2025年3月14日金曜日

<異端の夜の神> ”真の父母様の本体論”に関する考察2◆偽りの真の愛の起源、夜の神の母

 -1 ◆イエス様にみる真の愛

 -2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓

 -3 ◆愛は感覚ではない愛は父子の愛

 -4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造

の堕落論編、<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは-1◆共通概念考察

<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察1◆愛は愛、愛は感覚とする包容感の愛

に続く、<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察2です。


<異端の夜の神>

女性先惟先感論が言う真の愛とは‐2

”真の父母様の本体論”に関する考察


参考文献:菅井睦雄氏のブログから「真の父母様の原理本体論」関連文献集



パワー崇拝、征服愛の共産主義性の征服愛


ここでは絶対服従性という情的刺激を真の愛の核心とする”真の父母様の本体論”の感覚愛について考察します。


”真の父母様の本体論”「

・そのエネルギーの絶対服従性が、神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚、内的愛だと認識し自覚したのです。


神様がもっとも先に先惟したのは、無限の神様をも包み込んで来た感覚感性なのです。先惟というよりも神様自身が覚醒した、自らの潜在意識にある「絶対服従性」からくる情的刺激だったのです。


・厳密にいえば、包み込まれるという感覚は三次元世界のものであって、包み込まれるという感覚のもととなった神様が受けた情的刺激という事になります。その情的刺激とは、形状の持つ性相に対する絶対服従性から与えられたものであり、絶対服従性の原点は性相の情的世界から来たものです。


・対象の存在に覚醒すると、その対象を包み込みたいという感覚が授受作用の原理から湧き上がってくるのです。これこそが、神様の対象への愛の覚醒の瞬間であり、さらに真の愛に絶対服従して生きたいという心情の動機に至った時が、「真の愛の起源」となるのです。


絶対孤独の無の暗闇の境地から浮かび上がってきた真理の中の真理、存在の核心の中の核心こそが、本性相と本形状の存在基台となっている「絶対服従性」だったのです。対象である本形状の作用を展開する絶対服従性は、主体としての本性相内の授受作用があってこそ、本形状の作用や機能が成り立っています。

それこそが、全知全能の神様を絶対者として存在させていた由縁です。


”真の父母様の本体論”は『神様の知情意を刺激したのは前段階エネルギーの絶対服従性である。その絶対服従性が神様を包み込むほどの喜びの情的刺激だったので、この神様の性相の絶対服従性を強く刺激した時、内的愛だと自覚した。形状の絶対服従性に神様は対象への愛に覚醒し真の愛に絶対服従したいという心情が真の愛の起源である。そのように相互に「絶対服従性」こそが本性相と本形状の存在基台であり真理の中の真理、存在の核心の中の核心である。』といいます。相互絶対服従こそ真の愛の核としています。


つまり、真の愛の中核、その真理性、その存在の核心の基準が「絶対服従」であるということです。これが愛の主体であり、絶対服従が授受作用してこそ真の愛としています。

先ほど、『なぜキリスト教では「神の愛は感覚ではない」と考えるのでしょうか?』におい、てキリスト教的にみれば、この愛は感覚に触発されるので無条件の愛ではないと説明しました。

更には「絶対服従」という条件がつくので、もはやキリスト教がいう無条件の愛ではないと説明しました。


・絶対服従という条件付きの愛


”真の父母様の本体論”の「相手(形状)の絶対服従性に喜びの情的刺激を受けて、これが内的愛だと感じ、自身もこの愛に絶対服従したいという愛を感じた(自覚した)」ということは、どういうことでしょうか?

自分自ら絶対服従しようとしたのではなく、先に相手の絶対服従が有り、相手(形状)が相手から先に自分に絶対服従することが包容感を感じるほどの情的刺激の喜びであり、自分もその絶対服従性に絶対服従したいということです。


これは絶対服従を相手に求めています。相手が先に全体服従したならば、という前提条件が有るということです。ですからこの愛は絶対服従が愛の条件であり、愛の基準になっています。絶対服従という条件付きの愛です。

この夜の神が絶対服従したいう愛の今は、相手が絶対服従することに絶対服従するということです。

なぜなら、”真の父母様の本体論は「「絶対服従性」こそが本性相と本形状の存在基台であり真理の中の真理、存在の核心の中の核心である』からです。


絶対服従を相互間の感覚の愛に置けば大変な問題が生じます。

それを次にお父様の御言から考察します。


・本来の絶対服従すべき真の愛、絶対服従の感覚を求める愛


真のお父様「

・宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。(198-237, 1990.2.3)


・ゆえに神様の愛と創造性に似た人間と国家が、神様が創造しようとされた目標だったのです。これは、人間の理想がそれを追及することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追及する熱望なのです。

宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。

(293-132, 1998.5.26)

宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1) 神様の二性性相の大展開 

3.神様の宇宙創造の動機は愛


このように真のお父様は「神様は愛の理想郷(コンセプト)に絶対服従する」とは言われましたが、「神様は愛の感覚に絶対服従する」とは言っておられません。

お父様が言われる絶対服従とは、愛の理想郷、コンセプト、「神様の愛と創造性に似た人間と国家が、神様が創造しようとされた目標」を実現するために神様は絶対信仰、絶対愛、絶対服従するということです。


真のお父様『我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。

(中略)

それゆえに、創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されるのではなく御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。神は愛するために存在し、与えるために存在されるのです。神は完全に利他的な存在であります。神はお一人で存在されることはできないのです。「愛」と「理想」は二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ、その意味をもつものであります。

人間に対する神の希望 1973年10月20日 ワシントン リスナー講堂』


この御言は、神は与えるために完全に利他的な存在であることに自己中心的であるがゆえに「愛」と「理想」のために創造を意識されたということです。


創造後の、アダムとエバのための愛のために、創造前にある縦的愛が父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」なのです。

神様が利己的であったのは、利他的に生きる、為に生きることに利他的、自己中心的であったのであり、この理想郷(コンセプト)を果たすことに絶対服従し自己中心であったのです。

絶対的に利他的な存在である神の自己中心は、必然的に完全に利他的な存在にならざるを得ないのは自明の理です。


「父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。」

利他的な愛、この血を流しても子を生かそうとするその信念、覚悟、決意は、そのような犠牲の愛に絶対服従するという絶対的自己中心がなければ、犠牲の愛は貫くことは出来ないのです。

別の言葉で言えば、神は喜びや、感覚、そのようなエロスの愛に対しては、まったく自己中心的ではなかったのです。そのようなエロスの愛はまったく神には存在していないからです。


ところが、”真の父母様の本体論”の場合、「絶対服従する感覚愛の世界の実現が、愛の理想郷(コンセプト)」、つまり「神様は愛の感覚に絶対服従する。神様は愛の情的刺激に絶対服従する」と言っているのです。


いや、”真の父母様の本体論”の絶対服従には理想も理想郷もコンセプトもありません。

「その情的刺激とは、形状の持つ性相に対する絶対服従性から与えられたもの」というのですから、絶対服従も情的刺激、つまり感覚というのです。

そのような情的刺激、感覚に絶対服従するというのですから、これはもはや神様の愛ではありません。極めて動物的なエロス愛です。


そのような感覚的喜びに神は利己的であったと”真の父母様の本体論”は主張します。感覚を愛に変えて、愛に絶対服従といいながら実質は、感覚に絶対服従すると言っています。感覚を愛に変えるのです。


・絶対服従の情的刺激愛を求める愛とは


このような「相手が絶対服従することに情的刺激を受けて喜びを感じる。そのように絶対服従する愛に絶対服従したい」という愛はどのような愛でしょうか?


まず、この愛は、「相手が絶対服従することに情的刺激を受けて喜びを感じる」のですからパワー崇拝、権力主義的な愛ということです。支配する喜びということです。

同じように共産主義の愛は、相手が絶対服従することに喜びを感じるサディスティックな支配愛です。命を投げ出して自分に絶対服従する相手の姿に喜びを感じる愛です。共産主義の指導者はこの愛に絶対服従して共産主義世界を造っていきました。それと同じです。

つまり”真の父母様の本体論”の愛は共産主義の愛です。これは共産主義神学です。”真の父母様の本体論”により夜の神を信じる共産主義が誕生しました。


先に、「唯物論的主体と対象の逆転」にて”真の父母様の本体論”はエロスの愛であると説明しました。

この”真の父母様の本体論”の包容感愛は「絶対服従」という条件付きの愛なのですが、そのような「エネルギーパワーが絶対服従」することに本性相が喜びの情的刺激を受けて、この感覚愛に「絶対服従」し構想理想を展開するというのですから、つまりその絶対服従感お感覚が喜びというのですから、どれほどサディスティックなエロス愛であるのかというのです。


本形状の前段階エネルギーというパワーが、自分に絶対服従することに情的刺激を受け、その感覚から喜びを得る、簡単に言えばパワー自分に絶対服従することが喜びなのですから、どれほどパワーによる絶対服従の刺激を好む、パワー崇拝のサディスティックなエロス愛なのでしょうか。

そしてその絶対服従で相対がマゾヒスティックに喜ぶことを求める条件付きの愛です。

非常に唯物共産主義的エロスの愛です。そしてサドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛です。


対象にあるパワーが絶対服従することに包容感を愛と感じる程に喜ぶ神様、絶対服従することを喜べと要求する神様ということです。

これは大変なパワー崇拝です。パワー愛の喜びに目覚め、そのパワー愛に絶対服従することにした夜の神様。「絶対服従性」、この感覚こそが真理の中の真理であり、存在の核心とする極めてサディスティックな神様です。サドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛です。


感覚を愛にしてしまうと、こうなってしまうのです。

これが果たしてアガペーの愛といえるのでしょうか?しかし”真の父母様の本体論”はこの包容感の愛、そしてそれに触発された包み返したい包括感こそアガペーの愛というのです。その根拠が絶対服従性であると”真の父母様の本体論”は主張するのです。


・偽りの真の愛、絶対服従エロス愛の起源

実際、”真の父母様の本体論”のみならず、人類はこのような「絶対服従の征服愛、唯物共産主義的エロスの愛」の実現を求めてきました。これこそが真実の愛だと言って求めてきました。そのような人類歴史であったと言っても過言ではないでしょう。


それは全人類がルシファーの、アダムとエバを絶対服従させることができない愛の減少感によって生まれたからです。

堕落論の堕落の動機と経路は淡々と書いてありますが、実際には、ルシファーとエバは、お互いに惹かれ合う情的刺激、そのお互いの心を慰める包容感の情的刺激の愛にお互い死んでもいいと命をかけて、このエロスの愛に絶対服従し激しく愛し合ったのです。


「お互い絶対服従し、お互い全てを捧げ命を懸けて愛し合う愛」、人々はこのような人本主義的愛をアガペーの愛だと言って憧れますが、本質はサディスティックなエロス愛です。サドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛です。


その典型的愛が、心中です

心中は相愛の男女がその愛情の変わらないことへの誓いとして双方の一致した意思により二人が一緒に自殺することです。情死ともいいます。

これは男女のエロス愛にお互いが絶対服従して激しく愛し合った結果です。

太宰治もこの絶対服従の相互愛を求めて玉川上水でその思いを果たしました。

これがどれほどサドマゾヒスト(相互性倒錯)の暴力的愛であるかというのです。


この愛の起源がルシファーとエバの絶対服従性愛なのです。

人々はこの間違った愛を起源にするがゆえに「お互い絶対服従し、お互い全てを捧げ命を懸けて愛し合う」このような人本主義的愛をアガペーの愛だといって憧れてしまいます。

キリスト以外の全ての人類はこの愛をその起源にしている存在です。

それだからキリストが人類は必要なのです。


つまり”真の父母様の本体論”もこのルシファーとエバの愛の相互絶対服従の愛をその真の愛の心理核心にしているということなのです。

”真の父母様の本体論”は、このような「物理的絶対服従による情的エロス刺激愛、サドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛」を真の愛の核、天地創造の理想郷、創造の価値基準にしています。

端的に言うならば”真の父母様の本体論”の言う真の愛とは、ルシファーとエバの堕落の愛のことです。


それだからこそ、多くの人々が”真の父母様の本体論”のルシファーとエバの愛のエロスの愛をアガペーの愛だと思って惹き付けられ信仰するのです。

そのような魅力があるので人本主義者、唯物論者、共産主義者が喜んでこの”真の父母様の本体論”を受け入れ神を信じるようになるでしょう。しかし、それは神に反逆する異端神です。


人類がこのようなルシファーの愛を求めリベラル、唯物論、共産主義が巨大な勢力になったことを考えると、この”真の父母様の本体論”は、このルシファーの愛を真の愛としているがゆえに、神を信じる共産主義となり韓グループのように、将来の三代王権、三大王権の血統を利用し勢力を誇る大きな勢力になる可能性があります。ゴグとマゴグです。(ヨハネの黙示録20章6-10節)


二代王様「愛は感覚ではありません。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に


人本主義、唯物論、共産主義は、端的にいうならば結局、愛を感覚、”感じることである”と理解する共通点があります。

ですから、二代王様がいくら「愛は感覚ではない。愛を感覚に変えた」と言われても、情的には受け入れられない聖殿信徒もたくさんいることでしょう。


なぜならば、それは先に言いましたように、私たちは「ルシファーとエバが、お互いに愛の減少感を癒やす愛の包容感に包まれて生命をかけて、激しく愛し合ったその感覚の愛の結果の子孫たち」であり、潜在意識のなかで、これこそがアガペーの愛と感じる愛の感性感覚があるからです。


繰り返しますが、

二代王様:『異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。

しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。』

二代王様はこのように言われます。

しかしルシファーとエバから引き継がれた堕落の愛の感性たちが、この御言を情的に受け入れることはとても難しいのです。この愛は感覚の愛ではない真の愛だと言い張ることが容易に予測できます。


ですから、これからも「愛は愛である。愛は感じること、愛したくてたまらないその愛の感性、愛のフィーリング、その為に命も全てを捧げること。これこそが為に生きる愛、犠牲の愛、真の愛、アガペーの愛である」と、言葉巧みに愛を感覚に変え」、そのような感性の者たちが集まる強い勢力となっていくことでしょう。


夜の神様の母神に対する夜の神のマザーコンプレックス


ルシファーとエバから引き継がれた堕落愛の感性、二代王様が『異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」このように言うではないですか、あいつらは。

と審判されるように、「愛は愛だ」と言って愛を感覚に変えるのは異邦神の女性神、サタン神学の特徴ですが、”真の父母様の本体論”も巧妙に女性神、アスタルト、アシェラ、アシュタロテを忍ばせている女性神学です。


ここではどのようにその異邦神の女神』が組み込まれているか次に検証します。


”真の父母様の本体論”「つまり神様を包み込んできて誕生させた包容感そのものを、顕現させようとしたのですから、その存在は夜の神様の母という事になるのです。母でありながら神様の対象として、ともに未熟な極地にある生命体として誕生し、ともに成長して、互いに真の愛を分かち合い、包容包括する関係になることを願われたのです。

皆様、この夜の神様になり切って想像してみて下さい。自らを真の愛を探す存在として産んでくれた母という存在に対して、どれほど感激されたでしょうか。その真の愛を成就した母と、真の愛を成就した父となることを目指して、無の暗闇の境地の完全無・絶対ゼロの状態から、ともに成長していく構想を発想した夜の神様は、真の愛の前に嗚咽したに違いないのです。

この真の愛の母となる女性を、夜の神様はどれほどいとおしく、どれほど尊く思われたでしょうか。だからこそ、女性は構想理想の出発点であり、創造の到達点とされたのです。」


”真の父母様の本体論”は、創造以前の太初で、夜の神様の母、産んでくれた母などと、何やら母、母、女性とやたらに大騒ぎし感動しています。

ですから”真の父母様の本体論”は典型的な太初に女性を思った先惟先感女性神論の異邦神の女神』神学です。「産んでくれた母という存在」とまで言うのですから、もはや夜の神の子宮神学論であると言えるでしょう。

性相的男性格主体である創造以前の夜の神の心情世界で、これほど母を意識するということは、この本形状は、これをもはや性相的男性格の女性的性質ということは出来ません。女性的性質ではなく、もはや心情における女性格、女性神です。


詳細は次の項で論じますが、”真の父母様の本体論”は「真の愛の源泉」、「愛の種」を次のように定義します。


”真の父母様の本体論”

・神様の思考回路に主体と対象の位置が確立した時、互いに一つになるために包容包括し合う喜びの境地が広がったのです。互いが絶対服従し合いたい喜びの意義として、真の愛が神様の心に広がり現れたのです。その愛に包み込まれた時に、対象を愛したくてたまらない「愛の種」が、神様の心に生じることになったのです。神様は愛によって生まれ、真の愛の源泉としての心情を獲得したのです。

・神様は夜の神様として新たな生命を得る「愛の種」を得るのです。神様にとっては、この体験の瞬間が、自己中心な神様から対象を愛したいと願う新たな神様の誕生への、愛の種の受精の瞬間となります。』


”真の父母様の本体論”は、夜の神の本性相が、本形状の前段階エネルギーの絶対服従によって包容感を感じ、その情的刺激によって生じた、対象を愛したくてたまらないこの愛に絶対服従したいうという喜びの心情が「愛の種」「真の愛の根源」であるとしてます。


これは先に論じたように唯物共産主義的エロスの心情が、「愛の種」「真の愛の根源」であるということです。「物理的絶対服従による情的エロス刺激愛」が真の愛の核、「真の愛の源泉」であるということなのです。

それだから、このような包容感をもたらした本形状の前段階エネルギー、これを「夜の神様の母」だと”真の父母様の本体論”は主張するのです。


”真の父母様の本体論”「つまり神様を包み込んできて誕生させた包容感そのものを、顕現させようとしたのですから、その存在は夜の神様の母という事になるのです。母でありながら神様の対象として、ともに未熟な極地にある生命体として誕生し、ともに成長して、互いに真の愛を分かち合い、包容包括する関係になることを願われたのです。」


互いに真の愛を分かち合い」とは絶対服従性の情的刺激に愛を感じ分かち合うサディスティック・ラブです。

絶対服従性をもって感覚愛、エロス愛を分かち合うのですが、そのサディスティックな愛に覚醒させてくれたので、包容感という結果をもたらした原因であるで本形状の前段階エネルギー「その存在は夜の神様の母という事になる」と”真の父母様の本体論”は定義するのです。


性相的男性格主体だけ存在である夜の神様に、その母がいたとするのです。夜の神の創造主がいたとするのです。どのような母なのでしょうか?


”真の父母様の本体論”「自らを真の愛を探す存在として産んでくれた母という存在に対して、どれほど感激

この真の愛の母となる女性を、夜の神様はどれほどいとおしく、どれほど尊く思われたでしょうか。


真の愛の誕生という意味において、夜の神は、本形状の前段階エネルギーによって産まれた。つまり夜の神は、本形状の前段階エネルギーの子であるということです。本形状の前段階エネルギーが母だということです。

本形状の前段階エネルギーは「絶対服従による包容感」を与えるのですから、夜の神の母は「絶対服従による包容感」であり、夜の神様はその子であるということになります。

「絶対服従による包容感」という愛の母神が、「絶対服従による包容感」に喜ぶサディスティックな子を生んだ、その子が夜の神であるということです。

絶対服従包容感という母なる創造主が、そのような女性神が太初の太初に存在したということです。

性相的男性格主体の唯一神でありながら、性相的男性格主体の女性的性質という説明では説明のつかない、明らかな女性性質が、この神の心情世界にあります。


そのような性相的男性格主体の心情世界、これはもはやマザーコンプレックスと言っていいでしょう。

マザコン(マザーコンプレックス)は、母親に強い執着や愛着、依存心を持つ人を指す言葉ですが、「絶対服従による包容感」という絶対服従する母の愛によって、愛に覚醒しその母を妻にしたというのですから、どれほど「マザコンな神、夜の神」であるのか、ということなのです。

極めて情けないほどにマザーコンプレックスな「女性先惟先感」の愛です。

母の「絶対服従の包容感」によって愛に目覚めるのですから、どれほどサディスティックなマゾコンエロス神なのかというのです。


子宮神神学、夜の神の母と夜の神の結婚


「唯物論的主体と対象の逆転」の章で説明したように「包容感」とは夜の神様が対象となり、形状からの物質的刺激が主体なり、その刺激感覚によって、形状に主管されるということは主体と対象が、逆転していると説明しましたが、ここでも同じ主体と対象の逆転が起きています。

『「包容感」が夜の神様の母であり、夜の神を創造した』という、夜の神は被造物であるという”創造主と被造世界の関係における、主体と対象の逆転”が起きています。


”真の父母様の本体論”「母でありながら神様の対象として」

つまり「夜の神の母」という女性神が夜の神という天地創造の神をその心情世界でつくり、その母は自分の子の妻となり、夫である夜の神とともに天地創造していったということになります。

夜の神の母であり夜の神の妻という、女性神の中の究極の異邦神、女性神です。

「夜の神の母」でありながら妻であるこの女性神が主体であり、その子であり夫「夜の神」が対象になっているのが、この”真の父母様の本体論”です。


「夜の神の母」という”真の父母様の本体論”の観点からみると、この絶対服従な包まれる包容感とは、女性の子宮の中に入ったその子宮のなかでの包容感を表しています。そしてその子宮の包容感によって真の愛に覚醒した夜の神が誕生したというのですから、明らかに”真の父母様の本体論”は異邦神、女性神学であり、子宮神学です。


その子宮の包むような絶対服従感に喜び、その子宮に憧れ、その子宮をもつ母を妻として天地創造をしていった夜の神です。ですから、この夜の神はどれほどマザコンな神なのかということなのです。

この女性神は太初に夜の神という子を生み、その自分の子の妻となり、夫である我が子とともに真の愛をつくりあげて、天地創造していったということですから、非常におぞましい近親相姦女性神神学です。


真のお父様「お母様は、真の母になり、真の妻になり、真の娘になる、その三つをすべてしなければなりません。(1992.05.10)」 

もしも、このような御言を根拠にしているのでしたら、大変な御言の悪用です。

創造主である、その太初における夜の神の心情が、産んでくれた母を対象にするというその言葉、その心情が、近親相姦を創造後の世界で正当化され、実現してしまいます。

そのような悍ましい近親相姦女性神神学です。


これは神学というよりも、絶対服従する母を妻とし、絶対服従して我が子の妻となり天地創造したという、世にある異邦神の神話よりももっとグロテスクな神話と言えるでしょう。


二代王様:『異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。」


”真の父母様の本体論”『無限大の自らが丸ごと包容される感覚は、これまで自己中心であった神様が体験したどの喜びよりも衝撃的であり、その事象から来る体験を「愛」と名付けたことから、前段階エネルギーは内的愛となりました。』


”真の父母様の本体論”は、お父様の御言や二代王様の御言、原理用語を多用してはいますが、このように本質は異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」」という神学です。

”真の父母様の本体論”は「愛は愛だ、真の愛だ」と言いながら、真の愛を感覚に変える、異邦神の女性神、サタン神学の特徴をその中心教理とする、このように原理用語と御言の中に巧妙に女性神、アスタルト、アシェラ、アシュタロテ以上のグロテスクな女性神を忍ばせている究極の女性神学なのです。


夜の神を、その女性神から生まれその母の子宮に憧れ妻としその母とともに天地を創造していったと言うのですから、どれほど異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」」という神様を最大限に貶める女神神学なのでしょうか。


以上、見てきたように”真の父母様の本体論”の包容感の愛は、唯物的エロスの愛であり、母の絶対服従に喜びを感じるサディスティックな愛であり、包容感を母とし、その母を妻にしてその絶対服従する母の愛に絶対服従してその母を愛するという極めていびつなグロテスクな愛です。サドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛です。”真の父母様の本体論”のいう真の愛の正体がルシファーの愛だからです。


”真の父母様の本体論”は、このように悍ましい唯物サディスティックエロス・グロテスクな愛を、真の愛としている女性神学なのです。

ですから”真の父母様の本体論”がいう三位一体論も、高位キリスト論も、その他すべての神学も、すべてこの女性神を起源とする唯物サドエログロな感覚マザコン愛、サドマゾヒスト愛を中核としているのです。


この本体論の本体とは、近親相姦の未熟な極致の生命


どうしてこのような神学になったのでしょうか?

それは感覚を愛に変えてしまったからです。


”真の父母様の本体論”「母でありながら神様の対象として、ともに未熟な極地にある生命体として誕生し、


「未熟の極致にある生命体」、”真の父母様の本体論”は、夜の神様をこのように言います。

天地創造以前の神様を「未熟の極致にある生命体」と言って憎み蔑むのです。

神様に対する畏敬の愛、神様を慕う心情の何一つも感じられません。

これが”真の父母様の本体論”の神様への愛の本質です。

このような表現が神様への神聖冒涜であることがまったく理解できない情が本質なので、このような言葉がナチュラルに出てくるのです。

”真の父母様の本体論”の心の奥底、深層心理には明らかに神様を軽蔑し侮辱する憎悪の情があることが分かります。


ルシファーは今も神様に対して「神よ、あなたは原理と真の愛を守らないといけない。あなたの愛と生命と血統と原理を無茶苦茶にする私を、それでも愛さないといけない」と神様を憎み愚弄しているのですが、それと同じ情構造を感じさせます。


どうして全知全能であり愛であり、二性性相の中和統一体である夜の神様は「未熟の極致にある生命体」という、未熟の極致のグロテスクな生命体になったのでしょうか?


それはこのように感覚を愛にし、その情的刺激、感覚から生まれたから、「未熟の極致」であり、天地創造、生命創造以前に夜の神が「未熟の極致にある生命体」として生まれたからです。


”真の父母様の本体論”の「母でありながら神様の対象として、ともに未熟な極地にある生命体として誕生し、」という言葉は、自ら、自分たちが信じる神とは、このようなグロテスクな神であるという自らの告白であると言えるでしょう。


真のお父様「そして、全世界ではフリーセックスや近親相姦が展開するのです。近親相姦とは何ですか。父が娘と暮らし、息子が母と暮らすことです。おじいさんが孫娘を連れて暮らし、母が息子と暮らすのです。ですから、動物よりも劣るのです。完全に勝手気ままです。

(285-111, 1997.4.21)」

”真の父母様の本体論”は、夜の神の誕生に「フリーセックス近親相姦が展開する」、息子が母と暮らす近親相姦のサディスティックなエロス愛を真の愛の根源に置きます。ルシファーの愛です。

それだからそのようにして誕生した夜の神は、動物よりも劣る「未熟な極地にある生命体」が愛の種として生まれることになるのです。


真のお父様「神様が最も貴く思っているものは、近親相姦関係の相手ではありません。絶対理想的相対関係を近親相姦関係にしてしまったのです。サタンはそれを知っているので、神様が立つことができる足場を完全に破壊するために行動したのです。

(286-136, 1997.8.9)」


このお父様のみ言の通りに、”真の父母様の本体論”は、夜の神の誕生において「絶対理想的相対関係を近親相姦関係にしてしまったのです」。

「サタンはそれを知っているので、神様が立つことができる足場を完全に破壊するために行動し」、聖殿教会に入り込み、このような「母子近親相姦”真の父母様の本体論”」をつくったのです。


もちろん”真の父母様の本体論”は「これらの言葉は、分かりやすくするために比喩、例えを使ったのだ、正しい解釈は、実際に包んできたということではなく神様の心情において実感された状態のことで…」などと反論することでしょう。

しかし、その比喩、その例えが”真の父母様の本体論”の本質を分かりやすく自ら語っているということなのです。

真のお父様お母様は、真の母になり、真の妻になり、真の娘になる、その三つをすべてしなければなりません。(1992.05.10)」 

このお父様の御言の見事な悪用です。


夜の神とは時空間創造以前の神のことです。心情においてというのなら尚更です。


二代王様:『異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。しか

し愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。』


この御言の通り、”真の父母様の本体論”は『無限大の自らが丸ごと包容される感覚は、これまで自己中心であった神様が体験したどの喜びよりも衝撃的であり、その事象から来る体験を「愛」と名付けたことから、前段階エネルギーは内的愛となりました。』

と定義し、

前段階エネルギーという物質(E=mc²)をつくる刺激エネルギーを内的愛とし、この物質的刺激からくる感覚を愛に変えたのです。

このようにエネルギーを愛に変え、物質を愛に変え、刺激を愛に変え、感覚を愛に変えて、「愛とは刺激であり、感覚である。従順服従の包容感こそ真の愛である」という極めて人本主義、唯物論、共産主義的愛です。

このような物理的な刺激愛、感覚愛を中核とするがゆえにサドマゾヒスト(相互性倒錯)の愛、ルシファーの愛になるしかないのです。


以上、”真の父母様の本体論”の、包容感という愛について見てきましたが、何故、二代王が「愛は感覚ではない、愛を感覚にした」と叱責されるのか、感覚を愛に変えるとこうなるのだという典型的事例として、その理由、そのサタン主義が、お判りいただけたと思います。

1 件のコメント:

  1. クルトさんの神学は神様の香りも、お父様の香りも全くしない、神ならざる者の怨念しか感じない全く皮相な神学ですが、それでも引っかかる人々が多数出てくるでしょう。クルトさんは絶対にサンクチュアリーを離れず、己の使命を果たすと豪語しておられるのですから、江利川さんはじめサンクチュアリーの責任ある人たちは、腹をくくって邪悪な存在と戦わなければなりません。

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