キングスレポート翻訳チームへの二代王妃様の御言
2021年4月3日(土)
祝福家庭であれば、涙を流さざるを得ない珠玉の、親と子の生命の伝道書です。
恐らく、辛いとき悲しいとき不安なとき、そして怒ったとき、何度も読み返したくなるでしょう。それ程の語り継ぎたい永遠の、生命の手引き書といえる感動の御言です。
韓日訳:toshiko.o , ikuko.s , yuko.m , kaori.s 編集タイトル:fanclub
文妍雅二代王妃様:
1.個人の救いと家庭の救い
個人の救いと家庭の救いの違いについて、2代王様がお話しされるのを聞いて、何か感じることがありませんでしたか?
2代王様が、火曜日(3/30)にキングスレポートで話された内容です。2代王様が仰るには、私たちは家庭の救いに集中してしまいます。お父様の御言で天聖経にもこんな御言がありますが、「クリスチャンは個人の救いに集中しますが、それは間違いです。家庭の救いをしなければなりません。」こんな御言をよく聞いたではないですか?
『天国を開く門、真の家庭』を見ても、家庭の救いについてありますが、2代王様は、「私たちが家庭の救いに集中したため、むしろ利己的になってしまった」、と表現されました。
2代王様:「子供たちに、お前たちが信仰生活をちゃんとしなければ、私が天国に行けない。このように間違った文化を作ってしまいました。子供たちが信仰を自然に育てるより、家庭単位で無条件に信じなければいけない、というように信仰を強要する立場で全体の家庭を見るようになり、もし、子供たちが復帰されずに信仰から遠ざかると、それがまるで私たちに、私の救い、私の信仰の救いに、天国行きにブレーキをかける、行けないようにすることになるので、完全に信仰自体が絶望になり、結局は家庭の救いに焦点を当て、そこに全てを注ぐようになり、私たちの信仰生活を利己的にしてしまった。」
と話されました。
それで、家庭の救いに関するお父様の御言を探して見たのですが、ソユアン訓師二ムから14くらい頂いたのですが、家庭の救いについて語られながら、もしアダムとエバが堕落しなかったなら家庭の救いが正しい。このような表現を3回位されました。14の御言の中で。これを見ると、勿論、家庭の救いは正しいですが、私たちが、今、堕落世界にいるので家庭の救いで私たちが完璧にはならないということをお父様もご存じでいらっしゃるのだなあ、ということも考えました。
次は、火曜日の王様の御言ではありませんが、韓国のあるコンサ二ムが直接2代王様に尋ねた内容です。「子供が40歳を過ぎましたが、祝福を受けず、世間的に生きている、私は本当に希望が無い。」 「どうすれば良いでしょうか。私はもうお父様にお会いすることもできないし、こんな状態で、これ以上生きたくもない。」このように言いました。
2代王様は次のように話されました。「その子に自由意志がある限り、この世が堕落した世の中である限り、私たちがその子の責任分担5%を代わりにしてあげることはできない。父母が。」このように話されながら、「でも、父母が信仰の中に立っていたら、この子が悪い道に行ったとしても、父母が神様の近くに、天国に行き、その子を救うことが出来る道がある。ところが、母親までが、父親までが、もうこれ以上道がないから、うちの子は(祝福)家庭に入っていけないから、信仰がないから、わたしはもうダメだ。と考えて信仰の道から落ちてしまったら、本当に家族全体が行く所がなくなってしまう。神様の前に行く機会がなくなってしまう。」 「今は子供たちが大きくなり、これ以上親がなんとか出来る立場でないなら、祈祷してあげ、子供たちが帰って来れるようにすることですが、それが終わりではありません。」
それで、お父様が語られた家庭の救いは、堕落していない本然の世界で、本然の世界では、私たちも神様の直接主管圏で、神様と、1対1で対話するではないですか。
お父様が語られた家庭の救いの理想は、私たちがただ「しなければならない」というものでなく、理想を描いて、アボ二ムの御言どおりに生きようと最大限の努力をしますが、それができない時、私は終わりだ、というのは違うというのです。
この御言を見て、私も勘違いしていました。色々な勘違いがありますが、私が子供たちの信仰を代わりにしてあげることが出来るかのように勘違いしていたなあ。と思いました。
2.親の役目、子女を主の弟子にすること
今日は、子女の問題について話したいと聞きましたが、そうですか。質問はありますか。
― 質問者A: 私の家庭の場合も、子供たちは大きくなり、各自の考えを持ち、教会から遠くなって行くばかりです。主体者は聖和して男の子ばかりなので、どうやって祝福につなげていったら良いか悩んでいます。
2-1.父を早く亡くした苦難を理解する
― 二代王妃様:
私が子供の立場だったら「善の神様だったらどうしてお父さんを早く連れて行ったの。神様が善だというけど、僕にこんな大きな悲しみを与える神様がどうして必要?僕には必要ない!」こんな風に考えると思います。あるお母さんは、子供が7歳の時に夫が亡くなったのですが、とても幼いですね。長男はもう大きくなっていますが、もし、末っ子と話すなら、神様が善であることに対して話をして、私たちが受ける苦難は、神様が私たちを嫌いで与えるのではないことを話す必要があるでしょう。
私たちは苦難は、神様が私たちを嫌いで与えると考えますが、御言を見ると、「私たちが試練に会うとき、喜びなさい。」とあります。
それで「お母さんは、お父さんが亡くなるのはとても悲しかったけれど、お父さんをとても愛したけれど、神様が苦難を下さって、あなたたちを下さって、とても感謝しているし、この苦難を通してお母さんがとても恩を感じている。」という話をたくさんしてあげないといけないと思います。
そして、神学的な良い本も色々あります。善なる神様ならどうしてアフリカの子供たちが餓死するようにされるのか、同じ脈絡ですね。神様が善ならどうして日本に津波で無実の人達を死なせるのか、どうして北朝鮮の子供たちが飢餓で死ぬようにするのか。
こんな質問に対して、冷静に答えるなら、
「苦難があったとしても神様の善と相反するものではない。なぜなら苦難を見るのは私たちの目で見ることであって、神様の大きな計画の中では、私のこの苦難がどうやって使われるかわからないのだから。神様の善と苦難とは相反するものではない。」
これが答えではあります。
ただこれが息子たちや、今苦難に会っている人には正解ではないですね。感情的に、これが答えだなとは思えません。
それでこの事について息子とよく話をして、私はこれをどうやって乗り越えるのか、まずお母さんがこの事に対して答えを出さなければなりません。
ゆったり座って「私はこれについて恨みはないか、突然夫が亡くなって、私はこれに対して神様に対する恨みはないだろうか。どうして夫をこんなに早く連れて行ったのですか。毎晩泣きながら過ごしはしなかったか。まずは私が心の整理ができたか。夫が亡くなったことを苦難を受け入れ、神様は私を憎んでいらっしゃると受け止めはしなかったか。」
それを1度綿密に自身をチェックするのです。
お父さんの役割もしなければならないことに対して、それが傷になっていないか。そんなことをずーっと振り返る時間を持ち、その質問に対して勉強してみるのがいいです。息子たちは賢くて韓国語も上手だし、そんな対話をしたことがありますか。
息子たちにも、1対1子女の日が重要だと思います。最近私は傲慢だったなあと思うことがありました。『금쪽같은 내 새끼 (かけがえのない私の子)』 (子女教育の韓国のユーチューブ)というプログラムを見ながら、皆さんご存知の有名な番組ですね。私は育児について良く知っていると思っていましたが、この番組を見て、自分が傲慢だったと感じました。私の親がとても厳格だったので、私も子供たちに厳格になろうとしました。とんでもない基準を子供たちに要求して、ひどく叱りました。今は王様の助言で、神様の恵みで直しましたが。
親が自分を振り返る必要があるでしょう。
2代王様が1対1子女の日をしなければならないと言うと、大部分の親が、やってみたけれど、子供たちが嫌がってしない、出来ないと言います。それでも一緒に住んでいる子供とは、努力してみるのが良いと思います。
ただ、「(やらないと)お母さんがかわいそうじゃない?」というのは良くない方法です。子供たちが悪いかのようにしてしまい、脅迫するような方法。「お母さんが、年もとってお前たちと一緒の時間を過ごしたいんだけど。」とか言いながら話すのです。
2-2.子女の祝福を目標としない
これは私の個人的な考えですが、子女教育の目標が祝福であってほしくないと思います。勿論祝福は重要です。私たちの場合は、1対1の教育を、次男の場合は、3歳からしました。長男は5歳から、ずっとやってきました。続けて教育しながら、子供たちが準備ができたと考えたので受けたのです。準備も出来ていないのに、もう18歳でしょ、早く受けなさいと言って受けたのではありません。
子供が祝福さえ受ければ良いという考えですが、初めに、個人の救い、家庭の救いについて話した内容と繋がってくると思います。子供たちが祝福を受けるのが目標ではなく、主の弟子になると自然に祝福を受けたくなります。私たちは、順序が変わってしまったのだと思います。どうやって祝福を受けさせるかより、どうやって息子を主の弟子にすることができるか。これを先に考えるとよいです。成人になった息子はお母さんと話したがりません。お母さんが、何を考えているか知っているからです。2人で会おうと言うと怖いのです。写真を見せて「とても良い子だよ。お母さんが話をつけてあるから。」と祝福を勧めるので。それでお母さんとの1対1が嫌です。良いことがないので、お母さんを避けるでしょう。口を開けば祝福のことばかりで疲れてしまうから。
不思議ですが、子供たちは親を好きですが、嫌がります。親に認めてもらいたいけれど、心配されるのは嫌がります。親を愛していますが、親が何かした時にとても嫌だった思いが蘇ってきたり。親たちは祝福に対してあまりに一生懸命になって、多くの失敗をします。ある人は、親同士が親しくて子供を結ぼうとしますが、男の子はまだ準備が出来ていないのに、女の子を連れてきて祝福を受けさせようとしたので、子供に謝るように言いました。子供同士で話せるようにしてあげないといけないし、返事を待つのに、子供たちに期間を決めてあげないといけません。「愛と尊敬」の本が終わるまでとか、7か月間とか。ずるずると引きずらないで期間を決めると良いです。1年、2年経っても、決まらずに引きずり、どうしていいか分からないというのは良くないです。
そんな時は、「うちの子がまだ不足していて...」とうまく断って、決して相手を批判したりしないで下さい。この点は、親が整理してあげることです。祝福は重要ですが、祝福を受けてもうまく行かない難しいカップルも沢山見ました。本当に祝福は難しいです。子供たちはとても傷つきます。
子供たちが、神様がいらっしゃり、私が本当にこの道を行きながら、私が、主について生きて行くようになれば、私は今までつらくて、私の背に沢山の重い荷物があったけれど、その荷物を肩から下ろし、主の前に、主を中心として理想家庭を築いていける。この心がなければなりません。この思いが無いのに押して祝福ばかり勧めたら子供たちは逃げてしまいます。この教会に通うには祝福を受けなかったら、お母さんとも話が通じないんだな。こんな状況になるのです。
隣の家は18歳で祝福を受けたんだって、良いですね。拍手!
でも、みんながそうではありません。自分の子は自分が一番良く知っているではないですか。祝福を受けたら、何か魔法の薬でも飲んだように全てうまくいく、絶対にそうではありません。祝福を受けて逃げてしまう子もいるし、準備も出来ていない子供たちを無理やり一緒に住まわせて、別々に暮らす人もいます。祝福は信仰の結実であって、絶対に信仰の目標になってはいけません。これを本当に強調したいです。神様との関係の回復、主との関係の回復、これが先でなければなりません。分かるでしょう。子供たちが私を避けていたら、ああ、私が子供に負担をかけていたなあ。強要していたんだなあ、と悟らなければいけません。子供一人一人違います。
最近、次男と話しながら分かった事があったのですが、以前、私に対してとても心の傷を受けていたという事がわかりました。私が気付いてあげてなかったなあ。息子はお母さんに謝ってほしかったのに、気付いてなかったなあ。子供も人なので、私がお腹を痛めて生みましたが、私とは違う人格者です。親が見過ごしてしまう部分が多いのです。私は神様の代わりになってあげられません。
私は子供たちに次のような話もします。
「お母さんはいつかは死ぬんだよ。わかるでしょ。お母さんは死んでいなくなるよ。その時、あなたを守ってくれ、共にいて下さるのは神様であり、主です。それでお母さんが持っている一番大切なものは信仰だし、主です。だからお母さんは、あなたが主に対する恵みを必ず受けてほしい。」このように言います。
子供たちと聖書の勉強をして何度も失敗もしました。ある時は、始めたけれど私が手に負えなくて止めてしまったこともありました。うやむやになって、また始めたり...
それで、今からでも1対1を始めると良いですが、祝福の話はしないで、どうやったら子供が主の弟子になることが出来るかに集中します。「どうやったら息子が主の弟子になることができますか。どうやったら息子を主の前に捧げることが出来ますか。神様、知恵を下さい。」と祈りながら。
これを祈祷項目に加えて紙に書いて貼るのです。私の祈祷項目8つの中に、「5人の子供たち(一人々の名前を書く)の弟子化」があります。そして、長男と次男には、「この2人の配偶者が神様のみ心にかなった人となりますように」も祈祷項目にあります。これは、私の中で祈ることであって、私と神様との秘密の対話です。
2-3.主体がいなくても、信仰の主体として立っていなくても
主体者がいなかったり、いても信仰の主体として立っていない、状況は違っても似たような立場で、家庭に王と祭司長がいない状況で、私が王の役割も祭司長の役割もしなければならないので大変なんですよね。難しい状況なので、その難しい状況で祈る切実な祈祷を、他の誰よりも神様が切実に受け取って下さると思います。「息子をどうしたら良いかわかりません。わからないのです。どうしたら良いですか。神様、私には本当にわかりません。どうか教えて下さい。」と涙ながらにすがって祈るのに、神様が教えずにいらっしゃるでしょうか。「魚を求めるのに蛇を与える父がどこにいるか」とおっしゃったではないですか。
子供を家庭として考えないで、今、一番難しい子がひとりいると思いますが、次にはまた違う子が問題になったりします。この子が一番可能性があるとか。でも、それは私の考えですね。子供たちの名前を一人ひとり、紙に書いて、祈るのです。
事実、これはもう7年前に2代王様が仰ったことです。10年、14年前に1対1子女の日をしなさいと言われたではないですか。でも私たちがやらなかったのです。その頃は子供たちはもっと幼かったでしょ。「これを敢えてしないといけないだろうか、子供と二人で外に行って。外のファーストフードは体に良くないし、忙しいし。」と言ってやりませんでしたが、でも子供にはこれが必要なんです!
お父さんがいない息子さんは、自信がないかも知れません。自分が、男として夫や父親の立場でちゃんとやっていけるだろうか。自信を持つようになれると良いです。今や私のお父さんは、肉親の父ではなく、私の本当の父は主なんだ。全ての苦難に勝利され、私を深く愛してくださる主が私の父なんだ。
2世たちは、信仰について恐れをもっている場合があります。1世に比べて未熟です。
被害意識を持っています。「教会は私の親を奪って行った。」
また、こんな思いもあります。「もし、私の親のように信仰しなければならないなら、私には出来ない。私の親はだまされた。」などなど。
「まるで自分が、純真な親を目覚めさせてあげないといけない、現実世界に」、というような。とんでもない英雄心理があるのです。教会に反対することが親のためだ。
それは仕方ないことです。子供たちは長い間、世間で教育を受けて来たので、世間の目で見るのです。世間の目で見た時、間違っているので、親は間違っていて、信仰自体を否定するようになるのです。
親たちの中には、「もし、私がアボ二ムに会ってなかったら、たぶん私は死んでいたかも知れない。完全に廃人のように麻薬中毒になっていたかも知れない。アボ二ムに会って完全に変わってまともに生きられるようになった。」こんな人もいますね。でも、2世はそんな事は見えないのです。それより、「私の親は被害を被った。私が2世だと言っても何も変わったことは無いではないか。」このように言います。
キリスト教に通っている子もいますが、キリスト教の方がよっぽど良いと言う人もいるでしょう。でもキリスト教も同じ問題を抱えています。例えば、私の罪の償いは死であるけれど、私が主を信じて告白して永遠の命を得たと言いますが、そう言いながらクリスチャンでも喧嘩する人が多いです。まるで聖殿教会だけ問題があって対立があるように見えますが、それも事実、勘違いです。最近読んだ中に、あるキリスト教放送局で働いている人の話ですが、その人がうまくいっているので、先輩が嫉妬して、辞めさせようとします。「ここで働くな。言うことを聞かないなら、ひどい目に会うぞ。」その人は力のある先輩だったので、どうするのが一番良いか考え、静かに仕事を辞めて神学校の大学院へ行った、というのです。本当に、どこにでも喧嘩をする人はいます。そうでない人もいます。
2-4.聖殿教会の喧嘩
聖殿教会がこんな風になり、喧嘩をして失望した。私はそのようには考えません。心が痛むことはありますが、私は、それは過程だと思います。私たちが家庭連合から垢を取る過程。牧会者を批判して、私の方がうまく出来るとか、牧会者は、家庭連合の時の権威、地位を考えて、食口を当然のように対応する、この二つがぶつかるのです。これは重要な過程だと考えます。これを通して、牧会者は、食口に対して当然だと思ったらいけないんだ、食口からこんな反応が来るんだな、と学び、食口も教会を運営してみたら、考えていたように簡単なことではないんだ、と学びます。中道を探すんです。王様が、あなたは間違っているとか、あなたはどうだとか、そのようにされた方が良いと思いますか。そうではありません。そうしたら、私の立場を分かってもらえなかった、と言ってもっと大騒ぎになります。教会が成熟していく過程。心配し過ぎることもしないし、放っておくわけでもありません。
ある人は、「教会が分裂して、喧嘩をするので、子供たちも行かないし、子供があざ笑うので私も行きたくない。」そんな人には、お子さんは以前は信仰があったのですか?と尋ねます。これにかこつけて自分がどうして教会に行かないかを言っているだけです。今まで自分が子供たちを教育してきたことが、言葉として出ただけで、以前と今と別に変っていないのです。韓国スタイルでもあります。でもある面、すっきりした感じもあるでしょう。嫌気が差していたのに良く言った、というような。そして、私の中にもまだ堕落性があることも分かり。色々な事が起こると思います。和解する人もいれば、それが嫌だと言う人は新しく自分たちで作れば良いのです。嫌なのに無理に一緒にする必要はありません。自分で牧会者の立場に立ち、どれ程大変なことか知って。人に対してこんな風にしたらいけないということも学び、ブーメランとして自分に戻ってくるのです。なぜなら、そのときは言いたいことも全部言ってすっきりしたと思うかも知れませんが、いつかは自分にブーメランとして戻ってくるのです。
ある人が私に聞いたのですが、「そうしたことはいいことだったのでしょうか?」と。しかし、神様はいつかこのように聞かれるときが必ず来るというのです。
神様:「その当時は子供たちまで動員してやりましが、そうすることによって子供たちの信仰がもっと良くなりましたか?あなたの言うことが正しいと人々に認められて相手に勝つことが一番の目標だったのですか?それとも神様の願われる聖殿を一緒に作ることが一番の目標だったのですか?」
と、このように神様が聞かれたとき、堂々と答えられることができますか?それも責任になるのです。自分自身に責任として再び戻ってくるのです。それは本当に不思議なことです。
私は牧会を長くはしていませんが、時々そのように未熟な方々がいます。その方が今日教会に来るのなら私は今日は教会に行きたくないと思うこともありますよ。サモニ厶である私がこんなことを言ってはいけないのですが。その人に問題を指摘してあげるよりも聖霊がその人に気付かせてくださるのです。その人たちは堕落性を全部出しきった後に、「あ、こうしてはいけないんだな」と悟らせてくださるのです。だからその人をやり込める必要はないのです。
2-5.主との訓読と、子女を主の弟子にすること
子女や教会の問題に対してはもっと楽に考えて頂きたいです。楽には考えられない問題かもしれませんが。まだ子供たちは30歳にはなっていないですよね?韓国のコンサニ厶の中には子供が40、50歳になるのにまだ祝福を受けていないという人もたくさんいますね。子供が教会にもまったく来ないとか、教会とも親とも関係ない生き方をしているとか。私たちは親としてそのような姿になってはいけませんね。
だから今からでも子供を主の弟子にするという目標を持ってください。
子供たちは祝福を受けてもお互い嫌いだったら離婚もします。親の思い通りにはできないのです。神様は人間をロボットには作られなかったのです。私たちもロボットには作られなかったし、子供たちもロボットには作られなかったのです。
祝福の問題よりも先に親と子供たちとの関係回復、信頼回復、そして、どうすれば子供を主の弟子に作ることができるか?私がどのように生活してこの子供たちに主を伝えることができるのか?私が何を持って子供たちに主を信じさせるように感動を与えられるのか?
私がこのように言えば、ある父母は活動を一所懸命して、訓読会も朝方の3時にしなければならないと言われます。何というか、見せようとすること?見せようとすることに集中されるのですね。特に女性はそのような人が多いのですが、私が言いたいことはそれとは違います。私と主との関係です。
私自身、私と主の関係を直接持つようにしています。私は最近このようなことをしています。「訓読日誌」とも言いますが、「真のお父様との訓読会」をやっています。私は「主との訓読」このように言うのが好きなのです。御言を読んだり聖書を読んだり、いろんな形の訓読会があると思うのですが、私の場合、聖書にでてくる人物について読んで、要約します。この人物はこのような生き方をした、このようなことを誤ったとか、私はこの人物からこんなことを学ぶことができるな、と、このようなことをしています。
何日か前にした人物はへロデ王でした。多くの建物を建てたり、偉大なことをしました。人々に見せるたくさんのことをしましたが、それは神様が見られるには良くなかったのです。聖殿も建てて、ユダヤ人の関心を惹こうとしましたが、同時に異教徒の聖殿も建てたので、神様が見られたときに「この人は王としてふさわしくない。神様の聖殿の他に何の聖殿を建てているのか。」 10分か15分くらいですが、お茶を準備して、自分の好きな時間としてやっています。そうすると一日中その人物に関係した書物を読みたくなります。この人物に関する聖句なども見ることになります。この内容は黙想と繋がります。いつもきちんとやっているわけではありませんが、このことに関心を持って続けてやっていかなければならないと思う理由があるのです。
私たちは訓読会と言えば子供を引っ張ってきて一緒に読ませること。これが訓読会ですよね?しかし、訓読会というのはお父様が私と共にいらっしゃること、これが訓読会なのです。でも、訓読会といえば私も子供たちも負担になりますよね。訓読会ではなく戦争になってしまってますよね。感想とかもなく毎朝戦争ですね。子供に頼み込んで訓読会をしたりとか、そうではなく、私と主の関係回復です。
しかし、ある人は「私は聖殿教会で一所懸命活動したり、聖霊大学を一所懸命やっているのに、聖殿教会には希望がないから教会を離れる」といった人もいると聞いたのですが、それは実は、自分と主との関係がとても渇いているのです。見えるものだけをずっとしているからそうなるのです。
人々の前で「私はこんなに頑張っている、知ってますよね?私はA級の信者です、そうでしょ?」このようにすることに慣れてしまったようです。
私が密かに、神様と密かな場所でどのように行動をしているのか、神様は注視されており、見ておられるのですが、そんなこととは関係なく、聖霊大学とかで「人々の前で何か信仰的ないいことを話さなきゃ」そのようになってしまうんですね。それは人に見せるためにする行動であり、パリサイ人のようになってしまっているのですね。
私がこの「主との訓読会」に関心を持った理由が、クリスチャンで30年間アフリカの宣教をされた方、50年間インドで宣教をされた方々がいらっしゃるのです。皆、国も国籍も違うんです。また、モンゴルで宣教をされた方がいらっしゃるのですが、余りにも恩恵がないという悩みを持ち、自分が宣教に来たのに何をしても恩恵が感じられなくなったというその方の証しを聞いたのです。何をして恩恵がなく、それを回復することができなくなっていたのですが、それでも活動をずっと続けたそうです。
しかし、ある瞬間、こんなことではいけないと、毎日毎日恩恵を回復する点検をする時間を持ったそうです。主と自分との静かな時間を、1対1の関係を持つようにしたそうです。自分と神様が1対1できちんと立たなければならないですよね。自分が神様との関係においてちゃんと立てば子供たちを何とかすることができるではないですか?その方はそのようにすることによって自分と神様との関係を少しずつ回復することができたそうです。
私は素晴らしい篤実なキリスト教徒の方の証しを聞きながら、どうすれば霊的な主との出会いが持てるのか、秘訣は何なのか?ずっと悩んだのですが、私は祈祷に答えがあると思いました。祈祷も難しいのですが、祈祷の中にある祈祷。敬虔な時間。「静かにお父様と持つ訓読会の時間」「主と自分との時間」、それが"鍵"だということを最近とても感じます。そこに充満されている主との出会いがあります。とても大変なときに主を必死に掴もうとしている私を祝福してくださる主がいらっしゃることを感じたりもします。私だけに特別に恩恵を下さる主にも出会え、そこで1対1の主に出会うのが本当に重要だと感じます。
しかし、私もいつも良いことばかりではありません。ある時は辛いと思うこともあり、ある時はやらないときもあり、忘れる時もあります。しかし、確実に私は主の御言を黙想したり考えたりします。そして、私は主にこんなことも話します。「神様、喜んでください、私、とても成長したでしょ?」と言ったりするのです。
例えば、夫のいない人はこのように思うでしょう。「夫がいれば、どれだけいいだろうか。いろんな話ができるのに」とか。
夫に信仰がない人の場合、「夫に信仰があればこんな話もできるのに。でも話したいことが話せない」とか、思ったりしますよね?
しかし、不思議なことがあります。
私が本当に話したい話があっても、夫は(2代王様)他のことで忙しいので話せないことが多いのです。(笑) 本当におかしいですね。夫には全てを話せると普通思いますよね?でも私の場合はそうではありません。夫のいない人とか夫に信仰のない人を慰めるためにわざとこんな話をしていると思うかも知れませんが、事実なんです。
以前、聖書を読んでいてとても恩恵を受けたことがあったのです。そのものすごく感動受けた内容を2代王様に話したことがあるのですが、反応が「そう」でとてもあっけなかったのです。何で私の受けた恩恵を王様も同じように恩恵と感じないんだろう。王様の反応に少しショックを受けました。
しかし、すぐに祈祷室入って、「神様、神様、私が新しいことを発見しました!本当に嬉しかったのです!」と報告したら、神様は一緒に喜んでくださったのです。(笑)
私はその時、悟ったことがあるのです。恩恵というのは各個人が受けるものなんだなあ。夫は摂理で忙しいこともあるのですが、私が恩恵を受けたからといってそれを夫に話して、夫も一緒に恩恵を受けるというのは難しいということが分かりました。だから夫よりも神様にたくさん話すのです。「夫がいないから寂しいでしょう?」と言う人はいるかもしれませんが、こんな話をしてくれる人はいなかったでしょう?だから神様はこのような訓練を先にしてくださっているのかも知れないのです。「神様と近くなれ」と言われているのです。
恩恵を受けるということはこういうことのようです。
自分と神様との関係が回復されれば知恵もたくさん下さるし、私が神様から愛を受ければ私たちの子供にも小言をたくさん言わなくなると思います。(笑) そうではないですか?
私たちが愛を受けていないから子供に小言を言ったりするということもあるのではないでしょうか?「私には夫がいないんだから、おまえたちを小言の対象にする!」こうしていませんか?(笑)
それではいけませんよね?そのようにしないためには私が神様から多くの愛を受けていなければいけませんね。そうすれば自分が成熟できるし、神様はこのように私を愛してくださるんだな。私の祈祷もこのように聞いてくださっているんだな。雀も見られるが私も見てくださっているのだな。今日はとても時間がたくさんあるのですが、他にも質問がありますか?
3.成人の子へ親として
ー 質問者B: 子供が成人している場合(祝福を受けている場合も含めて)、親として子供をどのようにサポートしていけば良いのか教えてください。
3-1.信仰の姉妹として接する
ー 二代王妃様:
親が成人の子供に対するときですが、神様がこのような知恵を私に下さいました。私が嫁を迎えてどのように嫁に接すればいいのか悩み、祈祷をしたのですが、神様は答えを下さいました。「嫁とは考えないで同じ信仰をする同志だと考えるように。」このように御言を下さいました。「信仰の姉妹と考えなければいけないのです。」とおっしゃいました。それで同じ論理を私の娘にも適用したのです。私の娘は韓国年齢で20歳になりますが、娘というよりは信仰の姉妹です。だから私の娘ではないのです。娘というのは私が肉身から見た存在性ですよね。娘は信仰の姉妹なんです。その信仰の姉妹が成熟している場合もあるし、とても手の掛かる姉妹かも知れません。しかし、神様は一旦私にまかせられたのです。伝道するようにと。神様が私にまかせられた信仰の姉妹なんです。娘をそのように見ると、とてもたくさんのことが変ってきます。
例をあげれば、私の娘は聖書について良く知りません。余り関心を持たないので心配した時期がありました。だからといって娘に私が感情的に接するのではなく、信仰の姉妹なので娘の信仰を育てることをどこから始めればいいのか、と考えたときに、自分が客観的になり、感情を押さえて子供を見れるように神様がしてくださいました。そして最近、娘が難しい相談を持ちかけてきたのですが、私が感情的になって驚いたように言葉を発するのではなく、落ち着いて相談員のように、信仰の先輩としてどのように助言をするのがいいだろうか、そのように落ち着いて対することができました。
一つ例をあげると、以前ある成人した女性から相談を受けたことがあるのですが、その女性はある問題が起きて母親に相談したのですが、母親は非常に驚いてパニックになったそうです。母親が何か良い助言をしてくれると思って相談したのに、母親は私よりももっと不安になってしまったため、それは私をもっと不安にさせたと言いました。
自分の娘ですが、信仰の姉妹ですよね。信仰の姉妹とか信仰の兄弟が悩みを相談してきたというのは、私が信仰の先輩であると思って相談してきたのです。自分の娘、自分の息子が相談をしてきたのだとは考えてはいけません。信仰の兄弟姉妹がどのようにこの悩みを信仰で乗り越えていけるかを考えて見たときに、第一に感情を無くさなければいけません。
私が産んだ子供ではあるけれど子供が成人した場合には、成人として認めてあげるべきです。もし子供の方が感情的になって聖殿教会の批判をしたり、信仰をしないと言い出したりする場合ですが、子供というのはまず、親に全部吐き出します。その場合には親はまず、ショックを受けてメンタルが崩壊してしまいます。そして、親は感情的になってしまうのですが、その感情を止めてください。余りにも感情にはまってしまうと、問題の解決やどのように助けてあげるかとかには関心がいかなくなり、感情に捕らわれることで忙しく、問題が見えなくなってしまうのです。
子供は成人になったのだから信仰の同志として見なければいけません。子供がそのように言ったことでショックを受けたり、腹が立つかも知れませんが、しかし、子供が自分に吐き出してくれたこと自体はいいことなのです。子供がそのように言ってくるときは親の反応を見ようとする場合もあります。だから、子供が「自分はこう思うのだが信仰の先輩であるあなたはどう思うのですか?」と聞いているようなものなのです。だから、子供は信仰の同志として助言を聞きたいのです。子供が感情的になって「聖殿なんか必要ない」などと言ったとき驚いて「えー!どうしよう!」といって感情的になりパニックってはいけません。信仰の同志として神様が私に与えてくださった人なのです。
相談員というのは相談してきた相手の状態を良く把握して何を言ってあげればいいか判断できなければいけません。相手が感情的であっても自分は落ち着いて対応できなければいけません。それが相談員というものです。すぐに解決しようとあせることもいけません。
鳥の卵から早く雛を取り出そうとすれば雛が死んでしまいますよね? 雛が死んだら雛を生き返らせることもできませんよね?雛が卵から孵化するとき、雛が出れるように少しだけ殻を割ってあげると自分の力で殻を割って出てきますよね?そして殻を割って雛が出てきたら、神様の恩恵で出てこられたのだと神様に感謝するのです。
神様に感謝を捧げれば自分というものはなくなってしまいますよね。成熟した親の信仰者の姿を子供たちは見たがっているのです。
私たちはとても感情的で自分を責めて悲観的になったりしますね。過去を振り返って、私がこうしたからいけなかったんだ、などと言いながら。そうする必要はありません。子供は親がそのようにすることを願っているのではありません。子供は親の成熟した信仰者の姿を見たいのです。子供自身が大変なときに成熟した信仰者の姿とはどのような姿なのか?見たいのです。「自分はこんなに大変なんだけど、お母さんならこういうときどうするの?」と質問しているのです。
たとえ子供の話す内容が感情的で否定的な内容の話であったとしても、それでも子供が親に話す場合はいいことだと思います。なぜなら解決できる道を開いてあげられるからです。そして、相談にのってあげるときは声の調子もトーンを下げて話してあげます。若い方の相談にのるときは声色もとても大切です。しかし、私たちの気持ちは非常に忙しいですね。早く解決しようと焦ってしまいます。子供たちがとても大変な相談をしてきたとき、以前、私の娘が泣きながら私に相談してきたとき、私が何を感じたかというと、私は相談員のように娘に対しなければいけないのだなと感じたのです。
3-2.信仰の相談員として接する
先ほども少し話しましたが、7年くらい前の話です。次男が私に不満的な内容を二度も繰り返し話したことがあるのですが、そのとき私は瞬間的に感じたのです。あ、私に謝ってほしいのだなと。それで息子に謝りました。「とても大変だったんだね。お母さんもそのときは事情があったんだけど、おまえのことをかまってあげられなくてごめんね。」すると息子は涙ぐんだのです。そのとき私は驚きました。しかし、心の中では驚いたのですが、それを表には出しませんでした。私の役割は信仰の先輩であり、相談員だからです。(笑) 子供もそれを願っているからです。そのあと。息子との関係が少し回復したと感じました。
子供たちは親との関係をこれ以上持ちたくないとどこで思うのか率直に言ってわかりません。最近になってこのようなことが分かってきました。感情をコントロールできない子供の場合は、子供が成長する段階で何か詰まってしまっていることがあるのです。
私もいつもうまくやっているわけではありません。失敗もします。悪口も言われるし、偽善者だという言葉も聞きましたし。(笑) ヨナニムと祈祷会を一緒にやりたくないとか、恩恵がないとかいろんなことを言われます。(笑) 祈祷会中に喧嘩をする人もいます。そんなことは韓国だけにしかないと思ったでしょう?実は、アメリカでもあるのですよ。(笑) いろんな人がいます。
子女との関係においては知恵が必要だと思います。もし、子供に感情的に対した場合は、まず子供に真実に謝ってください。子供たちは親からの謝罪を受けたいのです。そして、感情的に子供に対さないように、克服するように努力することが大切です。私が育てている信仰の姉妹に対して失敗した場合は謝罪をしなければいけませんね。自分の子供だから謝らなくてもいいというのは間違っています。うやむやにしてごはんを食べて笑ってそれで終りだというふうにしてはいけません。
神様が子供を私たちに伝道するようにとまかせてくださったのに、信仰の兄弟姉妹を誤って傷付けてしまいました。どうしたらいいでしょうか?しかし、だからといって諦めるわけにはいかないですね。伝道対象者だから伝道して私が救われなければいけない、このように考えるのもいけません。家庭の救いだからと考えないでください。私が死んだとき、信仰の基準を立てなければいけません。神様の香りがする信仰者を願われています。まず、焦りすぎて感情的になったことに対する私の悔い改めから始めなければいけません。そして、子供たちに謝ってください。
そして、子供たちに絶対にこれだけは言わないでください、特に男の子に対してです。「お母さんはおまえのせいでとても大変だった。お母さんの気持をわかってほしい。おまえは悪い息子だ。」 このように言うのは一番悪い方法です。「おまえはお母さんを苦しめた。」などと言えば息子は100%の確立で二度とお母さんを見たくないと思うでしょう。
私は 『금쪽같은 내 새끼 (かけがえのない私の子)』 を見ながら自分はこんな母親だったのかと自分自身を振り返ることができました。子供によっては他の子供よりもたくさんの意志疎通が必要な子供もいます。しかし、次男や三男はわざわざ疎通する必要がありません。でも長男と末の息子は疎通する必要があるのです。かわいいと言って触ってあげたりとか、彼らにとってはスキンシップが愛の言葉なんです。子供たちの愛の言葉を全て把握してあげることもいい方法です。
5種類の愛の言葉の質問用紙がありますよね?あるいは、子供にどうやってあげたときに喜んだのかを把握するのもいいです。「5種類の愛の言葉」 知っていますか?本があるのですが、人には自分の愛の言葉があるという内容です。人は愛の言葉で自分自身を表現するし、自分に当てはまるこの愛の言葉で愛を受けたとき、人は最も満足し、愛を感じるのです。
一つ目は褒めたり認めてもらうこと。二つ目はプレゼントをもらうこと。三つ目は奉仕をしてもらうこと。四つ目は自分と良い時間を過ごしてくれること。五つ目はスキンシップ。スキンシップが好きな人は早く祝福を受けるのもいいですね。私の場合は褒められたときに愛をたくさん感じます。
しかし、私の両親は褒めることを全くしませんでした。学校で賞をもらってきても褒めませんでした。私の母はプレゼントも、時間を一緒に過ごすことも、スキンシップも好きではなかったし、褒めることもしませんでした。母は手伝うことで愛を感じた方だったと思います。しかし、私自身は母からとても褒め言葉を聞きたかったのですが、母はそうしてくれませんでした。「ヨナや、ありがとう、いいこだね」という言葉をとても聞きたかったのですが、そうしてくれませんでした。なぜなら、母の愛の表現は朝早く起きて家族のためにごはんを作ってあげることなどが愛の表現だったのではないかと思います。しかし、私はそんなことより母から褒めてもらいたかったのです。うまく噛み合っていないですね。母親である自分と子供の愛の言葉が同じ場合は、自分にとって最も愛する子供になるのです。なぜなら自分と愛の言葉のコードが合うからです。この話、初めて聞きましたか?子供によって愛の言葉が違うので子供に合わせてあげることが大切です。
私の末息子はスキンシップが愛の言葉です。だから末っ子とスキンシップをたくさん心がけています。末っ子との朝の挨拶は息子をギュッと抱きしめてあげることです。そして良く寝た?と言いながらキスもしてあげます。末っ子にとってはスキンシップがとても重要なのです。意識して毎日たくさんのスキンシップをしてあげています。
長男は私と同じで褒めることを喜びます。長男は不動産の資格を取って不動産の仲介をやっています。最近、家を二つ売ってたくさんのコミッションをもらい小切手を持ってきたのです。息子はとても喜んでいました。だから特別にたくさん褒めてあげました。「お母さんは本当に嬉しい。本当にご苦労だったね。どれだけ大変だっただろうか。おまえが誇らしい。」たくさん褒めるその褒め言葉を聞くことで息子は母親の愛情を感じるからです。子供に合わせて接してあげることが大切です。長男の嫁はプレゼントです。
次男の嫁は褒めたりスキンシップをしたりすることです。
三男は褒めることです。
娘は褒めることやプレゼント、時間を一緒に過ごすことなど複合体です。
5種類の愛の言葉に関する質問用紙があるのですが、一度してみてください。あるいはどれが一番反応がいいのか見るのもいいですね。夫のいる方は夫と一緒にしてみるのもいいですね。男性はほとんどスキンシップが好きですね。
親が子供に対して自分が信仰の主体であるとか、子供に対しては霊の親だという考えを持つことで、子供に責任を持たなければならないという気持ちになり、小言を言ってでも引っ張っていかなければという考えになるのですが、そうではなく、一番重要なことは、親が子供に対して信仰の兄弟姉妹だという考えを持つことです。そして子供を尊重してあげなければいけません。子供は完璧ではないですが、少しづつ成長していきます。私は自分の子供を信仰の兄弟姉妹というふうに考えて接しています。
また、子供は自分が投入してあげなければこの世に取られてしまうという考えを持たなければいけません。
2代王様がキングスレポートでこのように言われました。「私がなぜ1対1の子女の日をするのかと言えば、子供はいつでもこの世に取られてしまうということを知っているからだ」と言われました。
それが現実なのですが、私たちはそのように考えませんね。教会がやってくれるとか、私が活動を一所懸命すれば子供たちは分かってくれるだろうとか。
そうではないですね。
子供は自分とぶつかる母親の姿しか知りません。自分がいくら7時間も活動してきたと言っても子供たちには分からないのです。聖霊大学を6つも聞いているのを子供は分かっているだろう。そんなことを期待するのは全く的外れです。子供たちにとって親とは私と対面したときどのように行動する人なのか、それしか知らないのです。
では、私は子供たちの前でどのような顔をして過ごしているのだろう?私が考える自分の姿と子供たちが感じる私の姿にはとても大きな違いがあるかもしれないのです。私は食口から尊敬もされているし信仰の逆境を乗り越えてきた信仰者だと思っていても、子供たちはそう思わないのです。子供たちは却って親のことを二重人格者だと思うかも知れないし、あんな教会には行かないでもっと楽に生きればいいのに、と思うかも知れないし、お母さんの信仰は私の信仰ではないのになんで干渉するの?とか、子供たちの感じる私の姿は私の考えている自分の姿とは違うかも知れないのです。
3-3.主との一対一の時間、そして祈り続ける愛
最近、とても感動的な証しを聞きました。
夫だけが信仰をして、夫人は信仰をしませんでした。この夫婦は大変難しくお子さんをもうけられたのですが、その子供が幼いときに早くにして亡くなったそうです。夫人はもう子供を持つことができない状態であり、子供が死んだために夫人はショックで信仰を失いました。自分はこれ以上、信仰はしないと夫に宣言したそうです。夫は一人寂しく信仰されたそうです。その間、夫人は礼拝などには一度も出てこられませんでした。
夫は40年間祈祷を続けられたのですが、38年目だったでしょうか?ある作家がこの方に「神様を恨みたくないですか?38年にもなるのに神様はあなたの祈祷を聞いてくださらないので恨みたくないですか?」と聞きました。
すると男性は「私は神様が善であられることを知っているので祈祷を聞いてくださると信じています。祈祷しか方法がないので、これからも祈祷を続けるつもりです。私は神様を恨まないです。」と言われたそうです。
この男性はこのような会話をして2年後に亡くなったそうです。その夫人はその間もずっと教会に来なかったそうです。
しかし夫の葬式のときはもちろん夫人は来られました。そして、たくさんの方が夫の葬式に参加され、この男性はこの信仰のコミュニテイで模範的な方であったと夫の証しをされたそうです。そのときこの葬式で、夫が生前本当に願った場面が実現されました。奥さんは泣きながらその証しに感動して再び主に戻るよう回心されたそうです。夫の40年間の祈祷が実ったのです。そして、2年後にまた奥さんも亡くなったそうです。
この内容は聖殿の状況とよく似ているように思います。あなたの子供が、あなたの一生涯の人生において、信仰の道に戻ってこないかも知れません。しかし、私が死んだとき、子供たちにどんな言葉を残してあげるのか?子供たちがそれを聞くかも知れないし、あるいは神様がどのような状況を作られるか分かりません。
私が言いたいことは何かといえば、活動などすることで人に見せることに続けて集中してはいけません。もちろん2代王様が活動するようにと言われたときには一生懸命活動するのは良いことです。しかし、見せるための活動なら絶対にいけません。私にも恩恵がないし、見る人にも恩恵がないし、神様も好まれません。私たちは今まで長い間そのようにやってきたと思います。私がこのように活動すれば子供たちは感動するだろう。そうして家に帰ってきたら完全に疲れきって倒れている姿を子供は見ています。家では私が神様の代表者です。私が真のお父様を現わす存在です。私を見るのが子供たちが主を見る時間なのです。
私は個人的にこれを皆さんにお勧めしたいです。毎朝の「訓読日誌」、「真のお父様との訓読会」をすることを。
活動をしたければ続けてされてもいいと思います。
しかし、一番重要なことは主との関係回復です。そのようにして主からたくさんの愛を受けなければいけませんね。私たちは愛を受けていなければ、爆発したり、急に息子の祝福が気になって泣いたり、夫の写真を見て泣いたり、そんなことしないでください。
娘に息子の悪口を聞かせたり、末の息子に長男の悪口を聞かせたりするという行動は、必ず長男の耳にはいるのです。そのようなことはやめてください。
なぜそんな行動をするかというと神の愛を受けていないから、そのような行動をするのです。
その行動は自分の伝道対象者に他の伝道対象者の悪口を言っていることになるのです。すると悪口を聞いている子供は何を思うかというと、自分の悪口も他の兄弟に言っているのかと疑問を持つようになるのです。もっと悪い状況になるのです。
しかし、もどかしいときは誰かに話さなければいけませんよね。話さなければ気が狂ってしまいますよね。そんなときは神様に聞いてもらうのです。神様、お父様に書いた日記を、私たちが亡くなるときに子供たちがそれを見て泣くかもしれません、誰にも分かりません。でも見せるためにしてはいけないのです。
関係回復のために努力してください。本質的なことにもっと重点をおかなければいけません。私たちがこのようなことができ、こんな話をすることがどれだけ貴重でしょうか。
昔は献金をいくらしなければどうだとか、伝道を何人しなければどうなるとか、昔はいつも動員でしたよね?そのようなことを考えるときに、2代王様は動員をしろとか祝福を何人しろとかそのようなことは言われませんよね?もちろん早く祝福を受ければいいとは言われますが。それは準備ができた人のことです。祝福を受けたくないという人に無理やりしろとは言われません。
娘は母親にたくさん似ると思います。娘はとにかく母親が好きです。娘が成人になれば母親が説教するのは嫌がるのでショッピングにも一緒に行ったりいろんな話をしたり、「私が死ぬときにあなたに相続したいものは主に向けた愛だ。」 と言ってあげるのです。少しずつしなければいけません。子供が信仰的に余りにも遠くに行ってしまっている場合にです。最初から一緒に聖書の勉強をすることはできないからです。
聖書の勉強が一緒にできる状況になれば、このような聖書もあります。中間が聖書で横が白紙になっていてノートにも使えるものです。私はこの聖書で娘と一緒に勉強しています。これは英語版で日記バイブルといいます。
子供たちは聖書について知らないし、神様についても全く知らないのです。聖書も余り開きません。だから私がこれを始めた理由は娘が余りにも関心がないからです。どうすれば娘が聖書を開くか。文字が書いてあれば見るかも知れないと思ったのです。子供用の聖書の本があります。アブラハムについての話しとか聖書の話が50個くらい抜粋されているのです。それを一つか二つ読みます。聖書の本文も横に書いてあり、どこにこの話がのっているのか出ています。重要だと思う部分を一段落づつ一緒に読んで私が説明してあげ、娘に5分くらい時間を与えます。そうすれば自分が感じたことを横に書きます。
最初の祈祷は私がして、最後の祈祷を娘にさせます。「何を祈ったらいいのかわからない。」と娘が言うので、「今日学んだ聖句で感動したところや感じたことを簡単に祈祷すればいいんだよ。」と言いました。
私は娘が何を書いたのかは絶対にチェックしないようにしています。「お母さんは絶対にチエックしないからね。あなたと神様の関係においてあなたが神様に話すことなので、お母さんが中間に入るのは良くないと思う。」と言い、信仰の姉妹としての位置を確実に守ってあげます。親なんだから全部を知らないといけないとは言わないのです。
「お母さんはいつもおまえを見守ることはできないし、いつもいろいろ言ってあげられることはできないが、神様はいつもおまえと共にいらっしゃるので、お母さんが母親としてあなたに一番あげたいプレゼントは神様を愛して神様を敬虔することだよ。これを一番あなたにあげたいんだよ。」とこのように説明します。
このように娘と一緒に聖書の勉強をしています。今までやった聖書の勉強の中でこの勉強の仕方が娘にとっては一番いい方法だと思っています。娘にとってはです。
でも息子たちはそうではありません。
子供たちによって聖書の勉強の仕方が全部違います。
三男と末っ子は質問形式にするのが良かったです。討論式にやります。
長男と次男は歴史。長男とは最近1対1の勉強を始めました。
子供たちは信仰の同志なので、信仰の成長に合わせてやることが大切です。子供がどのレベルの信仰にいるのか確認しなければいけません。そしてやりながら反応を見なければいけません。子供のレベルに合わせず、高いレベルを強要すると消化できなくなり嫌いになります。自分が食べれないのに食べろと強要するので子供たちにとって母親は強要する人になってしまうのです。
子供のレベルを知ることはとても重要です。私は娘との関係において、娘のレベルを高いと考えたのです。それで娘に難しいレベルの勉強を要求したので娘は拒否しました。そして嫌いになったのです。
だから娘と勉強するときはいつも「本当にいい質問をしたね。お母さんにもわからなかった。」と娘を褒めながら進めています。
たくさん話しましたが、他の質問がある方?
4.不安を越え名誉深く死ねる神様への愛
ー 質問者C:個人的に感じることなのですが、今まで王妃様がたくさん語ってくださいましたが、私たちが非常に不足なのでどうしたらいいのか方法がわからずに、子供たちに対してのお話をいただいたら「その通りに従わなくてはならない!」と思って、例えば1対1の関係を持たなければならないと聞いたら、直ぐにその時間を持つのですが、本質的なことに理解が乏しく、いったんはその時間を持とうとするのですが、今まで通りの姿で「あんたは祝福についてどう考えてるの?どうして祝福を受けないって言うの?!」と問い詰めてしまうことがよくあります。
だから子供たちが(その時間を)拒否せざるを得ないし、「あんた、どう考えてるの?なんでお母さんにちゃんと話してくれないの?」こんな風に対してしまうので、子供たちが話さなくなってしまう場合があるように思います。
さっきもお話ししてくださったように、子供たちは認められたいし、愛されたいのに、お母さんからは小言を言われる...それって嫌ではないですか。受け入れがたいし。そういった事情があるのに、「御言通りにやってみたけど、何も変わらなかった、だからうちはもうだめだ」こうなってしまうようです。
御言を文字通りにだけ受け取って行うようなことが、私たちには多いように思います。個人的には、子供に対する以前に自分自身を振り返らなければならないと感じています。
私たちが見逃しやすいのが「自分は信仰をしているから正しい、子供は信仰生活していないから間違っている」と考えて、そういう立場で、どのような方法を使ってでも自分の方に引っ張って来ようとしている場合が多いと思います。
それよりも、子供や夫の状況に対して、以前は私自身も自分は正しい、夫は神様、真の御父母様を否定していて、なんでこの人はこうなんだろう!この人をいかに変化させるか!を考えてきましたが、結婚生活を通して、この状況が私自身の鏡なのだなと感じさせられたことがあります。
夫のしていることを通して、その状況で自分がどう感じるのか、なのだと思いました。
実は私は、夫が私よりも信仰的に優れていて夫が私を引っ張ってくれたらいいのに、自分には信仰がないから夫が信仰的に引っ張ってくれたらいいのにと望んでいました。
でも、そうしてもらえないので、腹を立てて、夫に対して不満をたくさんもっていました。
葛藤の中で、祈り続けていた時に、私が神様との関係を結ばせるために神様を不信し教会に通わない夫が与えられたのだなと、自分自身を振り返らされました。
いろいろな方とお話ししていると、自分はちゃんとやっているのに、相手がやってくれないと嘆く場合が本当に多いようです。
私が思うに、自分の中の罪であったり、自分の中の堕落性を見過ごして、それについて考えもしないことが多いのではないかと思いました。何かの困難にぶつかった時に、なにかが間違っていたのだなと気づき、解決のために断食してみたり、御言を訓読してみたり条件を立てますが、行いだけではそのようにするけれども、本当の悔い改めができないのではないか、何故なら何が誤っているのかが見えてないから、私たちはあまりにも自分の堕落性を見ないようにしてきたのではないか...という思いがします。
その中で、摂理の中で私たちが本当に一生懸命歩んできて、お父様の御言を必死に守ってきたけれども、今の状況を見ると周辺の人はみんな去ってしまい、私には何も残っていない、となった時に、何故お父様がそのように語られたのか、お父様が責任を持ってくださるとおっしゃったのになぜこんな風になったのか...たぶんそれは、摂理のせい、というより自らの罪と堕落性のゆえにそうできなかったのではないか、ということを振り返ってみるべきではないか...最近祈祷していてそのような感じを受けました。
私の場合は、摂理の中で幼い子供を置いて、40修や21修に参加したため、子供が分離不安障害になってしまった、どうしてお父様の御言通りにしたのにこうなったのか、今さら1対1の時間を持てとか言われるけれども、その当時はそうすることができなかったのに今さらどうしたらいいのか、という思いが少なからずありました。
でもそれは、私の中に解けない傷や葛藤があまりにも多かったので教会に行くことに現実逃避し、教会に行って活動すればいったんは人々から認められるので、自分の罪を隠して、摂理のせい、お父様のせいにしてたんだなと。
それが分かった後で、やっと本当の悔い改めに至りました。でも自分はそのようにしかできなかった、どうにも身動き取れなかった、自分自身では正しい道にとうてい到達できないと悟り、限界点に達した時に、真のお父様がそんな私を救ってくださったのだと感じるようになりました。
統一食口たちは摂理があまりにも忙しく、しなければならないことが多かったので、お父様の御言にあるように、我が子を愛する前にカイン圏のために犠牲にならなければならないとあったので、そのまま文字通りに従ってきたのだと思います。
我が子よりも他の活動に重点を置いてきましたが、それゆえに自分の子供たちが不安と寂しさの中で過ごしてきたように思います。
そういったものをもう一度振り返ってみる必要があるのではないか。私自身は、神様のためにしたことだから正しいと思ってきたけれども、親の視線と子供の視線には非常に違いがあるということを感じさせられています。親からすると、自分は子供を十分に愛してきたと思うのだけれども、子供からすると「お母さんは私が祝福を受けなければ愛してくれないではないか!」と思っている。子供たちとの関係において、まず自分を振り返り、私が活動で忙しかった時、子供たちはどう過ごしていたのだろうか?と考えること。
日韓、韓日家庭においては、より問題があると思います。親が日本人であることについて、子供は社会からたくさんの葛藤を感じてきました。
けれども、親自身がその問題を避けて解決できていなかったなら、子供は親が悲しむからという理由で、その心の中の葛藤について親に話すこともできません。もしも親が、「自分も韓国なんかに来たくなかったのに来てしまった」などと言った日には、子供たちはひどく傷つくでしょう。
けれども、その時に、親自身がその問題を克服していれば、子供の話をじっくり聞いてあげることができるし、子供も安心して話すことができるのだと思います。「お父様が韓国に呼んでくださったから、その一点で私は来たのだ」というのもいいけれど、自分がまずその社会的、家庭的葛藤を克服したものを子供に教えてあげるべきなのではないだろうか、そのように感じています。
いろいろな2世たちの話を聞きながら、とても胸が痛みます。お母さんは一生懸命生きてきたとは言うけれども、子供たちはとても深い寂しさを感じているのが見えるので。今まで私たちは前だけを見つめて走ってきたけれども、2代王様が今この時に家庭についてのお話をたくさんしてくださるのを聞いて、今私たちは家庭をもう一度収拾できる機会がきたのだなと、感じています。
4-1.お父様との関係を後悔しないということ
ー 2代王妃様:
ある一世の方がいらっしゃるのですが...子供たちが、とても難しくなりました。一人の子はレズビアンになり、ある子は男性と同居していて一年に一人ずつ相手を変えるような、少し精神的な病があり、ある子は離婚を繰り返すような状況で、みんな良い大学を卒業し外見もいいのですが、親の立場においては家の中がめちゃくちゃになってしまったわけです。その方が言われるには、「2代王様が礼拝説教で家庭についての御言を語られる時は、自分は礼拝の場を飛び出したくなるような衝動にかられる」と、そのように話されました。「そういうお話をされると、私が子供を育てる時には(王様は)何をなさってたのですか... 私はこういう内容が分からなかったのに...うちの子供たちはもうすでに大変な状況になってしまっ...」そのように感じると話されるのですね。どれほどたくさん悩まれたでしょうか? 私の過ちだ。自分がどこで何を間違ってしまったのか...。
これについて、(その方が)3つほどお話しされました。
1つ目は、「私がもし信仰を失うなら私は私の子供たちを助けてあげられない。私の信仰をより育てなければならない。深い祈祷の中で、その答えを得た」と話しておられました。「だから私が中心を失ってはならない。神様との関係をより近くしなければならない。」と。
それから2つ目は、「これも私の欲心なのだ」と気がついたそうです。2代王様は、今アメリカに来る子供たちに対してよいアドバイスをしてあげようと努力しておられるのに、それすらも私が嫉妬し、それすらも聞きたくないと言って、わめく、そういった自分の未熟さを見ながら、自分は器の小さい人間なのだなと自分を振り返ったと言います。神様は私に、『他の人の子供たちがうまくいくのを見て喜びなさい』と言っておられるのだと、だから私は喜ばなければならないのだなと、思ったそうです。
ところが不思議なことに、そのお話しをされて約2年ほどたった時に、息子さんの一人が戻ってこられたのです。そしてその息子さんが祝福を受けられ、子供もできたのですね。どれほど感謝なことでしょうか。その息子さんは離婚を繰り返しては苦しんでおられたのですが、今は熱心に喜んで活動しておられます。死にきれずに無理やりに活動するのではなく、です。
2世の男性なのでもともと無理やりにはしませんよね。(今は)そのように変わりました。そうやって(他の人の子供のことも)喜ぶようにしたことによって、神様が回復を下さったのですね。
本当に驚きました。私たちが本当に、一つのことにおいても神様に捧げるなら、神様は回復させて下さるのだと。そこにおいて、また奇跡を見ました。
3つ目はこのお話をされました。「私はお父様に捧げた時間は後悔しません。お父様がこれをしろと言われたからしたのであって、私はその時間について後悔しません。私は再臨の主に私の時間と私の情熱を捧げることができたのだから、私は感謝します。」このようにお話しされました。
子供たちが幼い頃、託児所に預けて活動に出なさいと言われたので、多くの食口がそのようにしたそうです。自分自身もそのようにしたし、子供たちを預けて、それが当然のことだと思ってしてきたけれど、その当時を思い起こして自分自身をひどく責めたそうです。うちの子たちがこうなってしまったのは、幼いころに愛情をたくさん与えてあげられなくてそうなってしまったのだと、だからこうなんだと、そのことを非常に嘆いていたのですが、けれども自分はそのようにはしないでいよう、と。そのように嘆くことは私がお父様の前に捧げた時間を辱め、汚すことになってしまうのだから、そのようにはしたくない、と。
このように3つの決定をなさったそうです。そしてその3つの決定を守るのは、簡単なことではないともおっしゃいます。ある時には自分でも知らないうちに、深い泥沼にはまってしまうこともあるそうです。けれども、その泥沼から抜け出てくる時間が少しずつ短くなってきたと話されました。
私たちが再臨主に出会い、お父様が私たちに指示され、誰も受けることのできないような福を下さったのに、私たちが喜んでお父様に従うことができなかったのは、それは私たちの受け持つ分なのですが、けれどもそれをした時間までもったいなく思ったり、後悔するということはしないでおこうと...
私はこの3つ目の言葉がとても心に響きました。その時間は全てを主に捧げて、今私たちに与えられたものは、また私たちがやり遂げていけばいいのであり、今このような話ができるという事はまた喜びであり、発展であり、良いことだ、このように私たちが消化していけるようになった時代的恵沢に本当に感謝しよう...
そこでたくさんの傷を受けた人もいますが、けれども親というのはこういうものかもしれません。努力をしても実は完璧にはできないのだろうと思います。その完璧にできない理由が、私たちが本当の親ではないからそうなのだと思います。
主が私たちの親であられるのであって、私たちが完璧でない姿を持っていることも私たちを謙遜にさせるのだと思います。
子供が何か言ってきたときに親が感情的に対応した、そのことについて後悔したような内容が皆さんあると思います。自分が間違っていたな、なんであの時あんなことを言ってしまったんだろうと思いだす瞬間があると思うのですが、ですから私たちが完璧ではないということですよね。私たちは失敗をしますよね。ですから子供たちも、親が努力した一生懸命にしてくれたけれども、結局は私の本当の親は神様であり、主が私の父であるということを分かるようになるのだと思います。
私も子供たちにそのように説明をします。お母さんが完璧ではないから、だから神様があなたたちにとって絶対に必要なのだと。そのように説明をしますね。
私たちが完璧で失敗も一つもせずにいたなら、子供たちが神様だけを信じてハレルヤと従っていたでしょうか?私たちに何の逆境もなければ、子供たちは順調に進んでみんな祝福を受けて5人の子供がいて...そうなっていたでしょうか? 多分、それでもまた違った逆境があったのではないでしょうか。千態万象で神様が見られない人はおらず、私たちよりも大変な状況の人も見てこられたでしょうし、もっと良い状況の人も見てこられたでしょうが、そこからでも神様が救い上げてくださったので、私たちが救い上げられないはずはないと、私は思います。
ですから、私とお父様との関係の回復、私と神様との関係の回復、これはいつも良い状態であるとは言えないと思います。大変な時もあるでしょうし、ある時は上り坂を上がる時もあるし、ある時は下り坂を行くときもあるし、2代王様が政治的なことをお話しされるので、情勢を知ることによって不安になったりもするではないですか。それも事実ではないですか。
4-2.不安を克服する
そういった部分においても、実は女性はどうしてニュースに関心がないのかを考えてみると、女性たちは不安に耐えられないのだと思います。不安になると、怖れにとらわれ、怖れるとコントロールできないほどすべてが麻痺するのだと思います。不安で恐ろしいと、運動や日常的に生活したり服を着たり、そういったことすらもできなくなってしまうようです。そういったことまでも、怖さのために。脳の構造がそうだというのもありますね。脳の構造がスパゲッティのように連結されているというではないですか。AがBにつながり、BがZにつながり…
それから「愛と尊敬」を読まれたと思いますが、女性の脳構造が3000個の電球がついていれば、そのうちの3つが消えてもすべて消えてしまったと考えるそうです。
とても面白いですよね。まだ2997個がついているにもかかわらず、3つが消えたといって「もう終わりだ!全部消えてしまった!」と考えるのだといいます。女性の脳構造がそうらしいです。
男性たちはそうではないそうです。男性たちは箱に一つ一つ別々に入っているそうです。それでこの箱とこの箱が連結されていないから、互いに影響を与えないというんですね。でも女性たちはうどんのようにあちこち絡まっているので、洗濯のことを考えたかと思えば、便秘のことを考え、姑のことを考えたかと思えば、末っ子のことを考えたり、2代王様のことを考えたり、それが瞬間的に全部できるというんですね。でも男性たちはそうではないっていうのです。
ですから女性たちは情勢のことに不安になると、トランプがうまくいかなかったので、アメリカがそうなれば中国がどんどん大きくなるだろうし、そうすると私たちの日常生活に脅威を及ぼすだろうし、そうなったらうちの子たちは一体どうなってしまうんだろうと... こういった具合に怒涛のように私たちの考えを侵食されるといいましょうか、私たちを不安に陥れて、知れば知るほど不安になり、アパートの値段が上がった下がっただの、あそこがこうなったああなっただのと、とてもたくさんのことを知ってしまうと、私たちにとってはそれが情報として受けいれられるのではなく、怖れとして受け入れられてしまうのが、それが大きな問題だと思っています。
私にとても不思議なことがあったのですが。私に最近起こった出来事の中で一番大変だったことでこの2つが大きなものだったと思うのですが、7年前に韓マザーがお父様を背信するようになり、私たちが全く何もない状態でアメリカに来るようになったのですが、その当時私はとても不安だったのですね。それで聖書を読まなければとか、勉強しなければとかいう風に思えず、ぶるぶる震えながら子供たちに声を荒げたり、イライラしていてとても良くない姿でした。そのうち、後になって聖書の勉強を1年ほどからするようになったのですが、その当時はそういう状況でした。
その数年後、トランプが当選できなかった時、私が(その当時とは)違う姿でいられた事に私が私自身に驚きました。トランプがうまくいくかもしれない、これからどうなるかといっていた頃、私たちが戦わなければならないといいながら、ヨハネの黙示録、それから詩編、箴言を読み、申命記を勉強し、続けてマタイの福音書を勉強していました。その時、このようにして御言に頼るような、私が決して完璧だとは言えないのですが、御言がより近しく感じられたのですね。この状況において、私が狂ったように不安がる人ではなく、御言により近づいている私がその場にいたのですね。それが、とても驚くべきことであると私は感じました。それで私は「神様、私はこんなに成長したのですね。神様、誇らしく思ってくださいますか?」と申しあげたりしました。
私たち女性は不安になると一番初めにすることが、神様を信じなくなることだと思います。神様のことを考えずに、不安なことばかり考えるようになるみたいです。でも、私がこんなにまで不安がることができること考えてみると、逆に、ああ、私がこんなにたくさん神様を考えることのできる可能性を持っているんだなあと、そのように反対に考えてみることもできるのだと思います(笑)。
ですから、神様が女性たちにその2つの内容を同時に下さったんだと思います。
ですから非常に完璧さを追求し、家の中を綺麗に片付けたり、ケーキを作ったり、刺繍をしたり、ピアノを弾くにしても非常に正確に、アクセサリーを作るにしても正確に、人に教えるにしても完璧にするなど、女性たちは完璧主義があるというのも、神様により近づきたいという、ある意味でこれも表現なのだなと感じます。
4-3.不安で魂を殺さず、名誉深い死を覚悟する
御言を通して、その不安に対して勝負をかけなければならないと思います。かといって私が全く不安ではないというのではありませんが、ティム本部長が奥様といっしょに訓読会をしておられた時のことですが、お父様の御言に「おまえたち、本当に殉教をしなくてもいいのなら、しないように全ての努力を尽くしなさい。できるだけの努力をして、宣教地で生き残りなさい。けれども、本当に死ぬしかない状況になった場合には、名誉深く死になさい。」このように語られたといいます。
それから、マタイの福音書にも『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。(マタイ10:28)』そういう御言があるではないですか?
ですからその恐れに向き合って、私が死ぬかもしれないのなら恐れの中でブルブル怖がりながらではなく、御言の中でそれと向き合いながら、それなら主の勇士というのは、主の軍人というのはどういうものなのだろう、私が死ぬとしても本当に冷徹に、主のために怖がらずに死ぬことのできる人なのだろうか。それをごく冷静に見つめさせておられるということを今回感じました。今回特にトランプ大統領を見ながら、よくそのように考えました。
私たちは神様にお願いしたわけですよね。「神様、お願いします。私たちこのように努力するので叶えてください。」けれども、神様は違う形で叶えてくださったわけですよね。神様はしてくださったのです。大きな投票差でトランプが当選できるようにしてくださったのですよね。けれども、私たちが願ったやり方ではしてくださらなかったのですよ。私たちは大統領選までひっくり返して下さることを望んだのですが。 けれどもどちらにせよ、神様は叶えてくださったのですね。私たちが願ったことを叶えてくださいました。けれども【私たちが願うやり方】では叶えては下さいませんでした。(笑)
とすると、私たちの願ったやり方で叶えてくださらなかったので、私たちとしてはとても力が抜けてしまいました。かなえるには叶えてくださったのですが。今回、本当に票がたくさん得られましたね。これは歴代においても本当にたくさんの得票でした。これ以上得ることができないほどにたくさんの票を得ました。ですから、(願いを)聞き入れてくださったのです。けれども、悪の勢力が持っていってしまいました。それなら神様が叶えてくださらなかったということではないですか!と言いたいところですが、そう言うことはできません。神様は聞き入れてくださったのです。
私たちはそのやり方が気に入りませんでした。どうして私は気に入らないのだろう?じっと考えてみたら、私の平安と私の生命までも脅威にさらされるかもしれないからなんです。それがとても嫌で、怖いのですね。楽な道に行きたかったのです。それで私がそれについて考えたのですが、死について私にたくさんのことを考えさせるように神様がなさいました。
私は本当に死ぬことができる人間なのか。ヤマナラシの木が震えるように震えて怖がる、私は怖がりなんだな、とそれを感じさせられました。
そのことを思った時に、御言をもっと勉強したいと思うようになりました。
私がもしも名誉深く死のうと思うのなら、主がどういうお方なのかをまず知らなくてはならないではないですか。もっと深く知らなければならないではないですか。殉教することができるという事はどういうことなのか、はるかに多くの関心を持つようになりました。それで私が最後に殉教をするとしても、喜んで殉教することができるということはどういうことなのだろうか?
『自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である。』(コリント第一13:3)
自分の体を焼かれても、ですから殉教ですね、火刑に処されるという、殉教することになったとしても、私の中に愛がなければそれは無意味なのだと、言われたのですが、私は神様を本当に愛している人間なのか、それとも私の安全と私の生命がより重要な人間なのか。そういった信仰の本質を、今非常に政治的に不安な状況において、それと向き合うようにされながら見させられるということを、このごろよく考えさせられています。
私はその部分についてたくさん悩みましたが、自分は銃弾を受けて死にたい!全然怖くない!実はこうではないのですが、それについて少し向き合おうとするので、それについて認めるようになり、昔のように漠然と怖いという思いはなくなったように感じます。漠然と怖いというのではなくなりました。
私には霊魂があるのだな、それならその霊魂は神様のもとに行くことができるのだな、そのように考えながら、ああ、これが私の望みになりうるのだなと、そんな考えもおこってきました。このようにしながら。また信仰も一歩成長させてくださるんだと感じました。そういった面では、本当に感謝に思っています。
それから、最近になって教会に新しい食口たちがたくさん訪ねて来られるのです。それを見ながらも、ああ、こんな風に伝道をしてくださるのだなと。最近になって、祝福を受けたいという方が増えてきたのですね。外で私たちが伝道したわけでもないのですが、伝道されてくる方がいるのを見ると、神様の計画というのは超越しておられるのだな。そういったことも目の前で見せてくださり。2代王様がこのようにも語られますね。「トランプを当選しないようにされることにより、人々に天一国憲法に対する必要性を神様が知らしめてくださっているのだ」と、このように語られます。
ですから、これをどのようにしていかれるかは、私も人間ですので分かりませんが、けれども主の計画があり、その過程の中で神様がもしも私の犠牲を要求されるのであれば、私は名誉深く死にたいと思います。死のう!ではないですが。けれども、名誉深く神様を愛する人生を生きて死にたいとそういう思いが入ってきました。それは確実にそう思います。これが人間として可能なことなのだな、いったん私にとってはそれが非常に重要でした。
これは絶対にできない、絶対にできないものだと、思っていた時もありましたが、可能なのだな、そうすることもできるのだなと、神様が私たちにできないことを要求されることはないのだなと、そういう風に思いました。本当に不思議なことです。多分こういう状況でなければこんな考えはできなかったと思います。そういう部分も本当に感謝だと思っています。
あと、何か質問がありますか。こんな風に少人数でのミーティングもいいですね。
あ、もう家に帰りたいですよね。(笑)
4-4.不安と絶望の時にこそ信仰の言葉を言える者
私は最近、これを宿題に出されました。なにかというと、私は詩編を読むと感動がなかったのです。それで、詩編を今回ずーっと読んでみたのですが、それでも感動がありませんでした。すごく感動した、というそういう話を聞いたりしますが... どうすれば私も詩編を読みながら感動することができるだろうかと考えていたのですが、最近感動した部分がありました。なにかというと詩編51編を見ると、ダビデがバト・シェバと床を共にしたので預言者ナタンがダビデのもとにきて叱った後に、ダビデ王が悔い改めをするという場面なのですが、悔い改めをする立場であるのにこんな風に言えるの?それが私にとってはすごく不思議でした。私はこんな風に言えるだろうか、悔い改めをする時ってどんな言葉を使っていたっけ?こういった思いがわきながら、そういう気持ちで見たところ、この部分が非常に感動的でした。
それから、私が本当に大変な状況にある時、それにあったダビデの詩を読める人にならなければいけないという思いがしました。今私たちはリマをしていますが、それもいいですが、そこにも神様が語られる内容がありますが、私が本当に絶望した時に信仰の言葉を言える人にまだなっていないのであれば、私が絶望した時に私が読める詩編、私が本当に嬉しい時に読める詩編、また私が悔い改めをするときに読める詩編、こういった私の詩編のリストが必要だと感じました。
どうしてこの話をするかというと、私たちみんな信仰の中で神様が一人一人に下さった思いが違うわけで、恩恵が違い、成長させてくださる方法も違うんですよね。それで、詩編のお話をしたかったのです。どうしてなのかは、私にもよくわからないのですが...。
今、マタイによる福音書を勉強していますが、詩編についても、私がこういう風に勉強すればいいですよ、と言えるようになれたらいいのですが...いつかはその日が来ますよね?(笑)
ですから、私にとってはそれが今宿題です。私はこれほどまでに骨にしみいるほどの人間ではないのだな、神様をこれほどまでに愛する人間ではないのだなと... いまだに知識的に、見せるための信仰が染みついているのだなという、こんな思いもわきながら、いろいろ考えさせられました。けれども私がこのように、信仰のこの部分について勉強したいし、この部分は神様が知恵を下さったらいいのに、そういうものがある時に、とても喜びを感じます。そういった部分があればいいなと、思いました。
お父様の御言のなかで、家庭盟誓の部分を読んでみようとしてるのですが、以前は真の神様、真の御父母様、真の愛、真の家庭、こういった部分が好きだったのですが、最近は申命記を勉強した後、家庭盟誓を読みたいと思うようになりました。家庭盟誓がものすごく感動として響いてきました。
乞食のような私をお父様はこのように見てくださったのだな。それが、以前はそれがとても重苦しかったのですが、私を家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を...私のことを孝子、忠臣、聖人、聖子として見られたのだな。そういう可能性のある人間として見られたのだな。お父様は私のどこを見てそんな風に思われたんだろうか?一人、そんなことを思いながら、とても恩恵を受けました。
神の日の御言で、家庭盟誓を朗読したのですが、それほどまでに深い喜びを感じ、恩恵を受けたのは初めてだったと思います。そのように家庭盟誓を読みながら感謝にひたりました。不思議なことは、信仰の楽しさ、恩恵の楽しさ、御言の楽しさ、こういったものが私の方に近づいてくるようです。それが常に来るというのではないのですが、そういったものが来た時にとても感謝に感じています。
1対1の、神様との1対1の個人的な関係だというではないですか。それを私がまず感じてこそ、子供たちに話してあげられるのだと思います。今までの私たちは、見せるための信仰、活動の信仰でぎっしり詰まっていると思います。それを長い間してきたものですから、私たちがそれについて専門家ではないですか?(笑)
ですので、神様と1対1で対話できるですって?神様から愛を受けることができるですって?私がもっと頑張ってこそ、神様が私のことを愛してくださるのではないの?私がもっと何かをしてこそ、神様が私に良くやったと言ってご褒美を下さるのではないの?おまえは義であると言ってくださるのではないの?そのように、ずいぶん長い間してきました。
でもそれが、お父様がいらっしゃる時には必要だったのです。なぜなら、それは再臨の主が私たちにそのようにお話しされたからです。このようにしなさい!とおっしゃったので、私たちはそのようにしました。ですからそれは立派なことでした。そして私たちはその時間を後悔しません。
けれども今お父様が、霊的に復帰しつつ心情を吐露しながら共になさることを望んでおられるので、そこにも私たちが反応し、「神様、どうすれば私が神様と対話することができるでしょうか、どうすればお父様により近づくことができるでしょうか、お父様こんなことを語ってくださいましたね、私はこの御言がよくわかりませんでした。お父様がどれほどもどかしかったでしょうか...」 こういったことをお話しするようなことが必要なのだと思います。ですから、お父様との関係回復、お父様がどれほど私のことを愛してくださったのか、また愛してくださっているのか、それについて私が受け取るべきものを受け取れずにいたのだと。
実は、お父様は喜んで犠牲になりさいとおっしゃっておられたのに。 私たちのように、死ぬことができないから無理やりに足を引きずりながらしなさいとはおっしゃっていなかったのですよね。喜んでしないのなら、受け取らないとおっしゃったのですよ。
私が、娘と私の違いを見つけたのですが、実は私はバイクに乗るのも嫌だし、柔術するのも嫌だし、しろと言われると辛いのですよね。もっと楽に生きればいいのに、どうしてこんなことをしきりにさせるんだろうと。 私はそうなんですが、私の娘はそうではないのですよ。それをしながら、とても楽しみながらするのですね。「すっごい楽しい!バイクも買いたい!」と言って。
とても喜んでするのですね。バイクもないくせにヘルメットに絵をかいたり、キラキラシールをくっつけたり。 それを見ながら、「私は喜びながら従えなかったのに...」自分自身を振り返らされます。喜んで従えば神様が喜んでくださるのだということを強く感じるのですが、ですから、2代王様が娘に対して喜ばれるものがあります。
かといって、娘に対しても厳しいのですよ。 無条件に微笑みながらなんでもしてあげるというのではなく、厳しい時には涙がこぼれるほどに叱られる時もあります(笑)。 それで最近、娘がこんなことを言ってました。「私は娘なのに、こんなにまで冷徹に現実を言われなきゃいけないの?」(笑)
そんな思いもしたという話をしていました。ですが、ともかく喜んでするのですね。
2代王様が、これこれこういう面で困難な時期だけれども、バイカーたちこそが立ち上がって戦うことのできる人たちなのだと。この人たちはまだ伝道されていない人たちなので、私たちがこの人たちを伝道できるような場を作っていこうと言いながら、バイクの使役をしておられるのですが、私は怖いし、わざわざこれをしなきゃいけないだろうかと、仕方なく引っ張っていかれる立場にあったとすれば、娘は喜びながらしているのを見て、たくさんのことを考えさせられました。
次回はスキューバダイビング? 実は私は水がすごく怖いのです。7歳の時におぼれて死にかけたことがあったのですが、褒められることが好きな私が、その時ひどく母に叱られたのです。 「おまえがだらしないから、水に入ってこんなことになったんだ」と。ひどく叱られて。母は海女だったのですよ。だから母の立場からすれば、あっけにとられるような事だったのですね。海女の娘が水に入っておぼれ死にそうになったことが。今思えば理解できるのですが、その当時には相当傷つきました。そういうわけで私は水が嫌いなんです。なので喜んでは従えないです。いまだに。そういうレベルではないのですが、でも不平不満は持たないでおこうと。その段階にまでに、少しレベルが上がったようです。
4-5.不平不満を、神様への感謝にする主の弟子
不平不満を言わずに、そして少しずつ喜んでできるようになるまで努力していこうと。神様も喜んで従う人のことを喜んでくださると思います。 私たちはよく、「神様、どうして私にこんな人生を下さったのですか?」 「どうしてこんな奴を夫に下さったのですか?」 「どうして夫を早く連れて逝かれたのですか?」 「どうしてこんな格好悪い男をくださったのですか?」 「どうしてうちの夫は信仰がないのですか?」 皆さんこんな風に思うではないですか? なじったり、不平不満を言ったりすることもあるでしょう。でも、その不平不満の時間を減らして、「それでも神様がこんなにも私のことを愛してくださいましたね。 私こんなにも楽しいことがたくさんありましたね。」 こういったお話をする方が、神様が喜ばれると思います。 だから、そのようにしていこうと思っています。私にはあまり合わないのですけれど。 私も否定的な人間ですので。 けれども神様により愛される娘になりたいですから。今までは不平不満の多い娘だったとしたら、もう少し、喜んで従っていく娘になりたいと、2代王様にだけでなく、神様にとっても喜んで従っていく娘でありたいと最近よく思います。 やっと私が分別がつく大人になり始めたのかもしれないです(笑)。
子供たちとの関係には悩みがたくさんあると思いますが、長く見るのがいいと思います。焦るのはよくないですから。それは祝福をおいて考えてみた時に、誰々はもう3人目を生んだとか、心がハラハラしながらうちの子はどうなるんだろうと思ったりするかもしれません。けれども、その子がほんの少し前からそうなったわけじゃなくて、(何年も)時間がかかってこのような状態になったのですから、回復されるのにも時間が少しかかるということです。せきたててはいけません。せきたてることでもっと悪くなってしまいます。
祝福は信仰の結実である。
だから、主の弟子になることが先なのです。この子は神様が私にまかせてくださった信仰の兄弟姉妹だ、でも今はすこし遠くに行ってしまった、では私がこの関係をどうすれば回復できるだろうか、わたしはどうすればいいのだろうか... そのための知恵を(神様に)求めなければなりません。それは私(王妃)がどうこう言える部分ではありません。私(王妃)が聖霊になることはできないではないですか。 それでもいろいろな方法の中で、もし高校生だったりあるいは娘だったらこういうことが好きだと思うんですが、(5種類の)愛の言葉を把握して、(その人にふさわしい)愛の言葉を話してあげること、それもよい方法だと思います。
それから、子供たちはみんな違います。その違いも認めなくてはいけないですね。ある時は本当に腹がたち、ここまでしてやらなきゃいけないのかと、そんな風に思わせる子供もいますが、そうでない子供もいます。同じ環境の中で育っても、違った傷を受ける子供もいますし。
私が見る時に、私自身がそういう一風変わった子供だったのです。 私の姉は母に対してそれほど傷つかなかったのに、私は母にものすごくたくさん傷ついたのですね。 今はそういった恨みはないですけれど、今思うと、どうしてあのとき私はそれほどまでに傷ついてたんだろうと考えたこともあります。 それで、その時の私にはそれ(優しい言葉)が必要だったのだなと、そんな風に思いました。だから、姉と私とは違っていたのだなと。私はそのせいで呵責があったのですよね。でも、姉とは違うタイプで、私にはそれが必要だったのだな、そのように整理されました。
そのように整理されたので、子供たちを見る時にも、この子にはこれが必要なのだなと。なにかしら「この子はこんなことも分からないの?こんなことまで?こんな当然のことがわからないなんて...」と思うのではなくて、「ああ、違いがあるのだな。神様がそのようにつくられたのだな。」と思えば、私が親として、私自身をより成熟させるために、このような子供ともうまくつきあえるようにされるのだなと、そのように知っていけばいいのだと思います。
それについて、私がダメで...このように自分を責めることをしないわけにはいかないでしょうが、けれどもそれをサタンが利用するかもしれないということは確実に知っていなければならないと思います。サタンがそれを利用して、私を感情の中に閉じ込めようとして、これ以上前に進めないように、これ以上この子と関係回復できないように、そうやって妨害作戦をするかもしれません。 今日こんな風に失敗してしまった、そういう思いがわいたら、そういう時には良い聖句を探してみたり、お父様の御言を探してみたり、これはサタンの計略なのだな、私に御言を読みなさいと言われていることなのだな、と。
どちらにしろ、それについて勝負をかけなければなりません。そこにずっと留まっていてはいけません。
子供に対して悪いことをしてしまった、過去にしたことがしきりに心に残って自分を責めるようなことをすると、それがむしろサタンに利用されてしまうことがあります。
「おまえはこの程度の人間だ、あきらめろ」 このように利用されることがあるので、それをしないようにして、ある時には謝り、またある時には教えてあげ... そのようになさったらいいと思います。
私が今話しているこの場所は祈祷室なんですが、私がひざをついて祈祷しているといつの間にかうつ伏せになって眠ってしまうことがよくあったのですが...告白します(笑)。これじゃいけないと思って、椅子に座って祈祷をしようと思い立って、祈祷室をちょっと変えてみました。座って、メモしながら、アクティブにしなきゃと思って。いまだに進行中です(笑)。 私がいまだに骨身にしみて感じられないのが問題なのだと思います。 神様が私をつくりかえようとしてくださっているのだと思います。アーメン
そのようにしきりに考えているところです。自分を責めすぎないように。 どうすればもう少し御言に親しみ、怠けずに続けられるか、いろいろ考えたりします。祈祷室の雰囲気も変えてみたり。そんな風にするのも良かったです。 新しい服を着るように、新しい祈祷室に入ってきたので。小さな小部屋からもう少し広いところに移動しました。御言関連の本もここに置けるし、書きたければここで書くこともできるし。向こうの小部屋は少し狭かったので。このように変えてみました。とてもいいです。以前はここに服がたくさんあったのですが、全部片づけたのですよ。今回、初めて公開しました^^。
私が時計を持っていないので、長い時間お話ししてしまいましたね。
では、祈祷して終わりましょう。
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