典型的な高位キリスト論に対する低位キリスト論者の批判
”真の父母様の本体論”から以下の質問?主張?がありました。
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ちなみに、人類始祖が堕落したからこそ、キリストが必要になったのであって、堕落しなければイエス様も文鮮明師も、真の父として聖誕する必要は無かったのです。
そのイエス様と文鮮明師が、どうして創造前から存在している必要があったのでしょうか!
https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12890881777.html
「堕落がなければイエスは必要がなかった」
これは高位(高い)キリスト論に対する典型的な批判の一つなので、原理的な解釈はあまり入れず、キリスト教神学の立場で、高位(高い)キリスト論の立場を書きたいと思います。
これは”真の父母様の本体論」”だけでなく、日本サンクチュアリ協会の大方の見解と同じです。
日本サンクチュアリ協会の大方はそうなのですが、「お父様は創造以前からの神の子」という見解の教会長さんもおられるようですが、このように分類いたしました、ご了承ください。
”真の父母様の本体論”は日本サンクチュアリ協会は低位(低い)キリスト論だ、ニ代王様の三位一体論を受け入れていないと激しく批判しますが、
「人類始祖が堕落したからこそ、キリストが必要になったのであって、そのイエス様と文鮮明師が、どうして創造前から存在している必要があったのでしょうか!」
これは典型的な低位(低い)キリスト論者の批判です。
これほど見事な古典的かつ典型的な高位(高い)キリスト論に対する反論を主張するのですから明らかに”真の父母様の本体論”は低位(低い)キリスト論です。
高位(高い)キリスト論とそれに対する低位(低い)キリスト論の反論
高位キリスト論、高いキリスト論の三位一体論では、キリストを天地創造の前から存在し、この世を造ったといいます。
まず、高位キリスト論(High Christology)では、神の神性を持つ人間ではなく、イエス・キリストを創造前から神の子として存在したとします。
特にヨハネ福音書1章1節にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という記述や、
コロサイ1章16-17節の「万物は彼によって造られ、彼のために造られた。彼はすべてのものよりも先であり、万物は彼によって成り立っている」といった聖書の言葉に基づき、
キリストは天地創造の前から神と共にある「ロゴス」(言)として存在し、創造そのものに関与したとされます。
この視点では、キリストの存在は人類の堕落や救済の必要性に依存するものではなく、神の本質の一部として永遠に定められているとされます。
しかし低位(低い)キリスト論は次のように反論します。
「ヨハネ福音書の通り創造前に神とともにキリストが存在したことを認めると、神はアダムとイヴが堕落することが分かって創造したということになる。それは神の愛ではない。人類始祖のアダムとイブが堕落したからこそ、キリストが必要になったのであって、堕落しなければイエス・キリストは必要無い。 だからイエス・キリストは創造後の存在、人であり、キリストとしてその神性が神そのものなのである。」
なぜ創造前から存在していたと考えるのか
しかし、高位(高い)キリスト論の観点からは、イエス・キリストの存在は、単に人類の罪に対する贖罪のためだけではなく、神の創造の目的そのものに関わっていると考えます。
◆神の計画: 神は全知全能であり、創造の前に既に、アダムが戒めを守らなかったことを想定していたと考えています(原理で言えば復帰摂理)。
エフェソ1章の聖句を持って次のように高位(高い)キリスト論は主張します。
エフィソの信徒への手紙第 1 章
3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
エフェソ1章4節にある「神は、天地創造の前に、私たちをキリストにおいて選び、聖なる者、汚れのない者となるように定めてくださった」という記述は、救いの計画が堕落以前から存在していたことを示唆します。
このような記述は、多くのキリスト教神学者にとって、救いの計画には創造以前からの神の意図があったことを示す重要な証拠としています。
神が全知であるがゆえに、アダムとイブが堕落することを予め知っていたというものです。
この場合、キリストの存在と救いの計画は、創造の時点で既に神の意図の中に可能性として組み込まれていたという考えです。
この観点からは、神は人類の自由意志を尊重しつつも、最終的にはすべての人を救いに導くための計画を最初から持っていたという理解が生まれます。(復帰原理)
このことは、むしろ神の愛と恵みの深さを示すものであり、創造と救いが切り離せない関係にあることを強調します。
現代キリスト教では、神は人間の堕落を見越していたとしても、その計画の中で人類に対する愛と救いの道を用意していたという理解が広まっています。
◆神性の現れ: イエス・キリストは神そのものであるという考え方から、創造主である神が、その創造行為において、既にその一部として存在していたと捉えることができます。
◆普遍的な救済: 人類の堕罪(原罪)が起こる以前から、神は人類全体を愛し、その救済を願っていたという考え方もあります(原理で言えば復帰摂理)。イエス・キリストは、その普遍的な救済の計画において、不可欠な存在であったとされます。
神はアダムとエバの堕罪を知っていたのか
神が全知全能であるとするならば、アダムとエバが堕罪することを予め知っていた可能性は否定できません。
しかし、それは神が堕罪(原罪)を意図的に起こしたということではありません。神は人間を自由な存在として創造し、選択の自由を与えました。その自由な選択の結果として、堕罪が起こったと考えられます。(原理の自由と責任)
神が堕罪(原罪)を予知していたとしても、それは神の愛と救済の計画を無効にするものではありません。むしろ、神は人間の堕罪という悲劇的な出来事を通してさえ、その愛と救済の計画を実現しようとしたと解釈することができます。
いわゆる高位(高い)キリスト論のキリスト教の立場
高位(高い)キリスト論における三位一体論では、イエス・キリストは単なる贖罪者ではなく、神の創造の根源であり、神の永遠の計画の中心にある存在として理解されています。人類の堕罪(原罪)は、天地創造の一部として予期されていた可能性はありますが、神の愛と救済の目的を損なうものではありません。
むしろ、堕罪を通して、神の愛と恵みがより深く、より具体的に示される機会となったとも考えられます。(この部分はイエス様は十字架にかかるためい来られたという伝統的キリスト教の解釈の部分です。)
この問題は、神の性質や神と人間の関係性など、非常に深い神学的テーマに関わるため、様々な解釈が存在します。
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