プロテスタントよ、イエスの弟ヤコブの手紙に帰れ!
今後聖殿が世のキリスト教会に受け入れられるようになる革命核心的神学となるでしょう。
<全文>
こんにちは、食口の皆様。今日は天一宮で礼拝をすることになります。特に新しい本の編集が私達の方は仕上り、専門家の方に行き、今日は仕上げの日なので、天一宮で礼拝をするようになりました。
今回、NRAショーに行って、多くの役事があったのですが、NRAショーを見てみましょう。インスタグラムに入って、NRAショーで、米国銃器所有協会、最も大きな銃器所有協会ですが、そこで多くの銃器所有のアベル圏キリスト教徒と会って、良い内容だけでなく、多くの有名な方と会うことができました。
この写真を見たら、國進兄さんが大きな社長たちと、中間はスタジアムを持っていらっしゃる社長、黒人の方は軍隊において高い将軍のような次元にいらっしゃった方、そのような良い方に会って、その次に、
特殊部隊の方にも会って、
警察長にも会って、
初めてNRAショーでこの銃弾の、鉄の杖王冠をかぶって回りました。本当に、これをかぶって回るから、全スタジアムにいる人たちが見るのです。どこに行っても見るのです。大変衝撃的な内容なので、ある人が見て、「わあ!かっこいい!」と言いながら、多くの人達はそれを見ながら(私が誰か)分かることができたでしょう。バイスドキュメンタリーや色々なドキュメンタリーで、お父様の代身者、後継者、相続者という内容をわかりながら一緒に写真を撮りました。
土曜日の10時に本のサイン会をしたのですが、そのサイン会で216冊(の本が)あったのですが、45分でなくなりました。多くの人がそんなに早く、「鉄の杖の王国」の本を読みたいという人がそんなに多いとは誰も知りませんでした。前回行ったときは1時間くらいで70冊が出ましたが、今回は3倍がもっと早く、216冊がそんなに早くなくなりました。これは、多くの方が銃器所有を聖書的に理解できる要素と願いが起こってきたのです。
NRAショーは最も多くの銃器所有が集まるところになるので、多くの方に会って、多くのアベル圏キリスト教徒と一緒に会うことができました。私達は何日間か外でずっと雨に降られて作業したので皆風邪をひきましたが、継続して戦って出ていきました。次!
これは私達聖殿食口たち、シカゴから来られた方です。
これは有名な、銃器所有の女性コミュニティーで有名なオリン・ジュリー、大変大きな方です、女性たちの中で。次。
カーアームスのブースで、展示場で有名なトミーガンを持って、次、
見えるでしょう?(銃弾の)王冠をかぶって今回初めて回りました。
ですので、人たちは衝撃を受けて、関心を持って多くの人がこんなに・・・、こんなに多くの人に見られたのは初めてです。本当に驚きました。違いが、これをかぶったときとかぶらないときと驚くほど違いが有りました。
それほどアベル圏のキリスト教徒は、所有権と銃器所有の根が神様から来くるものなので、所有権の根は神様からくるもので、人権権利も神様から来るのです。ですから、王冠の所有権と王冠の内容に初めて接するそのようなNRAショーでした。次。
有名な女性たち、次、
この方たちは、私達のファン(の方)です。「サインしてくださ」いと、「バイスドキュメンタリーで見ました」と、「それは大変良かったです。一緒に写真を撮ってくれませんか?」と、ファンの方たちと写真を撮りました。完全に良いアベル圏のキリスト教徒と会うことができ、今や私達がお父様を証しして、鉄の杖の王国について話したら、すごく良いと言います。
この方も有名なユーチューブを運営しておられる方です。次。
皆さん、この方がどなたですか?トランプ大統領の一番目の息子です。
なんと、私達は土曜日の10時に本のサイン会の準備をしていたのですが、見上げたらトランプ大統領の息子がそこに立っていたのです。本当は日曜日にサイン会を選択することもできたのですが、私が「早く、土曜日の10時にしよう」と言ったのです。
誰も分からなかったのですが、土曜日の10時に本のサイン会をすることになったので、ドナルド・トランプ大統領が一番信じられる、育てている息子、おそらく次の大統領になるだろう方です。この方が初めてカーアームスの展示場に来て、初めて会ったのですが、國進兄さんも会えませんでした。
この方が普通の服で入ってこられたので、誰も分からなかったのですが、私が(顔を上げた時)「お!ドナルド・トランプ・ジュニア!」、名前もドナルド・トランプ・ジュニアです。それで、國進兄さんのところに急いで行って「國進兄さん、早く来て!早く来て!ドナルド・トランプ・ジュニアです!」と國進兄さんを呼んで、國進兄さんも驚いて来て、私達はドナルド・トランプ・ジュニア、大統領が育てている息子と一緒に写真を撮りました。
それだけでなく、お父様の三代王権とカインとアベルの摂理的立場で、お父様と三代王権とカインとアベルがトランプ大統領王家の一番目の息子と会うことができた、そのような理的瞬間です。これは大変重要な摂理的瞬間です。
エリック・トランプとも(以前)会いましたが、今やドナルド・トランプ・ジュニアまで、肩組みしながら、そのように良い時間を分かち合いながら、関係が深くなりました。そして、私達のほうでもドナルド・トランプ・ジュニアに色々と送り、「鉄の杖の王国」の本も送ることになるでしょう。アジュ!拍手!
それが最も驚くべきことでした。ドナルド・トランプ・ジュニアに会ったという事実。それは誰も想像もできなかったでしょ。ドナルド・トランプ・ジュニアが初めてカーアームスのブースに来て、それほどトランプは銃を好きです。次。
この方も、行ったり来たりしていたら、「バイスドキュメンタリーを見たよ!ショーンムーン牧師じゃないですか!?」といいながら写真を撮りました。次。
この方は、ティッグ特殊部隊、私の娘と写真を撮りました。
この方は、米国の英雄です。とても重要な方ですが、鉄の杖の祝祭にも来られると思います。
この方は海軍の女性ですが、綺麗なので、(陸)軍隊と海軍のマーケティング(広報)を任されるようになりました。この方達がカーアームブースに来て、本のサインと写真のサインをしました。次。
この女性はモデルで、海軍の出身。次。
有名な銃器所有のユーチューバー。次。
ですから、皆さんも御存知のように勇敢に、多くのキリスト教徒の前で、初めて王冠をかぶって回りました。それは大変緊張する内容でしたが、お父様の聖霊の力で私達に勇気を見せてくださり、それをしたので大変多くの人に会うことができるようになり、大変多くの人を見て、お父様の三代王権はここにあるという事実を分かることができました。次。
アンディ・ヘレは私達の友達。次。
ここでも王冠をかぶっているでしょ?次。
有名な銃器所有の女性。次。
このように王冠をかぶって回りました。だから、完全に狂った人のように、銃弾の王冠をかぶって歩き回る人、そういう格好の人はいないわけです。歩いていたらすべての人が振り返って見るのです。そうでしょ?オンマ(ヨナニム)。オンマも見たでしょ?次。
ビデオに行きましょう。12時間運転して、到着するやいなやこんな感じです。完全に洪水。暴雨。終わりのない暴雨。次。
これを見て。水筒にどれほど雨水が早く溜まっているか。
12時間運転したのですが、到着するやいなやこうだから、皆、風邪を引いたようです。数日間こんな感じだったので。日が出た日も寒かったね。二日目は日が出たけど寒かった。すごく寒かった。思ったよりも。だからオンマもイモ(王妃様のお姉さん)も風邪を引いてしまった。
とにかく、このような驚くべき役事を通しながら、お父様を証しすることができ、鉄の杖の王国と聖書の内容を市民に教えながら、多くの人と会って、216冊が45分でさっと無くなったので、次は600冊くらい持っていかなければならないね。
(前回よりも)3倍多く持っていったのに、(前回よりも)もっと早くなくなった。だから、次は600冊持っていかないといけないね。400冊から600冊、持っていかないといけない。
とにかく、全てお父様の恩恵恩賜によってこのような驚くべき役事を通しながら、私達が多くの人を見つけて連結することができました。
聖殿はヤコブの手紙、イエスの弟ヤコブの教会
②27:09~37:18↓↓翻訳minion
さあ、そのような内容を通しながら私達はここで、ヤコブの手紙2章。ヤコブの手紙はとても不思議ですね。ヤコブの手紙ですが英語ではジェームズ(James)です。ジェームズ。ヤコブはヤコブとどうして書くのか?ヤコブはジェーコブ(jacob)ではないの?ジェイコブはどうしてヤコブなのか、それなにのどうしてヤコブ、ヤコブがどうなったのか?それがどうしてジェームスになったのか?
とにかく、ジェームズは皆さんご存知のように、ヤコブは誰ですか?イエス様の弟です、弟。そうであるので私達は今、「鉄の杖の王国」という大事な本を書いているのですが、その内容を見てみると初期キリスト教において、パウロもヤコブの前に従わなければなりません。
パウロとペテロ、カトリックはペテロが最初の教皇だと言いますね。ローマの教皇。しかし、ペテロとパウロはヤコブの御言を聞いていました。
また、パウロが色々なところから献金を集めて再びエルサレムに持ってきた時、まずヤコブに報告しなければなりませんでした。それほどヤコブはイエス様の弟として、それほど多くの忠義と尊敬と崇敬を受けていたのです。
(王妃様:腹違いの弟ですね?)腹違いの弟。うん。half brother。(注:異父兄弟など、諸説あり、参考:イエスの兄弟)
(注:キリスト教会では諸説がある。単なる勘違いかもしれないが発言通りの訳。異父兄弟説もある。)
(注:キリスト教会では諸説がある。単なる勘違いかもしれないが発言通りの訳。異父兄弟説もある。)
ですから、イエス様に連結された・・・、もちろんヤコブは殺されます。そのようなストーリーでアナナスというパリサイ人の嫉妬によって。ヤコブは全てのエルサレムの市民たち、ユダヤ人もヤコブを尊敬しました。尊敬し、アナナスというパリサイ人が祭司長でした。
その人がヤコブに嫉妬してヤコブを亡くそうとしたのですが、市民たちが反対してヤコブを助けました。市民たちが。その嫉妬によって一度ヤコブは脱出したのですが、アナナス祭司長がヤクザと一緒に来てヤコブを石で殺します。
ですから、それほど早くイエス様の親族を、ヤコブはイエス様の親族でしたね?ヤコブは死にました。その後は教会はイエス様のおじさんから出てきた甥を立てました。そして、トラヤヌス皇帝(Caesar Trajanus )の時にイエス様の全ての親族を殺しました。その時からイエス様の血統に繋がっているキリスト教の指導者は皆いなくなりました。
しかし、不思議なことに初期キリスト教はイエス様の血筋、親戚と連結しながら血統を通して教会を立てようとしました。これは驚くべきことです。なぜなら、今のカトリックとプロテスタントを見てみると、親族、血筋こういうことが一つもありません。そうですね?オンマ。
しかし、初期のキリスト教を見てみるとヤコブを通して初期キリスト教はイエス様の血統を中心として教皇を立てたということなのです。ヤコブはペテロよりもパウロよりも尊敬を受けました。その人たちがヤコブの前に従順にならなければならない立場だったということです。本に出てきます。新しい本に全て出てくるのですが、ヤコブはイエス様のみ言葉にとても近いのです。
パウロは特に極端な信仰を通して、信仰を通して救われると言います。そうして、それが継続して行って、ジャン・カルヴァンというプロテスタント教徒がなんと言いましたか?「一度救いを受けたら永遠に救われる。」
ですから、どうなりましたか?倫理的に悪くなりました。数千回浮気しても、数千回姦通しても、数千回処女とセックスしても、数千回殺人しても、一度救いを受けたら永遠だ。これは話しになりません。
しかし、ヤコブの手紙には何と書いてありますか?一度救いを受けても継続して救われるのではありません。ヤコブの手紙に出てきます。
ですから、マルティン・ルターも、ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)と言いながら、ソラ・フィデとは何ですか?信仰のみによって救いを受けると言いました。マルティン・ルターは誰をそんなに憎んだのか?聖書に出てくるヤコブ、ヤコブの手紙をそれほどに憎んで、自分の全ての聖書からヤコブの手紙を破り捨ててしまいました。マルティン・ルターが。それをオンマ(ヨナニム)知らなかったね?それほどマルティン・ルターはヤコブの手紙を嫌いました。なぜ?ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)の内容を教えているから。信仰のみによって。
しかし、ヤコブは何と言いましたか?信仰だけでは駄目だ。行動も変えなければならない。行動も。ヤコブの手紙の有名な2章14節でこのように言っています。
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
信仰だけでは駄目だ。信仰は一つで、行動が行いがなければ、倫理的行動がなければ、その信仰は偽物だと言う内容が出てきます。これ故にマルティン・ルターがヤコブ(の手紙)をこれほど嫌ったのです。
しかし、ヤコブは誰だったか?ヤコブは最初の教会の、イエス様が亡くなられてから教会の王でした、王。歴史を見たら、ヤコブは王冠もかぶりました。
ですから、初期のキリスト教、イエス様が亡くなられてすぐのキリスト教は王冠と王家を中心としたキリスト教でした。驚きですね!?驚きませんか!?これは驚くべき発見です!驚きです!これは次の本に出てきます。このような内容が。
全世界のキリスト教はこの現実を知りません。ドクター・ポール・ウイリアムズと一緒に次の本を出しますが、今、私達は一日中900頁全て見て編集しなければなりません。昨日も訓練できなくて、今日も訓練できなくて、一日中家の中で一緒に居て、早く編集を終わらせなければならいから、鉄の杖の祭典の時、この本を、編集だけでなく出版しなければならないから、ニューヨーク・タイムズのベストセラーにしなければならないから、この本のとても重要な部分です。大変重要な部分です。
ところで、この本を中心としてヤコブの手紙だけでなく、初期のキリスト教だけでなく、全体的内容を通して見ます。出エジプト記からモーセ、アブラハム、神様の役事、旧約聖書に出てくる神様、新約聖書に出てくるイエス様、そのような内容を詳しく見るようになります。
そのような内容を通して、今やどうしてキリスト教は鉄の杖の王国に入らなければならないかという事実を見るようになります。そして多くの内容を見るようになります。私が。大変深く入っていきます。多くの歴史的資料と歴史的な研究を通しながら、とんでもなく学術的な本です。ものすごい研究が入っているということです。
ですから、この内容を通しながらどうして神様は鉄の杖の王国を準備されたのか、どうして私達はキリスト教徒として、キリストに従い信じる者として、信仰だけでなく、どうして行いが重要なのか、行いを通しながら私達の救いがなされると、ここに出てきます。
ヤコブの手紙2章14節から見てみましょう。
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
見てみなさい。その信仰が自分を救うことができるのか?信仰だけでは駄目です。信仰を通しながら聖霊が臨まれることをもって、私達は行いを変えなければなりません。行いを変えなければなりません。
次!
(ヤコブの手紙)
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
死んだものです。
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
見ましたか? 行いによって、行動で私の信仰を見せてあげるのです。行動でキリストに対する信仰を見せるのです。
特にヤコブの手紙に出て来るのは誰ですか?孤児と未亡人たち。この人たちを特に愛さなければいけないと出ているのです。未亡人と孤児。
次。
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
悪霊どもも。次。
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
全うされたとはどういうことですか?行いによって信仰が全うされたというのです。
本当の信仰とは、お父様は何とおっしゃいましたか?
絶対信仰、それは信じる事でしょう。絶対愛、絶対服従。絶対信仰は信じる事でしょう。信仰は絶対愛になり、主を愛するゆえに服従する様になるのでしょう。
連結されているのです。
次。
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
信仰だけによるのではない。
ですから全てのクリスチャン達は聖書を言葉そのまま信じなければいけないのに...
ですからマルティン・ルターはこれをあれほど嫌ったということなのです。ヤコブをそれほど嫌ったのです。どういうことかというと、行いも行動も信仰と共に行かなければならないということなのです。
行動がなければ、行いがなければ、その信仰は偽りだという意味です。
その部分が、信仰によってのみ救いがあるという事ではないという内容が出て来ます。
2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
ですから極端的なパウロの考えはどうなるかと言うと、信仰によってのみ救いを受けることになれば、そして一度救いを受けたのなら、カルヴァンの様に一度救いを受けたら永遠に救いを受けたということになれば、それではあらゆる罪を積むことができるということです。
女と遊び姦通し、何人かの男同士ホモセックスし、動物とセックスする、このような罪を犯しても、どっちみち信仰で救いを受けたのだから、全て救いを受けるということなのです。そうですね。ですからどのように言うかというと、極端的なパウロの信仰を中心とした神学はどうなるかと言うと、非倫理的内容になります。
パウロはいつもこの問題によって教会と戦うのです。懲らしめるのです。教会を。ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)は駄目です。信仰だけではだめです。信仰、私たちの絶対信仰は絶対愛に変わらなければなりません。(愛に)行かなければいけないでしょう。愛は服従に行かなければいけません。
このような内容で、人はより主のイメージに近づけるのに、マルティン・ルターの様な場合は、呆れたことに、そのような研究をポール・ウイリアム博士がしたのですが、マルティン・ルターはそのように言ったそうです。
マルティン・ルターはそのような極端的な信仰で救いを受けると言いながら、だから「あなたは良き牧師になるためには罪を積まなければならない」と言ったということなのです。そのように言ったのです。マルティン・ルターは罪を積まなければならないと。
ですから「酒、女遊び、姦通を数千万回しても、キリストの十字架パワーは私たちを救う」と、このように言ったのです。
ですからマルティン・ルターは、そんなにもヤコブの手紙を嫌い、自分の聖書にある神様の御言であるのに、神様の御言であると信じなければいけないのに、それを全部抜いてしまったのです。破ってしまった。それが何が信仰と言えるのか?。そうだろう?話にならないだろう?
ですから、事実マルティン・ルターの信仰は、信仰と行動、という事を分離したため、マルキオン(Marcion:マルシオン:100年?-160年?)異端の様に全てのキリスト教、プロテスタントのキリスト教徒達にそういう内容が入っているでしょう。信仰だけが、信仰のみが、信仰のみが。
神様の律法と神様の約束をその様に厳しく深刻に守る事。
その歴史的なイエス様と分離したということなのです。そうして多くの人々が今では信仰だけが、信仰だけが(と言うのです)。
信仰は最初の段階であり、終わりの部分ではないのです。
ローマ人への手紙
10:9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
ローマ人の手紙10章でイエス様を自分の口で証すなら、悔い改めて証しするなら、救われるという内容がたくさん出て来ますが、その救いを通して行いがなければ、それは救いではないという事が、ここヤコブの手紙に出ています。
だから行いがとても重要です。
私たちは神様を愛し、隣人を愛せよと言葉だけではだめで、嫌で不快に感じ辛くても行いをしなければいけないということです。訓練をしなければならないということです。訓練が嫌でやりたくなくて訓練でケガをしても、皆が一般市民を保護するために、弱い人々を保護するために、訓練しなければいけないということなのです。行動もしないといけないということなのです。行動。自由と責任。
このヤコブの手紙に出て来る内容はとても驚くことは何かと言うと、ヤコブはまず最初の教皇でした。教会の。オンマ驚いたでしょう?
そして血筋を中心とした教会。そしてその教皇ヤコブは一世紀に王冠を被りました。王冠。
だからドクター ポール・ウイリアム博士は私たちを見て、王冠をかぶって再臨主を信じ仕えているので「わあ、あなたたちは本当にヤコブの教会だ、ヤコブの教会だ。」と言うのです。パウロの教会でなくヤコブの教会。
これも見てみれば、行いもとても重要なことなのです。一度読んでみましょう。マタイ福音書5章3節から。
(ヨナ王妃:マタイ福音書5章3節から読みます。)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
ストップ、こころの貧しい人、天国は彼らのものである、次。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
ストップ。はい、これで見えますね。全く不思議なことはヤコブ書にも特別に貧しい人と裕福な者達、このような大型教会で出てくる裕福な者達だけでなく、彼らによくしたらいけないということが出ます、2章で。それで、見て、2章、2章にも、一度読んでみよう。ヤコブへの手紙2章1節から。
(妍雅王妃:ヤコブ書2章1節です。)
2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
ストップ。貧しい、何だ、「こころの貧しい人たち」「信仰で富ませ」「神様の王国の相続者とされた」という言葉が出て来ますね。でしょう?5節で。だから、ここでも、私たちはただ裕福な者達だけ好んではいけないということが出ます。このような文化がとても重要です、教会の中で。
これは事実、平和軍警察の文化だろ。裕福な者でも貧しい人でもその訓練場、道場に入れば、その人達は私たちの兄弟姉妹でしょう。そうだね?そして彼らと共に血も流し、汗も流し、転がり、一緒に戦い、そうしながら、私たちは兄弟姉妹になるのです。
私たちはお父様の王家の中で暮らしながら、ただエリート、ハーバード、このような人達と一緒にいたことがよくなれば、それは堕落してしまいます。私の場合、ハーバード、このようなところへ行きましたが、幼い年からこのような恐ろしい戦いの格闘技の道場に続けて通ったから、貧しい人たちも愛しました、私は。
何故?その人達、兄弟たちと一緒に戦い、訓練し、実践の武道を学ぶから。
このような心がとても重要なことです。だから私たちの3代王と若い奴らも自分の体を使って仕事をする人達、それを労働者といいますね、韓国人達は。韓国人達はとても低く差別しますね。たくさん差別するでしょう。
神様はどのように仰いますか。そのような人達、裕福な者達、服をよく着る人達とそのような労働者達を、そのように差別したらいけない、それは悪いことだ、それは良くない心、良くない心情、良くない態度です。
何故?本当に戦わなければならないなら、本当に暴君達が起きて、私たちが戦争で戦わなければならないときに、労働者達が大部分戦うことでしょう。裕福な者達、服をよく着る人達は戦わないだろう。
もちろん二つとも一緒に、アメリカ創始者の父のように、建国の父と共に貧しい人と一緒に戦ったことが最高ですよね。支援もしてあげて。
ところで皆共に、私たちは神様の王国のために、保護するために、神様を愛するために、隣人を愛するために、私たちも隣人のために死のう。その隣人は服をよく着ていなくても、その横にいる人が服をよく着ていなくても、私たちはその人のために、その人を保護する人になるだろう。
その言葉は馬鹿になれという言葉ではありませんね。何故なら、服をよく着る人も性暴行者になることもあり、服をよく着ない人も性暴行者、悪い奴になることもありますね。二つとも。人を見て善と悪の判断できるように分からなければならないが、しかし、ただ服で外見だけ見て判断してはいけないと、ヤコブの手紙に出てくるではないですか。
何故?貧しい人達に、何だ?「こころの貧しい人たちが天国を相続するだろう。」とマタイ福音書5章で出ますね。それこそ同じように「こころの貧しい人たちを信仰で富ませ神様の相続者とされた。」このように出ます、ここに。
ある時においては、富んでいる人達は信仰と神様のために戦うことができません、たくさん。その富を保護するために。
ところが、ある時こころの貧しい人達、何もない人達は信仰に火が付けば、聖霊の火が付けば、ただ狂ったように人々の救援の役事が参与することができるように走るでしょう。何故?そのような自分が掴んでいる内容があまりないから。
それこそヤコブの手紙で出てくることが、ただ信仰ではダメだ、行動しなければならない、また、行動でお前は大きく差別してはいけない。神様の教会から来る人は皆、感謝、ありがたい方達だ。尊い方々だ。神様を追求して、神様のことを知りたい人達は尊い方々だ。ただ裕福な者達によくして、貧しい兄弟姉妹によくしないのはいけない。
私たちは愛の道で私たちはお互いに個人的に個人の選択でお互いに保護し、お互いに共に戦い出ることができる、そのような内容だ、ということが出ています。
そのために、このような部分を見ればイエス様のみ言とヤコブに出てくる言葉はとても似ています、多くの部分が。イエス様も悪の根は、何と言われましたか?お金の偶像崇拝だ、the love have money お金を愛すること、神様として愛すること、これは偶像崇拝、これは悪の根だということです、根!
だから、私の妻がいつも「お金がない。お金がない。」と自分の両親もそういうから、自分でも知らないうちにお金、お金、お金を稼がなきゃいけないとそればかり考えたそうです。だから、あるとき、私が「お金がない。」と言ったら、「そんなこと言わない!」でと言われました。それを子供たちが聞くと、子供たちも自分も知らないうちにお金を偶像崇拝してしまいます。お金、お金を稼ぐこと、それだけ考えるようになります。
なぜか、お母さんが、お父さんが、いつも「お金がない。」というからです。反対に、お金がたくさんなくても、神様を讃美し、自分がきつくても、神様の富を侵攻の富を考えながら、神様の王国の相続者になろうと考え、そのように肯定的に心の富を考え生きるお父さんお母さんがいるだけで、子供たちがお金に執着する可能性は低くなります。
もちろんそのようなお金の偶像崇拝をするようになるのは普通です。社会がいつもお金の偶像崇拝をするから。しかし、お父さんお母さんを愛し、面倒を見たいと考える子供たちは、そのようなお父さんお母さんを見ながら、自分の心の中にある主との関係の中にある富を考えながら、前に進んでいくパワーを学びます。
しかし、私たちはヤコブへの手紙の中に見ることができます。ただ信仰によってのみ、救われるのではないと言うことです。この中でヤコブの手紙で言っていることは、国、国家の次元で、中央政府を作り、市民の税金を盗んでいき、貧しい人を助けるふりをして、政治家が盗んでいく内容ではなく、個人が、全ての人が神様が愛する人たちが、自分が信仰があると言うならば、自分の行動で、自分の自由意思での選択で、神様を愛し、隣人を愛さなければならない(ということです)。自由選択で。
そのような自由選択を通して、自分が国を守る人になり、愛国者になるのです。慈悲のある人になり、悪と戦う人になれるのです。不思議なことにヤコブへの手紙に出ているように、信仰だけではだめで、行動も重要です。行うこと。私たちはただ、信仰で平和軍警察をすることはできません。鉄の杖で、信仰のみではなく、行いでしなければなりません。他の国の人々が鉄の杖の銃器所有をすることができるように。行いが必要です。
今回シンガポールから、国家メディアがきます。二週間前に連絡がありました。ブラジルからもドキュメンタリーチームが来ます、なぜか。知りたいからです。お父様の後継者、相続者、代身者、二代王を通して、神様の王国、聖書の内容に対して学ぶことができます。もちろん左派言論が、私を狂ったやつだと言いますが、聞く耳がある人は聞くのです。聞く人は聞きます。自由と責任の王国に関して、たくさんの人が見るのです。
驚くべきことです。初期キリスト教で、初教会はヤコブが導いたのです。ペテロとパウロよりももっと高い位置です。イエスの血統だから。この方はイエス様のように、極端に信仰によってだけではなく、信仰と行動。
多くのプロテスタントの人たちは、イエス様は聖霊が来たあと、イエス様の全てのみ言葉や教えが終わってしまった。そのようにして、信仰によってのみ役事がなされたというのではいけないのです。ヤコブの手紙はいつ書かれたか、使徒行伝のあと、聖霊が下りてきた後に、ペンテコステが起こった後にヤコブは書きました。それはどういうことかというと、イエス様の説教の内容、孤児を世話すること、寡婦を世話することをやめるのではなく、私たちが行動で示さなければならないのです。不思議でしょう?オンマ。これはわたしたちの信仰と行いによるものです。
お父さんが子供を捨てた家庭がここにあります。その子供たちは平和軍警察の訓練をしながら、その息子は完全に別人のようになりました。その子たちは、事実上孤児だったのです。お父さんが自分たちを捨てたから。女性と逃げて行ったから。その子のお母さんは一人でいました。しかし、自分の子供たちを訓練しながら、子供たちがそれほど、絶望の中にあり、悲惨な状況にあったのですが、肯定的に変わっていくのを見て、これは聖霊の役事ですね。
お父様の三代王権を通して、お父様の後継者、相続者、代身者として私の信仰だけでなく行いで、子供たちを訓練し、人生を変えたのです。私がしたからではなく、お父様が能力を見せて下さったのです。その信仰と行動で、そのような孤児を育てられたのです。今では完全に別人になりました。武道も上手です。このような子供たちがいます。これは子供たちに魚を一匹投げてあげるよりも、釣りをする方法を教えてあげる方がいいのです。聖書ではそのように言っています。私たちは隣人を愛したければ、その人に対し釣りの方法を教えてあげなければなりません。ただ魚をあげるだけではだめなのです。能力を見せてあげなければなりません。才能を育てなければいけません。
ここにいる平和軍警察の訓練をしている子供たちは才能がたくさん開きました。その若さで。たくさんの才能が開きました。二代王の訓練を受けて。神様が、私にそのような才能を与えました。その内容を通して、子供たちの人生を変えるのです。孤児たちを。寡婦を。子供たちが成長する姿を見て寡婦たちはどれほど感謝するか分かりません。未来には祝福も受けられるし。
その内容として、 ヤコブの手紙に出てくるのはただ信仰だけではありません。 それはただ自由ではないですか。自由と責任が出てこなければなりません。 信仰がただ自由であれば 、自由選択であれば、責任の部分は、信仰の部分が自由の部分であれば、行いは責任です。 どういう話かわかりますね。
自由と責任がありますね、天一国には。 信仰と行いがあります。自由と責任、信仰と行い 。 不思議ですね、これは。
信仰は自由を象徴し、 行いは責任を象徴します。 そうですね。それも不思議ですね。
その内容を通しながら、 天一国の国民はただ信じることだけではなく、 自由があるだけではなく、責任もあります。責任、行動も行います。行い。
真実の行いとは何でしょうか?鉄の杖の王国では平和軍警察 、隣人を愛する 保護することができる 警察軍の心。
ヨハネによる福音書18章に出てくる自分の命をかけて死ぬことができる愛。他の人のために。
その愛が最も偉大であるとイエス様は言われました。 そのような愛を実践するために、 平和軍警察が責任を持つのです。平和軍警察の責任。平和組警察はただ自由ではありません。自由は多いですが責任もあります。信仰もありますが行いもあります。そうですね。
事実このために真のお父様は使徒パウロをたくさん叱られられました。そうですねオンマ(ヨナニム)。お父様はたくさんお叱りになりました。使徒パウロを。ところで深く掘り下げてみると、王様は全て知っておられました。初期キリストの最初の教皇ヤコブ。イエス様の兄弟。親戚。
彼の御言に現れる内容を見てみるならば、確実に信仰だけではなく行いもしなければなりません。たくさん出てきます。恐れもしません。
そうですから、お父様は御言だけ語られたのではありません。常に行動されました。貧しき者に釣りを教えてくださり、貧しい人に南米に行って、大変な田舎に農作の内容も教え、そこで病院を建てられ、初めてパンタナールで最初の病院を建てられました。救急車も。そうですねオンマ(ヨナニム) 皆さん、そういうことを覚えていますね。
(お父様は)若者に訓練をさせ、若者たちが責任感を学び、だんだん私を通じながらより恐ろしい内容も教えようとしておられます。
自由と責任。自由はただ自由があるのではありません。自由には責任があります、責任。責任を守らなければ自由がなくなってしまいます。そうですよね。自由と責任があるように信仰には行いがあります。行いがなければ信仰がなくなるのです。
ですから、国を保護する為に隣人を保護する為に、しなければならない時には自分の命を隣人の為に死ぬ事ができるそのような心。
続けて訓練するために、平和警察訓練を継続していくのです。羊飼いの訓練です、それは。平和軍警察は羊飼いの訓練なのです。牧者の訓練です、牧者。自分が面倒をみている羊達のために死ぬことのできる心。訓練です。訓練場。道場だけではありません。牧者、牧者の道場です。牧者。
ですから、平和軍警察が、子供たちがより強い心と健康な生活を出来るようにするだけでなく神様に似た牧者の心、心情を植えてあげるのです。
自分よりもっと大きなものの為に良いアベル圏警察、良いアベル圏軍人のように、自分の命を差し出す事のできる、人。
銃器所有するようになればその内容をしなければなりません。鉄の杖を持って歩くようになれば、その決定をしなければなりません、警察のように。もしも私が死んでも、貧しい者たち、孤児たち、不幸な人の為、罪の無い人たちを助ける為に、私が死ぬと分かっていても、死に行く、そういう決定をしなければなりません、銃器所有する時には。
どうしてですか?銃器には、鉄の杖には、そのように恐ろしい内容があるからです。そのような深刻な決定をしなければなりません。
遊びではありません。大きな自由と大きな責任があるというのです。
その責任によって国が保護されるのです。責任を負わない民族は国が保護を受けられません。無くなってしまいます。
これと同じように、行いのない教会は死にゆく教会です。
信仰と行い、自由と責任。これが天一国と神様の王国の新しい二つの翼のように、いっしょに翼の役割をするのです。
このような驚くべき歴史を今、掘って掘って入って歴史に入って研究に入って博士たちと一緒に、このように驚くべき歴史を発見しながら、こらからは、キリスト教世界を完全に目覚めさせるということなのです。
再びイエス様に戻って行くことのできるキリスト教。再び神様、聖書に出てくる神様に戻って行く事のできる、アブラハムの神様、ヤコブの神様、イサクの神様、イエス様の神様に戻って行く事のできるキリスト教、そのキリスト教は終末にはどのようになりますか?鉄の杖の王国の責任を持つようになります。鉄の杖で全ての国を治める責任を下さるからです。
ヨハネの黙示録1章5節6節から、王と祭司長になってしまうということなのです。
1:5また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 1:6わたしたちを、その父なる神のために、御国の民(注:KJV聖書訳:御国の王)とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
それこそ、この王冠がそれほど恐ろしい意味があるということなのです。恐ろしい責任があるということなのです。
それは私を自慢する為に、よく見えるように、そして何か、自我を充足させる為ではありません。
恐ろしい責任があるのです。すべての宗族の王と王妃達の王冠に恐ろしい責任が込められています。神様の国を保護し神様の王国を、牧者のように命をかけて保護する責任があるということなのです。
そういうことですから、平和軍警察訓練がそれほど重要なのです。年が幼くても老いていても、平和軍警察はどんな次元であってもしなければなりません。
それが私たちがただ自由だけではなく、意識、私たちの責任です。それが私達は信仰だけでなく行いもしなければなりません。
そういう内容を通しながら羊飼いの文化。牧者の文化。神様の王国と文明圏を保護する愛国者の文化。そういうことが神様の相続者たちの収穫、秋獲という意味なのです。
そのような内容を持って、皆さんにもっと深く、ヤコブの手紙に出てくるそのような深い内容が、どうしてそのように出ているのか?
また、どうしてキリスト教は再びイエス様とヤコブの内容に新しく目覚めなければならないのか?
プロテスタントは、なぜマルティン・ルターとパウロが言うソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)だけではなく、自由がいつも責任とあるように、信仰にいつも行いがあるようにならなければならいということなのです。
皆さんも今週、全ての方と一緒に、そのような熱情の心をもって、平和軍警察を熱心にされ訓練されて、そのような激しい運動とそのような内容ができなくても、小さい内容からされて、おばあさん、中村おばあさんといっしょに、銃器所有を、行って練習するなど。
信仰だけではだめで、行いをしながらより良い羊飼いとより良い牧者、宗族の王と王妃になることができるように、お父様の大きな愛と恩恵・恩寵で充満されるよう祈願します。
アージュ(ヨナニム:アジュ)アジュ、アジュ
それでは次の礼拝でお会い致しましょう。
ソラとはラテン語で、英語の"alone" あるいは"only"、すなわち「ただそれのみ」、「ただそれだけ」を意味する。ルターを主にしたプロテスタント宗教改革神学の根本教理は、ラテン語で言うところの「5つのソラ」に要訳される。
20世紀までは実際にはこのようには述べられてはいなかったが、これら5つの文は宗教改革が何であったかを要約している。
◆「聖書のみ」
Sola scriptura (ソラ・スクリプトゥラ) -- (by Scripture alone)
教会におけるすべての伝統や解釈、教条、権威は神の言葉である聖書の権威に服すべきであるという教理。。ルターは、教皇も教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張した。カルヴァンはルター以上に強調した。カトリックでは聖書が神の言葉であることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。
◆「信仰のみ」
Sola fide(ソラ・フィデ)-- (by faith alone)
救われるためには善行が手段としてあるいは要件となるものではなく、ただ信仰のみによるとする信仰義認と呼ばれるルターの宗教改革の中心的教理。ルターは『ドイツ語新約聖書』でパウロの「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳しこの信仰義認を宗教改革のテーマとした。
3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
◆「恵みのみ」
Sola gratia(ソラ・グラティア)-- (by grace alone)
救いはただ神の恵みによるもので、罪びとたる人によりなされるものではなく、ただキリストによる神からの賜物であるとする教理。これはカトリック教会の教えと対立し、倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由から激しい論議を呼んだ。
◆「キリストのみ」
Solus Christus or Solo Christo(ソルス・クリストゥス あるいはソロ・クリスト)-- ("Christ alone" or "through Christ alone")
キリストは神と人との唯一のとりなしをなさるお方であり、聖職者を含めその他の介在者は認めないとする教理。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた。
◆「神の栄光のみ」
Soli Deo gloria (ソリ・デオ・グロリア)--(glory to God alone)
すなわち、「神にのみ栄光を」という意味でローマカトリックに認められたイエスの母マリアや聖人、天使に対する「尊宗、崇敬」念やカルトに対立する教理である。
__________________________キリストのリバイバル、クリック感謝です。
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