天基14年天暦1月1日(2023年1月22日)
2023年1月22日0:00(日本時間1月22日14:00)真の神の日 0時元旦祈祷と揮毫
0時元旦祈祷
年頭標語揮毫
苦難時代참아버님感謝勝利
苦難時代真のお父様感謝勝利
・第55回真の神の日式典
・真の御父母様・イエス様御聖誕日
・22周年神様王権即位式
2023年1月22日7:00(日本時間1月22日21:00)式典
https://www.youtube.com/watch?v=QQUnbW67gX4
天基14年真の神の日訓読資料(御言選集184巻195~198ページ)江利川大陸会長提供
今日、私たち人類は、神様の本来の創造理想である真の愛を中心として、真の生命と連結され、愛の生命的血統を受け継がなければなりませんが、そのようにできませんでした。これが堕落です。
それでは、堕落した立場はどのような立場か? 神様の代わりにサタンの愛を中心として、サタンの生命を中心として、サタンの血統を受け継いだというのです。これは驚くべき悲惨な歴史的実相です。この事実を今まで誰も分からなかったのです。
ところが、統一教会がこの地上に現れることによって、人間の根本がどのようになっているのか、また神様がいるのかいないのか分からない人類の前に、初めて神様が明確にいることを知らせただけでなく、神様が漠然とした神様ではなく、人格的神様だということを知らせました。そして、この人格的神様を中心とする、人格的理想的体制を連結させた理想世界を知らせました。それはどういうことかというと、一つの完全な父母の立場で子女をもち、子女の立場で家庭をもち、氏族、民族、国家、世界形態を備え、地上世界と霊界を一致化させようとされたということです。これが創造理想だったのです。
それでは、地上に生きなければならない人々は、本来神様の真の愛から生まれ、真の父母を通して真の子女を中心とした血縁関係の因縁を経て、この血縁的基盤を縦的として世界的に拡大しておかなければならなかったのです。そのような主体的家庭を中心として、相対的家庭に連結した世界像、すなわち地上世界と天上世界が成し遂げられなければなりませんでした。これが神様の愛を中心とする創造理想世界だったのです! これを私たちは原理を通して学びました。
このような観点から見るとき、私たちが生きている世界は、サタンの愛を中心としてその根拠が成り立っているのです。また私たちの生命は、サタンの愛が根となった生命だというのです。また私たちが生きいている環境はサタンの環境だ、このようになります。
それでは、ここに神様を中心とする、真の愛を中心とする、真の生命を中心とする、真の血縁的関係を中心とする世界的連結体ができていれば、これは真の神様の愛を中心とする一本の木と同じであり、真の神様の生命を中心とする一本の木と同じであり、一つの血族を中心とする一本の木と同じであり、この世界が二つではなく一つの世界になっていたでしょう。
その世界を成す個々人の生命の内容は何かというと、愛だというのです。生命の内容が愛である以上、その生命を支えることのできる生活の内容は何かというえば、それも愛なのです。そうだとすれば、生活していく私たちの日常生活のあらゆる分野は、愛を調和させ、愛を完成できる一つの足場となっていたでしょう。その世界は、最初の始まりから最後まで、神様の真の愛に同化される世界だったのです。
そのようになれば、根が一つであることによって幹が一つであり、幹が一つであることによって、幹を中心とするあらゆる枝が、東西南北に方向は違っても一つの木であり、一つの体と同じです。連体だというのです。連関した体なのです。
皆さんがよく知っているように、木を見れば、その木の葉の中にある一つの細胞を中心として、そこには根もあり、幹もあり、枝もあり、葉もあるのです。ですから、細胞の繁殖が可能であることを私たちは知っています。
それゆえ、そのどれ一つを抜き出してみても、それは愛の分子にならざるを得ません。根の部分を抜き出しても、そこには真の愛の分子があるのです。幹、あるいは枝や葉のどの部分を抜き出してみても、一つの細胞自体までも愛を中心とする生命体であり、愛を中心として連結させようとする活動体であり作用体だ、このように見るのです。
このように見るとき、理想的な人間とは一体何かという問題がここで解決されます。理想的な人間とはどのような存在か? 真の愛の一つの細胞と同じです。その細胞と細胞は、位置と立場が違っても、これがどんな環境にいても同和することができ、和合できるのです。東西南北、上下、前後、左右を問わずどこでも、主体あるいは相対的内容、あるいは前後、左右の内容、上下関係において自らの立場を心得ながら、自動的な原則で統一的形態を完成できる連体だというのです。
私たちの一つの体を中心として見てみると、四肢五体があり、数百兆個の細胞がありますが、この細胞は、生命を中心として、きょう感じる自分の生活舞台で同和する肢体です。ここで感じられるあらゆることは、相対の影響として現れるのです。相対的に現れる影響を、どのように喜びで消化させる主体になるか、どのようにしてそのような生活をするかということが、私たちの日常生活において、誰もが必要とする生活様式だということを私たちは知っているはずです。
それと同じように、本然の私たちの心情に従い、本然の心情に従って神様の真の愛の根拠をもっていたならば、このような人格化した真の人間が行くべき道は、生活舞台で展開するあらゆる環境的与件がいくら違うとしても、歴史が過ぎていき、時代が過ぎていったとしても、その人々が暮らす生活の内容は、公式のように同じでなければなりません。
父がいれば、その父は、千年前の父も万年後の父も、父の立場は同じでなければならないというのです。母なら母の立場もそうでなければなりません。母が変わり、父が変わることはできません。
また夫婦も同じです。昔、氏族の先祖の時に結ばれた夫婦の真なる愛の因縁は、億千万年たっても変わることはできないのです。そのような夫婦によって、真の愛で生まれた子女というものは、互いにとってなくてはならないものです。
自分の周囲に現れた家族というものは何か? 家族というものは一体何か? 家族というものは、父母の展開体だというのです。そうではないですか? 父母の展開体です。
このように見るとき、その中に長子がいて長女がいます。またその次には、次子、次女がいます。多くの息子、娘がいるとき、その息子、娘の中で、真の息子、娘はどのような息子、娘でしょうか? その兄弟の中で、父母の実体を展開した存在のように感じることができる人が真の息子、娘だというのです。
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