2022年10月5日水曜日

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会 <その2> クリスチャン小関

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教
<その2>

2022年 09月 18日

クリスチャン小関


音声video :リンク先


拉致監禁される


はい。それでは、統一原理についてですね、聖書の物語をキリスト教の信仰を持っているだけではわからないことについて、いくつかお話してきましたけども、

ここで私は皆様に伝えたい、伝えなければならない内容があるので、その部分もお話ししようかと思います。


私は先述したように1992年にビデオセンターでこの内容、統一原理をもっての聖書の勉強を通して、これはすごい内容だと、このことはすべて学ばなければならないと確信を持っていたわけですが、実際に、4Daysを出てですね、その後の新生トレーニングというですね1ヶ月単位の研修に入りました。

それは仕事の後に学習センターへ行き、毎日夜に講義を受けるわけです。そしてひと月の約半分は教会の中の宿舎に泊まり、あと半分は講義の後、夜遅く電車で自宅に帰る。そのようなスタイルで私は通っていました。


その新生トレーニングは1回だけで修了では無く、私は2度目を受けたののですね。


2度目のですね、ちょうど1ヶ月の真ん中ぐらいに差し掛かった時、ちょうど8月のお盆で会社がお休みだったんですね。

その頃、仕事と新生トレーニングでのハードさを体に感じて来ていました。


仕事が終わった後、学習センターで新生トレーニングの講義を受け、コミュニケーションの後それから家に帰るので、家に帰るのが夜11時とかそういうレベルだったんです。

結構疲れも溜まってしまったので、ちょっと2、3日程、実家の自宅においてくつろごうと思いましてですね、

統一教会の方にも、ちょっと言い訳をして2、3日程、家で疲れを取るために休んでいたんですね。


お盆休みの昼間、ちょうどその時、私の父が私の部屋に入ってきてですね、「お前と話をしたい人がいるから来てくれないか」って言うんですよね。

で、私は「いいよ。そんな人に会う気はない」と返すのですが、父はしつこく引き下がらないんですよね。

そして父がですね、私の手を引っ張るわけですね。

「やめてくれ」と私は言ってですね、それでだんだんとその雰囲気が気持ち悪く感じてきたのですね。


それで私は当時、50ccの原付バイクを持ってたので、 ちょっとこの場所から離れて気晴らしにバイクで一回りしてこようかなと思ってですね、ヘルメットをかぶったんですよ。


そしたらですね、部屋のドアの先から母が出てきてですね、

「止めて止めて!捕まえて!逃げようとしている!」と叫ぶわけです。

それで私は捕まえられてですね、2階の私の部屋から階段で下の1階に引き下ろされて、そうしたら下の1階にはですね、私の兄と兄の友人たちがさらに2人待ち構えているわけです。

それで多くの人数により取り押さえられてですね、そして家の外に横付けしてあった乗用車の後部座席に押し込められました。それで、その後部座席の真ん中に私、両脇に父と母がガードして、どこに行くかわからない車が動き出しました。運転は私の兄がしていました。前の座席に兄と兄の友人が乗っていました。

後部座席でどんなにあがいても、動けない状態にされました。それがまあいわゆる拉致監禁というものですね。

統一教会信徒に対する拉致監禁ですね。


私はさらに父の手により目隠しをされて、車がどこを走っているのか分からないような状態にされました。

しかし疲れた父の手の隙間から瞬間的に景色が見えたりし、

まあ、ある程度の場所の雰囲気、一般道を走りつつ東北自動車道を渡ったとか、そういう雰囲気でなんとなく位置関係は分かったのですが、結局、現在で言うさいたま市の、とあるアパートに押し込められました。強制的にですね。


閉じ込められた後は、約2、3日の間、食事は与えられましたけどもね。靴は隠されそしてドアには鎖の錠をかけられ出られないようにし、アパートの中のそしてあるいち1部屋の中に閉じ込められました。


拉致監禁牧師とのやり取り


2、3日が経過して、ようやく父が言っていた、私と話したいと言っているという人が来たわけですね。

それがまさしくキリスト教の脱会活動専任牧師ですね。

まあ統一教会から見ると 反対牧師とか、拉致監禁担当牧師、まあそういう風な感じで言われてますが、 キリスト教側が言うと救出活動の先生、救出牧師とか言われてますね。


その牧師が来ました。それであの原理講論をですね、お前に原理講論を使わせてやるから手渡すから、この私、牧師が質問するものに対して答えてみよと言うのですね。

それで、まあ根掘り葉掘りというか、小手先の質問ですよね。


統一原理の摂理的同時制が 例えば40年が3回繰り返してると説かれていたりする事に対して、この2番目の長成期の年数において、本来40年でなければならないところが、なんで統一原理はここは42年になっているのかと。40年にならなければおかしいじゃないかと…それを延々と続けるわけですね。

それは 統一原理を聞いていれば誰でもわかることで、人間の責任分担によってその神が計画した40年に対して、それが若干遅れることもあれば 若干早まる早まることもあるっていうですね、人間の責任分担の完遂いかんで、年数が少し早まったり、逆に遅まったりするわけです。

統一原理を聞いていれば誰でも普通に理解して納得してる内容なんですが、それに対して牧師は、そこの年数がずれているから統一原理は間違っているのだと言い張るのです。

これは全く話にならないんですね。


また、例えば文先生がですね「バカは死ななきゃ治らない」と言った記述が有るとしましょう。

その事に対して牧師は、「バカとかそういう言葉をいうのはメシヤでない証拠でしょう!」とこんな感じで、小手先の批判を永遠と続けるのですね。


原理講論でもってどれだけ私の知ってる範囲のもので真剣に回答をしてもですね、相手は何も納得しないんですよね。

話し合いの目的ではなく、ただの強制説得のつもりなわけです。

「あ!ここ答えたな!このハードルを越えたから次はこの質問を投げかけよう。というですね、それを全部準備しているわけですよ。


また、洗礼ヨハネはエリヤとは、聖書では言っていないとか、サタンは元天使ではない。など、ウソの質問で私を騙そうとしたりもしていましたね。

この様なことはふつうのキリスト教徒でも知ってることです…


でまぁそのようなことを約1ヶ月半ぐらいの間、繰り返して来たわけですけれども。

もうそのうちですね、横で聴いているにいる父親がですね、 あのヒゲを剃らないんですよね。

この監禁説得をしてる間ですね、私が「この統一原理を否定して、 辞めない限り俺は髭を剃らない。このように伸ばしたままにする!」と、髭を剃らなのですね。

髭を長くして、それでその監禁が始まって40日近くに なった頃にはもう父親らしからぬ姿、雰囲気で迫って来られました。「いい加減にしろ!」っていうことでですね。

たてついて来られまして、「俺の人生、お前のこんなことのために破壊されたくない!」

そう迫るわけですね。 まあもう父親には見えないわけですよ。そういう風な状況になったんですよ。


本当にあの時の状況、両親の姿を見ると、

そういう反対活動牧師と接していなかった時の、父と母の姿とはもう、打って変わった姿になってしまっていたのです。

両親は反対活動牧師の言っていること、指導していることに対し、絶対服従。それで反対牧師と報連相、つまり報告連絡相談して、自分たちの素直な思いや意見は 絶対に挟まない。 私の父親と母親がもし自分達で何か良心的に何かを思ったり、呵責に思ったりしたり、何かを感じたことがあっても絶対言ってはいけない、とそういう感じの指導ですね。あれはね。


ところが、説得活動を受けてる時に反対牧師が説明している堕落論の概略、解説に対して、私の母親が素直に驚いて、「一体このお話は誰が解説したの?これは物凄いすごい内容でしょ!」って 言ってた時がありました。

それに対して、それを横で聞いていた父親が、ドアか壁だかを手でバーンと強く引っ叩いて、余計なこと言うな!っていう感じで母を止めました。

なので私の父と母は、その反対監禁してる時には、

反対牧師の指導した内容に対して絶対服従で、自分の思いを絶対挟むな、語るな。

その様子を見て状況を見てそう取れましたね。


また、私を監禁する中で、統一教会の、いろいろないわゆる霊感商法だとか、印鑑売りとか、また壺を授けるためのトークについて批判されました。

私はそういう活動の経験がないのでまったく何のことかよく分かりませんでした。


反対牧師が脱会させた元信者から接収した霊感商法の資料をいっぱい持ってるわけですね。それで私に対しその資料を出してこれをみなさいと言われ、強制的に見させられる。


私はそれはよくわからないので、見て読んでいる振りだけをして読みも見もしなかったんですけどね。

それでまぁ、その後にこの事柄について、お前はどう感じたのか?どう思うのか?と問いただされるわけですね。


それでもお前はまだこの統一教会を学んで行く気持ちなのか?と問われるわけですね。


私は、「別にそんなことに関わったこともないし、よくわからない。いいんじゃないか?」って答えたのですね。

そうしたら平手打ちされましたね。それはたしか、母が私を平手打ちしたと思うんですけどね。


私は当時いわゆる霊感商法とか壺授けとかについては全く何も知りませんでした。


ですから、いわゆるそういった踏み絵を準備したりしてですね、父と母が植え付けられた不安によって激しく怒るわけです。

それはもう父と母が反対牧師によってマインドコントロールされてる状態です。

もう元のキリスト教徒としての父と母ではないと見えました。


私は監禁される前に統一教会のトレーニングで、4Daysセミナーの直前に、「真の父母様」っていうことでメシアが明かされたわけですよ。 


メシアが真の父であり真の母って言われて、でもその時は自分のクリスチャンの父と母も素晴らしい父と母だし、この父と母がいるだけで十分じゃないかなって思ったんですよね。

実はですね、それがですね、

その監禁の時の反対牧師に操られている父と母の姿を見て、クリスチャンである父と母も完全なる父でもないし完全なる母でもなかったんだってことですね。

このことはひとつの、神様がやっぱり教えてくださっていることだっていうことですね。 気付かされたわけですね。


それでこのように監禁されるとですね、もうその場から抜けられなくて、結局、統一教会の信仰を捨てちゃう方も結構いるんですよ。


特にもともとクリスチャンであったとか、宗教を元々持っていなかった方っていうのは、結構この内容を捨ててしまうことが多いんですけど、私は元々クリスチャンの信仰を持っていたので、反対牧師の活動の方針のおかしさと、それに操られてる、もともとクリスチャンだった両親のその狂わされた姿を見て、私は感じました。

ああ、今の時はキリスト教がすべてではなかったということですね。

わかったわけですね。そのような状況や場面でですね。


それで私はどうしてもこの状況を出して状況を変えなければならないと思いました。


監禁からの解放


神様から一つの知恵が与えられました。

いわゆるクリスチャンとしての信仰告白というのをですね、

私は元々クリスチャンでしたので、どのようにすればクリスチャンとしての信仰告白を表明した事になるかっていうのがだいたわかるのですね。


「イエスキリストはメシアであり救い主であり私の罪の贖い主である」ということですね。


それで、そのような証言を宣言をした姿を見て、反対牧師は私が一応、回心したとみて取ったわけです。私の両親は涙を流しておりました。

監禁されてるアパートから約1か月半ぶりに出る事が出来たのです。


監禁されていたのは40日ぐらいだったと思います。でも、長い間一つの部屋に閉じ込められていたせいか足腰が立たず普通に歩けないほどでした。

その後、母親がしばらく私につきまとうという軟禁状態となっていました。それと週に二回ほどのキリスト教のビデオ学習と日曜日の礼拝に参加することが義務付けられていました。

その状態が二ヶ月ほど続いたと思いますが、そののち、ようやく警備員のアルバイトをすることが許されました。


そのような身辺の状態ではありましたが、私は警備員のアルバイトしながら、警備員の現場が早く終わった時に統一教会の下町の学習センターに通って再び学ということを始めたのですね。この学習センターは家庭や仕事の事情などで、新生トレーニングなどの宿泊が込みの内容に適応出来ない人が学ぶセンターでした。


そのように反対牧師の教会と統一教会の同時並行の状況を1年ぼど続けました。二股状態ですね。


活動牧師の教会の礼拝も出ないといけないし、平日半ばにはその夕礼拝にも出る。何かイベントがあれば参加する。そのような中で時間がとれるようなら極力、その下町の統一教会の学習センターにも行くようにしていました。


この状態が活動牧師と両親にバレたりすると再度また監禁される可能性もあるので非常に危険だったのですけども、幸いそのようにはなりませんでした。


そのような状況が監禁から脱して1年ほど続いたのですが、その統一教会の下町の学習センターの講師の方からですね、「いつまでこういう信仰生活をするのかっ」てちょっと問われてしまったんですね。


これではずっと変わらないんじゃないかってことですね。

その下町学習センター講師の方の意向としては、

もともと参加していた、宿泊付きの新生トレーニングのコースに戻ることは出来ないか?というような印象だったんですね。


ところがですね。私が感じる実感として、当時の私の両親のあの執念っていうのはすごいものを感じていましたので、その講師の意向には沿わない方法をとりました。


統一教会青年部に所属して


私は、地方都市にある統一教会に移れないかと考えました。

東京下町の統一教会はあまりにも規模が大きいので、ビデオセンターでの受講生から、青年部員、教会員になるまで多くの段階とトレーニングを経なければならず、なかなか教会全体の姿を見ることが出来なかったからですね。


そこで私は地方のですね、北関東の県の統一教会の方に移れないか、と考えたのです。


その頃ちょうど北関東に有る、自分に合った仕事場を見つけたのですね。

この仕事場に就職する目処がついたので、その職場の近くに借家を見付け引越す事にしました。

それが、監禁が解かれてかてから1年3ヶ月程の頃です。


そして、北関東の統一教会に通う事にしました。そこは教会がドンとあって、そこに青年部というものもあるのですが、普通の壮年壮婦と一緒に青年部の人も一緒に礼拝に出て、教会長の説教を聞く、そういう教会でした。

むしろ私はそういうところを願っていたんですね。


新しい自宅から、北関東のその教会へ通い、青年対象の40日間トレーニングを受講しました。

それを修了し、正式にその教会の教会員となり、青年部に所属することになりました。


やはりその環境は東京下町の教会とは違って統一教会の全体が分かりやすい環境であったと思います。


気になっていた、キリスト教の反対活動牧師が主張していた、統一教会のその経済活動の問題ですね。

その霊感商法だとか、また壺を授けるだとか、そして珍味売り、ハンカチ募金活動ですね。

一体それは 何なんだろう?って私は思っていたんですよね。

その事も早く知り、どういう意味の活動だか知りたかったのです。 それを手っ取り早くちょっと見たいと思ったんですね。

青年部の40日間の原理の教育を受け終わった後、教会でのいろんな活動を色々と見ることができました。


統一教会の経済活動


そうしたらやはり、ハンカチ募金活動などに付きましては戸別訪問活動をし、やっぱり体や環境の不幸な方、不自由な方のために寄付をしてください、って家々を回るんですよね。


ところがその客さんからいただいた寄付の大半は、その当の信者の方の祝福献金だとか、もしくは教会のための献金だとかに回されていってる事が解ってきました。


それはまさしく、そのお客さんとその統一教会信者の方とのコミュニケーションを取った時の信頼関係を裏切って、それでそのお金を別の目的のために用いていた訳で、

私はそのことについて疑問を感じて、その北関東の教会の教会長に対し、ほかの青年のメンバーがいる前で質問をしました。


そうしたらその教会長は目を大きく見開いて、私を見て「何を言ってんだ!これは天法だ!」教会の天法だと言うのです。

神の目的のためだったら手段は選ばないっていう風な ニュアンスですよね。


「これ、おかしいだろう」って私は思いました。

この事については私自身キリスト教で育ってきたからこそ、倫理的にそれはおかしいっていうことを思ったんだと思います。


しかし私の周りの統一教会の青年の兄弟姉妹たちは、疑わずそのような活動に日々いそしんでいました。


お客さんとコミュニケーションをとってる時に、お客さんから信頼を頂いたとしても、説明や言っている事と自分が実際にしている事が違う。


そのことの疑問を教会の青年の先輩やマザー等に質問すると、「そのお金が結果的には天のため、神のためにそれが用いられているんだから、それはいいんじゃないか」って 答えるのですね。

あとですね、その献金したお金が、韓国の様々な幹部だとか、もしくは組織体に用いられている。

そういうことがだんだんと分かってきたわけですけれども、

そのことについても質問しました。


「自分の捧げた献金が、もしかしたら韓国の悪徳な幹部が私服を肥やすために、懐に入れてる場合もあるんじゃないんですか?」って聞いたらですね。


「いや、いいじゃないですか。あなたが捧げたこと自体は神が知って受け取ってるのだから、そのお金がどのように 用いられようと、たとえそのお金が悪い幹部の懐に入ったとしても、そのことについては神様がその幹部の人を裁いてくださるのだから、あなたがその事を気にしたり関与しなくてもいいんじゃないでしょうか?」と言われるのです。


しかし私はそれは違うと思いましたね。

ええ。自分の捧げたお金が1円足らずとも神のために、本当に有益のために用いられてこその献金であって、

自分の捧げた献金が、ただ神様の前に捧げたから、あとはもう全部上にお任せというのは、それは責任がないことだと私は思います。


ですから今もまだ、家庭連合の方ではそのような考えや方針になっているのかもしれませんが、自らが捧げた献金がどのように用いられて、誰の懐に行ったのか、または、どういう事業のためにそれが実際に用いられているかっていうことは、 詳細にすべて明細を明らかにしなければならないと思います。


これはキリスト教でも毎月の週報で、信徒から捧げられた献金がどの様な名目で用いられているのか。

例えば光熱費、牧師への謝礼、教会の修繕積立費、ボランティア活動のため、バザー開催のため、他教会へのサポートのためなど、何のために用いられているかを、明確にわかるようにされてます。礼拝に参加する信徒の方にですね。


なので、信徒は自分が捧げる献金に対してそれがどのように用いられてるかという事は、捧げた方も絶対に責任を持たなければならないと思います。


償い献金、いわゆる蕩減献金


それとですね、今も家庭連合の方では、「日本はエバ国家であって、韓国はアダム国家であるから、エバ国家がアダム国家である韓国に献金を捧げなければならない。経済的な糧(かて)はエバが用意し捧げて、その献金をアダムである韓国の世界本部がそれを采配して用いていく、という風な教えがあり、それについては現在マスコミ等でも相当に問題視されて取り上げられてますけども。


その様な事も、いい加減やめた方がいいんじゃないかと思います。


韓国は確かに日本の施政権下にあった時期はありますけども、日本は当時の韓国のインフラ建設や、韓国の教育とか生活基盤に良い影響を及ぼした部分も多大にあると思います。


確かに日本人の憲兵が、抗議運動をする一部のキリスト教会を弾圧して火をつけたということはあったかもしれません。でもすべてがすべて、そういう活動を日本の憲兵たちがしていたとは思いません。


それと実際に当時の韓国に赴いていた日本のご年配の方々の証言としても、日本人が韓国において、そのようなどこもかしこにおいて、韓国人を弾圧してそういう苦痛を与えていたということはそれは無かったと証言されていて、

現在の韓国から発せられる、当時の日本人へ対する主張とあらゆる報道はひどいもので、とても心痛いとおっしゃっておられました。


国家間において、この様な問題を抱えておりますが、

家庭連合、統一教会においても韓国に対する蕩減(罪のつぐない)としてお金を捧げなさいということを言っています。


蕩減献金は信仰と経済の発展を止める


かつての朴槿恵大統領は日本に対して、その恨みは1000年消えないと、そういうことも言っておりましたけれども、

自らが許すことのできない対象、存在を持ってるという事自体が、自分自らの霊的にもまた肉的にも経済的にも発展を止めているという事に気づかなければならないです。


これは、個人の間においても、国家間においてもです。


キリスト教においてイエス様はこの様なお話しをされています。

ペテロがですねイエス様に質問をしました。

「もし自分に対して罪を犯した人がいたら、その人に対して何度許さなければならないでしょうか?七度まででしょうか?」と尋ねたところ、イエス様はペテロに対して「七度を七十倍するまでも許さなければならない」とイエス様は言われてるわけです。


ですから、人間は例えどのような仕打ちを受けたとしても、自分がある対象に対して許すことができない、未来永劫に許せないという風な観念を持つこと自体が神の前にですね、まさに神の御心に反しているので、

韓国の国の発展も信仰の発展も経済の発展も阻害されてるという事を知らなければならないと思います。


日本の今の家庭連合の幹部の方というのは、いわゆる韓国の本部の方の指示を仰いでその通りにする、

韓国の方で発案された献金のノルマを日本の幹部に伝達して、それを日本の各教会に指示している。このような状態なのですけれども、

そのような姿勢自体が、今現在の日本の混乱とさらに韓国の幹部の私腹を肥やすなどのいろんな問題が起きている、問題だらけになってる事の原因だと思いますので、そこを絶対改めて、日本は日本で独自で、何て言うんでしょうかね。

韓国は韓国。日本は日本で自己決定権、自治権を確立出来るようにする。このことが今の社会の混乱を解決出来るかどうかを左右するポイントではないかと思いますね。


統一教会のアベルカイン


私は活動牧師に監禁されて非常にキリスト教に失望した立場ではあるんですけども、

実際に北関東の統一教会において、その経済問題だとかそれとアベル、カインの問題の事も非常に問題を抱えていることを知りました。


例えば、アベルの立場にいるものが、カラスは白い、と言えば、その下にいるカインの立場の人もアベルの言う通りカラスは白いと思いなさい!と、それが 日本におけるカイン、アベルだと言う風な関係になってるんですけども、

それも間違ってますね。


そもそも、アベルはカインに対して仕えるべき存在であって、相手を愛で屈服させてしまう、その愛で相手であるカインを溶かすというか、愛であのカインを納得させるというですね、そういう存在関係がカインとアベルの関係の意味なんですよね。


特に1990年代後半の統一教会というのはそういうアベルカインの問題や、献金の問題において、非常におかしな状態を見ることになってしまったので、私はその中に巻き込まれるよりは、むしろ、その時はもう、私の敵になってしまった、はずのキリスト教会にですね、もう一度入り込んでいってですね。キリスト教の真髄をもう一度、自らが体験し学ぶという期間に充てることにしました。


統一教会の経済活動に巻き込まれるよりは私の両親やまたキリスト教徒を、愛と信仰で自然屈服させる道を求めるほうが賢明だと思ったわけです。


キリストの十字架の血による神の赦しとその倫理で


その頃キリスト教の大きな伝道集会やセミナーなどに参加しました。キリスト教にはペンテコステ派という、聖霊の満たし、身体や精神の治癒、悪霊からの開放などを行う教派があるということを初めて知りました。


今、二代王様、亨進様が行っているその礼拝の形式もそのキリスト教のペンテコステ派の流れを持った、その礼拝形式だって言うことがよくわかるんですけどね。


私はそういうキリスト教の信仰者としてのキリスト教の真髄っていうものをですね、深く体得しなければ、私を監禁した活動牧師や、私の両親を納得させ、ヤコブがエサウを愛で屈服させたようなことができないと思うのですね。


キリスト教の信仰において彼らより優っていなければならないのですね。キリスト教をもう一度学び直すことによって、キリスト教の十字架の血による神の赦し、あがないですね。

これを頭ではなく体験的にですね、キリスト体験して、そしてその信仰体験をもとに、もう一度この統一原理と向き合い、キリスト教の本当の聖霊による救いというものを体得しつつ信仰に向き合ったらですね、

統一教会、家庭連合の信徒たちが陥ってしまうカイン、アベルの問題、

先程カラスが白いと思え、ということの例え話をしましたけれども、

神の前に善悪の倫理も分からなくなって、問題の中を突っ走ってですね、反法規的なことでも突っ走ったり、自らの家を犠牲にして破綻させて、その子供を不幸にさせたりするという様な事が起こらなくなってくると思います。


ですので、今のこの社会の混乱を救うのは、キリスト教の倫理と信仰観を持った上で、この統一原理というものをもう一回見つめ直して取り入れていって、それを実践活動に移していった人々によって、今のこの社会的な混乱というものは収集されて 解決されていくものではないかと思います。


はい。では一応1時間 経ちましたので、このあたりで今日は失礼させていただきたいと思います。


ありがとうございました。

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