序文:異端者、爆発者、菅井派たち
文亨進師はこのような「異端者、爆破者から目を覚ますよう警告や啓蒙をしなければならない」という指令を下されました。この記事は彼らの救いと、この指令によるものです。
私的神学論は自由なサンクチュアリ教会です。しかし文亨進師はサンクチュアリ教会に侵入したサタンに対する明確なサタン分立の基準を立てられました。
次の御言です。
「私が霊通して」、このような偽りの詐欺の内容をする時、常に滅びます。
「私にお父様は」こういう霊通カリスマは常に滅びる ◆2025年4月9日PA天一宮韓国語水曜礼拝
他人があー啓示受けた。ああだこうだと、これについていこうといって地獄に行ったら、皆さんが悪いのです。
霊通詐欺師よ!後継者文亨進以外は異端だ、爆発者だ!!◆2017年9月7日 二代王様とののQ&A
文亨進師は「お父様はこのように言っている」、「お父様はニ代王様には摂理を語るが、私には真理を語る」などという菅井教ら聖殿内部に入り込んだ反逆者たちに対して、文鮮明師の「文亨進は私の後継者、相続者、代身者だ。これ以外は異端者だ、爆破者だ」という審判と、「地獄に行く」「滅びる」という審判を下されました。
それにもかかわらず菅井派はこの絶対厳命に大反逆する大異端爆破者たちです。
彼らは、自分たちの経典「真の父母様の本体論」を、
改ざんしてはならないと言われた文鮮明師の八大教育教材の上に置いて、改ざん以上の悪質な御言の書き換えを行っています。
そして、これが真理だと宣布し、この偽りの真理で霊的に文亨進師と八大教育教材を下に置いて支配しようとする、文鮮明真のお父様と後継者、文亨進師に対する大反逆、大異端爆破教団、天一国国家反逆罪教団です。
それゆえに彼らに対して文亨進師の口から発せられたつるぎ「滅びの聖霊」は、家庭連合を現実に滅したように、神の血統の貞操を守るために聖殿内部に入り込んだこの異端爆破者たちを分立し滅していくでしょう。
地上では祝福の拒否、離婚許可、再伝道、このような啓蒙活動で対応しています。
異端者、爆破者という審判は、聖書の記述にあるように厳しい重大な審判です。
霊的に見るならば、これは明らかに文亨進師と菅井派との霊的戦いです。つまり文鮮明真の御父様と彼ら菅井派は戦っているのです。
黙示録19:21 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。
黙示録20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
聖霊はまず悔い改めの役事をします。滅びの聖霊が役事する前に、悔い改めの聖霊によって彼らが救われ永遠の生命につながるよう願います。
ヨハネ第一1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
菅井教、創造前「為に生きる」が「女性の構想」より先
であることを認める
菅井教は、日本サンクチュアリ協会に対して、神学的に何が問題か提出せよといいます。
しかし本来、そういう神学議論ついては、神学が好きな人同士で議論すればいい、どうでもいい話です。
菅井教が別宗教とされる理由は、序文の内容が、本質的問題です。
神学的に言えば、序文のように八大教材教本の上に自分たちの経典を置くことです。
文亨進師、大陸会長、宣教本部の認識はそういうことです。
この方々の認識は、我々をどんなに責めてもどうすることも出来ません。直接台湾に行って自分たちで解決してください。
そのように本来どうでもいい話ですが、ここでは
「為に生きる」と「女性の構想」とのどちらが先に存在したか?という問題について扱います。
菅井教は、文鮮明師の、御言、
真のお父様:真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。(284-71, 1997.4.15)
『真の愛は「ため」に生きるところから生じる』
『愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。』
という文鮮明師の御言を
天一聖殿さんが自分の主張を正当化するために用いたみ言は、「創造後の神様について語られたみ言」です。つまり、愛の対象となる人間と被造世界を創造するために、構想理想として立てられた神人愛一体理想の核心となるべき尊いみ言です。
https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html
『創造後の神様について語られたみ言』『構想理想として立てられた』と定義していました。
つまり「為に生きる」とは創造後であり、「女性」の構想理想が先だとするのが、菅井教の根幹でした。
今回、菅井教は、「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏によって、この菅井教の根幹を論破され受入れてはきました。
しかしその受入れ方は、「その神学は俺が最初から解説してんだよ!」・・・
菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、https://kuruto.muragon.com/entry/412.html
このように、「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏にて、創造の構想が「女性」と「為に生きる」が逆転していることを論破され、「女性」の構想理想よりも「為に生きる」が先であることを認めたのです。
もちろん女性崇拝の、創造前の女性構想理想とキリスト本体は創造後であるとする女性崇拝フェミニズム低キリスト論はかえるつもりはないようです。
しかしそれでも、今まで真っ先の構想理想が「女性」だと定義していた、その菅井教の根幹が完全に折れてしまったのですから、「真の父母様の本体論」が崩壊したということです。
論破されたら、その相手の論を盗用して攻撃する卑劣手法
しかしその受入れ方は、「その神学は俺が最初から解説してんだよ!」・・・
菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、https://kuruto.muragon.com/entry/412.html
このように、極めて卑劣なことに、さも自分が、「為に生きる」が「女性の構想」の前にあったと、以前から主張していたという明らかな嘘と盗用を行って来ました。
これまでの菅井教の教義は、
『文鮮明師:真の愛は「ため」に生きるところか生じる』という御言は『創造後の神様について語られたみ言』『構想理想として立てられた』という教義でした。「為に生きる」とは創造後だと教えてきました。
・『女性の構想前には「ために生きる」は存在しない、女性の構想が先だ』
・『包容感を起因として「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」』
という教義でした。
この『包容感を起因として「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」』という教えは菅井教「真の父母様の本体論」のアイデンティティと言っていいほどの教えです。
これに対して「為に生きる」が先であると、私だけでなく多くの人が反論して来ました。
もちろん菅井教は「これが文鮮明師の御言だ」と今まで何年も言い続け反論していました。
菅井教に関心がある人には周知のことです。
ところがあれほど反論しておきながら、菅井教のアイデンティティ「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」を今回撤回し、次のように我々の反論を受け入れました。
菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、https://kuruto.muragon.com/entry/412.html
要するに「その神学は俺が最初から解説してんだよ!」・・・
このように、さも自分が、「為に生きる」が「女性の構想」の前にあったと、以前から主張していたという明らかな嘘と盗用を行って反論して来ました。
こちらの主張を受け入れてはいますが、極めて傲慢横柄です。
本当に最初から
菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、https://kuruto.muragon.com/entry/412.html
という論理であったのなら、
『菅井教に対する「為に生きる」が「女性の構想」の前である』という反論に対して、
『文鮮明師:真の愛は「ため」に生きるところから生じる』という御言は『創造後の神様について語られたみ言』『構想理想として立てられた』などとは反論してこないでしょう。
しかも事ある毎に『「為に生きる愛」は創造後だ』と反論し続けてきた事実は一体何だというのです。
これらは「「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、」などとは1ミリも思っていなかったという証拠です。
ところが論破されたら、その論破したこちらの論、「高キリスト論」から見る自己中心的神と四大心情圏で論じたその論が、自分のオリジナルだと盗用泥棒してきました。
論破されたら、驚き慌てて「その論は俺が言ってたんだよ」という後出し、後知恵、悪知恵。
論の誤りを認めず、相手の主張を自分のものにして、その論で相手を攻撃することで優位性を保とうとする、非常に悪い詭弁です。
菅井派:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。https://kuruto.muragon.com/entry/169.html
このように、
アガペーの愛」も「犠牲の愛」も「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですと、全面否定していました。
このように菅井教はあれほど「為に生きる」は創造後だと言い張ってきたのに、文鮮明先生の御言に「創造前に為に生きる」の内容が入っている御言があることが分かり、驚いて負けを認めるわけにはいかないと大慌てして論を奪う手法をとってきました。
「女性の構想」の前に「為に生きる」があったという論を「そのことについて解説しています。」と、さも「自分はその主張、その神学、俺が最初から言っていたんだ!」と嘘をつき盗作、パクってそれを自分のものにして相手を反論攻撃するという極めて悪どい手法です。
本当に菅井教祖は悪の中の悪、サタンの中のサタンです。
菅井教が論を変えて
菅井教:「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、https://kuruto.muragon.com/entry/412.html
というのならば、では、今までの論、
『文鮮明師:真の愛は「ため」に生きるところから生じる』心情は『「創造後の神様について語られたみ言」です。』という主張は何だったのでしょうか?
包容感を起因として「女性は、真っ先に構想理想に上がってきた存在」という主張はいったい何だったのでしょうか?
創造前の神による女性構想理想崇拝は変える気はまったくないようですが、それでもまったく辻褄が合わない。
菅井教は今までと、今回の相反する神学の衝突について説明すべきです。
完璧に辻褄が合わないのに、衝突しているのに、解説していたと無理やり盗用主張する厚かましさ、その強烈な傲慢。
このような盗用という悪用をするのであるのならば、
女性崇拝の、創造前の女性構想理想フェミニズム低キリスト論を変えることはないようですが、だからといって「つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、」などと、このような『「女性の構想」の前に「為に生きる」があった』という類の論理を、菅井教が展開する資格はまったくありません。
以前、自分の論が破綻したら、『「本形状にキリストが立つ」なんて言っていないお前の捏造だ』と、自分の論を相手の捏造であると、すり替え偽る詐欺を行っていましたが、
今回は論破されたらその腹いせに「その論をバクって、そのパクった論で相手に反論、責め立て続ける」という実に悪い邪悪な精神です。
「菅井睦雄氏=サタンの実体」という方程式をまた菅井氏は自ら証明してくれました。
機械翻訳の恣意的選択
次に、韓国語が分からない日本人は騙せても、Google翻訳であろうが、Deepl翻訳であろうが、韓国人食口にはどうでもいいことについてです。
今回の問題は日本語翻訳に頼るから生じた典型的問題です。再臨主のマルスムを日本語で理解すること自体が基本、根本的に間違っています。
日本語に頼ると解釈やニュアンスの違いどころか、心情さえ伝わってきません。文鮮明師はマルスム全集を翻訳してはならないとまで言われました。
韓国語で理解する、これは文鮮明師の厳命です。だから文亨進師は韓国語での訓読会の伝統を立てておられます。
そのため菅井氏の「Google翻訳がどうで、Deepl翻訳がどうで」という話は、菅井氏が韓国語、原文では御言をほぼ理解できないことは分かりますが、そんな人に御言の真意や心情が分かるはずもなく、何を日本語訳にこだわってゴタゴタと・・・実にため息がでます。
そういうどうでもいいことですが、よく分からない方もいるでしょうから進めます。
問題になっている訳
그렇기 때문에 참된 하나님은 상대를 만드는 데 있어서 완전 투입함으로 말미암아 보다 가치적이고 이상적인 완전형을 전개한 것입니다. 하나님도 아담 해와를 지어 놓고는 아담 해와를 위해서 있겠다는 거라구요. 하나님을 위해서가 아니라구요. 자기를 위하던 때에서 상대를 위하는 때로 전개되는 것입니다. 이상적 존재라는 것은 자기를 위주하지 않습니다. 이상적 존재는 남을 위하는 데에, 대상을 위하는 데에 있는 것입니다. 이 원칙이 우주의 근본이라는 것을 확실히 알아야 되겠습니다. 이것을 알아야 되겠다구요.
参考直訳:だからこそ、真なる神様は相対を創造するにおいて、完全投入することによって、より価値的であり理想的な完全形を展開されたのです。神様もアダムとエバを造っておいては、アダムとエバのためにいようということです。神様のためではないというのです。自分のための時から、相手のための時へと展開されるのです。理想的な存在とは、自分を主(中心、基準)にしません。理想的存在とは、他者のためにすることに、対象のためにすることにあるのです。この原則が宇宙の根本であることを、確実に知らなければなりません。これを知らなければならないのです。
文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
この文章の
「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 넘어간다는 것입니다.」この文の訳し方が下記翻訳Aと翻訳Bとで違うことが問題扱いされている1
翻訳A(Google訳?):
自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。
翻訳B(菅井氏deepl翻訳):
自分を優先していた時期から、相手を優先する時期へと展開されるのです。
菅井教は「自分を優先していた時期から、相手を優先する時期へと展開されるのです。」の訳の方がより意味が明確だと断定し、
対象が存在していない神様にとっては、「為に生きる」という概念は無かったのです。
と言い切っています。
では原文を見てみましょう。
*原文参照リンク:文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 넘어간다는 것입니다.
問題になっている部分は「자기를 위하던 」「상대를 위하는 」の訳です。
この「를 위하던 」「를 위하는 」で使われている「위하다」の訳仕方が焦点です。
1️⃣「를 위하다」は「為にする」と訳すのが御言翻訳の標準
原型 를 위하다:意味=ためにする。大事に思う。利益になったり役に立ったりしようとする。
・ 를 위하던 の時制は過去:ためだった
・ 를 위하는の時制は現在未来:ために
この위하다には直接的に「優先する」という辞書的な意味はありません。
よって、単語の試験問題で를 위하다を「優先する」と答えたら☓、点数は取れません。
를 위하다は「為に生きる」という時、韓国語でよく使われる言葉です。
特に、統一教会では「為に」が定着しています。
文鮮明師の御言訳で「 를 위하다」を「優先する」と訳した出版物を今までみたことがありません。(よく調べればあるとは思います)
「為に生きる」これが文鮮明先生の思想であり、アイデンティティだからです。
これは本来の「 를 위하다」の意味「ためにする、大事に思う」による思想だからです。
よって今回の菅井教のように「優先する」が正しいというなら韓国人食口に笑われてしまいます。
2️⃣「를 위하다」を「優先する」と訳したら恣意的、比較対象が必要になる
「優先する」ということは、プライオリティ優先順位があるということになります。つまり他者との比較になりますから、他者の存在が大前提です。そういう意訳をする場合があります。
しかし、今回の訳のように、神以外に存在しない創造以前において、優先するという言葉を使うのは相応しくありません。
菅井氏は創造前に「為に」という言葉は、他の存在を前提にするから矛盾する、論理破綻だと主張しておきながら、今回はどうしてその菅井氏自身が、複数の他者の存在を想起させる「優先する」という訳を選ぶのでしょうか?
無理やり「為に」という言葉を入れたくないという意図が透けてみえます。
しかし、日本語では消せても「를 위하다」からは「為に」というニュアンスを消すことは出来ません。
3️⃣「를 위하다」を「優先する」時は「為に尽くす」が大前提にある
場合によって、「誰々を大切にする」「誰々のために尽くす」という意味から、結果としてその人を優先するという状況で意訳的に使うことはあります。
しかしこの場合でも、「誰々を大切にした」ので、「誰々のために尽くした」ので結果として「誰々を優先した」という意訳です。
(하나님은)자기를 위하던 때로부터 の訳を「優先していた」とするならば
・「(神は)自分を大切にした」ので
・「(神は)自分のために尽くした」ので
これが大前提になります。
そして2️⃣と同じように、これは複数の他者との比較が大前提になります。
結局「(神は)自分のためにしていた」の方が、本来の辞書的な意味そのものですから、より正しい訳です。
このように「優先する」の訳は本来の辞書的意味にはない訳なので極めて意訳的恣意的です。
日本語では「為に」というニュアンスを消せても韓国語「를 위하다」からは消すことは出来ません。
以上1️⃣2️⃣3️⃣から、
위하다の翻訳は翻訳A(Google訳と主張する方)の方が御言の翻訳としてより的確です。
以上、より正確なニュアンスの日本語訳は:神は「자기를 위하던 때로부터 」=「自分のためにいた時から」です。
神はご自身の為に生きていた時があった
それは次の同じ「文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)」、問題になってる文「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 넘어간다는 것입니다.」このすぐ下の文を見れば明らかです。
여기에 워싱턴의 유명한 분들이 왔을 거라구요. '아하! 내가 이만하면 앞으로 이 나라의 대통령이 될 수 있는데, 어디 가든지 내가 실력으로 해도 무엇으로 해도 지지 않을 당당한 난데…. 나는 나를 위해서 사는 사람이다'라고 하는 사람이 왔을는지 모르겠어요. 우리가 결과적인 존재로서 하나님을 닮았다고 했기 때문에, 하나님이 자기를 위하던 때가 있었던 것과 마찬가지로, 여러분도 여러분 자신을 위할 때가 있다구요.
ここにワシントンの有名な方々が来ていることでしょう「ああ!私がこれ程であれば、今後はこの国の大統領に成れるのに、どこへ行っても私が実力でしても何しても負けない堂々たる私なのに……私は自分のために生きる人間だ」と言う人が来ているかもしれません。私たちが結果的な存在として神に似ていると述べたように、神がご自身のためであった時があったのと同様に、皆さんもご自身のためにする時があるというのです。
菅井氏推薦のDeepl訳では次のように訳しています。
「私は自分のために生きる人間だ」と言う人が来たのかもしれません。私たちは結果的な存在として神に似ていると述べたように、神がご自身のために生きた時があったのと同様に、皆さんにもご自身のために生きる時があるのです。」
Deepl機械翻訳はここでは、「 를 위하다」を「優先する」ではなく「ために生きる」と訳しています。
나는 나를 위해서 사는 사람이다'라고
하나님이 자기를 위하던 때가 있었던
여러분 자신을 위할 때가 있다구요.
やはり「優先する」という意訳を当てはめるのはよろしくない。
ここの御言でも、「神がご自身のために中心として動く」とは「自分のためにすること」であることがよくわかります。つまり神の本質は「ために生きる」であるということがよく分かります。
従って、菅井教のhttps://kuruto.muragon.com/entry/412.htmlで定義している
『対象を想定する前の神様には、「為に生きる」という心の姿勢は無かった』
これは間違い。
自分の為であろうと、対象を想定する前から「자기를 위하던 」、「ために生きる」という意識と概念がこの韓国語の文字通りに神にあったのです。
もちろん菅井教は、「優先する」を主張し「為に生きる」の概念は無かったと主張するでしょうが、韓国語を母国語とする韓国人食口にはまったく通用しない実にくだらない話です。
”자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 전개되는 것입니다.”이라는 뜻은 사실은 ”자기를 우선 했던 때로부터 상대를 우선하는 때로 전개되는 것입니다”이라는 뜻을 의미한다.그러므러 ”를 위하던”,”를 위하는”이라는뜻은 없다
などと主張すれば韓国人食口からは笑われるだけです。
韓国語で「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 넘어간다는 것입니다」と書いてあるのに、どうして神に「자기를 위하던 때」が無かったと言えるのか!ということです
「자기를 위하던 때」は「자기를 위하던 때」です。「자기를 우선 했던 때」ではけっしてありません。これは完全な改竄です。
日本語では「為に」というニュアンスを消せても韓国語「를 위하다」からは消すことは出来ません。
「자기를 위하던 때로부터 상대를 위하는 때로 넘어간다는 것입니다」
この韓国語を消し去ることはできません、日本語の介在なく韓国語そのままで理解すべきです。
日本人に通用しても、文亨進師や韓国人食口には通用しません。
<結論>高キリスト論の立場では「自分のためにしていた時から」つまり、対象の概念が無かった創造前の神様には自分の「為に生きる:위하여 산다」という概念、心情があった。
繰り返します。
Google翻訳であろうが、Deepl翻訳であろうが、韓国人食口にはどうでもいいことです。
日本語ではあれこれ論を組み上げて「為に」というニュアンスを完全に消せても、韓国語「를 위하다」からは消すことは決して出来ません。
しかしこれからも菅井教は「자기를 위하던 때」の真意は「자기를 우선 했던 때」であると主張しつづけるでしょう。しかし「를 위하던」はこれからも永遠に存在し続けます。
しかし、それにしても韓国語に対する造詣がこんな程度の人が「お父様はニ代王様には摂理を語るが、私には真理を語る」?何という御冗談を。
リンク先、菅井教、菅井派に対する記事の一覧です。菅井教対策の資料としてお使い下さい。
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