2022年11月3日木曜日

生まれも育ちもクリスチャンの 十字架贖罪論再考◆ 2022年 10月 16日 クリスチャン小関

生まれも育ちもクリスチャンの

十字架贖罪論再考 

2022年 10月 16日

クリスチャン小関

サンクチュアリ教徒、生まれも育ちもクリスチャンの十字架贖罪論再考20221016



クリスチャンから見たモーセの、青銅の蛇

 

みなさん、こんにちは。


小関雄一です。ふたたび皆さんお会いできまして嬉しく思います。


今日は私が幼い時から育ってきた、キリスト教の信仰についてお話をさせていただきたいと思います。


私は生まれた時から親に連れられて教会に通っておりましたので、気づいた時には教会の日曜学校の子供礼拝等に参加していました。


日曜学校の先生から聖書の物語をずっとお伺いしてきました。

聖書のノアの物語、アブラハムの物語、またモーセの物語などですね。

キリスト教において旧約聖書は何のために書かれているかというと、イエスキリストを表すために旧約聖書が記された。そういうことなんですね。


モーセの物語が有りますがモーセの歩みは実はイエスキリストの歩むべき象徴的な原形的な歩みをしたというわけです。


イエス様がご自身について証をされた時に、「モーセは私について書いたのである」と語られ、ご自身がモーセの原型路程を歩んでおられるだと、示されておられました。


実際、聖書のモーセの物語の中にはですね、イスラエル民族が荒野の中で不信仰に陥ってしまった際に、神は民に火の蛇を送られ、多くのイスラエルの民が噛まれて死ぬようになりました。


その時モーセが神に示された通りに、イスラエルの民の前で十字型の竿に青銅の蛇をかけて、それを不信の民の前に掲げました。


モーセがかかげたその青銅の蛇を仰ぎ見ることによって民は、火の蛇に噛まれるの災難から救われたという話があります。


その青銅の蛇はイエスキリストを暗示しています。

この理解は、キリスト教会でも有ります。統一原理においても同様の理解です。


クリスチャンにとってイエス様は神様そのもの


キリスト教徒にとってクリスチャンにとってイエス様という存在はどういう存在かと言いますと神様そのものなんですね。


三位一体という神についての理解がありまして

神様、聖霊様、そしてイエス様という三つの位格が一つとなっているという理解です。


イエス様は神の子という立場で、三位一体のうちの第二位格としておられる。

ですので、キリスト教徒、クリスチャンの理解として、イエス様は神であられるので、天地創造の頃から、宇宙と人類が創造される途中過程もすべて見ておられ、すべてご存知であられる。


そういう理解でイエス様というお方をとらえているわけですね。


しかしイスラエル民族の前にイエス様が現れたとき、当時のイスラエル民族、ユダヤ人から見たイエス様という存在は普通の人そのものの姿であったわけですね。


イエス様は普通な大工を営むユダヤ人の両親から生まれ、その息子が神の教えを説いている。そう捉えていたわけですね。

ですので今のキリスト教徒と当時のユダヤ教関係者やユダヤ人が捉えていたイエス様とは視点がだいぶ違ったわけです。


ユダヤ教指導者からするとイエス様は、当時の宗教界の秩序を乱す新しい教えを説く者、当時から見ると異端の教えを広めるものというそういう見方をされてしまったわけです。ユダヤ人指導者たちにとってはイエス様は生意気な若者そのものだった様です。


結局様イエス様は特にユダヤ教指導者層から排斥され、十字架の刑に追いやられたのです。


本来はイエス様という存在は、旧約聖書がそのものがイエス様証し、来臨を目的として書かれています。


何千年もの長い、神の準備の歴史を通してイスラエル民族の前に送られてきた方であったのですが、なんと当時の人々から排斥されてしまったのです。


イエス様の語る言葉には神の権威が働いていたので、人々の魂を救い病を癒やしました。

イエス様は当時の宗教人からすると、新しい次元の話を語る方だったのです。


当時のユダヤ教の指導者においては、一部の知恵ある指導者ニコデモなど、限られた一部の知恵の教師がイエス様の教えに感銘を受けて、夜間人々の目を避けて話を聞きにお伺いすることは有りました。しかし残念なことに、当時の多くのユダヤ教の指導者たちはイエス様を受け入れられず、神の願うように正しくお迎えする事が出来ませんでした。


指導者層は自らの教団における権威とか当時の現世的な利権、築いてきた宗教的な教え、それらを守ることを最優先してしまったがゆえに、人々の魂を救済する力ある言葉を語るイエスキリストという存在に対し排他心から十字架の道に追いやってしまったわけです。


このようなことは、現代を生きる私達の時代でも起こるかもしれないということなんですね。いまの宗教教団や、その中における様々な役職、経済的基盤など外面的に見れば順調で波風少なく運営している宗教組織、キリスト教以外の宗教も数々有ります。


しかし当時のイエスキリストのような、確かに人々を救う真理、福音の力を持っておられるお方が眼の前に現れた時には、それまでのすべての基盤や自分の名誉や役職、組織、そのようなものをすべて横に置いてでも、まずキリストを迎えなければならない。そのような姿勢であってこそ真実であると思います。


ゲッセマネの祈り


イエス様は在世当時ゲッセマネという場所で祈られつつ、もうご自分の真意を当時の社会、特にユダヤ教の指導者たちに伝えることが困難であると悟られた時にイエス様は十字架による救いの道への決意をなされたのでした。


ところで、イエス様は十字架の出来事を前にして、このように神様に祈られました。


「わが神わが神どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の意のままにではなく、神の御心のままになさってください」


このような聖書の記述が有りますよね。


このことについて、これまでのキリスト教においては、イエス様はご自身が多くの人々の犠牲の備え物となって血を流すということに対して恐れを感じ、人間的な弱さによってそのように祈られたのだと解釈されて来ました。


そのようなイエス様の姿こそ人間の肉体をまとって、私達人間と同じ低さに降りられ、弱さと苦しみを覚えられたのだと。だから私達はイエス様に親近感を得られるのだと。


しかし実はイエス様の心の内は、そのような次元の心の悩みではなかったのですね。


イエス様は実はご自分が地上に生きておられる時に、ご自分の相対となるご結婚相手となる存在を想定されていた、ということを知っていただきたいのです。


イエス様は先ほど申しましたように、今のキリスト教会においては三位一体の神そのものというふうに捉えられて、拝む対象となっておられますけれども、

当時2000年前のユダヤの地に前に来られた時には確かに今生きてる私達と同じ肉体と、また人生の日々を過ごしておられたイエスキリストであられたわけですね。


そして勿論イエスキリストは男性であり男性器も持っておられたわけです。


神様は人間に対し、身体の器官においては何ひとつ不要なものは設けられないという事をご存知だと思います。

イエス様にもそのような器官は確かに有りました。


ご自身のみ言葉におかれましても、他の女に対し誘惑の思いを寄せること、思うこと自体でも罪であるということを言っておられました。

すなわち「性」のことについても、戒めや教えを述べておられました。


イエス様が性の潔さについて戒められたのは、本来、性というのは神様が備えられた最も尊いもの、潔いもの、神聖なもので、本来神様が祝福されるべきものであったからです。


イエス様ご自身におかれましても、本来はユダヤ民族が神のみこころに沿って、イエス様ご自身を正しく迎える信仰姿勢で迎えられていたならば、その信仰の基盤を条件として、イエス様もご結婚相手をお迎えして、ご家庭、ご子孫を残される、そのような本来の救いの道があったということを感じてほしいんですね。


しかしその救いの道については、ご自分を迎える選民の信仰のなさ故に成し遂げられなかった。


そしてもう一つの救いの道、すなわちご自分が血を流し、神への供え物となって、第二次の救いの摂理として十字架における犠牲の供え物、人類の罪の贖いの道をイエス様は選ばれたわけです。


ですのでイエス様は本来ご自分が十字架の供え物になることを最初から願っておられたわけではなく、メシアとしてメシアの妻を迎えたならば、本来のメシア使命を行使され、メシアの子孫が続いたでしょう。


メシアがそこまで成し遂げられたならば、イエス様の弟子たちも結婚し家庭を持つことが、神から許され奨励されたことでしょう。


弟子たちはあくまでも自分たちの教師であるイエス様が歩まれたところまでは行くことができるが、それ以上の道は行くことができない。


そのような聖書のみことばがあります。


弟子はその師のようになれば良いのであり、その師以上の道まではに行くことはできないと。


ですので聖書の中においてパウロはこう述べています。


「信徒は出来るなら結婚しないで、パウロ自らのように生涯独身、ひとりでいることが一番良い」と言いました。


イエス様がもしご結婚され、家庭を持たれていたならば、当時の弟子たちも結婚をし、家庭を持つということが神の祝福される認められたものになってたはずなんですね。


ところがイエス様はご自分が十字架の犠牲の道、独身で十字架の供え物の犠牲の道に歩まれたが故に、

続く弟子たちも、またその後のキリスト教信徒もイエス様と同じような十字架の道を歩むことが最高の美徳とされたのでした。

自らの血を流して信仰の証を立てるという道です。


イエス様の十字架の血の贖いを信じる重要性


ところが今現在を生きる私たちにとって信仰をしたからといって極刑に付されるという環境がありますでしょうか?

今はそのような状況がほぼなくなってきております。


それは、今現代の時代はメシアであるキリストを備えものとして神の前に供え物として捧げるというというよりは、むしろキリストを私たちの王、王の王として迎える。

イエス様の本来の立場としてメシアをお迎えする、そういう時代になって来ている。

その事を今の世の中の状況を見て我々は悟っていかなければならないのではないかと思います。


しかしこれまでのキリスト教における信仰、イエス様の十字架による赦しの愛、その血による贖いを受け入れ信じて仰ぐことによって、その信仰により確かな聖霊を受ける。

この事はとても大事なことであり、そのことを通すべきであると思います。


私たちは教会生活、日常生活において神様、イエス様の聖霊によってその促しによってイエスの愛を身を持って行なう事が出来ます。


また兄弟姉妹との交わりのなかで、私たち自身の人間の罪の性質である高ぶりとか自己中心とかそのような性質も聖霊によって示され修正することが出来るようになります。


イエス様の十字架の血の贖いを信じ受け入れることによって信仰生活が末永く崩れることなく守られるのです。


信じる各人の心の中に、霊となったイエスキリストが住まわれてイエス様のお心を霊的に感じ取ることができるのですね。

そういう新たな感性は、十字架による血の贖いを受けることによって神様からの一方的な恵みによっていただくことができるのです。


ですので十字架による贖いの救いはイエス様についての第二次的な計画の救いではあったけれども、

それが歴史の事実として残され人類に与えられているということなのです。


ですので神様を求めるものはイエス様を信じることによる聖霊の内住の恵み、そのことを必ず通るべきであると思います。

そして再び来られるキリストを迎える準備をしてゆかなければならない。そのことを本当に思います。


では今日はここまでとさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。



【質疑応答の時間】



Q1:クリスチャンの方はイエスキリストを神様創造主だと捉えているのですか?


A:はい。クリスチャンはですね、イエス様は創造主であり、イエス様=神様である。という捉え方をしています。

ですのでイエス様につきましては、神様が人間の肉体を纏ってこられた神の子、すなわち普通の人間とは違う。という捉え方をしているわけなのです。


また聖書のなかでイエス様は在世当時、荒海の中の水の上を歩いたり、荒野においてみ教えを聞きに来た男女、子供を合わせて約2万人近くの民衆に対し、2つの魚と5つのパンを分けて、すべてのひとに給食されたなどの奇跡を行われました。

現代の人から観ると、そしてクリスチャンからするとイエス様は神そのものとして見えるわけです。


でも、私はイエス様は生身を持った普通の人間であって内面の霊性が優れていた、同じ人間であったという捉え方が自然だと思います。


奇跡的な現象へ人間もある程度は出来るかもしれません。


私達人間の中に本来宿っている霊的な本性としては、イエス様と同じようなキリストと同じようなものを持ってる。


ただし罪を抱えた人間はその本性が埋もれている。

そういう捉え方の方がイエス様がより親しくですね、イエス様を日々自らにお迎えしていきたい親近感のある心持ちになると思います。


罪を背負った持った人間は自分が罪人なので、イエス様を拝む対象の存在として思いやすいのですが、

本来のクリスチャンとしては、イエス様は拝む存在ではなく、イエス様を自分の心にお迎えしてイエス様のお心を感じ取れるものになる。

そういうことがクリスチャンとして大事ではないかなと思います。


ある例話になりますが、「塩狩峠」という作家の三浦綾子さんが書かれた実話に基づいた小説、映画ストーリーがあります。


冬の北海道、旭川の山合いの峠を走る列車が頂上付近でブレーキが故障し列車が暴走しはじめた時、その列車に乗り合わせていた、クリスチャンの永野さんという男性が、列車の車輪付近に自分の身を投じて列車の暴走を止め、そこに乗り合わせた多くの乗客の命を救った。という実話に基づいたストーリーがあります。


この方は当時、ご結婚を約束した自分の婚約者がおられたのに自らそのような行動を決断されました。


その方は、気違いになってそういうことをしたわけではなく、イエスキリストの福音を聞きクリスチャンになり、イエス様のお心が自分の身に染みてわかっていた方なんですね。

ですので自分がいざそのような危機的な状況に出会った時に、

自らの身を投じてでも、多くの人を救いたいというイエス様のお心を自ら思案もせずに、身体が自然にそう動いてしまうほどイエス様との霊の一体感というものがきっとその方に在ったのですね。


Q2:「イエスとまた出会う」とはどういうことでしょうか?


A:トルストイの物語に靴屋のマルティンという物語があります。

北欧の靴職人の物語です。

この方は靴職人で、真面目に人々の靴の修理をする仕事をしていました。

この方は、早期に奥さんそして子供を無くし、心に深い悲しみを持っていました。


ところが、彼は夜に聖書を読む習慣を持つようになりました。その聖書の言葉に彼自身、深い心の慰めを得ていました。

ある夜、彼の夢のなかでイエス様がマルティンに語りかけられました。

「マルティン、私はお前を愛している。明日、お前に会いにいくよ」

彼にはイエス様のお声がたしかに聞こえたのでした。


翌日、外はとても寒い吹雪の日でした。

仕事をしながら窓の外を眺めつつ、いくら待っても約束をくださったイエス様が現れません。


そんな中、窓の外でとても冷える中で雪かきをしている老人が見えました。彼は老人を部屋の中に招き入れ、熱いお茶をふるまいつつ和やかな会話を交わし、その老人を励まし、その老人はマルティンに感謝な思いを伝えました。



その後、こんどは窓の外にある婦人を見ました。この婦人は寒い中、暖かな充分な衣服も着れていない、子供抱えた母親でした。


彼女は自分が十分な食事がとれておらず、栄養不足のために自分の子供にお乳も与えることができず困っていました。

そこでマルティンは彼女を部屋に招き入れ、パンと温かいスープを彼女にふるまい、またマルティンの上着を彼女に与えました。


その母はその上着を自分の幼い子どもにそくるませて、涙をもって感謝しつつ去っていったのでした。


マルティンはイエス様がその日に現れなくても、あらゆる状況のなか、心から他の人々にそのような親切を尽くしたのでした。


その日彼が寝床につく頃に、再び確かなイエス様のお声を聞きました。


この様な言葉でした。


「マルティン、マルティン、今日私があなたに会いに来たのだよ。気づいていたかい?」


雪かきをしていた男性、食物に困り充分な着るものもなかった女性。それがイエス様だったのでした。


私たちが日常生活で出会う人々においても

出会う相手のその中に、イエス様がおられるかもしれない。


その魂の中にですね。

その出会う相手が幼い子どもかもしれない。

または日常に出会う、歩くのにも困っているお年寄りかもしれません。でもその中にイエスキリストが入られて、私たちの愛を見ておられるかもしれない。

そういうことなんです。


イエス様という存在は、いまも天界におられてご自身は、霊的には愛に満ちあふれた光り輝く発光体の力強い霊体を持っておられます。


しかしながら、そのような存在のお方というのは同時にですね、貧しい底辺の中であえぐ人々の心の中にも入っていける。その心の苦しみ悩みも瞬時に感じとれる大きな心を持っておられるわけです。そういう貧しい苦しんでいる人の心も手にとるようにわかるわけですね。


現代に生きる私たちにおいても、私たちのコミュニケーションの中に神様がイエス様が宿ってその中におられるのかもしれません。


イエス様は祈りと礼拝についてこのように語られています。


二人または三人で祈る中、その中に私は共にいる。

一人で祈るのも素晴らしいですけども、イエスキリストがおっしゃっているように二人または三人で神に対して祈る。


共に神様の恵みを語り合い分かち合う。

そのような真実のコミュニケーションの中に、イエスキリストが霊の姿を持って、その交わりの中心にこられる。


現在地上に生きてる私たちは霊の姿をなかなか見ることができないことが多いわけですけども、イエス様の霊的実在というのは実際あるんですね。


そして私たちが死んだ後に、イエス様の実在を自らの霊の目で実際に見て仰ぐことができると思いますね。


私たち地上で肉体を持ってる時は霊の目は滅多に開かれないということが多いんです。


でもむしろそのことこそが地上に肉体を纏って生きていることの意味かもしれない。


肉体の目には見えない。かすかに心に感じとれる神様の思いや、み心を感じ取り、この様な目の見えない盲目のような世の中、地上生活の中でも信仰でもってイエス様の存在を感じ取る。そして真実の愛の関係を作り上げる。

それを神様が御心としているのではないかと思います。


キリスト教の人、クリスチャンの方は、老人介護施設の仕事や看護師、お医者さんになることを好み、自からそういう道に進まれる方が多いわけですけども、

クリスチャンの方は自然と心ならずも日常生活、仕事生活にそのように現れているのではないかと思います。



Q3:よく新宿などの街中で「イエスキリストは救い主。信じれば救われます」などのマイクでのアナウンスをして巡回している人々がいますが、あの方たちはどういう方たちでしょうか?



A:はいそうですね。新宿とか繁華街などで、「イエスキリストを信じればあなたたちは救われます」と、単調な口調でおっしゃっておられる方がいます。


あの方たちもキリスト教信徒です。ただイエスキリストの再臨とその裁きのことを、強調して話しておられるのかなと思います。


確かに聖書においてイエスキリストは再臨される時に裁き主として来られるということは記されておりますが、その裁きのことについては後日統一教の信仰の面でもお伝えしてゆくと思いますが、

その裁きとは、私たちの心の中にある悪が、暗闇が裁かれる。


その裁きに対して悪と暗闇は恐れ、そして自分たちが明白とされることを恐れているわけです。


おっしゃっている繁華街などで聖書のアナウンスをされている放送は、人間個体そのものが裁かれて、地獄に行くというようなニュアンスでもって伝わってしまっているような感じがしますね。


統一原理からすればですね、すべての人は滅ぼされないんです。滅ぼすことが出来ないのです。


今現在はどんなに生活が荒れていても、神様がすべての人ひとりひとりに与えられた本性と命というのは等しく付与されているわけです。


神様からすれば一人の命でも失うことはできないのです。すべての人は等しく神様から愛されている永遠の命を持っている子どもであるのですね。


いつか神様はその暗闇と悪の法則に対して、神様の光で照らして明らかにされれば、おのずと悪の性質と暗闇は滅ぼされることとなります。


そして人間の本性、神の子としての本性を取り戻す道を備えておられる。それが神の裁きの日、審判の時であると思います。


聖書の中において、救いの順序として第一の死、第二の死という順序は記されており1000年王国の後でないと救われない魂などの記述がございますが、すべての人は等しく神様から本性が与えられている。


その本性を持った人間個人は、神様が最終的にはご自分のものとして取り戻してくださる。引き寄せてくださると思います。


街中で聖書をアナウンスをされている方は、人間自身そのものが滅ぼされるというふうなニュアンスでもって、話が伝わってしまっているかも知れないので、キリスト教について恐れを感じさせてしまっているかもしれません。


これからはクリスチャンが、神様の人間に対する本当の救いのみこころを、正しくストレートに伝えていかなければならないことを思います。



ご質問はここまででしょうか。

ありがとうございました。

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2022年10月31日月曜日

’22年10月9日_鉄のつえ自由祝祭礼拝「神様との契約、自由<2>アメリカよ、その油注ぎに目覚めよ 」文亨進二代王

2022年10月9日_鉄のつえ自由祝祭_日曜礼拝

神様との契約、自由<2>

アメリカよ、その油注ぎに目覚めよ

文亨進二代王

Freedom is a COVENANT (Sunday Service at True Parents Memorial 10/09/2022)

機械翻訳修正訳:三原



教会は暗闇時代に光を灯すべき



あれは誰だ?あの牧師は、ナチス・ドイツにいた。

あの牧師(マルティン・ニーメラー)はこう言いました、

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。」と。


マルティン・ニーメラー彼らが最初共産主義者を攻撃したとき


ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。

彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。


ナチスは社会主義者を連れて行った・・・

共産主義者は社会主義者が嫌いなのです。

中央集権的な政府を求めるという点では同じでも、2つの陣営があります。だから、共産主義者は社会主義者を排除するのです、競争相手だから。

だから、こんなことは言いたくないのですが、誰も彼らのために立ち上がりませんでした。

そして、ナチスは労働組合員を狙ったのです。覚えておいてください、人々は労働組合に所属していたので、彼らのために立ち上がることはできませんでした。

それからナチスはユダヤ人を狙ってやってきたので、人々は「私はユダヤ人ではない」と言いました。

それで、ナチスは牧師のところへ来たのですが、牧師のために立ち上がる人は誰もいなくなったのです。

そうでしょう?こういうことなのです、こうなるのです。


 聖書が教会を光と呼ぶとき、このようなことが起こるのです。


エペソ 3:21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

エペソ5:8あなたがたは、以前はやみ(暗闇)であったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―― 

5:13しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 5:14明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、

「眠っている者よ、起きなさい。

死人のなかから、立ち上がりなさい。

そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」


教会は暗闇の世界の光であるべきなのです、キリストの光を照らすのです。

「貧しい道を照らし、私たちの足元に着かせ」と言われたのですから。暗闇の中の光を照らすものなのです。

偽りの光であるエルサレムの光ではなく、神からの本当の光です。愛、正義、善意、勇気、などです。

もし法王(教会)がそれをしないのなら、どうなるのでしょう?神の真の光の唯一の擁護者が光を放たなくなったので、その文明はゆっくりと暗闇の中に消えていくでしょう。


彼らは暗闇(ナチス)を怒らせないように懐中電灯を消すことにしたのです。

本当に暗い部屋や暗い自然の道、ハイキングをしていて、あまりにも早く暗くなったとき、懐中電灯を持っていたのならば、その懐中電灯がどれほど素晴らしい助けになるでしょうか。

特にテネシー清平のような暗い場所では、マウンテンライオンがいます。

だから、夜中に山で立ち往生していると、夜食を食べたがっている子猫(マウンティンライオン)に出くわすかもしれないのです。


懐中電灯や携帯電話を持っていないと、何も見えない。そうでしょう?

もし夜間に活動するなら、暗視ゴーグルを持ち込めば、赤外線も使えるし、問題ないでしょう。しかし、懐中電灯がなければ、暗闇に飲まれてしまうのです。

そして、その暗闇の中で狩りをする捕食動物は殺し、盗み、破壊しようとするでしょう。

それと同じです。

そうです、「サタンは殺し、盗み、破壊するためにやってくる手先である」と書いてあるのです。


ヨハネ10:10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。


暴力の力で殺し、窃盗の力で盗み、そしてもちろん自然に破壊する。

これが社会主義や共産主義が常に行ってきたことです。

これはもちろん、単なる政治的イデオロギーではなく、単なる政治的思想でもなく、単なる哲学的考察でもないのです。

ある人が、いつも葉巻を吸いながら、ブランデーを飲みながら、あるいは何でもいいのですが、誰がこの深刻な領域(共産主義、社会主義)を持っているかということなのです。


米国は神の審判の崖っぷちにある


聖句をまだ読んでいませんでした。聖霊により聖書を読みます。

列王記を見ましょう。列王記下第4章、聖書を持っている人は、一緒に読んでください。

ある女性への天意、エリシャの時代、国が裁かれる時代の話です。

イスラエルは今、神から離れました。神との契約から外れたのです。彼らは結婚の約束を忘れました。イスラエルの彼らは霊的な姦淫、他の神々との姦淫を始めました。神との関係を失い始めたのです。するとどうでしょう、彼らは崩壊し始めたのです。

これは聖書の一節です、

4:1預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。 


これは古代の世界で起こっていたことです。イスラエル人にお金を借りていて、農夫が死んだので、この場合、捕食者が借金の返済として、その農夫の息子を奪いに来たということです。つまり父親が他のイスラエル人に対して抱えた負債を返済するために、息子たちが連れて行かれることになったということです。

そして、その負債を返済するのにその一部として奉仕することになりました。


ところで、イスラエル人が借金を持っている場合、7年目になれば、その借金を赦されなければなりませんでした。安息年に、負債を許さねばならないのです。皆さん、何の話か分かりますか?つまり、基本的に6年間働いて、7年目に、よし、もう十分やっただろう、赦すということです。 そして負債はここで支払われたのです。

それが、ここに書かれていることなのです。


列王記下4章2節~7節

 4:2エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。 4:3彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。 4:4そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。

 4:5彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。 4:6油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。 4:7そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。


つまり、神様は油を増やされたのです。それによって奇跡が起こり、神の恵みが増えて、この人は借金を返すことができたのです。


今、私たちが住んでいる国は、初心に戻って神から遠ざかっています(笑)。

特にミレニアム世代は、「神を信じるかどうかわからない」と言う人が大多数です。共産主義や社会主義を支持する人が54パーセントもいるなんて、信じられないくらい高い率です。

ですから、キリスト教の世界観に従うこと、イエス、キリスト教の世界観、旧約聖書の預言者など、聖書を中心に生活を形成するという考え方は、西洋では古くなってきています。

教会に行くと、最近は若い人をあまり見かけません。若い人が多いと、「進歩的な教会」という言葉を引用することが多いのですが、これは、「 悪魔的考えの教会」という意味です。


イエス様は愛であり、神様は愛の神です。しかし人々は悪によって、自分が良い感じになることでが良いのだと、そのイエス様を非難しています。

私達は、歴史を通して聖書を通して、神様を傷つけ、神様の怒りを刺激して、神様の審判が起きたことを見てきました。

旧約聖書にも、新約聖書の時代にもそれを見ました。

イエス様が殺され、第二神殿が破壊された後、イスラエルの民が追い出され審判された100年、2000年を見ました。


神様は忍耐強く、とても優しい方です。しかし「これ以上は、これ以上は」と神様はおっしゃる時があるのです。

何の話か分かりますか?


私は、アメリカが、まだその崖っぷちに立っていないことを祈ります。もちろん、私たちは皆、西洋のためにも祈っています。なぜなら、私たちがあの油注ぎを取り戻すことが非常に重要だからです。


それは簡単なことではありません。今、世界観全体の転換が必要だからです。なぜなら、社会があまりにも個人主義的になり、ポストモダニズムになり、相対主義的になり、聖書から遠く離れてしまったからです。

現代人は、部屋に閉じこもり、ビデオゲームに熱中し、ブラックボックスから出られなくなった獣のようになってしまったのです。外に出ず、日光を浴びず、運動せず、レスリングやMMA、柔術のようなハードなこともしない。そうですね?ただ芸能界で妄想を膨らませて楽しんで、ただ生きているだけなのです。



今の時代が革命の時代であるのなら


それでは、質問です。

ここには素晴らしい陸軍レンジャーの人がいるのですが、「革命の時代に戻ったら」という質問です。

建国の父たちが、ネットフリックスを「次の番組は何だ」と、毎日見ることができる小さなブラックボックスを持っていたと想像してみてください。

このブラックボックスは、 世界中で使われている 追跡・追跡システムであり、あなたを追跡することができるのです。居場所も知られています。このブラックボックスはGPSなのです。そうでしょ?このサタン・デバイスの中で全てが記録されるのです。


建国の父の時代(革命の時代)に、これがあったならばと想像してください。

そこらじゅう監視されています。顔認識によって、どこに行っても追跡されます。どんな森にいても、どこに隠れていても。もしも建国の父たちが、これを持っていたと想像してください。建国の父はイギリスに勝てたでしょうか?

分かりますか?

これが私からの質問です。

何故なら私達は今そのような状況だからです。

今日、現代は技術水準が高く、(追跡を逃れることは)まったくもって不可能に思えるからです。


実際、建国の創業者たちは、ブラックボックスに自分の発言をすべて記録されることを心配する必要はありませんでした。


平和的に抗議する人々に、司法制度による外的コントロールが行われています。

学校での性欲刺激反対、5歳からのポルノ禁止、  そのように「ノー」という人たちを国内テロリストとして指定することは簡単です。


ウォルマートで何回買い物したとか、どの棚から何回ボールチップを買ったとか、そのような全てが追跡され顔認識されます。狂気の沙汰です。そのような実験用ラットの立場なら、どうやって勝てるのでしょうか?どうしたら成功できますか?興味深い内容です。


シージェーが今日ここにいるかどうかは分かりませんが、彼はグリーンベレー特殊部隊です。月曜日に訓練をしてくれる予定です。

シージェーによると、国家権力を奪おうとする狂った人たちは皆、この技術を大いに信じているそうです。「ターミネーター」のロボットを作って、世界を支配できると思っているというのです。


しかし、どうでしょう?その技術もまた、壊れたり、故障したり、誤動作したりするのです。

これだけ優秀な科学者がいるのに、自動運転車の最初のテスト走行で何が起こったか?クラッシュして爆発しました。リチウムを含む電気電池は、水と接触すると非常に爆発しやすいことがわかったのです。フロリダで8万ドルもするテスラが、大雨の後、煙を上げて今にも爆発寸前になりました。 

その充電所に給電するには、もっと多くの炭素が必要なのは言うまでもありません。


また脱線しましたが、要は、建国の父たちが、そういう中で生きていることを想像してみてください。

全てのそのような技術が使えなくなり、あなたと敵の間にある唯一のものは、大きなナイフだけ、なるほどそれは非常に低い技術です。


ハイテクはとても強力に見えます。実際、とてつもない計算力、パワーです。しかし明らかに、それが故障することも知っていますね?

ですから、ハイテクだけがすべてではないのです。

もし、常に機能し、故障もせず、ミスもしないハイテク機器があったとしたら、多分、建国の父たちにチャンスはなかったでしょう。


神の契約、自由のための戦争、道徳的戦争


強姦、略奪のためにもたらされた戦争に、道徳的な目的はありません。

それは戦争の通常の歴史的な目的であり、文字通り資源を盗むことであり、女性や卵子など次世代を担う資源を盗むためです。それが歴史的現実なのです。

もちろん、聖書の神はそれに対して「ノー」と言い、例えば捕虜を強姦することなどは許さなかったことが分かります。


しかし重要なことは、建国の父たちが正当な目的のために戦ったということです。

彼らは邪悪な敵と戦うことになるのですが、それは善の目的のため、正しい善のためです。

強姦、略奪のために行くのではありません。自由という目的のため、つまり、神との契約という自由のために行くのです。

ですから、彼らは悪なる敵と戦うという目的のために、その意志の力と道徳的な力を持ち、内なる超自然的な力を持つようになるのです。私の内におられる方は、世の何よりも偉大です!アーメン。


この超自然的な力とは、神と聖霊の力なのです。

この重要な時代に、もし悪なる敵がすべての技術を持っていたとしても、最終的に技術が失敗することを私たちは知っています。

 

私たちの建国の父たちは、もし彼らがその時代にいたならば、どのように戦ったでしょうか?

そうです、すべての道徳の領域、技術の領域をもって悪なる敵は反対しています。しかし、繰り返しますが、建国の父は正義の大義をもって戦っているのです。そして、神様は建国の父と共におられるのです。これは非常に重要なことです、皆さん。


ただ油を注ぐということ


エリシャに指示されたこの女性は、必ずしも信じていなかったのです。

「もっと器を持ってきましょうか?」と、そうですね。

しかしエリシャが油を注ぎ始めると、奇跡が起こり始めたのです。

神が彼女に求めていることを実行に移し、それを実行に移すという、シンプルなものでした。

ただ「油を注ぐ」、それだけです。

「科学的にはありえないことだ」と言って、ただ座っていてはいけないのです。


本当に信じていいのか、あれこれと言うのではなく、そうです、ただ油を注げばいいのです。別の器が来たら、それをいっぱいにするのです。それだけでいいのです。

皆さん、何の話か分かりますか?


そして、ただ注ぎ続けるのです。多くの場合、そのような単純なことです。私はとてもプレッシャーを感じているとか、とても孤立していると感じているとか、とても攻撃されていると感じているとか、検閲されていると感じているとか・・・全世界が私に敵対しているように感じるし、彼らは私に訴訟で迫ってきて、全世界が私に敵対しているように感じるのです。しかし、神様が私たちに望んでいることは、単純なことなのです。ただただ油を注ぐことだったりするのです。


皆さん、私と一緒に、ただただ注ぎ続けてください。

何度も言いますが、そんな単純なことでも、プレッシャーを感じます。とても孤立しているように感じます。とても攻撃されて、検閲されていると感じます。訴訟され全世界を敵に回しているように感じます。

しかし、 神様が私たちに望んでいるのは、ただ油を注ぐことであったりするのです。

そして、その油を注ぐということは、それはただ信仰を持つことだと私は信じています。

なぜなら、そのことが油注ぎの量を増やし、油を増やし、油を売り、最終的には、家計全体の負債を返済することになるのです。

皆さん、何の話か分かりますか?これは超自然的な神が触れたということなのです。


23回もの派兵を経験したシージェーに話を聞きました。彼は月曜からここで訓練してくれます。

シージェーは23回もの異なる戦場を経験し、まさに戦争の惨状を目の当たりにしてきました。

彼はこう言っていました。「戦争の叫びは、とても霊的、スピリチュアルだ」、「時には、それが文字通り全てなのだ」と。

それは文字通り、それがあなたのすべてだと言うのです。

「それしかない、他には何もない。弾倉は空っぽ。敵は迫っている。・・・お前には神しかない。最後の時間だ。もう終わりだ」と。

しかし、どういうわけか、そこから抜け出した自分自身を発見するのです。目を覚ますのです。

「悪い夢ではなかった。神がそこから救い出してくれたのだ!」


そうです。アメリカは神との契約や関係に戻るのでしょうか?

油を注ぐことに戻るのでしょうか?

それとも、「神様、もう誰も残っていません。アメリカにはもう石油があるかどうか分かりません。」と言うのでしょうか?


私たちは、自分たちが処理できる石油をたくさん持っていることを知っています。

私たちはエネルギー生産とガス生産のナンバーワンになることが出来ることを知っています。私はどこに行くかを知っています(笑)。


アメリカ、自由の契約のために油を注がれた者たち


人々は、自分たちが神によって油を注がれたことを、召命されたことを覚えているでしょうか?

人々は、自由がどこから来るのかを覚えているでしょうか?

人々は、自由という契約を覚えているでしょうか?

かって私達は紅海で脅威に曝されて、その劇的な道を越えてきたのです。

私達は、このような約束の地へやってきたのです。


アメリカは、その油を注がれたことを、神との契約関係を思い出すでしょうか?

その重要な結婚は、霊的なものでした。それは資源ではありません。霊的なものでした。それは契約であり約束だったのです。

もしあなたが結婚を救いたければ、約束に戻ることがどれほど重要でしょうか。

皆さん、それは本当ですか?

どれだけの人がそれを感じてたでしょうか?

手を挙げないでください(笑)。


そう、私たちは約束、その油注ぎに戻らなければなりません。

これが、この国が生まれた理由であり、結婚の理由であり、この地が自由な家庭の土地となった理由、あの(自由の)契約が実証され、奉献された理由なのです。


とてつもない避難所、人々が集まってき、世界のどこでも経験できないような自由という神の贈り物を祝う場所なのです。

そうでしょう?

私たちはこれを取り戻すことが重要なのです。とても重要なことです。


人々は「やれやれ、難しすぎる、聖書は実現しない、あれはオブジェだ、トランプは今は大統領ではない」と思っています。


皆さん、私たちがすべきことは油を注ぐことです。

水差しを傾けて油を注ぐだけです。

時には、それが私たちがしなければならないすべてです。


信仰を持ち、油を注ぎ、少しの信仰で油を注ぎ、そうすると、神様は掛け算をしてくださるのです。心に再び油を注がれ始め、解放の自由という活気に満ちた流れの中で、心情の火が燃え噴き始めるのです。

世界中の人々が目覚め始めたのです。

人々は精神的に鍛えられますが、再びそれを感じ始めます。

この絶望的な時に、神に召されたような、神の存在を感じような、そのよう感覚をみなが取り戻しています。アーメン


結婚の誓約が揺らいでいるときに、その元に戻ることがどれほど大切でしょうか。

その最初の約束に戻り、

そして、もう一度、あなたと相手を愛し、

そしてもう一度、お互いに愛情という感情を再び作り出すのです。アーメン

彼らは皆、私たちの歴史を曇らせ傷つけられたという感情を持っています。

そして、神様が私たちに与えてくれたすべての贈り物に対して、再び愛情という感情を抱くようになるのです。


この感覚は、アメリカ人だけでなく、ヨーロッパも同じです。

プーチンは左手にウォッカを持ち柔道着を着てノーシャツのまま馬に乗って、毎日ミサイルを頭上に掲げて走っているのですから(笑)。


そして、習近平は法輪功の人たちを収穫しています。法輪功の人達がこのフェスティバルに来ています、皆さん、挨拶をしてください。

彼らは反共産主義者なので、習近平に狩られているのです。彼らはグローバルな、あるいは政治的な他の種類の組織ではありません。この人達は反共産主義者なのです。

法輪功の人たちは、刑務所の中で殺され、レイプされ、臓器が摘出されているのです。彼らの多くはベジタリアンなので、中国の臓器売買での価格が高いからです。


それだから、このように法輪功の人たちは激しく狩られ、激しく迫害されているのです。彼らはとても良い人たちなのです。ちょっと挨拶をしてください。

彼らは仏教徒で、2、3年前は私達が取り組んでいた憲法修正第2条についてあまり理解していませんでした。

しかし、今では彼らも善良な人々も暴政に「ノー」と言える能力を持たなければならない、鉄のつえは悪に対してノーと言える能力、善を守る能力であると理解し始めています。


聖書で覚えているように、神と武器、兵器との間にどんな問題があるのでしょうか?ヤハウェの神は炎の剣を創造しました。それは美しい剣、驚くべき剣、防御の剣であり、栄光の豪華な美しい剣です。神は防衛のために炎の剣を創造したのです。


人間が堕落した後、炎の剣は使われなかったことに注目してください。追い詰めて殺しませんでした。皆さん、それに気づきましたか?それは防御のためだったのです。

ですから、どうして、なぜ、鉄のつえはAR-15なのですか?どうして AK18、AK47ではないのですか?


なぜAKの話をするのかというと、AKは共産主義の下で支配のために開発されたものだからです。

良い技術は、多くのシステムを作ります。しかし、その意図は何ですか?その背後にある精神は何ですか?

AKを見下してるわけではありません。私もAKを持ってますし、AKも愛しています。

しかし、私が言っているのはその精神であることは理解いただけるでしょう。


アメリカ空軍の武器は防衛の目的で使われ、解放と自由を守るためのものだったのです。

しかし、残念ながらサウジアラビアが攻撃した911事件のように、それが誤って使われてしまったのです。(統一教会の)創設者はこのイラク戦争に反対していました。


しかし重要な事は、20世紀、20世紀の初期は、アメリカ軍は自由のために立ち上がっていたということです。


政治家がイラクやアフガニスタンを標準化し、政治家が金儲けをしても、彼ら軍隊は善良で、正しいことをし、成長し、国のために奉仕し、自由のために戦っていると信じているのです。

それは指導者の罪なのです。そうですね?


契約の油注ぎ、再び自由の炎となれ


しかし、重要なことは、この種の装身具は、市民が悪に「ノー」と言える能力であり、神様がエデンを守ったように、今の堕落した罪深い反抗的な人間から自分自身を守るためのものである、ということなのです。アーメン。

何の話か分かりますか?


ですから、私たちはアメリカが油注ぎを取り戻せるように祈ります。

同時に、自分たちが何者なのか、私たちが何者であるか、そして、私たちは神様との契約の関係にあることを思い出せるように祈ります。


全能の神です。その神様との関係を通して、私たちを、世を受け継ぐ者として、人として成長し、家族を増やし、この地を支配し従わせるようにされました。その主権と支配の祝福が人類に与えられたのです。


そして、アメリカはこの建国の原則に立ち返り、神様との関係、私たちが自由の契約の王であり、祭司であり、守護者であることを理解しなければならないのです。

なぜなら、もし私たちがこれを理解しなければ、何が起こるかわからないからです。


闇が私たちを圧倒することでしょう。

しかしエリシャの時も、闇と暴政、背信の時であり、すべての国が崩れ、すべての敵が強くなり、イスラエルは追い詰められていたのです。

しかし、神様は奇跡を行い、油注ぎの油を増やし、信仰を増やしました。

そして、人の心を一人一人変えていかれました。そして、

その一人一人が何倍にもなっていきました。

聖書に出てくるように、すべての器が満たされ、何倍にもなるのです。

また一人増え、また一人増えて山火事のように広がっていくのです。

自分が誰なのか、自分は何なのか、

私たちが生まれてきた基本原理は何なのか、

それがどれほど尊く、どれほど大切なのか、

もう一度思い出すように人々の間に広がっていくのです。

どうぞ、ともに祈って下さい。


- おわり -