2025年6月26日木曜日

<更新>原理原相論(試論)-2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓「夜の神様の心情が爆発的である理由」

原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓 「夜の神様の心情が爆発的である理由」の項目、以下の通り、文章追加更新しました。

この部分だけだと唐突ですので、原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓の最初から読んで頂ければと思います。
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夜の神様の心情が爆発的である理由

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「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 

「御旨と世界」  人間に対する神の希望

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一時期、神御自身が自己中心的」な、夜の神様とはどのような夜の神様でしょうか?


そのような「為に生きたい」という思いで、夜の神様は一時期自己中心的であった、絶対的に為に生きる利他的なご自身に自己中心的であったということです。

どういうことでしょうか?


御自身以外の何ものをも意識することなく存在」されていたということは、夜の神様ご自身は、本性相と本形状の統一的存在ですから、この一時期、「為に生きたい」という内的心情にご自身が絶対的自己中心的でした。

「御自身以外の何ものをも意識することなく存在」するとは自己完結した、他からの影響や認識を全く必要としない存在の状態を指しています。ただ「ある」という純粋な存在です。

時間や空間の制約すらも超越している存在だということです。


つまり神の自己愛が「真の愛の道(tao)を極める」為の、神の無意識世界にまでも及ぶ深い瞑想ということです。

この真のお父様が言われる神の「一時期自己中心」とは、次に「御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」と説明しておられるように、夜の神の創造前の絶対無の位相においての深い瞑想によって、自己の中心を極める自己愛によって真の愛の道を極められたということです。


愛である神が、創造前に他者が存在しない場合、そのように神は自身を愛する状態にあるということになります。

他者を愛するためには、まず自分を愛することが出来ないと、ましてや他者を愛することは出来ません(臨床心理学:F・フロム-ライヒマン)。


この堕落世界において、自己中心的とは、他者を犠牲にするという意味ですが、このお父様が言われる自己中心的一時期とは、自分自身を愛せない者がましてや、他のために生きることなどできないという創造前の神の自己愛のことを言っておられます。そのような真の愛の道(tao)を極める神の無意識世界にまでも及ぶ深い瞑想のことを言っておられるのです。


この創造前の深い瞑想は、神は御自身の完全性(全知全能、真、善、美)を自己認識し、これを愛されました。

この神の自己愛は、完全な知的・意志的行為であり、欠乏やナルシシズムとは無縁の愛です。動的であり、関係性を生み出す力を持つのです。

神のこの完全性が「他者性」を求める内在的動機となり、生成を導くのです。

これをお父様は「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」と表現されました。


真の愛の道(tao)を極め、為に生きる犠牲の愛に生きるための自己認識は、御自身の完全性(全知全能、真、善、美)を自己認識することによって生まれます。この自己認識無くして他の為に生きる愛の信念など生まれるはずもありません。

そのような欠乏やナルシシズムとは無縁の関係性を生み出す自己愛の力は、愛の理想郷を持つことになります。この愛の理想郷を持つことで、神はために生きる愛に絶対的に服従したい愛の神として生まれることになります。


このように、「為に生きたい」という思いで、夜の神様は一時期自己中心的であったというのです。


そのことを次のお父様の御言に見ます。


宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

(198-237, 1990.2.3)


つまり真のお父様は「神様が絶対的に服従したい愛の理想郷をもつことで神様が生まれた」と言われました。

神様が愛の理想郷を持っことによって、

統一的存在内部における自己中心性(御自身の中心を極める完全性の自己認識と自己愛)は、その情の力が心情エネルギーとなり、その統一的存在性相全体が爆発するほどに、その「為に生きたい」という心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するしかありませんでした。

「為に生きたい」という心情エネルギーだけでは、ご自身の統一的存在性相が爆発するほど膨張することはできません。


同時に、「為に生きることに絶対服従したい」「為に生きることに妥協したくない」という内的心情の情の力もまた、絶対的自己中心的ですから、「為に生きたい」という内的心情を強烈に押し出し膨張させていく心情エネルギーとして、その統一的存在性相全体が爆発するほどに、その心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するようになりました。


このようにして神の自己愛が「愛の道を極める」ことで真の父の愛となり、ペリコレーシス(perichoresis:相互内在)の相互関係愛となり、三位一体を形成していくのです。

「排他的ではなく、創造的・拡張的」であり、「与えたい」「生きたい」という夜の神の真の父としての心情を誘発し「真の愛の道(tao)、真の父の愛を極める」ことにより、真の愛の完全性を追求するこのプロセスが宇宙的・調和的な秩序、ロゴス、原理となっていくのです。


このようにして、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」の相対である「愛と生命と血統」を「中心として受け止め吸収」した時、夜の神様にこのコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機が生じ高まっていきました。

この時同時に生じた心情動機、「このコンセプト(愛)」に、「絶対的に服従したい理想郷」のコンセプトに絶対服従したいという心情の決意的動機が、「このコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)」という心情をさらに強烈に押し出し爆発的心情になったということなのです。


このように、夜の神様の深い瞑想は自己探求、自己肯定と他者への愛の基盤として排他的ではなく、創造的・拡張的、そして与えたい為に生きたいという神の心情を誘発するのです。

そして "0秒でありながら永遠であり、α(アルファ:始まり)でありΩ(オメガ:終わり)でありながら父だけ”のアガペー本体の愛となったのです。

それは父の犠牲の愛となり、この父の愛が、これもまた”0秒でありながら永遠でありα(アルファ)でありΩ(オメガ)でありながら相互内在(ペリコレーシス:perichoresis)、相互関係愛、相互犠牲愛の三位一体”となっていったのです。


キリストの血の、犠牲をかえりみず恩讐を愛する父性的愛の強烈な力強さは、夜の神様のここから来ているのです。


そしてこの爆発的「為に生きたい」という心情エネルギー、その「為に生きること」に「絶対に服従したい」という爆発的心情エネルギーが万有原力の源泉となったのです。

いわゆる統一思想のいう前段階エネルギー(Prio-stage Energy)です。



インデックス原相論

原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 


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