劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<1>両性具有神
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<2>3-1~3-2(女性先惟論)
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<3>3-3~3-6(女性先惟論)神様の真の先惟は天宙の中心である
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<4>3-7~3-8(女性先惟論)女性先惟論は家庭連合の独生女論と同じ系列の女性神神学
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<5>3-9(女性先惟論) アガペーの愛、エロスの愛
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<6>3-10(女性先惟論) ことば、ロゴスの愛
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<7>3-11(女性先惟論) 夜の神様が絶対服従したい愛とは?
に続く、劉正玉牧師の原理本体論の神学的問題に関する論考の続きです。
数回に分けて翻訳の合間に掲載します。
3-12 女性先惟先感論が言う真の愛とは
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神様はご自身が父として存在されるので、 女性を願われました (創造の先惟条件)。
YuOSDP(日本語)原理本体論 第一章 創造原理 P234
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この夜の神位相において女性を願う神学論は、
『「創造の先惟条件として、神様は女性を願われた」、つまり女性に対する関心を中心軸として神様は天宙創造された。従って天宙の中心は「神様の女性に対する関心である」』とする真の愛の起源論です。
しかしこれが真の愛の起源ではありません。
天宙創造の以前から神様は「父子関係を願われました」ではなく、「女性を願われました」と、「父子関係」ではなく夜の神様の太初から女性に関心があったというのですから、この女性に関する関心が縦的真の愛の起源だと女性先惟先感論は主張します。
愛の反対は無関心、愛とは関心をもつことから始まります。
願うにしても先惟するにしても関心がなければ始まりません。
関心とはある事物に特に心を引かれ、注意を向けることだからです。
ですから、そのためにはその事物が既に存在しなければなりません。
関心をもつにはその事物を感じる必要があります。先感する、つまり先に感じる必要があります。
「父と子と聖霊の三位一体」が夜の神の太初から存在するということは、父と子と聖霊が夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。父と子の関係を先感したということです。だから真の愛の縦的愛の起源が「父子関係」であることは既に説明した通りです。
ですから、夜の神様の太初の段階で、夜の神様が関心を持った、先感した存在が女性的対象であるとするならば、その対象が既に存在したということです。
感じ思うとは、情緒的感情的に既に存在していた、ということを示します。
「父子関係」を先感すれば、この「父子関係」が既に夜の神様の無意識の中に存在し真の愛の中核になったということに対して、
女性的対象を先感した場合、そのような女性神が夜の神様の無意識に存在し、これが真の愛の縦的愛、中核になったということになります。
これが女性先惟先感論が言う真の愛のコンセプトということです。
ですから、このYuOSDP神学は、先に考えるというより女性を先に求める、あるいは引かれる感性がもともとあったという、女性先惟どころか女性先感神学と言える神学で
あるという結論になるのです。
この女性先感神学を次のように、定義できます。
『神様は女性を先惟先感したのですが、この関係がもつ特定の内容が何か? 男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生で先惟あり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、女性先惟先感の関係です。
つまり、女性先惟先感神学は夜の神様が男性格主体であるがゆえに女性的対象に心を引かれ、その刺激を求める感性感覚の因縁が、天宙の愛の中心を決定しえる最初の因縁なのです。よって夜の神様は、その女性的対象に対する関心愛を因縁に縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差する中心核を定め原理を創造し、時間と空間をを創造し天宙創造、天地創造をした』とする。つまり女性先惟先感神学は「真の愛の中心核は女性的対象に対する関心」と主張する神学です。
(女性先惟先感神学)
真のお父様は『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』と言われました。
しかしこの女性先惟先感論は『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』とお父様の御言を書き換えるのです。
ところが、真のお父様の『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』と言われる御言よりも、
この『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』という女性先惟先感論の方が、心ときめく人が多いでしょう。
なぜなら父子関係の愛は、イエス様の血の十字架の愛、血の犠牲の愛であり、
一方この女性先惟先感論はロマンスの愛、エロスの愛、感性感覚の愛であるからです。
さらに言えば、人は、エバとルーシェルとのこのロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚を引き継いでいるからです。人類最初の愛はルーシェルとの死を覚悟した恋愛でした。エバとルーシェルも全てを犠牲にして生命をかけて真剣に愛し合ったのです。その危険な恋の蜜の味、そのような危険なロマンスの愛の感性感覚を堕落により引き継いだエバの末裔でもあるからです。
絶対性の愛、真のロマンスの愛、そして横的父母の愛は、神様がことばロゴスを創造される時、ことばロゴスに存在するようになった夜の神の被造物であることは先に説明しました。
しかし、この夜の神女性先惟先感神学は、このようなロマンスの愛、絶対性の愛を、真の愛の中心核にし、この絶対性の愛が宇宙の中心軸とする神学ということになります。
そのように「女性との関係の愛」「絶対性の愛」の根源を、ロゴスではなく、そのロゴス創造以前の、天宙を創造しよう思われた、夜の神様の意識の始まりに求める神学です。
そしてその本来夜の神様が先感した「父と子の関係の愛」は、ロゴスの中にある、つまり「父と子の関係」は神の創造物であるとする神学であるということになります。
従って女性先惟神学(YuOSDP神学)のいう真の愛とは、女性先惟先感の愛であり、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「真のロマンスの愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということになるのです。
女性先惟先感の愛は、父子関係の愛を主管性転倒する
これは絶対性の愛の起源が、時間と空間、四位基台を作り出すロゴスにではなく、夜の神様自体に真のロマンスと絶対性の愛の起源がもともと存在したとする神学です。
つまりこの場合、真の愛の中核が、縦的な愛である父子の愛ではなく、横的な愛である絶対性の愛、男女の二性性相の愛、エロスの愛であるということになります。
真の愛の核が縦的は真の愛である父母の愛ではなく、横的な絶対性の愛、エロスの愛が中心核を決める縦的愛になってしまうのです。
そして「父子の関係」がロゴスの位相にあるとするこの神学では、父子関係の愛は、縦的な愛ではなく横的な愛へと入れ替わってしまうのです。
「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
このみ言が、女性先惟先感神学で解釈すると
「天宙の中心的法則・原理は、女性的対象との関係です。それがすべての出発点です。そのようにこの宇宙が女性的対象との関係で創造された」(女性先惟先感神学)
と、このように、その天宙の中心的法則・原理、全ての出発点が、女性的対象との関係の愛に主管性転倒されてしまうのです。
「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とはどのような位相関係にある関係を言うのでしょうか?
原理、法則、理法(ロゴス)を創造するにあたって一番の中心的基軸になる、全ての出発点なのですから、ロゴス構想、創造以前に存在していなければなりません。
つまり夜の神様の位相にて、さらには夜の神様の無意識の世界から存在していたということなのです。
愛とは関係であることは説明しました。
「真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛」でした。
ですから「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とは縦的神の愛、つまり夜の神の愛であるということです。
ですから、この「父子の関係」は明らかに夜の神様の縦的愛、天宙創造前の夜の神様の真の愛であるのです。
お父様は「夜の神、昼の神」に御言を言われる前から、「縦的神の愛」という表現で夜の神、「横的真の父母の愛」という表現で昼の神のことを言っておられたのです。
そして夜の神から、お父様が来られと言われたのは、キリスト、真の父の愛は、この縦的真の愛からこられた夜の神様とともに創造以前から存在したということを明らかにされたのです。
それであるのに、女性先惟先感神学は、このお父様のこの御言はロゴスの位相のことであると規定してしまいます。
父子の関係という天宙の中心的法則・原理は、全ての出発点ではなく、女性的対象との関係という縦的愛によって創造された天宙の中心的法則・原理の一つであるとしています。
つまり父子の関係の愛の神性を、夜の神様から昼の神様の横的愛に、縦と横、主体と対象を入れ替えた上に低めています。
この父子の関係を、ロゴス創造の時に創造された中心的ではあるが、ロゴス、理法の一つであると横的な中心法則に変質させているのです。
この父子の関係は、女性的対象を先感する絶対性の愛を縦的愛を中核として、創造された横的愛にしてしまいます。
即ち、これは縦的愛と横的愛を逆転、逆主管してしまっているのです。
その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
この、お父様の御言は「真の愛とは(父子の関係の)縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(父子の関係の)愛の基準を実らせること」が本来の御言です。
端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は父子関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は父子の関係を基軸とすることによって真の愛になることができるということなのです。
ところが女性先惟先感神学では、
「真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛と、横的な(父子の関係の)真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(女性的対象との関係の)愛の基準を実らせること」、
端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は女性的対象との関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は「女性的対象との関係」によって真の愛になることができると、このようにお父様の御言を主管性転倒し捻じ曲げているのです。
ですので女性先惟先感神学のいう真の父母の愛とは、父子の愛ではなく、女性的対象との関係の愛を中心軸とするエロスの愛なのです。
ですから、夜の神様は、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様、エロスの愛に絶対服従したい非常に感性感覚的な神様になってしまうのです。
エロスの愛、性愛は縦的な父子関係の愛によって主管されてこそ、真の愛の中の一つ、夫婦の愛になります。
ところがこの父子関係という中心核を外してしまった愛は、横的に流れてしまい、自由恋愛的愛、感覚的愛、快楽愛、官能愛へと変質していくのです。
つまり夜の神様が、感覚愛を中心核とする官能愛の神様になってしまうのです。
女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の、子を女性に変えてしまう。
女性先惟先感の真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛ですから、父と子と聖霊の三位一体における父子関係を、父と息子の関係から、父と娘の関係に変えてしまいます。
つまり子とはイエス様、お父様と言いながら、本質は独生女という偽りのイエス様が、その関係の位置にすり替わるのです。
女性先惟先感の愛に絶対服従したいということは、その女性的対象との愛に絶対服従したいのですから、父と子と聖霊の三位一体という時、この子とは女性になってしまうのです。
そして、この独生女は夜の神様の種を、ロゴスからの被造物、昼の神の種に位相を移し変えるのです。
女性先惟先感の真の愛は、夜の神から来る種を消し去り、独生女の絶対卵子は夜の神から来るようにしてしまうのです。
女性先惟先感の愛は、イエス様を夜の神様の位置から追放する
夜の神様は、父子関係の縦的父の愛、縦的真の父母の愛によって、横的真の父母を創造するため、まず先に女性を創造することを考えられました。そうして昼の神の位相のアダムを考え創造していかれました。
この縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差するその中心を決定する最初の因縁が、「父と息子の関係」です。その夜の神様とともにいた息子がイエス様であり、真のお父様でした。
ところが、女性先惟先感神学がいう、この夜の神様の位相の太初に存在するとする女性先惟先感の愛は、この夜の神様の位相から、この三位一体の位置からイエス様をお父様を追放し、そこに独生女を置いてしまう愛なのです。
女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の三位一体を創造物にする
女性的対象との関係愛が神様の縦的愛であり、父子関係がロゴスの時に存在するのであれば、「父と子と聖霊の三位一体」は夜の神、昼の神のどの位相に存在することになるのでしょうか?
「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は父と子の関係」でした。
女性先惟先感神学は、父子の関係はロゴスとして創造された、昼の神に位置するとします。
ですから、女性先惟先感神学によれば「父と子(息子)と聖霊の三位一体」は昼の神の位相に存在する、ロゴスの位相でつくられた夜の神様の創造物となってしまいます。
それでは、女性先惟先感神学においては「父と子(息子)と聖霊の三位一体」はどのような愛を縦的愛として造られるのでしょうか?
女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」を、真の愛の縦的愛とします。
つまり、「父と子(息子)と聖霊の三位一体」の愛は、「女性的対象との関係の愛」によって横的に造られた愛であるとするのです。
女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学、
或いは、女性先惟先感神学は「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学なのです。
「父と子と聖霊の三位一体」は次の聖句から来ているのは皆様、周知の通りです。
ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。
ところが、「父子の関係」「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を昼の神の位置、ロゴスの置く女性先惟先感神学により、この2つの聖句の性質は次のようになってしまうのです。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼女は世にいた。そして、世は彼女によってできたのであるが、世は彼女を知らずにいた。
この終りの時には、独生女によって、わたしたちに語られたのである。神は独生女を万物の相続者と定め、また、独生女によって、もろもろの世界を造られた。
このように女性先惟先感神学においては『「父と子」「父と子と聖霊の三位一体」、即ち、御子、イエス・キリスト、真お父様は「女性的対象との関係の愛」によって創造された昼の神であり、「女性的対象」が夜の神から来たのである』という神学がその正体なのです。
つまり、夜の神から「父と子(息子)」「父と子と聖霊の三位一体」が消えてしまい、イエス・キリスト、真お父様は夜の神から来た方ではなくなってしまい、代わりに「女性的対象」が夜の神から来たということです。
散りばめられた数々のお父様の御言、聖書の御言を着飾りながらその本質、正体を隠しているのです。
このように女性先惟先感神学の三位一体論は、父子(息子)関係を昼の神とします。そして「女性的対象」を主体、「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が主体の、夜の神様の位置であり「父と子(息子)と聖霊の三位一体」が対象であるとします。このように縦と横、主体と対象の逆転、逆主管してしまう三位一体論なのです。
父子の関係よりも男女の関係を求める愛
女性先惟先感の愛が、夜の神様の縦的愛であるならば、愛と生命と血統の目的は、女性的存在との実体的な愛の関係になってしまいます。
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
この御言が
生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です。
に書き換えられてしまいます。
これは天宙を創造し生命を生み出し、血統をつなぐのは女性的存在との実体的愛の関係を永遠に結ぶためということになります。
つまり父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要だということになるのです。
ところが、人々は「愛と生命と血統」のなかでいちばん重要なのは「愛」だと思いこんでいます。お父様の血統が一番重要だという御言を知っていても、無意識的に「愛」だと思いこんでいます。
女性先惟先感の愛は、「生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です」という意味なので、人々は女性先惟先感の愛に魅了されてしまうのです。
しかしイエス様の愛は「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です」という父の犠牲の愛でした。
父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛
このイエス様の十字架も血の犠牲の意味は、私達に対する父子関係の愛からくる父親の犠牲の愛でした。
父子関係の愛は、愛と生命と血統、アダム王権、キリスト王権を血統、血筋として残すためにありました。それが出来ないことが分かった時、イエス様は十字架の道に従順屈服に殉じ、その真の父の愛を貫かれました。
しかし、父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要とするこの女性先惟先感の愛は、子女よりも女性的対象との愛の関係になりますから、イエス様は十字架の道を選ぶ必要はありません。イエス様は、信仰基台を立てたマグダラのマリアのような女性たちと愛の関係を結び、子をなしながらそのキリスト血統王権、その血筋を成せなよいということになります。いわゆる血分けの救いになってしまいます。そのような血分けの王権になってしまうのです。
子女は、この男女の愛を永遠に継ぐための生命、単なる道具になってしまいます。父子関係よりも男女の愛が重要になり、この男女の愛のために子女を犠牲にしてもよい愛になってしまうのです。
3-13. 女性的対象との関係愛に絶対服従する夜の神の姿
従って女性先惟神学(YuOSDP神学)のいう真の愛とは、女性先惟先感の愛であり、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということです。
このような横的な絶対性愛を真の愛、その核とする夜の神様が、被造世界にあらわれる神様はどのような神様になるのでしょうか?
愛の感覚神の正体
女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この横的愛である男女の関係の愛に服従したい神様になってしまいます。
神様は男性であるがゆえに、女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を求める神ということになります。
つまりアダムとエバの絶対性の愛、絶対エロスの愛の関係のなかで、エバのエロスの愛を感じて喜ぶ神になってしまうのです。
それは、この神様は絶対性の愛に服従する、このような神様の姿とは女性の愛の刺激に囲まれて喜ぶ悍ましい神の姿になってしまうということです。
エロスの神、性愛に恍惚とする神という悍ましい神になってしまうのです。
女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ、そのような神が夜の神であり、そのような神様を天の父として愛し栄光を捧げなければならないということになりますが、わたし達はそのような神様にイエス様の十字架に殉じて神様にその愛と生命と敬愛をささげることが出来るのでしょうか?
この女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛は、エロス的な性的愛の刺激ですから、特定の女性でなくても良いということにもなります。
一人の男性、一人の女性という結婚の絶対性は、父子関係の縦的愛という天宙的基準からきます。
その基準が、その中心がないがゆえに、愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を天宙の中心基準とするがゆえに、男女の性的関係は一人の男性と一人の女性という根拠がなくなり絶対性の秩序が崩壊してしまうのです。
つまりこの神は女性なら誰とでも性関係を結びたい神様になってしまいます。
男と女を創造したのは、多くの男を通じて、性の悦楽を得るためのすべての女性と淫乱関係をむすぶ神ということになります。
女性から見れば、神様は男性の体を借りるだけなので、どの男性と性関係を結んでも問題ないという倫理道徳を生んでしまいます。
或いは特定の男性だけを立てて、そこにこの神が宿り、数多くの女性と性関係を結ぶということにもなるでしょう。
このように「天宙の中心が愛と生命と血統を求める父子の関係」が縦的基準でなければ、性の関係の相手は特定の男性と女性でなければならない必然性も、絶対性も無くなってしまうのです。
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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本来、夫婦の絶対性愛は、イエス様が示されたこの神様の十字架の血、神の父の愛が聖霊として臨在する中での愛の関係です。
本来、神様の父子関係の縦的父の愛の喜びとは、夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、イエス様が十字架で示されたその真の愛の目的が成し遂げられる喜びであり、この真の愛の神性が実現するために夫婦の愛に臨在されるのです。
神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。
ところが、女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ悍ましい神になってしまうのです。
さらには、神様がエロス的刺激を感じることがそのような感覚が宇宙の中心なら、そのエロス的刺激を与えてくれるのなら、どのような女性相対的な存在でもいいということになってしまいます。
つまり相手が男性でも女性的相対として神様を迎え入れるのなら、神様もその感覚に喜ぶ神になってしまいます。
つまりゲイセックスの中でも喜ぶ神になってしまうということです。性的愛の刺激、感覚が宇宙の中心だからです。ゲイセックスの相手のためにアガペー的に全てを犠牲にして捧げる愛になります。このような神はそのような性的犠牲の愛もアガペーの愛というようになるのです。
そして、その対象的に抱擁される感覚は動物でもいいということになります。獣姦の中でも喜ぶ神ということになってしまうのです。
そして次に来るのは小児性愛、子どもたちとの性関係です。
絶対性の愛の神聖さ、その天的高貴さは、父子の縦的愛である父子のアガペーの愛を中心として、この父子の愛に従順屈服するときに、その神々しい神聖さを持つのです。
ところが対象として父子ではなく、女性を先惟したり先感したその絶対性の愛は、神様を対象の愛で抱擁されるがゆえに、神様の神聖を地に貶める非常に下賤な、汚らわしい醜い愛になってしまいます。エロスの愛ではなくエロチック、ポルノチックな醜い愛になってしまいます。行き着く先は小児性愛児童性暴行です。
この女性先惟先感神学は、夜の神様をこれほどまでに貶めてしまうのです。
つまり女性先惟先感神学は天のお父様に対する侮辱以外の何ものでもありません。
このようにイエス様の父の犠牲の十字架の愛を貶める極めてサタン的な愛なのです。
堕落は、天使長がアダムによって、愛の基、権力の位置に立つことのできないその愛の嫉妬、その満たされない思いを、エバの対象的愛に抱擁されて、その満たされない愛の減少感を癒やすために、エバを誘惑することから始まりました。
つまり支配権力の前にエバを先惟先感したということです。
ルーシェルは単にエバを利用しただけではありません。
ルーシェルはエバに、それまで経験したことのない抱擁感を体験し愛に目覚めました。ルーシェルは男女の愛に覚醒し本気でエバを愛するようになったのです。
アダムとエバを堕落させこの地上を支配するようになった堕落天使、ルシファーの
その堕落天使の思いが、その動機と経路に基づく感性感覚が女性先惟先感神学という神学として、この地上に現れたのです。
それ故この女性先惟神学に悍ましさを感じる人もいるでしょう。
一方で、この女性先惟先感神学に秘められた、強烈な死のロマンスの愛に魅了され、恍惚となる人もいるでしょう。ほとんどの人が魅了されるのではないでしょうか。
人は、エバと天使長との生命をかけた死のロマンスの愛の結果として生まれました。ルーシェルもエバも死んでも良いと生命をかけて真剣に愛し合ったのです。原理軌道を逸脱するほどの激しい死のロマンス、熱情的愛をの愛、エバはどれほどそのロマンスの愛にときめいたことでしょうか。
エバがアダムを求めた時、アダムのことを愛していたでしょうか?
いいえ、ルーシェルとの愛の恐怖から逃れたい、本来の位置に戻りたい、それだけです。
ではエバは、アダムと夫婦となってアダムを心から愛したでしょうか?
いいえ、ルーシェルとのその激しい愛、その危険なロマンスの愛、この初愛を忘れられずルーシェルに対する恋心を持ち続けたのです。
人はこの堕落の原体験、原記憶、原初愛のエバとルーシェルとのこの危険なロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚、その恋心を引き継いでいるがゆえに、この愛に魅了される人は多いことでしょう。
そのような観点で、原理を学べば学ぶほど、お父様の御言を学べば学ぶほど、このロンスの愛に惹き込まれる人、そのような観点で御言を解釈するようになる人もいるでしょう。
これは原理よりも強い愛の問題、初愛の問題であるため、この女性先惟先感神学のロマンスの愛から目覚めるのも非常に難しいかもしれません。
女性先惟先感の神は女神、両性具有神である
結局女性先惟先感の縦的父母の愛は、神様を父とし先有条件で存在した女性を神、女性神とする、天の父母の男女の愛です。
家庭連合で言う天の父母です。
結局、夜の神様は男性であると主張しながら、この夜の神は女性神に主管される神です。陽陰二性性相の愛に主管される神です。
このように夜の神様の位相で女性的対象を先惟先感する神とはどのような神でしょうか?
女性的対象を先惟先感することにより、女性神を創造する神とはどのような神でしょうか?
女性的対象を先惟することにより、イエス様、真のお父様を夜の神様の位置から追放し主管性転倒しようとする神とはどんな神でしょうか?
神を主管する陽陰二性性相の愛の神とはどのような神でしょうか?両性具有神です。
陽陰二性性相の愛に主管される神です。
その正体は、独生女であるという女性神をうみだした、天の父母という両性具有神だということです。
このように「神様は男性だから女性を先惟して」と言った瞬間に、家庭連合と同じ二性性相の性愛、エロスの愛の神に陥ってしまうのです。
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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このように女性先惟先感神学は結局、愛を感覚に変える異邦神の女性神、サタン神学なのです。巧妙に女性神、アスタルト、アシェラ、アシュタロテを忍ばせている女性神学です。
これは宇宙の中心と中心の因縁を合わせる縦的真の愛である父子関係からイエス様、真のお父様を追放し、そこに独生女をイエス様であると偽って置き換えることにより、愛と生命と血統の中でもっと重要な血統を貶める両生具有神がこの偽りの夜の神の本当の姿です。
つまり神の種、血統を対象にし、女性を主体にして主管性を転倒させ、キリストの血統、真のお父様の血統、血筋を台無しにし、消し去ろうする偽りの夜の神なのです。
ロマンスはサタンの誘惑、エバはルーシェルとのロマンスで堕落しました。だからこの感性を相続した人々はこのロマンスの神学、神様は男性だから女性を思った感じた、このような感性感覚を大変好みます。
しかし、結局女性先惟先感神学は、愛を感覚にすることにより、高位キリストのお父様とイエス様を夜の神様の位置から低位キリストの人間的位置まで低め、独生女を夜の神の妻の位置まで神性を高める神学です。
このようにして、キリストの血統、血筋を、父息子から、母娘の血統血筋に変えてしまいます。
結局は、父と息子の関係からくるキリスト王権、三代王権の血統を、根絶やしにしようとする、サタンの企みが潜んでいる両生具有神、女神学なのです。