原理原相論(試論)
夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生
論者:三代王権天一聖殿 教会長
-1 ◆イエス様にみる真の愛
愛は愛ではない。愛は感覚ではない
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
どうして愛は愛ではないのか。
愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。
だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
この御言のように、愛は愛ではありません。愛は感覚でもありません。
しかし、「愛は愛である、その愛の感覚が大切。その感覚こそが神の愛」とする、お父様が、二代王様が異端神、サタン主義文化として批判排斥される、そのような異邦神の女神がキリスト教会さえも掌握し世間を支配し闊歩しています。
この十字架に表された愛が絶対的男性の父母の愛、縦的父子関係の愛、アガペーの愛なのであり、ここに女性を対象として思うエロスの愛は微塵もありません。感性でも感覚でもありません。
同様に夜の神様の、真の愛のコンセプトに、女性を対象とした愛は無いことが分かるのです。
夜の神様から来られたイエス様の愛が、このような絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛ですから、
イエス様の父である夜の神様の愛も同じように、
このような愛、つまり絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛の、夜の神様という結論が導き出せるのです。
「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
人類を導かれた神様は血の涙を流していかれました。血の涙を流しながら真の愛に従順屈服しながら人類を導いてこられました。
その血の涙の、愛したいという対象は父子の関係でした。
イエス様が十字架で、この父子関係の真の愛に絶対服従されるときの夜の神様のご心情はどれほどの痛みと悲しみであったでしょうか。
しかし夜の神様を全人類を愛するがゆえに、この父子関係の真の愛に絶対服従していかれたのです。
このように真の愛に従順屈服したい愛は極めて強い父の男性性相の心情動機の中核なのです。
その外的愛として流れる愛が「愛と生命と血統」であるので、神様は縦的真の父母なのです。
絶対性の愛に、神様は父子関係の縦的愛として臨在される
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神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。
(9-168, 1960.5.8)天聖教 p100
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
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男女が絶対性の関係を結ぶ時においても、当然ながら、神の創造物であり神様の感覚に無い絶対性のエロスの愛にも、真の夫婦の愛にも、神様が絶対服従することはありません。
夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、このように、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、その愛の目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様は、このイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服したいのです。
神様の愛の喜びは、このように人が考える快楽のような喜びは一切ありません。その真の愛のコンセプト、目的が成し遂げられる喜びなのです。
この根本的な喜びの違いを認識しないと、神様への認識、真の愛への認識を大きく勘違いし間違ってしまいます。
ですから夫婦が結ばれる絶対性の愛は、本質的にはイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服する横的父母の愛として、その血の十字架の犠牲愛の目的を成し遂げるためのロマンスの愛、エロスの愛であるということです。
そしてこのロマンスの愛、エロスの愛は、あくまでも絶対的男性である神様の縦的父母の愛である父子関係の愛が、横的に展開し実を結ぶために神様が創造した横的愛なのです。
絶対的男性、絶対縦的真の父母の愛である神様は、愛を実体化するためには、女性という存在が必要であり、そうであるなら絶対性も必要であるとして、横的真の父母を創造していかれたからです。
夜の神様にこれらの被造物は存在しないのです。
このように、アダムの体の中に神様が入り喜ぶという意味を、神がこのようなエロス的愛の刺激を受けるためと考える信徒もいますが、まったく違います。
エバは神の妻であるという意味合いをそのように考える信徒もいますが、まったく違うのです。
もしもこのようなエロスの愛が神の目的であるとするならば、イエス様が示された血の十字架の縦的父子の関係の愛に絶対服従したい愛ではなく、父親が娘と交わることを真の愛とするとても悍ましい愛の神になってしまいます。
アダムとエバが男女の関係を結び喜ぶ時、神様は人に与えた、そのようなエロスの愛を感じて喜ぶのではありません。神様にはそのような感性感覚はまったくありません。
夜の神様から始まった、天地創造の縦的真の愛である父子関係の真の愛の目的が達成されることを喜ばれるということであり、愛と生命と血統の天地創造理想の実現するための対象であるという意味でエバは神の妻であるということなのです。神様のエバの関係に性愛は一切ありません。
神様は、そのようなイエス様が示された血の十字架の、縦的父子関係の真の愛に絶対服従し臨在されるのです。
完全なるプラスの神様に女性的対象は存在しない
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完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。
(129-138, 1983.10.9)天聖教P86
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完全なプラスである神様には女性的存在、女性的対象は、夜の神様の位相には存在しません。夜の神様はそのような絶対的男性です。
絶対性の愛は、真の愛の中心軸である父子関係の縦的愛に絶対服従する横的愛の関係であり、そのように父子関係の縦的愛を横的に展開し実体化するために、神様は完全なるマイナス、横的真の父母の愛と、絶対性の愛を創造されたのです。
この時初めて、父子関係の縦的愛を実現させるためには、完全なるマイナスとして女性、エバが必要となり、ロゴスの段階からエバの創造から始まりました。
つまり夜の神様がご自身が男性格であるという自覚は、ロゴス創造の時からであり、このロゴス創造の時に、横的真の父母の愛の創造のためには完全なるマイナスとして女性が必要であることに気が付かれたのです。
夜の神様は真の愛の種の所有者として創造以前に存在しておられました。
「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の所有者であり、真の愛の主体なので夜の神様は絶対的男性格です。
そしてこの真の愛の種は「生命と血統」の種でもあるので、真のお父様は、夜の神様のことを縦的真の父母と呼ばれるのです。「生命と血統」という意味で母の言葉はありますが、この父母という言葉には一切のいわゆる母やそのような女性的要素は一切ないのです。
夜の神様は完全なるプラスであり縦的真の父母です。
それゆえに夜の神様ご自身が絶対的男性であり縦的真の父母であることに覚醒されたとき、完全なるマイナス相対的実体存在として横的真の父母が必要になり、この時初めて、実体的に生命をうみだす存在として女性という存在をロゴスにおいて考え創造されました。
エロスの愛、ロマンスの愛もこの時、横的に真の愛が展開し四大心情圏の真の愛が実体的に実ることを目的として創造された被造物なのです。
夜の神様の先有条件
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ですから、絶対価値観のための絶対条件とは何でしょうか。アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。それが「先有条件」です。先にある条件ということです。女性が先に形態を備えて現れたのではないのです。姿形を構想された神様は、女性に合うように男性を造られたのです。女性がいなければ、男性のような姿形にはなりません。ですから、何を「先有条件」にしたのかといえば、見えない女性であり、それを手本にして男性を造られたのです。
第九回「安侍日」 2004年7月8日 麗水・清海ガーデン
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このお父様の御言はまさに「横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました」という意味の御言です。
横的真の父母を創造するためには、夜の神様の位相の縦的真のアダムのために、横的な存在、女性という存在を創造する必要性がありました。これが絶対条件なので昼の神の位相のアダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うように横的存在である昼の神の位置のアダムを造られたということです。
女性先惟という本来の神様の構想の位相は、横的真の父母を創造するためにロゴスを創造されたこの時に、「先有条件」として女性を先惟されたということなのです。
「先有条件」として、神様は女性を手本にして、アダムを造られましたが、このアダムとは横的真の父母におけるアダムであり、ロゴス創造、天地創造が始まったときからの横的アダム、昼の神様の位置のアダムということなのです。
当然ながら、このロゴス創造の太初に、絶対性の愛、ロマンスの愛も構想され、創造していかれました。
女性という存在はその概念も含め、ロゴス創造の時からであって、それ以前はまったく存在してないのです。
横的真の父母様の構想、実体的四大心情形成に必要な愛の要素はこの時、夜の神は構想されたのです。
その横的真の父母の愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心を決定し得る最初の因縁が、父子関係です。
この「父と息子の関係」という絶対男性的縦的真の父母の愛に、真のアダム、イエス様、真のお父様は既に存在しておられました。
だから、イエス様を、真のお父様を、夜の神様から来た真のアダムというのです。
一方女性は、天地創造の太初に「先有条件」として構想され創造された被造物であるがゆえに、そして創造以前の夜の神の位相では存在しない存在であるがゆえに、エバのことを昼の神といえます。
ですから、真のお父様は、夜の神様から来た真のお父様と、昼の神様から来た韓鶴子総裁との争いのことを、「夜の神と昼の神が戦っている」と表現されました。
そのように「女性先惟、先有条件」この御言の本当の意味は、「イエス様、真のお父様は、ロゴス創造、天宙創造の太初に昼の神様の位置のエバを先に考え、昼の神様の位置の横的アダムを創造された」ということなのです。
ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
このヨハネの福音書1:3の聖句の通り、すべてのもの、つまりエバも、これ、真のアダム、イエス様によって創造されたのです。
真の愛、縦的神の愛と真の父母の愛
ですから真の母とは夜の神様の父子の縦的愛が、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を考えた時に先惟された絶対精子を求めて創造されたロゴスを起源とする被造物ということなのです。
父と子と聖霊の三位一体で見るならば、時間と空間創造以前に夜の神様とともに三位一体としておられた真のお父様(イエス様)は真の母を創造した縦的天の父母であり、真のお父様はロゴスにおいて、横的天の父母を創造したということなのです。
ですから横的天の父母は、縦的父母である夜の神様の被造物だということです。
これがお父様(イエス様)が、夜の神から来て、女性(真の母)は昼の神から来たと言われる理由がここにあります。
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神様は何をもっているかといえば、男性的性稟と女性的性稟をもっていらっしゃるというのです。二性性相の主体という言葉が出てくるのです。それで、統一教会は、「二性性相の主体が神様である」という素晴らしい結論を下すのです。見えないものがプラスであり、見えるものがマイナス的父母です。見えない父母が原因的であり、見える父母は結果的です。ゆえに、愛を中心として一つになるのが父母の位置ですが、神様は見えない父母であり、これは見える父母です。これは何かというと横的父母であり、これは縦的父母です。
(宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性
皆さんは真の愛の定義を知らなければなりません。真の愛とは神の愛と真の父母が一つとなったものです。これが永遠に変わらないものです。なぜならば神が中心であり、真の父母が実体としているからです。
創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日
その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
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この3つの御言から、
「神様は見えないプラス的、原因的父母つまり縦的父母であり、
(真の父母は)見えるマイナス的、結果的父母、つまり、横的父母です。
真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。
神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛です。」ということです。
そして、真の愛は、血統を通した生命体を中心として実現するということです。
真の愛の基準が、血統を通した生命体を中心としてその実体に現れてこそ、真の愛の体が実現したといえるということです。
物事を実現するためには、基準がなければなりません。
夜の神が天地創造をしようとされたその縦的神の愛の基準は何か、その真の愛の基準は何を中心として設定されたのでしょうか?
その真の愛の実現の基準は、血統を通した生命体を中心として設定されたということです。
縦的な神の愛とは、天地創造以前の夜の神の愛です。その夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定されたということです。
ではどうして、夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定したのでしょうか?
「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
夜の神の愛の基準は、上記の御言のように、父子の関係がその基準であるということです。
この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の創造前の意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が父子の関係であったということです。
この夜の神様の「父子の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心なのです。
ですから、縦的な神の愛とは、夜の神様の「父子の縦的愛」のことを言うのです。
ところで愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。
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その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
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そのような真の愛とは、縦的な神の愛と横的な真の父母の愛が一つとなって実ったものが、真の愛です。
夜の神様の「父子の縦的愛」が「横的真の父母の愛」が一つになったものが、真の愛であるということです。
この夜の神の「父子の縦的愛」が夜の神の無意識の中に既に存在していたがゆえに、夜の神は、父子の関係を先惟し、これが真の愛の基準となり父子の関係の三位一体が、真の愛の起源となりました。
そして、この真の愛の起源は、愛と生命と血統が実ること、実現するために天宙創造の原理、ロゴスがつくられ、天宙創造が始まったのです。
このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえに、この父子の関係を天の父母ということもできるのです。
この父子の愛が、夜の神の愛の中心ですから、夜の神の愛を縦的父母の愛ということも可能なのです。
それだからお父様は神様を縦的真の父母と言われるのです。
神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母になっていたことでしょう。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれた人間の心は縦的な自分になり、体は横的な自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を営むことができたでしょう。
2007年6月13日、韓国の天正宮博物館
夜の神様が一なる男性格でありながら、その愛は縦的な真の父母の愛であるという理由は、このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえだからなのです。
アダムとエバが横的真の父母になる愛の条件
夜の神様は「縦的な真の父母」であり「アダムとエバは横的な真の父母」になるべきでした。
ではアダムとエバはどのように愛を結べば横的真の父母になれたのでしょうか?
「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が90度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することにより、すべての根本的な難問題が解決されるのです。
天聖経(252-319, 1993.1.5)
それは、夜の神様の縦的真の父母の愛と、横的真の父母の愛が90°に焦点を合わせ定着することだったのです。
そのような「縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる因縁で、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせること」を成せば、アダムとエバは、横的真の父母になることが出来たのです。
すでに論述したとおり、父子の関係の縦的真の父母の愛は、エバ、真の母を創造することがロゴスの起原でした。真の母を創造しなければ横的真の父母を創造することが出来ません。
そのエバが真の父母になる愛の基準が、横的真の父母の完成になるのです。
その基準の中心点が、夜の神様の縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差するところなのです。
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そこで一つになってぶつかる日には、360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経るのです。このような愛の力が爆発すれば、男性と女性は完全に一つとなり、その中に神様が入っていかれるのです。神様は二性性相になっているでしょう? 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、どのような方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃいます。その主体の本質は何ですか。愛だというのです。絶対的愛だというのです。
宇宙の根本 第二章三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。
宇宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性
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「神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です」。
神様の愛と人間の愛はいつ一つになるのでしょうか?
それは「神様が核の位置に立つ中心点」ということです。
つまり縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差してこそ、その中心点が神様が核の位置に立つことが出来るということなのです。
そのように縦と横の真の愛が90°に交差してこそ、「360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経る」ようになるのです。
そしてその神様の縦的真の父母の愛が360°となり、横的真の父母の愛を360°包む時、完全なる真円球形体の真の愛となっていくのです。
そのように、縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛を90°に交差することにより、「神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになる」ことができるのです。
それでは90°に交差させるためにはどうすればいいのでしょうか?
それは、夜の神様の愛の種、愛のコンセプト、「父子関係」とその相対である「愛と生命と血統」を基準にして合わせるということなのです。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
このようにして、形状、女性をつくるに至った本形状が女性の性相に入り、そして男性には、縦的真の父母の性相が入って行くようになるのです。
ところが、アダムとエバは、この夜の神様の縦的真の父母の愛に、自分たちの横的真の父母の愛を90°に交差させることができず、長成期、60°の角度で間違った愛の関係を持ったが故に、極めて破滅的、破壊的、悪魔的な「愛と生命と血統」を持って、神様を悲しみのどん底に陥れることになってしまったのです。
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