2022年10月5日水曜日

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会 <その2> クリスチャン小関

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教
<その2>

2022年 09月 18日

クリスチャン小関


音声video :リンク先


拉致監禁される


はい。それでは、統一原理についてですね、聖書の物語をキリスト教の信仰を持っているだけではわからないことについて、いくつかお話してきましたけども、

ここで私は皆様に伝えたい、伝えなければならない内容があるので、その部分もお話ししようかと思います。


私は先述したように1992年にビデオセンターでこの内容、統一原理をもっての聖書の勉強を通して、これはすごい内容だと、このことはすべて学ばなければならないと確信を持っていたわけですが、実際に、4Daysを出てですね、その後の新生トレーニングというですね1ヶ月単位の研修に入りました。

それは仕事の後に学習センターへ行き、毎日夜に講義を受けるわけです。そしてひと月の約半分は教会の中の宿舎に泊まり、あと半分は講義の後、夜遅く電車で自宅に帰る。そのようなスタイルで私は通っていました。


その新生トレーニングは1回だけで修了では無く、私は2度目を受けたののですね。


2度目のですね、ちょうど1ヶ月の真ん中ぐらいに差し掛かった時、ちょうど8月のお盆で会社がお休みだったんですね。

その頃、仕事と新生トレーニングでのハードさを体に感じて来ていました。


仕事が終わった後、学習センターで新生トレーニングの講義を受け、コミュニケーションの後それから家に帰るので、家に帰るのが夜11時とかそういうレベルだったんです。

結構疲れも溜まってしまったので、ちょっと2、3日程、実家の自宅においてくつろごうと思いましてですね、

統一教会の方にも、ちょっと言い訳をして2、3日程、家で疲れを取るために休んでいたんですね。


お盆休みの昼間、ちょうどその時、私の父が私の部屋に入ってきてですね、「お前と話をしたい人がいるから来てくれないか」って言うんですよね。

で、私は「いいよ。そんな人に会う気はない」と返すのですが、父はしつこく引き下がらないんですよね。

そして父がですね、私の手を引っ張るわけですね。

「やめてくれ」と私は言ってですね、それでだんだんとその雰囲気が気持ち悪く感じてきたのですね。


それで私は当時、50ccの原付バイクを持ってたので、 ちょっとこの場所から離れて気晴らしにバイクで一回りしてこようかなと思ってですね、ヘルメットをかぶったんですよ。


そしたらですね、部屋のドアの先から母が出てきてですね、

「止めて止めて!捕まえて!逃げようとしている!」と叫ぶわけです。

それで私は捕まえられてですね、2階の私の部屋から階段で下の1階に引き下ろされて、そうしたら下の1階にはですね、私の兄と兄の友人たちがさらに2人待ち構えているわけです。

それで多くの人数により取り押さえられてですね、そして家の外に横付けしてあった乗用車の後部座席に押し込められました。それで、その後部座席の真ん中に私、両脇に父と母がガードして、どこに行くかわからない車が動き出しました。運転は私の兄がしていました。前の座席に兄と兄の友人が乗っていました。

後部座席でどんなにあがいても、動けない状態にされました。それがまあいわゆる拉致監禁というものですね。

統一教会信徒に対する拉致監禁ですね。


私はさらに父の手により目隠しをされて、車がどこを走っているのか分からないような状態にされました。

しかし疲れた父の手の隙間から瞬間的に景色が見えたりし、

まあ、ある程度の場所の雰囲気、一般道を走りつつ東北自動車道を渡ったとか、そういう雰囲気でなんとなく位置関係は分かったのですが、結局、現在で言うさいたま市の、とあるアパートに押し込められました。強制的にですね。


閉じ込められた後は、約2、3日の間、食事は与えられましたけどもね。靴は隠されそしてドアには鎖の錠をかけられ出られないようにし、アパートの中のそしてあるいち1部屋の中に閉じ込められました。


拉致監禁牧師とのやり取り


2、3日が経過して、ようやく父が言っていた、私と話したいと言っているという人が来たわけですね。

それがまさしくキリスト教の脱会活動専任牧師ですね。

まあ統一教会から見ると 反対牧師とか、拉致監禁担当牧師、まあそういう風な感じで言われてますが、 キリスト教側が言うと救出活動の先生、救出牧師とか言われてますね。


その牧師が来ました。それであの原理講論をですね、お前に原理講論を使わせてやるから手渡すから、この私、牧師が質問するものに対して答えてみよと言うのですね。

それで、まあ根掘り葉掘りというか、小手先の質問ですよね。


統一原理の摂理的同時制が 例えば40年が3回繰り返してると説かれていたりする事に対して、この2番目の長成期の年数において、本来40年でなければならないところが、なんで統一原理はここは42年になっているのかと。40年にならなければおかしいじゃないかと…それを延々と続けるわけですね。

それは 統一原理を聞いていれば誰でもわかることで、人間の責任分担によってその神が計画した40年に対して、それが若干遅れることもあれば 若干早まる早まることもあるっていうですね、人間の責任分担の完遂いかんで、年数が少し早まったり、逆に遅まったりするわけです。

統一原理を聞いていれば誰でも普通に理解して納得してる内容なんですが、それに対して牧師は、そこの年数がずれているから統一原理は間違っているのだと言い張るのです。

これは全く話にならないんですね。


また、例えば文先生がですね「バカは死ななきゃ治らない」と言った記述が有るとしましょう。

その事に対して牧師は、「バカとかそういう言葉をいうのはメシヤでない証拠でしょう!」とこんな感じで、小手先の批判を永遠と続けるのですね。


原理講論でもってどれだけ私の知ってる範囲のもので真剣に回答をしてもですね、相手は何も納得しないんですよね。

話し合いの目的ではなく、ただの強制説得のつもりなわけです。

「あ!ここ答えたな!このハードルを越えたから次はこの質問を投げかけよう。というですね、それを全部準備しているわけですよ。


また、洗礼ヨハネはエリヤとは、聖書では言っていないとか、サタンは元天使ではない。など、ウソの質問で私を騙そうとしたりもしていましたね。

この様なことはふつうのキリスト教徒でも知ってることです…


でまぁそのようなことを約1ヶ月半ぐらいの間、繰り返して来たわけですけれども。

もうそのうちですね、横で聴いているにいる父親がですね、 あのヒゲを剃らないんですよね。

この監禁説得をしてる間ですね、私が「この統一原理を否定して、 辞めない限り俺は髭を剃らない。このように伸ばしたままにする!」と、髭を剃らなのですね。

髭を長くして、それでその監禁が始まって40日近くに なった頃にはもう父親らしからぬ姿、雰囲気で迫って来られました。「いい加減にしろ!」っていうことでですね。

たてついて来られまして、「俺の人生、お前のこんなことのために破壊されたくない!」

そう迫るわけですね。 まあもう父親には見えないわけですよ。そういう風な状況になったんですよ。


本当にあの時の状況、両親の姿を見ると、

そういう反対活動牧師と接していなかった時の、父と母の姿とはもう、打って変わった姿になってしまっていたのです。

両親は反対活動牧師の言っていること、指導していることに対し、絶対服従。それで反対牧師と報連相、つまり報告連絡相談して、自分たちの素直な思いや意見は 絶対に挟まない。 私の父親と母親がもし自分達で何か良心的に何かを思ったり、呵責に思ったりしたり、何かを感じたことがあっても絶対言ってはいけない、とそういう感じの指導ですね。あれはね。


ところが、説得活動を受けてる時に反対牧師が説明している堕落論の概略、解説に対して、私の母親が素直に驚いて、「一体このお話は誰が解説したの?これは物凄いすごい内容でしょ!」って 言ってた時がありました。

それに対して、それを横で聞いていた父親が、ドアか壁だかを手でバーンと強く引っ叩いて、余計なこと言うな!っていう感じで母を止めました。

なので私の父と母は、その反対監禁してる時には、

反対牧師の指導した内容に対して絶対服従で、自分の思いを絶対挟むな、語るな。

その様子を見て状況を見てそう取れましたね。


また、私を監禁する中で、統一教会の、いろいろないわゆる霊感商法だとか、印鑑売りとか、また壺を授けるためのトークについて批判されました。

私はそういう活動の経験がないのでまったく何のことかよく分かりませんでした。


反対牧師が脱会させた元信者から接収した霊感商法の資料をいっぱい持ってるわけですね。それで私に対しその資料を出してこれをみなさいと言われ、強制的に見させられる。


私はそれはよくわからないので、見て読んでいる振りだけをして読みも見もしなかったんですけどね。

それでまぁ、その後にこの事柄について、お前はどう感じたのか?どう思うのか?と問いただされるわけですね。


それでもお前はまだこの統一教会を学んで行く気持ちなのか?と問われるわけですね。


私は、「別にそんなことに関わったこともないし、よくわからない。いいんじゃないか?」って答えたのですね。

そうしたら平手打ちされましたね。それはたしか、母が私を平手打ちしたと思うんですけどね。


私は当時いわゆる霊感商法とか壺授けとかについては全く何も知りませんでした。


ですから、いわゆるそういった踏み絵を準備したりしてですね、父と母が植え付けられた不安によって激しく怒るわけです。

それはもう父と母が反対牧師によってマインドコントロールされてる状態です。

もう元のキリスト教徒としての父と母ではないと見えました。


私は監禁される前に統一教会のトレーニングで、4Daysセミナーの直前に、「真の父母様」っていうことでメシアが明かされたわけですよ。 


メシアが真の父であり真の母って言われて、でもその時は自分のクリスチャンの父と母も素晴らしい父と母だし、この父と母がいるだけで十分じゃないかなって思ったんですよね。

実はですね、それがですね、

その監禁の時の反対牧師に操られている父と母の姿を見て、クリスチャンである父と母も完全なる父でもないし完全なる母でもなかったんだってことですね。

このことはひとつの、神様がやっぱり教えてくださっていることだっていうことですね。 気付かされたわけですね。


それでこのように監禁されるとですね、もうその場から抜けられなくて、結局、統一教会の信仰を捨てちゃう方も結構いるんですよ。


特にもともとクリスチャンであったとか、宗教を元々持っていなかった方っていうのは、結構この内容を捨ててしまうことが多いんですけど、私は元々クリスチャンの信仰を持っていたので、反対牧師の活動の方針のおかしさと、それに操られてる、もともとクリスチャンだった両親のその狂わされた姿を見て、私は感じました。

ああ、今の時はキリスト教がすべてではなかったということですね。

わかったわけですね。そのような状況や場面でですね。


それで私はどうしてもこの状況を出して状況を変えなければならないと思いました。


監禁からの解放


神様から一つの知恵が与えられました。

いわゆるクリスチャンとしての信仰告白というのをですね、

私は元々クリスチャンでしたので、どのようにすればクリスチャンとしての信仰告白を表明した事になるかっていうのがだいたわかるのですね。


「イエスキリストはメシアであり救い主であり私の罪の贖い主である」ということですね。


それで、そのような証言を宣言をした姿を見て、反対牧師は私が一応、回心したとみて取ったわけです。私の両親は涙を流しておりました。

監禁されてるアパートから約1か月半ぶりに出る事が出来たのです。


監禁されていたのは40日ぐらいだったと思います。でも、長い間一つの部屋に閉じ込められていたせいか足腰が立たず普通に歩けないほどでした。

その後、母親がしばらく私につきまとうという軟禁状態となっていました。それと週に二回ほどのキリスト教のビデオ学習と日曜日の礼拝に参加することが義務付けられていました。

その状態が二ヶ月ほど続いたと思いますが、そののち、ようやく警備員のアルバイトをすることが許されました。


そのような身辺の状態ではありましたが、私は警備員のアルバイトしながら、警備員の現場が早く終わった時に統一教会の下町の学習センターに通って再び学ということを始めたのですね。この学習センターは家庭や仕事の事情などで、新生トレーニングなどの宿泊が込みの内容に適応出来ない人が学ぶセンターでした。


そのように反対牧師の教会と統一教会の同時並行の状況を1年ぼど続けました。二股状態ですね。


活動牧師の教会の礼拝も出ないといけないし、平日半ばにはその夕礼拝にも出る。何かイベントがあれば参加する。そのような中で時間がとれるようなら極力、その下町の統一教会の学習センターにも行くようにしていました。


この状態が活動牧師と両親にバレたりすると再度また監禁される可能性もあるので非常に危険だったのですけども、幸いそのようにはなりませんでした。


そのような状況が監禁から脱して1年ほど続いたのですが、その統一教会の下町の学習センターの講師の方からですね、「いつまでこういう信仰生活をするのかっ」てちょっと問われてしまったんですね。


これではずっと変わらないんじゃないかってことですね。

その下町学習センター講師の方の意向としては、

もともと参加していた、宿泊付きの新生トレーニングのコースに戻ることは出来ないか?というような印象だったんですね。


ところがですね。私が感じる実感として、当時の私の両親のあの執念っていうのはすごいものを感じていましたので、その講師の意向には沿わない方法をとりました。


統一教会青年部に所属して


私は、地方都市にある統一教会に移れないかと考えました。

東京下町の統一教会はあまりにも規模が大きいので、ビデオセンターでの受講生から、青年部員、教会員になるまで多くの段階とトレーニングを経なければならず、なかなか教会全体の姿を見ることが出来なかったからですね。


そこで私は地方のですね、北関東の県の統一教会の方に移れないか、と考えたのです。


その頃ちょうど北関東に有る、自分に合った仕事場を見つけたのですね。

この仕事場に就職する目処がついたので、その職場の近くに借家を見付け引越す事にしました。

それが、監禁が解かれてかてから1年3ヶ月程の頃です。


そして、北関東の統一教会に通う事にしました。そこは教会がドンとあって、そこに青年部というものもあるのですが、普通の壮年壮婦と一緒に青年部の人も一緒に礼拝に出て、教会長の説教を聞く、そういう教会でした。

むしろ私はそういうところを願っていたんですね。


新しい自宅から、北関東のその教会へ通い、青年対象の40日間トレーニングを受講しました。

それを修了し、正式にその教会の教会員となり、青年部に所属することになりました。


やはりその環境は東京下町の教会とは違って統一教会の全体が分かりやすい環境であったと思います。


気になっていた、キリスト教の反対活動牧師が主張していた、統一教会のその経済活動の問題ですね。

その霊感商法だとか、また壺を授けるだとか、そして珍味売り、ハンカチ募金活動ですね。

一体それは 何なんだろう?って私は思っていたんですよね。

その事も早く知り、どういう意味の活動だか知りたかったのです。 それを手っ取り早くちょっと見たいと思ったんですね。

青年部の40日間の原理の教育を受け終わった後、教会でのいろんな活動を色々と見ることができました。


統一教会の経済活動


そうしたらやはり、ハンカチ募金活動などに付きましては戸別訪問活動をし、やっぱり体や環境の不幸な方、不自由な方のために寄付をしてください、って家々を回るんですよね。


ところがその客さんからいただいた寄付の大半は、その当の信者の方の祝福献金だとか、もしくは教会のための献金だとかに回されていってる事が解ってきました。


それはまさしく、そのお客さんとその統一教会信者の方とのコミュニケーションを取った時の信頼関係を裏切って、それでそのお金を別の目的のために用いていた訳で、

私はそのことについて疑問を感じて、その北関東の教会の教会長に対し、ほかの青年のメンバーがいる前で質問をしました。


そうしたらその教会長は目を大きく見開いて、私を見て「何を言ってんだ!これは天法だ!」教会の天法だと言うのです。

神の目的のためだったら手段は選ばないっていう風な ニュアンスですよね。


「これ、おかしいだろう」って私は思いました。

この事については私自身キリスト教で育ってきたからこそ、倫理的にそれはおかしいっていうことを思ったんだと思います。


しかし私の周りの統一教会の青年の兄弟姉妹たちは、疑わずそのような活動に日々いそしんでいました。


お客さんとコミュニケーションをとってる時に、お客さんから信頼を頂いたとしても、説明や言っている事と自分が実際にしている事が違う。


そのことの疑問を教会の青年の先輩やマザー等に質問すると、「そのお金が結果的には天のため、神のためにそれが用いられているんだから、それはいいんじゃないか」って 答えるのですね。

あとですね、その献金したお金が、韓国の様々な幹部だとか、もしくは組織体に用いられている。

そういうことがだんだんと分かってきたわけですけれども、

そのことについても質問しました。


「自分の捧げた献金が、もしかしたら韓国の悪徳な幹部が私服を肥やすために、懐に入れてる場合もあるんじゃないんですか?」って聞いたらですね。


「いや、いいじゃないですか。あなたが捧げたこと自体は神が知って受け取ってるのだから、そのお金がどのように 用いられようと、たとえそのお金が悪い幹部の懐に入ったとしても、そのことについては神様がその幹部の人を裁いてくださるのだから、あなたがその事を気にしたり関与しなくてもいいんじゃないでしょうか?」と言われるのです。


しかし私はそれは違うと思いましたね。

ええ。自分の捧げたお金が1円足らずとも神のために、本当に有益のために用いられてこその献金であって、

自分の捧げた献金が、ただ神様の前に捧げたから、あとはもう全部上にお任せというのは、それは責任がないことだと私は思います。


ですから今もまだ、家庭連合の方ではそのような考えや方針になっているのかもしれませんが、自らが捧げた献金がどのように用いられて、誰の懐に行ったのか、または、どういう事業のためにそれが実際に用いられているかっていうことは、 詳細にすべて明細を明らかにしなければならないと思います。


これはキリスト教でも毎月の週報で、信徒から捧げられた献金がどの様な名目で用いられているのか。

例えば光熱費、牧師への謝礼、教会の修繕積立費、ボランティア活動のため、バザー開催のため、他教会へのサポートのためなど、何のために用いられているかを、明確にわかるようにされてます。礼拝に参加する信徒の方にですね。


なので、信徒は自分が捧げる献金に対してそれがどのように用いられてるかという事は、捧げた方も絶対に責任を持たなければならないと思います。


償い献金、いわゆる蕩減献金


それとですね、今も家庭連合の方では、「日本はエバ国家であって、韓国はアダム国家であるから、エバ国家がアダム国家である韓国に献金を捧げなければならない。経済的な糧(かて)はエバが用意し捧げて、その献金をアダムである韓国の世界本部がそれを采配して用いていく、という風な教えがあり、それについては現在マスコミ等でも相当に問題視されて取り上げられてますけども。


その様な事も、いい加減やめた方がいいんじゃないかと思います。


韓国は確かに日本の施政権下にあった時期はありますけども、日本は当時の韓国のインフラ建設や、韓国の教育とか生活基盤に良い影響を及ぼした部分も多大にあると思います。


確かに日本人の憲兵が、抗議運動をする一部のキリスト教会を弾圧して火をつけたということはあったかもしれません。でもすべてがすべて、そういう活動を日本の憲兵たちがしていたとは思いません。


それと実際に当時の韓国に赴いていた日本のご年配の方々の証言としても、日本人が韓国において、そのようなどこもかしこにおいて、韓国人を弾圧してそういう苦痛を与えていたということはそれは無かったと証言されていて、

現在の韓国から発せられる、当時の日本人へ対する主張とあらゆる報道はひどいもので、とても心痛いとおっしゃっておられました。


国家間において、この様な問題を抱えておりますが、

家庭連合、統一教会においても韓国に対する蕩減(罪のつぐない)としてお金を捧げなさいということを言っています。


蕩減献金は信仰と経済の発展を止める


かつての朴槿恵大統領は日本に対して、その恨みは1000年消えないと、そういうことも言っておりましたけれども、

自らが許すことのできない対象、存在を持ってるという事自体が、自分自らの霊的にもまた肉的にも経済的にも発展を止めているという事に気づかなければならないです。


これは、個人の間においても、国家間においてもです。


キリスト教においてイエス様はこの様なお話しをされています。

ペテロがですねイエス様に質問をしました。

「もし自分に対して罪を犯した人がいたら、その人に対して何度許さなければならないでしょうか?七度まででしょうか?」と尋ねたところ、イエス様はペテロに対して「七度を七十倍するまでも許さなければならない」とイエス様は言われてるわけです。


ですから、人間は例えどのような仕打ちを受けたとしても、自分がある対象に対して許すことができない、未来永劫に許せないという風な観念を持つこと自体が神の前にですね、まさに神の御心に反しているので、

韓国の国の発展も信仰の発展も経済の発展も阻害されてるという事を知らなければならないと思います。


日本の今の家庭連合の幹部の方というのは、いわゆる韓国の本部の方の指示を仰いでその通りにする、

韓国の方で発案された献金のノルマを日本の幹部に伝達して、それを日本の各教会に指示している。このような状態なのですけれども、

そのような姿勢自体が、今現在の日本の混乱とさらに韓国の幹部の私腹を肥やすなどのいろんな問題が起きている、問題だらけになってる事の原因だと思いますので、そこを絶対改めて、日本は日本で独自で、何て言うんでしょうかね。

韓国は韓国。日本は日本で自己決定権、自治権を確立出来るようにする。このことが今の社会の混乱を解決出来るかどうかを左右するポイントではないかと思いますね。


統一教会のアベルカイン


私は活動牧師に監禁されて非常にキリスト教に失望した立場ではあるんですけども、

実際に北関東の統一教会において、その経済問題だとかそれとアベル、カインの問題の事も非常に問題を抱えていることを知りました。


例えば、アベルの立場にいるものが、カラスは白い、と言えば、その下にいるカインの立場の人もアベルの言う通りカラスは白いと思いなさい!と、それが 日本におけるカイン、アベルだと言う風な関係になってるんですけども、

それも間違ってますね。


そもそも、アベルはカインに対して仕えるべき存在であって、相手を愛で屈服させてしまう、その愛で相手であるカインを溶かすというか、愛であのカインを納得させるというですね、そういう存在関係がカインとアベルの関係の意味なんですよね。


特に1990年代後半の統一教会というのはそういうアベルカインの問題や、献金の問題において、非常におかしな状態を見ることになってしまったので、私はその中に巻き込まれるよりは、むしろ、その時はもう、私の敵になってしまった、はずのキリスト教会にですね、もう一度入り込んでいってですね。キリスト教の真髄をもう一度、自らが体験し学ぶという期間に充てることにしました。


統一教会の経済活動に巻き込まれるよりは私の両親やまたキリスト教徒を、愛と信仰で自然屈服させる道を求めるほうが賢明だと思ったわけです。


キリストの十字架の血による神の赦しとその倫理で


その頃キリスト教の大きな伝道集会やセミナーなどに参加しました。キリスト教にはペンテコステ派という、聖霊の満たし、身体や精神の治癒、悪霊からの開放などを行う教派があるということを初めて知りました。


今、二代王様、亨進様が行っているその礼拝の形式もそのキリスト教のペンテコステ派の流れを持った、その礼拝形式だって言うことがよくわかるんですけどね。


私はそういうキリスト教の信仰者としてのキリスト教の真髄っていうものをですね、深く体得しなければ、私を監禁した活動牧師や、私の両親を納得させ、ヤコブがエサウを愛で屈服させたようなことができないと思うのですね。


キリスト教の信仰において彼らより優っていなければならないのですね。キリスト教をもう一度学び直すことによって、キリスト教の十字架の血による神の赦し、あがないですね。

これを頭ではなく体験的にですね、キリスト体験して、そしてその信仰体験をもとに、もう一度この統一原理と向き合い、キリスト教の本当の聖霊による救いというものを体得しつつ信仰に向き合ったらですね、

統一教会、家庭連合の信徒たちが陥ってしまうカイン、アベルの問題、

先程カラスが白いと思え、ということの例え話をしましたけれども、

神の前に善悪の倫理も分からなくなって、問題の中を突っ走ってですね、反法規的なことでも突っ走ったり、自らの家を犠牲にして破綻させて、その子供を不幸にさせたりするという様な事が起こらなくなってくると思います。


ですので、今のこの社会の混乱を救うのは、キリスト教の倫理と信仰観を持った上で、この統一原理というものをもう一回見つめ直して取り入れていって、それを実践活動に移していった人々によって、今のこの社会的な混乱というものは収集されて 解決されていくものではないかと思います。


はい。では一応1時間 経ちましたので、このあたりで今日は失礼させていただきたいと思います。


ありがとうございました。

2022年10月4日火曜日

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会 <その1> クリスチャン小関

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会  
<その1>

2022年 09月 18日

クリスチャン小関


音声video :リンク先


キリスト教家庭に育って


皆さんはじめまして。私は小関と申します。


私はキリスト教の家庭に生まれ育ってきました。

私の両親もキリスト教で、キリスト教の中でもいわゆる、きよめ派、一般的にはホーリネス派とも言われます。


礼拝の形式としては、伴奏はオルガンで讚美をして、聖歌賛美歌を歌い、お祈りをして牧師先生の説教を聞く、そのような礼拝形式の、いわゆる伝統的な雰囲気のキリスト教の教会で育ってきました。


私の両親はクリスチャンで、私の母方は、母、母の父、母の母、母のおばあさん、すなわち私からすると曾祖母もクリスチャンでした。(父方も、父、父の父すなわち祖父もクリスチャンでした。)


戦後間もなくの頃、当時のキリスト教は東京の下町などの街中などで太鼓を叩き、のぼりをたて聖歌を高らかに歌いながら路傍にて伝道活動をする、そんな活発な時期があったんですね。


またホーリネスっていうのは、昭和初期と大正時代にホーリネス・リバイバルというのがあり、その頃は爆発的な聖霊運動ですね、そのような時代があったようでして、

私の母方のおじいさんおばあさんが伝道された時は、大正、昭和初期の聖霊のリバイバルの余波がまだあった時代なのかなと思います。


私は幼い幼稚園の時から、そして小学生 中学生の時代まで、教会において、日曜学校、現在は教会学校とキリスト教では言われているようですが、それに毎週毎週参加しておりました。


そして、日曜学校の先生という方がいらっしゃいまして、先生から聖書の話を漫画の物語のようにしてお話していただき、解説して下さいました。


失楽園の戒め


そのお話しをお聞きして一番心に引っかかったのは、神様が天地を創造されて、アダムとエバを創造し、その時アダムとエバに戒めを与えられて、園の中央に善悪を知る木というものを植えられて、そしてそれを取ってはいけない、食べてはいけないと、そういうふうな戒めを与えられたということなんですね。


神様が麗しいエデンの園の中央に、善悪を知る木というのをまあ食べるによく、見るに美しくつくられ、お話しの中ではリンゴの木の実のように言われてましたけれども、それを取って食べたらきっと死ぬであろうという戒めを 与えられたのです。


それでまだ幼いアダムとエバが結局それを食べてしまい、その事を知った神様から彼らに対し、「あなたは何ということをしたのです」と言われ、その麗しいエデンの園から彼らを追い出されてしまったという話を当時の日曜学校の先生からお伺いしました。


それを聴いた当時の私は「神様はなんて冷酷で意地悪な性質を持っている神様なんだろうか」と、幼い心ながらまだ私は小学生の低学年だったと思いますが、そのように思いました。


しかし私は心の中でそう思ってただけで、それを日曜学校の先生に質問攻めとかにはしなかったんですけども、そういったことが結構心の中に残ってました。


ノアの洪水審判、火の審判と携挙


その後はですね、ノアの時代の話しになりますと、ノアの時代に世が乱れて、そして神様がノアに大きな箱舟を作りなさいと言われ、120年かけてノアはそれを作り上げたのですね。


その箱舟にノアの8人家族が乗り込み、当時の乱れきった地上に洪水が起きて、それで箱舟に乗り込んだノアの8人家族以外の地上の人間はみんな滅ぼし尽くされてしまい、そしてその箱舟がアララテ山の頂上に着いて、神様がノアの家族をこの地上に降ろされた時、神様は契約のしるしとして空に虹を出されたのですね。


その虹が神様がノアに対して示された約束の印となり、 ノアが神様に焼き尽くす生贄を捧げた時に、神様はその香ばしい香りをかがれるとともに、もう二度と地上を水にて滅ぼすことはしないと約束をされたというのです。

ところがそのお話しの直後にその日曜学校の先生が言いました。


「でも神様は終末の時代、ヨハネの黙示録の時代に神様は今度は火を持ってこの地上を滅ぼすと言われてます。」


その事について私は非常に気になっておりました。


結局神様は、人間が素晴らしい文化を築き、当時はまだ高度経済成長とその後に起きたバブル景気の頃の時代でしたが、どんなに素晴らしい建物などを作ってもそれが結局いつか火によって滅ぼされてしまうということ。


それを子供ながらにずっと信じていたわけですね。


確かに聖書のヨハネの黙示録をそのまま読みますと、最後の審判の日に神様は、その御心にかなった生徒だけは空中に引き上げ雲に包まれるような状況のなかで、再臨のイエス様と出会うという聖書の御言葉がありまして、私はそれを信じていました。


ですので私は小学生中学生の当時、聖書のヨハネの黙示録を寝る前などによく読んでました。


そしてそのような再臨の時代に私が滅びに巻き込まれることなく再び来られるイエス様と出会えるようにと、いつもそのような心を抱いていました。


火の審判信仰の時、出会った統一教会


そのような思いを抱きつつ、さらに進学して就職し社会に出て、建築関係のゼネコンの下請けのタイル工事の設計、施工をする会社に就職したのですが、巨大なビルディングや施設などを作るといった、まあそういう仕事に携わっているのですけれど、

いつかこれらの建築物も終末時の審判によって、火によって滅ぼされてしまうという事はもう決まってるのに、

なんでこんな職場で苦労して、いろんな人間関係の苦しみもある中、こんなところでビルを作るような仕事をしなくちゃいけないのかっていう疑問を常に抱いていたのですね。


で、そんなことをずっと考えつつ仕事生活をしているうちにですね、 だんだんと心が塞いできてしまって、それで

もう会社に行くことが嫌になってしまったんですね。


そのような悶々としている日々の中、自宅から職場にいたる途中の乗り換え駅である、東京の下町のターミナル駅において、しばしば統一教会の方のアンケートをしている方によく出会うようになったんですね。


それぞれのかたは別の日にはなりますけれど、五人ぐらいの方と駅のコンコースで立ち話をしたんですね。

お一人あたり、一時間以上、場合によっては二時間以上はお話を交わしたわけですが、

不思議な感覚、キリスト教にいる時には感じられなかったなにか魂の復活のような感覚を感じ、とても心地の良いものを感じたんですよね。


四人目の方にお会いしたあと、その後五人目の方にお会いした際にその方の学んでいるところに行かせてもらえないかと、言ってみようと心に決めたのですね。

それでその5人目の方は私より10歳ぐらい年上の男性だったんですが、その方に出会った際にその学び場に案内して頂きました。


それが統一教会のビデオセンター、まぁ 統一教会がそのビデオセンターを直営してはいない、とは言ってるのですけれど、ここの目的自体はこのセンターから統一教会につなぐための場所でした。


統一教会の教会員になる前段階の自己啓発センターなんですね。その学びに入ってみますと、聖書の内容が次々と解き明かされてきたわけです。


当時は倉原講師とか佐野講師でした。


キリスト神学的疑問が解明


その内容が、私が幼い時よりキリスト教の教会学校で学んでいた時に素直に感じた疑問、

なんで神様はこんな無情なことをされるんだろうか?

といった数々の箇所、自分が疑問に思っていたことがらに対して、直球の回答が示されてるわけです。


それで私はこの内容は、ただ事ではないということを直感したわけです。


ところで私がキリスト教の子供日曜学校の礼拝を受け

てる時に、(大人の礼拝の前に子供の礼拝というのものがありました)戦後間もなくの頃、日本がまだ貧しい時期には日曜学校の礼拝だけでも100人以上の子供が集って礼拝していたという話を聞いていたんですね。

ところが私が子供の礼拝に出ていた頃には子供の礼拝の出席者は20人いないかもしくは10何人しかいないか位のレベルに人が減ってきてたんですね。


でもキリスト教の教えの中においては、聖書で言う最後の審判の日には、この選ばれたキリスト教徒が再臨されたイエス様によって空中に引き上げられて、神の国に入るという内容で、ものすごく偉大で壮大なビジョンが示されているのです、しかし実際にそこの教会に集っている人数などを見ると、だんだんと先細りしていって、とても神の中心的な摂理と言いますか、神の地球に対する働きの中心が本当にここにあるのだろうかと感じられるわけです。


またキリスト教に居ると、あまり他の宗教とかに出向いてはいけない。という話を言われるんですね。

特に仏教系統とかそっちの方とか行かないように、とかですね、あんまり行ってもしょうがないよという感じでした。


しかしながら幼心ながらに、もしかしたらこのキリスト教以外のどこかの場所で、神様の中心計画があってそこで何か大きなことが進んでるんじゃないか?ということを 子供ながらに薄々考えたりしてたんですね。


そして、私が19歳のとき、その下町のターミナル駅でのきっかけでそのビデオセンターの方と出会ったのですが、そのビデオセンターで学んでいる内容がまさにその何か、ではないかと思うようになったわけです。


失楽園、蛇の正体


その学びの内容を述べますと、まずアダムとエバの堕落の原因と結果ということですね。


説明しますと、アダムとエバが成長期間という段階中の長成期完成級の時に蛇に出会いました。

キリスト教の説明においては、エデンの園で蛇が出てきて、エバが蛇にそそのかされて、神様から禁じられていた、善悪を知る木の実をとって食べてしまって、それが人類最初の過ちだったと言われているのですが、


その出来事について統一原理では、蛇がまさしく堕落するときのルーシェル天使であって、そのルーシェル天使が霊人体を持っていて、そしてエバにも肉体と重なるかたちで、霊人体という霊の体を持っていて、 そして霊の体のエバと霊の体の天使ルーシェルが交わることによって、ルーシェルから悪なる性質を受けて、そしてそのエバがアダムと今度は霊肉ともに性関係を持ち、一体となることによってルーシェルの性質を受け継いでしまったという、それまでに思いも知らなかったことを示されたわけですね。


キリスト教会の言う救いと恐怖


またここで、霊についての話もちょっと今出ましたけれども、キリスト教においてはですね、「イエス様を信じることによって、永遠の命に預かることによって、死んだ後にイエス様のもとに天国で共に会うことになる。」

そのような教えは一応言われてるのですけれども、それはあくまでも聖書のみ言葉の中に、そのような言葉がある。

だからそのみ言通りにその言葉を受け入れる。受け入れて信じる。その様な事を根拠として、イエス様を信じる人は死んだ後に天の御国に行くでしょっていうことで信仰を持ってるわけですが、私はそれを聞いただけでは、本当に自分が死んだ後も永遠の御国があって、いつまでも死なない、ということがわからないし受け入れられなかったんですよね。


そのような思いでしたので、仕事においても気持ちも塞いでしまって、とうとう職場にも行く気がなくなってしまったのも、やはりその死の恐怖というものも結構あったと思うんですね。


人間は死んだらどうなるかわからない。もしかしたら肉体だけで終わるかもしれないという思いの中において、その一方、私は父と母にとても愛されていたので、その愛を受けていれば受けるほど、自分の肉体人生が終わった後は、もしかしたらもう何も無くなって、父と母とも永遠にお別れになって、兄弟ともお別れになってですね、何もかも意識も魂もない状態になるっていう事を想像するだけでも非常な恐怖感を覚えてたんですよね 。

それが統一原理によって回答を得ることが出来たんですね。


スウェーデンボルグ言う霊界を理解する


ちょっとアダムとエバの堕落のところから話がちょっと伸びましたが、人間には霊人体があって、その霊人体がもう最初の生まれた時から肉体とともに重なった状態であって、そしていつか肉体が滅びることによって永遠に生きていく…。

そういう風な観念はこの統一原理とスウェーデンボルグの解説ですよね。それを通して私にはっきりと明確に理解できたんですね。


このようなことを前提として理解した上において初めて、アダムとエバの堕落ということが、それは天使を通してこのように人間に事が及んだということが理解できるのですね。


この理解はキリスト教の場所にいるだけでしたら絶対に分からなかったことだということは、もうすごくわかるんですね。

なので私はこの内容を続けて学ぶ必要があると思いました。


自分が幼い時、キリスト教の教会学校で素朴に疑問に思ってたこと、その思い自体も、もしかしたら神様が全部見て見通していて、「お前(私)にいつかその思いに対する回答を示してあげよう」っていうですね、そういう神様の思いが、もしかしたら自分の気づかないところにずっと共にあったのではないかと思いますね。


ノアの洪水審判


また、アダムとエバの物語の後に、ノアの物語がありますね。


先ほども少しノアの物語についてお話ししましたが、

ノアの家庭があの洪水審判を経たのち、ノアがあの

箱舟から出て後にノアが天幕の中で裸になって

ぶどう酒を飲んで寝ていた。

そこにノアの子供の二男、ハムがその様子を見て他の兄弟たちを扇動して服をかけたということに対してですね、その事に気づいたノアは次男ハムに対して激怒するわけですよね。


そしてハムの子孫は呪われよと予言するわけですね。

それでそのハムの子孫がどうやら黒人系統の子孫であるという事は統一原理としてもまた、一般的な歴史家の解釈においてもそのようになっていると思いますが、事実その後の歴史がそのようになったんですね。


この物語についての不思議は、私も子供の時に疑問に思っていたことですが、

私は今現在もキリスト教会にも通っているのですが、

ちょうど先日にそのキリスト教会に通って来ているある、中学生の女の子が牧師先生に、このノアの物語の疑問について質問していて、そのノアの物語の顛末(てんまつ)について、なぜノアはそんなことを行ない、またハムに言ったのでしょうか?と質問しているわけですよ。


それは私も傍目で聞いていたのですが、牧師先生はこのように答えました。

「聖書にはわからないことがいっぱいあるね。神様っていうのは人間の思いを超えた、本当に不思議なことをされるね。共にお祈りしましょう。神様、このお話しについてわかりません。”どうぞ示し教えてください”とね。」

このようにして話が終わってしまうわけですね。


統一原理においては、ノアは神様から命じられた箱舟を120年かけて作ることによって、信仰の基台を立て上げ、神様に対する縦の関係を築きました。


そしてその後は実体基台といってですね、横の関係をしっかりと築かなければならないっていう教えなわけですね。

それで横の関係を築くためにはノアの子孫の次男であるハムと箱舟を作って救ったノアが心情一体という、疑いのない信頼関係を持つということが大切だったという教えなんです。

そして本来はそのノアと心情一体になったハムが、ハムの兄であるセムとですね、今度はノアの家庭の長男セムと心情一体化することによってノアの家庭を中心としてメシアを迎えるための準備基台が造成されるはずだったということなんですね。


ただハムがその時、ノアに対して嘲りの態度、嘲笑の態度を取ったということが神の前に非常に大きな罪だったわけですね。


ですからここで一つの教訓が示されているわけですね。

信仰の権威を立てた自分の教師とか親とか父親を嘲ったり又は貶す、ということは神の前に非常に大きな罪だったり摂理に対して大きな妨害になったりすることもあり得るという事をですね、ノアの家庭を通して統一原理を通して見て取ることができるわけですね。


ですので、このノアの物語につきましても非常に大きな、なんて言うんでしょうかね、解釈の深さの違いっていうのがあり、ノアの物語がまさに今現在を生きる、信仰生活をしている私たち自身にとっても大きな教訓として示されてるわけですね。

この物語は今から何千年も前の話なんですけども、そこも、統一原理を通して気づかされる大きな発見となるのですね。


ヤコブ家庭


その後にヤコブの家庭というのが出てきます。

聖書の話の大きなポイントの物語としてですね。


ヤコブという人物はですね、父のイサクから長子の祝福をですね、それを得なければならないという、ヤコブ自身が神からそういう示しを受けていたのかも知れませんが、ヤコブの母のリベカはエサウとヤコブが産まれる前に母の胎内でこの二人の子が押し合い争った時に、神の前に尋ね祈ったのですね。その時に弟の子孫は兄の子孫に勝っており、兄の子孫は弟の子孫に仕えるであろうという、そういう啓示は受けていたのですね。


神の計画から見てヤコブがその兄のエサウから長子の特権と祝福をもらわなければならないという、そのような神の御心があったということは、これは統一原理を通してはっきりと分かることではあるのですが、

一般的な クリスチャンから見るとですね、「ヤコブという人物は自分の栄光のために、兄のエサウから長子の嗣業を無理やり騙してでも奪い取って、そしてあの荒野に逃げた、非常に卑怯な人間、ずる賢い人間であったのだけれども、そのようなずる賢いようなヤコブというような人物でも神様は赦し憐れんで救いの手を伸ばしてくださるとても心の広い神様なんだ」というですね、そういう解釈がキリスト教なわけですね。


ところが統一原理を通して、ヤコブという人物には神の計画があり、その母リベカの助けを通してエサウから長子の嗣業を受け取って、その後イサクの家庭から離れて約20年のあいだ、伯父のラバン元で仕えて条件的な期間を経過した後にエサウを自然屈服させるという、そういう風な神の計画があったっていうことなんですね。


それはあのアダムの家庭において、弟アベルが兄カインを 屈服させるという、そのパターンを繰り返しているわけですね。


アダムの家庭においては、弟アベルと兄カインが神様の前に供え物をした際に、アベルの供え物は神が受け取ったけども、カインの供え物は神は受け取られなかった。

そしてカインはそのことによって腹を立てて、アベルを殺害してしまったという失敗があったので、それをヤコブの家庭において、神はもう一度、あの同じシチュエーションを作ってですね、そしてエサウを愛で自然屈服させるという風な、そのような計画を神様は繰り返しておられたというわけですね。


この様な事実を歴史的同時性というのですけどね。

神様がそのようなことをされていたということは、これは統一原理によって初めてちゃんと解釈されていることなんですよ。


それが 理解できるできるとまさにこれまた、今の時代に生きる自らにも当てはめることができるわけですね。


この様な弟ヤコブが兄エサウを自然屈服させるっていうような事は、 自分の兄弟関係とか職場の関係とかでも 似たような場面はしばしば起きてくるわけですよね。


例えば自分の会社の課長は人格的にも、ちょっと私よりも怪しいしちょっと無謀なところがあったりする。

ただし 数字だけは 営業成績だけは大きく上げる。

そういう風な上司がいたとして、例えばその上司を陰で避難したり、こき下ろしたりして、それで自らの上司について、陰で悪口を言い、その悪口を言い広めて、あることないことの噂を立ててですね、それで気に入らない自分の上司を引き下ろして自分がその上司の座にとって代わって立っ たとしたら、

それは神様がそれを喜ばれて未来永劫に導かれるかっていうと、そうではないでしょって私は思いますね。 


世の中にはこの様なことがもしかしたらあるかもしれません。けれどもそれは原理が言ってるように、アベルの立場にいるもの、それはヤコブ家庭においては弟のヤコブになりますよね。

ヤコブのように、影でその神の前に執り成しをし条件を立てたりし、そして最後に兄エサウの前に、

この世で得た収穫も全てあなたにあげますよ、ということでですね。あのように地にひれ伏して。それを見てエサウがですね、感動して自然屈服する。そのようなことが未来永劫に神が責任を持ってその子孫を発展させるための態度ではないかというのですね。


ですからヤコブというのは、そういうふうな神の願われる

姿勢を兄に対して行うことができたから、多くの神の祝福を得ました。イスラエルという、今現在でもイスラエル民族、またイスラエルという国がありますけども、ヤコブがアブラハムと並び、まさにその信仰の父ですね。信仰の父という立場で、あのイスラエル民族はヤコブの信仰の子孫という立場で今も世界に存続しているということになってるわけですね。


これは単に、ずる賢いヤコブをただ憐れまれたという神の物語があったのではなくて、そこには深い神のカイン、アベルの摂理というものがヤコブの家庭にも働いていて、 ヤコブは知らず知らずそのような神の計画に沿って動いてたってことが統一原理によって明かされてるわけです。


ー つづく ー