「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏
サンクチュアリ教会は「高キリスト論」の信仰が求められている
a High Christology(高キリスト論):イエス・キリストの本体が創造前に神、もしくは神の子として存在していた。キリストは創造前の神本体とする。
a Low Christology(低キリスト論):イエス・キリストの本体は神の神性を持つが創造後である。キリスト本体は創造前には存在しない。
文亨進師は統一思想を「高キリスト論」の立場で理解することをサンクチュアリ教会信徒に求めておられます。
詳細参照:文亨進師 : 聖殿よ、キリスト教高キリスト論で統一思想を理解せよ
それどころかサンクチュアリ教会は「私たちは高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じているのです。」とまで言い切っておられます。
ですから、成約のキリスト教徒として、すなわち、サンクチュアリ教会は、明らかにこれらの聖書の教えすべてに適合し、キリスト教と概ね一致しています。
なぜなら、お父様は、キリスト教を統一する最後の磐石として、昼の神、夜の神という神学を解き放ったからです。今、キリスト教と一致したのです。
私たちは、高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じています。私たちはイエスの神性を信じています。つまり、私たちは高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じているのです。
私達は「極めて高いキリスト論」 ◆2025年1月26日MAGA勝利英語日曜礼拝
しかし文亨進師の願いとは裏腹に、「高いキリスト論(a high chrustology)」を信じているサンクチュアリ教会信徒は、日本、韓国の大陸会長と少数です。韓国側は多くが「高いキリスト論」を信じているようですが、日本側はだいぶ増えたようですが、まだ少数派であるかも知れません。
文鮮明師の御言にみる自己中心的神
次の文鮮明師の御言で自己中心的神について高キリスト論の立場で検証します。
文鮮明師:我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
この「これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。」
の「神自身が自己中心的であられた」とはどういうことでしょうか?
次の御言にそのことのもう少し詳しい御言があります。
文鮮明師:創造する前と創造した後が違うのです。創造する前は自分を考えていましたが、創造を始めてから対象のための時限へと転換されるということです。私が持っているのは、私のためにいるのではなく、相手のためにいる、息子の娘のためにある、そうなることです。
ですから、真の神様は相手を作る上で完全投入することで、より価値的で理想的な完全型を展開したのです。神様もアダムエバを立てておいては、アダムエバのためにあるのです。神のためではありません。
自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他人のために、対象のためにあることです。この原則が宇宙の根本であることを確実に知る必要があります。
(69-82, 1973.10.20)
<要点>
・創造する前、神は自分を考えていました。
・自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。
・理想的な存在(神)は他人のために、対象のためにある。
これが文鮮明師が言われる「神自身が自己中心的であられた」その内容です。
創造する前、神は自分のことを考えていたとは、自分の為にいたということです。
確かに一般論から見れば、これは自己中心的です。
しかし、神は創造する前から、その自分を考え自分のためにいた時から、相手の為に展開されていたし、対象のためにある理想的な存在であったということです。
相手のために展開するために自分に自己中心的な神様です。
これは神は一般論からは矛盾した存在、常識に反し、それらを超越した神です。
まさに「為に生きたい」という思いで自己中心的であった神様です。
真の愛自体である神のことなど人間の考えでは及びも付かないのです。
「自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。」ということですから、次の御言もその創造前の、神が自分のためにいた、自己中心的であった時のことであることが分かります。
文鮮明師:真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。(284-71, 1997.4.15)
「ため」に生きたい自己中心性から生じるアガペーの愛、真の愛
しかしフェミニズム低キリスト論である菅井教は、この文鮮明師の御言を次のように大笑いします。
菅井教:天一聖殿さん!「為に生きたい」という思いで自己中心的であったと設定した時点で破綻しています!
(中略)
そもそも自己中心的な瞑想に入る前の、神様の「為に生きたい」という思いはどのように発揮されていたのでしょうか。神様しかおられないのに、他の何のために生きたいという事なのでしょうか???
https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913213692.html
そして菅井教は、
天一聖殿さんが自分の主張を正当化するために用いたみ言は、「創造後の神様について語られたみ言」です。つまり、愛の対象となる人間と被造世界を創造するために、構想理想として立てられた神人愛一体理想の核心となるべき尊いみ言です。 https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html
このように、
『真の愛は「ため」に生きるところから生じる』
『愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。』
という文鮮明師の、先の御言を創造後であり、創造するための構想理想だと主張します。
「為に生きる」その愛が創造後につくられたという定義です。
さらにはキリストの教のアガペーの愛、文亨進師が強調されるキリストの犠牲の愛も全て創造後にしてしまいます。
菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。https://kuruto.muragon.com/entry/169.html
キリスト教と統一教会は、「神のアガペーの愛」と「神の為に生きる愛」とでイエス様を信じるもの同士という絆がありました。
菅井教はこのキリスト教との絆を完全に破壊してしまいます。
これは篤実なクリスチャンなら、激怒する内容です。文亨進師も激怒されるでしょう。ご本人の前で言ってみろというのです。
神の最原初の構想理想の動機、「女性」と「為に生きる」の逆転
では菅井教において、何が創造前の真っ先の構想理想、いわば創造の動機と言えるものが何かというと、それは「女性」です。
菅井教:女性は、天一聖殿さんが受け止めきれない「包容感をもたらす対象である本形状の前段階エネルギー」から、真っ先に構想理想に上がってきた存在です。しかし、神人愛一体理想を構想していく過程で、「親子の関係性」「父母の関係性」から結実した構想理想となり、最後に創造されるようになって行きます。
その女性には、「神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋がある」というのです。https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html
包容感を起因として「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」、つまり統一思想、八代教材教本、文鮮明師の思想、神学の根幹根本が「女性」!
あれほど統一思想、八代教材教本、文鮮明師の思想、神学の根幹根本は「為に生きる」と文鮮明真の御父様は言われたのに、その根幹根本が「女性」!
このように、菅井教では「何をどのように設計するか構想すること」が創造前の原初と考えるため『創造するための構想理想である女性創造のブループリント(設計図)「先有条件」は「女性」』の御言が、「創造前のことである」となり、
為に生きる真の愛そのものである神様の、その創造前からの「ために生きる」が、創造後になってしまいます。
フェミニズム低キリスト論である菅井教にかかれば、再臨主の神学が
・「女性」が創造前
・「為に生きる」が創造後
となります。
従って、三位一体論において、
高キリスト論で解釈する統一思想の三位一体は「為に生きる」アガペーの愛によるペリコレーシス(相互内在、相互応答)ですが、
フェミニズム低キリスト論である菅井教で解釈する三位一体は「女性」愛によるペリコレーシス(相互内在、相互応答)です。
図式: 為に生きるアガペーの愛のキリスト論 vs 「女性」愛のキリスト論
こんなキリスト論では当然、、とんでもない包容感女神を信仰する女性崇拝、女性神異端宗教になってしまうのです。
菅井教はアダム文化圏を指向するサンクチュアリ教会に絶対に存在してはならない、とんでもないフェミニズム異端宗教です。(別宗教としての存在はOK)
母性「良心の袋」も夜の神様が根源
神自身が女性神崇拝教である菅井教が「女性」をこれほどまでに崇めるその根拠とする御言が次の御言です。
文鮮明師:ですから、その女の実が何を願うかというと、最高の男まで、神様までも願うのです。だから女には、神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋があるのです。1993年12月19日 韓国・済州研修院
この御言を根拠に、神は「包容感をもたらす対象」として、「良心の袋」母性を持つ「女性」を真っ先に構想理想し、そして創造を始めるという菅井教のストーリーです。
このようにフェミニズム低キリスト論である菅井教は神は「母性の愛」に関して完全に無知だったか、神様の知情意とはまったく別に独立して存在していたもののように扱います。
つまり、菅井教は「神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋」このような母性の愛を、神は神御自身の知情意に創造前から持って認識しておられたことを根本的に認めません。
キリスト教の三位一体では創造前の「母性の愛」は否定しません。むしろ大いに肯定します。
創造前の三位一体のアガペーの愛は「良心の袋」母性を含みます。母性は父なる神の愛、アガペーの愛の一つだからです。
女性の創造は、父なる神が、ご自身の「アガペーの愛、犠牲の愛、為に生きる愛」の中から母性(良心の袋)を取り出して、女性を創造されたのです。
キリスト教会「高キリスト論」はこのような神学です。
しかし、菅井教は、創造前の母性の愛(良心の袋)を主張していながら、低キリスト論であるため、
菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。https://kuruto.muragon.com/entry/169.html
このように、創造前からの三位一体のアガペーの愛には母性の愛(良心の袋)など含まれていないと否定するのです。
創造前のアガペーの愛の完全否定です。
四大心情圏の愛の存在は創造前の三位一体から始まった
それだけではありません。
創造前、為に生きる愛、アガペーの愛が核となって、四大心情圏の愛が三位一体から始まったことなど、菅井教は想像だに出来ません。ために生きる愛、アガペーの愛に母性愛が含まれていることを夢にも思わないからです。
菅井教は、四大心情圏の愛はエバとの初夜の時から、つまり創造後とします。
これを菅井教はとても大切にします。
しかし先程の御言には創造前から相手のために展開された四大心情圏の愛のことが書かれています。
文鮮明師:自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他人のために、対象のためにあることです。この原則が宇宙の根本であることを確実に知る必要があります。(69-82, 1973.10.20)
この御言にあるように、創造前に対象のために展開される愛は四大心情圏として展開されます。
このようにして天地創造の前から、四大心情圏の愛は存在したのです。
これは創造前の三位一体論(高キリスト論)においても同じです。
父と子と聖霊の三つのペルソナは完全な愛の交わり、完全な愛の絆があります。
これを「子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛」の根源であると考えるのが高キリスト論の主張です。
つまりキリスト教「より高いキリスト論」の立場で四大心情圏を解釈すると、四大心情圏は創造前からあったことになります。
創造前、三位一体において愛を相互間で応答するために人類は必要でなかった神が、アガペーの愛で対象のために四大心情圏を展開したことが、創造を始めた理由だというのです。
これが「高キリスト論」です。
しかし、このような「より高いキリスト論」の愛を、菅井教は女性崇拝異端教のフェミニズム低位キリスト論なので絶対に理解できません。
「真の愛と生命と血統」の種は神の本体
「高キリスト論」の立場からみれば、このような創造前から存在する愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)と生命と血統の、創造前から存在する神本体の種として来られた方がキリスト(イエス様、文鮮明師)なのです。
「より高いキリスト論」でみるキリスト(イエス様、文鮮明師)の神性とは、まさに四大心情圏の究極の完成体であり、神の悲しみや喜びを最も深く共有する存在なのです。即ち生まれながらにして、いや種であったときから真の父であり、真の父母なのです。
そしてその種は創造前から存在したのです。
この種の御言を、ヨナ伝道師が紹介された文亨進師のみ言で確認します。
では、神様の本体とは何でしょうか?他でもない種です。
文先生は信徒たちに何度も「私は他の種から来た」と仰った。これらの真のお父様の説明は、本人はイエス様がそうであるように、夜の神様、すなわち、創造以前の神様から来たと言われたのである。
真のお父様は、サタンの血統とは(全く)関係のない神様の精子から来られた。
文亨進師はさらには、文鮮明師は、創造以前の夜の神様の実体、神様の精子、サタン世界をすべてきれいにする唯一不変な力とまで言っておられます。
文亨進師:お父様は万王の王、主の主、メシアであられ、再臨キリスト、神様の精子、アルファはオメガ、始まりであり、終わりであり、夜の神様の実体、創造以前の夜の神様の実体、お父様の精子は、サタン世界すべてをきれいにすることが出来る、唯一、不変な力なのです。
「より高いキリスト論」の立場では、アルファ・オメガとしてこられる神、キリスト(文鮮明師・イエス様)が真の父、真の父母として、完成した種、完成し愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)を持っておられることは当然です。
四大心情圏の扱いから見る菅井教が「低キリスト論」である証明
「より低いキリスト論」においては、愛の感情や人間関係の形「子女、兄弟、夫婦、父母」の愛は、人間という被造物が創造され、歴史の中で体験・理解されて初めて具体化するとします。
「神は愛である」としても、その愛が受肉(イエス・キリスト)という歴史的な行為と人間の具体的な愛(犠牲、自己犠牲)として現れるのは、十字架という歴史的な創造のプロセスによってであると低キリスト論は主張します。
菅井教もこの「低キリスト論」と同じ論です
この「より低いキリスト論」をもって、菅井教は、「より高いキリスト論」の「四大心情圏」を次のように笑うのです。
菅井教:そうではないでしょう。四大心情圏は実際的に、子女の愛・兄弟の愛・夫婦の愛・父母の愛を体恤しなければ成就し体恤し完成することはないはずです。だからイエス様も再臨する必要が生じたわけでしょう。
まったく何を勘違いしているのでしょうか https://kuruto.muragon.com/entry/405.html
そして次のようにイエス様には十字架の犠牲の愛なんぞ無い!と馬鹿にします。
菅井教:
真の愛の中心であり、真の愛の根である犠牲の愛は、子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛をそれぞれ体恤してこそ、神様と相対できる犠牲の愛に至ることができるのです。
(中略)
地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか。https://kuruto.muragon.com/entry/266.html
この菅井教の言葉はキリスト教の「より低いキリスト論」よりも残酷非道な言葉です。
いつものことですが、今回もキリストと言いながらイエス様の宝血の心臓をグサリとさして大いに嘲笑う偽善者、詐欺師、悪魔の集団であることを証明してくれました。
このように菅井教は、イエス様に対する人類の責任分担という発想がまったくありません。
我々の罪ゆえに、イエス様を殺してしまったのに「地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか」と大いに嘲笑うのです。
菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。https://kuruto.muragon.com/entry/169.html
これはまさに悪魔の言葉です。
菅井教は、神様、イエス様、文鮮明師の宝血の心臓を突き刺して
「どうだい痛いだろ?アガペーの愛、父親の犠牲の愛なんぞ、肉的五感からくるものだ。そうだよなぁ、イエス!文鮮明!もっと犠牲の愛を見せろ!天銭、天銭!」と、その宝血の心臓をこねくり回しながらキリストの恩恵を求め、イエス様の十字架の死、文鮮明師の飛行機十字架を嘲笑う信仰です。
イエス様を磔にして殺して嘲笑ったイスラエル民族より、もっと酷い。
これが神が送ってくださったイエス様と再臨主への菅井教の信仰の本性です。
これではイエス様を殺害した、まだ残っているユダヤ民族の罪と蕩減の残り全てを菅井教は受けることになりそうです。
菅井教は、キリスト、キリストと御言のコスプレをして偽善の限りを尽くしますが、菅井教の信仰の本質はイエス様を十字架に磔て小躍りするサタンそのものです
結婚出来なかったではないかとイエス様を嘲笑う、独生女論
次の菅井教の「真の母」に関する言葉も同じ「低キリスト論」の理解です。
菅井教:真のお父様は一人でも真の父母です。しかし、絶対信仰・絶対愛・絶対服従で完全一体となる真の母があってこその、一人でも「真の父母」なのではないですか。一人でも真の父母の真のお父様には、真のお母様はいなくても良いとはならないでしょう。https://kuruto.muragon.com/entry/405.html
菅井教は、「人間キリストの生心に神が臨在する神性を持つものの、結局はキリストを愛を体恤し成長する人間である」とみる「より低いキリスト論」です。
それなので、創造前から存在する愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)と生命と血統の、創造前から存在する神本体の種として来られ、種の時から真の父母であるキリスト(イエス様、文鮮明師)を根本的に受け入れることは出来ません。
『完全一体となる真の母があってこその、一人でも「真の父母」なのではないですか』
『一人でも真の父母の真のお父様には、真のお母様はいなくても良いとはならない』
などと、実体的に真の母が存在していない時点での「一人でも真の父母」を認めません。
絶対的に真の母が実存存在しなければ成立しないという主張です。
キリストは種の時から真の父母であるとする「より高いキリスト論」における解釈は、菅井教にとっては完全無欠の大笑いのナンセンスなキリスト論です。
それは先ほど説明したように
菅井教:
真の愛の中心であり、真の愛の根である犠牲の愛は、子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛をそれぞれ体恤してこそ、神様と相対できる犠牲の愛に至ることができるのです。
(中略)
地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか。https://kuruto.muragon.com/entry/266.html
このように菅井教は、犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛、全て「肉的五感の感覚的刺激」よって初めて生じ完成する、エバとの初夜がなければ犠牲の愛なぞ無いと主張し、
イエス様の宝血の心臓を突き刺して
「どうだ痛いだろ?エバとの初夜も迎えられず四大心情圏もなしていないお前なんぞに、アガペーの愛、父親の犠牲の愛なんぞ無いんだよ!そうだよなぁ、イエス!あはは」
と、その宝血の心臓をこねくり回し、イエス様の十字架の死を嘲笑う極めて悪質な「低キリスト論」の信仰だからです。
それだから、エバとの初夜がなければ犠牲の愛も無い、真の父母も無い、真の父も無いとするこの菅井教の、キリストによる救いの主張は、
文鮮明師に原罪があり、韓氏オモニによって原罪を贖われたとする「韓氏オモニの独生女論」より酷い独生女論であるというのです。
「フェミニズム低キリスト論」の菅井教には当然理解できませんが、「高キリスト論」から見れば、極めて酷い独生女論です。
これほどまでにイエス様を貶めに貶めるのですから、
これではイエス様を殺害した、まだ残っているユダヤ民族の罪と蕩減の残り全てを菅井教は受けることになってしまいます。
異端者、爆発者、菅井派たち
菅井教:自分の「原理原相論試論」を守りたいがゆえに、「真の父母様の本体論」をなんとか否定したいと必死なのでしょう。
https://kuruto.muragon.com/entry/405.html
違います。以下の文亨進師からのご指導による啓蒙活動です。
そして文亨進師からの「より高いキリスト論」で文鮮明先生の御言を考えなさいというご指導に基づくものです。
試作品ですが、文亨進師を嘘つき荷台王などとなじる家庭連合からも「文亨進牧師の原文と完全に整合する唯一の立場」という評価を頂いています。
もちろん、フェミニズム低キリスト論の菅井教はこれを『「文亨進牧師の原文と完全に整合する」なんて、これほど愚かしい神学はない。なんて馬鹿だ、何という不信仰だ!』と盛大に嘲笑います。
なぜなら菅井派は真理・生命・道は再臨のキリストの後継者文亨進二代王にはなく、菅井睦雄教祖にあるとする宗教だからです。
文亨進師はこのような「異端者、爆破者から目を覚ますよう警告や啓蒙をしなければならない」という指令を下されました。この記事は彼らの救いと、この指令によるものです。
私的神学論は自由なサンクチュアリ教会です。しかし文亨進師はサンクチュアリ教会に侵入したサタンに対する明確なサタン分立の基準を立てられました。
次の御言です。
「私が霊通して」、このような偽りの詐欺の内容をする時、常に滅びます。
「私にお父様は」こういう霊通カリスマは常に滅びる ◆2025年4月9日PA天一宮韓国語水曜礼拝
他人があー啓示受けた。ああだこうだと、これについていこうといって地獄に行ったら、皆さんが悪いのです。
霊通詐欺師よ!後継者文亨進以外は異端だ、爆発者だ!!◆2017年9月7日 二代王様とののQ&A
文亨進師は「お父様はこのように言っている」、「お父様はニ代王様には摂理を語るが、私には真理を語る」などという菅井教ら聖殿内部に入り込んだ反逆者たちに対して、文鮮明師の「文亨進は私の後継者、相続者、代身者だ。これ以外は異端者だ、爆破者だ」という審判と、「地獄に行く」「滅びる」という審判を下されました。
それにもかかわらず菅井派はこの絶対厳命に大反逆する大異端爆破者たちです。
それゆえに彼らに対して文亨進師の口から発せられたつるぎ「滅びの聖霊」は、家庭連合を現実に滅したように、神の血統の貞操を守るために聖殿内部に入り込んだこの異端爆破者たちを分立し滅していくのでしょう。
地上では祝福の拒否、離婚許可、再伝道、このような啓蒙活動で対応しています。
異端者、爆破者という審判は、聖書の記述にあるように厳しい重大な審判です。
霊的に見るならば、これは明らかに文亨進師と菅井派との霊的戦いです。つまり文鮮明真の御父様と彼ら菅井派は戦っているのです。
黙示録19:21 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。
黙示録20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
聖霊はまず悔い改めの役事をします。滅びの聖霊が役事する前に、悔い改めの聖霊によって彼らが救われ永遠の生命につながるよう願います。
ヨハネ第一1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。