悪魔が聖殿に蒔いた毒麦、菅井睦雄教祖とその教団-聖臨連合
2025年8月27日 テネシー清平韓国語水曜礼拝
直接主管圏時代<2>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
監修fanclub三原
「直接主管権時代」韓国語水曜礼拝權寧畢クォン・ヨンピル한국수요예배08272025
菅井睦雄氏主張の本体論と天一国聖殿聖臨連合「山形聖殿」
参考聖句:マタイ福音書13章
37 イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。
38 畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。
39 それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。
40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
それだけでなく、日本でもこのようなことがあります。
真の御父様の聖霊によって自分が本体論を新たに書いたと主張する人がいます。
私は彼に会ったこともなく、彼に関心も全くないのに、礼拝の御言で私に対して難癖をつけ続けています。
実際、そんな人に応じる必要すら感じませんが、七、八回も続けて私を攻撃しているので、彼に一言申し上げます。
彼が主張するところでは、彼が作った本体論を二代王様に送ったと聞きましたが、一切反応がなかったそうです。
実際、世界各地で多くの人が二代王様を訪ねて来ます。しかし二代王様は原理的でなければ一切相手にしません。
真の御父様もそうでした。原理的なものでなければ相手にしません。
真の御父様は後継者を立ててくださいました。
それなら本体論は必ず二代王様の承認や許可を得た後に公開しなければ なりません。
ですから、自分が受けた本体論について、二代王様が認めた事実がないなら、騒ぎ立てるべきではありません。
これが原理的な秩序です。
秩序を守らない人は聖殿の食口とは言えません。
彼は真の御父様の聖霊が自分に直接来られて、自分が本体論を書くように言われたから本体論を書いたと主張しています。
そう言いながら、自分の組織を次々と作っています。
三代王権の主管圏の中か外か
私たちは彼が主張する問題の核心を明確に知らなければなりません。
問題の核心は、彼が主張する本体論の内容が正しいか間違っているかではありません。
それは後の問題です。
また、彼が主張するその本体論に恵みがあるかないかも問題ではありません。
私たちはそれに関心を持つ必要がないだけでなく、それは重要な問題でもありません。
したがって、彼の言葉が正しいか間違っているかに集中してはいけません。
人の主張は正しいこともあれば間違っていることもあります。それは重要な問題ではないのです。
私たちが集中すべきことは、彼の行動が三代王権の秩序と体制の中にあるのか?ないのか?です。
彼が真の御父様の三代王権の主管圏の中にあるか外にあるかが重要です。
主管圏の中にあるなら秩序を守らなければなりません。
主管圏の外にあるということは、原理的秩序も守らないで、基本的秩序も守らない個人の活動に過ぎません。
原理を少しでも理解する人は、そんな主張に関心を持ちません。
彼の個人的な信仰については私は 関係したくありませんが、結局そのような人の行く道は決まっています。
霊人の目的と三代王権の摂理は一致しない
草創期の食口、李ミョンという方が真のお父様に質問したと言います。
何と言ったかというと、
「統一教会に入ってみると、多くの食口の方々が霊通をし、霊界の指示を受けながら信仰生活をしている一方で、非常に霊的な基準にまで達しているようだが、私にはそのような体験が全くありません。これはどういうことでしょうか?どうすれば霊通が可能になり、霊界との疎通が可能になるのでしょうか?」
このように真の御父様に質問しました。
真の御父様は、
「人によって信仰生活 をする形式は異なる。知的な人は遅く、のろい。情的な人は霊通を容易にするが、理性的(知性的な)人は論理的に能力で全てを悟ることができるため、霊的体験をしなくても理解は可能だ。
しかし理性的でない人は霊界から直接教えるしかないので、そうなのだ。だから心配する必要はない。
むしろ霊界から直接教えを受ける人は、その代わりに地上において自ら受けなければならない蕩減条件があるのです」。
このように 慰労してくださいました。
ですから人は天が私に許してくださった通りに生活すればよいのです。そのように信仰すればよいのです。
誰のようになれば良い信仰で、誰のようにしたら信仰生活を良くしていると言うのではありません。
むしろ霊通人たちは霊人から主管を受けるため、三代王権に侍って従うことが容易ではありません。
原理復活論を見ると、霊人体は肉身を離れては成長できないとしました。復活することもできないとしました。
したがって完成できなかった霊人は自身の使命部分を成し遂げるために地上の聖徒たちに協助するのです。
霊人は地上の肉身を探して協助することで自身の目的を成そうとします。
これを霊人の再臨復活と言います。
しかし霊人の目的と三代王権の摂理は一致しません。
したがって霊人の主管を受けると、三代王権の摂理に参与しないで、霊の意志を中心に活動する姿を私たちは多く見るようになります。
霊通人中心の組織を作り、自己組織の発展のための行動を取るようになるのです。
天一国にいる悪から宗族王と王妃の地位を奪われるな
皆さん、悪は常に私たちの周りに存在します。
二代王様は天一国が建てられても悪は存在するとおっしゃいました。
なぜなら天一国の文化は自由と責任の文化だからです。
サンチュアリ教会で、ある霊通人集団が来て伝道活動をしたことがありました。その時、食口たちが心配して王様に報告しました。
その時王様は何とおっしゃったかと言えば、「そのままにしておけ」と言われました。
なぜなら、天一国市民には選択の自由があるからです。
そしてその選択には必ず自身の責任が伴います。彼らの誘惑に負ける者が選択を誤るのです。そしてその人が選んだ結果に対して責任を負うべきは、ただその人自身だけです。
宗族王と王妃の地位を守るか、それとも奪われるか、これは二代王様が干渉されません。
もしその選択に干渉すれば、それは天一国市民の自由を無視し、その人を僕として扱うことになるからです。
したがって私たちは御父様と二代王様の御言を基準に判断し生活してこそ、つまずきません。
そして御父様が成し遂げられず、霊界に行かれ残された御言は、二代王様を通して私たちに与えられています。
それが秩序です。
神様はアダムとエバの堕落、堕落の可能性をご存知でしたが、堕落行為には干渉されませんでした。そして天使長を呼び出して、エバを誘惑するなと警告もされませんでした。
そして堕落した後の責任は、天使長の誘惑を選択したアダム・エバにあるのです。
他の存在に責任を転嫁しても、堕落の罪が消えるわけではありません。
神様は天使長に戒めを与えませんでした。アダム・エバだけに戒めを与えられたのです。「自らの創造を通して完成し、創造性を持って万物を主管せよ。天使も主管せよ」という御言です。
真の御父様もまた、韓氏オモニの堕落の可能性を予見されていましたが、真の母の責任分担に干渉されませんでした。
警告は与えられましたが、「そうしてはならない。こうすべきだ」と直接干渉はされなかったのです。
韓氏オモニの人間としての責任に干渉すれば、真の母の完成への道を阻むからです。
この過程で韓氏オモニは自由を誤って選択しました。誤って使用したのです。
真の御父様の警告を無視し、主権を離れました。結局、韓氏オモニはルーシェルの誘惑を選び、彼と一つになることで真の母の立場を離れました。
そして今は裁きを受けています。これが原理です。
再解釈の言葉を信じ、王冠を奪われその者の奴隷となるな
したがって、完成へ向かうか堕落へ向かうかは、これはただひたすら自身の選択です。
神様が阻んでくださるわけではありません。
それゆえ私たちは真の御父様の訓読の御言と二代王様の教えを離れてはなりません。
どれほど恵み深い御言であっても、訓読の御言よりも人の言葉を中心とすれば非原理になります。
神様と人間社会、天使長が入ってくることを許し、その言葉を中核とするのです。
ただ自ら真の御父様と三代王権の御言を中核とし、自由意志で完成の道を行かなければなりません。
真の御父様はすでに本として、1500余巻に及ぶ多くの御言を私たちに与えてくださいました。
そして私たちには聖書の御言もあります。
更に、二代王様も多くの御言をくださいました。
御父様は、訓読を生活する家庭にはサタンが絶対に侵入できないとおっしゃいました。
私たちが一生訓読しても1500余巻を超えるような御言を、それを全て学ぶには時間が足りないのに、なぜ人間の言葉を中心に置こうとするのですか?
私たちは現在、二代王から実際の天一国市民として生活しているのに、なぜ入り込んでくるのですか?
堕落がどうして起こったのか?
神様が直接与えられた御言に従わず、サタンが再解釈した言葉を信じて従ったからです。
真の御父様の御言を直接受けず、他の存在に依存し主管されれば、その者の僕となるのです。王冠を奪われるのです。
どれほど恵み深く正しい言葉と思えても、人間の言葉を天の御言より前に置いてはなりません。
その隙間からサタンが侵入するのです。
なぜなら、天一国の主人である私たちの家庭は、御父様と三代王権の直接主管権に留まらなければならないからです。
皆様、家庭盟誓を詳しく意味を考えてみてください。
家庭盟誓は、神様と真の父母と私たちの関係についての誓約です。天一国の主人である家庭の生活についての教科書です。私たちの生き方を神様と御父様に直接繋いでくれる、そのような御言です。
人間の誰それを仲保として神様と御父様の前に進みなさいという御言ではありません。
家庭盟誓を唱えながら悪の主管圏に陥る者たち
ではなぜ家庭盟誓を熱心に暗誦しながら、実際の行動は異なる生活をするのでしょうか?
私たちの聖殿食口にとって仲介者は、ただひたすらに再臨のキリスト真の御父様と後継者二代王様だけです。
聖書テモテへの手紙第一2章5節を見ると、イエス様の御言があります。「神様は唯一であり、また神様と人との間の仲介者もただお一人、すなわち人となられたイエス・キリストです。」
私たちが信仰生活においてアベル的な存在から教えを受けることは、私たちの霊的成長に役立ちます。
しかし師弟関係は補助的な役割であり、それが中心になると、かえって聖霊の感化感動を妨げることになります。
そして自分の信仰を他人に依存すると、自律的な霊的感応力が消耗されます。
それゆえ私たちは聖霊を感じられなくなるのです。
結果的に、神様と真の御父様よりも、人間的な誘惑とその秩序に敏感に反応するようになります。
この代表的な事例が家庭連合と郭グループです。
韓氏オモニが清平の巫女に依存して真の御父様を裏切り、カインとアベルを誣告して追放しました。
郭グループも真の御父様の御心よりも自己指導者の権威や組織の秩序をより重視した結果、反乱を起こしました。
結局、真の御父様と三代王権を否定した組織は悪の主管権に陥るのです。
これは二代王様の完成された仲介者使役を否定し、他の存在で代替するという誤謬、誤りに陥ることに他なりません。
イエス様は当時、ユダヤ教指導者たちによる垂直的階層秩序を強く批判されました。
マタイ福音書にはこうあります。「あなたがたは『ラビ』と呼ばれてはならない。」あなたがたの師はひとりです。あなたがたはみな兄弟です。」と記されています。
「ラビ」とは「師」を意味します。つまり「師はただひとり。あなたがたはみな兄弟である」と仰ったのです。
参考マタイ23章
8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
この言葉は、すべての聖徒は平等であり、イエス様ただお一人が真の権威と教えの根源であるという御言です。
そして十字架上でイエス様が息を引き取られた瞬間、聖所の垂れ幕が上から下へ裂けたと聖書は記録されています。
これは至聖所と聖所の間に遮られていた壁が崩れたことを意味します。
すなわち聖徒たちが神様に直接近づく道が開かれたということです。
以前はただ大祭司のみが至聖所に入ることができましたが、その後は誰でもイエスの御名によって直接神様の愛と主管を受けることができるようになったことを意味します。
したがって私たちの家庭が御父様の聖霊の中で生きるためには、御言を直接受けなければなりません。
他人に仕えるならば、それはサタンの主管権
真の御父様が天一国を宣言され出発されました。そして天一国市民に訓読生活を命じられました。
宗族王と王妃の家庭は、神様の王国である天一国に入籍するための心情と絶対性の訓練場、これが私たちの家庭です。
したがって私たちが三代王権に侍る家庭となれば、真の御父様の直接主権の中にいるのです。
他の人に仕えるならば、それはサタンの主管圏です。
神様の主管圏か、さもなくばサタンの主管圏なのです。
直接主管権の時代は、霊的には御父様の聖霊を受け、実体的には三代王権の主管を受ける時代です。
したがって、三代王権を離れては御父様の聖霊は訪れません。
三代王権に侍る宗族王と王妃の家庭には、御父様の聖霊が働き、神様の主管圏へと導かれます。
以上です。ありがとうございます。
祈りを捧げます。
祈り
愛の父なる神様、今日私たちを目覚めさせてくださるこのような御言を許してくださったことに感謝いたします。
私たちが信仰生活を送る中で、私たちは完成された人格ではないため、私たちは不足を感じ、また不足を通して他の人を見る時、尊敬とその人に頼りたい気持ちが私たちに多く起こっています。
しかし、私たちが真の御父様が与えてくださった訓動の御言と、また天一国二代王様が与えてくださった私たち天一国実体市民の生活に関する御言を、私たちがよく受け入れて、その御言を中心に私たちが学び、身につけて、真の御父母様と三代王権をお迎えし従う私たちの聖殿食口となれるよう願います。
堕落とは、神様と私たちの間に他の存在が入ることによって、私たちが神様との関係を断ち、他の存在との関係を持つようになったことが、神様を離れた結果となり、私たちは堕落したのです。
今、私たちが御父様が来られて、すべてを再臨キリストのすべての使命を完成・完結・完了されたので、またその後、すべての権限を代身者・相続者・後継者に移譲されたので、私たちがこの時代、天上の御父様と地上において摂理される三代王権に従い、その御言を学び、侍義の生活をするならば、私たちは神様の主管権の中にあるということを知るようになります。
その場所はサタンが一切踏破できない場所ですので、私たちが御言に従い、私たちは常に神様と真の父母様と三代王権の中に住むことができるよう導いてくださるよう願い望むとき、祝福の中心家庭、權寧畢、森田裕子家庭の名において報告いたします。
アジュ
*参考資料
サンクチュアリ協会は、菅井睦雄氏(諸星くると氏)の著書である「本然世界に展開する真の父母様本体論」を認めていません。当協会は、彼の唱える教義と自称する内容は、異端であり別宗教だとみなしています。
2025/7/22
群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)ブログより
【菅井グループ=霊的集団の問題点】
菅井睦雄氏は、2025年3月31日をもって、日本サンクチュアリ協会を退会しました。
同氏を中心としたグループの問題点について、下記の通り、簡略に説明します。
●二代王様の御言葉
「そういう者はいつの時でも出てくる。お父様の時もそういう者がいたし、自分に対しても居る。しかし、そういう者はいずれ滅びていく。放っておけばよい。
しかし、そこに影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなければならない」
御言葉に従いまして、「警告や啓蒙」のために、これを発表します。
●江利川会長の警告文(1回目)
『2020年だったでしょうか、PAで二代王様の指示の下で、劉正玉会長が「原理本体論」の講義をされた後から、菅井さんが劉会長を批判しながら「原理本体論」を説くようになり、急に「真のお父様の啓示」とか「夜の神様からの啓示」と言って傲慢な態度となり、それに伴って摂理的な中心性がずれて、「菅井原理本体論」こそ摂理の中心だと主張してきました。』
『残念ながら、今の姿は、傲慢不遜な自己主管欲の強い悪神が協助しているようにしか見えません。以前、善神が協助していた菅井さんとは別人のようです。』
一言で言って「傲慢」、その結果、御父様や二代王様の御言葉も、自分勝手に解釈するようになったということです。
●愛の減少感による恨みが原因
菅井氏は、家庭連合時代に、自分が認められなかったことを、初期のサンクチュアリの礼拝で語っていました。
同時に、自分なりに考えた神学についても、語り始めていました。
それを認めてもらうことを期待していましたが、挫折しました。
家庭連合に続き、サンクチュアリでも起きた、愛の減少感から恨みを持ったことが転換点です。
それが悪神に主管された原因です。
●自己の位置を離れ、主管性を転倒し、悪を繁殖する
具体的には、江利川会長に反対するグループ作りです。
そのためには、江利川会長を信頼する二代王様の御言葉も、ねじ曲げて解釈します。
菅井氏と同じような堕落性を持った人達は、簡単に惹き付けられます。
●江利川会長の警告文(3回目)
「なぜ嘘をつくのでしょうか?
また、菅井さんが自称する夜の神様や真のお父様はこんな嘘に相対するのでしょうか?
嘘に相対するのは他でもない神様を装う悪神ではないでしょうか!」
もともとの性質でないとすれば、悪神の業によるものですが、現在の菅井氏は、平気で嘘をついて、人を操ろうとする「サイコパス」のようになっています。
騙されている人達は被害者であり、そのことに気づくことを願います。
●他の独立聖殿との違い
他の独立聖殿は、二代王様が任命した江利川会長を尊重しています。
二代王様の御言葉を自分勝手に解釈する傲慢はありません。
そして何より、霊界の啓示を動機とした発言や行動はありません。
★最後に、今後日本サンクチュアリ内部で菅井グループの活動をされた場合の注意
今回、初めて「霊的」「情的」「怨念的」なリーダーが独立しました。
二代王様の御言葉を使いながら、自分勝手な集団になっていくことが、非常に懸念されることになります。
まだ日本サンクチュアリの中には菅井氏と活動を共にされた方々が残っておられます。
そこで、今後菅井グループの活動(セミナー参加や勧誘など)をされた場合には、警告の対象となりますのでご注意ください。
日本サンクチュアリ協会評議会
↓菅井派に対する記事
菅井睦雄氏は偽預言者 菅井派は聖殿異端、別宗教
↓菅井派のように、女性に対する感性や発想が先にあったとする、フェミニズム神学の考察
↓菅井派の”真の父母様の本体論”に対する考察