2021年10月8日金曜日

2021聖霊大学秋学期 リーダー会議◆二代王妃 文妍雅様のみ言葉◆2021年9月15日

 2021聖霊大学秋学期 リーダー会議

二代王妃 文妍雅様のみ言葉 2021年9月15日

編集タイトル:fanclub

2代王妃様のみ言葉(HSUリーダー会議 2021.09.15)

翻訳者:Toshiko O


わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。


ヘブル人への手紙12章25~29節


 12:25あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。 12:26あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 12:27この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 12:28このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 12:29わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。


―2代王妃様:へブル人への手紙をリードするのに質問はありませんか。


ーへブル人への手紙リーダー: へブル人への手紙に出て来る炎(火)についての解釈がよくわかりません。


ー2代王妃様: 

主は光である、門である、子羊である。犠牲になった子羊である。大祭司長である。神は、実に、焼きつくす火である。(へブル12:29)など色々な表現がありますね。

聖書はその見える一部分だけ読むと理解が出来ないことがあります。全体的に何を語っているのかまず見て、最後に何故この言葉を入れたのか見ると良いです。

へブル人への手紙12章を見ると神様がどのようにしてご自分の愛される息子であるイエス様を愛されたのか、息子を愛する時肉身の父でも非常に強く戒め、訓戒し、そのように神様はイエス様に強くされたのです。十字架につけながら私たちを救って下さったという表現が多く出てきます。


そして12章25節をみると、 12:25あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。」このように神様のみ言葉に対しても強く警告をされます。

ここで神様とイエス様に対して表現される色々な方法がありますが、事実私たちには神様が見えないではないですか。だから私たちの感覚で感じられること、つまり私たちの目で光を感じることも出来るし、また光は私たちが目をつむっていても熱気を感じられるでしょう。私たちの五感に頼らなくても感じることが出来る、私たちが見ることが出来ず触ることが出来ない神様が私たちに分かるよう聖書で比喩法を使うんだと思います。


焼き尽くすということは、すべてのものを殺し無くするということですね。このように、神様は色々な比喩法で出て来られるようです。

エジプトを出るとき荒野で火の柱として雲の柱として出て来られるでしょう。コラの子孫達がアロンとモーセの権威に対抗した時には香炉を持って来るよう言います。香炉を持って来させ、お前たち(コラの子孫)はアロンの職分に対して挑戦した。それで神様が審判される方法は、その人達を火で焼き殺し土地を裂いて、コラの子孫と共に反乱を起こしたルーベンの子孫たちを一緒に殺しました。その時も焼き尽くす火の恐ろしい懲罰を見せましたね。


私も聖書を勉強しながら、恐ろしい神様、恐れの神様、私が間違うと神様は稲妻を送り私を懲らしめるような神様、そこに多く焦点が置かれていました。「私の責任分担を行わないと私は二世として価値が無い人だ」という部分がありましたが、聖書を読みながら、「あ!神様は恩恵だということがこんなに驚くべきことなんだな!」と、そこに完全に心酔していた時がありました。神様は恩恵深く愛に溢れておられ、私が従順に行けば千代までも私に福を下さる方なのに、また、焼き尽くす恐ろしい神様!この極と極の性格の神様を私がどうやって共存しながら持って行くのだろうかと考えました。


この二つがぶつかり合う観念だと考えられますが、そうではありません。何故なら神様は焼き尽くす恐ろしい姿を現わされる時は、コラ子孫を完全に滅ぼし土地を開き火を下し審判される時、見れば本当に多くの機会を下さいます。そしてまた多くの奇跡も見せて下さいます。そして神様は、私がお前たちから信頼を受けたのでその時神様は私たちに「付いて来なさい。」と語られます。このような信仰の挑戦を下さる時、あなたに困難が生じたら、「神様は私を捨てられたようだ。罰を与えられたんだ。」と考えがちですが、神様は(私は最近民数記を読んでいますが)コラ子孫たちに火を下し土地を裂いて焼き尽くす火を見せられた時、これも見方によれば神様の愛なのです。これが強い戒めとしか見ることが出来ず、酷いことだとしか考えられませんでしたが、そうしなければ皆死んでしまいます。イスラエル民族が皆死んでしまうので神様は分別するしかない状況なんんです。だから何故雨を降らせノアの家族だけ生かして全て殺したのか、その部分もこのように見ることが出来るのです。神様は全部を生かすためにそのようにされ、ノアの時、そうするために神様は二千年近く待たれたでしょう。


私たちが考える時、神様は酷いです。焼き尽くす恐ろしい方です。ある時は光のように暖かくとても良いですが、どうして同時に怖くなれるのか。結局は焼き尽くすその火もまた愛なのです。へブル人への手紙12章7節にもこんな聖句があります。


12:7あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 


この部分を説明されようと、神様は焼き尽くす火であるという表現を使われたのではないかと思います。そしてこの審判の火も神様の愛の一部分であると語られるのです。 

答えになっているかわかりませんが。



民数記にみる信じる訓練


ー民数記リーダー質問: 民数記を通して神様の国を治めていく中でキリストの兵士として訓練する部分がありますが、ここで私たちがどんな教訓を得ることが出来ますか。


ー2代王妃様: 

来週の月曜日にテネシー州に行く約束になっていて、祝福式もあり、人と会う計画がありましたが、突然2代王様が今週の木曜日に行くと言われ、事実腹が立ちました。フフ… 

ところでこんな考えもしました。民数記を学びながら「不従順」に対して多く考えるようになりました。「不従順」とは信仰が無いため神様と指導者を恨んで従わない姿ではないだろうかと感じていますが。私の心の中で腹が立ったんだということがわかりました。


私たちは皆知っている話ですが、イスラエル民族は美味しい物が食べたい。マンナも食べたいし、ウズラも食べたい。何故私たちはここに行かなければならないのか、荒野で40年さ迷いながら、何故私たちは行けないんだ、何故神様は私たちを助けてくれないのか、何故私たちはきゅうりもニラも無い。エジプトがもっと良い土地じゃなかったか、乳と蜜が流れる地はエジプトだった。このようなことを見ながら自分たちの姿を多く見ますね。このように従順でない姿は神様を恨むことなんだな。神様を畏敬していないんだなということを私は民数記を読んで学びました。


以前でしたら、(2代王様が)突然日程を変えて「行こう」と言われたら気分を害するように話したでしょうが、民数記を学んで「はい、そうですね。行きますよ。一緒に行きましょう。」と言うようになりました。そしてしようとされている事に対して、それが合っていると知りながらも不満に思ったり不平が先に出てしまうんです。ところが私がそれ(民数記)を見てこの聖句は公的なみ言葉で、お父様が本当に喜ばれる言葉であると知ると、もっと早くもっと喜んで心から一緒に2代王様がされる事をサポートすることが出来るようになると思います。


それで私が民数記を読みながら、私たちもある面では、私たち食口はお父様の訓練を受けたではないですか。けれど、私たちも事実心の中で不平も多く言って、理解出来ないことに対して恨みも多くあったんですが、根本的に私がこのよに恨みが出るのは、ああそうなんだな。私がこんな恨みがでるのは、私が神様と真のお父様と問題が出来たから、こんな恨みが先に出たんだとチェックすることが出来ると思います。


そして私はこれがいいのです。その人たちの気持ちも理解出来ます。三日間水を飲めなかったら、どれ程水が飲みたいでしょうか。カナンの地に入ることにしたのに12氏派が(偵察に)行ってきて「あ、私たちは入れない」と不信仰の報告をしたので、神様が怒り入ることが出来ないと言われた時に、それに対する失望、またそのために反乱も起こった事などを見て、この人たちの気持ちが充分に理解できて、私たちの現実とあまりに似ているのです。私たちの現実も本当に大変ですが、同時にその大変な状況でも信仰で答えることが、この状況がそんなに間違ってはいないのだなとよく考えたりします。それで私は民数記に対してとても感謝しています。


不従順と恨みと不平は神様の信仰と繋がるのだな、私が神様を信じられないからだと非常に深く悟った気がします。信じれば待つことが出来るのに、信じたら我慢することが出来るのに、何故なら神様は私に最も良いものを下さることを知っているのだから、信じれば我慢でき、喜んで付いていけるのに、この部分が足りなくなると私から先に不平が出て、疑いが生じ、不満が生じるんだな、この関係をはっきり振り返ることが出来ると思います。それでとても嬉しいです。


私はいつも喜んで休みなく喜んで、全ての事に感謝して行きたいのに、そうでない自分の姿をよく見ます。でもそのようにいつも喜んで全てに感謝しながら休まず祈祷する姿で、私がもう少し近づいて行けるんだな、私に恨みと不平が出たら、あ!こんな部分をチェックしてみないといけないのだと喜ぶ信仰、従順になりながらも犠牲になったと自分が損をしたように考えるのではなく、喜ぶことが出来る信仰、そんな姿に少しでも近づいたと思ってとても良いのです。嬉しいのです。



クリスチャンの言う聖霊、お父様が言われる聖霊


ーマタイ福音書リーダー: クリスチャンが言う聖霊とお父様のみ言葉での聖霊は違いがありますか。


ー2代王妃様: 

非常に難しい質問ですね。私たちにとって。2代王様はこの部分に対してカノナイズ(canonize)という作業があるのですが、はっきりと語られていません。色々な場面でお話しをされるのです。絵を描いて見せましょう。ここに神様がいらっしゃり、その下にお父様、イエス様、そして聖霊がいらっしゃり、これを三位一体と言うでしょう。


私たちが聖霊様を説明する時、ヨハネの福音書16章にあります。


 16:7しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。


「私が行けば聖霊が来られます。聖霊は私を助けて下さる霊です。」と16章で語られます。



2代王様は次のように説明されます。(三位一体の図を描いて)神様がいらっしゃり、ここに独り子神様の息子であられる真のお父様とイエス様がいらっしゃり、その次にここ聖霊様がいらっしゃいますが、神様から独り子が出て神様から聖霊が出て、矢印が中側に行きますね。

イエス様も聖霊様と一緒に働かれ、聖霊様も独り子であられる真のお父様と一緒に働かれ、このように話されます。ところで「ん?、これ私が知っている話だけれど...」と言うことが出来ますが、矢印が三位がお互いに一緒に行くんです。とても複雑です。これ(三位一体)のためにローマカトリックとギリシャ正教が分離したと言います。三位一体をどのように見るかによってですね。


それで真のお父様の霊が聖霊様の霊であると言う時は、2代王様は徹底して真のお父様と1つになられた聖霊様の姿を話される時、真のお父様の聖霊様の霊だと表現されるようです。

私が2代王様ではないので、こうだ!と言うのは難しいですが、私に教えて下さりキングスレポートでも一度このように話されました。この図で話されました。


私たちが原理講論で聖霊様の姿は女性神であると表現しますが、それは、エバがアダムを助ける人の立場でそのように対象の立場として女性神という表現を使うと見ます。だから聖霊様は徹底して独り子と共に助ける立場であり完全に一つ、そんな姿の三位一体を言いますね。それが真のお父様の霊、聖霊様だと表現されるのです。


キリスト教でも聖霊が来られたと表現をする時、それはイエス様のみ言葉と相反するものではありません。イエス様のみ言葉と同じです。

真のお父様の聖霊だ、イエス様の聖霊だという表現はキリスト教ではよく使わないと聞いていますが、2代王様はお父様の聖霊様だと話される時は、徹底してお父様とみ心を共にされ、み言葉を共にされ、また同役者、弁護者、聖書では弁護者という表現を使いますが、助ける人、助ける霊つまり「同じである」というのです。


お父様が肉身を持っていらっしゃった時はこんな概念を考える必要がありませんでした。

ところでお父様が霊界から多くの協助をしておられ、2代王様を通してお父様の伝統を私たちの目の前で見せて下さり、ずっと続いているので、また血統が続いているのでこのように三位一体を見て、私たちは聖霊をこのように見ているのです。


聖霊に関する表現は色々あります。「聖霊様は1+1+1ではなく、1 x 1 x 1である。3つのように見えますが結局は一つだ」というのです。また2代王様が三位一体を説明する時使う表現の中で、「神様は本体、太陽であり、そこから出る光は独り子であり、つまりイエス様と真のお父様の位置で、その光から感じる暖かさは聖霊様である」と表現されます。


そしてまた1つ、はっきりした事はお父様は本体論を語られながら、お父様は神様の精子から来られたと語られ、神様はお父様の体を使って働かれる、そうだから聖霊様は、お父様は肉身はいらっしゃいませんが、ずっと役事され、お父様の役事の証拠、お父様の聖霊様の姿、つまりお父様は肉身は亡くなられたのでお父様はいらっしゃらない!こうではなく、

お父様は聖霊、つまり聖なる霊としてずっといらっしゃり、私たちの日常で私たちのする事に共におられ役事されるその聖なる霊の主体

それもお父様の霊として私たちが見て、それを三位一体と表現するのです。


2代王様はこれに対して天一宮でも一番前に大きく絵を描かれましたね。「The Father Holy Spirit」と絵を描かれ前に張り付けましたね。この三人の方々は1 x 1 x 1で1つだということを強調されたのです。私も神学者でないので答えが合っているか分かりませんが、私が知っている限りではそうです。



セックスレスと夫婦の絶対性


ー愛と尊敬リーダー: 子供が欲しいのに配偶者のセックスレスで悩んでいる方に、愛と尊敬だけで解決できない現実問題に対して答えてあげられませんでした。


ー2代王妃様: 

結婚してもセックスが出来ない時がよくありますね。絶対性が出来ない時がよくあります。妊娠した時もそうですし、妻が生理の時もそうです。また妻が病気になることもあります。長い期間病気になることもあり、夫が病気になることもあります。人はどんなことが起こるかわかりませんから。子供が病気になることもあります。色んな事があるでしょう。一人で性欲を解決することもあるでしょう。そんな場合、夫婦だけのやり方が生じるでしょう。妻が妊娠すると初期には挿入してはいけません。安定期になると性関係をすることもできます。そんな事を夫婦が一緒に学んで夫は妻に同意を得てすることが出来ると良いですね。


男の人達の性欲がどれ程重要な部分なのか、これを通して夫はどれ程愛を感じるのか、妻は理解する必要がありかす。妻はそれを理解しないで「私がこんなに大変なのにどうして夫は私に強要するのか」こう考えてはいけません。そうなると心の門が閉じてしまうので、その部分に対して妻がよく理解する必要があるので、夫婦がお互いによく知って理解する必要があるのです。


ある人は言います。夫婦関係をしたい時、お皿に小さな玉を置いておきます。そして妻がその玉を取ったらその日は夫婦が愛すると約束します。またある人は熊のぬいぐるみをベッドの上に置いて、妻がぬいぐるみを持ったら夫婦が愛するというメッセージです。お互いに忙しくて時間が合わない時が多いですが、このような夫婦のサインを決めるのです。こんな場合もあると言います。


私が思うには対話が重要なようです。夫が本当に性関係が必要なんだな、妻が夫をどれ程愛しているのか夫が感じるために性関係が必要だという部分は女性にはとても不思議な部分です。理解できません。信仰が必要な部分です。本当です。女性には信仰が必要です。おかしいでしょ。男性には当然なことなのに、女性には「本当に?」大体がそうです。理解できません。


お父様は真の愛について本当に多く語られても、違う角度でまた聞いて、また聞かなければならないでしょう?似ています。女性たちはその部分を違う角度で沢山聞かなければなりません。

私も20年経ったので完全によくわかりました。ああ、そんなんだな。夫は本当に性関係を通してストレスが解消されて、私が本当に妻を愛しているというその信仰を、愛を受けるのだということを妻がまず頭で理解して体験する必要があります。短期間で出来るのではありませんが重要なことだと思います。ゆっくり解いて行けば出来ると思います。


セックスレス夫婦のような場合は、世界中の男性の中で日本人男性が性関係の頻度が一番低いと言います。不思議ですね。また同時にポルノが拡散化していますね。セックス人形も主流化する程に公園で散歩をしたり車に乗せたりします。他の人達が狂ってると考えても構わないという認識もあります。セックス人形を連れてレストランにも行き、セックス人形に良い服を着せるために盗みまでしたという記事を見たことがありますが、こんなことが拡散化しています。


セックスレス夫婦(30代半ば)を考えて見る時、原因は色々あるでしょうが、まず、浮気の疑いが考えられます。そうでなければポルノ中毒かも知れません。ポルノ中毒は私たちが考えるような単純なものより、日本のような場合を見ると、あるキャラクターと感情共有をする人もいます。

日本はジャンルがあると言いますが、ハードコアと言うそうです。ポルノを漫画化したものがあるそうですね。それが一つのジャンルです。それにハマった人達はそれだけ見ます。どんな自己正当化があるかと言うと、私は生きている女性を見なかったので堕落したのではない。私はポルノを見ていない。と自己正当化をするのを見ました。3番目に考えられるのは、ただ女性が怖いという場合があります。女性たちに沢山やられたり断られたりした場合があって怖がることがあります。それが長いなら固まっているかも知れません。そして国際家庭ならばお互い言葉がうまく通じなくて誤解が生じることもあります。


祝福を維持したいなら信頼されなければならないでしょう。多くの日本人男性を見ると心が閉ざされています。男らしくなることをとても否定的に見る文化があるように思えます。韓国の場合は軍隊文化がありますね。日本は軍隊が義務制ではないですね。日本人男性は女性的な方がとても多いです。


何故韓国ドラマが日本で人気があるのか、何故なら昭和時代の男性像を見せてくれると言うのです。昭和の時代が男性の力が強かった時、昭和時代の強い男性像を見せてくれるので、韓国ドラマが日本でとても流行したということを見て、そのくらい男性が男性的であることを見せてくれた時、それをやや悪く見なすような文化が日本にあります。だからその文化的背景を理解したら最も重要なことは、夫との性関係より、私が見るとき、この祝福を維持するために信頼をまず積むこと。夫が浮気問題やセックス中毒の問題があったり、そうでなければ女性にふられて、また他の問題があったとしても、女性が「私がしっかり受け止めよう」という決心がなければならないでしょう。


夫婦仲は良いのに子供が出来なくて流産を繰り返しつらい方に、私がこんな話をしたことがあります。神様が語られるのに、私はこのように考えます。これは本当に難しい言葉ではありますが、もし神様があなたに子供を下さらないとしても神様を愛することが出来ますか、と言う話をしたことがあります。若い夫婦にはとても残酷な話ですね。もちろん子供が生まれることは祝福です。でも子供がいないことは必ずしも呪いだとは言えないのです。


神様はラケルの胎をある期間閉ざされ、サムエルの母ハンナの胎も閉ざされたと言います。そのように子宮の状況がまた他の事を、「お前が今もっと(私の方に)来なさい。」とこのように神様は語られるのかも知れません。ところで私が今この道を歩んで行く気があるのかそれをはっきりしなければなりません。


「愛と尊敬」で6種類、夫が感じる尊敬の方法の中で事実、性は1番です。性はとても重要な部分ですが、尊敬にはまた他の5種類の面があります。感謝すること、尊重すること、夫を家長として認めること、など色々な尊敬する他の面があるため、夫の信頼を得るためにその部分を認め、また以前夫がその間、性についてどのように対処して来たのかに対することがあるのですぐに変えることは出来ません。その部分に対して決心も必要です。また神様を愛する心をまずより深くする必要があると思います。


以前似たようなケースの日韓カップルの相談を受けたことがありますが、その質問を初めて聞いた時、とても困りました。リーダーが「愛と尊敬」の授業でそんな質問を受けたらすごく慌てますよね。まず祈るのが良いでしょう。祈祷をして私がこの人(配偶者)を本当に包んであげるのか、子供がなくても私はこの祝福を守れるのか、そしてそれはどんな姿なのか、そんなことを祈祷して決着を付けなければならないでしょう。そしてもし、私に子供がいなくても神様は私の中にいらっしゃり、私を愛して下さるのを信じられるのか、そんなことを振り返りました。本当に簡単ではないですが、正解はないですね。



妻が夫を長男と表現すること


ー2代王妃様: 

女性たちは夫のことを長男と言うではないですか。女性たちは普通よく言う話の中で、「うちの長男は本当にひどく悩ませる。」と言いますが、夫たちはこの言葉が本当に嫌いだと2代王様は仰いました。何故ならそれはお母さんと性関係を持つと言うことになるのだから、非常に嫌います。とても変だし、こんな言葉自体が理解出来ないと言います。私が話した、息子を下さったという言葉は「神様が愛する息子」という意味でした。あるお母さんの息子という意味ではありませんでした。神様が愛する息子(夫)を下さったという言葉でした。それでその言葉がとても嫌いだと言うのです。言葉では言いませんがとても嫌いだと言うのです。ああ、私も大きく気づきました。あ、そうなんだな。私たち女性たちには良い表現でも男性たちは嫌いなんだな。それで男性、女性の違う点を学びました。面白いでしょう。



赤ちゃんの眠り


ー2代王妃様: 

うちの孫息子について嫁が話してくれたのですが、赤ちゃんが夜よく寝たと思ったのに起きる時期があるし、起きずによく寝る時期があるのですが、これは脳が成長しているということだそうですね。心配しなくても良いそうです。不思議ですね。最近の若い嫁はよく知ってますね。



聖霊大学クラスの助力者 


ー 天一国憲法リーダー: 天一国憲法を他の人に紹介する時、どのようにしたら理解できるかという観点でクラスを始めましたが、同じ内容の授業を繰り返すというジレンマに陥ってしまいました。志願する人がいなくて助力者無しで授業を進めたのですが、今回助力者についてのフィードバックを受けました。次回は授業に積極的な助力者を選定してより深みのある勉強をしなければと思いました。


ー2代王妃様: 

聖霊大学のフォーマット上、助力者を立てないと私が授業をするのに、その結実が何なのか、少しむなしくなる気がします。もちろん私たちがすること自体が、私たちがするのではなく、主がされることですね。それで私たちは主により良い結実を差し上げたいので(助力者を立てることを)強要と考えないで、その人により良い機会を与えると考えると良いと思います。私たちは、教会で働くこともそれが犠牲だと思うとやりたくなくなりますよね。でも私が参加することの出来る良い機会だと思えば、私が出来る程度やって、出来ないことは今は出来ないと言えるではないですか。次の後任者が来るまであなたがやりなさいというのではありません。だから良い機会になると思います。そのように考えてそんな気持ちで助力者を探したらどうでしょうか。やってみなければ分かりませんし、、多少プッシュしても、良く出来る基盤になるでしょう。助力者がリードすることに負担を感じていたらリーダーがフィードバックをしながら手伝うことも出来ます。


ー2代王妃様: 

(一冊の本を見せて)この本は「No-Drama Discipline」という本で、騒ぎを起こさずにしつけをしたり、脳についての説明もあります。新米のお父さんにお勧めです。

「How to Talk So Little Kids Will Listen」この本は新米のお母さんにお勧めです。技術的なしつけの方法の内容です。(韓国語版:「子供の感情が優先です」)


ー天一国憲法リーダー: もう一つだけお聞ききしたいんですが。いとこが天一国憲法日本語クラスのリーダーをしてみたいと言っているんです。聖霊大学で助力者として立て、天一国憲法の授業をさせるのが良いのか、それとも個人的に別個に教えてあげてするのが良いのかお聞きしたいです。コーディネーターは一度授業を一緒にやってみるのが良いと助言を下さいました。


ー2代王妃様: 

いとこが教えた経験があるのかわかりませんが、教えるということは知識があるだけで終わるのではないと思います。ご存知でしょうが、相手を配慮しなければならないし、チームメンバーの間で良くない点などを調整しないといけない部分もあり、リーダーという位置が細かい部分があります。天一国憲法を教えるのに、家庭の問題がある人がいればその問題について聞いてあげることが出来るそんなリーダーの姿も無ければなりません。だからリーダーというのは授業を一緒に聞いて終わるのではなく、先輩後輩のようでもあり、父と息子のようにもなります。私は基本的にコーディネーターの意見を勧めます。すぐに教えたら早いようだし、簡単なようですが、その人の霊的な人生を長く見たら、この人が教えた時良い経験をすることを願うではないですか。それでまず経験して見てからするのが良いと思います。


私も皆さんを推薦して見たり、リーダーを勧めたりもしますが、聖書の勉強を教えて見なさいと勧めた人がいたのです。その人は出来ないと言いました。何だかんだ理由をつけてやりません。それで私が「一対一弟子養育」教育を学ばせ、ひとりの人を教えるようにしました。その人は一対一でひとりの人を教えてから自信を持ってグループで教えることが出来るようになりました。いとこがお兄さんに習ったら自分も教えることが出来ると考えることができますが、でもぶつかって見ると違うことがあります。私が一対一養育を学ばせる前にリーダーを勧めた人を考えてみたら「あ、私がその人が熟してないのにプッシュし過ぎたな、何の報告もしないで震えて自信をなくしている人なのに私がよく理解しないでプッシュしたんだな」と思いました。


私たちは新しくリーダーを始める人が続けてやることを願いますね。それで速度は遅くても授業の中で助力者として経験して見て、教えて見ながら少しずつ整えてあげ、リーダーがする姿を見せながら教えたら、いとこが教える時、はるかに自信を持って出来るでしょう。緊張もしないで。それで一度授業に参加するようにするのが良いです。人数が多くない2~4人程度の小さな授業でも構いません。2代王様のみ言葉が思い浮かびます。私が仕事を早くしようとする時、「あなた、忘れないで!早いのは遅くて、遅いのは早いんだ!」



聖書の不義にみる血統転換


ー創造原理リーダー: アブラハムの妻サラについてお父様は原理的観点で蕩減復帰する過程だと仰いますが、反対にキリスト教徒たちの解釈は違います。どのように解釈するのが良いですか。


ー2代王妃様: 

お父様がそのように話されるなら、それが答えですね。

創世記は本当に理解するのが難しいです。お父様の原理のみ言葉がなければ本当に理解するのが難しいのが創世記です。カインとアベルの関係もそうですし、神様が弟の物だけ取ったらそれは怒るでしょう。お父さんとお母さんが私の贈り物を受け取らず弟の贈り物だけ受け取ったと考えて見てください。怒るでしょう。そうでしょう。


タマルも同じです。アブラハムがサラのことを私の妹だと言ったことも理解出来ません。ヤコブが豆のスープでお兄さんをだましてイサクから祝福を受けたことも理解出来ないことです。無神論者たちの言葉を聞いてみると、こんな聖書の話を理解出来ない、本当に狂った話だと言いますね。またロトが自分の娘たちと一夜を共にして子供を産んだというこんなことは、創世記の中でも多く論争の争点になるような、人間の常識では理解出来ない多くの話があります。

ところでお父様はそれを血統の問題として、蕩減復帰の問題として解き明かされ私たちに説明されたのです。そのため、原理がより偉大であり、私たちがそのような観点で創世記をより深く理解することが出来るようになるのです。それでお父様により感謝を捧げるのです。私たちは聖書をより近く綿密に見ることが出来るのです。


キリスト教でどんな説明をするのかと言うと、蕩減復帰的な立場で見るのではなく、イエス様の血統に出て来る女性たち、バテシバ(ソロモンの母)、ラケル、ルツ(異邦人)またイエス様の血統に関連した女性たちが、マタイの福音書に出てきます。5人出てきますか。タマルも問題のある女性でしょ。自分の義理の父と性関係を持ち赤ん坊を産み、マリアの場合も婚約者がいるのに妊娠して赤ん坊を産みますね。この5人の女性たちは全て問題があるのですね。イエス様の血統で。


ヤコブが噓をついたこととか、罪人も、ラハブも遊女でしたね。罪人たちもイエス様の血統に入れることによって、どんな人もすべての罪人も許すことが出来るイエス様。すべてを理解され許して下さり、そんな罪も無くすことが出来るイエス様であると、キリスト教では説明しますね。


蕩減原理的な立場で見ると、それは確実です。神様が人類をもう一度復帰するために、神様の血統をもう一度作るために、反対の経路としてこのようにサタンから奪って来る、そんな作業をされたんだということを私たちは理解することが出来るでしょう。


本当に原理は偉大であると思います。

聖書を読めば読むほどそう考えますが、最近サンクチュアリ教会(アメリカ)でも多くの新しい食口が訪れ、私たちが原理講義を日曜日ごとに一時間ずつ七回します。今回も原理講義を始めましたが、新しい食口がたくさん参加しました。原理講義を聞いて、あ、だから祝福を受けなければならないんだな。これが蕩減復帰であり、血統転換して、どんなふうに堕落して、などこんなことに対して本当に多くの証が出て来るんです。


今回2代王様の誕生日の時も、ある方が、この方は海兵でいつもリーダーでしたが、行く道を失っていたところ、2代王様に会い、何故神様が自分の人生の中心であり、教会に行くことが喜びなのかということがわかるようになったと言い、この方も今回の原理講義に参加しました。お父様の原理のみ言葉は本当に偉大なのだな。それなのに私たちはその方に再臨主として正しく侍ることが出来なかったのだな、と悔い改めをするようにもなります。そして私たちも沢山驚いたりします。わ、こんなに多くの人たちが来てお父様をメシアとして告白する日が来るんだなと、とても感激しています。



見捨てられたわれらの父


ーOUR FATHER FORSAKEN リーダー: 今回の聖霊大学の授業は2代王様の本「見捨てられた我らの父」を日本語に翻訳して読みながら討論する時間でした。2代王様と王妃様は、この本の重要なポイントをどのように見られるのかお聞きしたいです。


ー2代王妃様: ちょっと本が難しいですよね。う~ん、アメリカが悔い改めなけれならない。世界が悔い改めなければならない、という部分に焦点を合わせている本です。アメリカがどのようにして今のように悪くなってしまったか、また考え方によればアメリカを告発する本だとも言えます。今キリスト教が滅亡の道を行きつつあり、キリスト教が悔い改めなければいけない、ここに焦点を合わせていると見なければならないでしょう。そう思います。「悔い改めなければいけない」


アブラハムがソドムとゴモラについて神様に談判祈祷をするではないですか。義人50人がいれば許して下さいますか、と聞いて。後では5人まで下がりますね。(創世記18章22~33節)そのように神様が手を打つことが出来ないほど、この世に悪が沢山あるのに、5人中の一人として義人として立つことが出来るか、それを私たち自身に問いかける本だと思います。


うん、これは恐ろしい言葉だと思いますが、ヨハネの黙示録で22章14節を見ると、「自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。」という聖句がありますが、ここでどうして衣を洗うと幸いなんだろう。私が本当に理解できませんでした。洗うということは汚れたから洗うので、ヨハネの黙示録14章を見ると、殉教する者は幸いだという表現があります。殉教する者は衣を洗う者、つまり主のために命をかける者は幸いであるということです。何か、自殺爆弾テロとかでは絶対にありませんよ。殉教しなさいと言うのでもありません。質問された方~、そういうことではありませんよ。そんな覚悟でこのサタン世界と戦い、サタン世界で義人として私が本当に神様の前で、殉教者の心で戦う人は幸いだと言われているんだと突然私に感じられたんです。衣を洗うという表現が。


それで今アメリカもコロナのためとても大変な時期なので、考えて見れば悪が私たちを息が詰まるようにするのですね。息を吸うことが出来ない世の中で、事実私たちも憂鬱になり、私が出来ることは何もないのだな、力も抜けて、私がする小さなことで何が変わるだろうか、という疑いも湧くし、挫折するかも知れないし、憂鬱感に落ちるかも知れません。

でも、こんな時だからこそ主が私たちに下さるみ言葉は何だろう、もう一度、再臨主様という意味は何だろう、み言葉にもう一度依存する生き方、それに対して私たちがもう一度深く考え、また私がどんな義人の姿で主の前に立っているのか。これをチェックして見ながら、今難しい時間なのでまた神様と主により近づける時間であると考えます。私たちは、全てうまく行っている時は神様を良く考えないではないですか。ところで、今こんなに難しいほど、事実最も大変な時、義人はいないと言いますね。


私たちが最も大変な時、義人として立つために私はどうしなければいけないか、また私がみ言葉に依存しながら生きることは実体化出来るのか、この本(見捨てられた我らの父)は読んで挫折してすべて終わった、ではなく、それでもソドムとゴモラで義人を探したアブラハムの姿になろうと語っていると思います。これは私の考えです。



善悪の実は、神様が王であること


(創世記リーダーに対するコメント)

ー2代王妃様:

創世記は読むほど新しいでしょう、難しいですが。 私たちが聖書を読んで見ると多く悩みます。クリスチャンの解釈とお父様のみ言葉と相反する時、私はそれが相反すると考えました。これは間違っている。クリスチャンと違うようにお父様は語られた。例えば、堕落について、善悪の実の象徴に関して、あるクリスチャンの話ですが、私たちは間違った肉的な愛だったと学びましたね。でもこの方は、善悪の実は神様が王であることであると表現するんです。私はこれを一日中考えた後で理解出来ました。どうして善悪の実が神様が王であることなのか、何のことか。本当にわかりませんでした。


結局、これを感じました。もちろん、この人が本質を話しているのではありませんが、神様が許可しない愛を犯すことは神様が王であることを無視し否定することではないですか。これが事実霊的な堕落の中に一部分として含まれるのです。神様が王であることを、アダムとエバが軽んじたのです。そう考えながら悟ったのです。私はキリスト教徒の解釈とお父様のみ言葉がいつも衝突するとだけ考えていましたが。でも私が悟ったのは、あ、結局はある部分のことを言っているのだな。お父様が全体を語られるなら、キリスト教徒はそのある部分に対して言っているのだな。


お父様がとても明らかに語って下さる、信仰基台、実体基台のある部分を言っているのだな。私はそう感じました。例えば、お父様のみ言葉の中に、血統のために5人の罪人である女性が出てきますが、5人の女性のキリスト教的な解釈は、罪人もすべて抱くことが出来る血統を持った方がイエス様であられるという、その言葉も実は間違ってはいないのです。それもその部分でひとつの解釈なのです。この方はそれを蕩減歴史として見ないですが、蕩減歴史という、蕩減復帰というその状況の中で罪人というすべての女性を抱いて下さるのです。だからそれはここで含まれるんです。それでお父様が木全体を語られるならこの方は木の枝について話しているんだと考えるのです。それでお父様のみ言葉と相反しているとしてバッサリ切ってしまわなくてもいいと思いました。



神様が下さる困難の意味


(イントウ.クラスリーダーへのコメント)

ー2代王妃様: 

神様に物足りない(満たされない)ことがあると、その次の段階が解けないようです。み言葉を読むたびに消化不良です。消化不良になると食べ物がよく入りませんね。そのもたれた物が下がって行けば神様の食事を美味しく食べられるのに、詰まっていて、もたれて、入りません。そんな人達が多いですね。

神様はリーダーの難しい部分を聞いて使われますね。神様に栄光を捧げる生き方ですね。

イエス様は、ある人がめくらで難しい事を沢山経験したのは、神様に栄光を現わすためだとヨハネの福音書9章(1~5節)にありますが、私はこの聖句を見ながら、弟が体が悪かったのが理解できました。

霊的に神様が理解させて下さいました。似ていると思います。聖霊大学リーダーをしながら、皆簡単な状況でしているのはないですよね。各自の事情もありますし、難しい部分もありながらリーダーをしているので、そんな難しい事情を通して神様により栄光を表すように、あ、私に困難を下さるんだと考えることが出来れば、神様はその困難の材料を証の基盤としてしてくださると私は考えています。


リーダーの方々、とても苦労されながら教えていらっしゃり感謝します。明日の朝早く訓読会が本郷苑であるのでこれで終わろうと思います。



テネシー清平と祈祷


ーコーディネーター: ありがとうございます。最後に簡単にテネシーについて話して下さるようお願いいたします。


ー2代王妃様: 

テネシーについては2代王様が既に語っていらっしゃり、またテネシー清平の土地で語ってくださいますので私が付け足すことはないですよ。

今週木曜日に行かれます。そこに行くとお父様をとても感じられると仰います。2代王様はこそにいらっしゃる時、お父様が本当に喜ばれると語られます。

そこはある面では清平のように見えますし、巨文島、ヨスのようにも見えます。お父様がお好きな水、地形などがすべてそこにあったと言ってとても喜ばれ、またフンジン様のことも話され、女性のような興進(フンジン)様を(韓国の)偽の清平で作りました。しかしフンジン様は非常に強いアルファ男性でしたと言いながら、そしてお父様を弱くて何もできない、そんなお父様のように見せて、そして度々話されますが、お父様は誰よりも強い、アルファの中のアルファ男性だったと語られながら、このテネシー清平でお父様を証しすることが出来る場を作りたいと思っていらっしゃいます。そしてご自身(2代王様)も嬉しいので、そこに行かれ、そこで開拓され、それをとても好み喜んでいらっしゃいます。その姿を見ながら私も感謝しお父様をより近く感じています。


そして明日は本郷苑に行き訓読会を一緒にされ、キングスレポートフォーマットも変えられるでしょう。テネシー清平へ行かれながら変える機会になるようです。そんなことを話されるでしょう。そして明日水曜礼拝はキングスレポートのスタジオでされ、より近くで、テネシー清平に関して2代王様は韓国食口に話されるでしょう。


ー2代王妃様祈祷: 

愛と恵み深い天のお父様感謝いたします。今日聖霊大学の貴いリーダーの方々と助力者の方々と共にこのような貴い時間を送ることが出来感謝します。あなたが義人を探して私たちが善の心で心を尽くして主様を保護するそんな人達を探していらっしゃることを知っています。内外に騒々しく私たちの心が重くなって、私自信がやっていることが本当に何の影響も及ぼせない価値のないことだと感じる時、私たちは主様が歩まれた十字架の道と真のお父様が本当に一日一日この新しい地上で生活されながら、私たち一人一人を直接取られたように私たちを直接ここまで導いて下さったお父様、主様が、真のお父様が私たちを聖霊で今も私たちと共にいらっしゃり私たちを導いて下さることを信じております。


お父様、主様は栄光だけをお受け下さり、私たちが主様の道具となった時、主様がお喜びになり私たちも喜んで主様に付いて行くことが出来る、そんな姿になれることを、お父様、知っています。

2代王様はこのテネシー摂理を、復帰された清平をテネシーに立てるために沢山の精誠と祈祷を捧げているのを知っております。子供たちも心を一つにして2代王様が真のお父様を喜ばせようとされ、この復帰された清平でまた一緒に心を込めて祈祷し精誠を捧げる、そんな姿になるようにして下さい。あなたが立てて下さった後継者相続者であられる2代王様と一つとなった姿で進む時、あなたが真に喜ばれ、またあなたが立てて下さった代身者後継者が立つことの出来る主様に栄光をお返しすることが出来る姿になることができると知っております。私たちと共にいらっしゃることが出来るよう、私たちに知恵と、またこのような難しい状況の中で勇気を下さって、これから近づいている鐵の杖祝祭にもあなたが大きく祝福して下さい。


より多くの人たちが真の御父母様の文化を知り、またみ言葉を聞き、祝福を受け、証することの出来る役事が起こりますように、お父様、あなたが役事して下さいますように。もう一度、貴い時間に感謝しながら、すべての言葉を祝福中心家庭文亨進、文妖雅家庭の名前で報告申し上げます。

アージュ。

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