2026年9月14日月曜日

神の本質はキリスト、訓練精誠で神のエネルゲイアに触れよ ◆2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<4> 文亨進二代王

神の本質はキリスト、訓練精誠で神のエネルゲイアに触れよ

2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<4>

文亨進二代王

監修:fanclub三原

文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 목요예배 2026 08 27


(2:31:20) 翻訳clean



神の本質に触れると思うのはサタン教


皆さん、自分が一人で本質に触れると思っているのです。これはサタン教です。

それならキリストなど必要ないということになります。私もキリストだなんて言っているのです。

ああ、とんでもない話だ。そういうことでしょう?


違います。御父様を保管しなければなりません。御父様とキリストは神の本質の中に入ることができ、その本質から出るエネルゲイア 、そのエネルゲイアに触れるだけでも、それも神ですね。神のエネルギーだ。これを理解しなければなりません。

それは神が創造された行為ではありません。

神のエネルゲイア こそが永遠の働きなのです。 運行。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


永遠の運行(働き)とは、どういうこと? 

神の光、皆さん、神の光には始まりがないでしょう。神の光に始まりはある、ない? 神の栄光、神の栄光には始まりがありますか、ありませんか?

始まりはありません。  


神の善さには始まりがありますか、ありませんか? ありますか、ありませんか? 

ありませんね。

つまり、これは何でしょうか? 神の運行(働き)と訳しますね。

そのエネルゲイアには始まりがないのです。神がおられるからこそ、エネルゲイアもあるのです。

始まりがないのです。


神の善さには始まりがありますか? ありますか、ありませんか?神の栄光に始まりはあるのでしょうか?神の愛に始まりはあるのでしょうか?そんなのあり得ないじゃないですか。神がおられることによって、善さもあり、栄光もあり、愛もあり、そういうことじゃないですか。


私たちと授受作用したいなら、この「エネルゲイア 」が本質から分離されなければ、私たちは授受作用もできません。

つまり、これが一つになれば、私たちは神の本質と授受作用することになります。神の本質と授受作用できるようになれば、キリストも御父様もイエス様も必要ありません。

「私たちも神だ」と言うなら、これはサタン教です。サタン教。


つまり、私たちは本物の神に出会える、と聖書には書かれていて、神の役事、真の神の役事として記されており、御言葉にも…でも、でも、エッセンスとエネルゲイアが一つに融合していれば、そのエネルゲイアの炎もエッセンスだ。それなら、彼らも神のエッセンスとつながっているなら、彼らもキリストと同じくらい神だ。ありえない。

それなら、これは多神教になる。


ヒンドゥー教はこの問題を引き起こします。

ヒンドゥー教はヨガを通じて、自分も神になれるじゃないですか。 

仏教には神や創造主はいませんね。ヒンドゥー教には創造主がいて。理解できますか?


神のエネルギー働きと授受作用し神を体験する


だから、このエッセンス、エネルゲイアの部分を東洋的に理解すべきなのです。東洋のキリスト教の立場を理解すれば、私たちは神と授受作用出来る。私たちは摂理に同参できます。5%は予定論とは結びつきません。


私たちは本当に失敗すれば、摂理に問題を引き起こす可能性があります。

なぜ? 神の御心は神の本質ではないからです。神の働きだからです。神の働きだからこそ、私たちはその働きと授受作用できるのです。

ああ、これは不思議ですね。


私たちは、神のエネルゲイアを実際に体験できるのですから、だからこそ祈らなければならないのです。

ですから、真剣に祈らなければならないのです。ですから、修行しなければならないのです。ですから、断食しなければならないのです。だから、精誠を尽くさなければなりません。


なぜ?

こうした訓練を通じて、私たちは神のエネルギーを感じ、神と出会うことさえできるのです。もちろん悔い改めなければなりませんが、もちろん悔い改めて、「お父様、ありがとうございます」と中心にしなければなりませんが、私たちは、神のエネルギーを通じて神を体験することができるのです。


サタンは誰よりも原理を知っている


トマス・アクィナスの神学、アウグスティヌスの神学、これらは予定されています。すでに地獄に行く人々は予定されており、天国に行く人々もすでに予定されています。皆さんは何をしても構いません。

西洋の合理主義や五感を通じてしか知識を得られないから、勉強ばかりすればいいのです。

勉強ばかりして、頭ばかり大きくなればよいのです。

役に立たない連中になってしまいます。

これは、多くの西洋のキリスト教徒たちが、まさにそんな頭でっかちな連中になってしまっています。

修行や苦行、訓練、全くしない。精誠、厳しい断食など、一つもしない。必要ないと考える。


なぜ? 神を知的に理解しなければならないから。あの西洋の、カトリック(天主教)において最も重要なのは何だ? 

どこの大学を出たか、どこの神学大学院を出たか、これがキリスト教の何だ? どの聖書を読んだか、どれだけ多く読んだか。何千回も読んだ。

サタンは多い、サタンは聖書を最も多く読んだから。サタンはどの牧師よりも聖書を多く読んだ。


知っている?サタンは聖書をどの牧師さんよりよく知っている。

問題は何か? 従順しない。従順。読むこと自体が問題ではない。

ある牧師たちは「私は聖書を28回読んだ」と言う。いや、サタンは数千億回も読んだのに。


問題は、何回読んだかではないでしょう。これは、どれだけ従順だったか、これ、どれだけ実践したか、これこそが問題です。


原理も同様です。原理を何回読んだか、これは問題ではありません。

原理を一番多く読んだ連中が、御父様を裏切ったじゃないですか。原理をただ知って暗記していただけですから。でも堕落しましたね。


御父様の権限に戻ってきた人を見れば分かりますが、原理を一番多く読んだ人ではないとしても、何がもっと重要なのでしょうか? 御父様を愛していた人たちです。その関係を断たないと決心した人たちです。

完璧でなくても、原理を何千回も暗記していなくても、読んでいなくても、御父様との関係を断つことはできない。こういう人たちが生き残るのです。

結論は関係です。関係。


『原理』で最も重要なのは宝血化体説

『原理』で最も重要なものは……えっと、新しい真理はすべてを解き明かす。

『原理』で最も重要なものは何ですか? 御父様です。宝血。私たちの神学の中心は何ですか? キリストの宝血。それです。


血統はどこから来るのですか? 知識?血統は知識から来ますか?『原理』を何回読んだかで表れますか? 

ある学者たちは『原理』を100回読んだそうですが、その学者たちに血統はありますか?ありますか?ありませんか?ありません。 

 ああ、知的には救われません。


キリストの血を飲まなければなりません。 イエス様が言われたのは、「私の肉と血を飲み、食べなさい」ということです。イエス様も言われました。私たちだけが言っているのではありません。イエス様もそうおっしゃっています。「私の血と肉を食べなさい」と。パンとワイン。


カトリック(天主教)の根本的な神学はそこに根ざしていますよね。

ミサの「血と肉」の儀式(聖餐式:聖体拝領)、カトリックの根本的なトランスサブスタンス(聖変化:実体変化) の哲学を一度調べてみてください。トランスサブスタンスの哲学を韓国語で どう言えばいいのか分かりません。


根本的な神学では、ミサの奇跡だと言っていますね。そこで、パンとぶどう酒が実体的なイエス様の肉と血になるということです。

ローマのミサでは、血とパンとぶどう酒が、ミサの中で実体的なキリストの血と体になると言われている。実体的な血と肉の儀式です。皆さん、カトリック(天主教)を知らないから分からないだろう。


二代王はカトリック(天主教)の大学にも通ったし、カトリック(天主教)の修道院にも住んでいたじゃないですか。

私は毎日ミサを見て。私はミサで食べることはできませんが。私はカトリック(天主教)信者ではないので。

でも毎日見ることができるのです。彼らの血と肉は、食べられませんが。カトリック(天主教)信者ではないから。これは根本的な神学です。


これは何ですか? オーケー。化体説(実体変化)。韓国語で化体説。


これがカトリック(天主教)の化体説。韓国のカトリック(天主教)カトリックが用いる化体説の神学。化体説の神学。化体説の神学と呼ばれます。とにかく英語ではtransubstantiation


その思想とは、ミサで配られるパンとぶどう酒が、実体としてイエス様の血と肉となり、それを食べなければならないということです。

正教会もそうです。正教会もそれを信じています。

古代キリスト教は皆信じています。


プロテスタントだけがそれを信じていません。ほとんどのプロテスタントは「実在説(real presence)」を信じておらず、ほとんどのプロテスタントは、これはあくまで象徴的な内容だと考えていますが、だんだんおかしくなってきていますね。


今や正教会、カトリック(天主教)、プロテスタントなど、あまりにも多くて、インターネットを見ながら論争ばかりしているので、正教会側が徐々に優勢になっています。ですから

3:16:03 翻訳minion

だから、次第にプロテスタントの若者たちが、プロテスタントであってもと、正教会に改宗しなくても、この「化体説」を信じます。プロテスタントであっても。


エッセンスとエネルゲイア の関係を理解する重要性


だから、エッセンスとエネルゲイア の違いを理解できなければ、私たちは実は神様と授受作用することができません。

神様とできなくて、神様の被造物、幻想としてのみ授受作用することができます。神様の愛も直接受けることができず。神様の愛も直接受けることができません。なぜなら、神様の)被造物の幻想の愛のみと授受作用することができます。


エッセンスとエネルゲイア が同じであれば、カトリックのように、トマス・アクィナスの神学のように、プロテスタントのように、神様の愛自体と神様と授受作用できません。神様の摂理に同参することができません。

神様の被造物、幻想の摂理にのみ同参することができます。神様の直接の摂理に同参できません。問題ですね。


そして、もしエッセンスとエネルゲイアが同じなら、私たちは皆、神様の役事を通して神様のエッセンスに会うことになるので、私たちは皆、神様になってしまうのです。

そうなればキリストは必要ない、御父様は必要ない、御父様は削除、イエス様も削除。バイバイ。サタン教です。


考えてみてください。私たちも皆、神様の本質にすべて会うことができたら、授受作用することができたら、そうすればキリストはどうなりますか。キリストがすることは私たちもすることができるではないですか。

それなら、キリストは必要ありません。私が直接できるのに、なぜキリストが必要ですか?


これ、この問題を理解できますか?問題になりますね、問題に。


神様の血統・本質、キリスト


だから、私たちの血統の概念、血統も、考えてみてください。神様の血統に始発点があるでしょうか?神様の血統には始発点がありますか?


私たちが血統をどう定義するかといえば、後孫と言うなら、そこには始発点がありますね。そうですね?人間を創造しながらその後孫の中に血統を置いた始発点があります。


しかし、神様の本質的、根本的な血、神様の血統の根本の本質があれば、その根本の本質はアダムから始まったのでしょうか?あるいは神様が先にいらっしゃって、そこにアダムを置かれたのでしょうか?

(「神様が先にいらっしゃいました」。)


そうですね。神様が先にいらっしゃらなければ、これはアダムの血統になってしまいます。

神様の血統に、ある本質的な、神の本質的な部分があるならば、それはアダムを作る前からいらっしゃってこそ、これを与えることができるではないですか。もしいらっしゃらなければ、どうやって与えるのですか?アダムに。


その言葉は、血統の根本的な神様の部分が、神様がすでに存在していたとしたら、その言葉は神様とずっと存在していたということになります。その根本的な血統の部分が。

それでは、神様と共にずっと存在していたなら、それは神様と永遠に存在していたということになります。


しかし、もし私たちが神様の本質に会い、直接受けることができれば、キリストは必要ないではないですか。神様の血統の本質をそのまま受けることができるではないですか。神様のエッセンスから。

そうですね。

キリストは必要ないではないですか。


だから、キリストだけが本質に会えるということなら、その言葉は神様が特別に、キリストに特別な本質を投入されたということです。だから、この方を通してのみ、これを受けることができるということなのです。


しかし、このような神学がなければ、私たちが皆神様の本質に会うことができれば、私たちは直接その本質を引き出せるということです。

御父様は必要ない。イエス様も必要ない。問題が生じます。


これは堕落前ではないですか。以前の話。

だから、アダムの堕落前。アダムを創造する前に、神様の血統・本質の部分が、まず神様がいらっしゃってこそ、アダムに与えることができるではないですか。堕落前の話です。


もし神様がいなければ、この本質的な血統の部分がなければ、どうやって自分の血統をアダムに吹き込むのですか?いなければ。

もし、この血統も被造物なら、それならこれはただの被造物ではないですか。神様の本質的血統ではないではないですか。被造物です。

わかりますか?これは堕落前の話です、全て。


だから、こういう神学、キリスト学と三位一体学、この二つの分野について、私たちの統一信徒たちはよく理解できません。


これはとても単純な内容だと思っていますが、私はこれについてはるかにずっと勉強したので、私が見た時、統一教会の信徒たちはよく理解できていません。この部分、二つの分野についてよく理解できていないのです。キリスト学と三位一体学。よく理解できていません。


これをものすごく簡単に話します。ものすごく簡単に話すと、こういう問題が生じるのです。

だから、非常に慎重に話さなければなりません。こういう神学については、非常に慎重に話さなければなりません。むやみに話してはいけません。


私が、これは博士学でした、これは。

これと、仏教の三位一体神学との比較。


神様の役事(御業、働き、運行)は、神様のエネルゲイア

キリスト教のヨハネス・ダマスコス、ダマスコのイオアン。この人は9世紀の正教会の聖人です。


このようなことを間違って話すとこういう問題がたくさん起こるのです。

神様の意志、私たちの自由意志の問題、神様の本当(本質)と授受作用することができるかどうかという問題、これらの問題はすべてこの部分にあります。「エッセンス」と「エネルゲイア 」この部分に。そして、この二つの単語が聖書に出てきます。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


韓国語では「役事」と言いますね。「運行」「役事」と言いますね。

韓国の人たちは、「父の役事が降りてくるように。ハレルヤ。」と言いますね。

しかし、この役事が何なのかも分からずに、ただプロテスタントから引っ張ってきたではないですか、私達は。

これは、役事が正確に何なのか分からないではないですか。


これは、エッセンスとエネルゲイアを理解すれば、神様の役事は、神様のエネルゲイアなのです。エネルゲイア

これが神様の役事です。正確に、そうすれば私たちはもっとよく理解できます。

ただ、韓国の牧師たちは「神様の役事が降りてくる、火が降りてくる」と言いますが、この人たちは役事がどういう意味か分かっていないのです。

ただ、何か神秘的な神妙なるものだと思っているだけで、神様のエネルギーだとは絶対に考えません。こういう神学を理解できないからです。


しかし、これを理解すれば、神様の役事は、・・・これも役事ではないですか。炎が降り注ぐのも役事だ。

このような役事が降りてくると、神様に会うということなのです。

幻想ではありません。これはAIの仮想でもない。そうでしょう?

これは本当に神様に会うことなのです。


しかし、それは神様の本質ではなく、神様のエネルゲイア です。

その言葉は、私たちは神様に近いのです。神様に触れることができます。神様がこのような恩恵をくださったら。

私たちは神様を見ることができるし、経験することができます。本質は見ることはできない。本質は太陽のようにあまりにも明るい。そうでしょう?

聖書の中で神様を見た時、みんな目がくらんでしまう。あまりにも明るいから。そうですね。


本質を正確にすべて見ることはできませんが、神様のエネルギーに触れることができます。感じることができます。神様と授受作用することができます。


でも、神様の本質とエネルギーが同じなら、それはできません。

今や、神様の役事と、神様が造られたAIの仮想幻想を見ていることなのです。被造物を見ているのです。神様に直接会っているわけではありません。これは、神様の幻に会うことなのです。

理解できますか?


万有原力思想は古代キリスト教哲学と近い


私たちの万有原力思想が、はるかにエッセンス・エネルゲイア と同じです。正確には同じではありませんが、それでもはるかに似ています。これは道教ではなく、古代キリスト教哲学です。


だから、実はキリスト教の世界ではおかしなことではないのですが、西洋がアウグスティヌス、特にアクィナスを通して、ものすごくおかしくなります。単なる合理主義者たちになってしまいました。

知的で、勉強、勉強、勉強主義の奴らになってしまい、西洋のキリスト教ではこれを理解できません。この万有原力はあまりにも変です。あまりにも異常。これは道教のようだ。道教。


しかし、キリスト教の伝統の歴史を見ると、千年の間にあった二千年の哲学を見れば、神様のエッセンスであるウーシア(ウジア)とエネルゲイアは違います。

道教ではありません。この万有原力という思想は道教ではなく、実は古代キリスト教とはるかに似ています。


だから、私たちがおかしいのではありません。御父様が来られて、単に道教とキリスト教を合わせたのではありません。

御父様がすでに古代キリスト教の神様を体験しているような部分について、すでに万有原力の思想の方がはるかに近いのです。そういった部分において。


道教ではありません。「気」でもありません。なぜ?「気」とは何でしょうか?「気」は人格的なエネルギーではありませんね。

キリスト教の「エネルゲイア 」は人格的なエネルギーです。理解できますか?この違いが重要です。


道教において宇宙の「気」、「気」は、人格的な「気」ではありません。これは宇宙の「ウーウェイ(無為 / Wú Wéi) 」と言いますね。「ウーウェイ(無為 )」。あるいは「イーヤン(陰陽 / Yīn Yáng) 」から出てきて、「無為 」が分離されて陰陽なり、陰陽が八卦によって・・・、とにかくこのようなものがあります。


だから、東洋の道教における「気」の哲学が何かといえば、この「気」には人格がありません。単に私たちが利用できるエネルギーです。


万有原力には人格がある


そうではないですね。

原理において、神様の万有原力が神様から出てくるではないですか。その言葉は、私たちが会うことができる万有原力、自然の中で会うことができる万有原力、それは「気」ではなく、神様の人格的な力です。

これを、わかりますか?ここには違いがあります。道教の気と、私たちが今話している「エネルギー」には違いがあります。人格的な違いがあります。人格。そうですね?


だから、私たちが神様の、例えば、善なる運行(働き)に会うようになれば、それは人格的なエネルギーですね。

何かの「気」、「気」は無人格的なエネルギーではないですか。分かりますか?

少しずつ絵が描けますね。少しずつ説明を聞いてきたから。


だから、御父様は、韓国で道教を合わせてキリスト教を合わせて、このような西洋の宗教学者たちが言うように、私たちは、簡単に言えば、キリスト教・道教・仏教のシンクレティズム教会を行ったと、混合主義、レバレント・ムーンはこのようにしたと、このように言います。


しかしこの万有原力思想は、根本的に道教とは異なります。なぜ?これは人格的なエネルギーではないですか。道教の「気」は人格的ではありません。非人格的なエネルギーです。そうですか?そうではないですか?

(3:32:00)

だから、万有原力から出てくるエネルギーは、神様、人格神から出てくるではないですか。

だから、これは人格的なエネルギーなのです。そうですね?ただの非人格的な、何かの神秘的なエネルギーではなくて。

分かりますか?それとも分からないですか?これは、面白いですか?それとも眠いですか?。


この問題も、少しずつ理解するようになってきましたね?

だから、こういう役事と、私たちが本当に神様に会い、それでも本質と・・・本質ではなくて、神様に会うことをしてこそ、私たちも神様に会うことができるではないですか。キリストの中にいる者として。


キリストは神の本質も持つ人格


そして、この人たちもキリストに会った時、キリストに会った時、その人も神様の本質を持っていらっしゃる人格ですが、人間の体ですが、キリストは、神様の本質の中を行き来できるではないですか。人間にできないことをできるではないですか。キリストは、存在論的に私たちとは違うではないですか。


私たちと同じなら、それならば私たちも皆、神様の本質に入ったら、私たちも皆、それならばキリストです。

それでは、これはヒンドゥー教です。ヒンドゥー教。分かりますか?


キリストだけが唯一、神様の本質を行き来することができ、私たちはできません。これは、これはできません。キリストは特別です。だから、存在論的に特別な存在です。


だから、キリスト教徒たちはこのような複雑な内容をあまりにも簡単に話すので、私たちを知っている人たちからは、私たちは本当に何も知らない人たちのように見えます。


だから、こういう話をするときは、非常に慎重に、細心の注意を払って話さなければなりません。2000年の伝統を理解して。


ただ「私たちはみんな知っている」それでは、子供たちは去ってしまいます。

子供たちは、私たちが本当に知っているわけではなく、「ただ知っているふりをしているだけだ」。子供たちはみんな分かっています。

面白いですか?面白くないですか?


訓練、修行、精誠!神のエネルギーに続けて触れよ!


しかし、ただ勉強するだけではいけません。

エッセンスとエネルゲイアの違いを理解すれば、「ただ勉強だけでできるのではない」と気づくようになります。

勉強だけではダメで、祈らなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。涙を流さなければなりません。猫頭山に行って血と汗を流さなければなりません。苦行をしなければいけない。


これをしてこそ、神様の恵みによって、神様が私たちにこのような役事を与えてくださることができます。

このような役事を受ける人たちは、次第に変わっていきます。そうですね?次第に神様のエネルギーに継続して触れる人は、ますます神様に似てくるのです。そうですね?触れない人よりも。そうですね。


だから、精誠を尽くす人々、精誠と祈りと苦行をする人々が貴重な尊い人々なのです。

完璧でなくても、私たちは皆、お父様の前では完璧ではありませんね。私たちは皆、罪人です。それでもそのように一生懸命、そのような苦行と辛い精誠をした人々も尊いのです。その努力が尊いのです。そうでしょう、そうではない?


だから私たちは勉学主義のキリスト教ではありません。

私たちは。なぜ?どうやって勉学主義によって心と体を統一するのですか?話にならないではないですか。


心と体の統一は訓練によってのみ心と体が統一されるではないですか。これは勉強ではできないではないですか。これは。

みんな知ってるでしょう?

御父様はただ勉強しながら心と体の統一をされましたか?狂った断食、狂った苦行、霊界を行き来しながらなさったではないですか。

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2026年9月13日日曜日

トマス主義西洋キリスト教の問題 ◆2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<3> 文亨進二代王

トマス主義西洋キリスト教の問題

2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<3>

文亨進二代王

監修:fanclub三原

文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 목요예배 2026 08 27


(2:31:20) 翻訳clean

西洋キリスト教スコラ哲学、神的単純性の問題


西洋は知的面だけで全て知れば宇宙を知ることができるという馬鹿な思想があるので問題です。体が脳とつながっていることを知らない。

だから西洋のキリスト教をみなさい。運動を強調しない。


東洋の宗教を見なさい。道教では気功をしながら運動しなければいけない。

だからずっと運動し続けなければならない。

東洋文化は、知性だけを知っていてもダメで、体も動かさなければいけない。

これは東洋文化に染み付いている。


おじいちゃんやおばあちゃんたちが、外でこの様な機械に乗っているでしょう。運動して……  ただ東洋の人々には染み付いている。


これは西洋ではあまりにも切り離されている。これ全部、知的に、科学的に、知的に理解しようとしているのです。


これはどこから来たのかというと、トマス・アクィナス、クリスチャンの学説から来ていて、この馬鹿げた考えは、体をあまりにも無視しすぎている、体をあまりにも無視しすぎている。

だから、このキリスト教の学説、トマス・アクィナス、アウグスティヌスも、アウグスティヌスも学説のアウグスティヌスも、えーと、特にキリスト教スコラ主義のトマスは、アウグスティヌスから多くを引用しました。

なぜ?アウグスティヌスは、神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」、神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」が、神の働きと神の本質は一つだ。


アウグスティヌス、アウグスティヌスは、5世紀から6世紀にかけて初めてそれを展開した。そのアウグスティヌスの著作を見ると、アウグスティヌスは極端な、極端な予定論、アウグスティヌスには極端な予定論があります。これ、知っていますか? 

アウグスティヌスには極端な予定論があるのです。


なぜ? 彼自身、神の本質は……ただこれ、ディバイン・シンプリシティ(Divine Simplicity.:神的単純性 ) を一度調べてみてくれ。

韓国語で何だっけ?  神の単純性。 単純性。神の単純性神学です。つまり、神の単純性という点では、神の働きと神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」が同一です。  区別がありません。


つまり、神の本質を見ると、神の愛は神のエッセンスそのものであり、神のエッセンスの中には神の意志もあり、神のエッセンスの中には、善、善なるものも含まれており、栄光も含まれており、光、光、光も、中に含まれており、そうですよね。神の働きと区別しません。


神の働きとも区別しないので、すべての部分が神の純粋な愛、純粋な善、純粋な聖なる心、純粋な義、純粋な創造、純粋な意志、これらはすべて神の本質の中にあります。働きとも区別しません。では、どのような問題が生じるのでしょうか?

神の本質の中にはこの多くの内容が含まれているのです。


神的単純性の問題、多神教

見てください。これ、これ、これ、ちょっと絵を描いてみよう。ここではありません。

皆さん、ここは神の本質です。OK、ここですね?ここ、本質の中には愛もあり、愛が中心、愛の中心であり、また栄光もあり、意志もあり、その次に善もあり、そうですよね。それから何、正義もあり、など、これ、いろいろありますね。


神の本質、ウーシア(ウジア)の中に問題は何ですか?神の本質の中に愛があり、その愛と少し違いがある善ですが、少し区別できますね。

善もあり、意志も愛と完全に同じではないですよね。少し区別できるじゃないですか。

それから、神の知的、それは愛と完全に同じではなく、少し区別される。

これが問題なのです。


そうすると、この本質の中に複数のウーシア(ウジア)があるということになります。複数の本質、複数の神がいるということになるのです。ここの中に。多神教になってしまう。


神的単純性の問題、予定論


つまり、神の本質には愛があり、意志があります。意志を見てみましょう。神の意志が神の本質の中にあれば、その本質は変わることができませんね。それなら、神の意志も変わることができないということになります。

神の意志が変わらないとしたら、それはどういうことでしょうか?神の自由意志がなくなってしまうのです。自由意志が。


なぜ?自由意志であるためには、神様が無から有を創造しなければなりませんね。それがはるか以前からすでにあらかじめ決定されていれば、それは神様が選択なしに無から有を創造したということになります。


それから、同じ瞬間に人間たちがいくら5%の責任分担をしても、神様の意志はすでに決まっているじゃないですか。だから、神の意志と摂理を変えることはできません。人間が何をしても、そうなると過激な予定説が生まれてしまいます。これ、わかりますか? 


過激な予定説の視点。つまり、アウグスティヌスがこの問題を提起し、トマス・アクィナスがこれを展開した。

これらはすべて西洋キリスト教です。カトリック(天主教)とキリスト教の基盤、すなわち最も根本的な哲学的基盤は、エッセンスとエネルゲイアウーシア(ウジア)とエネルギーが一つであるという考えです。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


これはローマ教会やあらゆるキリスト教派の根本的な哲学的出発点です。

これは哲学、特にキリスト教哲学において、私たちはこれを「ペリパティック・アクシオム神的単純性 ))」、西洋キリスト教では「ペリパティック・アクシオム 」と呼ばれます。この「アクシオム 」とは、五感を通じて、私たちの知識にあるすべてのものが五感を通じて入ってくるべきだということです。つまり、これは如何なるにせよ、学説主義となり、合理主義となります。


この五感を超越することはできない。五感を超越することはできない。これによって、この哲学は崩れてしまいます。問題が生じます。

つまり、西洋キリスト教は次第に空洞化しつつあるのです。

根本的な部分に問題があるから。


つまり、ある結論が出れば、神の本質とエネルギーが同じであるため、意志も同じになるわけですから、自由意志もなくなってしまうのです。


神的単純性の問題、神の御業を見た者が神になる


その次に、神が役事をなさるとき、それも偽物です。

その西洋キリスト教やカトリック(天主教)、トマス主義哲学における神の、聖書にあるすべての役事、皆さん、モーセの燃える荊の役事、目に見えない役事、今日私たちが学ぼうとしていた使徒行伝第2章、使徒行伝第2章を見てみましょう。使徒行伝第2章…

オーケー。えっと、ペンテコステの前日、オーケー、一度読んでみて。オンマ。

ペンテコステの出来事がやってきます。見てみましょう。


[使徒行伝2章1節です。]

五旬節の日が近づくと、彼らは皆、一か所に集まっていた。すると、天から激しい風のような音がして、彼らが座っていた家全体に満ち、まるで火の舌のように分かれるものが彼らに見え、

 火の舌のように、分かれるものが彼らに見え、

一人一人の上に一つずつ降りてきた。

この役事、覚えていますよね、これ。このような役事も、西洋キリスト教の立場からすれば、エッセンスやエネルギーが同じだから、このような役事はすべて同じで、偽物なのです。

すべてAIのような仮想の幻想です。


なぜ? 神の働きとエッセンスが同じだからです。同じものですね。

つまり、神のすべての役事は本質そのものなのです。


だから問題はこれなのです。もしこの役事が、火の役事、舌が分かれる火の役事が現れたら。そうですよね?これが神、神、神のう役事だと言うなら、神の本質とエネルゲイア 、働きが同じだから、私たちが出会うその炎が、火の役事が神の本質になるのです。

わかりますか?


なぜ?神の働きの本質が同じだから、西洋キリスト教のトマス・アクィナスやアウグスティヌスの思想では。

理解できますか?

つまり、この御業において、この人たちは神の本質に出会ったのです。


問題は何か?神の本質に出会えば、あなたも神だ。神の本質、神の本質に出会うと、神の本質とはどういう意味かと言えば、神そのものです。


ですから、私たちが神の本質の中に入り、神に直接出会えば、私たちもここに入ったわけですから、私たちも神になる…… これは狂ったサタン主義です。 狂ったサタン主義。


神的単純性の問題、神の御業は幻想創造物


ですから、これを避けるために、西洋のキリスト教ではどう言っているか? トマスはどう言っているか?

 こうした内容や歴史は、神の本質ではなく、これは神が創造されたもの、つまり神が創造された仮想の幻想だ。


その言葉の意味は何か?使徒行伝に出てくる、私たちが考える神の役事は、それならこれは偽物だということです。神に直接出会う役事ではない。これは神が作り出した幻想に出会う役事になってしまうのです。

これが、分かりますか?


つまり、この言葉は何を意味するのでしょうか?神は永遠に遠い存在です。私たちと神は出会うことができません。私たちが出会えるのは、神の仮想や幻想だけです。

分かりますか?これは問題です。


西洋のキリスト教の根本的なエッセンス、エネルゲイア が同じだと言われるように、結論として神には出会えません。触れることもできません。私たちには、神には、神には出会えないのです。


この「神の役事」に出会うということは、神の被造物に出会うということなのです。理解できますか?

なぜ?神の本質に出会えないから。


これについては西洋のキリスト教も知っています。神の本質に出会えないことを知っています。ですから、それを回避するために、「ああ、それならこれは神の働きではなく、神が造られた被造物の幻想や仮想に出会う瞬間だ」と、このように言うのです。


一度、写真を調べてみてください。これ、ちょっと複雑すぎるから、みんな集中できないんでしょうね。文章だけ載せているから。写真で見てみましょう。写真。ああ、そうそう、それの上にあるやつ、OK。ちょっと大きくしてみて。それだけが見えるように。

この役事がエッセンスとエネルゲイア 、神のエッセンスとエネルゲイアが同じなら、この役事におけるこれらの炎、これが本当の神のエネルゲイアだとしたら、問題は何か?神のエネルギーとエッセンスは同じですよね。西洋のトマス・アクィナスの思想において。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


つまり、この方たちは神のエッセンスとエネルギーが一つだから、神の本質に出会ったと言うのです。もし神の本質に出会ったら、あなたも神です。あなたもここに入っているということです。分かりますか?

だから、この問題、この哲学的な問題を避けるために、カトリック(天主教)では何というかと言えば、「ああ、これは神の本質ではない。私たちは多神教ではない」と言うのです。そうですよね? 

(2:46:18) 翻訳clean

これは神の本質ではなく、神が創造された特別な幻想、仮想だ。

この経験を与えるために。わかりますか? 


これが仮想や幻想であるから、問題は何でしょうか?

 これらの人々は神に直接出会うことができないのです。仮想や幻想にしか出会えないのです。つまり、神は永遠に遠い存在なのです。

聖書とは全く異なる神が現れるのです。聖書では、モーセにも神が直接現れたじゃないですか。モーセは神の背中を見たじゃないですか。

背中、顔は全く見えないし、光があまりにも強すぎて顔が見えないけれど、それはどういうことか?

神の本質が見えないじゃないですか。でも背中を見せたじゃないですか。背中ですよね?あ

あ、だからこういう哲学的な問題、トマス アクィナスやアウグスティヌス哲学の問題は、エッセンスとエネルゲイア が合致すれば、多神教問題が生じ、さらに神を体験できるという問題も崩れてしまうのです。


正教会、東洋キリスト教は神の御業をエネルギーと理解する


でも東洋のキリスト教では、東洋ではエッセンスとエネルギーが別ですね。分離されているじゃないですか。エッセンスとエネルギーが違います。

ですから、東洋キリスト教におけるこれらの内容は、神のエネルギーなのです。


つまり、ここが神の本質、ここが太陽だとすれば、ここが神の本質であれば、ここから放出される二つのエネルギー、使徒たちはそのエネルギーに直接触れているのです。直接。その神の本質には触れていませんが、キリストだけが神の本質に触れることができます。


しかし、神の本質に触れているわけではなく、神のエネルギーに触れているのです。つまりどういうことか?使徒たちは実際に神を体験しているのです。

でも、神のエネルゲイア 、エッセンス、ウーシア(ウジア)、本質ではなく、神のエネルゲイア、ここから、ここから出てくる日光ですよね?日光。

ここが太陽なら、日光。使徒たちは直接、神の日光を感じているのです。


これは幻覚じゃない。これは仮想じゃない。これは本物の神の日光なのです。わかりますか?

 日光のような、日光のような、エネルゲイア。


つまり、聖書をヘブライ語で読むと、悪魔たちにもエネルゲイアがあり、神にもエネルギーがあるのです。26回以上出てくるのです。


あの邪悪な連中にもエネルギーがあるし、神にもエネルギーがあるのです。

私たちの問題は、邪悪な悪魔たちのエネルギーに嵌ってはならず、私たちは神のエネルギーを絶えず追及していかなければならないですね。


キリスト教合理主義、勉学主義の問題


こういうことをするから、西洋のキリスト教がこれを融合させると、こういう根本的な問題が生じるのです。

つまり、西洋キリスト教がそういうことを、自分でも気づかないうちにそういう結論が出てしまうから、とんでもないシステムや、とんでもない予定論、とんでもない、本当に論理に反する馬鹿げた内容が出てきてしまうのです。


でも、本来キリスト教はそうじゃなかったでしょう? ずっと豊かだったのです。

哲学的に考え、ずっとよく考えていたのです。


ところが、アクィナスやアウグスティヌスから始まり、アクィナスが中世にこれを大いに発展させました。

そうして、これがキリスト教合理主義哲学やキリスト教学主義の神学となり、西洋はただひたすら「勉強主義」、勉強主義の神を、ああ、勉強を通じて、五感を通じて私たちの知識の中にすべて入ってくるから、神を学ぶ、学ぶべきだ、と。

ただ学ぶこと、勉強主義になってしまった。


訓練!修行!精誠!神の本質を体験することが重要


勉強主義だけになってしまったから、西洋のあらゆる関係が崩れてしまった。

関係が崩れた。

神のエッセンスとエネルギーを理解しなければならない。

神を知ることが最も大事なのではなく、神を体験することが最も重要なのです。

知ることよりも、神のエネルギーに絶えず触れ続けること、それによって関係が深まることが、この方が重要なのです。


単なる勉強よりも。

つまり、つまり精誠が大切だ。だから、断食が大切だ。なぜ断食に、何か知的な効果があるというのか?苦行だ。辛い苦行。辛い苦行?何か知的な効果なんてあるわけないでしょう。これに。


西洋のキリスト教はあまりにも知的、知的主義になってしまって、今では完全に水が枯れてしまいました。関係もすべて崩れ、キリスト教も破壊され、カトリック(天主教)も今や完全に、左派になってしまっていますね。カトリック(天主教)も。すべて知的主義です。


古代キリスト教は知的主義のキリスト教ではありませんでした。彼らは、精誠も尽くし、私たちは正教会のように、敬礼の精誠も沢山尽くすではないですか。

東洋の人々のように、敬拝の精誠もして、一日に七回の修行、そして断食も100日断食、こうした狂ったような修行もたくさん行って。


なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ?神を知るためではなく、神を体験するためです。 神の、神の本質を体験できるのでしょうか? 

いいえ、神のエネルギー、それを体験できるようにし、聖人たちは神のエネルギーに近いから、彼ら自身も次第に神聖になっていくのです。

神のエネルギーに絶えず触れているから、自分も次第に神聖になっていく。そうですよね? 


だから、私たちのキリスト教思想やカトリック(天主教)の思想において、二代王様が2万千拝、信俊も1万2千拝といった、こんな精誠は役に立たないバカげたことだ。

キリスト教では、こういうことを迷信だと言うのです。迷信 そう、そうでしょう? 迷信という。迷信。


なぜ、千拝、万拝そんなことしない。 どうして西洋キリスト教のシステムでは、神を知的に理解しなければいけない。


だから聖書の勉強を続けたり、読んだり、勉強、勉強、これは勉強主義だ。勉強主義、勉強主義。

だから、こういう精誠で、神様の心を変えられたりとか、そんなこと無理でしょ。特に予定論で。


こいつはいくら敬拝しようが、精誠を尽くそうが、神様はすでに予定をすべて決めてるでしょ。そうですよね?関係ありません。

実際。神様は既に地獄に行く者たちを決めておられ、既に天国に行く者たちもすべて決めておられる。太初から。


なぜ?神様の創造の行動と運行は本質と一つだから、本質を変えることはできないじゃないですか。それなら、その言葉は運行(働き)を変えることはできないということです。同じだからです。それなら、その運行を変えられないから、予定論になってしまうのです。

分かりますか?


これはひどい。つまり、西洋キリスト教の問題と、今、西洋文化が崩壊しつつある意味がすべて見えてくる。この哲学から始まっている。この「勉強主義」の神学が人を傲慢にし、人を訓練させず、人はただ、神についてすべて知ることができると思い込み、人間関係を台無しにしてしまう。


ディバイン・シナジー(共働)、神とともに摂理を成す


だから、古代キリスト教ははるかに「原理」に近い。

なぜ?私たちは神と授受作用すると信じています。でも、神と授受作用する時、もし私たちが神の本質と授受作用することになれば、私たちも神だということです。そこが問題なのです。


では、私たちはどのようにして神、真の神、神の幻、神の仮想と授受作用するのではなく、神の本質とは別に神のエネルゲイアを理解すれば、神と授受作用できるのです。私たちには自由意志があり、神の意志による予定論ではなく。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


なぜ?人間が神と共に、摂理を作り上げなければならないから。これは予定説ではありません。

私たちも、私たちの5%として、神の摂理が実践されるのです。だから私たちも5%含まれなければなりません。そうですよね?


これは、これは正教会の神学にはるかに近いものです。正教会の神学では、これを「ディバイン・シナジー」と呼んでいます。人間が神とシナジーを成してこそ、神の摂理は進んでいくのだと。彼らはこれを信じています。

西欧のキリスト教はこれをあまり信じていません。


ですから正教会では「ディバイン・シナジー(共働)」という哲学もあります。私たちと全く同じというわけではありませんが、私たちは95%や5%といったように区分してこれを定義しようとしていますが、似ています。古代のキリスト教とはるかに似ています。


これは道教じゃない。これは道教じゃない。西洋の愚かな博士たちや学者たちは、いつも御父様を道教や韓国文化、道教とキリスト教を混ぜ合わせて「統一教」を作ったと言います。私たちを迫害しながら。

これは道教思想じゃない。これは古代キリスト教の思想です。道教じゃない。

神の万有原力は道教じゃない。神の万有原力、つまり神のエネルギー、古代キリスト教のエネルギー思想にずっと近いのです。ずっと近いのです。


トマス神学では神との授受作用は神に出会えることになる


わあ。だから、私たちはどのように神と授受作用しますか? 神と授受作用する中で、もしこのエネルギーと本質が同じなら、神の運行(働き)と本質が同じなら、皆さん、神の運行は、愛、善、えっと神の御心、神の正義、神の光、神の栄光といった内容に出会うべきなのですが、もしそれが本質なら出会えません。


聖書では、こうしたものに出会えると書かれていますね。 

神の愛に出会えると書かれていますね。

神の恵みに出会えると書かれていますね。

神の御心に同参できると書かれていますね。

こうしたことはすべて授受作用できるじゃないですか。


でも、私たちがトマス神学に従うなら、私たちは出会えません。もしこれらの内容がエッセンスやウーシア(ウジア)、エネルギーが同じであるなら、それに出会ったとき、私たちは神のエッセンス、ウーシア(ウジア)と出会っていることになるので、私たちも神になってしまってしまうのです。


そうなれば、これは完全な異端、サタン教、多神教、ヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教は、この問題を引き起こしていますね。ヒンドゥー教は修行をたくさんすれば、誰もが神になれる、みんな神だ、神に出会える。ブラフマンに出会えば、あなたも神になる。ヒンドゥー教はこの結論に達します。 


統一教は「神の本質に会った」というヒンドゥー教神学


だから統一教の信者たちはこの哲学をよく理解できていません。これを理解できないから、多くの統一教会員は、自分たちもこっそりと「神の愛」に会えば、それが神の本質だと。


このように簡単に言うから分からないのです。分からないけれど、神の本質に会えれば、あなたも神です。それならこれはヒンドゥー教です。ヒンドゥー教だ。あなたとキリストとの間に違いはないということになります。

キリストだけが神の本質に会われたじゃないですか。キリスト。

あなたも私も、皆が本質に会えるなら、キリストは必要ありません。それでは君は異端サタン教になってしまいます。

これ、理解できる?


統一教会員は、この哲学を理解できないのです。

これは、これは、問題ですね。だから、ここを理解しなければいけないのです。


つまり、私たちは神の本質ではなく、キリストだけが神の本質に出会われた、イエス様だけが神の本質に出会われたので、私たちは神の本質に出会えないのです。だから、私たちにはキリストが必要です。そうじゃない?

だから私たちには必要だったのです。


キリストのみが神の本質の中にある


でも、私たちが出会える神とは何でしょうか。神のエネルギーです。ここが太陽なら、太陽から出るこの火、炎、これらが、このエネルギーに出会ったということです。それも、それも神様から出たものじゃないですか。それも神様に出会うことですね。

でも、神様の本質ではありませんが、ここにある神様のエネルギー、分かりますか?エネルギーです。

(3:01:06) 

ああ、それなら私たちは神様と授受作用できます。

そうすれば、私たちの5%も神様の95%とつながることができます。シナジー(共働)することができます。


なぜ?神の本質を私たちが直接受け入れると、私たちが神になるということです。

ああ、キリストだけが神の本質の中に入られたのです。

夜の神、昼の神、御父様と区別しますね。御父様だけが夜の神の中に入ったり出たりするのですね。

私たちは皆、昼の神から来ています。違いがあります。


西洋キリスト教のトマスシステムを信じているので、エッセンス、ウーシア(ウジア)とエネルゲイアが同じだと考えているので、そこで問題が生じるのは、自由意志も失われてしまい、予定論があまりにも強くなりすぎて、予定論が結論となってしまい、その後、使徒たちや信者たちは、このような役事に直面した時、これらはすべて幻想だと思ってしまうのです。

神の本質に実際には出会えないので。


彼らもそれを知っています。ですから、それを避けるために、「私たちは神の本質には出会っておらず、神が造られた被造物である幻想を作り出しているのだ」と考えさせられてしまうのです。


問題は、もしこれが幻想であるなら、私たちは永遠に神に触れることができないということです。

神とは関係を持てません。幻想だけで、神が造られた被造物として、創造主ではなく被造物としての関係しか持てないのです。

分かりますか?


これをエネルギーとして見れば、授受作用になります。エネルギーとして見れば、本質が、キリストだけが本質の中に入ることができます。

それも保管できます。それも保護できます。御父様の位置も守られています。


私たちは皆、キリストになることはできません。私たちは皆、本質に触れることなどあり得ないのです。御父様だけが神の本質を知っている、そうでしょう? 

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