韓氏オモニの呪、
お父様の「ために生きる」愛を貶める菅井睦雄氏たち
二代王様のご指導に基づいて
二代王様のご指導、
「多くのメンバーが騙されないようにメンバーに対して警告、啓蒙をして犠牲者を少なくするようにして、放っておけばよい。いずれその者たちは滅んでいく」
というご指導にもとづいて、書きます。
菅井睦雄氏のキリスト論は、非常にトリッキーな詭弁満載のペテン、ニセ高位(高い)キリスト論であることを説明しました。
日本サンクチュアリ協会に所属しながら二代王様の高キリスト論(キリストは創造前からの存在)の牧会を受けたい方は、
ブログ村では
にご連絡ください。
独立系では、山口聖殿と私のところがそうです。韓国聖殿もそうです。他にもあるかも知れません。
もちろん三代王様も高キリスト論です。
お父様の「ために生きる」愛を包容感愛で貶める菅井氏たち
真のお父様:真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。(284-71, 1997.4.15)
真のお父様は、真の愛は、「ため」に生きるところから生じたと言われます。
統一原理を学ぶ者にとってこれは自明の理であり、これはキリスト教会ではアガペーの愛として自明の理です。
ところが、菅井睦雄氏は「イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは利己的な神様の包容感包括感の体験に由来する!」と言います。
”真の愛は、「ため」に生きるところから生じる”と言われるお父様に対して”「愛の理想世界」を構想した神様には、もともとから「為に生きる」という概念を持っていなければならないとなってしまうのです ”と、「為に生きる」ところから真の愛が生じるという、この御言を否定します。
真の愛為に生きるでは菅井氏が主張する真の愛の根源は何でしょうか?
本形状の前段階エネルギーです。
この前段階エネルギーがもたらす包容感作用によって自己中心的だった夜の神は本性相の知情意からの情的衝動によって真の愛に覚醒したと主張します。
「為に生きる愛」も、このエネルギーの愛、包容感の愛によって生じたと主張します。
「為に生きる愛」どころか、神の性相、知情意さえも、包容感をもたらす、この作用エネルギー、存在エネルギーが真の愛の覚醒根源だというのです。
菅井氏ブログ:イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは利己的な神様の包容感包括感の体験に由来する!
このエネルギーが絶対服従する刺激に包まれる感覚、その体験によって利己的な神が真の愛を覚醒させられたというのです。つまり愛することよりも、愛される刺激が真の愛の根源であるとしています。
これは先に愛されることを基本としているため、真のお父様の「真の愛は、「ため」に生きるところから生じる」と言われることと真逆の真の愛の根源です。
菅井睦雄氏は、この先に愛してくれる包容感をもたらす対象である本形状の前段階エネルギー、これを夜の神を産んだ母と定義し、真の愛の覚醒根源として夜の神の母の位置を確立します。
”真の父母様の本体論”「つまり神様を包み込んできて誕生させた包容感そのものを、顕現させようとしたのですから、その存在は夜の神様の母という事になるのです。母でありながら神様の対象として、ともに未熟な極地にある生命体として誕生し、ともに成長して、互いに真の愛を分かち合い、包容包括する関係になることを願われたのです。
皆様、この夜の神様になり切って想像してみて下さい。自らを真の愛を探す存在として産んでくれた母という存在に対して、どれほど感激されたでしょうか。その真の愛を成就した母と、真の愛を成就した父となることを目指して、無の暗闇の境地の完全無・絶対ゼロの状態から、ともに成長していく構想を発想した夜の神様は、真の愛の前に嗚咽したに違いないのです。
この真の愛の母となる女性を、夜の神様はどれほどいとおしく、どれほど尊く思われたでしょうか。だからこそ、女性は構想理想の出発点であり、創造の到達点とされたのです。」第14回ポイントセミナー「本然の男性と女性の価値と意義」
大変見事な絶対的女性神、異端神学です。
二代王様の説教や方針、理念、文化は、アダム主義、父の文化です。天一国憲法、平和軍警察、王様のキリスト論、神様に対する神学、真の愛に対する理念は、父の愛で貫かれています。
しかし菅井睦雄氏の神学はこのように、どこまでも母、母、母、女、女、女で貫かれたエバ主義、母の文化、女性神学です。韓鶴子総裁が大喜びする完璧な独生女論、その女性神学です。
このように包容感女性神、オモニ神の絶対服従愛によって自己中心的な夜の神の性相に、真の愛、「為に生きる愛」が生まれたという神学です。
このように包容感という刺激で愛してくれる女性を先に立てて、真のお父様の、”真の愛は「ため」に生きるところから生じた”といわれる真のお父様の御言を貶め否定します。
それどころか、父の犠牲の愛もアガペーの愛も、この女性神、包容感の愛神が根源であるとして、父の犠牲の愛、アガペーの愛を徹底的に低め貶める女性神論です。
もっと解説を深めれば、「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。
三代王権天一聖殿ブログが繰り広げる肉的五感次元で神様を見る「真の父母様の本体論」批判!
このように、菅井睦雄氏の教えはキリストの「アガペーの愛」も「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係によって初めて生じると規定し、創造後の肉体と感覚に閉じ込め、創造以前の神の愛さえも「アガペーの愛」も「犠牲の愛」も認めません。
菅井氏:イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは、利己的な神様の包容感包括感の体験に由来するものなのです。
イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは利己的な神様の包容感包括感の体験に由来する!
このように、菅井氏は父である神の、父の愛を徹底して母の包容感愛で徹底して低め貶めます。菅井氏の言う包括感もこの母の包容感によって生まれるのですから徹底して、為に生きる愛、アガペーの愛、父の犠牲の愛を低め貶めます。
これは、キリストは原罪のない完全な神性を持って生まれたとする伝統的統一思想の否定でもあります
以前見たように、高位(高い)キリスト論は、このアガペーの愛が創造前にあったとしますから、完全に菅井睦雄氏の”真の父母様の本体論は高位(高い)キリスト論ではないことは証明した通りです。
それどころか、菅井睦雄氏は、二代王様が創造前から有ったと言われる「父の犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じる)と、散々貶めながら自分は高位(高)キリスト論である、これぞ最も高いキリスト論であると誇り、散々詭弁と詐欺ペテンの限りを働いて信徒たちを拐かしていました。
このように”真のご父母様の本体論”は真のお父様を利用しているだけでその実質はお父様を完全否定する”包容感女性神”という異端の宗教なのです。
菅井睦雄氏は真のお父様に対する信仰はまったくありません。お父様が立てた二代王様三代王権をただ自分の神学”真の父母様の本体論”を通して自分の神、”包容感女性神”の権威付けのために利用しているだけです。
これが菅井睦雄氏と、この包容感論に酔いしれ集まった者たちの信仰です。
それほどまでに”包容感オモニ神”という異端神に侍り仕え崇拝する信仰なのです。
これからも徹底して、菅井氏たちは「イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは利己的な神様の包容感包括感の体験に由来する!」と叫びながら、命をかけてイエス様、お父様の犠牲の愛を低め貶め続けるでしょう。
これが菅井睦雄氏たちの信仰の本質です。
”真の父母様の本体論”の神の本質は堕落本性の自己中心
菅井睦雄氏が、神の本質は堕落世界であるこの世でいう、いわゆる利己的で自己中心であるとする、その根拠は次の御言から来ています。
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
「御旨と世界」 人間に対する神の希望
真のお父様は、”真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。”つまり、元々から「為に生きる」概念が真の愛の前にあったと説明されます。
しかし菅井睦雄氏は、この御言を受け入れず、真のお父様が「これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです」と言われたこの箇所をもって、この御言を全否定します。
あれほどまでに語られたお父様の「為に生きる」という御言を全面的に否定して、神様は夜の神様の時、真の愛の神の根源は、この堕落世界で考える性質の利己的で自己中心的であったと決めこんでいます。
真の愛の前の神の根本心情は「為に生きる」ではなく「利己的自己中心の心情」であるとしています。
この包容感エネルギーの刺激によって利己的な喜びの神が「為に生きる」心情の真の愛に覚醒したというのです。
この堕落世界で考えるそのままの利己的で自己中心的性質が神様の根源であると規定して真のお父様の、愛の理想の始まりである”為に生きる”を菅井睦雄氏は否定し、真のお父様を否定しているのです。
一般的に利己的、自己中心とはどのような概念でしょうか?
・利己的:自分の利益だけを中心に考え、他人の立場などを考えないで行動するさま。
・自己中心:他をかえりみず、自分の都合や立場のみを考えて行動すること。
分かることは、両方とも自分以外の存在を前提にして、自分の利益、都合を優先しています。
二つの言葉とも、他の存在を前提としているということです。
菅井睦雄氏は”真の父母様の本体論”はこの創造後の世界である堕落世界の一般的な概念そのままに夜の神様の本質を捉えています。
では真のお父様は、神様の自己中心の説明を何と言っておられますか?
「御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」と言っておられます。
「何ものを」という言葉に、世間一般的にいう、他者を意識した上での自己中心ではないことが分かります。
「自身以外の何ものをも意識することなく存在する」という意味の自己中心とはどういうことでしょうか?
「自身以外の何ものをも意識することなく存在する」という表現は、非常に哲学的で深い意味合いを持ちます。世間でいう自己中心とはまったく違うことが分かります
これは、自己完結した、他からの影響や認識を全く必要としない存在の状態を指しています。ただ「ある」という純粋な存在です。
時間や空間の制約すらも超越している存在だということです。
つまりこれは神の瞑想です。まったく何の雑念も自身以外に考える一切が無い自身の精神探求です。
そのような深い瞑想の中で「為に生きる」こと、愛を与えることを喜びとするご自身であることを理解し、そのようなご自身を愛されたということです。
これを短く言えば「為に生きることに自己中心的な神様」という、一見すればまったく相反する言葉にならざるを得ません。
お父様は真の愛の前に、為に生きる心情があることを言われたのですから、お父様の言われる神様の自己中心的である部分とは、その深い瞑想によって愛の道を極めて行かれたということです。
深い自己瞑想は自身を高め自身を成長させます。
この愛の道を極める過程の神様のことを、菅井睦雄氏は「未熟な極地にある生命体」と評して徹底的に侮辱貶めます。
しかし、この「一時期、神様は自己中心的であった」という言葉は、真の愛の道を極める孤高なる道人が成長していく修道のことであると理解できるのです。
”真の父母様の本体論”の神は創造前に堕落している
キリスト教の立場から自己中心とは罪、堕落から起因すると定義します。
お父様の言われる、「他者が存在する前である、御自身以外意識しない自己中心」を菅井氏やキリスト教の言うように考えるのなら、神は創造以前に、神は既に堕落していたという結論になります。”真の父母様の本体論”の夜の神とは創造前に堕落していた神なのです。
そして、いわゆる堕落世界の自己中心とは他者が存在してこそ成り立ちますから、創造以前に神以外の他者が存在していたことになります。
だから菅井睦雄氏の神学は、創造前、真の愛が生まれる前から、包容感女性神という夜の神様の母が存在する二元論になってしまうのです。
菅井氏のように、いわゆるこの世の堕落世界における自己中心という意味で、このお父様の御言を解釈するとこのような大変な問題がおきます。
即ち、「神は、創造前は、他者を犠牲にし自分さえよければよいとする利己的自己中心の心情であった。これが真の愛が生まれる前の神の心情である。従ってこの利己的自己中心こそが神の本質である」ということになるのです。
菅井睦雄氏の”真のご父母様の本体論”は、そのような他者犠牲の利己的心情の夜の神様が、母なる本形状の前段階エネルギーの絶対服従の包容感の愛の刺激で、為に生きる真の愛に覚醒したと主張します。
神様の創造前、真の愛の前の根本心情が、そのような他者犠牲の利己的心情であるということは、つまり神には為に生きる本質がなかったということになります。
これが菅井睦雄氏が、神には、真の愛の前に為に生きる概念はなかったと定義する理由です。
それほど利己的自己中心が根本心情である神が、たかが前段階エネルギーで包容感刺激を愛だと感じたからといって、そのような創造以前の他者犠牲自己中な心情が、まったく逆の為に生きる心情に愛に変わるはずもありません。
この世では、菅井氏がいうような利己的な者が、そのような絶対服従の包容感の愛に包まれて育った場合とんでもない暴君になります。
このように、神様の真の愛の前の心情においてその本質を他者犠牲の利己的自己中心にしてしまうのは大変な神への冒涜であり神様への背信です。
絶対服従の包容に喜びを感じる利己的精神異常神
現実に、菅井睦雄氏たちは、本形状の前段階恵那ルギーが絶対服従することに包容感の愛を感じ喜びを感じています。
前回の礼拝で人々に聞いたところ、喜びではなくゾッとする嫌だと皆さん口々に言います。
健康な精神の人々にとっては、相手が絶体服従することはむしろ悍ましいと感じるのです。
なぜなら自由と責任が神様が人々に与えた人権だからです。
それ故に相手が絶対服従することは嬉しくないのです。他者にはもっと自由であって欲しいと願うのが本質であり、米国独立戦争のように、その自由のために人は命をかけて戦うこともあるのです。
それ故に、この絶対服従する包容感刺激の愛には、むしろ悍ましさを感じる方が健全です。
これを喜ぶとなると、病的自己中心性の心理病の可能性があります。精神科ではそのように診断します。
夜の神様をそのような精神科の患者にしてよいのでしょうか?
菅井睦雄氏の”真のご父母様の本体論”はお父様が言われた”一時期、神様は自己中心的であった”という御言を、この世の概念で捉えて出発してしまっています。
出発が間違っています。それだからこのような利己的精神異常の神になるのです。
そしてその生まれながら利己的精神異常の神を産んだ母なる神の包容感愛によって真の愛に覚醒するという精神異常なストーリー
どうしてこんな異端の女性神神学になったのでしょうか?
それはお父様が言われた”神の自己中心”を、菅井睦雄氏の堕落性本性そのままの感性で受け止めてしまったからです。
生命の書の名簿から削除された菅井睦雄氏たち
しかしそれでも、菅井睦雄氏らはこれからも「神は利己的だ」神の本質は利己的だ!イエス様や真のお父様の犠牲の愛とは利己的な神様の包容感包括感の体験に由来する!
と叫び続けるでしょう。
この包容感女性神こそが真なりと叫び続けるでしょう。
それが、かれらの訓読教本”真のご父母様の本体論”の本質だからです。
これは包容感女性神とその子である夜の神という”夜の神なる天の父母様”を祀る大変な異端教です。
菅井睦雄氏の言説を信じた者たちが聖和して行く霊界は、そのような神が導く霊界です。それはとんでもに地獄です。韓氏オモニに憑いた堕天使がつくりあげた地獄に匹敵する霊界です。
二代王様の”この霊的カリスマはいずれ滅びる”という警告が発せられたにも関わらず、菅井睦雄氏の言説を信じることは、聖殿教会から自ら離教することを意味します。宗教的堕落を意味します。
そのような地獄に行くとして、それでも私は”真のご父母様の本体論”を信じるというのならそれはそれですごい覚悟だなと思いますが、このように極めて重大な永遠の命の問題ですから、菅井睦雄氏のグループに入らないことを推奨します。
また菅井睦雄氏のグループに行った方々は生命の書入籍の名簿から名前から外れていると思われますので、脱会したうえで再度、生命の書祝福式を受けることをお勧めします。
- <異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察1◆愛は愛、愛は感覚とする包容感の愛
- <異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察2◆偽りの真の愛の起源、夜の神の母
- <異端の夜の神> ”真の父母様の本体論”に関する考察3◆包容感愛による女キリスト独生女論
- <異端の夜の神> ”真の父母様の本体論”に関する考察4◆堕落天使の独生女三位一体論
- 典型的な高位キリスト論に対する低位キリスト論者の批判「堕落がなければイエスは必要なかった」
- <聖殿総会長の信仰告白> 私達の真のお父様は、 創造前から神とともにおられたキリスト、神様の本体です
- <ニ代王様の信仰告白、私達聖殿の信仰告白> お父様、イエス様は 創造前から神とともにおられたキリスト、神の本体です
- 事実上のメシア宣言、菅井睦雄氏のニ代王様に対する反論「お父様はニ代王様には摂理を語るが、私には真理を語る」
- 菅井睦雄氏の「極めて高いキリスト論」 その詭弁とペテン
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