主よ、死ねと言われれば死にます
2025年6月4日テネシー清平韓国語水曜礼拝
クオバディス・ドミネ<2>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
監修fanclub三原
韓国語水曜礼拝權・寧畢クォン・ヨンピル牧師 06 04 2025
死を覚悟したミクロの精誠
王様はトランプラリーで命をかけて戦われました。食口たちに共に戦おう。アメリカから日本へ傭兵として来い。時には厳しく叱責し、「お前たちは韓国や日本で家庭でYouTubeを通じて戦うニュースを聞くだけで、王様の血筋は戦って死ぬべきだと言うのか?」
そのようなことを言われました。
「無理をしてでも来て戦え」と教えられました。
実際、考えてみてください。アメリカの人口は3億人を超えています。韓国と日本から数百人が交代で来て、ミニバス1、2台でアメリカ全国を回りながら拡声器で叫んでも、その声を一体何人が聞くでしょうか?アメリカ人が何人、聞いて心を改め、トランプを支持するでしょうか?
見物にはなるでしょう。
投票権もない外国人が来て、狂ったように騒ぐと、右派の市民が勢いを得るでしょう。
しかし、なぜ私たちがアメリカに来たのでしょうか。韓国と日本から、バイデンと何の因縁があるのでしょうか。バイデンが害をなしたことはありますか?ありません。
むしろバイデンは外国人に対して優遇政策を採りました。トランプ候補は「アメリカ・ファースト」と叫び、アメリカ優先主義を主張しました。
では、なぜ私たちがバイデンを憎み、トランプ候補を 愛さなければならないのでしょうか?なぜ支持しなければならないのでしょうか?
韓国人は光化門で左派と戦うのに忙しくて、自分の足元も火事なのに、なぜ私たちはアメリカに来たのでしょうか?
他人が「狂った奴ら」と罵っても、それをどう説明できるでしょうか?私たちの心をどう逆さにして見せられるでしょうか?
できないでしょう。
なぜ私たちは職場を辞め、学校の講義を欠席し、数百万円ずつ自腹を切って苦労しながら、路上で寝泊まりし、バスの中で寝ながら米国に来たのでしょうか?青年たちが。
私たちの目的は単純です。私たちの霊的指導者が私たちを呼び、共に戦おうと言ったので、私たちは無条件で来たのです。無条件で来たのです。
なぜなら、三代王権の存続がかかっていることを悟ったからです。他の理由がありますか?
王様の御言が全て理解できたから来たのでしょうか?いいえ、無条件で来たのです。王様の言葉でトランプ候補が大統領になる確率が0.0.001%もないとおっしゃいました。
では、私たちはどのような心情で来たのでしょうか?単純です。王様と生死を共にし、苦楽を分かち合うために来たのです。
王様が共に戦い、死ぬまで戦うよう言われたから来たのです。
王様は常に最前線で戦われてきました。後ろから命令される方ではありません。
では、私たちはどうすべきでしょうか?王様が命じられる通りにすべきです。王様が教えるなら、私たちは従います。
王様が人々を集めて教えくださることは、私たちは世の中に飛び出し、その言葉を拡声器で世の人々が皆 聞かせるように叫ばなければならないのです。
私が堕落した人間であっても、恥ずかしくても、それでも大声で叫ぶのです。
16億の中国復帰もミクロの精誠で
今回、王様は中国CCPを崩壊させ、中国の地を復帰するために台湾へ赴かれました。
皆さんはこの意味が理解できますか?王様に従う人は今何人いますか?何人しかいません。
しかし、16億の中国を復帰できるでしょうか?今後、台湾にも韓国と日本の若者が交代で訪問して霊的戦争に参加するでしょう。
しかし、台湾政府もできず、世界キリスト教もできず、全世界もできないのに、私たちの力で可能でしょうか?
世俗的な判断では不可能ですが、神様と真のお父様が介入すれば可能です。
王様は個人に見えるかもしれませんが、摂理を導く方です。
再び言いますが、神様と真のお父様の実体を借りて働かれる方です。マクロを動かすことができるミクロの中心にいらっしゃる方です。
それで、精誠によってトランプ候補をバトラーから救い、大統領に当選させ、マー・ア・ラゴ宮殿に入って神様の名前で任命の祈りもされました。これは神様と真のお父様の役事を除けば理解できないことです。
だから私たちは世が理解できない道を進んでいるのです。
お父様が示された通りであって、お父様は私たちに理解を求めた後で摂理を導かれたのではありません。
メシアが決定すれば、私たちは無条件に従いました。
「クオバディス・ドミネ(Quo vadis, Domine?)」
「主よ、どこへ行かれますか?私たちも従います」。
これが私たちの精神です。
2000年前、イエス様と12人の弟子たちの犠牲が今日のキリスト教を興したように、私たちが三代王権を中心に、そこに参与するのです。
私たちの精誠は5%ではなく、0.005%にも満たないかもしれませんが、神様はミクロでの勝利を望んでおられます。
ミクロの小さな勝利を条件として、奇跡のような世界的なマクロの摂理を起こされるのです。
バトラーでトランプが0.0.01秒も、1秒もかからないその瞬間に頭を向けたその出来事は、モーゼが紅海を割った奇跡よりも大きなものです。
統一聖殿で統一聖殿の二代王様がマー・ア・ラゴ宮殿命で起こされた任命の祈りは、五つのパンと二匹の魚の奇跡よりも大きなものです。
私たちは目に見えない神の御業を見て、二代王様に従うのです。
死ねと言われれば死にます
それ故、無条件に従わなければなりません。自分の考えは持てません。
二代王様が「ロッキー山脈を通れ」と命じれば、通って行き、
「飛行機から飛び降りろ」と言えば飛び降りるのです。
60歳の時にスカイダイビングを命じられました。本当に飛行機から体を投げ出すのです。
大丈夫そうだから、できるから、理解できるから、数千メートルの上空から体を投げ出すでしょうか。
「死ねと言われれば死にます」。
この訓練をしたのです。私の行くところへ、あなたたちもついて来い。この訓練をしたのです。
死の道でも従う人間に訓練させたのです。
そのため、二代王様に従うと、私たちの判断では理解できないことも多くあります。
あり得ないようなことも命じる時があります。
なぜなら、王様は天上の真のお父様の御旨を受け、摂理を進められる方だからです。
王様は、真のお父様の前で、まさにそれこそ絶対信仰、絶対愛、絶対服従を示される方です。
王様は、「あなたの路程はイサクの路程だ」とおっしゃいました。別の言葉で言えば、「絶対服従と財物の路程だ」という意味です。
アブラハムは、アブラハムがイサクを殺そうとした時、イサクは絶対服従しました。百歳の男は、父アブラハムが自分を殺そうとして刀で刺そうとした時、イサクは従いました。「死んでも構わない、父アブラハムと絶対一つだから」。
アブラハムがなぜ私を殺そうとするのか理由を尋ねませんでした。
同様に、王様の摂理も安定した堅固な道ではありません。道ではない場所へ導かれるのです。ですから混乱します。
理解できない時もあります。
混乱しないなら、実は何も考えていない人でしょう。当然、混乱します。
王様は今回、台湾で、また変身されました。
申し訳ありません、このようにいいます。アメリカではギャングのボスみたいな姿だったのに、台湾では三国志の関羽みたいな姿に変身されました。
そのため、天の摂理は誰にも分かりません。あまりにも突然現れるからです。
その時は私の判断や、誰かの囁きに従って別の道に迷えば、別れなければなりません。
当然、私の頭で理解され、私の判断で進むなら、それは既に神の摂理ではありません。お父様は理解できない指示をされ、驚くべき勝利を収められました。
その時、私たちは理解したから従ったでしょうか?
統一教会が、すぐに門を閉ざすことになるような指示を多く受けました。
しかしお父様はその道を通じてサタンを屈服させられました。
私たちに尋ねたその後、摂理を進められませんでした。
だから信仰とは分析や討論ではありません。絶対という言葉が入らなければ信仰ではありません。
飛行機から飛び降りろと言われれば飛び降りるのです。
だから信仰は祝福を受けるためのものではありません。信仰は、ある意味では賭けよりもさらに冒険的なものです。
私たちは、だから常に主を見なければなりません。無条件に従わなければなりません。私たちの霊的指導者を無条件に従わなければなりません。
「どこへ行かれますか、主よ。その道を私が従います」。
主が「あなたが捨てたローマへ向かう、私は死の道を行く」。
その言葉に、ペテロは再びローマに戻り、十字架に釘付けられました。
ペテロは弟子の中で最もイエス様が信頼する弟子として戻ってきました。
サタンに屈服しなかったペテロの絶対信仰と絶対従順により、天はマクロの摂理を起こされました。
私たちは神様と真のお父様の御心に従い、三代王権に侍り従うように選ばれた者です。
私たちの使命を混乱させる他の声は、これは神様から出た声ではありません。
私たちは常に摂理の中心へ向かい、従わなければなりません。真似をしなければなりません。同行です。摂理の中心を主体として侍り同行する人生が信仰の人生です。
以上です。ご清聴ありがとうございました。
こんにちは、水曜賛美チームです。今日は権教授の尊いお言葉を聞きながら、何かこう、
主へ近づく賛美を準備したのですが、何か流れに任せて このように天から飛び降りろと言われれば飛び降り、コロラドへ行けと言われればまたコロラドへ行きながら、数え切れないほど多くの自分と向き合いながら生きてきました。
しかし今、その終わりに差し掛かっても、まだ終わりではありませんが、その過程で常にただお一人である主のみを仰ぎながら歩むことができる一歩一歩となることを願っています。
道の中にある私たちが向き合う数多くの誘惑と、また私たちの内にあるささやきを捨て去り、ただ主のみ御心に従って歩むことができるよう、切に願いつつ、主と共に賛美を捧げます 。
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