-2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓
-3 ◆愛は感覚ではない愛は父子の愛
-4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造
の堕落論編、<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは-1◆共通概念考察
に続く<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察4です。
<異端の夜の神>
女性先惟先感論が言う真の愛とは‐2
”真の父母様の本体論”に関する考察
参考文献:菅井睦雄氏のブログから「真の父母様の原理本体論」関連文献集
バアル神の本体論

ローマ人への手紙11章1-10節
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
前節で検証したように”真の父母様の本体論”の本質は、真の父、真の父母を殺す女キリスト独生女論です。
即ち韓鶴子総裁を堕落させ、家庭連合を滅ぼした堕落天使サタンが、真の父を殺し、真の父の血統を根絶やしにするために三代王権に送り込んだ堕落天使サタンです。
夜の神の名を語るサタン、真の父母の名を語るサタンです。
日本サンクチュアリ協会は内部にこんなサタンに巣食われてしまい、結果としてこれほどの天宙的サタン宗教団体を育て上げてしまった日本サンクチュアリ協会の責任は極めて大きいといえます。
ある霊的な世界を見ることができる方は、このサタンはサタン四天王の一人モレク神だと言います。知恵の堕落天使、フクロウ神とも言われる堕落天使です。
この方だけではなく、”真の父母様の本体論”は堕落天使が書かせていることを見抜いている聖殿生徒たちも複数名います。
モレクは韓鶴子総裁を堕落させた堕落天使ともいわれるので、韓鶴子総裁は部下の堕落天使に任せてモレク自ら憑依してきたということなのでしょうか。それともモレクの部下堕の落天使なのでしょうか。
モレクの別名はバアル・ハモン。
ですから”真の父母様の本体論”の本体は”バアル神の本体論”です。真のお父様の名を語るバアル神、夜の神の名を語るモレク神の本体論です。
今年、行われる予定の”バアルに膝をかがめなかった7000名大会”を前に、何か意味があるのかも知れません。
”包容感”はルシファーがエバに包まれたときの感覚感性
”真の父母様の本体論”「神様がもっとも先に先惟したのは、無限の神様をも包み込んで来た感覚感性なのです。形状を持たないその愛の感覚感性を、形状として構想する苦労が始まるのです。」
”真の父母様の本体論”が最も重要な言葉にしている”包容感”とはお父様の御言の中から”包み込む”という御言を比喩だと言って悪用しながら、その性質を完全に感覚感性につくりかえたことを前節で説明しました。
それでは”真の父母様の本体論””包容感”の”感”、”感覚感性”とは何でしょうか?
これは。既に説明したように、ルシファーがエバと堕落したとき、エバの生殖器に、ルシファーの生殖器が包み込まれた時のその”包容感”です。
天宙で初めて実体のエバに包まれた、その実体的包容感の刺激の感動はさぞや驚きだったことでしょう。
堕落論「ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。」
「包み込まれる」情的刺激とは、ルシファーがエバから受ける愛の刺激のことです。
「対象である本形状の作用を展開する絶対服従性」とはエバがルーシェルの誘惑に引かれ、絶対服従して堕落したことを表します。
ルシファーは死を覚悟して、つまりこのエバの絶対服従性の情的刺激にルシファーも絶対服従して死を覚悟して堕落したということを表しています。
ルシファーにとって真の母とは誰でしょうか?
堕落論「愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。」
ルシファーにとって、エバはルシファーが人間世界でも、天使界世界の愛の位置を保つための真の母です。独生女です。
ルシファーはエバを通して人類の真の父になろうとしました。
このルシファの感情の表れとして、”真の父母様の本体論”はエバとの初夜を迎えなければ、キリスト(イエス様、真のお父様)も真の父母の「父」になれないというのです。
キリストのみならず神でさえも、エバと初夜を迎えなければ、四大心情圏を相続し真の父になれないというのです。
これは天使という霊的男性存在だからそうなのです。
”真の父母様の本体論”「360度から喜びに包み込まれた感覚を味わいながら、その包み込んで来た存在を包み返そうとした時に、その存在はどこにも無く、全知全能の絶対者であった神様が、絶対孤独の境地に落とされたのです。」
全知全能の絶対者、これは知恵の天使ルシファーのことを表します。
そしてこの神様は、絶対孤独の境地に落とされます。
堕落論「エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けた」
”真の父母様の本体論”はこの「絶対孤独の境地」とは、ルシファーの「創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心」のことを表します。
ルシファーは死を覚悟して、エバの絶対服従性の愛の刺激に絶対服従し、人間世界の父になったことと引き換えに「創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心」、その絶対孤独の恐怖に落とされたのです。
このように”真の父母様の本体論”はこの”真の父母様の本体論”を書かせてる堕落天使がエバと交わったときに感じた感性感覚、心情世界で書き貫かれています。
包容感その堕落天使の策略通りに絶対服従してくるエバ、「包み込まれる」包容感に、”感覚感性”を、お父様の御言を悪用して”真の父母様の本体論”は構成しています。
このように堕落天使の生殖器を”包み込んで来た感覚感性”によってつくられた神学が”真の父母様の本体論”です。
つまり”真の父母様の本体論”が言う”感”、”感覚感性”とは、まさに、堕落天使が女性と交わった時のその”感”、”感覚感性”のことです。
”真の父母様の本体論”が言う「包容感」、「真の愛」とは、このルシファーがエバと交わったときエバに「包み込まれた」時の喜びの感覚であり、その後の絶対的絶望感であると分かって読めば、”真の父母様の本体論”の本質が理解できるのです。
ここでは”真の父母様の本体論”の三位一体論は、この堕落天使のことを表した、キリストの三位一体論ならぬ、バアルの女キリスト三位一体論であることを説明します。
”真の父母様の本体論”の三位一体論は低位キリスト論
”真の父母様の本体論”はその三位一体論を次のように言っています。
”真の父母様の本体論”「
・神様にとって、最初に三次元世界のイメージの象徴として現れた形が、360度から包み込んで来る形状なので、これが神様の対象としての被造世界を構築する上での原点となったからです。
しかし、ここから本当の主体者としての、アダムの個性真理体の構想理想が立てられていくのです。それこそが、アダムが神様そのものと言えるほどになる三位一体の様相の構築なのです。
夜の神様が創造を構築する上で抱いた絶対信仰・絶対愛・絶対服従は、「聖父・聖子・聖霊」の三位一体システムとして霊的世界を形成し天宙に展開するようになり、そして、女性の生殖器として結晶するようになるのです。
・三位一体のシステムとはどのようなことを指しているのでしょうか。この創造前の三位一体は、創造後の三位一体の原型となっているものです。創造後の三位一体とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相です。
この記事では、創造前と創造後の三位一体を図で表現し、解説は次回にします。
」
上の図のように、”真の父母様の本体論”は創造前と創造後の三位一体を主張します。
要約すると
「360度から包み込んで来る形状が神様の対象としての被造世界を構築する上での原点である。
しかし360度から喜びに包み込まれた感覚を味わいながら、絶対孤独の境地に落とされた。
ここから本当の主体者としての、アダムの個性真理体の構想理想が立てられる。
これが、アダムが神様そのものとなる三位一体の様相の構築である。
これが三位一体システムとして霊的世界を形成し天宙に展開して女性の生殖器として結晶する。
この創造前の三位一体が、創造後の三位一体であるキリストの様相「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の原型である。」
『創造後の三位一体とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相です。』
ここで重大なことを言っています。本性相と本形状を図のように創造前の三位一体とし次に『創造後の三位一体とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相です。』と言います。
つまり「聖父・聖子・聖霊の三位一体」は創造後であるとしています。”真の父母様の本体論”は高位(高い)キリスト論というのですが、自ら否定し、低位(低い)キリスト論であると言っているのです。
・高位(高い)キリスト論
高位(高い)キリスト論の確認をします。
キリスト教の、イエス様を神とする高位(高い)キリスト論において、父と子と聖霊の三位一体の存在は創造以前からでしょうか?創造後からでしょうか?
二代王様『キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。
人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。
2021年3月23日キングスリポート』
キリスト教において、キリストは創造以前から三位一体として父と共にした存在です。キリスト教のキリスト論においてイエス様を神として扱っています。神が肉体という体を使って来られたということです。100%の神が、100%人の身体を使ってこの世に来られたということです。神の神性が100%ということではなく、神そのものであるという意味で100%神であるということです。
ですから再臨主も当然神ということです。このようにキリストは神であることをキリスト教では三位一体で表すのです。
ではイエス様、お父様は天宙天地創造以前から神とともにおられたのでしょうか、それとも天地創造後なのでしょうか?
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在」、人であると同時にということですから、このキリストはイエス様であり、お父様のことです。
そして、創造前から共に存在しておられましたか?創造後に共に存在しておられましたか?
そうです「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在」です。
イエス様、真のお父様は、人でありながら同時に神であり、そのような三位一体として、聖父の子、聖子として天地創造以前から聖父とともに存在しておられました。
これを高位(高い)キリスト論というのです。
ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
世の創造はイエス様、真のお父様によってできたのです。
これを高位(高い)キリスト論といいます。
・”真の父母様の本体論”は高位(高い)キリスト論なのか?
では”真の父母様の本体論”はヨハネ1章9節のようにイエス様は創造以前に存在し、この世界を創造したと信じているでしょうか?
”真の父母様の本体論”「
・三位一体のシステムとはどのようなことを指しているのでしょうか。この創造前の三位一体は、創造後の三位一体の原型となっているものです。創造後の三位一体とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相です。
いいえ、信じていません。
”真の父母様の本体論”は『創造後の三位一体とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相です。』「父と子と聖霊の三位一体はイエス様の時代のもの」である、つまり、キリストの三位一体は創造後だと言っています。
実際、”真の父母様の本体論”は、
「ここで疑問が生じるでしょう。創造以前から神様と真のお父様は三位一体で共にしていた存在だというのです。人間として霊人体と肉身を持って生まれた真のお父様は、創造前から存在していたのでしょうか。常識から見ても、科学的物理学的に見ても、また信仰的な視点に立っても考えられない事です。
とするならば、真のお父様がみ言を語るにあたって明かしていた、比喩と象徴の詩的文体で表現されていると見ることが出来るのです。」
このように、はっきりと創造以前から真のお父様が存在したとは信仰的にも考えられないと、自らニ代王様が言われる「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在」していという、高位(高い)キリスト論を否定してます。
次に、”真の父母様の本体論”は明らかに低位(低い)キリスト論であることを説明します。
”真の父母様の本体論”『
「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。」と語られた「父子の関係」も、「宇宙が父子の関係で創造された」のみ言におけるものも、さらに「父と子と聖霊の三位一体論」における「父と子」も、ともに四大心情圏を成就し、一人でも真の父母となった神様であり真のお父様です。』
”真の父母様の本体論”は四大心情圏を成就するためにはエバと初夜を迎えなければならないと定義しています。
ですから、明らかに『「父と子と聖霊の三位一体論」における「父と子」』は創造後です。
”真の父母様の本体論”『・この「父子の関係」の「子」に対して、イエス様だとみなすことは出来ません。なぜなら、イエス様の誕生時から生心に神様が臨在し、共に成長し、共に四大心情圏を成就してエバと初夜を迎えて完成するのです。
”真の父母様の本体論”は四大心情圏を成就するためにはエバと初夜を迎えなければなりません。ですから、明らかに『「父と子と聖霊の三位一体論」における「父と子」』は創造後です。
”真の父母様の本体論”『夜の神様が愛する対象としての真の母となる女性を得て、成長期間をともに授受作用して成長してこそ、夜の神様自身が一人でも真の父母の「父」となるのです。』
夜の神様でさえも真の母を得て成長しなければ、一人でも真の父母の「父」になれないのです。
三位一体の聖父である神様さえも、真の母となる女性を得て成長しなければ、真の父母の「父」になれないというのです。
三位一体の本質は創造前から、父と子と聖霊であり、創造前から神とキリスト(イエス様、お父様)は真の父としてともにおられることです。
その本質である、真の父を創造前を表す三位一体から完全に消し去ってしまい、三位一体の本質である創造前からの存在を、創造後からの存在にしてしまっています。
ですから、明らかに”真の父母様の本体論”は低位(低い)キリスト論です。
”真の父母様の本体論”『男性格主体の神様にとって女性格対象としての被造世界は、エバの生殖器の完成によって完全対象となります。アダムの生心に臨在された夜の神様は、アダムとともに成長し、アダムの生殖器を自分の生殖器として、仕上げられたエバの生殖器に包み込まれるのです。
自己中心的な神様が、本形状の「絶対服従性」に包み込まれて、対象を愛したくてたまらない喜びに感激し、主体と対象が包容包括し合う喜びを切実に求めました。そうして探し求めた真の愛の関係性が、アダムとエバの初夜に実現するのです。』
神様が、アダムの生殖器を自分の生殖器として、仕上げられたエバの生殖器に包み込まれることによって、真の愛の関係性が、アダムとエバの初夜に実現する」
ということですから、
”真の父母様の本体論”「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。」と語られた「父子の関係」も、「宇宙が父子の関係で創造された」のみ言におけるものも、さらに「父と子と聖霊の三位一体論」における「父と子」も、ともに四大心情圏を成就し、一人でも真の父母となった神様であり真のお父様です。』
つまり、父と子と聖霊の三位一体における「父と子」とはエバと初夜を迎えて四大心情圏を成就した「父と子」のことです。
これは即ちエバとの初夜を迎えていなければ、父と子と聖霊の三位一体ではないという三位一体論ですから、創造後の三位一体論です。
つまりキリスト(イエス様、真のお父様)が真の父になるのは初夜を迎えてこそ成されるとする低位(低い)キリスト論です。
このように”真の父母様の本体論”はイエス様も、真のお父様も、創造前には存在していない、創造後の存在であるとする神学です。
「イエス様の誕生時から生心に神様が臨在し」と言っているように、イエス様の生心は創造後に創造されたとしています。
創造以前に、イエス様の生心、真のお父様の生心、夜の神様と共にあったとは認めていません。
二代王様はこの”真の父母様の本体論”に対して、次のように反論されます。
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
しかし真のお父様とイエスの霊的な心(生心)は「神様」です。完全な神です。
イエスであれば、神と同じ生心を持っていらっしゃるということです。イエスの生心は神であるはずです。
お父様も同様です。お父様も現われるとき霊的な体(霊体)があると思いますが、お父様の霊的な心(生心)は神と全く同一だということです。
それで、もし我々が真のお父様とイエスと同時にお会いできることになっても、真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つだということです。
お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日」
イエス様は神と同じ生心、イエス様の生心は神である。
お父様も神と同じ生心、お父様の生心は神である。
真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つである。
そして、三位一体で創造以前から神様と共にしていた存在である。
これが二代王様の、生心に見る三位一体です。
ですから”真の父母様の本体論”がいうように「イエス様の誕生時から生心に神様が臨在」するのではありません。イエス様の生心は創造以前から神様と共に存在していたのです。
ですから、”真の父母様の本体論”は、キリストに神の神性は認めるもののイエス様、お父様を夜の神様自体としては認めない低位(低い)キリスト論なのです。
これは郭グループ(FPA:家庭平和協会)などが伝統的統一思想のキリスト論、三位一体論をもって「真のお父様は、堕落していない完成人間である。神様と完全一体化した人間である」としていることと同じ、低位(低い)キリスト論、です。
「私は夜の神様からきた」と言われるお父様の、私は神である、私の本体は神であるといわれたお父様のキリスト論に対する明らかな否定です。お父様を、夜の神様から来られた本体、個人であるとはまったく信じていないのです。
・低位キリスト論なのに高位キリスト論だとするロジック
そうでありながら、「自分たちは夜の神様を信じている。イエス様は、お父様は夜の神様から来た、自分たちこそがキリストの高位(高い)キリスト論でありその三位一体論である」と主張します。
自分たちはイエス様が、お父様個人が、創造以前の夜の神様とは共に存在していないと言いながら、一方で夜の神様から存在したと言うロジックをどのようにして成り立たせているのでしょうか?
そのロジックを次に見てみます。
”真の父母様の本体論”「
・これに対して真の愛の発動体となる四位基台が、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」となり、実体的三位一体の呼び方に合わせれば、真の愛を中心とする神様とキリスト(一人でも真の父母)の霊的三位一体となるのです。つまり、神様とキリストが真の愛を中心として一体となって、真の愛の発動体となるのです。
この観点から、神様の性相は夜の神様のそのものであり、形状が真の父となって比喩されているのです。このことを二代王様は、「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在である」と表現されたのです。
・ここで疑問が生じるでしょう。創造以前から神様と真のお父様は三位一体で共にしていた存在だというのです。人間として霊人体と肉身を持って生まれた真のお父様は、創造前から存在していたのでしょうか。常識から見ても、科学的物理学的に見ても、また信仰的な視点に立っても考えられない事です。
・何を語っているかを意訳すれば、「神様とキリストは創造以前から授受作用して一体となっていたので、対象としての人類を必要とはしていなかった」と語っている事になります。
しかしこのみ言は、真のお父様と同じように比喩と象徴の詩的文体で語られているものです。真のお父様のみ言には、「神様の性相がアダムで形状がエバなので双子で生まれた。」というみ言があります。そこから、二代王様がどのような比喩を用いたのかと考えれば、「性相が神様で形状がキリストで一体となっていた双子と同じだった」と解釈できます。
・さて「愛」と「真の愛」の違いが認識できると、真のお父様が「神様の性相が男性であり形状が女性である」と語られ、二代王様が「神様の性相が夜の神様であり形状が真の父である」と語られた事の真相が理解できる入口に入れるのです。」
ロジックのキーワードは「比喩」です。「比喩と象徴の詩的文体」という論理で自分の解釈こそが絶対的に正しいとします。
「包み込まれる」包というお父様の御言を「包容感」という感覚愛の言葉を作り出し、真のお父様の御言にあると主張することも同じロジックです。
比喩の解釈が正しいから、その比喩を信じているというのですが、比喩と象徴として捉えるということ自体が、その言葉の通りには信じてはいないということです。
この論理をまったく理解していません。
アダムとエバの堕落を”果実を食べて堕落した”というのは比喩的であり、実際は”性による堕落だ”と信じるのなら、その比喩である”果実を食べて堕落した”ということは信じていないということと同じです。解釈が正しいから”果実を食べて堕落した”と信じているというのは論理破綻です。
ところが”真の父母様の本体論”は「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在である」とは比喩であると主張し、「お父様が創造以前から存在したとは考えられない」と断言し、明らかに否定しています。
それにもかかわらず、文字とおりには信じていないのに自己の解釈、本性相と本形状の創造前の三位一体が正しいから、その比喩「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在である」とする高位キリスト論であると”真の父母様の本体論”は主張しているのです。
これは明らかなこじつけ、”嘘偽り”です。
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在」
このニ代王様の表現は比喩と象徴の詩的文体である。
『「キリストの三位一体が創造以前からあった」とは象徴比喩であって「キリストの三位一体を創造後である」。
その象徴の解釈が創造前の夜の神の本性相と本形状の三位一体なので、自分たちは高位(高い)キリスト論である』
と主張するのです。
ニ代王様は、創造前の夜の神様とキリスト(イエス様、お父様)と聖霊の三位一体を言っておられるのですから、明らかにこの二つの三位一体は別の違う三位一体論です。
「キリストの三位一体は創造後である」と否定しているのですから いくら自分たちの解釈が正しくても、低位(低い)キリスト論は、低位(低い)キリスト論です。
しかし彼らは、頑なに「違う、自分たちの比喩解釈が正しいので高位(高い)キリスト論である」と主張しつづけるのです。
これは明らかにペテンです。
・御言の捏造
そして次に御言の捏造です。
そのうえでその解釈に基づき、次には、二代王様がそう言われたと、御言の捏造を行っています。
最初は
『この観点から、神様の性相は夜の神様のそのものであり、形状が真の父となって比喩されているのです。このことを二代王様は、「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在である」と表現されたのです。』、
このように”創造以前という意味は、形状が真の父という意味の比喩だ”と言った次には、
『二代王様が「神様の性相が夜の神様であり形状が真の父である」と語られた事の真相が理解できる入口に入れるのです。』
と、
このように、比喩だと言っておきながら、”二代王様が、形状が真の父であると語られた”と断言し、御言の捏造を行っています。ニ代王様はそんなことは言っておられません。そう読み取れるという解釈にすぎません。
順序立てて見ましょう。
①「三位一体で創造以前から父と共にしていた存在である」と表現されたのです。
↓
②二代王様がどのような比喩を用いたのかと考えれば、「性相が神様で形状がキリストで一体となっていた双子と同じだった」と解釈できます。
↓
③二代王様が「神様の性相が夜の神様であり形状が真の父である」と語られたことの真相が理解できる。
このように二代王様のみ言葉を「二代王様は、ああ表現されたが、こう解釈できるので論法で、二代王様はこう語らた」と御言を偽造して、「だから我々の、キリストの三位一体論は創造後の存在であるが、その解釈が正しいので、我々の三位一体論は、二代王様のキリストの三位一体は創造以前に父と共にしていた存在であると主張する三位一体論、高位(高い)キリスト論である」と言うのです。
これは大変矛盾した論法、まさに捏造、詐欺です。
このように御言を「比喩と象徴の詩的文体」であるという理由で、自己の解釈でつくりあげた神学こそが、正しい。これを否定することは心の鬼神を反映していると自説を絶対化していくのですが、これは共産主義者がよく使う論法です。
このように本質的には”真の父母様の本体論”は真の父母を語る詐欺、偽物です。真の父母を語る家庭詐欺連合と何ら変わりません。
”真の父母様の本体論”は「真の父母様」という名前をつけていますので、その罪は、韓鶴子総裁の罪に匹敵する天宙的犯罪、天宙的詐欺と言っていいでしょう。
・キリストの生心を創造後とする低位(低い)キリスト論
”真の父母様の本体論”「真のお父様の生心に夜の神様が臨在しておられ、神様の本体そのものであるキリストであったにもかかわらず、原理講論のキリスト論は真のお父様を「人間メシヤ」として教えてきたものでした。」
”真の父母様の本体論”は、夜の神の生心が真のお父様の生心に臨在するから高位(高い)キリスト論であると言っています。
しかし、先に述べたように、生心に神の生心が臨在するから高位(高い)キリスト論になるのではなく、天地創造以前に夜の神様とともに存在すること、つまりキリストの生心が創造以前に夜の神の生心と共にあることを高位(高い)キリスト論といいます。
創造前にキリスト、お父様、イエス様の生心が神とともに存在せず、創造の後にキリスト生心に神の生心が臨在するのであれば、それは低位(低い)キリスト論です。
「真のお父様の生心に夜の神様が臨在しておられたからキリストである」という主張は家庭連合でも、そう主張しています。もちろん、御存知の通り、その神学は混乱を極めており、そう主張する人もいるということです。
郭グループも「真のお父様の生心に夜の神様が臨在しておられるから神様の本体そのものでありキリストである」と主張します。
しかし、真のお父様の生心が創造以前の夜の神様の生心とともにはない、創造後であるとするから低位(低い)キリスト論なのです。
同じように”真の父母様の本体論”も低位(低い)キリスト論なのです。
夜の神様における、本性相と本形状の三位一体は家庭連合も郭グループも主張しています。
別に”真の父母様の本体論”のオリジナルでも何でもありません。
そうであるので、家庭連合が、同じ理由で自分たちは高位(高い)キリスト論であると主張するのであれば、”真の父母様の本体論”は家庭連合のその主張を受け入れなければなりません。
そもそも、先にこの”真の父母様の本体論”は独生女論であることを証明したように、キリストが真の母との初夜を迎えてこそ、「真の父母」となり、「真の父」になると、独生女論を主張していいます。
キリストのみならず、夜の神様も「真の母となる女性」と初夜を迎えてこそ「真の父」になるのですから、夜の神、創造以前における真の父母、真の父を表すキリストの三位一体を信じていないということです。
キリストも神様も、「真の父」になるのは「真の母」となるエバと、つまり独生女と初夜を迎えてこそ、真の父になるのですから、完全に低位(低い)キリスト論です。
独生女、女キリストと初夜を迎えたとき、父と子と聖霊の三位一体が完成するとする、明らかな天地創造後の三位一体論ですから、完全に低位(低い)キリスト論です。
しかもこの”真の父母様の本体論”のキリスト論は、エバと初夜を迎えなければ、キリストも夜の神も完成しないというのですから、これはもはや、独生女が真のキリストであるとする、完全な女性キリスト論です。
まさに独生女韓鶴子総裁のための三位一体論、お父様の三代王権を滅ぼすための女キリスト論です。
父と娘の三位一体論
・「性相が神様で形状がキリストで一体となっていた双子と同じだった」
・二代王様が「神様の性相が夜の神様であり形状が真の父である」と語られた
二代王様が神様の形状が真の父であると言われたとする偽証は既に論じたように、大きな問題です。
ここでは、「形状が真の父」とする、この神学について考察してみます。
”真の父母様の本体論”は神様の本形状が「聖子、キリスト、真の父」であるといいますが、”真の父母様の本体論”の本形状は”真の父母様の本体論”においてどのような性質でしたでしょうか?
本性相を包み込む本形状の前段エネルギーの絶対服従の包容感によって本性相を真の愛(=絶対服従の包容感に喜ぶサディスティックな性愛)に覚醒させる母でした。
そしてその包容感の実体である女性生殖器によって神もキリスト(イエス様、真のお父様)も真の”父”になると説いていました。
つまり”真の父母様の本体論”におけるキリストとは、この本形状の包容感のことを表しているのです。
”真の父母様の本体論”「つまり神様を包み込んできて誕生させた包容感そのものを、顕現させようとしたのですから、その存在は夜の神様の母という事になるのです。
”真の父母様の本体論”では形状の前段階エネルギーは夜の神の母でした。
ですから、「性相が神様で形状がキリストで一体」の実際の意味は、
「性相が神様で形状が女性キリストで一体」の父と娘の三位一体を表しています。
つまり独生女論の三位一体論であるということなのです。
これは独生女がキリストであるとする女性キリスト論です。
ですから、”真の父母様の本体論”は、低位(低い)キリスト論であるどころか、女性をキリストとするのですから、もはやキリスト教ではありません。完全に異邦、異端の宗教なのです。
神とキリストの、宝血の心臓を握りつぶす神学
さらに”真の父母様の本体論”は、夜の神様の本性相、生心から、父の犠牲の宝血の愛、真の父母の愛、真の父の愛を取り去ります。夜の神様の生心から、イエス様、真のお父様の生心を握りつぶしてしまいます。
そして「包容感」という別のルシファーの愛に置き換えます。
”真の父母様の本体論”は、神様、真のお父様、イエス様が実体的エバとの初夜、性関係を持ってこそ、一人でも真の父母としての父になれるとしていました。
つまり、初夜を迎えなければ、神様、真のお父様、イエス様は真の父母でも真のお父様でもないと言っています。
”真の父母様の本体論”『
・この「父子の関係」の「子」に対して、イエス様だとみなすことは出来ません。なぜなら、イエス様の誕生時から生心に神様が臨在し、共に成長し、共に四大心情圏を成就してエバと初夜を迎えて完成するのです。
・夜の神様が愛する対象としての真の母となる女性を得て、成長期間をともに授受作用して成長してこそ、夜の神様自身が一人でも真の父母の「父」となるのです。』
このように、イエス様が生まれながらにして、真の父母であることを認めていません。
それどころか、神様の生心も、真のお父様も、エバとの初夜を迎えてこそ、真の父母の「父」として成長し完成するとしています。
真の母と初夜を迎える前までは、神の生心は、真の父母の「父」の愛ではなかったというのでうから、これは父なる神を完全に否定しています。
神様もエバの生殖器という実体的包容愛に包みこまれなければ、神さえも完成することが出来ないというのですから、エバの生殖器が、神の創造主になってしまっています。
その愛の根源がその女性生殖器にあるとするのですから、これは韓鶴子総裁の独生女論と同じです。
このように”真の父母様の本体論”は、本形状の前段階エネルギーによる絶対服従の喜びの包容感という愛を、真の愛の起源に置き、
イエス様が真の父母であり真の父であることを否定し、
真のお父様が真の父母であり真の父であることを否定し、
それどころか、神様に対する創造主としての真の父母であることを否定し、
真の父であることを否定することによって、
真の父母の「真の愛」、そして真の父の「真の愛」を、包容感包括感の「偽りの真の愛」に置き換えるのです。
包容感包括感の愛の本性本体はルシファーとエバの堕落の時の愛の喜びでした。そのルシファーのエバに包容されたときの包容感の愛に「真の愛」の中身を置き換えるのです。まさに悪魔モレク、バアルの本体論です。
相手の絶対服従の包容感を喜ぶ愛、それはルシファーが堕落の時、エバに感じた愛です。
”真の父母様の本体論”の夜の神の生心とは、そのようなルシファーの神に対する反逆の心、それが故にエバに求める、エバでその愛の減少感の絶対孤独の心を満たそうとするそのルシファーの生心なのです。
”真の父母様の本体論”がいう生心とは、偽りのそのキリストの仮面を剥がせば、その実体はルシファーの生心なのです。
二代王様:『
ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 』
”真の父母様の本体論”は、お父様の御言、二代王様の御言をもっとも正しく理解していると言って、自分たちは高位キリスト論であり、高位キリスト論の三位一体論であると常に主張します。
しかし、実体は、このニ代王様の御言のように、その本性は異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」と言う詐欺の高位キリスト論です。
夜の神様の包容感の愛は、肉体を持つ人間的理解では絶対に理解できない感覚の愛だから愛だ、私の感性感覚は夜の神、真のお父様からの感性感覚だから愛だと偽るのです。真の御父母様、キリスト・メシアを偽るのです。
真の父母様の「感覚は愛だ」と偽るその詐欺の本性は、堕落天使の感性感覚が生み出した、バアル神の本体論なのです。
このように”真の父母様の本体論”の本質は、神様の生心、イエス様、真のお父様の子のために血を流す犠牲の宝血の心臓を引き裂き、
包容感というサタンのエバを堕落させた時の、そのエバに包み込まれた時の喜び、包容感の愛で、お父様の宝血の血統王権、三代王権の血統、血筋を汚し根絶やしにするためにサタンが聖殿教会に送り込んできた天宙的サタン、悪魔バアルの本体論なのです。
包容感というサタンの堕落への囁き
創世記 3:5 「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
読む時間もありませんので、中を読むまでは、”真の父母様の本体論”は、二代王様の三位一体論、高位(高い)キリスト論、真のお父様の勝利の聖和など、これほどニ代王様の御言を受け入れている方はいないと思っていました。
しかし、言葉では、ニ代王様の高位(高い)キリスト論、ニ代王様の三位一体論であると言っているのですが、実体は、ニ代王様の夜の神昼の神の神学を否定している、堕落天使の天宙的詐欺でした。
この”真の父母様の本体論”は統一原理用語やお父様の御言を使っていますが、内容はまったく別の宗教です。お父様の仮面をかぶったサタン神宗教です。
ですからこの”真の父母様の本体論”を信じることは死の道、地獄に行く道です。これを信じることは堕落することと同じです。
死後の世界は、鶴子総裁が行く霊界と同じような霊界に行くということです。
二代王様からの祝福、お父様からの祝福は外れて、堕落家庭になるということなのかも知れません。
多くの聖殿聖徒が”真の父母様の本体論”のこの恐ろしい危険性を知り、犠牲にならないことを祈るばかりです。
冒頭の言葉を繰り返します。
日本サンクチュアリ協会は内部にこんなサタンに巣食われてしまい、結果としてこれほどの天宙的サタン宗教団体を育て上げてしまった日本サンクチュアリ協会の責任は極めて大きいのです。
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