2025年3月11日火曜日

<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察1◆愛は愛、愛は感覚とする包容感の愛

 -1 ◆イエス様にみる真の愛

 -2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓

 -3 ◆愛は感覚ではない愛は父子の愛

 -4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造

の堕落論編、<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは-1◆共通概念考察

に続く<異端の夜の神>”真の父母様の本体論”に関する考察1です。


<異端の夜の神>

女性先惟先感論が言う真の愛とは‐2

”真の父母様の本体論”に関する考察


参考文献:菅井睦雄氏のブログから「真の父母様の原理本体論」関連文献集


菅井睦雄氏の”真の父母様の本体論”は「女性先惟先感論」に分類できます。

女性先惟先感論」の典型例ともいえるのがこの”真の父母様の本体論”です。

「”真の父母様の本体論”に関する一考察」では特に特徴的な部分について論じます。

女性先惟先感論」で論じたことが、”真の父母様の本体論”にも同様に適用できますので、「女性先惟先感論」を合わせてご参照ください。


日本における聖殿では「イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない” 原理講論,キリスト論第二節(3)”」とする伝統的統一原理こそが高位キリスト論も低位キリストを統合した最も高度な神学であるとしています。これは郭グループと同じ神学です。

結果、二代王様が唱えられる”イエスは神の実体本体当人”とするキリスト論、三位一体論は、日本の聖殿では二代王様は原理が分かってないとしており、郭グループがニ代王様を否定するのと同じように、日本の聖殿でもニ代王様の神学は否定されているのが現実です。おそらくニ代王様の神学、クリストファニー(Christophany)は、まったく理解できないことでしょう。


そのような中、二代王様が唱えられる”イエスは神の実体本体当人”とするキリスト論、三位一体論がどれほど二代王様三代王権の摂理をなすのに重要であるか、常日頃唱えている方の神学”真の父母様の本体論”でしたので、とても期待をしました。

しかし大変残念ながら、結論から言いますと、お父様、二代王様の御言を多様していますが、中を見てみますと、そのキリスト論、三位一体論はまったく別物。二代王様の高位(高い)キリスト論、三位一体論を美しく着飾るだけの、およそ二代王様の神学、キリスト教とはいう事は決してできない全く別の宗教です。


考察に用いた文献は次になります。菅井睦雄氏のブログから「真の父母様の原理本体論」関連文献集

愛は愛、愛は感覚とする包容感の愛


まず、愛と感覚に関する二代王のみ言を紹介します。

_________________


ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。

あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。


どうして愛は愛ではないのか。

愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。

子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。


だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。


だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 

_________________


愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。

これが、二代王様の、愛を感覚とすることに対する、愛の定義です。

上の、二代王の御言を要約すると、


「最近は「愛は愛だ」と言って「感覚を愛である」という。

しかし愛は感覚ではない。

アガペーの愛とは、子供を生かすために死ぬことができる、父の犠牲の血の愛である」


ということです。


ところが、愛は感覚ではないのに、”真の父母様の本体論”は「包容感という感覚によって、夜の神様が、真の愛に覚醒された」と定義します。


その”真の父母様の本体論”の根幹となる神学を紹介します。


「”真の父母様の本体論”:

・前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を、内的愛だと自覚するのです

そのエネルギーの絶対服従性が、神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚したのです。


・神様自らは思いもしなかったのに、その内的愛は他のどんな作用にも増して、無意識世界の中心点から湧き上がるとともに、神様自身を包み込んでくるのです。永遠普遍で無限の神様をも包み込んでくる偉大な感覚を、愛と呼んで神様が覚醒し、『愛により生まれた』と実感することになるのです。


その無の存在だった本形状の機能から包容感を感じ取ったことにより、対象の存在にこそ、神様自身に存在の喜びを与えてくれていたことに覚醒したのです。だからこそ、自らも主体として、対象であった本形状を包み返し包括したいと願ったのです。しかし、対象の本形状自体が形状を持たず、包み返そうと思えば思うほど、つまりその情念こそが「愛」となっていくのですが、その情念への答えは返ってこないのです。


・ですから、神様がもっとも先に先惟したのは、無限の神様をも包み込んで来た感覚感性なのです。形状を持たないその愛の感覚感性を、形状として構想する苦労が始まるのです。先惟というよりも神様自身が覚醒した、自らの潜在意識にある「絶対服従性」からくる情的刺激だったのです。」


この”真の父母様の本体論”の、これらの論を要約すると、

「本形状の前段エネルギー作用が神様を包む、包容感からくる感覚感性、情的刺激が内的愛である。

そして、その包容感という情的刺激の内的愛によって、神様はその感覚を愛と呼んで覚醒し、この絶対服従性という情的愛の感覚感性に絶対服従したいという情的刺激によって、神様は愛により生まれたと実感した。

そのような本形状を包み返したいとう情念が愛となった」

と、愛の起源を定義します。


しかし二代王様の愛の定義は、

「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。」

ということであり、これが真の愛の心情ということです。


ところが、”真の父母様の本体論”は、包み込まれるという包容感、この感覚によって、夜の神様が包み返したいという衝動で真の愛に覚醒したと言います。

”真の父母様の本体論”の根幹は、この包容感です。包容感を感じて愛だと自覚する包容感愛です。

神様が包容されるという感覚で内的愛を自覚するということは、この包容感という感覚が真の愛の中心核ということです。


このような包容されるという感覚に対し、二代王様は「しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。」と叱責されます。

このように愛の根源を感覚にしてしまっては、、異邦神、女神サタン主義の神学になります。


「二代王:

ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。


しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。」


まさにこの二代王様の御言のように”真の父母様の本体論”は愛を、包容感という感覚に変えました。

しかも夜の神の愛の根源をこの包容感愛とし、父なる神の縦的真の愛の中核にしています。

ですから、あいつらとは、詐欺師とは、今後はこの”真の父母様の本体論”を信じる人々も含まれることになるでしょう。実際、愛を感覚に変えて真の愛の根本にしているのですから。


神様とイエス様の父子の関係の愛


そのような”真の父母様の本体論”に対し、二代王様の縦的愛の定義は、愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。」

ということであり、これが真の愛でありその心情ということです。


しかし、”真の父母様の本体論”は、このような父子の関係の愛、このアガペーの愛は、

「包容感包括感に包まれて、アダムの生心に臨在する夜の神様が、三次元世界に顕現した愛の環境圏から造り出される父子の関係性」において、夜の神様もアダムもエバも完成するようになっていたのです。」

このように、三次元世界、つまり天地創造後に包容感包括感愛が創造したのが父子の関係である、創造物であると規定します。


つまり、私を生かそうとする父犠牲の宝血の愛は、三次元世界の愛であり、天地創造以前の神の縦的愛には存在しないと否定します。創造物だと規定します。包容感という感覚の内的愛が、夜の神からくる縦的愛であると言っているからそうなるしかありません。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。


二代王様はこの父親の犠牲の愛、神様とイエス様の、父子の関係の愛は、聖父、夜の神様、創造以前の神からこられた御子イエス様のと父子の愛であることを言っておられます。

なぜならキリスト教において「神の愛は感覚ではない」からです。そして二代王様はイエス様は夜の神様から来られたと言っておられるからです。


ですから、ここで二代王様が言っておられる「父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」とは、夜の神様との父子の関係の愛、創造以前からあった愛であることは、二代王様の夜の神に関するみ言を信じる者にはあまりにも当然なのです。


しかし”真の父母様の本体論”はこの父子の関係の愛を、三次元、創造後の愛であると規定します。

それは、天地創造後の昼の神でもなく、夜の神というより根源において、包容感愛を、つまり包容感という感覚的反応を愛の根本においているからです。


愛の起源において、父子の愛、アガペーの愛を三次元の愛として排除し、夜の神様の愛を包容感という感覚に変えてしまうのですから、どれほどこの”真の父母様の本体論”が二代王様が、これほどまでに叱責しておられるサタン的神学の中のサタン神学であるかということが分かります。


キリスト教の神観から考える「包容感愛」


さきほど、キリスト教において「神の愛は感覚ではない」と言いました。

ここでは、キリスト教の一般的神の愛に関する神学でこの包容感愛を考えてみます。


1.

神は愛であるという聖書の教えは、神の本質が愛そのものであることを示しています。

しかし、”真の父母様の本体論”は、そこから「包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚」した、つまり「神の愛は感覚だ」「神の愛は感覚的反応」だとしています。

「神が愛の感覚や刺激に反応する」というこの言説はクリスチャンにとって、非常に受け入れ難い神聖冒涜の言葉です。


2.

なぜキリスト教では「神の愛は感覚ではない」と考えるのでしょうか?


   ・神の本質、全知全能なる永遠の存在: 

キリスト教では神は全知全能、永遠の存在であり、人間の有限な感覚や経験を超越していると考えます。我々もそうです。

このように「感覚」によって愛を持つという概念は、無限の神を人間という有限性に閉じ込めてしまう限界があります。

感覚によって愛に目覚めたということは、それまで神は愛を知らなかったということであり、これは神の全知全能性を否定します。神は愛なりの否定でもあります。

この神は感覚によって愛に目覚めたのですから、感覚に主管される愛です。感覚が主体であり、この感覚に神の愛を閉じ込めてしまうのです。


・神は愛そのもの: 

キリスト教では神は愛そのものです。神は愛であると真のお父様も言っておられます。これは夜の神の位相の神であろうと、昼の神の位相の神であろうと、この本質は変わりません。

神は、愛を感じる存在ではなく、愛そのものなのです。人間が愛を感じたり、愛を求めたりするように、神が愛を「感じる」という概念は、神の本質を限定してしまいます。神は愛そのものであることを否定してしまいます。


・創造と関係性: 

神は天地世界を創造し、人間と深い関係を築いています。愛とは関係性のことです。この創造と関係性そのものが、神の愛の表現であり、感覚的な反応としての愛ではなく存在そのものとして現れているからです。人間との関係が神の愛の表現です。

このようにキリスト教の神の愛の表現から見れば、”真の父母様の本体論”における感覚愛は神の愛の表現にはなりえないのです。


・無条件の愛: 

神の愛は、人間の行動や条件に左右されない、無条件の愛です。人間の愛がしばしば条件付きであったり、感情的な揺れ動きがあるのとは対照的です。

包容感愛は、感情的な揺れ動きに起因する、感覚に触発される条件付きの愛です。


”真の父母様の本体論”はそのエネルギーの絶対服従性が、神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚したのです。

といいます。

つまり絶対服従性という条件をつけていますから、この愛は、無条件の愛、無償の愛ではありません。条件つきの愛であり神様の無条件の愛、無償の愛を否定しています。


このようにキリスト教において、神が愛であるということは、神が愛の感覚を持っているという意味ではなく、神の本質そのものが愛であることを意味します。神は、愛を「感じる」のではなく、愛そのものとして存在し、その愛を世界に注いでいると理解するからです。

キリスト教では神は愛であり、感じるから存在するのでもなく、感じるから人が存在し、世界が存在するのではなく、神の愛によって存在するとしています。


そのようなキリスト教の観点からみれば「包容感を内的愛とする”真の父母様の本体論”」はまったくもって異端、基本的にとても受け入れられる神学ではありません。


夜の神様の位相で、包容感という感覚を愛であるとするならば、全ての創造物が、この感覚、包容感でつくられることになります。

もちろん父と子と聖霊の三位一体も、キリストの父子の関係の愛も、この包容感愛という感覚によってつくられているということになるのです。

キリスト論も、この包容感愛によって構築されますのでとても受け入れられないということになります。

アダムとエバも当然、この包容感という感覚で創造され、真の愛もこの包容感でつくられることになります。


そのように、”真の父母様の本体論”は簡単に言えば「神の愛は包容感愛、感覚愛そのものであり、人間も世界も包容感愛という感覚によって存在する」と”真の父母様の本体論”は主張しているのです。


このように包容の感覚(情的刺激)を、内的愛だと認識し自覚」した、つまり「神の愛は感覚だ」「神の愛は感覚的反応」だとしていますが、とても唯物論的です。

この唯物論性を次に見ていきます。


”真の父母様の本体論”の唯物論性


”真の父母様の本体論”(上説明図を使いながら)創造前の神様の状況に例えるならば、外界が無意識世界の自己愛による感情世界に例えられ、これまで体験した喜びの状態から、知情意による思考展開によって電気信号を作り出し、さらに構想を加えた理想とする喜びの実感環境圏が神様の意識世界に顕現化され、これまで以上の喜びの境地に立てる環境圏が作りだされるということになります。

そこで構想理想を展開する本性相に、絶対的に反応し、電気信号を作り出すエネルギーこそ、本形状のそれ自体の形状を持たない自存エネルギーの働きということになります。


このことから、誕生前の神様は性相と形状が完全一体化した存在でありながら、形状自体の形状は無であって、性相だけが感覚感知できる様相だったという事になるのです。

絶体無の存在だった対象の存在が意識され、愛を返したいと神様が思い立ち愛に覚醒した瞬間があったということになります


「知情意による思考展開によって電気信号を作り出し、本形状の自存エネルギーの働きにより本性相に電気信号を作り出す」ということですが、これは、心や愛は脳によって生み出されたとする唯物論を基本とする現代脳科学論にとても類似しています。*詳細:脳が心を生み出すとはどのようなことか

「このこと(電気信号を作り出す自存エネルギーの働き)により(夜の神の)性相が対象を感覚感知し愛に覚醒した」というのですから非常に唯物論的な愛の覚醒です。

唯物論は、「愛は、脳が作り出す複雑な現象であり、神経回路、化学物質、ホルモンなどが複雑に絡み合って生み出される」と定義しますが、夜の神様の心の動きと思考展開の基礎に、この唯物論を適用しています。


”真の父母様の本体論”は「夜の神は自己愛と喜びの体験から知情意による思考展開によって電気信号を作り出し、本形状は本性相に絶対的に反応し、電気信号を作り出す、そうしながら構想理想し天地創造した」、つまり電気信号による神の知情意思考展開により天地創造したというのですから、どれほど唯物論かというのです。

(もちろん、この電気信号は、三次元の電気信号でなく、創造以前のと、いろいろと反論するでしょうが、これは少し後で論じます。)


ですから先に、キリスト教では「神の愛は感覚ではない」と考えることを説明しましたが、これほど感覚や前段エネルギーという物質の刺激に支配される唯物論的神は、キリスト教にとってはまさに天地創造神に対する神聖冒涜です。


”真の父母様の本体論”「そのエネルギーの絶対服従性が、神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚したのです。


神様がもっとも先に先惟したのは、無限の神様をも包み込んで来た感覚感性なのです。先惟というよりも神様自身が覚醒した、自らの潜在意識にある「絶対服従性」からくる情的刺激だったのです。


知情意を刺激」「包容の感覚」「包み込んで来た感覚感性」「『絶対服従性からくる情的刺激」・・・

”真の父母様の本体論”は、やたらと刺激、感覚、感性、情的刺激を夜の神様の根源に置きます。

夜の神様は、これほどまでに感覚、刺激の仕組みに支配される神様、そのように愛の根源は感覚、刺激であるというのです。


夜の神様は、愛そのものとして全知全能なる本性相と本形状の中和統一体であるのに、刺激と感覚によって、自分自身を知り、愛に目覚めるのですから、この神はご自身について余りにも無知な神です。


そして前段エネルギーという物質的エネルギーという刺激とその感覚に支配される非常に限界のある中和統一性のない神様です。

このように絶対中和統一体である夜の神様であるのに、ご自身についてまったく理解しておらず、絶対服従の情的刺激によってやっと真の愛に気づくというのですから、どれほど自身の絶対無に対しても真の愛に対して無知な神なのか!ということなのです。

このようにして、その神の全知全能の神性が崩壊してしまうのです。そして夜の神様の絶対中和統一体性が破壊されるのです。もはやこれはキリスト教や統一原理のいう神ではありません。


・神の全知全能を否定することになる


多くの人が「どうして、神が自分自身のことを知らないのか?」そのような素朴な疑問を抱くことでしょう。

これに対し、創造以前の神様だから、「形状は絶対無の存在」だからなどと”真の父母様の本体論”は主張しますが、その絶対無についても全知全能でなければ、絶対無を主管することも出来ないので、神様の全知全能の絶対性と夜の神様の絶対中和統一体性が破壊され崩壊してしまうのです。


包容感を内的愛とする」”真の父母様の本体論”は、「神の愛は感覚ではない」とするキリスト教では、とても受け入れられる神学ではないことを説明しましたが、

このように感覚を神の中核におくと、神の全知全能、永遠の存在性、神は愛そのものであるというキリスト教の神の本質を全て破壊してしまうのです。


”真の父母様の本体論”は、これほどまで「神の愛は感覚であり刺激である」と、感覚、刺激を神様の根源に置いてキリスト教の神を破壊するのです。

”真の父母様の本体論”自身もこう言います。

”真の父母様の本体論”『無限大の自らが丸ごと包容される感覚は、これまで自己中心であった神様が体験したどの喜びよりも衝撃的であり、その事象から来る体験を「愛」と名付けたことから、前段階エネルギーは内的愛となりました。』


包容感覚の体験を「愛」と名付けたというのですから、まさに愛を感覚に変えたのです。刺激を愛に変えたのです。前段階エネルギーを愛に変えたのです。エネルギーを愛に変えたのです。電気信号を愛に、物質を愛に変えたのです。


二代王「しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に

”真の父母様の本体論”が、いくら、お父様や二代王のみ言をもって真の愛、キリスト、真のお父様を語ろうと、その愛の真実は、すべて偽りということです。


そのように”真の父母様の本体論”は、神を語りながら、その本質が極めて人本主義、唯物論、共産主義的なのです。

極めて人本主義、唯物論、共産主義と親和性の高い神学です。この”真の父母様の本体論”の神はまさに唯物論の天地創造神と言っていいでしょう。


人本主義者、共産主義者、唯物論者が、天地創造の神を信じるようになるとするならば、このように感覚が前段階エネルギーから愛を感じ愛を返したいとする愛の神です。

なぜならば、神様が人本主義や唯物論の根本になるからです。


・唯物的感覚のエロス愛


この神の愛の覚醒は、

本形状の前段階エネルギーによる電気信号により、愛に覚醒した愛ですからこの、包容感の愛は、非常に動物的な感覚感性の愛です。感覚に対する愛の刺激ですから、極めてエロス的な愛です。

これもエロスの愛、ロマンスの愛を愛の中心にする人本主義者、唯物論者が好む神の姿です。


ですから、唯物論、共産主義が、世界を席巻していったように、この”真の父母様の本体論”も、そのような人本主義者、唯物論者、共産主義者に大いに受け入れられるでしょう。


なぜなら、人本主義者は唯物論者は神を否定せざるを得ませんでしたが、神を受け入れることにより、もっと強力に人本主義、唯物論を主張できる、愛においてはエロスとロマンスを主張できる唯物神学論を手に入れることができるからです。

神様、イエス様、真のお父様を信じる者のなかで人本主義、唯物論、共産主義的思考のベクトルを持っている人からの支持も大きいでしょう。


やがて大きな勢力となり、4代5代、10代と続く血統三代王権と対立する、あるいは血統三代王権の中心神学にしようとする聖殿左派神学となっていくことが予測されます。

なぜなら感覚の愛、包み合う慰め合う感覚こそが真の愛であると感じる左派志向性の強い信徒はとても多いからです。

ヨハネの黙示録で預言されている1000年後のゴク・マゴク戦争の時、ゴク・マゴク側の主力思想、主力神学になるかもしれません。


次に”真の父母様の本体論”の、その人本主義、唯物論、共産主義性について見ていきます。


唯物論的主体と対象の逆転


現代の物理学では、物質とエネルギーは本質的に同じものであるという考え方が主流です。

素粒子の質量は、エネルギーと等価とするアインシュタインのE=mc²が有名です。


本形状の前代階エネルギーは形状を作っていき、万物を創造していきます。

現代物理学におけるダークエネルギーにしても、超弦理論の素粒子弦振動にしても、それらの解明されていない作用力のエネルギーは本形状の前代階エネルギーによるものとして、E=mc²の式に従えば前代階エネルギーはエネルギーとなり物質となります。


”真の父母様の本体論”「前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を、内的愛だと自覚するのです


本形状の力の作用に、神様が包容される」、この「包容される」という言葉を能動態、受動態の観点で主体と対象を考えてみます。


神様を包容するのは、本形状の力です。一方、包容されるのは神様です。

この包容という作用に対して、神様の性相は受動的です。一方神様の形状は能動的です。

つまり、本形状の力が主体であり、神様の性相が対象であり、性相が形状に主管されるということです。

本来、性相が主体であり、形状が対象です。主管性転倒です。

”真の父母様の本体論”「360度から喜びに包み込まれた感覚を味わいながら、その包み込んで来た存在を包み返そうとした時に、その存在はどこにも無く、全知全能の絶対者であった神様が、絶対孤独の境地に落とされたのです。」


”真の父母様の本体論”自身も、本形状の包み込んできた包容感に対して、本性相が包み返そうとしたと表現しているように、主体が形状であり、対象が性相になっています。

包み込む方が主体であり、包み返す側が対象です。

この性相と形状の主体対象が逆転しているのが”真の父母様の本体論”の問題で、もっともベースとなる問題点です。

これから述べる本形状のすべてのことが主体となっており、本性相が対象になっています。

そのように主体と対象が逆転した神学論を展開しています。


・物質的刺激が主体となり性相が対象となっている


ここでは物質、刺激が性相に対して主体になっていることを論じます。

形状の前代階エネルギーは天地創造が始まった時、エネルギーとなりE=mc²の式に従って物質となっていきます。

天地創造の結論から、端的にいえば形状は物質ということもできます。

前段階エネルギーの作用を、内的愛だと自覚するのです」から、物質(E=mc²)によって内的愛を自覚するということです。


”真の父母様の本体論”自身も、

”真の父母様の本体論”『無限大の自らが丸ごと包容される感覚は、これまで自己中心であった神様が体験したどの喜びよりも衝撃的であり、その事象から来る体験を「愛」と名付けたことから、前段階エネルギーは内的愛となりました。』

と、説明しているように、

前段階エネルギーという物質(E=mc²)を内的愛としています。内的愛とは物質(E=mc²)であると”真の父母様の本体論”は定義しているのです。


まさに愛を感覚に変えたのです。刺激を愛に変えたのです。エネルギーを愛に変えたのです。物質を愛に変えたのです。


物質(E=mc²)によって内的愛を自覚したということは、形状の物質性が主体であり、性相の愛が対象であるということです。

性相が前段階エネルギー、つまり形状、物質に主管されるという主管性転倒の愛です。

性相が形状に主管される、つまり心が体に主管される愛だということです。

前段階エネルギーに主管されるのですから、しかもそれを内的愛だと定義するのですから、これはエネルギー崇拝、つまりパワー崇拝にも繋がります。


このように、”真の父母様の本体論”は「包容感愛」を夜の神の真の愛の覚醒として包括感愛が発動されるのですから、真の愛の中核にしています。この「包容感」とは主管されるということを意味します。

包容する側が主体、包容される、包括側が対象になっています。

ですから、「包容感」とは夜の神様が対象となり、形状という物質的刺激が主体なり、その刺激感覚によって、形状に主管されるということです。


神様は愛によって対象を刺激される方です。ところが愛の根源において神様が物質的愛、包容感愛に刺激されるという主体と対象が逆転しています。

これでは物質的感覚(快感快楽)の愛が主体であり、神様の性相、知情意からくる愛が対象になってしまっています。

”真の父母様の本体論”の包容感愛とは、その実質は物質的情的刺激愛なのです。


つまり神様の知情意が、神様の心情、神様の愛、神様の性相が、このような包容感愛という物質的感覚(快感快楽)の愛に主管され、このような物質的感覚(快感快楽)の愛である包容感愛によって夜の神様は天地創造をされたということになります。

そしてそれは、この被造世界はこの物質的感覚(快感快楽)の愛である包容感愛によって造られているということを意味します。

簡単に例えて言えば、神は自身の心を自身の身体に主管されて天地創造したということです。


このように真の愛の原点の出発から、主体と対象が逆転してしまっています。

性相と形状が逆転してしまっています。

ですからこの”真の父母様の本体論”の愛の本質は主管性転倒の愛ということになります。

他のところで、いくらみ言をもって真の愛、キリスト、真のお父様を語ろうと、それはすべて偽りということになります。


いつの間にか重要なところで、主体と対象を交換し、他は本物のように装うのがサタンの常套手段です。

このような主体と対象の交換を”真の父母様の本体論”の三位一体論にも見ることが出来ます。


・エロス愛、パワー愛の本体論


包容感とは神様の形状の前段階エネルギーからくる情的刺激という物質的な感覚、肉体的感覚ですから、これはもはやエロスの愛ということができます。

そしてこのエロスの愛は、エネルギー、パワーから生じていますからパワー崇拝ということにもなります。

このように「包容感」という物質的感覚(快感快楽)の愛、つまりエロスの愛、パワー愛が神の愛の根源だと”真の父母様の本体論”は主張しているのです。


ですから、神様の天地創造の目的も、自分の包容感の愛の体験、その物質的感覚(快感快楽)の愛の体験を、その刺激された感覚を実体化させるために天宙を創造したということになります。

極めて人本主義的なエロスの愛と言えるでしょう。


”真の父母様の本体論”『無限大の自らが丸ごと包容される感覚は、これまで自己中心であった神様が体験したどの喜びよりも衝撃的であり、その事象から来る体験を「愛」と名付けたことから、前段階エネルギーは内的愛となりました。』


このように包容の感覚、体験をもたらした、前段階エネルギの物質的刺激を内的愛、その物質的刺激体験を「愛」としているのですから、どれほどの人本主義、唯物論的正真正銘のエロスの愛であるという事なのです。


このように”真の父母様の本体論”は、神様を物質の僕、動物的な感性感覚の僕にし、神の愛を「包容感」という物質的感覚(快感快楽)のエロスの愛にすることにより神様を著しく貶める、極めて人本主義的、唯物論的な神学です。


一方、これほどまでに見事に原理を使って作り上げられた唯物論的物質的感覚(快感快楽)の神はありません。性的パワーも大変ある神学です。この神はまさにエロス唯物神です。

ですから、人本主義など左派志向者には大変魅力的ですので、この”真の父母様の本体論”を信奉する人々が今後も多く出てくることが予測されます。

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