2025年11月7日金曜日

創造主を信じる宗教の方々へ◆ 私達は菅井(クルト)派が言う自己中心神を信じていません

 創造主を信じる宗教の方々へ

私達は菅井(クルト)派が言う自己中心神を信じていません



キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の信徒の方々にお伝えします。

聖臨連合を始めとする菅井派は、サンクチュアリ教会ではありません。サンクチュアリ教会を装う別の宗教です。

彼らはお父様はこのように言っていると主張するため、これがサンクチュアリ教会の教えだと勘違いする方もおられますが、彼らの勝手な言説であることをお伝えします。


このお父様はこのように言っているとする教えに対してサンクチュアリ教会の指導者、文亨進牧師(文鮮明師の後継者、代身者、相続者)は菅井派に影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなさいとサンクチュアリ教会長たちに指示しています。

これを否定する菅井派は、文亨進師からサンクチュアリ教会としての任命の祈祷を受け証明する必要があります。


この指示にもとづき、菅井派の詐欺に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の信徒の方々が騙されないようこれを書きます。

サンクチュアリ教会最大である日本サンクチュアリ協会では厳しく対処していますのでリンク先を御覧ください。


菅井派には別宗教として頑張って下さいと、エールを送りたいと思います。

●キリスト教の最も大切なアガペーの愛を貶め冒涜する菅井派


まずキリスト教の皆様にお伝えしたことを振り返ります。


キリスト教において、我々ももちろん大切にするアガペーの愛を、菅井派は貶めるキリストを信じる者にとって甚だしい心情蹂躙の宗教であることをお伝えしました。キリスト教に興味のある皆様へ

私達を導く文亨進師は、以下のように高キリスト論のアガペーの愛が真の愛であると教えて下さいます。

キリスト教の皆様への釈迦に説法になってしまいますが、これは創造前からの父なる神と、その子としての神との三位一体の愛、アガペーの愛です。


愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。

だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 


ところが菅井派はこの”愛は感覚ではなくアガペーである”と言われるこの文亨進師の教えを受けて、次のように真っ向から「いやアガペーの愛は肉的感覚だ」と否定します。

菅井氏:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html


さらに釈迦に説法ですが、神は愛であり、それはアガペーの愛であり、このアガペーの愛で父と子と聖霊のペルソナは一つであることを表す三位一体を、これほどまでに「肉的五感の感覚的刺激」によるものだと貶めるのですからイエス様、イエス様を信じる者たち、そして文亨進師に対する、どれほどの心情蹂躙なのかというのです。

だから私達とは別の宗教なのです。


しかも、菅井派は自分たちが勝手に文亨進師の高キリスト論は象徴だと解釈しているのに彼らは”文亨進師に直接確認しろ”と言います。どこまでも自己中心的です。我々は文亨進師の高キリスト論をその如く信じているので確認する必要などありません。菅井派自分たちで正々堂々と確認すべきことです。


●管井派の神は、キリスト教、イスラム教にとって自己中心神(悪魔サタン)


この自己中心についてです。

この菅井派の”神の愛、アガペーの愛を侮辱する心情蹂躙”は創造主の根源を自己中心の神とするところから起因します。

キリスト教、イスラム教にとって自己中心利己的であるとは罪であると考えます。

キリスト教では、自己中心的な性質は原罪の結果の一つ、罪として捉えます。


キリスト教、イスラム教では、そのような他者犠牲の利己的自己中心の根源的霊的存在とは、サタン(イスラム教ではイブリース)のことです。この自己中心で神に反逆したからです。

イスラム教においても、慈悲深いアッラー(創造主)を自己中心的だと表現することは、重大な冒涜行為です。神を自己中心的だと叫ぶ者はイスラム法(シャリーア)に基づいて、信仰の根幹をゆるがす重い罪であり、非常に厳しい対応がとられる可能性があります。


ところが菅井派は、神様のアガペーの愛、犠牲の愛も創造後の肉体的五感からくる愛だと、神の愛を貶めるだけでなく、真の愛に目覚める前、天地創造を始める前の神様は、このキリスト教が罪であるとする同質の自己中心、利己的で自己中心的な性質の神であったと主張し徹底的に神様を貶めます。神のアガペーの愛を侮辱します。


しかも、菅井派は”神はその自己中心を悔い改めた”と言います。

菅井氏:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html


自己中心を悔い改めるとは、キリスト教にとっては、「罪から離れ、赦しを求めて神に心を向ける」ことを言います。

この菅井派の教えはキリスト教、イスラム教にとって「そのような自己中心という罪深い神であることが、真の愛の前にあって、その存在自体の最初が罪であり悪であった、これが神の創造前の性質であった」ということになります。

「世界の根源は悪であって、その自己中な悪が悔い改めて天地創造した」ということになってしまうのです。


これを極簡単に言えば、「神の根源は悪魔である」と、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の皆様に言っているのです。

これは、キリスト教、イスラム教にとって、極めて重大な名誉毀損、心情蹂躙になります。

ですから、まさに菅井派はキリスト教、イスラム教にとって根本的重大な敵です


ですから菅井派は、キリスト教、イスラム教に対して、そして我々に対しても、創造主は自己中心利己的な悪魔サタンだと神聖冒涜し、そのような悪魔を崇拝すると叫ぶ異端宗教ということになるのです。


彼らは気づいていないようですが、我々が信じる神は悪魔サタンだ、悪魔が天地創造をしたのだと人々に向かって言ってることと同じなのです。

菅井派は、「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」と語られ文鮮明師の御言をもって、これぞ真の御父様が伝えたかった御言だというのですから、当然、これはキリスト教、イスラム教の皆様に対して、御父様を貶めることになります。

だから菅井派は我々にとって別の宗教異端なのです。


いくら、神は悔い改めた後は、真の愛の神になったのだと、キリスト教、イスラム教の100億回弁明し叫んでも無駄でしょう。その悔い改めたという表現自体がキリスト教徒、イスラム教徒にとって、そして私達にとっても心情蹂躙だからです。


しかし、違うというのなら菅井派はキリスト教各派、イスラム教各派から、

菅井派:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。

このような悔い改める神は正しいという同意をもらって公表する必要があります。

そんなことはないと言うのなら、モスクに行ってアッラーの慈悲の愛に対する菅井派のこの言説は正しいという認定書を貰って証明すればいいのです。


●永遠の神のアガペーの愛を否定する菅井派


ヨハネの黙示録22章

13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。


この聖句は、神は永遠であり、神の絶対的な権威と存在の完全性を表します。

私達の愛する創造主は最初から最後まで永遠に変わりのないアガペーの愛、真の愛なる方です。


しかし菅井教の神は最初は自己中心の神が、悔い改めて真の愛に目覚めたといいます。

つまり途中で真の愛に目覚めた、存在根源が自己中心利己心であるので、永遠の愛ではないということです。

永遠でもなく根源が自己中心なので、いつ豹変して本来の自己中心の神になるか分からない恐ろしい神だということになります。


おそらく、”悔い改めて真の愛に覚醒したのだからアルパでありオメガ、永遠の愛である”、或いは”この聖句は愛の質のことを言っているのではない存在性のことを言っている”など、思いつく様々な屁理屈を叫ぶのでしょうが、覚醒前と後では、心情の質がまったく違うということを覆すことは出来ません。


これは、創造前から全てにおいて「神は愛である(ヨハネ第一 4:8)」とするキリスト教の根幹さえも侮辱する詭弁です。

そして、先に述べたようにアガペーの愛、犠牲の愛など「肉的五感の感覚的刺激」との関係によって生じる愛であると侮辱します。

これは、アガペーの愛は、創造前から有ったのではなく、肉体が創造されてから生じるようになった愛だということになります。つまりアガペーの愛のその永遠性を否定します。

このようにして真の愛から永遠のアガペーの愛、犠牲の愛を排除します。


このように、キリスト教にとって、菅井派の神は「アルパであり、オメガである」というこの聖句、この永遠のアガペーの愛、永遠の真の愛を破壊する神、邪神、悪魔の類です。

キリスト教にとって、見せかけの真の愛で誘って、何かあれば自己中心の恐ろしい神に豹変する神ということになってしまうのです。


ですから菅井派はこのような神を信じるので、我々にとっては別の宗教であり異端なのです。


菅井派は自ら、彼らはまったく気がついていないのですが、

菅井氏:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html

などと言うことは、キリスト教、イスラム教にとって、自分たちが信じる神は「自己中心神、悪神、邪神、悪魔、サタンである」と人々に叫んでいることと同じです。


彼らは”これが御父様の真理だ”と言って、「自己中心の神が、真の愛の神に覚醒した」の類の論説で、「自己中心の神」を主張しつづけるでしょう。

しかしそれは、キリスト教、イスラム教の皆様に、自分たちは「サタン(イブリース)、悪魔、邪神」を信じていると叫び続けることになるのです。

菅井派には別宗教として、頑張って下さいとエールを送りたいと思います。


そのような神をサンクチュアリ教会は当然信じていません。

私達は、このようなキリスト教、イスラム教の敵になるような菅井派のこのような言説を信じていません。

菅井派はサンクチュアリ教会ではない、まったく別の宗教であることを、理解いただきたいと思います。


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2025年11月6日木曜日

キリスト教に興味のある皆様へ◆ 菅井(クルト)氏の教えはキリスト教を語る詐欺であり、サンクチュアリ教会ではありません。

 キリスト教に興味のある皆様へ

菅井(クルト)氏の教えはキリスト教を語る詐欺であり、サンクチュアリ教会ではありません。


キリスト教信徒の皆様、キリスト教に興味がある方々にお伝えします。

菅井派はさもキリスト教の神学を信じているように言葉巧みですが、詐欺です。

そのことは、シンプルに証明できますので、それをご紹介します。


また聖臨連合を始めとする菅井派は、サンクチュアリ教会ではありません。サンクチュアリ教会を装う別の宗教です。

菅井氏が独自に”お父様はこのように言っているとする教え”を”お父様の教え”とする教団だからです。

よって私達の大切な結婚においても、相手が菅井派であることを理由に離婚することも認められます。サンクチュアリ教会最大である日本サンクチュアリ協会では厳しく対処していますのでリンク先を御覧ください。


このお父様はこのように言っているとする教えに対してサンクチュアリ教会の指導者、文亨進牧師(文鮮明師の後継者、代身者、相続者)は菅井派に影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなさいとサンクチュアリ教会長たちに指示しています。

もちろん菅井派は激しく反対し、全てデタラメだ捏造だと言いますが、それにもかかわらず、目を覚まして菅井氏の”お父様”ではなく文亨進牧師の”お父様”に帰ってくる人もいます。


そのような救済と、キリスト教に興味のある方々が騙されないよう、これを書きます。


管井派はアガペーの愛を肉的五感からのものとしてキリストを貶める宗教


サンクチュアリ教会は統一教会の時代から一貫して文鮮明師(真のお父様)が提唱される為に生きる真の愛(アガペーの愛)の神を信仰しています。

文亨進師(我々は天一国二代王と呼びます)はキリスト教ヨハネの福音書の創造前の三位一体論、創造前のアガペーの愛、イエスキリストの創造前の犠牲の愛、即ち「為に生きる愛」を提唱しています。いわゆる高キリスト論です。


しかし菅井派はこの文亨進師の三位一体論は詩的象徴的な表現であって、イエスキリストの三位一体は創造後であるとする低キリスト論です。

次の言説を見れば簡単に分かります。


菅井氏:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html


彼らは自分たちの勢力拡大のために、さも創造前のアガペーの愛の本質的表現である三位一体論、高キリスト論を信じているかのように言葉を飾りますが、実際には、この彼らの教えの通り、アガペーの愛、犠牲の愛も創造後の肉的五感からくる愛だとして否定し貶めます。

このように、キリスト論を使った詐欺を、高度なキリスト論と言って宣伝するのですから極めて悪質な詐欺ペテンです。

真の愛からアガペーの愛、犠牲の愛を削除します。ですからサンクチュアリ教会とは違う別の宗教なのです。


いや、キリスト教と呼ぶことさえも出来ません。

キリスト教における愛の種類は皆様御存知の通り次の4つです。


  • エロス (Eros): 情熱的な恋愛感情や性的な愛を指します。自分にはない価値あるものを求め、自分の中に引き入れたいという強い欲望を伴う愛です。

  • フィリア (Philia): 友人や同胞に対して抱く「友愛」や「友情」を指します。相互の尊敬や好意に基づいた、対等な関係性の愛です。

  • ストルゲー (Storge): 親子の愛のように、血縁関係から自然に生まれる愛着や情愛を指します。

  • アガペー (Agape): キリスト教における神の愛に象徴される、見返りを求めない無償の愛です。すべての人々や存在に向けられる、献身的な愛です。


この、キリスト教において、父なる神の愛である、アガペーの愛を「肉的五感の感覚的刺激」からの愛であるつまり、神の愛でないと主張するのですから、この時点で、菅井派達は自分たちはキリスト教ではないと自白しているのです。


それなのに自分たちは高度なキリスト論というのですから、まったくの詐欺なのです。

彼らは、「自分たちこそ創造前にキリストが存在すると信じる」「自分たちこそが文亨進師を信じている」と大声を上げるのですが、よく見ると象徴詩的表現として受け入れているというのです。これは明らかなペテン、詐欺です。

しかし彼らは一切の罪の意識がありません。なぜなら彼らは象徴的、詩的表現と言っては詐欺を語ることを常套手段としているからです。


さらには、アガペーの愛、犠牲の愛は、創造後の愛と言うのならまだしも、

アガペーの愛をこのように”「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じる”肉的五感次元であると貶め嘲笑う菅井派の教えはキリスト教徒にとって甚だしい心情蹂躙です。

これは高キリスト論キリスト教、低キリスト論キリスト教双方のキリスト教にとって心情蹂躙です。


もちろん文亨進師が大切にしておられる”父の犠牲の宝血の愛”を”「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じる”肉的五感次元の愛である、創造前の三位一体は象徴であると貶めるのです。

しかも菅井派の解釈こそが、文亨進師の神学だと主張して、文亨進師をアガペーの愛を貶めるキリスト教の敵にしたてあげるのですから、二重の意味で、サンクチュアリ教会にとっても、甚だしい心情蹂躙であり神聖冒涜です。

この詐欺こそが真理だと彼らは主張するのですが、どうしてこのような詐欺を受け入れられるでしょうか。


このように菅井派の教えの本質はアガペーの愛、犠牲の愛は、創造前から存在する真の愛には存在しないとする教義です。アガペーの愛は神の愛ではないと否定するのです。

創造前から存在する真の愛から、アガペーの愛、犠牲の愛を抹殺したのです。

アガペーの愛、犠牲の愛が無い愛のどこが真の愛なのか!というのです。

しかし、それが真理だと菅井派は主張します。まったく相対立します。だから別宗教なのです。


文亨進師の三位一体論を詩的象徴的な表現であると言いながら、さも自分たちは創造前の三位一体論を信じているかのような悪質な詐欺を何度も繰り返す理由は、彼らが極めて利己的であり自己中心的だからです。

彼らは「悔い改めることで真の愛に目覚める自己中心的な神」を信じます。

ところがこの彼らの言う真の愛には、アガペーの愛、犠牲の愛がありません。

そのような神を信じるので、必然、嘘ペテンは罪とも思わないのです。


このように菅井派はサンクチュアリ教会にとっても別の宗教、異端です。

しかも、とてもキリスト教とみることなどけっして出来ない宗教、異端です。


私達が目指す、神の国、天一国にこのような詐欺宗教があっても構いません、そのような詐欺師でも天一国国民です。

しかし同じ宗教であるかははっきりさせなければなりません。詐欺に気をつけるのも当然です。その観点でみるとき、菅井派はサンクチュアリ教会を装う、見かけが似ているだけの擬態宗教、全く別の宗教なのです。


参考までに。

菅井派が言うように、創造前の神の愛をアガペーの愛で無いというのならば、創造前の神の愛は他のエロス、フィリア、ストルゲーの3つの愛の中にあるということになります。

菅井教のいう真の愛は”絶対孤独で満たされない対象への渇望を伴う愛”です。

このような孤独感から対象を求める愛ですから”エロス(Eros)”の愛であるということになります。

相手を幸せにしたいと思っても孤独からくるのでエロスの愛です。

もちろん彼らは「エロスの愛ではない」と否定します。

では残りのフィリア、ストルゲーの何れかでしょうか?これも該当しそうにありません。となると要は菅井派のいう神の愛とはペテンの愛、詐欺の愛ということになるのです。


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