-1 ◆イエス様にみる真の愛
の堕落論編、<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは-1◆共通概念考察
<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察1◆愛は愛、愛は感覚とする包容感の愛
に続く<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察3です。
<異端の夜の神>
女性先惟先感論が言う真の愛とは‐2
”真の父母様の本体論”に関する考察
参考文献:菅井睦雄氏のブログから「真の父母様の原理本体論」関連文献集
包み込むという御言の悪用、絶対性の本当の意味
”真の父母様の本体論”は、包容感包括感原理を絶対性の原理としています。その絶対性の愛について考察します。
”真の父母様の本体論”の核心中の核心にしている包容感包括感という感覚の愛は、真のお父様の御言の中で「核を包み込む二つのかけら」という部分を取り出し、比喩だ象徴だと言いながら感覚の愛に変えています。
そのようにお父様のこの御言を悪用し、神様が人類にくださった美しい絶対性の愛と、最も聖なる生殖器を徹底的に貶めています。
本来、絶対性とその愛、エロス・ロマンスの愛、そして神様が最も丹精を込めて創造された生殖器はもっとも聖なる美しいものです。その最も美しい、聖なる生殖器を汚し貶めているのです。
即ち、次のお父様の御言の悪用です。
真のお父様「神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。
宇宙の根本 第二章人間創造と愛の理想の完成一、愛の絶対価値1.人間の男性と女性」
”真の父母様の本体論”はこの御言を次のように理解します。
”真の父母様の本体論”
「アダムとエバは核を包み込む二つのかけら同じということは、二人が結ばれる時のことを表しています。アダムの生殖器は夜の神様の生殖器ですから、その生殖器がエバの生殖器に包み込まれることを意味しています。簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です。」
この内容を、栗の断面写真と、レオナルド・ダ・ビンチによって描かれた男女咬合図を並べ比べながら説明します。
栗の胚芽が核としての神様として比喩され、種の左右二つのかけらは、男性と女性に例えられて、真のお父様は次のみ言を語っています。
「皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。」
アダムとエバの初夜において、神様の四大心情圏が完成します。
この時に、神様の愛と人間の愛がひとつになります。対象としての被造世界における真の愛の結実です。これが創造の結果であり、この原因となった出来事にこそ、宇宙の根本があるという事になります。」
”真の父母様の本体論”のもっとも重要な言葉は、
包容、包む、包容感、そしてそこから生み出された包括感愛です。
これが”真の父母様の本体論”の絶対性であり、この絶対性を天地創造の前の神に置いています。
二代王様はサタン思想は、愛を感覚に、感覚を愛にすると言われるのですが、お父様の御言を夜の神の位相、創造前において、感覚の愛に変えた、まさにそのサタン主義の感覚、包容感愛です。
”真の父母様の本体論”がここでいう「宇宙の根本」とは何でしょうか?
先に説明しましたように、絶対服従による包容包括の感性感覚愛でした。これを真の愛とする偽りの真の愛でした。
その感覚愛の創造実現実体が、
”真の父母様の本体論”「アダムの生殖器は夜の神様の生殖器ですから、その生殖器がエバの生殖器に包み込まれることを意味しています。簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です。アダムとエバの初夜において、神様の四大心情圏が完成します。」
このようにアダムとエバの初夜に、四大心情圏が完成するとしています。
ところでこの”真の父母様の本体論”における四大心情圏の心情の核は何だったしょうか?
感覚を愛に、愛を感覚にする、包容包括のエロス愛に感覚愛の喜びに絶対服従するサディスティックな愛、サドマゾヒズムの愛、ルシファーの愛でした。
包容感の神である子宮神の子宮内で360度に包まれる男児、それが”真の父母様の本体論”の神の姿です。
その実体化が、エバの生殖器にアダムの生殖器が包み込まれることにより、その神の生殖器もエバの生殖器に包まれることとなり、神様の包容感の四大心情圏が完成すると”真の父母様の本体論”は主張します。
本来の”包み込む”の意味
真のお父様は、この包み込まれるという意味を、このような男性生殖器が女性生殖器に包み込まれるという意味で使っておられるのでしょうか?
ここでは真のお父様が言われる包み込む、包むについて説明します。
お父様「結婚したならば、既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結されるときは、垂直的概念が生じます。平面的な役事は、宇宙や天宙を収拾できません。垂直と水平が出合って、90度の角度を成すとき、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろに、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦、どの面に付けてもぴったり合うのです。地上の完成基準は、霊界のすべての完成へとつながります。(230-259, 1992.5.8)
神様は人間にとって、真の愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは、一つしかありません。絶対的です。二つとあり得ません。その縦的父母だけをそのまま置いたのでは倒れてしまいます。ですから横的父母を探し立てて連結しなければなりません。それを詳しく説明するならば、創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながら神様の体である横的な父母の立場に立ちます。それらが内外一つとなることによって、内外の共鳴体となって授受作用をすれば、中心が生じると同時に、その内外の共鳴圏の中心が植えつけられるのです。それが、皆さんの生まれた生命の根源です。
(183-40, 1988.10.29)
宇宙の中心とは何かというと、霊肉の真の父母です。その基準を中心として、そこから東西南北が生じ、家庭が生じ、宗族が生じ、民族が生じ、国家が生じ、世界が生じるのです。これが、宇宙の根本です。これを中心として霊界が生じるのです。これが、90度、360度になってこの中に宇宙が入るのです。
(147-111, 1986.8.31)P928
父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦関係の真の愛は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場であり、球形の真の愛の理想が願われたのです。すなわち、縦に上弦下弦、横には左弦右弦、前後には前弦後弦を全体的に連結した一つの中心点において、統一は成されるのです。その点が球形体の中心点になるのです。いつ四大心情圏である子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのかといえば、神様を中心として人間が結婚して初愛を結ぶ場が、すべての完成の結実点であり、中心になるのです。(259-42, 1994.3.27)
結婚を、なぜするのでしょうか。アダム、エバが自らの愛を探していくためのものではありません。縦的な神様の愛を核として、その核を中心に、その分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です。神様の創造理想もそのような愛を中心として結着するのであり、人間の男性と女性も成熟して、そこで愛の結着点が生じ、生命が連結されるのです。」
少し、引用した御言が長くなりましたが、要約すると、
「縦的真の父母と横的真の父母が、90度の角度で内外一つになったとき、その点が360度になり球形の中心点になります。
父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦関係の真の愛は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場であり、球形の真の愛の理想を成すためにアダムとエバが結婚するのです。その初愛を結ぶ場が、四大心情圏の一体を完成します」。
つまり「アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。」の包み込むの意味は、「父子関係の真の愛を縦的」軸として縦的真の父母である神様と横的真の父母であるアダムとエバが、90度の角度で内外一つになったとき、その点が360度になりその縦と横の真の父母の中心点を包み込んで球形となり、縦的父子関係の真の愛、横的夫婦関係の真の愛、前後の兄弟の真の愛によって球形の真の愛の理想を成す中心点となり、真の愛の理想を成すということです。
それだからこの中心点は神様を核とするのです。
これが絶対性の本質です。
真のお父様「宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。
(293-132, 1998.5.26)」
愛はコンセプトです。ですから、「アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。」という意味は、
アダムとエバの結婚は、縦的父子関係の真の愛、横的夫婦関係の真の愛、前後の兄弟の真の愛による球形の真の愛の理想を成す中心点をそれぞれ90度で交差したとき、神様が核となられ、その核を包み込む「その分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です。神様の創造理想もそのような愛を中心として結着するのであり、人間の男性と女性も成熟して、そこで愛の結着点が生じ、生命が連結されるのです。」ということです。
先にこれに関連するお父様の御言を幾つか引用しましたが、これらの御言を理解していれば、
真のお父様「アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう?それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。」
という、この御言は、
真のお父様「球形の真の愛の理想を成すためにアダムとエバが結婚するのです。その初愛を結ぶ場が、四大心情圏の一体を完成します」
と同じ意味の御言、人々が分かりやすく理解するために例えて説明されたことが理解できます。
ですから、包み込むとは「球形の真の愛の理想を成す」ために、そのような愛のコンセプトをなすために、その愛の理想、愛のコンセプトの中心核を球形として包むということなのです。
このように真の愛の縦横前後のそれぞれ90度に交わったのならその中心核、その真の愛の理想に神様が臨在されるということなのです。
お父様「父子の関係が縦的な垂直関係なのに比べて、夫婦関係は横的な水平関係です。ですから父子関係と夫婦関係は互いに直角(90度)を成して、ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。このように成された球形の中心位置ですべての愛が統一され、定着しますが、この場に神様がいらっしゃるのです。
真の父母が伝授する世界と南北統一教本(316-235, 2000.2.13)」
お父様が「アダムとエバが、核を包み込む」と言われたのは、このように父子関係と夫婦関係が直角(90度)を成すように神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つとなって、すべての愛の関係が球形になる結婚をしなさいという意味なのです。
包み込むの意味を感覚愛に変えた本体論
ところが”真の父母様の本体論”は、このお父様の、球形をなしなさいという愛のコンセプトとして使われた「包み込む」という表現を感覚愛に変えました。
真の愛は包容感の愛であると、このように愛を愛に変え、この真の愛の中心核を包容感とそれを包み返したい包括感に変えました。愛を感覚に変えました。愛のコンセプトを感覚に変えたのです。
天地創造以前に絶対性の愛をおくことで、絶対性の愛を感覚に変えたのです。
本来、絶対性の愛は、この愛のコンセプト、愛の理想郷を実現するために人類に贈る大切な贈り物として創造されたのであり、夜の神からの太初からは本来無いのです。
ところが、”真の父母様の本体論”は絶対性を天地創造以前に置いて、夜の神を説明しています。
愛を感覚にしてしまっている本体論なのでグロテスクな神、悍ましい愛になってしまうのです。
それだから、この包み込むというお父様の御言の解釈を、
”真の父母様の本体論”「
・アダムとエバは核を包み込む二つのかけら同じということは、二人が結ばれる時のことを表しています。アダムの生殖器は夜の神様の生殖器ですから、その生殖器がエバの生殖器に包み込まれることを意味しています。簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です。
・男性格主体の神様にとって女性格対象としての被造世界は、エバの生殖器の完成によって完全対象となります。アダムの生心に臨在された夜の神様は、アダムとともに成長し、アダムの生殖器を自分の生殖器として、仕上げられたエバの生殖器に包み込まれるのです。
自己中心的な神様が、本形状の「絶対服従性」に包み込まれて、対象を愛したくてたまらない喜びに感激し、主体と対象が包容包括し合う喜びを切実に求めました。そうして探し求めた真の愛の関係性が、アダムとエバの初夜に実現するのです。」
と言っているように、アダムの生殖器が、エバの生殖器が包み込まれることで、神様の生殖器が包み込まれるようになることだと”真の父母様の本体論”とその絶対性論はこのように理解しているのです。
女キリスト独生女論の絶対性と四大心情圏
真のお父様「神様の絶対愛と人間の絶対愛が出会う点とはどこでしょうか。一点です。それはどこですか。結婚して初夜、生殖器が一つになる場です。(中略)
その場は何かというと、女性が愛を受けるためには、夫だけではなく、霊的に神様に侍る位置に立たなければならないのです。アダムの生殖器は、内的には見えない神様の生殖器であり、外的にはアダムの生殖器です。女性の生殖器も、内的には神様の生殖器であり、外的にはエバの生殖器です。見えないものは縦的であり、見えるものは横的です。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。
(282-306, 1997.4.7)」
ところが、お父様の御言では、「女性の生殖器も、内的には神様の生殖器であり、」と言っておられます。
”真の父母様の本体論”では、「アダムの生殖器は夜の神様の生殖器」でした。「簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です」というのですが、女性の生殖器も内的には神様の生殖器なら、内的には神様の生殖器で、神様の生殖器を包むということになり、”真の父母様の本体論”の、神様が包み込まれるということが成立しません。包まれる方も包む方も神様であるなら、神様が包み込まれるということは一方的な見方になるという矛盾が生じるのです。
どうしてでしょうか?
その理由を”真の父母様の本体論”では、いつ四大心情圏が完成するのか?を探ってみます。
”真の父母様の本体論”のいう四大心情成就プログラムは
「アダムとエバの初夜において、アダムの生殖器は夜の神様の生殖器であるのでその生殖器がエバの生殖器に包み込まれることで、神様が包み込まれることで神様の四大心情圏が完成します」
としています。
つまり、本形状前段階エネルギーによって、もたらされた夜の神の「愛に包まれる境地」を実体化させるために、その結果として創造されたアダムとエバの生殖器であるので、神の生殖器がアダムの生殖器と一つになりエバの生殖器に包まれてこそ、神もアダムも四大心情圏を完成するというのです。
しかもアダムだけでなく神もこのとき完成するとしています。
キリストのみならず神様も、実体的にエバの生殖にに包まれないと真の愛の四大心情圏が完成しないとしています。
つまり、真の愛の根源を夜の神様、キリストではなく、包容感をもたらすその包容感の実体こそが真の愛を完成させるとしています。
つまり女性生殖器こそが四大心情圏と真の愛を実現させるキリストであり神であると言っているのです。
しかし本来、四大心情圏は縦的真の父母と横的真の父母が90度で一つになることによって完成します。つまり四大心情圏は縦的真の父母である神から来るのです。
真のお父様「父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦関係の真の愛は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場であり、球形の真の愛の理想が願われたのです。
その点が球形体の中心点になるのです。いつ四大心情圏である子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのかといえば、神様を中心として人間が結婚して初愛を結ぶ場が、すべての完成の結実点であり、中心になるのです」
お父様の言われる四大心情圏は、父子関係の真の愛を縦的にして夫婦の関係を結ばなければ四大心情圏は完成しないのです。
この横的な夫婦の関係のために「女性の生殖器も、内的には神様の生殖器であり、外的にはエバの生殖器」なのです。
縦的真の父母と横的真の父母の愛の理想からみれば、「女性の生殖器も、内的には神様の生殖器」なのです
ところが”真の父母様の本体論”は、お父様の言われるように父子関係の真の愛を縦的にして90度に中心核に合わせるのではなく、エバの生殖器に包み込まれることに四大心情圏が完成されるようにプログラムされているというのです。
つまりその四大心情圏の主体がエバの生殖器にあるとしているがゆえに、神様がエバの生殖器に包まれることで神様も四大心情圏が完成するというのです。
その理由は「女性の生殖器は、内的には神様の母の生殖器であり、外的にはエバの生殖器」だからです。
これは完全に女性神であり、女性生殖器神の神学です。
女性生殖器によって完成するのですから、女性がキリストになります。女性生殖器がキリストであるということです。これは明らかに独生女論です。
女性生殖器が真の父をつくる女キリスト論
”真の父母様の本体論”「夜の神様も四大心情圏を成就し、一人でも真の父母としての父となり、真のお父様も四大心情圏を成就して一人でも真の父母となり、その夜の神様と真のお父様が完全一体となって、全人類の父となり王となるという事です。
その為には、絶対的にエバが必要であり、真の母が必要なのです。夜の神様が愛する対象は真の母となる女性であり、真の母を代表とする全女性が神様の愛の対象です。
夜の神様が愛する対象としての真の母となる女性を得て、成長期間をともに授受作用して成長してこそ、夜の神様自身が一人でも真の父母の「父」となるのです。」
「夜の神様も四大心情圏を成就し、一人でも真の父母としての父となる」
「真のお父様も四大心情圏を成就して一人でも真の父母となる」
つまり、真の母と初夜を迎えなければ、夜の神様も、真のお父様も、真の父母の「父」になれないというのです。真のお父様も、真の母と初夜を迎えなければ、真の父母になれないということです。
つまり真の愛と四大心情の源泉は、夜の神様にも、真のお父様にも、その種(精子)にも無いのであって、真の母の生殖器による包み込む包容感に真の愛と四大心情の源泉があるということです。
真の母の初夜を迎えてこそ真の父母になれ、真の父になれるということです。
ですから真の母と初夜を迎えなければ、真の父母の「父」になれない、つまり真の父ではないということです。
それでは真の愛と四大心情の源泉が真の母の女性生殖器にありますから、男性が堕落していても堕落していない男性に生み変えることもできるということになります。
これは完全に、家庭連合の女性キリスト論、独生女論です。
「神は、真の母と初夜を迎えるまでは、神は真の父ではない。
真のお父様は、真の母と初夜を迎えるまでは、真の父母様でも、真の父ではない。」
と、このように、
イエス様、真のお父様、神様に向かって、あなたは真の父母の「父」ではない、
イエス様、真のお父様に「真の母と初夜を迎えなければ、単なる男であって真の父母ではない、真の父ではない」と声高々に、イエス様を否定し、真のお父様を否定し、そして神様をも否定するのです。
そして自分こそが、生まれながらにして「真の父母であり真の母」であると声高らかに宣言するのです。
まさに独生女の神です。
これほどまでに、イエス様、真のお父様に向かって、単に生まれただけでは単なる男だと「真の父母」「真の父」を否定し、真のお父様、キリストの首を斬首するのですから、完全に別の宗教です。
それどころか夜の神様に対して「真の母と初夜を迎えて来なかったお前は、それまでは真の父ではない」と、神様が父であることを否定しています。
聖父と聖子と聖霊の三位一体から、父の首を斬首するのですから、高位(高い)キリスト論、低位(低い)キリスト論のどちらかという論議でもなく、もはやキリスト教ではありません。
キリスト教の内容を一切もっていない異端の中の異端、真の父と真の父母を殺すサタン宗教の中のサタン宗教です。
どうしてこのようになるのでしょうか?
”真の父母様の本体論”の夜の神は、夜の神様の母の包容感によって真の愛に目覚めました。
つまり、夜の神様の母、子宮の投影が実体エバの子宮として創造されたからです。
結局、”真の父母様の本体論”の根本は子宮神神学であり女性神学であるからです。完全に女性キリスト論、独生女論です。
この包容感の女性神によって、縦的真の父母と横的真の父母の理想を、そして絶対性の愛を、お父様の「アダムとエバが、核を包み込む」という御言を悪用し、包容感とそれに対する包括感という感覚愛に変えてしまいました。
そうすることによって縦的真の父母と横的真の父母を天宙から消し去り、イエス・キリストと真のお父様を完全に抹殺しようとするサタンの狙いを見ることができるのです。
「夜の神様が愛する対象は真の母となる女性であり、真の母を代表とする全女性が神様の愛の対象です。」
つまり、この悪魔の真の母によって、全ての女性の生殖器が、この真の父を否定する生殖器に生み変えられ、次に全ての男性をこのサタンの息子にするということです。
そのようにして全ての男性から宗族メシアの「父」を抹殺し、宗族メシアのキリストを「母」にする宗族王権を立て、全ての子どもと子孫をこのサタンの子にしてしまうとしているのです。
そのように三代王権を滅ぼすために聖殿教会、サンクチュアリ教会に侵入して来たサタン、これが”真の父母様の本体論”のサタン性です。
韓鶴子総裁の、独生女論に匹敵する天宙的大犯罪を”真の父母様の本体論”は犯しているのです。
韓鶴子総裁の天宙的堕落を成功させ家庭連合を滅ぼすことが出来たサタンが、今度は聖殿教会を滅ぼそうとしているのです。
なぜ結婚するのか?絶対性愛の本来の目的
あまりにも感覚愛、サタン独生女のことが続いたので、ここでは、本来の結婚と、絶対性愛の意義について説明します。
”真の父母様の本体論”は、このような男女の具体的に生殖器により結ばれる結婚を求めて神は天地創造したというのですが、お父様は男女が会いたくて結婚するのではないと言っておられます。
結婚自体は何でしょうか。結婚をなぜするのでしょうか。何ゆえにするのでしょうか。男性に会いたくて、女性に会いたくて、するのではありません。愛を完成させるためにするのです。男性が求めるべき愛は、女性なくしては見つかりません。一人では絶対に見つかりません。女性が求めるべき愛は、男性なくしては絶対に見つからないのです。1222(144-234, 1986.4.25)
結婚を、なぜするのでしょうか。アダム、エバが自らの愛を探していくためのものではありません。縦的な神様の愛を核として、その核を中心に、その分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です。神様の創造理想もそのような愛を中心として結着するのであり、人間の男性と女性も成熟して、そこで愛の結着点が生じ、生命が連結されるのです。
ですから、生命によって連結されるのではありません。愛によって連結されるのです。縦的父の愛と横的夫婦の愛を中心として、本然の愛の種が初めて連結されるのです。1219(173-288, 1988.2.21)」
結婚とは「縦的な神様の愛を核として、その核を中心に、その分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です」。
縦的父子関係の真の愛、横的夫婦関係の真の愛、前後の兄弟の真の愛による球形の真の愛の理想を成すために結婚するのです。
男女の愛のために結婚するのではなく、神様のこの理想を成すために結婚するのです。絶対性はこのために神様が創造し人類にくださった親の愛です。
しかし、”真の父母様の本体論”は、神は女性に会いたくて、実体的に包み込まれたくて、男女の愛、そのような男女の具体的生殖器による交わりを求めて、神は女性を先惟先感したというのです。結婚の目的、絶対性のその理想が、生殖器の交わりに焦点をおいています。
どうしてこうなってしまったかというと神は包まれた感覚に女性の生殖器の感覚を感じ、そのために女性生殖器を先に考えたためです。
”真の父母様の本体論”はそのようなサタン女性先惟先感論です。
お父様「神様は人間にとって、真の愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは、一つしかありません。絶対的です。
創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながら神様の体である横的な父母の立場に立ちます。」
神様の真の愛の創造理想は、縦的真の父母と横的真の父母が垂直に交差する中心点にありました。
結婚とは神様の理想を成すために男女が父母になることです。
絶対性はこの垂直と水平が交わる90度、垂直の交差する中心点になければならないということです。
お父様「愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。」
愛はこのようなコンセプトなのです。絶対性はこのような愛のコンセプトによって創造されたのです。
お父様「宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。(198-237, 1990.2.3)」
絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷があります。それが愛のコンセプトです。その愛のコンセプトの中心点、中心核が縦的真の父母と横的真の父母が垂直に交わるその一点なのです。
絶対性の創造の目的はここにあります。
お父様「父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦関係の真の愛は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場であり、球形の真の愛の理想が願われたのです。」
その理想郷である球形の真の愛の理想の縦的真の愛は何でしょうか?父子の関係の真の愛です。
縦的真の父母様の真の愛と、横的真の父母様の真の愛は、父子関係の真の愛によって球形の真の愛の理想になることが出来ます。
この本体論は縦的真の父母・横的真の父母の理想を包容感にする
ところが”真の父母様の本体論”は、エバの生殖器に包まれるという生殖器による愛の感覚、愛の刺激に特化しています。
このようにして、真の愛のコンセプト、真の愛の理想と絶対性を、感覚に変えてしまうのです。
縦的真の父母と横的真の父母が交わるその中心点を包容感に変えてしまい、結局、縦的真の父母も横的真の父母も包容感の真の父母に変えてしまい、真の父母を殺してしまうのです。
これが”真の父母様の本体論”の真の父母論であり絶対性論です。真の父母殺害論です。
これは”真の父母様の本体論”の神が、その正体が包容包括感の愛の感覚器官を子宮として持つ夜の神の母と、その子宮内の神であるからです。このような神を宇宙の根本にしているから真の父を殺してしまうのです。
同じ「包む込む」という言葉ですが、
真のお父様の御言は「縦的真の父母、横的真の父母、縦横前後の真の愛が縦に上弦下弦、横には左弦右弦、前後には前弦後弦を90度で全体的に連結した一つの中心点で球形を成して真の愛の理想を集結する」というように数学的美しさ、神様の神性を感じさせる理智的知性があります。プレシジョン、正確さ、精密さを感じさせます。
しかし、”真の父母様の本体論”の神の「包む込む」は、包み込まれる、包み返したい、包容感などと、情的刺激、感覚ばかりで、理性や理智的知性はまったく感じません。何のインテリジェンスも感じさせません。極めて動物的な神の知性です。
絶対無にあった自分の本形状の前段階エネルギーの本質も知らず、包容感を感じることで、真の愛とは何かに覚醒したというのですから、まったく理智がありません。
そして包み返したいという衝動、そこから来る絶対孤独に陥ります。それが創造の動機というのですから、とんでもなく馬鹿で情けないほど愚かな動物的感覚の神です。
神の全知全能は、創造後から始まるとでも言いたいのでしょうか?
ロゴス、理法、原理を創造した夜の神が、このような愚かで馬鹿な神であるはずがないというのです。
この”真の父母様の本体論”の神は理智の欠片もない威厳も畏敬もない、ただ悍ましいだけの醜いサタン神です。
そうでありながら一人でも真の父母である「真の母」、女キリストを創る神、
真の父母の「真の父」を、キリストを包容感包括感愛で殺すサタン神です。
包容感神という子宮神から産まれた神、これが”真の父母様の本体論”の、夜の神の正体です。
クルト教、クルト神学、菅井教、菅井神学…。呼び方は自由ですが、舐めてかかるととんでもないことになります。共産主義と同じくらいの破壊力を持っています。なにせ、メシアの血統、三代王権を破壊するために、サタンが総力を挙げて作りだしたものだからです。サンクチュアリーの総力を結集して戦うべきです。内的戦いは、外的戦いよりも重要です。女がメシアの業績を破壊することも、メシアの血統を破壊するために内部に異端を作り出すことも、黙示録にある通り、遥か昔から予測されたことです。
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