)為に生きる利己主義の愛」を中心として、家庭、宗族、民族、国家、天宙をつくりあげるということです。


まさに堕落天使、サタンの創造理想を成し遂げるための宗教が菅井睦雄教祖を中心とした「天一国聖殿聖臨連合 」でありその同士立ちです。

我々はこの聖殿に入り込んだ、利己主義的自己中心の神、メタノイアの神によって統一思想を根本的に破壊する、このようなサタンを分立し真の御父様の三代王権をお守りする責務があります。

悔い改めを前提としますが、皇族圏、大陸会長レベルにまでサタンが侵入していても容赦なくサタン分立する平和軍警察、宗族の王と王妃としての主体性責任分担があるのです。文亨進師はもしも天一国王が狂ったら宗族の王と王妃が立ち上がりなさいとまで言っておられます。



12.「為に生きる」に関する菅井教の反論記録


論としては以上ですが、最後に、冒頭の「*この菅井堕落性爆発発狂については後で経過報告します。」についてその記録をここに付記します。1️⃣~7️⃣のストーリーとして付記します。


これは菅井教が「為に生きる思想は創造」としていた神学から、論破されて「為に生きる思想は創造」に変更し、結局は「神の一人でいた時の為に生きる」を否定する過程の記録です。


菅井教は論破されるたびに自分の間違いをさも相手が犯した罪であるかのように捏造して相手を犯人に貶めます。

このストーリーの記録はは、菅井教の聖霊がどれほどおぞましい悪辣悪質な、盗っ人猛々しい汚い霊であるかがよく分かります。

結局は菅井教の聖霊は神を憎む恨みの霊であることがよく分かる記録です。


この記録も霊界に書き留められ、菅井教たちが霊界で審判される時に使われます。


1️⃣菅井神学の基本「神の為に生きる」は創造後


文鮮明真のお父様:

真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。(284-71, 1997.4.15)


菅井教祖は、この御言を

菅井教:天一聖殿さんが自分の主張を正当化するために用いたみ言は、創造後の神様について語られたみ言です。つまり、愛の対象となる人間と被造世界を創造するために、構想理想として立てられた神人愛一体理想の核心となるべき尊いみ言です。

https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html


このように「正当化するための御言だ」などと大いに「文鮮明よ、あなたのその御言は創造後なんだ!」と見下し馬鹿にしていました。「女性分野という構想」の後だと馬鹿にしていたのです。

天宙創造の根本出発がこの注入つまり「ため」に生きるという注入からであると言っておられるのにもかかわらずです。

つまり文鮮明師の

真の愛は、「ため」に生きるところから生じる天地創造の根本、出発がこの注入からだった神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。投入するところから始めたのです

この御言を真っ向から否定し、これは創造後のことであると否定していたのです。

”真の父母様の本体論”の本質は、このように文鮮明お父様の「為に生きる」をそれは創造後だと「女性分野という構想」の後だと見下し馬鹿にする神学でありそのような聖霊です。


2️⃣「為に生きるは創造後」を論破され「既に解説していた」

と嘘の見栄を張る菅井教


ところが、「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏 で論破され、先の御言は「創造前の神様について語られたみ言」であることが証明されてしまいました。

次のように、

菅井教:

感謝!三原氏が「真の父母様の本体論」完成に向けての最も重要な大貢献者となる!https://kuruto.muragon.com/entry/411.html


などと言ってそれまでの菅井教の「為に生きるは創造後」は間違いであることを認めたのです。


ところが論破されたら論破されたで「俺それ言っていた論」で見栄を張ってきます。子供が論破されて「知ってたも~ん」という極めて幼稚な論法です。


菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。https://kuruto.muragon.com/entry/412.html 

このように見事な子どもの見栄はり論法で大いに自己保身のための見栄の限りをはってきました。

このように菅井氏の聖霊の心は汚らわしく醜い心です。


3️⃣論破された腹いせ「その解釈は犯罪だ」攻撃


そして菅井氏の聖霊は。その敗北した腹いせに次のように狂ったように「その解釈は犯罪だ」と自分の過ちを自己弁護するために相手を非難するという、実に汚い左翼の手法を次のように仕掛けてくるのです。


「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는  것입니다.(自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された)」という御父さまの言葉の翻訳に対して、菅井教祖は狂ったように「411.html412.html で「Google翻訳の悪用だ!」悪だ、悪だと叫びつづけきたのです。


その挙句に、

菅井教:ついに、真のお父様のみ言を、AIによる機械翻訳を用いて、自分の思想に合うように変容させて、二代王様の御言を翻訳しているブログに掲載したのです。彼が利用したみ言は、google翻訳のもので、deepl翻訳とは真逆の意味にとれる内容になります。エントリー413.html


ついに、このように「機械翻訳を用いて、自分の思想に合うように変容させている!」と犯罪者扱い。自分の罪や失敗を人になすりつけて、お前がやったんだと処罰する極めて悪どい手法です。

菅井教祖の聖霊とはそのような極めて悪どい聖霊です。



4️⃣「その解釈は犯罪だ」から「お前と同じ解釈だ」へのおぞましき大逆転


ところがこの菅井教祖の相手を犯罪者にする悪質な論も

天地創造神の「為に生きる自己中心」にて再度再び論破されます。

つまり、

「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는  것입니다」の訳は

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された」の訳が正しいことが証明されたのです。


ところが論破された菅井教の聖霊は次のように、また悪の限りを尽くしてきます。


これほど論破された腹いせに、悪用だ、翻訳捏造だなど犯人にしたて上げ暴言を吐いておいて、

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された」が正しい解釈翻訳であることが証明され、自分の逃げ道がなくなると、菅井教祖は平然と次のよう「いやそれ知ってたよ、当たり前ではないか」とそれまでの論を捨てて、居直ってきました


菅井教:どこからどのように読んでも、普通には次の解釈になります。 

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

三原氏が菅井の主張だという、「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開されることです」と変わりのない意味です。

この表現はdeepl翻訳が、機械的に翻訳したものであり、私はそれを参考にしたまでのことです。エントリー455.html


あれだけ

『「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」という訳は翻訳の悪用だ、犯罪だ』とまで犯罪者扱いし罵っていたのに

論破されると、知れっと

「菅井教祖:どこからどのように読んでも、普通には次の解釈になります。自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는  것입니다」の訳は「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開され」の訳が正しい何か文句ある?


と開き直って来たのです。なんというおぞましき大逆転!

これも論破されて「知ってたも~ん。どう読んでもそういう解釈になるも~ん」という幼稚な子どもの見栄ですが、極めて邪気に満ち満ちたおぞましき大逆転!


菅井教に臨む聖霊は、こうやって間違っていることが分かると、腹いせに相手をこのようになぶり殺しにする悪どいおぞましい聖霊なのです。

正義がまったくない、正義が死ぬほど嫌いなおぞましい聖霊です。

菅井教の聖霊とはこれほど幼稚な不義の限りをつくし相手を罪に陥れて処刑する極めて悪質なおぞましい聖霊なのです。


5️⃣「AI翻訳」への責任転嫁


さらに見苦しいのは、形勢不利になるやいなや、すべての責任をAI(DeepL)翻訳になすりつけている点です。

菅井教祖「この表現はdeepl翻訳が、機械的に翻訳したものであり、私はそれを参考にしたまでのことですエントリー455.html

「参考にしただけ」・・・なんという責任転嫁醜さでしょう。

あれだけDeepL訳が正しいとギャンギャン言って人を犯罪者扱いしたあげくそれを論論破されると、ツールに責任転嫁、なんとみっともないことか。

つまり菅井教祖の聖霊というのは「無料翻訳ツールの出力に振り回されるだけ」のどうしようもないみっともない無様な聖霊であることを自ら白状してしまったのです。


6️⃣論破されたら持論を真逆に覆してふんぞり返って威張る


さらに菅井教は自分のメンツ、相手を陥れるために自説を曲げるどころか、180度、真逆の意味にかえることも平気で行います。

菅井教の言う真理とはその程度、どんどん自分の姿を都合に合わせて変えます。真逆の意味に変更して、そうだよその通りだよと威張ります。


先に論じたように論破されて、エントリー455.html

「(菅井教祖)どこからどのように読んでも、普通には次の解釈になります。「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는  것입니다」の訳は「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開され」の訳が正しいと認めた後の態度がまた凄まじく盗っ人猛々しいのです。


その後に、次のように主張します。

どこからどのように読んでも、普通には次の解釈になります。

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開された。」と変わりのない意味です。エントリー455.html


その前のエントリー413.htmlでは、菅井教祖は

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開されることです」

とでは180度意味が違う、真逆の意味だ!と次のように言っていました。

彼が利用したみ言は、google翻訳のもので、deepl翻訳とは真逆の意味にとれる内容になります。エントリー413.html


 つまり

ついに、真のお父様のみ言を、AIによる機械翻訳を用いて、自分の思想に合うように変容させた!

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開された。」

では真逆の意味です。エントリー413.html


と翻訳を悪用した犯罪者扱いにし非難していました。

ところが翻訳が正しいことが証明され、論破されたら、


「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」

「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開された。」

と変わりのない意味です。エントリー455.html


このように

「真逆の意味エントリー413.htmlではく変わりのない意味エントリー455.htmlです。

と、

このように、まさに真逆の180度転換して自分のメンツのために自分の論をひっくり返す。


菅井教を導く聖霊の真理は、ある時には地動説、ある時は天動説と、状況においてコロコロ変わるのです。

こんなにコロコロ変わり、相手を盗っ人猛々しく責め立てる聖霊の、何処が正義で、どこが真理で、何処が天の倫理なのかというのです。


菅井教の聖霊と真理はこのように論破されたら「知ってたも~ん」と幼稚な「ちゃぶ台返し」をして盗っ人猛々しく論破した相手を罵り居直る、こんなことばかりを繰り返します。


菅井教の聖霊とは、これほどまでに正義や義の微塵もなく、これほどまでに邪悪に満ち満ちた霊であり、こんな義の微塵もない邪悪な聖霊(悪霊)に導かれて書かれたのが「真の父母様の本体論」なのです。

菅井教祖と菅井派の人々の正義、真理、道徳はとは、上記1️⃣~6️⃣で見てきたように自分のメンツのためなら人を陥れて罪をなすりつけて嘲笑い見栄をはるということです。

このような天宙的邪悪を菅井派の人々は「神様、真のお父様、イエス様、天使、堕落天使、そして全ての霊界人」の前に、そして自分の子孫や血統の前に永遠に威張り誇るのです。


7️⃣神様の「為にいきる」の根本否定、

神様を心底から憎む菅井教


以上のように菅井教は

「自己の為にしていた時から、相対の為にする時に展開された。」    

「自己を優先していた時から、相対を優先する時に展開された。」

この二つの意味の関係を

エントリー413.htmlでは真逆の意味です。と言っていたのに、論破されて

エントリー455.htmlでは「変わりのない意味です。」と論を180度変えてきました。

この菅井教の心理は次の通りです。


  • 真逆の意味です。

エントリー413.htmlでは御言に 「自己の為にしていた時」、つまり菅井教にとっては御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」時が

「自己の為にしていた時」であるという御言は、

神は一人でおられた時から「為にいきる」神様であるという菅井教にとっては極めて都合の悪い御言です。


それだから「優先」と真逆の意味だと形相を変えて「為にいきる」という意味ではないとヒステリックに「為にいきる」を否定し犯罪だと非難したのです。


  • 変わりのない意味です。

エントリー455.htmlでは論破されて、一転して「優先」と「為にいきる」は変わりのない意味、同じ意味だと言ってきました。

こんどは「為にいきる」とは「優先」と同じ意味だ主張し「為にいきる」という意味自体を変えて「為にいきる」の御言を否定してきました。

菅井教:一人で存在していた自己中心的な神様には、対象が存在していなかった事を明確にされています。 対象の存在そのものが無い神様の心に、為に生きるという思想はまだありませんエントリー413.html


菅井教にとって、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたときに為に生きるという思想があっては絶対にならないのです。

それは冒頭に結論を書いたように、ルシファーや堕落天使たちと同じように

菅井教は、神が本質的根源「為に生きる」愛であることが憎くて仕方ないのです。

上記1️⃣~6️⃣で理解いただいたように、まさに憎悪、神様に対する憎悪で満ち満ちているからです。

そのように菅井教の聖霊は神を憎む霊であり、その教え”真の父母様の本体論”はそのような嘘と神に対する憎悪で書かれた状況によってコロコロと言葉が変わる教えなのです。




<参考>

菅井教、菅井派に対する記事インデックス

リンク先、菅井教、菅井派に対する記事の一覧です。菅井教対策の資料としてお使い下さい。




__________________________