2026年4月21日火曜日

再臨主を必要としないキリスト教 ◆2026年4月7日 テネシー清平韓国語水曜礼拝 ◆イエス様の三大試練と三大王権の荒野路程<1> 權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師

 再臨主を必要としないキリスト教

2026年4月7日 テネシー清平韓国語水曜礼拝

イエス様の三大試練と三大王権の荒野路程<1

權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師

翻訳minion監修fanclub

テネシー清平韓国語水曜礼拝權教授한국 수요예배 4 7 2026 



こんにちは。今日私がお話ししようと思う題目は、「イエス様の三大試練と三大王権の荒野路程」としました。


救い、神の血統を再び取り戻す


神様はご自身の子女として人間を創造され、また人間が生活することができる被造世界を創造されました。堕落が何かというと、神様の子女がサタンの子女へと、親が変わってしまったということです。神の子女であるアダムが堕落し、天の血統を失い、サタンの血統を受けました。


ですから、復帰摂理の目的は、神の血統を再び取り戻すことです。これが救いです。


キリスト教では、救いとはメシアが来て、私が救われるということだとこのように話しています。

すべてが間違っているということはできませんが、実は救いの摂理における救いとは何かというと、神の摂理は創造理想の実現です。

ところが、サタンが入ってきて、その創造理想が壊れてしまったのです。ですから、神様がメシアを通して創造理想を実現することで、人間が本来、神様が計画されていた本然の地で暮らすようになるのです。それが救いです。


救いとは、私が楽に暮らし、苦痛を少なくし、暖かい場所で眠り、お腹いっぱい食べ、汗をあまりかかないこと、これらが救いではないということです。

救いとは、創造理想の実現、すなわち創造目的の実現です。


それゆえ神は失われた血統を回復するために、アダム家庭においてカインとアベルを分け、摂理を行われました。カインがアベルに服従・屈服することで、サタンを屈服させる過程です。


ですから、旧約4千年の復帰摂理は、神の血統であるメシア、イエス様、お一人を立てるための摂理です。

メシアを通して、人類をサタンの血統から神の血統へと転換させるのが、救いの摂理です。神はそれゆえ、このメシアのためにイスラエル選民を選ばれました。

私たちが明確に知らなければならないことは、メシアのためにイスラエル選民を選ばれたのであって、イスラエル選民のためにメシアを送られたのではないということです。


当時のイスラエルには、実際、偉大なメシアに対する熱情と渇望がありました。そして神は、約束された通り、息子イエス様を選ばれた選民たちの前に送られました。

しかし、そのような選民たちはイエス様が神様の息子なのか分からなかったのです。


サタンのイエス殺害


ですから、神は4千年目に探されたイエス様をイスラエル民族は排斥しました。サタンはイスラエル民族に侵犯できる条件が生じるや、イエス様の命を奪うことを望みました。

そこで、人類救いの道を開いても、メシアの命を奪うことを求めました。

天の血統を切ってしまうのです。

それでイスラエル民族の不信を利用してイエス様を十字架に引きずって行って処刑しました。

なぜなら、サタンはイエス・キリストを殺すことで、人類を継続して自分の血統の中に閉じ込め続けることができるからです。


一方、神様は人類救いのみ旨を放棄することができませんでした。それでサタンにイエス様の肉身を与える条件として、霊的な救いの道を開きました。


ですから神様とサタンの間は条件を持って戦うのです。サタンはイエスを十字架に引っ張っていくことはできましたが、イエスの魂はサタンが取ることができませんでした。イエス様の肉体はサタンが打つことができましたが、イエス様の魂はサタンに勝利されました。


このような理由でイエス様をよく信じるクリスチャンであっても、その肉体にはサタンが侵犯することができます。しかし、その魂はサタンの主管を受けないでイエス様の救いの道に従うことができるのです。

これが十字架を通して霊的な救いの道を開いてくださったのです。ですから、これがイエス様を信じることによって許諾された救いです。


しかし、人間の肉体には常にサタンが侵入することができます。実体世界をサタンが主管するからです。サタンは未だにイエスが行った後も、この世の王です。

私たちが明確に知っておかなければならないことは、霊的な救いは神の創造目的の完成ではありません。霊的救いの世界は、神様が計画された創造理想世界ではないという御言です。


人間は、肉体と魂、全てが完全な救いを成してこそ、神様の創造理想世界が実現するということです。


イエス様以来2000年間、神様はキリスト教を率いて、神様は再臨の摂理を進められました。この努力の末、真のお父様が初めて神様の真の血統、第三アダムとして誕生されたのです。


ブドウ園の比喩


聖書はこれをブドウ園の比喩として説明しています。聖書のマルコによる福音書やルカの福音書にこれがあります。

そのマルコ福音を一度見てください。 12章1節から12節です。


12: 1そこでイエスは・で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

2 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。

3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。

4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。

5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。

6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。

7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、

8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。

9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。

10 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。

11 これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。

12 彼らはいまの譬えが、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。


はい。 12節まで拝読しました。


イエスはブドウ園の小作人の比喩を聞いて、ユダヤ教の指導者たちの罪を明らかにしました。ブドウ園の主人が農夫たちにブドウ園を任せて去ったのですが、時がきてその収穫を受けようと僕を送りました。しかし、農夫たちは僕を打ち、冒涜して殺すまでしました。主人は最後に自分の息子をむやみにできないだろうと考えて、息子を送りましたが、邪悪な小作人たちは息子も殺して相続権を占めようとします。これに主人が来て、邪悪な農夫を滅ぼし、ブドウ園を他の人に任せ、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」。と言われました。


再臨主を必要としないキリスト教


ところが、今日のキリスト教では、このブドウ園の比喩を正しく理解することができていません。

なぜなら彼らはイエス様が十字架を通して救いが完成したと考えているからです。そうなので、主がなぜ再び来なければならないのか、その理由も確実にわかることができていません。ただ、空中に雲に乗って来て、自分たちをどうにかするだろう、この程度しかわかることができません。


キリスト教は事実、神様の救いのみ旨には関心がなく、教会の成長が神様のみ旨だと偽りの主張をしています。

キリスト教はイエス様が教会の中におられるように宣伝していますが、これは事実ではありません。

ですから、教会を中心としたキリスト教はイエス様を看板として立て、商品化して、多くの権力と富を求めています。

したがって、現キリスト教では再臨主は必要ありません。


このような状態では、再臨主が再び来られても、彼らは初臨の時と同様に排斥するようになります。

現在、キリスト教はユダヤ教の過ちを繰り返しています。再び来られた再臨主を異端者として規定し、初臨の時のユダヤ教指導者たちと同じ行動をしています。再臨主に反対して冒涜して殺そうとしました。


したがって、彼らはブドウ園の比喩を完全に理解していないからです。

キリスト教は、「10家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。」という言葉を任意に解釈しています。

建築者は当時のユダヤ教指導者である大祭司、律法学者を意味します。そして捨てた石はユダヤ教指導者たちが認めないイエス・キリストに見ています。かしら石もイエス・キリストとして見ています。なぜ?後で救いの中心であり、教会の基礎となった方です。ですから、捨てられた石もイエス様であり、かしら石もイエス様だと見ています。


しかし、すぐ上の9節の言葉を見ると、9節に何が書かれているのかといえば、

9このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。

このように話しています。


しかし、イエス様が死ぬために来られた方ではないことを悟ったらこの比喩がよく見えます。

死ぬために来たというので、理解ができないのです。ブドウ園の主人は神です。そして農夫は当時ユダヤ教の指導者である大祭司長と律法学者、長老たちです。送られた僕は預言者です。送った息子はメシアイエス・キリストです。主人は神であり、神の実体に来られた人類の真の御父様母の再臨主を意味します。それでイエス様は息子として来られ、真のお父様は父母として来られたのです。イエス様の父母。


しかし、イエス様を歓迎しなければならないユダヤ選民は、イエス様を異端者として規定し、十字架に引きずって殺害しました。

ここで「捨てられた石」とは、選ばれたユダヤ民族ではなく異邦人を意味します。彼らは十字架を持ったメシアを証しし、最後まで伝播したクリスチャンです。クリスチャンはまさにかしら石です。あおの石によって、こんにちキリスト教がその基礎の上に立つようになったのです。


上のイエス様が比喩で話されたブドウ園の比喩は、、失敗したユダヤ民族を叱責する言葉です。

かしら石となるべきユダヤ民族が失敗し、捨てられた石がキリスト教を成すかしら石になった、というそのような御言です。


ですから、キリスト教では間違って理解しているのです。

なぜでしょうか?イエス様は死ぬために来られたという考えを持っているため、理解できないのです。


完全な救いを勝利された文鮮明真の御父様


それゆえ、現在のキリスト教はユダヤ教指導者たちと全く同じ道を歩んでいるのです。そのため、再び来られた再臨のキリストである真の御父様母様を、生涯にわたって追いかけ回し、事あるごとに反対し、殺そうとしました。


しかし、真の御父様母様は、血と汗と涙の路程を通してすべてに勝利されました。真のお父様は、堕落世界の人々に霊肉救いの道を開いてくださいました。そして、私たちに祝福を授けてくださり、サタンの血統を脱いで、神の子女として立ててくださいました。


再臨の主として来られた真の御父様は、完全な救いのために来られました。それは、アダムが失敗し、イエス様が完成できなかった救いの摂理でした。真の御父様は、ご自身の時代にサタン屈服と、真の家庭を築き、万王の王を宣言されました。

2026年4月20日月曜日

「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏

「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏


サンクチュアリ教会は「高キリスト論」の信仰が求められている


  • a High Christology(高キリスト論):イエス・キリストの本体が創造前に神、もしくは神の子として存在していた。キリストは創造前の神本体とする。

  • a Low Christology(低キリスト論):イエス・キリストの本体は神の神性を持つが創造後である。キリスト本体は創造前には存在しない。


文亨進師は統一思想を「高キリスト論」の立場で理解することをサンクチュアリ教会信徒に求めておられます。

  • 詳細参照:文亨進師 : 聖殿よ、キリスト教高キリスト論で統一思想を理解せよ  


それどころかサンクチュアリ教会は「私たちは高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じているのです。」とまで言い切っておられます。


ですから、成約のキリスト教徒として、すなわち、サンクチュアリ教会は、明らかにこれらの聖書の教えすべてに適合し、キリスト教と概ね一致しています。

なぜなら、お父様は、キリスト教を統一する最後の磐石として、昼の神、夜の神という神学を解き放ったからです。今、キリスト教と一致したのです。

私たちは、高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じています。私たちはイエスの神性を信じています。つまり、私たちは高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じているのです。

私達は「極めて高いキリスト論」 ◆2025年1月26日MAGA勝利英語日曜礼拝 


しかし文亨進師の願いとは裏腹に、「高いキリスト論(a high chrustology)」を信じているサンクチュアリ教会信徒は、日本、韓国の大陸会長と少数です。韓国側は多くが「高いキリスト論」を信じているようですが、日本側はだいぶ増えたようですが、まだ少数派であるかも知れません。

文鮮明師の御言にみる自己中心的神


次の文鮮明師の御言で自己中心的神について高キリスト論の立場で検証します。


文鮮明師:我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 

1973.10.20 ワシントン リスナー講堂にて


この「これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。」

の「神自身が自己中心的であられた」とはどういうことでしょうか?

次の御言にそのことのもう少し詳しい御言があります。


文鮮明師:創造する前と創造した後が違うのです。創造する前は自分を考えていましたが、創造を始めてから対象のための時限へと転換されるということです。私が持っているのは、私のためにいるのではなく、相手のためにいる、息子の娘のためにある、そうなることです。

ですから、真の神様は相手を作る上で完全投入することで、より価値的で理想的な完全型を展開したのです。神様もアダムエバを立てておいては、アダムエバのためにあるのです。神のためではありません。

自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他人のために、対象のためにあることです。この原則が宇宙の根本であることを確実に知る必要があります。


(69-82, 1973.10.20)

<要点>

・創造する前、神は自分を考えていました。

・自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。

・理想的な存在(神)は他人のために、対象のためにある。


これが文鮮明師が言われる「神自身が自己中心的であられた」その内容です。

創造する前、神は自分のことを考えていたとは、自分の為にいたということです。

確かに一般論から見れば、これは自己中心的です。

しかし、神は創造する前から、その自分を考え自分のためにいた時から、相手の為に展開されていたし、対象のためにある理想的な存在であったということです。

相手のために展開するために自分に自己中心的な神様です。

これは神は一般論からは矛盾した存在、常識に反し、それらを超越した神です。

まさに「為に生きたい」という思いで自己中心的であった神様です。

真の愛自体である神のことなど人間の考えでは及びも付かないのです。


自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。」ということですから、次の御言もその創造前の、神が自分のためにいた、自己中心的であった時のことであることが分かります。


文鮮明師:真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。(284-71, 1997.4.15)


「ため」に生きたい自己中心性から生じるアガペーの愛、真の愛


しかしフェミニズム低キリスト論である菅井教は、この文鮮明師の御言を次のように大笑いします。


菅井教:天一聖殿さん!「為に生きたい」という思いで自己中心的であったと設定した時点で破綻しています!

(中略)

そもそも自己中心的な瞑想に入る前の、神様の「為に生きたい」という思いはどのように発揮されていたのでしょうか。神様しかおられないのに、他の何のために生きたいという事なのでしょうか???

https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913213692.html


そして菅井教は、

天一聖殿さんが自分の主張を正当化するために用いたみ言は、「創造後の神様について語られたみ言」です。つまり、愛の対象となる人間と被造世界を創造するために、構想理想として立てられた神人愛一体理想の核心となるべき尊いみ言です https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html


このように、

真の愛は「ため」に生きるところから生じる

愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。

という文鮮明師の、先の御言を創造後であり、創造するための構想理想だと主張します。

「為に生きる」その愛が創造後につくられたという定義です。


さらにはキリストの教のアガペーの愛、文亨進師が強調されるキリストの犠牲の愛も全て創造後にしてしまいます。

菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html


キリスト教と統一教会は、「神のアガペーの愛」と「神の為に生きる愛」とでイエス様を信じるもの同士という絆がありました。

菅井教はこのキリスト教との絆を完全に破壊してしまいます。

これは篤実なクリスチャンなら、激怒する内容です。文亨進師も激怒されるでしょう。ご本人の前で言ってみろというのです。


神の最原初の構想理想の動機、「女性」と「為に生きる」の逆転


では菅井教において、何が創造前の真っ先の構想理想、いわば創造の動機と言えるものが何かというと、それは「女性」です。


菅井教:女性は、天一聖殿さんが受け止めきれない「包容感をもたらす対象である本形状の前段階エネルギー」から、真っ先に構想理想に上がってきた存在です。しかし、神人愛一体理想を構想していく過程で、「親子の関係性」「父母の関係性」から結実した構想理想となり、最後に創造されるようになって行きます。

その女性には、「神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋がある」というのですhttps://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html


包容感を起因として「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」、つまり統一思想、八代教材教本、文鮮明師の思想、神学の根幹根本が「女性」!

あれほど統一思想、八代教材教本、文鮮明師の思想、神学の根幹根本は「為に生きる」と文鮮明真の御父様は言われたのに、その根幹根本が「女性」!


このように、菅井教では「何をどのように設計するか構想すること」が創造前の原初と考えるため『創造するための構想理想である女性創造のブループリント(設計図)「先有条件」は「女性」』の御言が、「創造前のことである」となり、

為に生きる真の愛そのものである神様の、その創造前からの「ために生きる」が、創造後になってしまいます。


フェミニズム低キリスト論である菅井教にかかれば、再臨主の神学が

・「女性」が創造前

・「為に生きる」が創造後

となります。


従って、三位一体論において、

高キリスト論で解釈する統一思想の三位一体は「為に生きる」アガペーの愛によるペリコレーシス(相互内在、相互応答)ですが、

フェミニズム低キリスト論である菅井教で解釈する三位一体は「女性」愛によるペリコレーシス(相互内在、相互応答)です

  • 図式: 為に生きるアガペーの愛のキリスト論  vs 「女性」愛のキリスト論


こんなキリスト論では当然、、とんでもない包容感女神を信仰する女性崇拝、女性神異端宗教になってしまうのです。

菅井教はアダム文化圏を指向するサンクチュアリ教会に絶対に存在してはならない、とんでもないフェミニズム異端宗教です。(別宗教としての存在はOK)


母性「良心の袋」も夜の神様が根源


神自身が女性神崇拝教である菅井教が「女性」をこれほどまでに崇めるその根拠とする御言が次の御言です。


文鮮明師:ですから、その女の実が何を願うかというと、最高の男まで、神様までも願うのです。だから女には、神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋があるのです。1993年12月19日 韓国・済州研修院


この御言を根拠に、神は「包容感をもたらす対象」として、「良心の袋」母性を持つ「女性」を真っ先に構想理想し、そして創造を始めるという菅井教のストーリーです。

このようにフェミニズム低キリスト論である菅井教は神は「母性の愛」に関して完全に無知だったか、神様の知情意とはまったく別に独立して存在していたもののように扱います。

つまり、菅井教は「神様をすべて入れても休ませることのできる良心の袋」このような母性の愛を、神は神御自身の知情意に創造前から持って認識しておられたことを根本的に認めません。


キリスト教の三位一体では創造前の「母性の愛」は否定しません。むしろ大いに肯定します。

創造前の三位一体のアガペーの愛は「良心の袋」母性を含みます。母性は父なる神の愛、アガペーの愛の一つだからです。

女性の創造は、父なる神が、ご自身の「アガペーの愛、犠牲の愛、為に生きる愛」の中から母性(良心の袋)を取り出して、女性を創造されたのです。

キリスト教会「高キリスト論」はこのような神学です。


しかし、菅井教は、創造前の母性の愛(良心の袋)を主張していながら、低キリスト論であるため、

菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html 


このように、創造前からの三位一体のアガペーの愛には母性の愛(良心の袋)など含まれていないと否定するのです。

創造前のアガペーの愛の完全否定です。


四大心情圏の愛の存在は創造前の三位一体から始まった


それだけではありません。

創造前、為に生きる愛、アガペーの愛が核となって、四大心情圏の愛が三位一体から始まったことなど、菅井教は想像だに出来ません。ために生きる愛、アガペーの愛に母性愛が含まれていることを夢にも思わないからです。


菅井教は、四大心情圏の愛はエバとの初夜の時から、つまり創造後とします。

これを菅井教はとても大切にします。

しかし先程の御言には創造前から相手のために展開された四大心情圏の愛のことが書かれています。


文鮮明師:自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他人のために、対象のためにあることです。この原則が宇宙の根本であることを確実に知る必要があります。(69-82, 1973.10.20)


この御言にあるように、創造前に対象のために展開される愛は四大心情圏として展開されます。

このようにして天地創造の前から、四大心情圏の愛は存在したのです。


これは創造前の三位一体論(高キリスト論)においても同じです。

父と子と聖霊の三つのペルソナは完全な愛の交わり、完全な愛の絆があります。

これを「子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛」の根源であると考えるのが高キリスト論の主張です。

つまりキリスト教「より高いキリスト論」の立場で四大心情圏を解釈すると、四大心情圏は創造前からあったことになります。

創造前、三位一体において愛を相互間で応答するために人類は必要でなかった神が、アガペーの愛で対象のために四大心情圏を展開したことが、創造を始めた理由だというのです。

これが「高キリスト論」です。

しかし、このような「より高いキリスト論」の愛を、菅井教は女性崇拝異端教のフェミニズム低位キリスト論なので絶対に理解できません。


「真の愛と生命と血統」の種は神の本体


「高キリスト論」の立場からみれば、このような創造前から存在する愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)と生命と血統の、創造前から存在する神本体の種として来られた方がキリスト(イエス様、文鮮明師)なのです。

「より高いキリスト論」でみるキリスト(イエス様、文鮮明師)の神性とは、まさに四大心情圏の究極の完成体であり、神の悲しみや喜びを最も深く共有する存在なのです。即ち生まれながらにして、いや種であったときから真の父であり、真の父母なのです。

そしてその種は創造前から存在したのです。


この種の御言を、ヨナ伝道師が紹介された文亨進師のみ言で確認します。


  • では、神様の本体とは何でしょうか?他でもない種です。

  • 文先生は信徒たちに何度も「私は他の種から来た」と仰った。これらの真のお父様の説明は、本人はイエス様がそうであるように、夜の神様、すなわち、創造以前の神様から来たと言われたのである。

  • 真のお父様は、サタンの血統とは(全く)関係のない神様の精子から来られた。

『神様の血統の種の長い旅程』


文亨進師はさらには、文鮮明師は、創造以前の夜の神様の実体、神様の精子、サタン世界をすべてきれいにする唯一不変な力とまで言っておられます。


文亨進師:お父様は万王の王、主の主、メシアであられ、再臨キリスト、神様の精子、アルファはオメガ、始まりであり、終わりであり、夜の神様の実体、創造以前の夜の神様の実体、お父様の精子は、サタン世界すべてをきれいにすることが出来る、唯一、不変な力なのです。

2016年2月14日■礼拝後のマルスム全編


「より高いキリスト論」の立場では、アルファ・オメガとしてこられる神、キリスト(文鮮明師・イエス様)が真の父、真の父母として、完成した種、完成し愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)を持っておられることは当然です。


四大心情圏の扱いから見る菅井教が「低キリスト論」である証明


「より低いキリスト論」においては、愛の感情や人間関係の形「子女、兄弟、夫婦、父母」の愛は、人間という被造物が創造され、歴史の中で体験・理解されて初めて具体化するとします。

「神は愛である」としても、その愛が受肉(イエス・キリスト)という歴史的な行為と人間の具体的な愛(犠牲、自己犠牲)として現れるのは、十字架という歴史的な創造のプロセスによってであると低キリスト論は主張します。


菅井教もこの「低キリスト論」と同じ論です

この「より低いキリスト論」をもって、菅井教は、「より高いキリスト論」の「四大心情圏」を次のように笑うのです。


菅井教:そうではないでしょう。四大心情圏は実際的に、子女の愛・兄弟の愛・夫婦の愛・父母の愛を体恤しなければ成就し体恤し完成することはないはずです。だからイエス様も再臨する必要が生じたわけでしょう。

まったく何を勘違いしているのでしょうか https://kuruto.muragon.com/entry/405.html


そして次のようにイエス様には十字架の犠牲の愛なんぞ無い!と馬鹿にします。

菅井教:

真の愛の中心であり、真の愛の根である犠牲の愛は、子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛をそれぞれ体恤してこそ、神様と相対できる犠牲の愛に至ることができるのです。

(中略)

地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか。https://kuruto.muragon.com/entry/266.html


この菅井教の言葉はキリスト教の「より低いキリスト論」よりも残酷非道な言葉です。

いつものことですが、今回もキリストと言いながらイエス様の宝血の心臓をグサリとさして大いに嘲笑う偽善者、詐欺師、悪魔の集団であることを証明してくれました。

このように菅井教は、イエス様に対する人類の責任分担という発想がまったくありません。

我々の罪ゆえに、イエス様を殺してしまったのに「地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか」と大いに嘲笑うのです。


菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html


これはまさに悪魔の言葉です。

菅井教は、神様、イエス様、文鮮明師の宝血の心臓を突き刺して

どうだい痛いだろ?アガペーの愛、父親の犠牲の愛なんぞ、肉的五感からくるものだ。そうだよなぁ、イエス!文鮮明!もっと犠牲の愛を見せろ!天銭、天銭!」と、その宝血の心臓をこねくり回しながらキリストの恩恵を求め、イエス様の十字架の死、文鮮明師の飛行機十字架を嘲笑う信仰です。

イエス様を磔にして殺して嘲笑ったイスラエル民族より、もっと酷い。

これが神が送ってくださったイエス様と再臨主への菅井教の信仰の本性です。

これではイエス様を殺害した、まだ残っているユダヤ民族の罪と蕩減の残り全てを菅井教は受けることになりそうです。


菅井教は、キリスト、キリストと御言のコスプレをして偽善の限りを尽くしますが、菅井教の信仰の本質はイエス様を十字架に磔て小躍りするサタンそのものです


結婚出来なかったではないかとイエス様を嘲笑う、独生女論


次の菅井教の「真の母」に関する言葉も同じ「低キリスト論」の理解です。

菅井教:真のお父様は一人でも真の父母です。しかし、絶対信仰・絶対愛・絶対服従で完全一体となる真の母があってこその、一人でも「真の父母」なのではないですか。一人でも真の父母の真のお父様には、真のお母様はいなくても良いとはならないでしょう。https://kuruto.muragon.com/entry/405.html


菅井教は、「人間キリストの生心に神が臨在する神性を持つものの、結局はキリストを愛を体恤し成長する人間である」とみる「より低いキリスト論」です。

それなので、創造前から存在する愛(父の犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛)と生命と血統の、創造前から存在する神本体の種として来られ、種の時から真の父母であるキリスト(イエス様、文鮮明師)を根本的に受け入れることは出来ません。


 『完全一体となる真の母があってこその、一人でも「真の父母」なのではないですか

 『一人でも真の父母の真のお父様には、真のお母様はいなくても良いとはならない

などと、実体的に真の母が存在していない時点での「一人でも真の父母」を認めません。


絶対的に真の母が実存存在しなければ成立しないという主張です。

キリストは種の時から真の父母であるとする「より高いキリスト論」における解釈は、菅井教にとっては完全無欠の大笑いのナンセンスなキリスト論です。


それは先ほど説明したように

菅井教:

真の愛の中心であり、真の愛の根である犠牲の愛は、子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛をそれぞれ体恤してこそ、神様と相対できる犠牲の愛に至ることができるのです。

(中略)

地上では四大心情圏を成就できなかった、イエス様の十字架の犠牲の愛を持ってきたのでしょうか。https://kuruto.muragon.com/entry/266.html


このように菅井教は、犠牲の愛、アガペーの愛、為に生きる愛、四大心情圏の愛、全て「肉的五感の感覚的刺激」よって初めて生じ完成する、エバとの初夜がなければ犠牲の愛なぞ無いと主張し、

イエス様の宝血の心臓を突き刺して

うだ痛いだろ?エバとの初夜も迎えられず四大心情圏もなしていないお前なんぞに、アガペーの愛、父親の犠牲の愛なんぞ無いんだよ!そうだよなぁ、イエス!あはは

と、その宝血の心臓をこねくり回し、イエス様の十字架の死を嘲笑う極めて悪質な「低キリスト論」の信仰だからです。


それだから、エバとの初夜がなければ犠牲の愛も無い、真の父母も無い、真の父も無いとするこの菅井教の、キリストによる救いの主張は、

文鮮明師に原罪があり、韓氏オモニによって原罪を贖われたとする「韓氏オモニの独生女論」より酷い独生女論であるというのです


フェミニズム低キリスト論」の菅井教には当然理解できませんが、「高キリスト論」から見れば、極めて酷い独生女論です。

これほどまでにイエス様を貶めに貶めるのですから、

これではイエス様を殺害した、まだ残っているユダヤ民族の罪と蕩減の残り全てを菅井教は受けることになってしまいます。


異端者、爆発者、菅井派たち


菅井教:自分の「原理原相論試論」を守りたいがゆえに、「真の父母様の本体論」をなんとか否定したいと必死なのでしょう。

https://kuruto.muragon.com/entry/405.html


違います。以下の文亨進師からのご指導による啓蒙活動です。

そして文亨進師からの「より高いキリスト論」で文鮮明先生の御言を考えなさいというご指導に基づくものです。


試作品ですが、文亨進師を嘘つき荷台王などとなじる家庭連合からも「文亨進牧師の原文と完全に整合する唯一の立場」という評価を頂いています。

もちろん、フェミニズム低キリスト論の菅井教はこれを『「文亨進牧師の原文と完全に整合するなんて、これほど愚かしい神学はない。なんて馬鹿だ、何という不信仰だ!』と盛大に嘲笑います。

なぜなら菅井派は真理・生命・道は再臨のキリストの後継者文亨進二代王にはなく、菅井睦雄教祖にあるとする宗教だからです。



文亨進師はこのような「異端者、爆破者から目を覚ますよう警告や啓蒙をしなければならない」という指令を下されました。この記事は彼らの救いと、この指令によるものです。

私的神学論は自由なサンクチュアリ教会です。しかし文亨進師はサンクチュアリ教会に侵入したサタンに対する明確なサタン分立の基準を立てられました。

次の御言です。


  • 「私が霊通して」、このような偽りの詐欺の内容をする時、常に滅びます。

「私にお父様は」こういう霊通カリスマは常に滅びる ◆2025年4月9日PA天一宮韓国語水曜礼拝 

  • 他人があー啓示受けた。ああだこうだと、これについていこうといって地獄に行ったら、皆さんが悪いのです。

霊通詐欺師よ!後継者文亨進以外は異端だ、爆発者だ!!◆2017年9月7日 二代王様とののQ&A


文亨進師はお父様はこのように言っている」、「お父様はニ代王様には摂理を語るが、私には真理を語る」などという菅井教ら聖殿内部に入り込んだ反逆者たちに対して、文鮮明師の「文亨進は私の後継者、相続者、代身者だ。これ以外は異端者だ、爆破者だ」という審判と、「地獄に行く」「滅びる」という審判を下されました。


それにもかかわらず菅井派はこの絶対厳命に大反逆する大異端爆破者たちです。

それゆえに彼らに対して文亨進師の口から発せられたつるぎ「滅びの聖霊」は、家庭連合を現実に滅したように、神の血統の貞操を守るために聖殿内部に入り込んだこの異端爆破者たちを分立し滅していくのでしょう。

地上では祝福の拒否、離婚許可、再伝道、このような啓蒙活動で対応しています。

異端者、爆破者という審判は、聖書の記述にあるように厳しい重大な審判です。

霊的に見るならば、これは明らかに文亨進師と菅井派との霊的戦いです。つまり文鮮明真の御父様と彼ら菅井派は戦っているのです。


黙示録19:21 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。

黙示録20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。


聖霊はまず悔い改めの役事をします。滅びの聖霊が役事する前に、悔い改めの聖霊によって彼らが救われ永遠の生命につながるよう願います。


ヨハネ第一1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。


<参考>

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