贖罪の精誠は永遠の氏族メシア血統の使命
生命の書入籍祝福式と完成期祝福に関する救いⅥ
先祖と我々の再臨協助完成と子孫たちが
天国に入国し続けるために。
生霊体級霊人体完成は氏族メシアの使命 ■ 生命の書入籍祝福式と完成期祝福に関する救いⅤ(リンク先参照)、にて氏族メシアの使命として氏族の自犯罪・遺伝罪・連帯罪の清算だけでなく責任分担完成圏のおける生霊体級の霊人体完成という責任分担と、地上における天一国建設と天一国の世界化という責任分担があることを述べた。
ここではたとえ生霊体級の霊人体を完成しても、キリスト三大王権とともに生きなければ罪人であり、結局罪の贖罪の精誠は永遠に必要であることを論じる。
マタイによる福音書10章
10:7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 10:8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。
この病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ
このマタイによる福音書10章7節8節の内容は、キリストと罪の関係において、聖殿聖徒である氏族王と王妃のその血統、氏族、宗族に対する責任分担でもある。
この責任分担において、どうして贖罪の精誠が重要であるか、合わせて論じていく。
1.完成期生命の書祝福を受けても原罪以外の罪は残る。
完成祝福を受ければ原罪以外の罪も清算される、祝福二世は全ての罪が精算されて生まれるという間違った認識が多かったが、宣教本部はこれを明確に否定した。
完成生命の書祝福を受けても原罪以外の罪が残ることも明確にした。
そうであるから、氏族メシア、氏族の王と王妃のメシアとしての使命は氏族に対する遺伝罪清算・連帯罪清算であることを遺伝罪清算は氏族メシアの使命■生命の書入籍祝福式と完成期祝福に関する救いⅣ(リンク先参照)で論じた。
210代先祖解怨と完成期祝福を受けた聖殿が歩む路程として、この贖罪の信仰は大変重要であるので、宣教本部の祝福を受けても罪が残るとした見解を次にもう一度見てみる。
● 二世なので原罪がないのは事実ですが、私達は言動だけでなく言葉や考えを通しても、実は毎日罪を犯しています。それは二世も例外ではありません。例えば、このような汚れた世界、泥沼のような世界に生きているのですが、泥沼のなかで生活しながら、人が汚れないと言うことができますか?罪がつくのです。万が一完璧な人であったとしても、完全に罪の無い清い人であっても世間とタイアップ(共同)すれば、そこで罪を犯すのです。 原罪無く生まれても、罪は原罪だけではないのですね。原理をもう一度読まなければなりません。もちろん原罪は根です。根を切ったら、木全体が死ぬことになりますが、それは時間が必要ですし、あっという間になされるのではありません。
● 一世の責任は大きいです。私達が二世に対する考えを大きく間違えました。
二世は原罪無く生まれたので、完全に罪のない子供が生まれる、こう考えて、二世の子供は完全だと考えたかはわかりませんが、そのような考えは変えなければなりません。
私達がそのように変わることによって、信仰がもっと深くなります。信仰が強くなるのです。真理をより深く分かるようになります。
● 一日にして(罪が無くなる) 。これを考えてみてください。罪が、聖書的にいえば6000年、実際は人間が誕生してからどのくらいですか?25万年?分かりません。とにかく、長い時間、今まで罪があったのですが、これが一日でなくなるのではありません。
結局は私達すべてが、二世も三世も四世もみなそうです。お父様は私の救世主だと言うことを体験しなければなりません。
私たちは生涯、罪と戦わなければなりません。戦わなければなりません。それが、お父様が常に語られた心と体の戦いです。戦いを私達が終止符を打たなければなりませんが、お父様が語られたように。お父様の御言葉を見たら、そのような御言葉がたくさん出てきます。体と心の戦い、結局それは罪との戦いです。
「一世の責任は大きいです。私達が二世に対する考えを大きく間違えました。」
これは聖殿信徒は家庭連合の時から信仰の影響で、大きく罪に対する認識が間違っていたという指摘であるが、上記の宣教本部の罪観を端的に言うならば
「原罪無くして生まれた二世であろうと遺伝罪・連帯罪・自犯罪が有り、二世、四世であろうと、自分の体と心の戦い、自分の罪との戦い、罪の贖罪、これが聖徒一人一人の成すべき信仰の道である。」
「一世はもちろんのこと二世であろうと四世であろうと我々の信仰は結局、常に罪との戦い、常に贖罪していく戦いである。一世はこのように今までの祝福を受ければ原罪のみならず他の罪も清算されるという考えを改め、ニ世教育をしなさい。」
ということである。
むしろ完成期の祝福を受けたということは、今まで以上に雑霊や恨霊、悪霊が救いを求めて集まってくるし、悪霊やサタンは罪をおかさせ、再びサタン主管圏に陥れようとする。それがゆえに贖罪の努力は尚一層重要である。
なぜなら原罪、そして原罪以外の罪が清算されても罪は以上のように残るからである。我々は罪は清算されればまったく無くなると思ってきたが、実際には完全に無にすることは出来ないことを文亨進様は明確に言われた。
そのことを次に論じる。
2.罪は清算されても罪は残る。
罪は清算されても罪は残るという重要な内容を見てみる。
二代王亨進様はキリスト(再臨主)より贖罪されても罪自体は残るという重要な贖罪神学を言われた。
贖罪とは罪を消すことではないか、なぜ残るのかと疑問に思う方も多いだろう。どういうことか次にそのみ言を見ていく。
● 亨進様:キリストは我々の罪を許してくれるだけなく、我々の罰まで全て受けたと言うのです。法的に主は罪人になって、罪がなくても罪人になって、罰を支払うことになりました。イエス様は罰を支払ったのですが、私たちは実は私たちの罪がなくなったのではありません。私たちが完全に無罪になったのではありません。
● 私たちは、完全に神聖な神様の前では皆罪人です。罪の塊だと見ることができるでしょう。
そしてそうした罪のある者たちは、絶対神様の前に行くことができません。
私たち人間の中には、その誰も罪がない人はいません。
そうであるなら、私たちの罪が許されて、我々の罪がぬぐわれるという言葉は何ですか?
その言葉は、私たちの霊人体が主の救いで覆われるということです。
主が私たちの魂を、主の公儀で覆って下さるということです。
従って罪人である私たちが、神様のそばに、主のそばに近づける存在になるということです。
その言葉は、私達が我々の心で信じれば、私たちの全体の運命が変わるという意味です。
私たちは地獄に行く汽車に乗って駆けていたが、主を心から告白して迎えたなら、その瞬間、その人の運命の汽車が行く道が変わるというのです。
罪と罰は一体である。罪を犯せば罰を受けるのだが、キリストによる罪の贖罪はその罰をかわりにイエス様が受けられた。
つまり贖罪とは罪を犯したのであるから当然受けるべき罰、咎をイエス様がかわりに受けられたのでその罪に該当する罰を受けないようになったということである。
これは当然受けるべき罰は受けないで良いようになったが、犯したその罪自体が無くなったということではない、その罪自体が無罪になることはなく残るということを意味する。
つまり、キリストによる贖罪を受けても原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪そのものは消えることはなく、受ける罰が無くなった、罪と罰の二つのうち、罰が無くなり罪は残るということである。
キリストによる罪の清算はキリストが代わりにその罰を受けて、その罪故の咎を受けないようにキリストがその罪を隠すことができる霊的な服を下さるということである。
これがキリストによる代贖ということである。
綺麗にして無くしてくださったかのように思えるその罪は、そのように隠されただけで存在し、そのように隠されても神もキリストもその罪は見えるということである。
また、そのように罪が存在し続けるということは、再び罪を犯す要因となる。
それが故に遺伝罪、連帯罪の清算、自犯罪、体と心の戦い、罪との戦いは世代を超えて続くのである。
それが故に遺伝罪、連帯罪の清算、自犯罪、体と心の戦い、罪との戦いは世代を超えて続くのである。
従って我々は聖和式を行い先祖解怨をすれば罪の無い綺麗な状態になるという意味は、原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪そのものは消えないが、その罪が見えないように主が隠して下さるということであり、原罪の罰は主が受けてくださるが原罪以外の遺伝罪・連帯罪・自犯罪の罪と、罪の罰の清算は地上でなさなければならないということなのである。
3.主によって救われるという贖罪観が聖殿に永遠に求められている。
地上の主キリスト亨進様はこう言われる。
● プラウス(praus)は何を意味するのか、どういう意味ですか?神様の主管圏の下、神様の力を使用する!神様の権能を使用する者、とてもつなく強いのです。それでも謙遜で、私は罪人だということを知って、恵みによって救われる人として、王と王妃として神様の権能を使用する者、もちろん、義のためのために、義のために使用するのです。悪を閉鎖するための、神様の義を使用する者、神様の能力を使用する者です。はるかに武士的な感じがあります。
「神様の権能を使用するものは謙虚で私は罪人だと知って、主の恵みによって救われるという贖罪感を保つ人、それが王と王妃である」と言うことなのである。
これもまた遺伝罪、連帯罪の清算、自犯罪、体と心の戦い、罪との戦いは世代を超えて続くということを意味する。
天一国王と王妃とはこのように「自分が罪人であり、主によらずして救われることは無い」というキリストの信仰を持つ者のことであり、これは一時的な信仰観ではなく、未来永劫の天一国国民に求められている信仰観ということである。
罪に対する意識、このような贖罪、罪との戦いは生霊級の霊人体を完成しても世代を超えて続く信仰を、天一国国民、聖殿聖徒が永遠に持つことを地上の主キリスト亨進様は我々と我々の子孫に願われているのである。
さらには、まったく罪なき完成した我々の子孫に対してもこのように言われる。
● キリストの中心性を重んじなければなりません。キリストなしでは、価値なき者にすぎません。汚れたボロ切れであり、神様の前のただの罪人に過ぎません。
「六世代で、清くなり完成する」ということが重要なのではありません。むしろ重要なものは、神の国と血統、摂理の流れの中心、摂理の動きと共に、血統を通して世代を超えて動くこと、これです。』
この三代王権の観点からみると、贖罪とは、完成祝福を受けても210代先祖解怨しても、210代先祖から更に先のアダムとエバの堕落に至るまでの罪が、つまり我々にはアダムとエバの堕落以降の全ての罪の痕跡は決して完全に消し去ることはできず、ただキリスト血統王権である三大王権によって、まったくその罪の痕跡も無きが如くキリストの救いの衣を下さるということである。
それは原罪の贖罪をされ6代で子孫が完成した後もキリスト三大王権による贖罪が世代を越えて必要だということである。
それほどまでに、アダムとエバの堕落は大きく、この罪の結果としての全ては永遠に子孫に残るということを認めざるを得ない。
それが故に贖罪の精誠は地上に生きている者が永遠に行う先祖ための条件でもある。また子孫のための精誠条件にもなるということが言える。
この内容は先祖供養で信仰を訓練されてきた日本人は理解しやすい親和性の高い内容である。
4.数多くの悪霊から氏族を守り傍系先祖の解怨祝福することも氏族メシアの使命
210代先祖解怨は夫婦直系8系統であるので傍系先祖は解怨されない。この観点が欠落している人が多い。
家系図を作った人はわかるはずだが、その家系図にどれだけ解怨されない傍系先祖がいるか、210代となると一人4系統1670人、夫婦で8系統3340名の先祖と計算されるが、その何倍もの解怨されない傍系先祖が子孫を頼ってくるし、その傍系先祖が犯した罪の恨霊がその子孫を頼ってくる。
傍系先祖自体の先祖と、その先祖の被害者の双方が信徒一人一人を頼ってくるということであるから、どれ程の数になるか想像を絶する。
更にもっと厄介なのは、霊界の地獄にいた何百等身も遠い悪霊である傍系先祖が子孫を頼って降りてくることである。この霊はいわゆる恨みを晴らす恨霊ではなく悪行を行う悪霊である。血の一滴でも関係があれば何百等身も遠くても子孫を頼ってくる。しかもこのような悪霊は血統とまったく関係の無い悪霊と徒党を組んでやってくる。このように非常に危険な悪霊群が憑依し本人もよくわからず猟奇的、あるいは思いつき的犯罪を犯すケースが多数ある。また正にその犯罪者の霊に取り憑かれて激しい霊性に苦しむこともある。場合よっては体の命を奪われることもある。
この事は聖書にも書いてある事実である。
マタイによる福音書12章43~45節
12:43汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
12:44そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
この聖句に書いてあるように、遥か遠い血筋の傍系先祖の汚れた霊が、その霊以上に悪い他の七つの霊を引き連れてその地上人の中心に入るということである。
210代先祖解怨は直系に関わる先祖であるが、直系先祖に関わる霊の数は相対的に僅かであり、実際に我々に来ている霊の殆どは傍系先祖や傍系先祖の遺伝罪、連帯罪の罪に関する霊である。さらにはこの聖句によればその7倍の数が血統とは何ら関係ないのにその罪の相対基準によって来た犯罪者の霊たち或いは雑霊が来ていることがわかる。
これらのおびただしい霊の前に、210代先祖が解怨祝福されても正に多勢に無勢である。この事から地上で生きるとはこのような霊、罪との戦いでもあると言える。
それが故に「謙虚で私は罪人だと知って、主の恵みによって救われるという贖罪感を保つ人」という認識の下、精誠をささげる信仰生活が生涯、そして世代を越えて必要であることが理解出来る。
このことに関する聖句がある。
ヨハネの黙示録 22章14節
22:14いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
「自分の着物を洗う」とは罪を贖罪することである。「謙虚で私は罪人だと知って、主の恵みによって救われる(2018.6.27)」ことを理解する氏族王と王妃は必然的に、罪の贖罪の精誠を尽くさざるを得なくなる。
210代先祖解怨祝福式を行うのは当然だが、210代先祖解怨祝福は直系であるから上述した傍系先祖や悪霊に関する贖罪の責任分担が氏族の王と王妃にもあるということである。
また、繰り返すが、体と心の戦い、原罪以外の罪と、罪と罰の清算は地上でなさなければならないが、罪との戦いは生霊級の霊人体を完成した後も世代を超えて続くのである。
5.霊界で解怨祝福を受けた霊も子孫の精誠を渇望している。
地上で生きている時どれだけ父なる神を愛し、キリストを愛し実践したかが生霊体級の霊人体を作り上げる上で重要であるか述べてきた。
210代先祖解恩祝福によって再臨協助するその子孫の霊人体の成長以上にその絶対善霊は成長できない。絶対善霊に対して、まるで超人的力を持つ霊であると錯覚してい人もあるが、原理講論にある再臨協助の原理に反することはできない。
また先祖であるがゆえにその子孫と似たり寄ったりであり、能力的にも非常に限界がある。
また前述したように罪は見えないように主が隠してくださっているだけであり、それは絶対善霊とて同じである。
絶対善霊が地上の子孫に憑いている恨霊や悪霊を分立したり伝道するという話をよく聞くが、恨霊はまだしも、悪霊は本気でその子孫を殺そうとしている強力な霊力の霊であるから、子孫を守ろうと近寄りでもすれば、絶対善霊の方がたちまち囚われたりするなど逆に非常に危険である。
しかも子孫に憑いている霊の数のほうが先程述べた理由のように絶対善霊の数よりも圧倒的に多い。それにもかかわらず絶対善霊をまるでスーパーヒーロのように錯覚して、三大王権キリストによらなければ救われない贖罪の信仰生活を軽んじている人もいる。
真のお父様が地獄の極悪人を伝道しようとされたが、その極悪人は、真のお父様を嘲笑ったという証もある。ましてや我々の絶対善霊たちである。
聖句に次のようにある。
マタイによる福音書18章18節
18:18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
210代先祖解怨祝福の先祖たちの霊人体の成長は再臨協助によってのみ可能であるため、子孫を守り、み旨を成就する再臨協助を必死に願っている。210代先祖解怨祝福とて復活論・再臨復活原理に反することはできないからだ。
ところが 210代先祖解怨をした地上の子孫の中には210代先祖を前述したように絶対善霊を絶対能力者の如く誤解し、逆に絶対善霊任せとなり精誠をささげることが疎かになる聖徒もいる。
しかし地上の子孫の精誠(地上でつなぐこと・地上で解くこと、再臨復活原理)が先であるので、子孫の精誠無くしては地上に再臨協助できない。ましてやこれほどの多くの霊との戦いである。子孫の精誠無くして子孫に近づくことすら難しいのが霊界の事情である。
つまり霊界の210代先祖は地上の子孫の精誠を心の底から渇望しているのである。
それが故に地上の聖徒は地上でのみ旨のみならず、先祖と一緒にキリスト三大王権に侍るために210代先祖、傍系先祖のことを祈る精誠が非常に重要である。
上述した霊界と罪の関係から見るとき、地上で解く精誠となる遺伝罪・連帯罪・自犯罪の贖罪の精誠は210代先祖に再臨協助の大きな力に成る。
更にはその罪の贖罪の精誠による霊界の伝道にもなり、そのようにして導かれた霊は、その精誠を捧げた者の霊の子になる。ゆえに地上で伝道できないことを嘆いてはいけない。贖罪の精誠条件は再臨復活の原理から見ても伝道の条件にもなるからだ。
先祖供養もこのような観点で天につなげるならば非常に重要な再臨復活の役割のための精誠となる。
以上、遺伝罪、連帯罪の清算、自犯罪、体と心の戦い、罪との戦い、罪の清算という責任分担が氏族メシア、氏族の王と王妃にあることを宣教本部と亨進様の神学を元に明確にしたが、聖殿聖徒の歩む道はこれらの罪との戦いのみではない。
直接主管圏である天国圏天国に入国するためにはこれら罪の清算以上に聖殿聖徒が歩むべき道がある。これを次に論じる。
6.二代王亨進様のみ言に見る血統転換と罪の関係
真のお父様は祝福・原罪清算を天国にハイウエイと例えられたが亨進様はこれを潜在能力と言っておられる。
- *真のお父様の天国へのハイウェイの御言:生霊体級霊人体完成は氏族メシアの使命 ■ 生命の書入籍祝福式と完成期祝福に関する救いⅤ(リンク先参照)、
<亨進二代王>
● また、その子羊(息子)と父親の関係が地面と天上の関係で設定がされているのです。私たちは、神の血統と接続されているとして、私たちはすべての多自動的に罪がなくなって痛みが全くない生活を生きるされることはありません。しかし、私たちに神の主管圏の中で遺伝子的に神の血統に変わったので、私たちに神の子どもで購入できる最も大きい 可能性を受けているのです。自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる瞬間、私たちは主の主管圏の中に住んですることができます最も高い可能性を受けるということです。
また、その子羊(息子)と父の関係が、地上と天上の関係で設定されているのです。私たちが神様の血統と連結されているからといって、我々皆が全部自動的に罪がなくなって、苦痛が全くない人生を生きるようになるのではありません。しかし、私たちは神様の主管圏内で、遺伝子的にも神様の血統に変わったために、私たちに神様の子女として生きられる最も大きな潜在力を受けるようになるのです。自身が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れた瞬間、私たちは、神様の主管圏内で生きられる最も高い潜在力を受けるようになるというのです。
このように原罪清算され神様の血統に連結されても全ての罪が自動的にはなくならないと二代王は言っておられる。それどころか遺伝罪、連帯罪、自犯罪の罪が自動的になくなるのではなく、それらの罪による苦痛の人生は変わらず残ると言っておられる。
これから”完成祝福を受けたのに、祝福二世、三世なのに「若くして霊界に行く。大病を患う。大きな事故に遭う。子供の結婚祝福がうまくいかない。子供が登校拒否、情緒不安定。体の理解できない異常、病気。仕事がうまくいかない。理解しがたい罪を犯す。」など、どうして完成祝福まで受けたのにこのような不幸が起きるのか悩む聖殿聖徒が増えるだろう。その理由は上記「1.完成期生命の書祝福を受けても原罪以外の罪は残る。」「2.罪は清算されても罪は残る。」にて述べた通りである。
しかしこの 罪による苦痛の人生に対し「自身がの血統というそのアイデンティティを完全に受け入れた瞬間、私たちは、神様の主管圏内で生きられる最も高い潜在力を受けるようになる」ことが血統転換の祝福ある。
真のお父様は原罪清算をハイウエイと例えられたが亨進様はこれを潜在能力と言っておられる。我々は祝福により潜在能力を受けたが、その能力を発揮できるよう精誠を尽くす責任分担があるのである。
結局、神様の血統に連結されても遺伝罪、連帯罪、自犯罪、しかも直系だけでなく傍系先祖と傍系先祖の遺伝罪、連帯罪、自犯罪、更には罪を辿ってくる血統と関係のなり罪、霊との戦いであるので「自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる」とは主の血統に連結された者として、そのようは不条理な罪をも清算することを受け入れることで、神様の主管圏内で生きられる最も高い潜在力を受けるようになるということである。これは真のお父様の言われる「責任分担完成圏の完成のために自分の責任分担を完遂する」ことを受け入れるということなのである。
さらに「自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる」ということにはもっと本質的、積極的意味がある。
7.血統キリスト王権を受け入れることの重要性
「自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる」とは何か?自分は主の血統、神の子だというアイデンティティを持つということではない。
もっと本質的、積極的意味は血統キリスト王権を自分の真理であり道であり生命であり救いである、これを受け入れなければ祝福子女であろうと罪人であり、残された罪の清算も血統キリスト王権によらずして救いの道は開かれないことを受け入れるということ、これが自分が主の血統というアイデンティティを持つという本質的意味である。
亨進様のみ言を見てみる。
『お父様のみ言の中に六世代を過ぎれば完成した人間になるというものがあり、お父様のみ言を信じていればいい』という姿勢の祝福ニ世に対し二代王亨進様は以下のように言われた。
● 中心摂理は、真のお父様と、その王統を通してもたらされる実体の王国です。ここが理解できないところがキリスト教世界観が分からない人々の問題です。多くの日本人食口、キリスト教の背景をもたないアジアの食口の陥るところです。キリストの中心性を重んじなければなりません。キリストなしでは、価値なき者にすぎません。
キリストの中心性を重んじなければなりません。キリストなしでは、価値なき者にすぎません。汚れたボロ切れであり、神様の前のただの罪人に過ぎません。
「六世代で、清くなり完成する」ということが重要なのではありません。むしろ重要なものは、神の国と血統、摂理の流れの中心、摂理の動きと共に、血統を通して世代を超えて動くこと、これです。(2017年5月26日Q&A)
血統転換した6世代後の完成した子孫でさえ「キリストなしでは、価値なき者にすぎません。汚れたボロ切れであり、神様の前のただの罪人に過ぎません。」ということ、これを受け入れることが「自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる」ということである。
そして次に天国に至るために、つまり生命体級の霊人体を完成させるために極めて重要なことを言っておられる。
「重要なものは、神の国と血統、摂理の流れの中心、摂理の動きと共に、血統を通して世代を超えて動くこと、これです。』
要するに完全完成した立場の6世、10世であろうとキリスト三大王権と世代を超えて共にしないとその血統はただの罪人になってしまうということであり、このようにキリスト三代王権の血統王権とともに自分の氏族王家の血統を通じて世代を越えて摂理をともにしなければその氏族王家血統は生命体級の霊人体を完成出来ないし、完成しても罪人になるということである。
ましてや我々1世には完成期祝福を受け210代先祖解怨祝福を受けたこと完結するのではなく、むしろもっと「罪人であることを知って謙虚になり」真の父母様に感謝して人を愛するための平和軍訓練と訓読・祈祷・敬拝そして伝道に励み、またこのことを子孫に伝える先祖としての重要な責任がある。
私たちは完成祝福を受けても、そして六世代を過ぎて完成し、み言の訓読に励んでいても、真のご父母さま信じていても、キリスト血統王権とともにしなければただの罪人である。
キリスト血統王権とともに世代を超えてい行くことによって氏族の罪も贖われていき、その氏族王家の血統を通じて摂理をともにすることにより生命体級の霊人体を完成していくのである。
しかも完成してもその自由意志によりキリスト血統王権と離れてしまえば神様の主管から離れてしまい罪人になるという大変厳しい御言である。
しかしこれを完全に受け入れるということが、「自分が主の血統というそのアイデンティティを完全に受け入れる」ということなのである。
日本人はこのキリスト的信仰観念がなかなか理解できないので、どうしても二代王が言われるように「偶像崇拝と同じ、自分が中心、自分さえ完成すれば、神様の王権も王国も、メシアも神様も必要ない」という救いの観念に陥ってしまいがちである。
キリスト血統王権が実体としてなぜ地上に必要なのか?
それはキリスト血統王権である三大王権は永遠の道であり真理であり生命であり救いであるからであり、そのキリスト無しでは我々は完成しても今後の血統を通じて単なる罪人であるからである。
キリスト無くしては罪人である血統であるということを受け入れるキリストをまといし王とそのキリストの花嫁たる王妃にというキリスト的観点を確立し子孫に伝える責務が我々一世そしてこの時代を生きる二世、三世にある。
本当にイエス・キリストと、真のご父母様に対して理解しているのなら、道であり真理であり生命であるキリスト血統王権を中心とした生を送る信仰を大切にする血統氏族になろうと務めざるを得なくなるのである。
キリスト血統王権が実体としてなぜ地上に必要なのか、キリストをまといし、キリストの花嫁となり王国を建設するというキリスト的救済と贖罪の感覚がわからなければ贖罪の本質も完成の意味も理解できない。
それがゆえに今、イエス・キリストとハレルヤ、アーメンを心から求め叫ぶ者となることが宗族王と王妃に求められている。
聖霊の役事、アノインティング(聖霊の油注ぎ)も結局、この目的のためである。
マタイによる福音書10章
10:7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 10:8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。
この病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ
聖殿聖徒である氏族王と王妃に責任分担としての贖罪の精誠がいかに重要であるか、以上より理解頂けたと思う。
遺伝罪恨霊解怨、傍系解怨については、感謝できる方のみお問い合わせ下さい。》