再臨主を必要としないキリスト教
◆2026年4月7日 テネシー清平韓国語水曜礼拝
◆イエス様の三大試練と三大王権の荒野路程<1>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
翻訳minion監修fanclub
テネシー清平韓国語水曜礼拝權教授한국 수요예배 4 7 2026
こんにちは。今日私がお話ししようと思う題目は、「イエス様の三大試練と三大王権の荒野路程」としました。
救い、神の血統を再び取り戻す
神様はご自身の子女として人間を創造され、また人間が生活することができる被造世界を創造されました。堕落が何かというと、神様の子女がサタンの子女へと、親が変わってしまったということです。神の子女であるアダムが堕落し、天の血統を失い、サタンの血統を受けました。
ですから、復帰摂理の目的は、神の血統を再び取り戻すことです。これが救いです。
キリスト教では、救いとはメシアが来て、私が救われるということだとこのように話しています。
すべてが間違っているということはできませんが、実は救いの摂理における救いとは何かというと、神の摂理は創造理想の実現です。
ところが、サタンが入ってきて、その創造理想が壊れてしまったのです。ですから、神様がメシアを通して創造理想を実現することで、人間が本来、神様が計画されていた本然の地で暮らすようになるのです。それが救いです。
救いとは、私が楽に暮らし、苦痛を少なくし、暖かい場所で眠り、お腹いっぱい食べ、汗をあまりかかないこと、これらが救いではないということです。
救いとは、創造理想の実現、すなわち創造目的の実現です。
それゆえ神は失われた血統を回復するために、アダム家庭においてカインとアベルを分け、摂理を行われました。カインがアベルに服従・屈服することで、サタンを屈服させる過程です。
ですから、旧約4千年の復帰摂理は、神の血統であるメシア、イエス様、お一人を立てるための摂理です。
メシアを通して、人類をサタンの血統から神の血統へと転換させるのが、救いの摂理です。神はそれゆえ、このメシアのためにイスラエル選民を選ばれました。
私たちが明確に知らなければならないことは、メシアのためにイスラエル選民を選ばれたのであって、イスラエル選民のためにメシアを送られたのではないということです。
当時のイスラエルには、実際、偉大なメシアに対する熱情と渇望がありました。そして神は、約束された通り、息子イエス様を選ばれた選民たちの前に送られました。
しかし、そのような選民たちはイエス様が神様の息子なのか分からなかったのです。
サタンのイエス殺害
ですから、神は4千年目に探されたイエス様をイスラエル民族は排斥しました。サタンはイスラエル民族に侵犯できる条件が生じるや、イエス様の命を奪うことを望みました。
そこで、人類救いの道を開いても、メシアの命を奪うことを求めました。
天の血統を切ってしまうのです。
それでイスラエル民族の不信を利用してイエス様を十字架に引きずって行って処刑しました。
なぜなら、サタンはイエス・キリストを殺すことで、人類を継続して自分の血統の中に閉じ込め続けることができるからです。
一方、神様は人類救いのみ旨を放棄することができませんでした。それでサタンにイエス様の肉身を与える条件として、霊的な救いの道を開きました。
ですから神様とサタンの間は条件を持って戦うのです。サタンはイエスを十字架に引っ張っていくことはできましたが、イエスの魂はサタンが取ることができませんでした。イエス様の肉体はサタンが打つことができましたが、イエス様の魂はサタンに勝利されました。
このような理由でイエス様をよく信じるクリスチャンであっても、その肉体にはサタンが侵犯することができます。しかし、その魂はサタンの主管を受けないでイエス様の救いの道に従うことができるのです。
これが十字架を通して霊的な救いの道を開いてくださったのです。ですから、これがイエス様を信じることによって許諾された救いです。
しかし、人間の肉体には常にサタンが侵入することができます。実体世界をサタンが主管するからです。サタンは未だにイエスが行った後も、この世の王です。
私たちが明確に知っておかなければならないことは、霊的な救いは神の創造目的の完成ではありません。霊的救いの世界は、神様が計画された創造理想世界ではないという御言です。
人間は、肉体と魂、全てが完全な救いを成してこそ、神様の創造理想世界が実現するということです。
イエス様以来2000年間、神様はキリスト教を率いて、神様は再臨の摂理を進められました。この努力の末、真のお父様が初めて神様の真の血統、第三アダムとして誕生されたのです。
ブドウ園の比喩
聖書はこれをブドウ園の比喩として説明しています。聖書のマルコによる福音書やルカの福音書にこれがあります。
そのマルコ福音を一度見てください。 12章1節から12節です。
12: 1そこでイエスは・で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
2 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。
3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。
4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。
5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、
8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
10 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。
11 これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。
12 彼らはいまの譬えが、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
はい。 12節まで拝読しました。
イエスはブドウ園の小作人の比喩を聞いて、ユダヤ教の指導者たちの罪を明らかにしました。ブドウ園の主人が農夫たちにブドウ園を任せて去ったのですが、時がきてその収穫を受けようと僕を送りました。しかし、農夫たちは僕を打ち、冒涜して殺すまでしました。主人は最後に自分の息子をむやみにできないだろうと考えて、息子を送りましたが、邪悪な小作人たちは息子も殺して相続権を占めようとします。これに主人が来て、邪悪な農夫を滅ぼし、ブドウ園を他の人に任せ、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」。と言われました。
再臨主を必要としないキリスト教
ところが、今日のキリスト教では、このブドウ園の比喩を正しく理解することができていません。
なぜなら彼らはイエス様が十字架を通して救いが完成したと考えているからです。そうなので、主がなぜ再び来なければならないのか、その理由も確実にわかることができていません。ただ、空中に雲に乗って来て、自分たちをどうにかするだろう、この程度しかわかることができません。
キリスト教は事実、神様の救いのみ旨には関心がなく、教会の成長が神様のみ旨だと偽りの主張をしています。
キリスト教はイエス様が教会の中におられるように宣伝していますが、これは事実ではありません。
ですから、教会を中心としたキリスト教はイエス様を看板として立て、商品化して、多くの権力と富を求めています。
したがって、現キリスト教では再臨主は必要ありません。
このような状態では、再臨主が再び来られても、彼らは初臨の時と同様に排斥するようになります。
現在、キリスト教はユダヤ教の過ちを繰り返しています。再び来られた再臨主を異端者として規定し、初臨の時のユダヤ教指導者たちと同じ行動をしています。再臨主に反対して冒涜して殺そうとしました。
したがって、彼らはブドウ園の比喩を完全に理解していないからです。
キリスト教は、「10家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。」という言葉を任意に解釈しています。
建築者は当時のユダヤ教指導者である大祭司、律法学者を意味します。そして捨てた石はユダヤ教指導者たちが認めないイエス・キリストに見ています。かしら石もイエス・キリストとして見ています。なぜ?後で救いの中心であり、教会の基礎となった方です。ですから、捨てられた石もイエス様であり、かしら石もイエス様だと見ています。
しかし、すぐ上の9節の言葉を見ると、9節に何が書かれているのかといえば、
9このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
このように話しています。
しかし、イエス様が死ぬために来られた方ではないことを悟ったらこの比喩がよく見えます。
死ぬために来たというので、理解ができないのです。ブドウ園の主人は神です。そして農夫は当時ユダヤ教の指導者である大祭司長と律法学者、長老たちです。送られた僕は預言者です。送った息子はメシアイエス・キリストです。主人は神であり、神の実体に来られた人類の真の御父様母の再臨主を意味します。それでイエス様は息子として来られ、真のお父様は父母として来られたのです。イエス様の父母。
しかし、イエス様を歓迎しなければならないユダヤ選民は、イエス様を異端者として規定し、十字架に引きずって殺害しました。
ここで「捨てられた石」とは、選ばれたユダヤ民族ではなく異邦人を意味します。彼らは十字架を持ったメシアを証しし、最後まで伝播したクリスチャンです。クリスチャンはまさにかしら石です。あおの石によって、こんにちキリスト教がその基礎の上に立つようになったのです。
上のイエス様が比喩で話されたブドウ園の比喩は、、失敗したユダヤ民族を叱責する言葉です。
かしら石となるべきユダヤ民族が失敗し、捨てられた石がキリスト教を成すかしら石になった、というそのような御言です。
ですから、キリスト教では間違って理解しているのです。
なぜでしょうか?イエス様は死ぬために来られたという考えを持っているため、理解できないのです。
完全な救いを勝利された文鮮明真の御父様
それゆえ、現在のキリスト教はユダヤ教指導者たちと全く同じ道を歩んでいるのです。そのため、再び来られた再臨のキリストである真の御父様母様を、生涯にわたって追いかけ回し、事あるごとに反対し、殺そうとしました。
しかし、真の御父様母様は、血と汗と涙の路程を通してすべてに勝利されました。真のお父様は、堕落世界の人々に霊肉救いの道を開いてくださいました。そして、私たちに祝福を授けてくださり、サタンの血統を脱いで、神の子女として立ててくださいました。
再臨の主として来られた真の御父様は、完全な救いのために来られました。それは、アダムが失敗し、イエス様が完成できなかった救いの摂理でした。真の御父様は、ご自身の時代にサタン屈服と、真の家庭を築き、万王の王を宣言されました。
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