2019年5月17日金曜日

2019年5月12日英語説教 <全文> イエスとヤコブの教会


2019年5月12日英語説教

<全文>

イエスとヤコブの教会

とても重要な内容です。同じ主題の5月5日の韓国語説教も読んで頂ければと思います。

サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載です。字幕化は2nd Israelさん。

いつもありがとうございます。注:カラー太文字写真挿入はファンクラブ


2019年5月12日英語説教

「イエスとヤコブの教会」


翻訳:BANBOOS

(前略)
マタイ7章を少しだけ見てみましょう。例となる聖句があります。マタイ7章15節に行きましょう。ここではイエス様が語っておられますが、ヤコブのような話をしておられ、極端なカルバン主義者のようなことは言っておられません。

マタイ7章
15:にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。16:あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17:そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

我々が真にキリストにあるなら良い実を結ぶはずです。悪い実を結ぶはずがありません。イエス様が実を何にたとえようとされているのかといえば、行動、行いです。
言い換えれば、イエス様に従っているのであれば良い行動も生み出さなければならないということです。それらがあなたを救うのではありません。しかし、それらはあなたという木の成長した自然の産物です。興味深いと思いませんか。
これは信仰義認の教義とは全く異なります。一度救われたらずっと救われるという極端なカルバン主義とは。ひどい実ができたらどうするのでしょうか。主はどうされるのか見てみましょう。

18:良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19:良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20:このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。21:わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

「行う」という言葉を聞きましたか。イエス様が言っておられるのは、行動もしなければならないということです。父のみ旨も行わなければならないということです。一度救われたらずっと救われるということではないのです。
信仰だけではありません。信仰は開始点です。それは救われるところであり、サタンの王国から離れるところです。大きなことです。信仰は著しく重要です。しかし、ヤコブの手紙にあるようにそれが全てではありません。行いのない信仰は死んでいます。ヤコブは自分の兄弟であるイェシュア・ハマシア(イエス・キリスト)、つまりイエス様の言葉を繰り返しているのです。興味深くないですか。続けましょう。

22:その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23:そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

つまり良い実を結ぶということはクリスチャンの生活の一部なのです。というのも我々は新しい木となるべきだからです。我々は新しいオリーブの木、新しい命の木に接ぎ木されています。我々は新しい木となって新しい実、良い実を結ぶべきなのです。

私は主に救われたと言って姦淫を犯し、子供を殺し、レイプすることはできません。こうした人たちは左翼であり、救われたクリスチャンだと言おうとしながら、赤ちゃんを殺すことを支持し、小児性愛を合法化してマイナー・アトラクション・シンドロームと呼び、カリフォルニアの小学校ではそれが人の気質だと教えるのです。それは神様の働きではありません。良い木が結んだ実ではありません。なぜそれが共産主義を生み出すでしょうか。なぜ社会主義を生み出すでしょうか。

ですからこうした新しいカルトと新しい運動はみな・・・。そうしたカルトが何を生んでいるかといえば、いつも社会主義を生み出しています。彼らの政治制度を見てください。いつも社会主義を生み出しています。

それが人間の自由の破壊であり、少なくとも人々に対する圧制であるということが分かっています。共産主義の下で最大の大量虐殺がありました。前世紀だけで2億2千万の人々が。世俗的な共産主義。それは狂っています。

しかしお父様の遺産、伝統を見るなら、それは何を生み出しているでしょうか。共産主義や社会主義ではありません。天一国憲法を生み出しているのです。責任感のある市民。武装した市民です。やり方を心得た自立した市民です。実が異なるという話しです。

ところでこれはマタイ5章のすぐ後の話ですが、マタイ5章を手短に見てみましょう。もちろん山上の垂訓です。17節から行きましょう。

17:わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

こうしたこと全て・・・現在の多くの繁栄を目指す教会やメガ・チャーチでは、律法は去ったと言っています。第1コリントの言葉をあれこれ引用するからです。パウロはそう言っていますが、それほど極端ではないのです。

パウロにによる影響もある程度はありますが、現在の大きな教会にいるカルバン主義者や繁栄を教える人たちの一部ほど極端ではありません。
パウロは確かにそれほど極端ではありません。というのもパウロは聖句の中で、改心しなければならない、といったように、心の割礼について語っているからです。

聖書は触発された神様の言葉です。パウロも神様の教えに触発されていますが、カルバン主義のような信仰義認の極端な教義を教えてはいません。彼は人々を悔い改めさせようとしています。まだ異邦人を改心させようとしています。
体は割礼を受けていないかもしれないが、心は割礼を受けて改心するべきであり、良い働きを生み出すべきだと言っています。

しかしそれは、マルキオンの異端もあって時が経つにつれて堕落していきます。信仰だけ、というのが簡単なのです。「私はイエス様に一度告白しましたのでもうおしまいです」と。

「3歳の時に洗礼を受けて、イエス様の名前で罪を告白しました。それで終わりです。罪深いことを何でもできます。姦淫も人殺しも」。それはおかしなことです。

イエス様は救いを失うこともあるのだとおっしゃられています。ちょうどマタイ7章で読んだことです。火に投げ込まれるのです。興味深くはないでしょうか。

(略)

使徒行伝21章の20節から行きましょう。

20:一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。
21:ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
22:どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。
23:ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。
24:この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。・・・

禁酒と一定期間の断食等を誓って、基本的に強い霊的な訓練を受けるということです。そしてその4人の費用も賄いなさいと言っています。自分自身も清めて、4人のための費用も払いなさいということです。興味深い章です。これについて教えられたことはありませんでした。

しかし確かに聖句の中で、ヤコブがパウロに、神様の律法を捨てていないことを証明しなさいと言っていることが分かります。

自分を清めなさいということは、霊的な訓練を受けなさいということです。言わば蕩減条件を捧げるということです。そういうことをやっています。このような異端の教えをしていないと証明するために、蕩減条件の証拠を示すということです。

(24節続きから)そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。
25:異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。

それで初代教会で何が分かるかというと、1番目に血統を重視している点です。プロテスタントの教会やカトリック教会はなぜ血統について教えないのでしょうか。初代教会は血統を大切にしていました。それが1番目、血統です。

韓国語でピッチュルのピッが血であり、チュルが筋(すじ)です。これは初代教会で重視していたことであり、歴史的記録と聖書によって証明されています。というのも、イエス様の兄弟のヤコブは君主だったからです。彼は司教の中の司教です。それにその相続者はイエス様のいとこでした。大使徒ではありませんでした。ペテロでもなく、パウロでもありません。大使徒の誰かでもありません。すごいことだと思いませんか。

もし信仰だけに基づいていたとしたら、大使徒の1人であったはずではないでしょうか。シメオンは小さな人でした。イエス様のいとこでした。広く認められてもいません。どうして彼が次の相続者となるのでしょうか。それはとても大きな問題です。

イエス様は結局教会の鍵をペテロに与えました。ペテロに与えられていたはずです。教会の鍵を与えられていたからです。

2番目に王権です。なぜならイエス様は王の王だからです。イエス様は何だと信じているでしょうか。メシアです。つまり油を注がれた人であり、ダビデの血統であり、預言を成就する人です。王の王が現れて世界の国々を支配するというものです。

その次の順位にあったのが弟のヤコブでした。ヤコブが死に、当時適切な唯一の親せきとして選ばれたのがシメオンでした――ペテロではなく。カトリック教会はペテロを最初の教皇と呼んでいますが。

聖書に書いてあることです。ペテロとパウロはヤコブの下の位置でした。ヤコブの上ではありません。

血統、王権、そして3番目が何かと言うと蕩減条件です。あるいは条件としての供え物です。
これも生きたものでした。パウロは救われていたと思っていましたが、なぜそうしたのでしょうか。なぜ頭を剃りに行って、ナジルの誓いをした4人のための費用を支払うのでしょうか。一度救われたらずっと救われるのだと思っていましたが、なぜそうしたことを全てしなければならないのでしょうか。
この1つの章だけ見てもそれが完全に矛盾しているということが分かるでしょうか。一度救われたらずっと救われるという教義が、全くの悪魔的な偽の教義だということが分かるのです。それは嘘です。

(略)

我々は人の行いだけに感銘を受けることはできません。信仰も必要なのです。信仰を持ち、行いもある、それが神様に対して素晴らしいことです。しかしもちろん我々は、パリサイ人にもなってはいけないし、極端なカルバン主義者になってもいけないのです。

我々は信仰と行いの両方を評価すべきです――聖霊のような、鳩の両翼のように。片方だけだとヒューっと。うまく飛ぶには両方が必要なのです。両翼が必要であり、両翼を評価するように、信仰と実の両方を評価するのです。
実だけ、信仰だけを評価しないでください。さもないとこちらやあちらにヒューっと。
25節からヤコブはもう1つの例を挙げています。いっしょに読みましょう。

25:同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
26: 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

ここでは信仰に対して体、行いに対して霊を類比しています。それに対して普通、教会では反対の話を聞きます。普通我々は霊的なことが信仰であって、体のことが行動だと考えます。興味深いことに反対なのです。
ヤコブは体のことが信仰であり、霊的なことが行いだと言っているようです。
しかし、先ほどと同じようにただ行動だけの崇拝者になればいいと言っているのではありません。それは片翼の鳩のようなものだからです。両翼が必要です。信仰はとても重要です。行いもまた重要なことです。飛ぶためには両方が必要です。

いつも行動だけのパリサイ人になってもいけません。ここにはアジア人が多いのでそういう傾向があります。

ただ行動だけということではいけません。信仰がとても重要です。お父様の言われたことをしました――それでお父様に対する信仰を持っているのかというのです。

家庭詐欺連合の多くの人は命令されたことをやったと言います。しかし信仰を失いました。心の中では韓オモニのように復讐に燃える憎しみを抱えています。彼女はお父様がやるように言われたことをたくさん行いました。もちろん原理をよく吟味はしませんでしたが。しかし、内的に信仰を失いました。それも悲惨なことです。

ですからパリサイ人になってはいけません。何回これをやったとか。それは悪い文化です。自慢してはいけません。自分がどれほどたくさん条件をやったかは関係ありません。重要なのは神様のためであるということです。見せびらかすことではないのです。

ヤコブは極端な行動主義者で、パウロは極端な信仰主義者かといえば、そうではありません。ヤコブは特に両方が必要だと言っています。パウロも道徳的になるべきであり、性的不道徳を止めるべきであると言っています。コロサイ人の手紙の中で、多くの章で異邦人に姦淫を止めなさいと言っています。心に割礼を受けたら変わるべきだと言っています。

パウロはカルバンやこういう人たちが作ったパウロ像ほど極端ではありません。というのもパウロは、自らの多くの記述の中で道徳的であるべきだと言っているからです。

彼らは都合のいい部分を選別してもっとグノーシス主義的に見えるように、信仰義認的に見えるようにしています。そういう駆け引きをしています。しかし、イエス様を見て、ヤコブを見て、それからパウロを見れば納得できます。パウロが極端なカルバン主義者でないことが分かります。彼は極端な信仰義認的教義を教えていないのです。

信仰をより強調しているのは、新しく来た異教徒コミュニティの対応をしているためです。信仰は強調しても、何でもやりたいようにしなさいとは言っていません。姦淫しなさいとは言っておらず、何度もそうした行為を止めるように言っています。
初代教会では、現代のプロテスタント主義やカルバン主義、ルター主義を教えていないということです。初代教会は原理を教えています。それが初代教会の教えていること――血統、王権、(蕩減)条件です。

5パーセントの責任分担――それは原理で大きな問題です。お父様は主要な預言書と摂理歴史上の中心人物を全て分析されました。何によってかといえば、5パーセントの責任分担です。

アダムの5パーセント、エバの5パーセント、ノアの5パーセント、モーセの5パーセント・・・原理は常に5パーセントのことを言っています。
彼らは信仰を持ち、神様が95パーセントを行っておられるので、みなさんは実体として100パーセントになるように行わなければなりません。実体を作り出さなければなりません。

これが全てを通して絶えず原理で注釈されていることです。責任分担は重要です。一度救われたらずっと救われるからもう責任はないので、勝手気ままにして罪を犯しなさいということではないのです。それがどれほどばかげたことが分かりますか。若者にとってそれがどれほど破壊をもたらすものか考えてみてください。人生がめちゃくちゃになります。男の子はホルモンの影響でものすごく性的に敏感です。すぐにサタン主義に陥ってしまいます。
教会の聖職者のことを考えてみてください。それが教えられたらどうなるかを。残念ながら実際そうなっていますが。――ばかげています。子供たちを破滅へと導き、完全に神様から引き離しているのです。

少なくとも神様がそういうことを嫌っておられることを伝えるべきです。非常に多くの教会ではその話を聞くこともできません。しかもデートをさせています。ばかげた話です。

ヤコブの初代教会はイエス・キリストを代表しており、マタイ5章、6章、7章の山上の垂訓からそれが分かります。イエス様が信仰と行いの両方をどれほど強調しておられるかが分かるのです。

極端なルター主義やカルバン主義ではありません。ですからもう一度言いますが、初期の原始教会では現代のプロテスタント主義やルター主義、カルバン主義を教えていません。初代教会は原理を教えています。

責任分担を教え、条件を教え、神様に喜びをもたらすことを教え、王権を教えています。現代の教会で誰が王権を教えているでしょうか。血統について誰が話しているでしょうか。誰もいません。
イエス様の死後、イエス様の血統圏がリーダーであったという歴史的な証拠があります。これは新しい本で明らかにしていることです。この本では、初期のキリスト教がイエス様と文鮮明師の教会のようであったという、この歴史的事実も明らかにしています。

私がまたこう言わなければならないのは、危険があるかもしれないからです。「王様はヤコブと行いを強調した」(と言うかもしれません)――しかし私は信仰も強調しています。聞いていますか。

信仰は悪いものだから行いだけにしよう――それではパリサイ人になってしまいます。それも止めてください。2つの脚、2つの腕、2つの目を持っています。片目だけでいいと思いますか。イエス様は片目でも天国に入った方がいいとおっしゃってはいますが。(笑)しかしそれは理想的ではありません。その方がいいということには賛成ですが理想的ではありません。理想的には両目があった方がいいです。

私がヤコブの話をしているからといって、パリサイ人になるべきだということではありません。彼らは互いを比較し合います。私はあなたよりもっとやっている、というように。我々はお互いに寛容であるべきです。
神様は我々に、「臆する霊」ではなく、「力と愛と慎みとの霊」に満たされると言っておられます。
ですからこうしたことを私が説教で話しているからといって、サンクチュアリはパリサイ派になるわけではありません。

(略)

我々はヤコブを高く評価できます。パウロの手紙も高く評価できます。パウロの手紙を捨ててしまう必要はありません。逆の結論を下すことも逆の間違いを犯すこともできません。ヤコブのことは守らなければなりませんが、パウロのことを全て捨ててしまうということではないのです。パウロを捨て去ることはできません。

パウロはとても重要です。彼はカルバンやルターのように教えてはいません。彼は強い信仰を教えながら、不道徳にならないよう教えており、カルバンのようには教えていません。混乱してはいけません。依然としてパウロの手紙に触発されるべきです。ヤコブにもイエス様の言葉にも触発されるべきです。どれも捨てる必要はありません。しかしやはり、パリサイ人になってはいけません。

(略)

ヤコブはある章の中で忍耐について多く語っています。第3章全体では言葉が破壊につながるという話をしています。我々は多くの場合にバカなことを叫んで、誰かの信仰が築き上げられようとしているのに、うるさく小言を言って彼らの信仰を傷つけてしまうことがあります。忍耐せずに、お母さんたちが子供にこういうことをしてしまうことが多くあります。小言は特に男性を損なう可能性があります。忍耐を持ってください。2週間前よりは、2カ月前よりは良くなっているのですから。彼も努力しています。
しかし同時に、何も言わず、全く叱らないというのもいけません。バランスを持つということです。

信仰と行い、両方を一緒に、羽の生えた輝く鳥の翼のように。それが聖書の示していることです。両方を高く評価することができます。お互いに信仰と行いを持ち続けましょう。信仰と行いです。
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《聖霊役事は贖罪精誠が重要です。感謝できる方のみお問い合わせ下さい。

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