2022年11月3日木曜日

生まれも育ちもクリスチャンの 十字架贖罪論再考◆ 2022年 10月 16日 クリスチャン小関

生まれも育ちもクリスチャンの

十字架贖罪論再考 

2022年 10月 16日

クリスチャン小関

サンクチュアリ教徒、生まれも育ちもクリスチャンの十字架贖罪論再考20221016



クリスチャンから見たモーセの、青銅の蛇

 

みなさん、こんにちは。


小関雄一です。ふたたび皆さんお会いできまして嬉しく思います。


今日は私が幼い時から育ってきた、キリスト教の信仰についてお話をさせていただきたいと思います。


私は生まれた時から親に連れられて教会に通っておりましたので、気づいた時には教会の日曜学校の子供礼拝等に参加していました。


日曜学校の先生から聖書の物語をずっとお伺いしてきました。

聖書のノアの物語、アブラハムの物語、またモーセの物語などですね。

キリスト教において旧約聖書は何のために書かれているかというと、イエスキリストを表すために旧約聖書が記された。そういうことなんですね。


モーセの物語が有りますがモーセの歩みは実はイエスキリストの歩むべき象徴的な原形的な歩みをしたというわけです。


イエス様がご自身について証をされた時に、「モーセは私について書いたのである」と語られ、ご自身がモーセの原型路程を歩んでおられるだと、示されておられました。


実際、聖書のモーセの物語の中にはですね、イスラエル民族が荒野の中で不信仰に陥ってしまった際に、神は民に火の蛇を送られ、多くのイスラエルの民が噛まれて死ぬようになりました。


その時モーセが神に示された通りに、イスラエルの民の前で十字型の竿に青銅の蛇をかけて、それを不信の民の前に掲げました。


モーセがかかげたその青銅の蛇を仰ぎ見ることによって民は、火の蛇に噛まれるの災難から救われたという話があります。


その青銅の蛇はイエスキリストを暗示しています。

この理解は、キリスト教会でも有ります。統一原理においても同様の理解です。


クリスチャンにとってイエス様は神様そのもの


キリスト教徒にとってクリスチャンにとってイエス様という存在はどういう存在かと言いますと神様そのものなんですね。


三位一体という神についての理解がありまして

神様、聖霊様、そしてイエス様という三つの位格が一つとなっているという理解です。


イエス様は神の子という立場で、三位一体のうちの第二位格としておられる。

ですので、キリスト教徒、クリスチャンの理解として、イエス様は神であられるので、天地創造の頃から、宇宙と人類が創造される途中過程もすべて見ておられ、すべてご存知であられる。


そういう理解でイエス様というお方をとらえているわけですね。


しかしイスラエル民族の前にイエス様が現れたとき、当時のイスラエル民族、ユダヤ人から見たイエス様という存在は普通の人そのものの姿であったわけですね。


イエス様は普通な大工を営むユダヤ人の両親から生まれ、その息子が神の教えを説いている。そう捉えていたわけですね。

ですので今のキリスト教徒と当時のユダヤ教関係者やユダヤ人が捉えていたイエス様とは視点がだいぶ違ったわけです。


ユダヤ教指導者からするとイエス様は、当時の宗教界の秩序を乱す新しい教えを説く者、当時から見ると異端の教えを広めるものというそういう見方をされてしまったわけです。ユダヤ人指導者たちにとってはイエス様は生意気な若者そのものだった様です。


結局様イエス様は特にユダヤ教指導者層から排斥され、十字架の刑に追いやられたのです。


本来はイエス様という存在は、旧約聖書がそのものがイエス様証し、来臨を目的として書かれています。


何千年もの長い、神の準備の歴史を通してイスラエル民族の前に送られてきた方であったのですが、なんと当時の人々から排斥されてしまったのです。


イエス様の語る言葉には神の権威が働いていたので、人々の魂を救い病を癒やしました。

イエス様は当時の宗教人からすると、新しい次元の話を語る方だったのです。


当時のユダヤ教の指導者においては、一部の知恵ある指導者ニコデモなど、限られた一部の知恵の教師がイエス様の教えに感銘を受けて、夜間人々の目を避けて話を聞きにお伺いすることは有りました。しかし残念なことに、当時の多くのユダヤ教の指導者たちはイエス様を受け入れられず、神の願うように正しくお迎えする事が出来ませんでした。


指導者層は自らの教団における権威とか当時の現世的な利権、築いてきた宗教的な教え、それらを守ることを最優先してしまったがゆえに、人々の魂を救済する力ある言葉を語るイエスキリストという存在に対し排他心から十字架の道に追いやってしまったわけです。


このようなことは、現代を生きる私達の時代でも起こるかもしれないということなんですね。いまの宗教教団や、その中における様々な役職、経済的基盤など外面的に見れば順調で波風少なく運営している宗教組織、キリスト教以外の宗教も数々有ります。


しかし当時のイエスキリストのような、確かに人々を救う真理、福音の力を持っておられるお方が眼の前に現れた時には、それまでのすべての基盤や自分の名誉や役職、組織、そのようなものをすべて横に置いてでも、まずキリストを迎えなければならない。そのような姿勢であってこそ真実であると思います。


ゲッセマネの祈り


イエス様は在世当時ゲッセマネという場所で祈られつつ、もうご自分の真意を当時の社会、特にユダヤ教の指導者たちに伝えることが困難であると悟られた時にイエス様は十字架による救いの道への決意をなされたのでした。


ところで、イエス様は十字架の出来事を前にして、このように神様に祈られました。


「わが神わが神どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の意のままにではなく、神の御心のままになさってください」


このような聖書の記述が有りますよね。


このことについて、これまでのキリスト教においては、イエス様はご自身が多くの人々の犠牲の備え物となって血を流すということに対して恐れを感じ、人間的な弱さによってそのように祈られたのだと解釈されて来ました。


そのようなイエス様の姿こそ人間の肉体をまとって、私達人間と同じ低さに降りられ、弱さと苦しみを覚えられたのだと。だから私達はイエス様に親近感を得られるのだと。


しかし実はイエス様の心の内は、そのような次元の心の悩みではなかったのですね。


イエス様は実はご自分が地上に生きておられる時に、ご自分の相対となるご結婚相手となる存在を想定されていた、ということを知っていただきたいのです。


イエス様は先ほど申しましたように、今のキリスト教会においては三位一体の神そのものというふうに捉えられて、拝む対象となっておられますけれども、

当時2000年前のユダヤの地に前に来られた時には確かに今生きてる私達と同じ肉体と、また人生の日々を過ごしておられたイエスキリストであられたわけですね。


そして勿論イエスキリストは男性であり男性器も持っておられたわけです。


神様は人間に対し、身体の器官においては何ひとつ不要なものは設けられないという事をご存知だと思います。

イエス様にもそのような器官は確かに有りました。


ご自身のみ言葉におかれましても、他の女に対し誘惑の思いを寄せること、思うこと自体でも罪であるということを言っておられました。

すなわち「性」のことについても、戒めや教えを述べておられました。


イエス様が性の潔さについて戒められたのは、本来、性というのは神様が備えられた最も尊いもの、潔いもの、神聖なもので、本来神様が祝福されるべきものであったからです。


イエス様ご自身におかれましても、本来はユダヤ民族が神のみこころに沿って、イエス様ご自身を正しく迎える信仰姿勢で迎えられていたならば、その信仰の基盤を条件として、イエス様もご結婚相手をお迎えして、ご家庭、ご子孫を残される、そのような本来の救いの道があったということを感じてほしいんですね。


しかしその救いの道については、ご自分を迎える選民の信仰のなさ故に成し遂げられなかった。


そしてもう一つの救いの道、すなわちご自分が血を流し、神への供え物となって、第二次の救いの摂理として十字架における犠牲の供え物、人類の罪の贖いの道をイエス様は選ばれたわけです。


ですのでイエス様は本来ご自分が十字架の供え物になることを最初から願っておられたわけではなく、メシアとしてメシアの妻を迎えたならば、本来のメシア使命を行使され、メシアの子孫が続いたでしょう。


メシアがそこまで成し遂げられたならば、イエス様の弟子たちも結婚し家庭を持つことが、神から許され奨励されたことでしょう。


弟子たちはあくまでも自分たちの教師であるイエス様が歩まれたところまでは行くことができるが、それ以上の道は行くことができない。


そのような聖書のみことばがあります。


弟子はその師のようになれば良いのであり、その師以上の道まではに行くことはできないと。


ですので聖書の中においてパウロはこう述べています。


「信徒は出来るなら結婚しないで、パウロ自らのように生涯独身、ひとりでいることが一番良い」と言いました。


イエス様がもしご結婚され、家庭を持たれていたならば、当時の弟子たちも結婚をし、家庭を持つということが神の祝福される認められたものになってたはずなんですね。


ところがイエス様はご自分が十字架の犠牲の道、独身で十字架の供え物の犠牲の道に歩まれたが故に、

続く弟子たちも、またその後のキリスト教信徒もイエス様と同じような十字架の道を歩むことが最高の美徳とされたのでした。

自らの血を流して信仰の証を立てるという道です。


イエス様の十字架の血の贖いを信じる重要性


ところが今現在を生きる私たちにとって信仰をしたからといって極刑に付されるという環境がありますでしょうか?

今はそのような状況がほぼなくなってきております。


それは、今現代の時代はメシアであるキリストを備えものとして神の前に供え物として捧げるというというよりは、むしろキリストを私たちの王、王の王として迎える。

イエス様の本来の立場としてメシアをお迎えする、そういう時代になって来ている。

その事を今の世の中の状況を見て我々は悟っていかなければならないのではないかと思います。


しかしこれまでのキリスト教における信仰、イエス様の十字架による赦しの愛、その血による贖いを受け入れ信じて仰ぐことによって、その信仰により確かな聖霊を受ける。

この事はとても大事なことであり、そのことを通すべきであると思います。


私たちは教会生活、日常生活において神様、イエス様の聖霊によってその促しによってイエスの愛を身を持って行なう事が出来ます。


また兄弟姉妹との交わりのなかで、私たち自身の人間の罪の性質である高ぶりとか自己中心とかそのような性質も聖霊によって示され修正することが出来るようになります。


イエス様の十字架の血の贖いを信じ受け入れることによって信仰生活が末永く崩れることなく守られるのです。


信じる各人の心の中に、霊となったイエスキリストが住まわれてイエス様のお心を霊的に感じ取ることができるのですね。

そういう新たな感性は、十字架による血の贖いを受けることによって神様からの一方的な恵みによっていただくことができるのです。


ですので十字架による贖いの救いはイエス様についての第二次的な計画の救いではあったけれども、

それが歴史の事実として残され人類に与えられているということなのです。


ですので神様を求めるものはイエス様を信じることによる聖霊の内住の恵み、そのことを必ず通るべきであると思います。

そして再び来られるキリストを迎える準備をしてゆかなければならない。そのことを本当に思います。


では今日はここまでとさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。



【質疑応答の時間】



Q1:クリスチャンの方はイエスキリストを神様創造主だと捉えているのですか?


A:はい。クリスチャンはですね、イエス様は創造主であり、イエス様=神様である。という捉え方をしています。

ですのでイエス様につきましては、神様が人間の肉体を纏ってこられた神の子、すなわち普通の人間とは違う。という捉え方をしているわけなのです。


また聖書のなかでイエス様は在世当時、荒海の中の水の上を歩いたり、荒野においてみ教えを聞きに来た男女、子供を合わせて約2万人近くの民衆に対し、2つの魚と5つのパンを分けて、すべてのひとに給食されたなどの奇跡を行われました。

現代の人から観ると、そしてクリスチャンからするとイエス様は神そのものとして見えるわけです。


でも、私はイエス様は生身を持った普通の人間であって内面の霊性が優れていた、同じ人間であったという捉え方が自然だと思います。


奇跡的な現象へ人間もある程度は出来るかもしれません。


私達人間の中に本来宿っている霊的な本性としては、イエス様と同じようなキリストと同じようなものを持ってる。


ただし罪を抱えた人間はその本性が埋もれている。

そういう捉え方の方がイエス様がより親しくですね、イエス様を日々自らにお迎えしていきたい親近感のある心持ちになると思います。


罪を背負った持った人間は自分が罪人なので、イエス様を拝む対象の存在として思いやすいのですが、

本来のクリスチャンとしては、イエス様は拝む存在ではなく、イエス様を自分の心にお迎えしてイエス様のお心を感じ取れるものになる。

そういうことがクリスチャンとして大事ではないかなと思います。


ある例話になりますが、「塩狩峠」という作家の三浦綾子さんが書かれた実話に基づいた小説、映画ストーリーがあります。


冬の北海道、旭川の山合いの峠を走る列車が頂上付近でブレーキが故障し列車が暴走しはじめた時、その列車に乗り合わせていた、クリスチャンの永野さんという男性が、列車の車輪付近に自分の身を投じて列車の暴走を止め、そこに乗り合わせた多くの乗客の命を救った。という実話に基づいたストーリーがあります。


この方は当時、ご結婚を約束した自分の婚約者がおられたのに自らそのような行動を決断されました。


その方は、気違いになってそういうことをしたわけではなく、イエスキリストの福音を聞きクリスチャンになり、イエス様のお心が自分の身に染みてわかっていた方なんですね。

ですので自分がいざそのような危機的な状況に出会った時に、

自らの身を投じてでも、多くの人を救いたいというイエス様のお心を自ら思案もせずに、身体が自然にそう動いてしまうほどイエス様との霊の一体感というものがきっとその方に在ったのですね。


Q2:「イエスとまた出会う」とはどういうことでしょうか?


A:トルストイの物語に靴屋のマルティンという物語があります。

北欧の靴職人の物語です。

この方は靴職人で、真面目に人々の靴の修理をする仕事をしていました。

この方は、早期に奥さんそして子供を無くし、心に深い悲しみを持っていました。


ところが、彼は夜に聖書を読む習慣を持つようになりました。その聖書の言葉に彼自身、深い心の慰めを得ていました。

ある夜、彼の夢のなかでイエス様がマルティンに語りかけられました。

「マルティン、私はお前を愛している。明日、お前に会いにいくよ」

彼にはイエス様のお声がたしかに聞こえたのでした。


翌日、外はとても寒い吹雪の日でした。

仕事をしながら窓の外を眺めつつ、いくら待っても約束をくださったイエス様が現れません。


そんな中、窓の外でとても冷える中で雪かきをしている老人が見えました。彼は老人を部屋の中に招き入れ、熱いお茶をふるまいつつ和やかな会話を交わし、その老人を励まし、その老人はマルティンに感謝な思いを伝えました。



その後、こんどは窓の外にある婦人を見ました。この婦人は寒い中、暖かな充分な衣服も着れていない、子供抱えた母親でした。


彼女は自分が十分な食事がとれておらず、栄養不足のために自分の子供にお乳も与えることができず困っていました。

そこでマルティンは彼女を部屋に招き入れ、パンと温かいスープを彼女にふるまい、またマルティンの上着を彼女に与えました。


その母はその上着を自分の幼い子どもにそくるませて、涙をもって感謝しつつ去っていったのでした。


マルティンはイエス様がその日に現れなくても、あらゆる状況のなか、心から他の人々にそのような親切を尽くしたのでした。


その日彼が寝床につく頃に、再び確かなイエス様のお声を聞きました。


この様な言葉でした。


「マルティン、マルティン、今日私があなたに会いに来たのだよ。気づいていたかい?」


雪かきをしていた男性、食物に困り充分な着るものもなかった女性。それがイエス様だったのでした。


私たちが日常生活で出会う人々においても

出会う相手のその中に、イエス様がおられるかもしれない。


その魂の中にですね。

その出会う相手が幼い子どもかもしれない。

または日常に出会う、歩くのにも困っているお年寄りかもしれません。でもその中にイエスキリストが入られて、私たちの愛を見ておられるかもしれない。

そういうことなんです。


イエス様という存在は、いまも天界におられてご自身は、霊的には愛に満ちあふれた光り輝く発光体の力強い霊体を持っておられます。


しかしながら、そのような存在のお方というのは同時にですね、貧しい底辺の中であえぐ人々の心の中にも入っていける。その心の苦しみ悩みも瞬時に感じとれる大きな心を持っておられるわけです。そういう貧しい苦しんでいる人の心も手にとるようにわかるわけですね。


現代に生きる私たちにおいても、私たちのコミュニケーションの中に神様がイエス様が宿ってその中におられるのかもしれません。


イエス様は祈りと礼拝についてこのように語られています。


二人または三人で祈る中、その中に私は共にいる。

一人で祈るのも素晴らしいですけども、イエスキリストがおっしゃっているように二人または三人で神に対して祈る。


共に神様の恵みを語り合い分かち合う。

そのような真実のコミュニケーションの中に、イエスキリストが霊の姿を持って、その交わりの中心にこられる。


現在地上に生きてる私たちは霊の姿をなかなか見ることができないことが多いわけですけども、イエス様の霊的実在というのは実際あるんですね。


そして私たちが死んだ後に、イエス様の実在を自らの霊の目で実際に見て仰ぐことができると思いますね。


私たち地上で肉体を持ってる時は霊の目は滅多に開かれないということが多いんです。


でもむしろそのことこそが地上に肉体を纏って生きていることの意味かもしれない。


肉体の目には見えない。かすかに心に感じとれる神様の思いや、み心を感じ取り、この様な目の見えない盲目のような世の中、地上生活の中でも信仰でもってイエス様の存在を感じ取る。そして真実の愛の関係を作り上げる。

それを神様が御心としているのではないかと思います。


キリスト教の人、クリスチャンの方は、老人介護施設の仕事や看護師、お医者さんになることを好み、自からそういう道に進まれる方が多いわけですけども、

クリスチャンの方は自然と心ならずも日常生活、仕事生活にそのように現れているのではないかと思います。



Q3:よく新宿などの街中で「イエスキリストは救い主。信じれば救われます」などのマイクでのアナウンスをして巡回している人々がいますが、あの方たちはどういう方たちでしょうか?



A:はいそうですね。新宿とか繁華街などで、「イエスキリストを信じればあなたたちは救われます」と、単調な口調でおっしゃっておられる方がいます。


あの方たちもキリスト教信徒です。ただイエスキリストの再臨とその裁きのことを、強調して話しておられるのかなと思います。


確かに聖書においてイエスキリストは再臨される時に裁き主として来られるということは記されておりますが、その裁きのことについては後日統一教の信仰の面でもお伝えしてゆくと思いますが、

その裁きとは、私たちの心の中にある悪が、暗闇が裁かれる。


その裁きに対して悪と暗闇は恐れ、そして自分たちが明白とされることを恐れているわけです。


おっしゃっている繁華街などで聖書のアナウンスをされている放送は、人間個体そのものが裁かれて、地獄に行くというようなニュアンスでもって伝わってしまっているような感じがしますね。


統一原理からすればですね、すべての人は滅ぼされないんです。滅ぼすことが出来ないのです。


今現在はどんなに生活が荒れていても、神様がすべての人ひとりひとりに与えられた本性と命というのは等しく付与されているわけです。


神様からすれば一人の命でも失うことはできないのです。すべての人は等しく神様から愛されている永遠の命を持っている子どもであるのですね。


いつか神様はその暗闇と悪の法則に対して、神様の光で照らして明らかにされれば、おのずと悪の性質と暗闇は滅ぼされることとなります。


そして人間の本性、神の子としての本性を取り戻す道を備えておられる。それが神の裁きの日、審判の時であると思います。


聖書の中において、救いの順序として第一の死、第二の死という順序は記されており1000年王国の後でないと救われない魂などの記述がございますが、すべての人は等しく神様から本性が与えられている。


その本性を持った人間個人は、神様が最終的にはご自分のものとして取り戻してくださる。引き寄せてくださると思います。


街中で聖書をアナウンスをされている方は、人間自身そのものが滅ぼされるというふうなニュアンスでもって、話が伝わってしまっているかも知れないので、キリスト教について恐れを感じさせてしまっているかもしれません。


これからはクリスチャンが、神様の人間に対する本当の救いのみこころを、正しくストレートに伝えていかなければならないことを思います。



ご質問はここまででしょうか。

ありがとうございました。

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