2021年4月30日金曜日

21年4月28日韓国語水曜礼拝◆私達は排斥されても神様の言葉を伝える預言者

私達は排斥されても神様の言葉を伝える預言者

2021年4月28日韓国語水曜礼拝<>

ティム・エルダー本部長

Sanctuary Church Korean Wednesday Service 04/28・21


11:44 翻訳:minion 監修fanclub

今日は二代王様はいらっしゃいませんが、二代王様がいらっしゃらない間も同じ基準を守るという気持ちで礼拝をお捧げします。


特に今日は、ペンシルベニアの東部地域は30度近くまで気温が上がると言うことですので、春を過ぎて初夏の天候になっていると思います。

教会の前には二代王様が植えられた色々な果実の木が花を咲かせています。特にリンゴの木ですよね。白い花はリンゴの木ですね。枝枝に沢山咲いています。今も綺麗ですが、これから5年後、10年後、20年後には、木々がどれほど美しい姿になるだろうかと、これからの春を期待しています。


それを見ながら、私が考えることは、神様が私たちをご覧になる気持ちもそうなのではないかと考えます。私達一人一人が完成するとき、どれほど美しい人になるか、どれほど美しい創造物になるか、そのように期待される心情を、私達はその木を見ながら学ぶことが出来るのではないかという、そのような思いになります。

その様な面で私たちが人格完成、家庭完成、そしてそれから主管性完成のためにもっと努力する気持ちになれたら嬉しいです。


今日は、私が祈りながら受けた聖書の句節は使徒行伝15章です。

ユ・ノスク勧士が韓国語で読んで下さいます。

御言を読む前に(少し状況を説明します)。初期の教会の信徒達は、メシアがこの世界に来られて行かれたのですが、最初はすぐに再臨されると思っていました。使徒行伝1章を見たらイエス様が昇天された場面があるのですが、それを弟子達はずっと天を見つめていました。

「上がって行かれたが、すぐに下りてこられるだろう、完全に行かれたわけではないだろう、すぐに来られるだろう」と。

しかし、5分10分待っても来られず、1時間待っても来られないので、結局、横に立っていた天使ですね。白い服を着た男性だと聖書に出てきますが、天使達は「どんなに見ていても来られない。行かれたのと同じ路程で来られるだろう」と弟子達に教えます。どういう意味かというと、これから結局、赤ちゃんとして生まれて、女性の子宮を通して、この世界に生まれて、苦難の道を経て、そして世界を救うそのような摂理をされるだろう。このような意味で私たちはお父様の教えを通して知っています。


使徒1:10イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 1:11言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。


ところで、使徒行伝に記録された、このような路程を歩んでいるキリスト教徒達は未だに分かっていません。今日は来られなくても明日は来られるだろう。まさか明後日、いや、その時も来られないのではないかと、このような期待を持ってずっと生きていた人々です。それでも来られないのでパウロを中心としてキリスト教の信仰を伝えることを始めました。


しかし、伝える過程で少し問題が起こりました。イエス様はユダヤ人を中心に伝道をされたのですが、私たちもその様にするのか、或いは異邦人も伝道しなければならないのか。また異邦人が入教したときにモーセの法を守らなければならないのか。ですから、まずユダヤ教に改宗して、ユダヤ教に入教してから次の段階でキリスト教に入教しなければならないと主張する人達がいました。


しかし、パウロはそれに対して反対しました。「そうではない。イエス様は全ての人類の為に来られた方であり、ユダヤ教を信じてこそイエス様に会うことができるというのは違う。」このように発言しました。それで、その場面を現したのが、ここ使徒行伝15章です。


エルサレムで大きな会議をしました。総会をしました。当時としては、初期キリスト教の全ての指導者が集まってこの問題をどのように解決するのかと会議をしました。その会議をどのようになったのか読んでみて下さい。


使徒行伝15章。

15:1さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。


15:5ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。


15:7激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。

15:8そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、

15:9また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。

15:10しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。

15:11確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

15:12すると、全会衆は黙ってしまった。それから、バルナバとパウロとが、彼らをとおして異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のことを、説明するのを聞いた。


15:25そこで、わたしたちは人々を選んで、愛するバルナバおよびパウロと共に、あなたがたのもとに派遣することに、衆議一決した。

15:27彼らと共に、ユダとシラスとを派遣する次第である。この人たちは、あなたがたに、同じ趣旨のことを、口頭でも伝えるであろう。

15:28すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。

15:29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。


15:35パウロとバルナバとはアンテオケに滞在をつづけて、ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。


そこまで、35節まで読みました。この後、パウロとバルナバが少し争ったのですが、その部分は読まなくても良いでしょう。


とにかく私たちがここで学ぶことができるのは、神様は時代ごとに条件を立てられます。それでモーセには多くの律法を下さいました。ユダヤ民族には律法を守るように命を言われました。それには十戒だけでなく無数の法が定められていました。


このようなものは食べて良くあのようなものは食べてはいけない、それから割礼をすることはもちろんのこと。

ところで、ここ10節に出てくるように、私たちの先祖もそのごとくに守っていないのに、どうして私たちが新しく入教した異邦人に強要するのか、どうして正当化することができるのかについてここで指摘しています。


しかし、イエス様は実際、これを守らなくても良いように条件を既に立てられました。イエス様が摂理をそのように進展して下さったのです。ですから、昔の律法を守らなくてもイエス様を迎えて、そして聖霊を迎えることができる条件を、イエス様が十字架上で勝利されることによって立てられたのです。


私たちも、統一教会に通ってからいくらもたたない人は、昔に比べたら、今は条件が大変緩和されたでしょ?昔は礼拝のたびに断食しました。そのようなことが思い出されます。礼拝のたびに朝食断食をして、祝福を受ける前は少なくとも3年が経ってなければならず、そして家庭を持つ前は霊の子女が3人ずついなければならず、このような多くの条件がありました。七日断食もありましたね。


しかし、今は二代王様は、真のお父様を万王の王、真の父母、救世主として信じる人には誰でも祝福を下賜して下さいます。さらに、二代王様がお父様の唯一の代身者、相続者として受け入れて、そして、今後、三代王になる方を認定し受け入れさえすれば、誰でも祝福をしてくださるのです。


これは神様の恩恵によってその様になったのです。本来は、私たちが昔あった条件を充足して、そうしたら祝福を受ける資格があったのか。そうではありません。祝福は資格があるから受けるのではありません。ひたすら、神様の恩恵として受けるのです。


私たちが最低限の責任分担をしなければならないので、お父様が条件を立てられたのですが、その条件を下さったのも恩恵だったのです。今、考えてみたら。


しかし、今、その様な条件を立てなければならない時代が過ぎたので、今は先ほどお話した条件を充足させたら受けることができます。


ここでは、20節と29節に異邦人は最低限の条件が羅列されていますね。29節をもう一度読んで下さい。


15:29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。


はい、そうです。ここで絶対性の御言もありますね。不品行(韓国語聖書は淫行)を避けると出ています。そして偶像に...ここ英語の聖書では偶像に捧げられた肉を食べるなと翻訳されています。とにかく偶像に供えられた食べ物、これは既に偶像の霊を受けているため、キリスト教徒はこれを食べてはならないとなっていますが、私がこれを読むときに考えることは、名節の時にお父様が捧げられた聖餐を私たちが、行事が終わったら全て持って行きますね。


どうしてそうするのですか?お父様は行事の時に聖餐をお召し上がられます。その時お食事をなさいます。ですから勿論、ご飯と汁とおかずを召し上がられますが、前にある全ての果物やお菓子などを一緒に召し上がる条件を立てられるのであって、後で私たちがそれを分けて食べる時、私たちもお父様を、真の父母様に侍って食事をした、このような条件になるのではないかと考えます。


では何故、偶像から受けた餐、供え物から出てきた食べ物をどうして食べてはいけないのか。偶像はサタンですね。サタンに侍って食事をした条件になるため、キリスト教徒達は避けると考えます。


ですから、霊的なことは実体です。霊界は私たちがただ想像するものではありません。今、科学はそれをまだ受け入れませんが、お父様ははっきりと話されました。平和世界が来れば、条件の一つとして全ての人は霊界が分からなければならない。はっきりと分からなければならないと話されました。


ですから、お父様の聖餐からのものを食べる時と、偶像の供え物からのものを食べる時と、明らかにここに霊的に大きな違いがあります。それを私たちが認識し気を付けて、名節の時に、そのようなお父様の聖餐からのものを食べる事ができる、そのような恩恵を感謝する必要があると考えます。


ここ本部教会だけでなく、名節ごとに世界のあちらこちらにあるサンクチュアリ教会で聖餐を準備して、お父様に捧げ、後でその食べ物を分けますね。その時ごとに私たちがお父様の食事の下賜を受け、お父様に侍って食事をするのだという心で参席することが必要だと考えます。


それで「この最小の条件だけ立てればあなたたちは平和を受けることになる。」...救いを受けるという言葉はありません。救いはどのようにして受けるのか?イエス様ははっきりと語られました。「私を信じる者は誰でも永遠の命を受けるだろう」とおっしゃったので、ここ15章29節に出ている条件を立てたと(言っても)救いを受けることではありません。それはイエス様を信じたらなります。食べ物を食べたからと言ってそうなるわけではありません。それでもこの条件に注意したら平和を受けるだろうということです。


ところで不品行(淫行)は、特にその時、初期キリスト教の人達は、私たちのように絶対性教育を受けていないため他のことと比べてどれだけ重要かと言うことを認識できないのかも知れませんが、それでもここに不品行(淫行)という言葉が一つ出てくることは幸いな事です。


それで、これさえ守れば異邦人も、まずユダヤ教に入教しなくても、モーセの律法を守らなくても、その様な条件を立てなくても、イエス様が立てられた条件のお陰で、救いを受けることだろうというところなのです。


初期キリスト教の人達は継続して迫害を受けながら、何百年間も迫害を受けながらも、それでも迫害の中で信仰を維持して、1時代、2時代ではなく、それを子女達に相続して、そして結局4世紀にローマで勝利する日までそれを守り続けました。それはどれほど立派なことでしょうか。


初期キリスト教の人達は子女を育てるときも、どうして私たちだけが迫害されなければならないのか、他の人達は私たちを変な目で見て、そして似非宗教だという言葉も多く聞いたことでしょう。初期キリスト教の人達は。しかし、結局それが真理なので、結局4世紀に勝ちました。ローマに勝ちました。


しかし問題は何であったかと言うと、その時、ローマ国家、ローマと主体と対象の関係があったので、結局キリスト教がずっと主体の立場を守らなければならなかったのに、そうできませんでした。それがキリスト教の悲劇だと言うことができます。


では「あなたたちを許してあげるので、宗教の自由をあげるから、私たちの下に入りなさい。私たちを、ローマをあなたたちの主体だと認めなさい。」このような誘惑に勝つことができなかったようです。


それで結局その時からキリスト教の腐敗が生じ、様々な問題がその後1000年以上続きました。

ところが宗教改革で16世紀に改革があったのですが、その時も結局、ルターや違う宗教改革を推し進める人達が、結局はやはり国家指導者、外的な力のある人達に頼りながら改革をしました。これも問題です。


それで、これを見るとき私たちが初期キリスト教の人達の信仰を尊敬して、それを学ぶことも良いのですが、後に国家との関係を正しく立てることができなかったという教訓も得なければならないと考えます。


結局、私たちにもその様なときが来ることでしょう。「さあ、あなたたちは社会でこれ以上、排斥される立場ではなく、完全に受け入れる、その代わりに我が国家に精誠を尽くしなさい。」その様な日が来ることでしょう。


「大統領にも会えるようにしてあげる、色々な行事にも招待する、しかし、その条件として国家に精誠を尽くさなければならない。」その様な言葉があるでしょう。

すでに中共はそうですね。共産党に忠誠を捧げる宗教だけが認定されています。忠誠を尽くさなければ法輪功のように、地下キリスト教のように多くの迫害を受けます。


ところで、それは中共だけではありません。米国や韓国でも同じ現象が起こり得ます。「大統領の就任式に招待する。その代わりにあなたたちの姿勢を変えなさい。」このような言葉があることでしょう。


しかし、キリスト教はいつも預言者の立場です。預言者は何か?王に正しい言葉を伝えることが預言者です。神様の立場として。「これは違う。悔い改めなさい。」悔い改めなさいと叫んで廻るのが預言者ではありませんか?ですから、預言者は常に人気がありません。いつも国家の指導者が嫌うのが預言者です。


自分の思い通りにしたいのに、しょっちゅう預言者が来て神様の道はこっちだ。違う道を行こうとしているから悔い改めなさい。その様に言うのです。


しかし預言者がその立場を守らなければ、どうなりますか?神様が話すチャンネルがなくなります。そうなれば、その国は滅びます。


イエス様は、神様が多くの預言者を送られたが、そのたびに排斥して石で殺したではないか。それは結局神様のメッセンジャーです。神様の御言を伝える人達です。ところで、その様な立場を継続して守ることも難しいことです。


お父様がそうでした。国家がどんなことを言っても、社会がどんなことを言っても、メシアとして真の父母として言わなければならない言葉を継続して言われました。


おそらくワシントンタイムズでその時は何周年記でしたでしょうか、 おそらく25周年でしたでしょうか、30年前、ワシントンでお父様が演説をされました。大きなホテルで約1000名ほど、人々を招待されて御言を話されました。その時はワシントンタイムズですから、政治界、経済界、そして各界の米国のエリートたちが集まりました。ワシントンタイムズが主催する行事であるからです。 


ところでお父様はその席でどのような御言を語られたかと言いますと、イエス様について御言を語られ、マリアンに対して語られ、そしてイエス様の生涯路程においてマリアが責任分担を果たせなかったことに対して、御言を語られました。 

これは米国の政治家、経済人達を集めるところで絶対に話してはならない言葉だけを話されました。 


実際私も参加して、そしてその時に語られた内容を、お父様が予め作られた原稿を 翻訳をするように言われたことを思い出しているのですが、その時ワシントンタイムズの責任を持っていた人が続けてお父様に懇願しました。「お父様、どうかお父様が準備された原稿をお考えにならず、私が個別に準備した原稿がありますので、この原稿をどうか代わりに読んでください」と、この人は言いました。


なぜならば誰が見ても、お父様が準備された内容を、そのまま読んでしまえば完全にこの行事が失敗することが、あまりにも当然であったからです。

ですから最後まで、お父様が壇上にあがられるその瞬間まで、この責任者はずっとお父様にしがみついて「どうか私が準備したこの原稿がありますので、これは無難な原稿です。これをどうか考えてください」と。

しかしお父様はそうされませんでした。


そして1000人集まった人々、 長く話されました。長く話された最後に、1000人集まった人の中で、後で見ると、お父様の御言が終わる頃には、私が見たところ一人も残っていませんでした。全ての人が「何を言っているのか」と言ってみんな出て行ってしまいました。

イエス様について話をしされたのでユダヤ人たちがまず出て行って、マリアについて話をされたのでカトリックの人たちが出て行って、そしてこのような政治家の人達を集めて宗教の話をしたので、残りの人たちもみんな出て行きました。無神論者も皆出て行きました。ですから残った人がいませんでした。スタッフだけが残りました。 

それでもお父様は、失敗であるとみなされませんでした。「預言者として、メシアとして話さなければならないことを話したので成功したのである。これを受け入れるか、受け入れないかはその人たちの責任である。」それが責任分担です。お父様さんはメシアとして言わなければならない責任分担をされたのであり、聞いた人の責任分担はその人の問題なのです。 


ところで、そのようにすることは実際勇気が必要です。私たちは「社会が私たちを受け入れてくれば良いのに、私達を認めてくれれば良いのに」そのような気持ちがありませんか? しかし「違う、私たちは、誰が私たちを批判したとしてもずっと行くべき道を行く」と言う信念をずっと持ち続けることは簡単ではありません。

そこでやはり社会に出て行こうとする人もいるでしょう。ところで続けて残っている人達もいることでしょう。 ところで私たちは最後まで残る人々になることができれば良いと思います。

社会的に成功することが問題なのか?私たちが大統領になることが問題なのか?私たちが大会社で経営陣になることが問題なのか?何か大きな大学の教授になり名誉教授になることが問題なのか?ニューヨークタイムズのベストセラーに上がる本を5冊、10冊、書くことが問題なのか?

そうではありません。それは全て重要ではありません。

重要なことは神様の御言を聞いて、神様が望まれる道を歩むことが問題なのです。


ある時には経済的に難しくなる時もあります。しかしそれは神様が喜んでおられるのであるならば、喜ばれる道を行くのであるならば、それよりも価値が有るものは無いのです。 

今日は短く御言を伝えることになりました。

最後に私が祈祷をいたします。


- 祈祷 -


天にまします私達の神なるお父様、感謝いたします。今日天基12年天暦3月17日、私たちは神様を中心にニューファンドランド、サンクチュアリー教会に集まりました。

神様が今、世界のあちらこちらで、努力している食口たち、そして祝福家庭を見守り、そして導いてくださっていることを知っています。

その全ての祝福家庭が神様の御言を受入れ聞いて、そして自分の本心、良心に従って生活できますように勇気を与えてくださりますよう懇切にお願い申し上げます。


また、トランプ大統領のために祈祷を捧げます。 

今米国は非常に難しい時期を経ていますが、神様の導きさえあれば、私たちが成功的に勝利的に経ることが出来ると、そのように信じています。


ここに二代王様が語られる内容を心の底で受け入れて、日々成長して行き、そして人格を完成させ、家庭を完成させ、主管性を完成させることができる姿を神様にお見せすることができるそのような日が早く来るように努力することを神様に約束いたします。


感謝します。今、神様が使われている全ての国家指導者たち、世界各国の国家指導者達が心の中で、神様の御言を聞くこと ができる、そのような恩恵をくださるよう懇切にお願い申し上げます。

感謝いたします。

この全ての内容を、祝福中心家庭ティム・エルダー、ユ・ノスクの名によって報告お伝えいたします。 


アジュ

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