2019年5月11日土曜日

'19年5月8日 韓国語説教<全文>原理を教え実践していたイエスの兄弟ヤコブ教皇◆ 文亨進二代王

原理を教え実践していたイエスの兄弟ヤコブ教皇


本文より:パウロ以前、最初の教皇ヤコブは原理を教えていました。5%責任分担を教えていました。責任を捨てませんでした。血統、王権、王冠もあります。血統、王冠、原理、責任。神様の前に義、責任、律法、プラスアルファ、イエス様が主という事実を信じ、そして実体的な王国を建てようとされました、実体的な王国。


<全文>

翻訳:minion,cham,rerakuru,grazia 監修ファンクラブ
29:5447:00↓↓翻訳:minion
こんにちは。食口の皆様。

今日は、韓国語礼拝を天一宮でする事になります。真の家庭の榮進(ヨンジン)兄さんの娘になる信兒(シナ)が、今日、祝福を受けます。ですから、すぐ、出発しなければならないので、教会でいろいろな準備をしながら、今日は、ビデオメッセージで、インターネット放送で、天一宮で撮って、すぐ出て行かなければなりません。それで、すぐ聖書の聖句に入りましょう。

驚く内容が発見されています。二番目の本をドクター ポール ウィリアムズ博士と書きながら、これは完全に全キリスト教を揺さぶることでしょう。すべての社会主義キリスト教を破壊的に暴露する事になるでしょう。社会主義キリスト教だけでなく、カトリックの詐欺内容。それだけでなく、進化論、堕胎、政治サタン主義の内容を暴露するようになるでしょう。

大変高い次元で、ドクター  ポール・ウィリアムズ博士が大変多くの精誠を私達と共に尽くした、大変質の高い本が出ています、今。

鉄の杖の祝祭が10月に、私達はその内容を発表するだけでなく、本のサイン会だけでなく、初めて本の出版の出発をする事になります。

ですから、その内容を通じながら、なんと、私達は大変多くの内容を発見するようになります。

特に、今これから、使徒行伝21章の内容を見ますが、パウロだけでなく、ペテロだけでなく、ジェイムズ、・・・ヤコブ、どうして、韓国語でジェイムズがヤコブだ。いらいらする。どうしてジェイムズがヤコブなのだ。ヤコブだね。本当にいらいらする。本当にめんどうだ。言語問題。

とにかく、ジェイムズ、ジェイムズ、ジェイムズ。韓国人はジェイムズを知ってるでしょう?ジェイムズ ボンド。ジェイムズ、ジェイムズ、ジェイムズ。どうしてヤコブなのか。とにかくそれは別の話。
*参考:本来( ya`áqöb)ヤコブJacob 。新約ではこれがギリシャ語(Iákōbos:ヤーコーボス)→フランス語James→英語と伝わり発音はジェームスとなった。つまり( ya`áqöb)は旧約ではその発音Jacob 、新約ではまったく違うJames。韓国語ではヤコボと発音、カタカナ表記ではヤコブが原語に近い。

さあ、初期キリスト教で、パウロだけでなく、ペテロだけでなく、ジェイムズ、ヤコブ、ジェイムズがいたのですが、ヤコブは誰ですか、イエス様の兄弟です、兄弟。異母兄弟。
(注:前回もヨナニムは異母兄弟と二代王からに説明された。キリスト教会では諸説がある。単なる勘違いかもしれないが発言通りの訳。諸説にも異父兄弟あり。諸説リンク
だから、事実、私達はヤコブについて多く聞く事はありません。特にキリスト教では。

なぜ?なぜならマルティン・ルターが16世紀に、プロテスタント革命を始めた時、マルティン・ルターが書いた文を見てみると、信じる事のみで、ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)、信じる事のみで、救いを受けるのである。信じる事のみで。こういう極端的な信仰の内容を発見して、プッシュしたのです。

そうしながら、ヤコブの手紙を、聖書に出てくるヤコブの手紙を破り捨てました。自分の聖書から。それは大変な異端でしょう。それをする事それ自体が異端ですね。なぜ?ヤコブの手紙に出てくる話を見てみると、特に2章では、「行いのない信仰は死んだものである。」と出てきます。Faith without action is dead.。

だから行いがないといけないという事です。即ち、5%の責任分担がなければならないという事です。しかし、行いだけで救いを受けるのではありません。信じる事により救いを受けるのですが、行いがその信仰と救いを証しするのです。

ですから、本当に救いを受けたなら、聖霊が入って来て、自分を変えるという事です。だから行いが変わるのです。そうですね。私達には大変簡単な内容です。なぜ?原理があるから。

しかし、一般のキリスト教では、「行いは宗教的内容だ」「パリサイ人のものである」と言います。そうしながら、信仰だけが、信仰によって、信仰が重要である。確かに重要です。信仰を捨ててはいけません。
私達の教会の問題は信仰を捨てたのです。行いだけが中心となり、信仰をだんだん捨てたのです。そうでしょう?オンマ。

それもだめです。それも極端的な反対の問題です。信仰と行動。信仰と行い。自由と責任。自由と責任。自由がそれだけであるのではなく、責任がそれだけであるのではなく、自由と責任。信仰と行い。そうでしょう?過度に「行い」だけに行けば、パリサイ人になり、過度に「信仰」だけに行けば、異端になってしまいます。

ですから、カルヴァンの場合は、・・・マルティン・ルターの後の大変重要なプロテスタント教徒で、カルヴァン教もありますね。ジャン・カルヴァンは何と言ったかというと、「一度救われたのなら永遠に救われる。」と言いました。ですから、一度イエス様を一度証ししたなら永遠な救いを受けたということです。自分がそういっています。これは非聖書的な内容です。

特にヤコブの手紙を見たら、そうではありません。孤児と未亡人を愛し、面倒を見て、奉仕する人が救いを受けると出てきます。

ですから、私たちの5%の責任分担があるということです。原理の立場から知っていますね。アダムとエバは神様と直接の関係があったのにもかかわらず、堕落しました。もちろん創世記にありますが。

韓氏オモニの天宙的な堕落に従ったら、自分はお父様の権威圏と血統が断たれてしまいます。お父様に背信した歴史を証しして支持し、自分の血統もなくなってしまいます。なぜ?韓氏オモニの堕落した血筋を受けるようになります。

ですから、堕落した聖酒を絶対に飲んではいけません。それはサタンの血統です。ですから、韓氏オモニに従った人は堕落したということです。サタンの血を相続したということです。お父様の血と血統と三代王権を捨てて、嘘を信じて、天宙的パワーだけに従って、堕落したのです。聖書の、特にヤコブの手紙において「私たちは救いを受けても、私たちは救いから離れる」という内容が出てきます。

ですから、マルティン・ルターがそれほど嫌ったのです。カルヴァンもヤコブの手紙を嫌いました。なぜなら、自由と責任を話したからです。なぜなら、信仰と行い、二つとも、一つだけではなく、信仰だけではだめで、行いだけではだめで、一緒に、信仰と行い(と話したからです)。自由と責任。

神の王国がこの地に来ても、自由と責任、両方があります。平和軍警察があります。多くの自由があっても、すべての市民には平和軍警察の責任があります。自由と責任。責任がなければ自由がなくなってしまいます。

その国の人たちは快楽主義者になり、性倫理が堕ちて行きながら、非倫理的内容になってしまい、バアル神に仕え、子供を殺し、こうなります。自由がなくなり、寡頭政治、全体主義が来ます。ですから、自由と責任、信仰と行い。

驚くことに、聖書を見たら、初期のキリスト教、主が十字架にかかって亡くなられた後、その全世界の教会の中心はどこでしたか?エルサレムでしたね。エルサレムの王は誰でしたか?エルサレムの教皇は誰でしたか?ヤコブでした。ジェイムズ。ジェイムズはイエス様の兄弟でした。血が繋がっていました。ですから、初期のキリスト教は血統を認識していたということです。血統を。
ヤコブをアナナス祭司長が、パリサイ人が、ヤコブを殺した後、ヤコブの後継者が誰でしたか?シメオン!シメオンは誰ですか?シメオンはクロパ(の息子)、(クロパは)イエスのおじさんでした。ですから、シメオンは誰でしたか?イエス様の甥、cousin。
(注:韓国語では甥と言っておられるが英語では正しくcousin従兄と言っておられる。)

使徒でもありませんでした。使徒パウロのように、ペテロのように、イエス様に仕えた人ではありません。しかし、血筋で繋がっている人でした。シメオンが。シメオンはヤコブの後継者でした。不思議ですね?

ですから、私たちが何を発見したのか?初期のキリスト教徒たちは血筋をそれほど重要視しました。なぜ?イエス様を万王の王として侍りました。万王の王の血筋と家庭、家系をそれほど重要視しました。その人たちは使徒でもありませんでしたが。

ローマのトラヤヌスという皇帝が、イエス様が亡くなった後に、ヤコブ、シメオン、イエス様の血筋をすべて殺してしまいました。そして、イエス様に繋がった血筋は全てなくなってしまいました。すべて殺されました。

なぜ?ここエルサレムで新しい王国を立てるという事実、その内容を見たからです。さらに、不思議なことに、ヤコブは血筋を重要視しましたね。二番目に、王冠を被りました。ヤコブは、初期のキリスト教は、王冠を被りました。

ヤコブはそれほど権威があったということなのです。どれほどの権威?プロテスタントで最も権威がある使徒パウロまでがヤコブの前で礼をして従いました。プロテスタントが最も重要視するペテロ、自分たちは初代の教皇といいますね。ペテロもヤコブの下でした。ヤコブの前に従順となり敬拝をしなければなりませんでした。

それほどヤコブは初期のキリスト教においてイエス様に似ていたため、また、血がつながっていたので、兄弟として、全キリスト教世界の中心であるエルサレムで教皇でした。ヤコブは。

では、どうして私たちはこれを歴史上で聞かないのでしょうか?聞きません。キリスト教がこれを言いません。どうして?ヤコブは、ソラ・フィデの信仰だけが救いを受ける。一度救われたら永遠に救われるという、このような異端を大変嫌いました。

見てください。使徒行伝21章17節を見てみると、このストーリーを見てみたら、パウロは怒られます。ヤコブはパウロを叱ります。なぜ?噂(うわさ)が広がっていたのですが「パウロは信じることだけを教えている」と、また、「モーセの律法を捨てている。」という噂が回っていました。

ですから、ヤコブはどうしますか?パウロがエルサレムに戻った時にヤコブは叱ります。どのようなことが起こったか見てみよう、(21章)17節。さあ。

21:17わたしたちがエルサレムに到着すると、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。

21:18翌日パウロはわたしたちを連れて、ヤコブを訪問しに行った。そこに長老たちがみな集まっていた。

長老たちはヤコブのそばにいました。

21:19パウロは彼らにあいさつをした後、神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事どもを一々説明した。

21:20一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。

21:21ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。

21:22どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。

21:23ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

21:24この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。


ストップ!聞きましたか、皆さん?
47:0056:24↓↓翻訳:,rerakuru
うわさが広がっている中で、パウロは異邦神、、(言い直して)異邦の民、異邦人たちを伝道しながらどうしましたか?モーセの律法を捨てなさい。必要ない。何?割礼も必要ない。など、このように教えているとうわさが広がっています。そうですね。
そうしてヤコブはどうしましたか?ヤコブはこのうわさが真実でない、真実でない事実を見せるためにお前たちはなんと言ってますか?(英語で)24節、24節のところ、読んでください。 

21:24この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、

きょめを行い

また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。

費用を引き受けてやりなさい。

そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

このようにヤコブがさせました。律法を、そのようにすること君たちが律法に反し、、(言い直して)律法に反していないことを見せてやるのである。

とても不思議ですね。使徒パウロはプロテスタントでは完全にイエス様と同じくらい、み言葉は尊敬を受けているわけですが、使徒パウロの文をみてみると、もちろん神様は使徒パウロに啓示をされたりもしましたし、使徒パウロは悪い人ではないのですが、自分が語るみ言葉の中にだんだん神様の律法の内容をだんだん重要視しなくなり、だんだん信仰だけ、信仰だけ、と話し出しました。

そうしてどうなったかというと、倫理的にその教会がだんだん性の堕落、性の非倫理的内容が現れだしたのです。なぜならば、信仰だけなので、信じさえすればいいから。信じてさえいれば、行為は重要でなく、行為はバルセイ人の内容であるとして、信じてさえいれば、全てなされる。(となってしまった、、)

信仰は大事ですが、その信仰を通して、人が変わっていかなければならないし、行動も変わっていかなければならないし、行いも変わっていかなければならないのです。
イエス様を証しして信じたといいながら、継続お酒を飲み、継続浮気して、継続酒場の女遊びをして、続けて姦通し、同姓愛をしていたら、これではその人は救いを受けることはできません。

このような信仰だけで、永遠に救いを受ける、こんな異端の教えのために今アメリカのプロテスタントの教会では全て同姓愛者の牧師たちが公式的に認定されました。長老教、メソジスト教など、USAプロテスタント教会では同姓愛者の牧師たちが任命されます。なぜなら1度救いを受ければ、永遠に救いを受けるので、救い以後お前がどんな行いをしようと関係ない!だからです。

これは完全にサタンの主義、異端です。これは責任を奪っていきます。自由は責任を伴うのです。だから、異端のキリスト教がだんだん社会主義になってしまう、社会主義になってしまうのです。なぜか?責任がないから。行いがなくなっていくからです。

我々の信仰は行いをするようになっていきます。どのようにでしょうか?
カトリックのように貧しい人に食べ物をちょっとだけ投げ与えるようなこと?これは本当に人々を手助けしたことになりません。本当に人を助けることは人に力を植え付けてあげることです。魚を与えるのでなく、釣りを教えることです。平和軍警察がそうです。孤児たちと寡婦たちなど人々を羊飼いにつくる養育、それが平和軍警察です。

そのかわいそうな人々を強く作る、そのためには、釣りだけでなく全てのことをするようになります。自己のサバイバル、非常事態対処のためだけでなく、自己の個人的家庭的にもどのような、どんな究極的な状況にも負けずに戦って生き残ることができるように。そういう訓練を受けます。

それは人々にただ魚を与えるのでなく、ただ魚を投げ与えたら人は動物のように水槽の中の魚のようにそのまま自分にえさを与えてくれる人をただ待つようになる。動物になってしまう。自分の潜在能力を発展することができないでしょう。それは違う。それは人が他の人を愛するのでなく、人が人をコントロールしているのです。

ですから、ローマでは、全ての全体主義の国では、コントロールします。北朝鮮もそうです。飲食物が欲しければ、金正恩が与えてくれるからと、政府の委員たちから受けるしかない。飲食、食量、、、

ところで、お父様の様は、人々に農作業も教えてくださり、猟も教えて、釣りも教えてくださり、武道も習って、自分の王国を保護するための能力も助けてくださり、鉄の杖も下さり、そのようにしたのなら人々は自己がその内容からさらに発展することができます。水槽の中の魚のようにえさを与えてくれる人を待つだけの人でなく、王国を建てる人になります。またそれは平和軍警察とお父様の愛で受けたので、三代王権から受けたので、共に訓練を受けながらお父様から受けたので、お父様に無限の栄光をお返しするようになります。自分の成功はお父様の慈悲と愛からきているから、神様の王国では。

ですから我々は何を発見したかといえば、初期のキリスト教では、一番初期のキリスト教ですが、カトリックの前の、プロテスタントよりも前の、初期のキリスト教、ヤコブが教皇をしていた当初は何をみることができますか?ヤコブは原理を教えていました。

カルヴァンを教えていませんし、ルターを教えていません。1度救いを受けたら永遠に救いを受けるなどと、このような異端は教えていません。このような非倫理的内容を教えていません。自由と責任。信仰と行い。律法と救い。なぜか?イエス様は律法を破壊するために来たのではなくて、律法を完成するために来られた、このようなみ言があります。イエス様も律法を破壊しませんでした。

イエス様もユダヤ教徒でした。神様の律法を感謝と考えていたのです。詩篇19節詩篇12節、何だ?詩篇2節、何?2章をみたら、その詩篇で律法を賛美しています。それは神様の贈り物であると言っています。悪い利己的な人たちを導くための愛であると。

ですから、自由と責任は一緒にあるのです。翼のように。これは何ですか?鳩の翼のように。聖霊の鳩の翼のごとく。自由と責任。信仰と行い。両方がすべて必要です。信仰だけだと鳩は落ちてしまいます。行いだけでも鳩は今度はこちら側に落ちてしまう。信仰と行いが一緒にあってこそ(両手を同時に動かされて)自由と責任が一緒にあってこそ神様の王国が運営されます。そうですね。

突然救いを受けたので全ての責任がなくなった?このような異端的な内容が堕落の歴史を作り上げます。
同性愛者、トランスジェンダー、児童性暴行、一度イエス様を証しして救いを受けたから、これからは赤ちゃんを殺し、赤ちゃんを性暴力して首を切って、そんなことをしているやつらも天国にいけると考えている。話にならない。

56:241:05:02↓↓翻訳:cham
マタイ福音書7章に出るではないですか。過去にある人が私に来て「主よ、主よ、主よ。」と呼ぶだろうが「あっちに行け、私はお前を知らない。」このようにおっしゃいました。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

その人達が皆イエス様を証ししたのに、その人達が「主よ、主よ、主よ。」救われたと言ったのに、プロテスタントの立場では救われたのに、何故イエス様は捨てますか、その人達を。
私はお前を知らなかった、知らない。何故そのようにされますか。イエス様は直接的にご自分の口でおっしゃったのに、マタイ福音書7章で。え?!

その言葉は何ですか。嘘が入っているということです。信仰だけでは駄目です。信仰と行い、信仰と行いが続けて義を追求しなければならないでしょう。そうすれば堕落しないでしょう。救われても堕落することもあります。救われても救いを失うこともありますね、何故?サタンと手を繋げば、姦通すれば、救いを受けても死ぬこともあります。救いを受けても、人は聖霊を信じ聖霊と共に動いて、行いが義に行かなければならないでしょう。そうでしょう?

このような内容が鳩の二つの翼、信仰と行い、自由と責任。
私たちに初期キリスト教、聖書のみ言葉から何故キリスト教徒達が使徒行伝21章を教えないのでしょうか。何故?使徒パウロを懲らしめるから。ヤコブは律法を保護しているから、イエス様のように。律法を捨てませんでした。

使徒パウロはもちろん律法を捨てませんでした。しかし、使徒パウロはだんだん信仰だけを中心にしたから、異邦人を伝道したから、もう数百年後には次第に感化されて極端的になります。
使徒パウロは「一度救いを受けたら永遠に救いを受ける。」それを教えなかったようです。

ところが行けば行くほど、1度の差が行けば行くほどだんだん大きくなるでしょ。数百年後にマルチン・ルターだけでなくカルヴァンはヤコブ書を破り捨て、カルヴァンは極端的にしました。「一度救いを受けたら永遠に救いを受ける。」このような異端の内容、人を魚に、金魚鉢にいる魚のように作る、エサだけ待っている、そのような被害者達に作っています。

神様の王国はそうではありません。神様の王国は私達をただの魚に作られませんでした。羊から始まりますが、羊飼いに変わらなければなりません。そうでしょう。羊から始まりますが、羊飼い、詩篇23章に出る「主は私の牧者よ」牧者に似なければならないでしょう。

羊がただ羊に似たら牧者に似ません。牧者に似てこそ羊が牧者になります。そうでしょう、簡単な内容ですが、そうですが、あまりにも驚く深奥の発見です、これは。

何故?このような内容を通して私達は初期、初期、初期キリスト教、エルサレム教皇ペテロ以前、パウロ以前、最初の教皇ヤコブは原理を教えていました。5%の責任分担を教えていました。責任を捨てませんでした。血統、王権、王冠もあります。血統、王冠、原理、責任。神様の前に義、責任、律法、プラスアルファ、イエス様が主という事実を信じ、そして実体的な王国を建てようとされました、実体的な王国。

ですからヤコブと後継者達、血統の後継者達を皆殺したでしょう、トラヤヌス皇帝が。このようなことはとても驚くべき発見ではないですか、皆さん。
この2冊目の本を書きながら私たちが発見したものは何ですか。初、初、初、初、初期キリスト教にお父様が語られたすべての内容が証されていました、原理。み言を証しています。何故?原理5%責任分担がどれほど重要ですか、これは。

アダム、エバ5%責任、私達はすべての預言者達と主まで分析するとき、5%責任分担で分析するではないですか。アダム、エバ5%責任分担、ノア、ノアおじいさんの5%責任分担、モーセの5%責任分担、アブラハムの5%責任分担、いや、アブラハムが救いを受けても5%責任分担あったではないか、鳩を裂かないで。え?イエス様の5%責任分担など、原理はすべて5%責任分担です。自由と責任、自由と責任、信仰と行い。

ですから、どうなりますか。21章では、お前そこに行ってそのような霊的訓練を受けろ。

また使徒行伝23節見てみましょう。

21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

四人の誓願、誓願は何ですか。約束、何の約束?四人の約束、これは何ですか。霊的訓練する人達です。特別にぶどう酒を飲まず、ただの酒を飲まず、また性関係をしないで、また、簡単に言えば修道生活する人達です。ですから霊的訓練、訓練する人達、ですから使徒行伝23節に出てくるその人達に従って行きなさい、従って行き、何ですか、24節。

21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い

きよめの儀式、(ヨナ王妃:清潔にしなさい。)だから、清潔にしなさい、清潔、清潔にしなさい。その言葉は何ですか。
使徒パウロがもしも汚くなったのであるのならば、使徒パウロが律法は必要ないと汚くなったのであれば、ヤコブは何をさせますか?誓願を立てた四人と約束、そのような霊的な修行した人達と(供に)清潔にしなさい、え?頭を丸めて。驚くでしょう。

ですから何ですか。私達の原理でも修行とは呼びませんが、何と呼びますか。条件と呼びますね、条件。蕩減摂理に条件を立てなければならない、という内容が出てくるではないですか、原理に。ですが、プロテスタント教徒がそれを見る時に「あー、お前達はただ行いで救いを受けると考えている。」とこのようにいつも迫害しました、プロテスタント教徒たちは。

ですが、初期キリスト教徒達は、血統を重要視して、王冠を重要視して、神様の王国が地上にあることを重要視して、また条件を立てることを重要視しすることが、ここに見えます。23節、24節に。条件、霊的訓練、訓練が重要なのです。
ただ信仰、信仰、信仰、信じて、信じて、信じてだけではないのです。信じて歌って、信じて歌って、それも重要です。ですが、行い!も重要です。訓練!も重要です。訓練。自由と責任、天一国神様の王国に自由がありますが、平和軍警察責任!羊飼いになる責任。

1:05:021:13:13↓↓翻訳:grazia
だから、訓練を重要視しました。驚いたでしょう?何故我々はプロテスタントからこれを聞くことができないのでしょうか?
初期、初期、初期、初代教皇ヤコブ、イエス様の兄弟は、血統を重要視し、王冠を重要視。王冠もあるし、神様の王国が地上にあることを重要視、更には条件をたてること、行い、訓練すること、訓練。訓練することが重要だと。5%の責任分担。驚いたでしょう。

だから、信仰はとてもとても、とても重要です。しかし、信仰だけでは駄目なのです。信仰だけでは駄目です。
ヤコブ書2章に行きましょう。ヤコブ書2章。
はい、14節。さあ。
(ヨナ王妃様) はい、ヤコブの手紙214です。
2-14 兄弟達よ、ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
その信仰が、彼を救うことができるのか。ほら、見なさい。信仰が、行いのない信仰では救うことができなかったのです。
2-15 ある兄弟または姉妹が着る物もなく、その日の食物にもこと欠いている場合、
2-16 あなたがたのうち、だれかが「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
2-17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
2-18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」という者があろう。 それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。出てくるでしょう、ストップストップストップ! これが出てきたでしょう、驚きました。

だから、我々の教会(統一教会)はとても行いだけの方向に行ってしまったから、それが、とても宗教的になってしまったのです。そして、詐欺野郎共がお父様を利用しようとしたから。あいつ等も行いでお互い競争したのです。ところが、それは信仰を徐々に弱くしてしまったのです。しかし、信仰が重要です、信仰が重要ですよ。しかし行いも重要です。両方重要です。

極端に片方に偏ってしまってはいけません。熱い信仰もあれば、熱い行いもなければなりません。冷めた信仰、熱い行い。それも違います。熱い信仰、冷めた行い。それも違うのです。熱い信仰、熱い行い。そうでしょう?え? そのように考えれば理解出来るでしょう。 二つともなければなりません。自由と責任。熱い信仰、熱い行い。
このようなことから、我々はこれを見ることができます。驚きです。驚くべきことです。皆さん、このような素晴らしい役事があるのです、初期キリスト教に。

簡単に言うと、初期キリスト教、初代教皇ヤコブはイエス様の血統に連結された兄弟です。エルサレムの教皇、その方が、カルヴァン理論、ルター理論を教えることなく、初期キリスト教に、原理を教えていたのです、原理を。これは、お父様を証す歴史的な発見です。 

二番目の本では、これが、ヤコブについて出てきます。何故キリスト教はヤコブを隠したのか。何故ヤコブを隠したのか。これは、とても驚くべき内容です。

ヤコブのことを調べてみると、血統、重要視、初期キリスト教です、すべて。血統の重要視、「わァ、あの方はイエス様の兄弟だ」このようなことをとても重要視しました。
血統の重要視、王冠、神様の王国は地上でなされる。そして、条件、修行や訓練。このようなことをとても重要視しました。初期キリスト教がです。

そしてヤコブはどのような権威があるかと言うと、使徒パウロもペテロ、イエス様はペテロに教会の鍵まで与えたではないですか。ところがペテロまでも、ヤコブの下だったのです。驚きでしょう?このように多くの権威と尊敬を受けているヤコブはイエス様の後継者なのです。

マルチン・ルターの理論、カルヴァンの理論、プロテスタントの理論を教えたのではなく、原理を教えていました、原理を。5%の責任分担。自由と責任。自由が責任を願うように、信仰には行いも共になければならないのです。

何ですか? 冷めた信仰、熱い行い? いいえ! 熱い信仰、冷めた行い? いいえ!熱い信仰、熱い行い」で、主の王国を、自由と責任、自由と平和軍警察、訓練で、孤児や未亡人まで力を貸してあげ強くし、神様の相続者として育ててあげるのです。

そのような事から皆さんも、平和軍警察を大切に考えて、農業、鉄杖訓練、釣り、狩猟、このような事柄を教わるだけでなく、子孫に教えながら、強い市民に、自由と責任と、隣人に力を貸してあげることの出来る羊飼いに、我々には成長しなければならない責任があります。主の、神様の王国に住む人々は、ただ羊だけではいけません。住人が羊飼いになる、牧者になるように養育、成長しなければならないのです。

さあ、今日はここまでにして、来週の説教に期待して下さい。
来週、お会いしましょう。

__________________________
《聖霊役事は贖罪精誠が重要です。感謝できる方のみお問い合わせ下さい。

2019年5月10日金曜日

2019年5月5日英語説教 <全文> イエスの弟ヤコブと真のお父様


2019年5月5日英語説教

<全文>

イエスの弟ヤコブと真のお父様

とても重要な内容です。同じ主題の5月1日の韓国語説教と合わせて読んで頂ければより理解が深まることでしょう。参考:2019年5月1日 韓国語説教 文亨進二代王


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載です。字幕化は2nd Israelさん。

いつもありがとうございます。注:カラー太文字写真挿入はファンクラブ


2019年5月5日 日曜礼拝 英語説教

翻訳:BANBOOS

ところでNRAショーは素晴らしかったです。45分ほどで216冊の本が飛ぶようになくなりました。信じられないことに1日目でなくなりました。
前回は1箱だけ持ってきました。それで十分だと思ったからです。それで3箱でも十分だと思っていました。すぐになくなってしまって話にならないほどでした。次は6箱くらい持って行かないといけません。本当にすぐになくなってしまったからです。

資金集めをしたことのある人は分かりますが、いつも人々から断られます。7割とか8割は断られる場合があります。
その正反対でした。アベル型の人たちです。神様が与えた自由や鉄の杖について話してみると、もうすでに彼らは羊飼いの文化の中にあります。

「イエス様のことは聞きたくない」などということはなく、彼らは「聞きたい」のです。216冊の本で要らないと言ったのは2人だけだったと思います。1パーセント弱というところでしょう。つまり99パーセントの人が是非聞いてみたい、もっと知りたいと答えたということです。
これまでと正反対の経験なのです。

ジョンは泣いてしまったほどだと言っていました。ジョン、ここに来てください。彼にマイクを渡してください。
(ジョンさんの証し)
「茶色の顎髭を生やした少しぽっちゃりした若者の写真がありますが、彼はとても感謝していました。ありがとうと言って、亨進様をあがめていました。映画スターと写真に写るかのようにとても興奮していました。彼は本当に感動していました。

20190505_1

しかしもっと大きな奇跡がありました。王様がサインを始める前のことですが、その人は所在なさげにブースの中を見回していたのです。あごひげを生やして縞のシャツを着た人でした。それで王様だけが彼が誰か分かり、『ドニー(訳注:ドナルドの愛称)・トランプ・ジュニア!』と言われ、写真を撮ると彼は行ってしまいました。

ペンを手に取ろうとする直前に、トランプの血統の後継者・相続者がやってきて再臨主の後継者・相続者に会い、一緒に写真を撮ったのです。神様がトランプファミリーを鉄の杖の王国のための道を開くために導いていると本当に感じます」
あれは大きな前兆でした。ありがとう、ジョン。あれは前兆でした。我々が全てを準備してあと3分でサインを始めようとしていた時、この人がそこに立っていました。トミー・ガンがあちらにあって、彼はそこにいました。それで私は「あれはドニー・トランプ・ジュニアだ。待っていてください、ドニー」と言って・・・。

國進兄さんはルーカス・オイルのCEOと話し込んでいました。その時アレン・ウェストがいなくてルーカス・オイルのCEOと國進兄さんは話をしていました。私が「國進兄さん、こっちに来てください。ドニー・トランプ・ジュニアがここにいますから」と言うと、國進兄さんも来て素晴らしい時間を過ごすことができました。
ドニーはトミー・ガンの大ファンです。ベビー・デザート・イーグルで育ちました。我々は「あなたの弟に会いました。エリックはトミー・ウェアハウスに来ました」と言いました。

驚くべきことであり、本当に信じられないようなことでした。神様が彼をそこに導かれたのでしょう。ところで私は金曜、土曜、日曜のどれにするか選ぶことができました。マーケティング・ディレクターのジョディーが「どの枠にしたいですか」と言ったので、私は土曜日の10時にすると答えたのです。ちょうどその時にドナルド・トランプ・ジュニアがカー・アームズのブースにやって来るとは、誰も分かりませんでした。主に賛美を。神様に賛美を。

天の神様だけが知っておられることであり、そのような偶然を全く狭い範囲でお膳立てすることはできません。本当に驚くべき、驚くべき、驚くべきことでした。

それに私は弾丸の王冠を着けて狂った人のような姿で歩いていたのです。それは最初威圧的でした。みなさんはいつも見慣れているので大丈夫でしょうが、外であれを着けているととても威圧的です。この場所は安全ですが、私がいたのはNRAのスタジアムであり、8万人から10万人の人がそこにいました。特殊部隊の人や強い男たちがいます。最初はここで王冠を被りたくないと思いました。みんな頭がおかしいと思います。そういう感覚、不安を感じていました。
カーのブースにいた時まだそれを被っていませんでした。そこで話をしていて写真を撮ることになって、そのために王冠を被ったのです。それで弾丸のついた金色っぽい王冠を被るとすぐに、全員がこちらを振り向くのです。もう狂っています。常軌を逸しています。
通路を歩こうとすればそこにはものすごい殺人者たちがいます。この人たちはみな、危険な殺人者のような人たちです。その人たちが全員私のことを見つめているのです。大変な経験でした。子供たちは見ましたね。そうでしたか。まったく異常でした。本当に気違いじみていたからです。NRAショーで弾丸の王冠を被って歩くのを見たことがある人はいないでしょう。

しかしいったん王冠を被ると、通り過ぎる人はみな「いいね」と褒めてくれました。信じられませんでした。不安があったのです。悪魔が私に不安を与えようとしていたようでした。
しかし我々の側には聖書の真実があります。なぜ不安にならなければならないでしょうか。その撮影のチャンスを利用して、じゃあそれ(王冠)を持って来ようと・・・。するとその瞬間にエネルギーがどっと・・・それで被りました。
我々はわざと全ての通路を歩きました。本当に全員に見つめられて極めて落ち着かない気持ちでした。人々は心に刺激を受けて、「あれは何だ」と言いました。私の後ろをついてきていた下の子供たちが、「バイス(VICE)に出ていた人だ」という声を何度も聞いたそうです。
普通の帽子を被っていたら、気付く人もいれば気付かない人もいます。しかし弾丸の王冠を被るとすぐに・・・全ての人が「あの番組で見たよ」と言うのです。あの番組を徹夜で見たという人もいました。「一緒に写真を撮らせて欲しい」と言ってきました。あっちに行け、聞きたくないと言われるような普通の資金集めや伝道に比べると正反対の経験のようでした。

多分次回はブースを設けて、祝福を受けた青年たちに弾丸の王冠を被ってもらいます。田代さんは忙しくなりますね。彼はよくやってくれました。ありがとう、田代さん。素晴らしい仕事です。彼は弾丸の王冠を作るシステムを開発しました。

今年はバイスに出た1人の男が歩いて回るだけでしたが、来年は聖句を書いた弾丸の王冠を被った一団が歩き回ることになるでしょう。イエス様が我々を王と祭司にしたという黙示録1章6節の聖句です。それはキリストの体のことであり、大胆さを主張しているのではありません。キリストの体はその大胆さを主張しなければなりません。それは聖書にあり、我々はそれを読み、信じて、受けました。それに尻込みしません。

しかし、最初私はあれを被ることが不安でした。自分の小さなバッグに隠していました。スタジアムに入ってからもそれを被ることに不安を感じていました。あれを被ると非常に注目を集めます。注目を集めたくてたまらないなら・・・そういう目的ではやらないで欲しいですが・・・(被れば)多くの注目を集めます。

(略)

誰も神様のみ言について大胆である人はいません。主権はどこから来たものだと考えているのでしょうか。愛国者はみな神様から来たものだと言います。神様からというのはどこから来たのでしょうか。聖句で示しましょう。そこに書いてあります。
イエス様は初めて死を乗り越えた誠実な証人であり、地上の王たちの支配者であり、我々を愛され、ご自身の血で我々の罪を清め、我々を王と祭司にしました。そこに書いてあります。我々を王にしました。主権というのはそこから来ています。建国の父の「城の原則」はそこから来ています。つまりあなたは自分の土地の王だということです。それはどこから来たのでしょうか。誰も示してくれませんでした。聖句があります。そこに書いてあるのです。主権のことを言っているのです。

NRAショーは素晴らしく、カー・アームズのブースには熱気がありました。最もわくわくするブースだったと思います。元海兵隊員や女性たちが憲法修正第2条を推進していました。インスタグラムの有名なインフルエンサーもいました。アラン・ウェストもドニー・トランプ・ジュニアもいました。ブースは文字通りに熱狂的でした。

NRAは多くの面で衰退しているので、元に戻さなければなりません。左翼やグローバリストによって衰退するのではなく、再び愛国者にしなければなりません。GOAの協力でそれができます。

ルカ13章20節に行きましょう。パン種のたとえがあります。

20:また言われた、「神の国を何にたとえようか。21:パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

つまりイエス様ご自身が神様の王国を、パンを膨らませる働きのあるパン種に例えています。パンを素晴らしいものにするのを助けてくれるものです。パン種は聖句の中で悪とは限りません。罪を表すこともありますが、イエス様はパン種のことを、パンを活性化させるような働きを王国にもたらす物として説明しています。
つまり王国の福音はそのパンを活性化させ初め、全く異なる文化のような物を作り上げるのです。文化の菌のようなものです。王国の人々が菌だと言っているのではありませんが、まだ活性化しておらず準備ができていないこのものを活性化させ、作動させます。
まだ準備できていないところにパン種が入れられると、活性化して膨らんできます。

(略)
ところでヤコブは教会で最初の君主でした。彼はイエス様の兄弟でした。教会の最初の指導者でした。そのため使徒行伝21章では、パウロと、イエス様から教会のカギを与えられたペテロはどちらもヤコブに屈服していました。
ヤコブは彼らを叱責して、ナジル人(びと)の誓願に従わなければならないといった話をしました。それは厳しい修行の誓約のようなものでした。ワインを慎むといったことをして、精神修養をするようなものです。

宗教改革の過程でパウロ主義・・・もちろんパウロは信仰だけを重視していた信仰義認の人であったわけではなく、その後に起きたことの種をまいただけでした。マルティン・ルターという信仰義認の中心者がいて、カルバン(カルヴァン)も信仰義認派でした。

マルティン・ルターは特に「ヤコブの手紙」を嫌っていました。それには証拠があり、新しく出る本にもマルティン・ルター自身が書いた内容の引用があります。ヤコブの手紙がとても嫌いだったので実際彼は自分の聖書から破り捨てました。宗教改革を主導し、神様のみ言を信じているはずの人ですが、ヤコブの手紙を破り取ったのでした。ヤコブは教会の最初の王でした。なぜなら彼はイエス様が王の王だと信じていたからです。

調べてみるとヤコブは実際王冠を被り、初代教会の君主でした。それだけでなく、ヤコブはイエス様の兄弟だったので血縁と血統の関係がありました。初代教会は血統をとても重視していたのです。アナナス(大司祭)がヤコブを殺した時、ヤコブは石打ち刑に処されましたが、その相続者はイエス様の叔父の息子、つまりいとこでした。こちらもまた血縁者だったのです。

これは教えられていません。というのも、我々は非常に強く極端なパウロ主義、極端なカルバン主義の影響を受けてきたためです。つまり彼らは一度救われたらずっと救われると言っています。一度イエス様の前に告白すれば、どんなことをしても、人を殺しても、大量虐殺しても、レイプしても、救われるということです。

通常説明されるのは、十字架の力は人間のどのような罪よりも偉大だという話です。しかし、ヤコブの手紙が言っているのはそうではないのです。救いを失うこともあるのだと明確に言っています。
実際彼は、孤児の世話をしなければ、未亡人の世話をしなければ救いを失うかもしれないと言っています。これは驚くべきことです。ヤコブは、クリスチャンの生活は聖霊に対する悔い改めにあるのだということを重視しています。聖霊を自分の心に招き入れるのです。なぜなら使徒行伝2章にあるからです。悔い改めて罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けるということです。そして聖霊の贈り物を受け取ります。

すると聖霊は心に入り、悪に導くことはありません。なぜ聖霊が悪に導くのでしょうか。一度救われたらずっと救われるということなら、悪も行えます。なぜ聖霊が悪に導くのでしょうか。聖霊は変革へと導き、神聖さに導きます。聖霊と呼ばれているのです。放蕩に導くことはありません。

マルティン・ルターの自身の記録の中におかしなことがあります。おかしいと感じますが彼自身が書いたことです。その証拠があり、新しい本の中で1つの章に書いています。
マルティン・ルター自身が、牧師と聖職者に教え込むことについて語っていました。分かりやすく言うと、強烈な罪人にならないといけないということです。大酒飲みと共に酒を飲まないといけない。罪人と一緒に罪を犯さないといけない。多くの異性と関係を持たないといけない。すると神様は罪の中でもっとその人の栄光を称えるというのです。これは信じられないことです。
マルティン・ルターの初期の宗教改革でも、牧師と聖職者に、聖書的な観点で不道徳なことを教え込んでいたのです。まったくどうかしていますが、自分でそう書いています。衝撃的なことですが歴史的な事実です。

今これは極端なパウロ主義、あるいは最終的にカルバンが作り上げた、一度救われたらずっと救われるという教義で問題となっています。なぜなら救われた後は人間の全ての責任が取り去られてしまうからです。

自由には責任がつきものです。責任なしに自由を得ることはできません。建国の父はいつも言っていました。道徳的市民がいなければ自由はないと。失ってしまうのです。
自由は責任ある市民なしには生まれません。ジェファーソンやワシントンが言っていた、自己統治できるという話です。責任ある市民でなければならず、道徳的でなければなりません。十戒などを守らなければなりません。自由を守るには道徳的な人でなければなりません。

(略)

聖書には明確に、神様が与えた律法の中で喜ぶとあります。詩篇に書いてあることです。12篇や19篇などでも。神様が律法を与えてくださったことに感謝しています。
律法自体が救いをもたらすことはありません。キリストが対価を支払い、キリストを通して救われます。しかし、そうした救いによって改心させられ、清められるはずです。神聖さの中で律法に従うことを自然と示すようになる人になるはずです。

これは興味深い内容ですが、なぜ教会で教えないのでしょうか。一度救われたらずっと救われるというのは、聞こえはいいです。しかしそれはとても無責任です。あなたが保守的な人だとしても、それはとても無責任ではないでしょうか。

子供をレイプした小児性愛者の犯罪者も天国の収穫を味わうというのでしょうか。彼らが一度イエス様の名で告白したという理由で。極端なカルバン主義、信仰義認の教義によってどうなってしまったか分かるでしょうか。イエス様から大きく逸脱してしまいました。原始教会、初代教会から大きく逸脱してしまっています。

彼らは人々に、清くありなさい、姦淫をしてはいけないと教えていました。性的不道徳を慎みなさい、と。これは教会内の重要なメッセージでした。もちろんそれは現代の教会では死んでいます。デートや婚前交渉の文化。聖書では姦淫と呼ばれます。大罪です。姦淫をしていながら神様の王国に入ることはできません。そう書いてあります。

現代の教会はパウロでも信じないほどのこの非常に極端なパウロ主義を取り入れました。極端すぎてパウロも信じないでしょう。初代教会では認められないし、イエス様には認められないものです。ヤコブにも認められません。
それがどれほど無責任な教義であるか考えてみてください。

極端なカルバン主義の教義が現代の教会を侵略しました。本の中で取り上げていますが。こうした極端な教義に資金援助したのが、ハリー・エマーソン・フォースディック師でした。マンハッタンの人です。グローバリストの牧師でした。誰と親友になったと思いますか。ロックフェラーです。

彼はマンハッタンの自分の教会で演説しています。彼は要するにヤコブの手紙が嫌いだと言っています。とても極端になっていました。イエス様は復活の前、実際に律法を重視していました。律法において不屈の精神を持つように言っていました。しかし聖霊が来た後、全てが解放されたというのです。
しかし、イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じなのだとあります。どうしてそれほど極端に変わることができるのでしょうか。性的な不道徳はいけません、してはいけませんと言っておいて、聖霊が来た後では大丈夫です、やりなさいというのでしょうか。それは根本的な変化です。

(略)

マルティン・ルターは他の面ではとてもいいことをしました。再臨主が来る土台においてはとても重要でした。しかし原理でいう5パーセントの責任分担を捨て去ってしまったのです。原理では決して全ての責任を取り去ってはいません。信者には責任があります。

今神様は我々の道を照らしていますが、我々は歩くことを決断しなければなりません。これは深刻な問題です。現代の教会では相対主義を教え、社会主義を教え、そしてこの一度救われたらずっと救われるという教義を教えており、人々に道徳的責任を持たせないのです。道徳的責任を持たずに、人々がどうやって羊から羊飼いになることが期待できるでしょうか。

驚くべきことに、ヤコブの手紙にある初代教会のことを明らかにすることで、お父様が原理について言っておられたことの確証が得られたのです。アンチテーゼではなく、血統の確証、自由と責任の確証が得られました。

(略)

パウロは霊についても多く語りました。霊は全て純粋であり肉は全て悪だというものです。しかし聖書は常に復活の約束をしています。つまり、土から出てきて体が復活する、と人々が通常信じていることです。
神様の王国は地上にできるので肉体を持って住むことになります。しかし私は肉体的な物は全て悪いと思っていましたが・・・いいえ違います。神様は肉体そのものを悪いものとして作りませんでした。アダムとエバが堕落して、それが神様から離れてしまったのです。

「今日アダムを設計しよう。彼の肉体的な物は全て悪にする」。どこにそんな聖句がありますか。神様は人を作られてから、それは悪いとは言われませんでした。良いと言われました。

神様はアダムの霊を作りました。アダムの体も作りましたか。肉体は悪だと言われましたか。何と言われたのでしょうか。良いと言われました。肉体は良いものでなければなりません。神様の王国は物理的にできます。人々は物理的に住みます。肉体は本質的には悪ではありません。

パウロが霊は純粋で肉は悪だと書いたのを見て、人々はそれを極端なものとして受け取ります。肉は全て悪だと。それは極端です。聖書が言っていることではありません。神様は我々の体を悪にしませんでした。神様はそれが清く、純粋で良いものであって欲しいのです。ですから結婚という制度を与えています。また体は清く、純粋で、良いものになることができます。

多くの混乱がありますが、もちろん終わりの時には予測されることです。キリストの体は不可欠な要素だからです。これは最後の戦いです。羊やサタンの僕のままでいるのでしょうか。彼らは同性愛の政治リーダーシップやトランスジェンダーによってそうなっています。

教会で姦淫が許されるという信じられない状況。姦淫がだめだと教える牧師はいないのでしょうか。それなら信徒を殺していることになります。なぜなら彼らは神様の王国に入れないからです。聖書はそう教えています。

姦淫から守らなければならないのです。深刻です。それは大罪です。不倫やレイプのように。同性愛のように。大罪なのです。デートの文化は姦淫の文化でしかありません。そうなっているということです。

(略)

真実を話すと最初は不快に感じられ、嫌われるかもしれません。しかし最後には勝利します。なぜなら真実は真実だからです。作り話でも嘘でもありません。そして社会は真実に従い、快楽主義に乗っ取られない限り、豊かな社会となります。しかし、だからこそ我々のコミュニティは尊いのです。自慢するつもりはありません。我々もキリストの体にある者として責任を持とうとしているからです。

我々は主権の問題を真剣に捉えようとしています。真剣に実践と訓練をしようとしています。それは我々の5パーセント(の責任分担)であり、それによって人々のためのより偉大な羊飼いとなれます。他の人に力を与えることのできる人に。膨大な力を持っていても、安全な家庭と安全なコミュニティを作ることのできる人に。

神様の王国の市民は、鉄の杖という武器で膨大な力を持ちます。しかし道徳性がなければならず、倫理がなければならず、訓練がなければなりません。神様の王国に生まれたら、すぐに鉄の杖の使い方がわかるでしょうか。あり得ません。正しいおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんの訓練が必要です。ですから我々のコミュニティは尊いのです。

世界が揺れ動いたとしても・・・。私たちには安定性があります。初代教会を見てください。使徒を見てください。イエス様の兄弟だったヤコブを見てください。彼がイエス様と一致していたことを見てください。

山上の垂訓を読んでも、イエス様が富について語っておられるのではないことが分かります。全ての人に無料で物をあげるとか、王国で怠惰に過ごしなさいとかいう話はしておられません。社会主義のことは話しておられないのです。

神様の霊は我々全員を勇気づけます。ですから私は全員が本当に進歩していることを誇らしく思います。あなたの中の神様の霊が勇気づけているのです。それがあなたを前進させます。守護者となりなさい、羊飼いとなりなさい、と言って。その声に耳を傾けてください。
我々にはそうしたとても尊いものがあります。
__________________________
《聖霊役事は贖罪精誠が重要です。感謝できる方のみお問い合わせ下さい。