The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series
キリスト再臨アドベント22
イエスが死ぬために来られたのではない10の理由
10 reasons Jesus did NOT come to die
イエスが死ぬために来られたのではない10の理由
[今日はイエスが死ぬために来られたのではない理由トップ10を見てみましょう。 楽しんでください!]
キリスト教神学は長い間、キリストの受肉の目的は殺されるためだと主張してきました。
私は、神とイエスの第一の願いは十字架よりもむしろ王国であったと信じていますので、私は、聖書に従って、イエスが死ぬために来られたのではない理由の中で、私の考えるトップ10を説明するビデオを作りたいと思いました。
以下で述べるように、キリストの本来の願いは、永遠の実体的・霊的神の王国の建設であったにもかかわらず、人々がイエスを受け入れなかったため、イエスに残されたのは苦難のしもべとして孤独な道を歩むしかありませんでした。
というわけで、キリストの本来の願いが十字架ではなく王国であったと私が考える理由トップ10は、以下の通りです。
理由1:旧約聖書の預言の大部分を成就させるため
苦難のしもべという考えを示す聖句は少ししかなく、そのうちの一つがイザヤ書53章です。
旧約聖書の預言の圧倒的多数は、メシアがその降臨において何をなさるかを繰り返し予告しています。
エッサイの根は、エルサレムに前例のない黄金時代をもたらし、イスラエルを圧制者から永遠に解放し、ユダヤ人を永遠の天の王国へと導くでしょう。
このように、メシアの使命とメシアの時代、そしてイスラエルとの永遠の契約について、さまざまな角度から詳細に語る預言は、少なくとも80は存在します。
これらの広大なスケールの預言的言明に基づいて、イスラエルに関する神の願いは、彼らがメシアを歓迎し、高めることによって祝福の道を選ぶことであることは明白です。
このビデオの範囲では、これらのメシア預言と永遠の宣言をすべて取り上げることは不可能なので、代表的なサンプルとして、イザヤ書9章1節から7節を見てみましょう。
(イザヤ書9:1-7)
9:1 (…)後には海に至る道に栄光を与えられる。
9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
9:4 彼らの負っているくびきと、その肩のつえを、あなたはミデアンの日になされたように折られたからだ。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その王国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。
今見てきたように、イザヤはエルサレムがメシアの輝かしい光に照らされる時を預言しています。
これらの5つのメシアの称号によって直接的に特定される油注がれた方とは、次のような方です。
メシヤはイスラエルの圧制者の杖を打ち砕き、メシヤは、その肩の上に政権を担い、その時から永遠に至るまで、公平と正義をもって統治します。
多くのクリスチャンがイザヤ書9章6節に親しんでいますが、この聖句の全文脈を理解することで、勝利の王でありユダヤ人の解放者であるメシアの使命の完全な枠組みが明らかになります。
これらのメシア預言のすべてを詳しく説明する時間はありませんが、旧約聖書の他の多くの預言も、同じメシアの枠組みを強く強調しています。
詳しくは、このビデオ『原理シリーズ4a - イエスがユダヤ人にとって偽の救世主である理由 https://youtu.be/Y2a7fi3NF8o』をご覧ください。
さて、ビデオに戻りますが、旧約聖書のメシアの枠組みのこの正確な理由は、たとえそれが最も中心的な理由ではないとしても、ユダヤ人が今日までイエスを彼らのメシアとして拒絶する理由の一つです。
ラビ・トビア・シンガーが書いているように、キリスト教のメシアの概念は、ユダヤ教の聖典で伝えられている明確な教えとは根本的に異なっています。
ヘブライ語聖書タナフ(Tanakh)は次のように宣言しています。
「メシアはイスラエル王国を復帰し、イスラエルとすべての民族に平和と繁栄と精神的理解の時代をもたらすであろう。」
同様に、ラビ・スコバックは次のように述べています。
「(…)イエスがそれらの『メシア的』預言によって描かれた絵を成就していないことは非常に明らかである。
それらの預言は、メシアがここに来られるとき、(…)すべてのユダヤ人がイスラエルの地に集められる『であろう』ことを示している。(…)
宇宙的な平和が訪れ、(…)神についての普遍的な知識が得られると言われている。
これは、聖書の疑いようのない、議論の余地のない証言である。」
もちろん、旧約聖書の預言者たちのこの栄光のビジョンは、イエスの存命中には成就しなかったので、この点は、ユダヤ人がイエスを自分たちのメシアとして受け入れるための主要な障害となっています。
しかし、キリストの第一の願いが、これらの勝利のメシア預言を成就することであったと理解するとき、ユダヤ教からキリスト教への中心的挑戦は解消されます。
イエスが死ぬために来られたのではないという、聖書に根ざした革命的な考えは、選ばれた民のメシア的期待を肯定し、同時にイエスがユダヤ教のメシアであることを肯定することによって、ユダヤ教神学とキリスト教神学の統一をもたらすのです。
理由2:旧約聖書には再臨の教理がない
理由1に対する典型的な回答は、イエスは初臨で死ぬはずだったが、再臨で預言の大部分を成就する予定であるというものです。
しかし、この反論は2つの点で失敗です。
第一に、ヘブライ語聖書の中で、メシアが二度来られるという明確な箇所を見つけるのは難しいこと。
ラビ・アリエ・カプランは著書『本物の救世主?』の中で次のように述べています。
「ユダヤ教の聖書には、再臨の教義を支持する証拠はまったくない。」
しかし、もっと重要なことは、もしユダヤ民族がメシアの使命に対する誤った期待を世代から世代へと千年以上にわたって抱き続けてきたことが事実だとしたら、なぜ神はこのユダヤ民族の非常に大きな看過を正されなかったのでしょうか?
つまり、神の御心を知っていたすべての使者、預言者と天使は、初臨ではなく再臨で起こると知っていたメッセージを伝えていたことになるのです。
それだけでなく、神が直接語られた数々の実例は、この最優先価値の教義を明らかにする機会でもあったのです。
再臨ですべてが成就するというのが真実なら、神は1000年間、選ばれた民を基本的に欺いてきたことになります。
ユダヤ教の偉大な教師マイモニデス(Maimonides)によって信仰の13の原則の1つに挙げられているように、メシアという人物はユダヤ人が熱烈に望み、祈る中心的な教義の1つです。
神は聖なる正義の神であり、選ばれた民の前で、神がこの核心的な信仰を隠しておくはずがありません。
したがって、イエスは初臨ですべてを完成させたかったという説明は、それが神に対する道徳的な意味合いを解決するだけでなく、旧約聖書に再臨の教義がないという問題を解決します。
理由3:主の祈り
弟子たちから祈り方を尋ねられたキリストは、「祈るときは、このように祈りなさい」と答えられました。
これは、イエスのミニストリーの核心を明らかにします。
(マタイ6:10) 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
マタイによる福音書6章10節に記されている、キリストに続くすべての信者のためのこの模範的な祈りは、天の王国を地上に築こうとされる神の本来の願いを手本として示しています。
神の御心は、悔い改め、間もなく復活される主を信じることで確認されるというよりも、むしろ、彼の先祖たちが千年間抱いてきたのと同じメシア的期待を共有し、イエスは、神の王国が地上に来ることを信じ、熱心に祈り、彼の信者たち全員にも彼と同じように祈るように命じたのです。
したがって、この代表的な祈りは、イエスの願いが、苦しむしもべの孤独な道を歩むことではなく、天の王国を地上にもたらすことであったことを明らかにしています。
理由4:イエスは信仰を求めるが、彼らが信じない時、イエスはイスラエルを裁かれる
ユダヤ人がイエスに尋ねる時、
(ヨハネ6:28-29)
6:28 「神のわざを行うためには、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが神のわざである」。
マルコによる福音書1章15節にあるように、イエスは行く先々で信仰を呼びかけておられます。
(マルコ1:15) 「時は満ちた。神の王国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
イエスが説く福音は、神の国の到来が間近に迫っていること、そしてイスラエルがひとつになって救い主を信じることです。
しかし、イエスはどこへ行っても、特にイスラエルの指導者たちから不信仰と反対を受けるだけでした。
こうしてイエスは、まさにイスラエルの無信仰のために、イスラエルに厳しい裁きを下すのです。
(マタイ12:41-42)
12:41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネべの人々はヨナの説教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。
12:42 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。
イエスはイスラエルに裁きを宣告されます。
なぜなら、ニネベの人々が預言者ヨナの悔い改めの呼びかけを聞いて悔い改めたように、彼らは悔い改めず、預言者や王たちよりもはるかに偉大な方を信じなかったからです。
南の女王がソロモン王の偉大さを認識したように、同様に、イスラエルもまた、神の子が悔い改めるように呼ばわったとき、悔い改めなければならず、同様に、イスラエルもまた、長い間待ち望まれていた王の栄光を認識しなければなりません。
悲劇的なことに、イスラエルはその責任の一端を果たせませんでした。
イエスは、ご自身の絶え間ない信仰の指導に基づいて、ユダヤの民が忠実であることを望み、打ちひしがれたダビデの家を救い、活性化させることができる方と共にあって、高揚させることを望んでおられます。
(ヨハネ6:28-29)
もし、キリスト御自身が述べているように、イエスへの信仰が神の御業であり、人々がこの神の御業に従っていたなら、イエスは十字架で殺されることはなかったはずです。
そうでなければ、神は意図的に、殺されるかもしれないために息子を送る瞬間を歴史の中で探していたのでしょうか?
神の預言者たちや使者たちが不信仰によって拒絶され、殺されることによって、神の御心が達成されるようなことが歴史上あったでしょうか?
神の民が神を信じず、神の御言葉に従わないことによってのみ、神の意志が達成されると考えるのは、理解しがたいことです。
このような理由から、イエスが信仰を呼びかけているという事実そのものが、イエスが裏切りよりもむしろ信仰を望んでおられる証拠であるだけでなく、信仰を持たないイスラエルの行為に対するイエスの非難と裁きは、イスラエルに関するキリストの願いが十字架よりも王国であることのさらなる証拠となります。
理由5:イエスは十字架刑を糾弾し、サタンの計画と同一視します
イエスが語られる、ヨハネによる福音書8章37節から47節を読んでみましょう。
(ヨハネ8:37-47)
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。
キリストの言葉に注目してください。
なぜなら、1世紀のイスラエルにはキリストの言葉を受け入れる余地がないから、それが、彼らがキリストを殺そうとする理由です。
言い換えれば、イエスが説いておられることを信じないから、彼らはキリストを殺そうとするのです。
聖句に戻ります。
8:39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。
8:40 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。
8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。
イエスは、信仰深い先祖アブラハムと彼らの行動を比較することによって、イエスを十字架につけようとする彼らの行動は、信仰の父がしたであろうことと正反対であると述べています。
イエスは、イスラエルが神の御心に反して行動し、神の子を殺そうとするのは、彼らの不信仰からだと、直接的に述べています。
8:41 彼らは言った、「わたしたちは不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。」
8:42 イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。私は神から出た者、また神からきている者であるからだ。
8:43 どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。
8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
8:45 わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。
8:46 あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
8:47 神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者ではないからである」。
この聖句(ヨハネ8:37-47)を全体として見ると、
なぜイエスはパリサイ派と律法学者を「御言葉を受け入れる余地がない」と、そして、彼らの十字架刑の計画は 「神から出たものではない」と叱られるのでしょうか?
もし、ユダヤ教の指導者たちの神の息子を殺そうとする計画が、創造以前からの神の本来の計画ならば。
イエスが彼らの不信仰を何度も戒めたというまさにその事実が、ユダヤ人が自分たちのメシアを信じることになっていた証拠です。
さらにイエスは、彼を十字架につけようとする巧妙な策略は、信仰の父アブラハムの行動とはまったく矛盾していると述べています。
イエスが、ユダヤ教の指導者たちは神から出た者ではなく、むしろ彼らの父である悪魔から出た者であり、彼らの意志は彼らの父の欲望を実行することであると述べているのは、まさにこのためです。
これは、十字架の道が神の子に対する第一の願いではないことの証明ではないでしょうか?
イエスは、十字架が神の意図するものではないことを、これ以上に明確にすることができるでしょうか。
それが神と神の意志に反するものであると述べて、彼らの殺人計画を繰り返し叱責し、そして、これらの陰謀は、何千年間にもわたって神の計画を妨げてきた、サタンから生じたものであると結んだのです。
悪魔は、神の計画、特に、人類を罪の掌握から解放しようとする神の計画に、意図的に加担するほど知的に欠けてはいません。
このように、ヨハネによる福音書8章37~47節では、イエスが十字架刑をサタンの計画だと特定し、十字架はイスラエルとイエスに対する神の本来の意図ではなかったという考え方を直接的に証明しています。
理由6:イザヤ書の巻物の朗読
イエスがイザヤ書の巻物を手渡され、ある聖句を選んで読まれるとき、キリストは意図的にイザヤ書61章1~2節を探し出し、読まれました。
朗読が終わると、キリストは巻物を係りの者に返し、自分の席に着かれると、すべてのユダヤ人の視線がキリストに注がれる中、イエスは会堂にいるすべての人の前で、次のように告げました。
(ルカ4:21) 「この聖句は、あなたがたの耳にしたこの日に成就した」
この話は2つの理由で重要です。
第一に、イエスが選んだ特定の聖句は、聖霊に満たされた人が、イスラエルの捕囚からの解放が間近に迫り、その結果、ユダヤ民族に繁栄の黄金時代が到来することを宣言しています。
イザヤ書61章を囲む60章と62章でも、メシア時代の同じビジョンが宣言されています。
イスラエルは敵対者から救われ、すべての国々の上に永遠の正しい支配権を築き、神の律法の豊かな実りを全世界に公表します。
今日、この聖句がこの会堂の聴衆において成就したことを宣言することによって。
イエスは事実上、メシア時代の到来を告げる聖霊に満たされた人が現れたことを告げたのです。
彼がその人でした
しかし、ユダヤ民族は彼らの王と一つになるのでしょうか?それが、答えられるべき質問でした。
第二に、もしイエスの唯一の使命が犠牲の子羊であったなら、なぜイエスはイザヤ書53章を意図的に読み飛ばし、その代わりに、目前に迫ったメシア時代に関する聖句を探したのでしょうか。
巻物を広げたとき、イエスはイザヤ書61章を探しながら、イザヤ書53章を通過したはずです。
もし、伝統的な神学によるところの、イエスはただ死ぬためだけに来られたのであるならば、これは、メシアの使命は栄光の王ではなく苦難のしもべであると、何世紀にもわたって抱き続けられてきた重大な誤った期待を正す絶好の機会となるでしょう。
その代わりに、イエスがメシアは主の恩恵の年をもたらすと述べているとき、イエスは彼の時代までの事実上すべての先祖と同じメシア的枠組みを持っていることがわかります。
従って、イエス・キリストと旧約聖書の預言の圧倒的多数という同じレンズを通して見るときのみ、ルカによる福音書4章がキリストの本来の使命、イエスは死ぬために来られたのではないことを力強く表現するのです。
理由7:イエスはイスラエルのために泣かれ
次に、エルサレムの故意の反逆に対するイエスの嘆きは、イスラエルが神の恵み深い悔い改めの呼びかけに耳を傾けることを願ったイエスの願いを、さらに別の聖句で証ししています。
マタイによる福音書23章の13節から始まる聖句で、神が遣わされた預言者たちを彼らの先祖たちが殺したように、イエスを殺そうとする彼らを非難し、イエスはイスラエルの指導者たちに7つの苦痛に満ちた悲しみの言葉を発します。
これらの悲しみの後、イエスは特にイスラエルの指導者たちに裁きを下し、選ばれた民のほとんどをメシアに逆らうように導いた彼らを非難されました。
その結果、イエスはエルサレムのために泣かれます。
(ルカ13:34-35)
34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
35 見よ。おまえたちの家は見捨てられてしまう。
この聖句は、イエスの願いが御自身の民の裏切りではないことを、完全に明確に示しているではないでしょうか?
イエスが泣いているのは、正確に、彼以前の預言者たちや使者たちを殺したように、イスラエルがイエスを殺そうとしているからです。
イエスは、イスラエルを守り平和をもたらしたいという願いを、雌鳥が雛を守るようにと譬え、彼の民が協力し、翼の下に避難するよう切実に望んでいることを表現しています。
しかしながら、イスラエルが平和の君から背を向ける決断をしたため、イエスは、イスラエルが信じるよりも裏切りを選んだという正にその事実を嘆き、イスラエルは今や見捨てられ、荒廃の中に取り残されると宣告されました。
ルカによる福音書19章41節から44節をめくると、イエスは再びエルサレムを嘆き悲しまれました。
(ルカ19:42) もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたらよかったのに!
一連の裁きを下した後、イエスはイスラエルを呪われました。なぜなら、
(ルカ19:44) おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである。
イエスが「この日に」と指定したのは、イエスと同時代のイスラエル人が42節にある平和のための事柄を知っていたはずだという証拠です。
そうでなければ、もし、十字架刑が神の本来のご計画の中であらかじめ計画された時機を得た出来事であったなら、なぜイエスは彼らが「神のおとずれの時を知らないでいた」と嘆くのでしょうか。
エルサレムに関するこの哀歌を額面通りに受け取るなら、イスラエルに関するキリストの願いは非常に明確に思われます。
キリストは神の王国を地上に樹立するために来られたにもかかわらず、イエスが目に涙を浮かべながらイスラエルに裁きを宣告されたのは、イスラエルが自分たちの訪れの時を知らず、自分たちの王を殺そうとしたからです。
このように、全体として見れば、エルサレムに関するイエスの悲痛な発言は、イスラエルに対する彼の願いが、イスラエルが団結して彼らの贖い主を高めることであったことを率直に物語っています。
理由8:なぜイエスは園で泣かれたのかという問題の解決
園におけるキリストの信仰を守ります。
伝統的なキリスト教神学は、園でのキリストの悲痛な訴え、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」を人間の本性の表現として解釈してきました。
(マタイ26:39) 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
言い換えれば、伝統的な基本理念は、神の子の絶対的な忠誠心と信仰が、迫害と迫り来る死に直面して揺らいでいたと主張して来ました。
十字架は創造以前から神の唯一の計画であったという頑固な主張のために、多くの神学者はこのような見解を取らざるを得ませんでした。
これは、伝統的なキリスト教の説明が、キリストの毅然とした揺るぎない信仰とは矛盾していると思われる部分です。もし天の父のみこころがイエスの唯一の使命が十字架であったというのが真実であるならば。
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである(ヨハネ6:38)」お方が、彼の使命の最も重要な時にひるむでしょうか?
ペテロに対して、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と、サタンだと叱責したお方が、それから、人間的なものに焦点を合わせ、自らの死すべき本性に屈するのですか?
イエスは彼の中心的弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい(ルカ22:40)」と命じ、次の瞬間に、誘惑に陥り、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください(ルカ22:42)」と懇願するような偽善者なのでしょうか?
私たちはクリスチャンとして、イエスが、誘惑に陥らないようにしなさいと言う彼自身の命令の、その次の言葉は、キリストの悲しみは肉体を持っているが故に信仰が揺らいだ結果であると、本当に主張することができるのでしょうか?
必然的に、その後のすべてのキリスト教の殉教者は、より大きな信仰と愛を持つことになります。
彼は神と一体です。
キリストが血の汗を流すほど祈りに苦悩しているのは、神への信仰が揺らいでいるからではありません。
十字架刑の運命に関する私たち自身の狭い神学的教えが不信を引き起こしています。
それよりはむしろ、イエスは、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください(※マタイ26:39)」と懇願し、3回の場面で十字架を避けようとされたのは、キリストは、神の摂理とイスラエルと弟子たちのことを案じておられたという説明が、このような祈りにこめられたキリストの心情の、より理路整然としたキリスト教学的信仰としての説明になります。
キリストは、十字架につけられたら摂理が延長されることを悟られ、本来の彼の使命を全うするために、もう少しだけ時間をくださいと懇願していたのです。
しかし、残念ながら遅すぎました。
ユダヤ人の不信仰と、それに続く主要人物の失敗によって、イエスは苦難のしもべという二次的な道を歩むしかありませんでした。
しかしながら、この説明は、十字架が神の子に対する神の本来の意図ではなかったという考えを示した時だけ、理路整然とすることに注目して下さい。
従って、キリストが死ねために来たのではないことは、園におけるキリストの揺るぎない信仰を守り、際立たせるだけでなく、イエスが死ぬはずではなかったと断言するもう一つの根拠にもなります。
理由9:弟子たちとステパノの反応
初期の弟子たちの憤慨した反応。
私たちは、イスラエルが神の御心に背いた結果としてのキリストの悲しみと挫折を、ここ数回の理由で見てきました。
しかし、裏切りに対する苛立ちと義憤は、イエス一人に限られたものではありません。
サンヘドリンの傍聴席に立ったステパノは、サタンの言うことを聞き、自分たちの王を十字架につけたユダヤの指導者たちを憤然と叱責します。
(使徒行伝7:51-53)
51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼にない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それはあなたがたの先祖たちと同じである。
52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
ステパノは、ユダヤ人の指導者たちが彼らの先祖たちがしたように、聖霊に抵抗していることを戒めることによって、イエスが生きていた時代のユダヤ人たちが、神が本来意図されていたことに反して積極的に働いていたことを明言しています。
質問します。
キリストを十字架につける行為が、なぜ聖霊に逆らうことになるのでしょうか?
もしそれが、天地の創世以前からのキリストに対する神の唯一のご計画であったなら、彼らがクリスチャンの最初の殉教者を捕らえ、石打ちにする前に語られた最後の宣告としてだけでなく、
ステパノは、イスラエルは「裏切る者、殺す者となった(使徒行伝7:52)」と言っています。
このステパノが述べるメシアは、神がイエスを生かすことを望んだにもかかわらず、それどころか、ユダヤ人が意図的な不誠実さから神の子を殺害したということを、聴衆に明確に伝えています。
もし、ユダヤ人がイエスを十字架につけることによって神の第一の御心を行っていたのであれば、なぜステパノはその代わりに、神の願われた御心が今や達成された喜びの賛美を叫ばなかったのでしょうか?
その代わりに私たちが目にするのは、イスラエルが不信仰のために裁かれるだろうと、何度も何度も語られる同じ物語です。
それは彼らがメシアを殺したという「律法に従わなかった」行動です。
従って、ステパノのイスラエル人への非難は、イエスはユダヤ人の手によって裏切られ、殺されるはずではなかったというまた別の例も提供しています。
彼らは聖霊に抵抗するのではなく、イスラエルを通して神の王国を地上に建設するという神の御計画に協力するはずでした。
イスラエルはキリストと一体化するはずだったのです。
理由10:キリスト教の教義 置換神学
キリスト教の置換神学の教義は、教会によって教えられ、守られてきた最も古い教義の一つです。
簡単に言えば、最初のイスラエルがキリストを裏切り殺害したため、イスラエルへの約束は第二のイスラエル、すなわち教会、あるいはキリストの体に引き継がれたという教義です。
しかし、キリスト教神学のこの基本的な教えでさえも、イエスは死ぬために来たのではないという考えなしには、完全に首尾一貫していません。
教会のこの重要な教義を支持する聖句は数多くありますが、代表的な例として、小作人のたとえを見てみましょう。
(マタイ21:33-40、マルコ12:1-9、ルカ20:9-19)
収穫のためにぶどう畑を耕し、準備してきたぶどう園の主人は、遠くへ長期旅行をしなければなりません。
その結果、彼は自分の畑の世話をするために何人かの小作人を雇いました。
収穫の季節が来ると、主人は自分のぶどう畑の実を収穫するために、何人かの使用人を送ることにしました。
しかし、使用人たちは誰も皆いじめられ、殴られ、中には死に至る者もいました。
そこで主人は自分の息子を送り込みました。ぶどう園の相続人であるので、使用人たちは少なくとも相続人を尊重するだろうと考えたからです。
しかし、これを自分たちのために畑を奪う好機と考えた彼らは、主人の信頼を裏切り、息子を殺害しました。
たとえ話が終わると、イエスはパリサイ派の人々に、このような不公正を前にして主人はどうすべきかと尋ねられました。
パリサイ派の人々自身の答えは、彼らに有罪を宣告しました。
(マタイ21:41) 「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を
貸し与えるでしょう」。
彼らの評決を肯定し、イエスは言いました。
(マタイ21:43) それだから、あなたがたに言うが、神の国は、あなたがたから取り上げられて、王国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
イスラエルの後継者であるイエスは、当然、ぶどう園の実を収穫することを望んでおられることに注目してください。
しかし、ぶどう園の世話人たちが高慢と貪欲をもって振る舞ったため、この本来の願いは挫折したのです。
このたとえ話や他の数多くの聖句、そして紀元70年のエルサレムの壊滅的な破壊に基づいて、初代教会にとって、神の祝福がイスラエルという実体的な国から取り除かれたことは明らかでした。
しかし、イエスが死ぬために来られたという伝統的な信仰に従うなら、もし彼らが神の摂理に従って行動したのなら、なぜ神はユダヤ人への祝福を取り消し、イスラエルを裁くのだろうかという疑問を抱かせます。
神はアブラハムの時代からイエスに至るまで、2,000年にわたって実体的なイスラエル民族を育ててこられたことを思い出してください。
それが旧約聖書の全ストーリーです。
神は、選ばれた民に聖なる神殿を建てさせ、政治機構を確立させ、強力な軍隊を育てさせたのは、イスラエルが彼らの王を迎えるために、国家レベルの基礎を築く準備をしたのです。
もし十字架刑が神の子に対する唯一の計画だったなら、神の計画は、選ばれた国を滅ぼすためだけに2000年間イスラエルを育て上げることだったということになります。
このように、イスラエルの存在と育成、そして旧約聖書の歴史は、神がイスラエルに王を迎えることを望んでいたことを証明しています。
そうでなければ、なぜ神は、「のろいをもってこの国を撃つ(マラキ4:6)」のでしょうか?
紀元70年に、マラキ書で預言されたとおりになっています。
もし十字架が神の子にとって意図された道であったなら。
イエスの本来の運命は十字架ではなかったという考えを提示するときに初めて、聖書の置換神学の教義に対する首尾一貫した論拠が得られるのです。
したがって、この理由は、イエスが死ぬために来たのではないもう一つの理由となります。
では、なぜイエスは死ぬために来たのではないのでしょうか?
1、旧約聖書の預言の大部分を成就するため
2、ユダヤ神学には再臨の教義がない
3、主の祈り
4、イエスはイスラエルの民に信仰を命じ、彼らが信じなかったとき、
イエスは彼らを裁かれる
5、イエスは十字架刑を糾弾し、それをサタンの計画と同一視する
6、イザヤ書の巻物の朗読
7、イスラエルがイエスを十字架につけることを決めたとき、
イエスはイスラエルのために泣かれる
8、園で泣かれるイエス
9、弟子たちとステパノの反応
10、キリスト教の置換神学の教義
こうして、イエスが死ねために来たのではない理由トップ10を見てきました。
キリストのミニストリーに対する新しい視点であったことを知っていますので、祈り、言及された聖句を学び、このビデオについて本当によく考えてみてください。
皆さんが彼らの立場を理解できるように助けてくださるよう神とイエスに心からお願いします。
さらに、もしこのビデオに対する反応があれば、もっと深く説明するつもりです。
神とイエスは十字架よりも王国を心から望んでおられましたが、それでもなお、イエスは十字架上で勝利されたことを、私は前置きしたいと思います。
地上の聖職者のほぼ全員がイエスを裏切ったにもかかわらず、イエスは霊的救いという信じられない贈り物を私たちに与えてくださいました。
多くのクリスチャンが以前に述べたように、神は最大の善のために最大の悪の行為を用いられました。100%。アーメン。
神は、ご自身の御旨の目的と究極的な達成のために、どんな悪の状況も用いることができます。
しかし、こう考えて見てください。サタンの意志として直接的に特定された最大の悪行が起こらなかったとしたらどうでしょうか。
言い換えれば、もし、キリストが裏切られたり殺されたりすることなく、むしろ人々がキリストの命令に耳を傾け、神の御業を行い、キリストを信じたとしたら、
その時は、どうなっていたでしょうか?
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