2019年5月6日月曜日

ヤコブの手紙、キリストの王冠と行いのペンテコステ、今始まる。◆’2019年5月5日 三代王権聖殿・東京礼拝


2019年5月5日
三代王権こころのサンクチュアリ教会・東京礼拝
聖霊治癒礼拝・祈祷会
ヤコブの手紙、キリストの王冠と行いのペンテコステ、今始まる。

三代王権・こころのサンクチュアリ教会

三代王権イエス聖霊聖殿

ヨハネの黙示録12章聖殿

:三原


礼拝PC画面video ↓↓


完成真の父母のペンテコステ
真のお父様 と康賢實真のお母様は地上で完成され、霊界を完成させました。
聖和した人のために聖和式後40日間精誠を捧げます。 その文化がここでも行われています。 今日は40日目です。
今日は40日目であり、これから多くのことが起こるのを目撃するでしょう。

三原コメント:
4月26日は完成真の父母のペンテコステがあった日でした。
人の死後40日で霊界の門が閉じられ、それを過ぎれば浮遊霊になると言われています。
そうですので、3月6日5時41分の康お母様聖和の日から40日目である4月14日は無事に霊界の天一国に送る意味がありました。その護衛のためのチーフの4月3日の聖和であったかと思います。
康お母様の3月18日の聖和式からの40日目の4月26日は五旬節(ペンテコステの日)に値します。
復活祭がイエス様死後三日目を祝い、それから50日目を五旬節(ペンテコステの日)にあります。つまりイエス様が十字架に行かれて52日目が五旬節です。
真のお父様と同じように、真のお母様も聖和されて13日目に聖和式をされ、それから数えて聖和式後40日精誠期間最後の日が聖和された日から数えて52日目、つまり、五旬節(ペンテコステの日)になるのです。
もちろんペンテコステはイエス様と真のお父様の聖霊の御業ですが、その御業を康お母様と一緒に賛美することができるようになったのです。

真のお父様のこのペンテコステの日から数日後、私は真のお父様のペンテコステを受け、それが何回か続きました。
4月26日以降、私は聖霊の働きが今まで以上に大きくなったことを感じます。私自身祈れば聖霊の炎で手が包まれ熱くなるようになりました。
ですから、PA時間に合わせて、4月26日午後から4月27日午前中までに精誠を捧げた方には、そして霊界に行かれる聖和後40日目に精誠を捧げた方にも大いなるヨハネの黙示録12章天一国霊界圏の聖霊役事がともにあると思います。

そして、早速、そのペンテコステが起きていた4月27日、その実体のペンテコステが二代王に降りて来たのです。それが次のNRAショー報告です。

トランプ大統領と連結!二代王のNRAショー報告

皆さん、この方がどなたですか?トランプ大統領の一番目の息子です。

なんと、私達は土曜日(4月27日)の10時に本のサイン会の準備をしていたのですが、見上げたらトランプ大統領の息子がそこに立っていたのです。本当は日曜日にサイン会を選択することもできたのですが、私が「早く、土曜日の10時にしよう」と言ったのです。

ドナルド・トランプ大統領が一番信じられる、育てている息子、おそらく次の大統領になるだろう方です。
この方が普通の服で入ってこられたので、誰も分からなかったのですが、私が(顔を上げた時)「お!ドナルド・トランプ・ジュニア!」、名前もドナルド・トランプ・ジュニアです。
それで、國進兄さんのところに急いで行って「國進兄さん、早く来て!早く来て!ドナルド・トランプ・ジュニアです!」と國進兄さんを呼んで、國進兄さんも驚いて来て、私達はドナルド・トランプ・ジュニア、大統領が育てている息子と一緒に写真を撮りました。

それだけでなく、お父様の三代王権とカインとアベルの摂理的立場で、お父様と三代王権とカインとアベルがトランプ大統領王家の一番目の息子と会うことができた、そのような摂理的瞬間です。これは大変重要な摂理的瞬間です。
(三原:正にお父様と康お母様の真の父母、康お母様と一緒に賛美するペンテコステです。ハレルヤ!)

エリック・トランプとも(以前)会いましたが、今やドナルド・トランプ・ジュニアまで、肩組みしながら、そのように良い時間を分かち合いながら、関係が深くなりました。
そして、私達のほうでもドナルド・トランプ・ジュニアに色々と送り、「鉄の杖の王国」の本も送ることになるでしょう。アジュ!拍手!

それが最も驚くべきことでした。ドナルド・トランプ・ジュニアに会ったという事実。それは誰も想像もできなかったでしょ。

プロテスタントよ、イエスの弟ヤコブの手紙に帰れ!

今後聖殿が世のキリスト教会に受け入れられるようになる革命核心的神学となるでしょう。

(三原:ヤコブの手紙の素晴らしさがこの説教の主題です。それを理解するために、まずプロテスタント神学の要訳と、ここで扱う欠点について見てみます。)



ソラとはラテン語で、英語の"alone" あるいは"only"、すなわち「ただそれのみ」、「ただそれだけ」を意味する。ルターを主にしたプロテスタント宗教改革神学の根本教理は、ラテン語で言うところの「5つのソラ」に要訳される。
20世紀までは実際にはこのようには述べられてはいなかったが、これら5つの文は宗教改革が何であったかを要約している。

◆「聖書のみ」
Sola scriptura (ソラ・スクリプトゥラ) -- (by Scripture alone)

教会におけるすべての伝統や解釈、教条、権威は神の言葉である聖書の権威に服すべきであるという教理。。ルターは、教皇も教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張した。カルヴァンはルター以上に強調した。カトリックでは聖書が神の言葉であることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。

◆「信仰のみ」
Sola fide(ソラ・フィデ)-- (by faith alone)

救われるためには善行が手段としてあるいは要件となるものではなく、ただ信仰のみによるとする信仰義認と呼ばれるルターの宗教改革の中心的教理。ルターは『ドイツ語新約聖書』でパウロの「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳しこの信仰義認を宗教改革のテーマとした。
3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

◆「恵みのみ」
Sola gratia(ソラ・グラティア)-- (by grace alone)

救いはただ神の恵みによるもので、罪びとたる人によりなされるものではなく、ただキリストによる神からの賜物であるとする教理。これはカトリック教会の教えと対立し、倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由から激しい論議を呼んだ。

◆「キリストのみ」
Solus Christus or Solo Christo(ソルス・クリストゥス あるいはソロ・クリスト)-- ("Christ alone" or "through Christ alone")

キリストは神と人との唯一のとりなしをなさるお方であり、聖職者を含めその他の介在者は認めないとする教理。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた。

◆「神の栄光のみ」

すなわち、「神にのみ栄光を」という意味でローマカトリックに認められたイエスの母マリアや聖人、天使に対する「尊宗、崇敬」念やカルトに対立する教理である。



初期キリスト教において、パウロもヤコブの前に従わなければなりません。
パウロとペテロ、カトリックはペテロが最初の教皇だと言いますね。ローマの教皇。しかし、ペテロとパウロはヤコブの御言を聞いていました。

また、パウロが色々なところから献金を集めて再びエルサレムに持ってきた時、まずヤコブに報告しなければなりませんでした。それほどヤコブはイエス様の弟として、それほど多くの忠義と尊敬と崇敬を受けていたのです。

ですから、イエス様に連結された・・・、もちろんヤコブは殺されます。
ヤコブは全てのエルサレムの市民たち、ユダヤ人もヤコブを尊敬しました。
アナナスというパリサイ人の祭司長がヤコブに嫉妬してヤコブを亡くそうとしたのですが、市民たちが反対してヤコブを助けました。一度ヤコブは脱出したのですが、アナナス祭司長がヤクザと一緒に来てヤコブを石で殺します。

ですから、それほど早くイエス様の親族を、ヤコブはイエス様の親族でしたね?ヤコブは死にました。その後は教会はイエス様のおじさんから出てきた甥(ヨセフの兄弟クロパの息子)を立てました。そして、トラヤヌス皇帝(Caesar Trajanus の時にイエス様の全ての親族を殺しました。その時からイエス様の血統に繋がっているキリスト教の指導者は皆いなくなりました。

しかし、不思議なことに初期キリスト教はイエス様の血筋、親戚と連結しながら血統を通して教会を立てようとしました。これは驚くべきことです。なぜなら、今のカトリックとプロテスタントを見てみると、親族、血筋こういうことが一つもありません。

しかし、初期のキリスト教を見てみるとヤコブを通して初期キリスト教はイエス様の血統を中心として教皇を立てたということなのです。ヤコブはペテロよりもパウロよりも尊敬を受けました。その人たちがヤコブの前に従順にならなければならない立場だったということです。本に出てきます。新しい本に全て出てくるのですが、ヤコブはイエス様のみ言葉にもとても近いのです。

パウロ、ルター、カルヴァンとイエスの兄弟ヤコブの神学

パウロは特に、信仰を通して救われると言います。そうして、それが継続して行って、ジャン・カルヴァンというプロテスタント教徒がなんと言いましたか?「一度救いを受けたら永遠に救われる。」

ですから、どうなりましたか?倫理的に悪くなりました。数千回浮気しても、数千回姦通しても、数千回処女とセックスしても、数千回殺人しても、一度救いを受けたら永遠だ。これは話しになりません。

マルティン・ルターも、ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)と言いながら、ソラ・フィデとは何ですか?信仰のみよって救いを受けると言いました。

マルティン・ルターは誰をそんなに憎んだのか?聖書に出てくるヤコブ、ヤコブの手紙をそれほどに憎んで、自分の全ての聖書からヤコブの手紙を破り捨ててしまいました。マルティン・ルターが。
それほどマルティン・ルターはヤコブの手紙を嫌いました。なぜ?ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)の内容を教えているから。信仰のみによって。

しかし、ヤコブは何と言いましたか?信仰だけでは駄目だ。行動も変えなければならない。行動も。ヤコブの手紙の有名な2章14節でこのように言っています。

2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。


信仰だけでは駄目だ。信仰は一つで、行動が行いがなければ、倫理的行動がなければ、その信仰は偽物だと言う内容が出てきます。これ故にマルティン・ルターがヤコブ(の手紙)をこれほど嫌ったのです。

しかし、ヤコブは誰だったか?ヤコブは最初の教会の、イエス様が亡くなられてから教会の王でした、王。歴史を見たら、ヤコブは王冠もかぶりました。

ですから、初期のキリスト教、イエス様が亡くなられてすぐのキリスト教は王冠と王家を中心としたキリスト教でした。驚きですね!?驚きませんか!?これは驚くべき発見です!驚きです!これは次の本に出てきます。このような内容が。

ですから、この内容を通しながらどうして神様は鉄の杖の王国を準備されたのか、どうして私達はキリスト教徒としてキリストに従い信じる者として、信仰だけでなく、どうして行いが重要なのか、行いを通しながら私達の救いがなされると、ここに出てきます。

(三原:まさに革命核心的神学です。)

ヤコブの手紙2章14節、

2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。


見てみなさい。その信仰が自分を救うことができるのか?信仰だけでは駄目です。信仰を通しながら聖霊が臨まれることをもって、私達は行いを変えなければなりません。行いを変えなければなりません。

次!
(ヤコブの手紙)
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

死んだものです。
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

見ましたか? 行いによって、行動で私の信仰を見せてあげるのです。行動でキリストに対する信仰を見せるのです。

特にヤコブの手紙に出て来るのは誰ですか?孤児と未亡人たち。この人たちを特に愛さなければいけないと出ているのです。未亡人と孤児。

次。
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪霊どもも。次。

2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、

全うされたとはどういうことですか?行いによって信仰が全うされたというのです。
本当の信仰とは、お父様は何とおっしゃいましたか?
絶対信仰、それは信じる事でしょう。絶対愛、絶対服従。絶対信仰は信じる事でしょう。信仰は絶対愛になり、主を愛するゆえに服従する様になるのでしょう。
連結されているのです。
次。
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

信仰だけによるのではない。
ですから全てのクリスチャン達は聖書を言葉そのまま信じなければいけないのに...
ですからマルティン・ルターはこれをあれほど嫌ったということなのです。ヤコブをそれほど嫌ったのです。どういうことかというと、行いも行動も信仰と共に行かなければならないということなのです。
行動がなければ、行いがなければ、その信仰は偽りだという意味です。

ですから極端的なパウロの考えはどうなるかと言うと、信仰によってのみ救いを受けることになれば、そして一度救いを受けたのなら、カルヴァンの様に一度救いを受けたら永遠に救いを受けたということになれば、それではあらゆる罪が積むことができるということです。
女と遊び姦通し、何人かの男同士ホモセックスし、動物とセックスする、このような罪を犯しても、どっちみち信仰で救いを受けたのだから、全て救いを受けるということなのです。そうですね。ですからどのように言うかというと、極端的なパウロの信仰を中心とした神学はどうなるかと言うと、非倫理的内容になります。

パウロはいつもこの問題によって教会と戦うのです。懲らしめるのです。教会を。ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)は駄目です。信仰だけではだめです。信仰、私たちの絶対信仰は絶対愛に変わらなければなりません。(愛に)行かなければいけないでしょう。愛は服従に行かなければいけません。

信仰は最初の段階であり、終わりの部分ではないのです。

ローマ人への手紙
10:9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

ローマ人の手紙10章でイエス様を自分の口で証すなら、悔い改めて証しするなら、救われるという内容がたくさん出て来ますが、その救いを通して行いがなければ、それは救いでないという事がここヤコブの手紙に出ています。
だから行いがとても重要です。

私たちは神様を愛し、隣人を愛せよと言葉だけではだめで、嫌で不快に感じ辛くても行いをしなければいけないということです。訓練をしなければならないということです。

このヤコブの手紙に出て来る内容はとても驚くことは何かと言うと、ヤコブはまず最初の教皇でした。教会の。そして血筋を中心とした教会。そしてその教皇ヤコブは一世紀に王冠を被りました。王冠。

だからドクター ポール・ウイリアム博士は私たちを見て、王冠をかぶって再臨主を信じ仕えているので「わあ、あなたたちは本当にヤコブの教会だ、ヤコブの教会だ。」と言うのです。パウロの教会でなくヤコブの教会。


八福の教え(山上の垂訓)の行い
イエス様のマタイ福音書に出るイエス様の山上の垂訓(八福の教え、ビーアティチューズ:Beatitudes)、マタイ福音書、八福、5章ですね。

これも見てみれば、行いもとても重要なことなのです。一度読んでみましょう。マタイ福音書5章3節から。
(ヨナ王妃:マタイ福音書5章3節から読みます。)
5:3 
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
ストップ、こころの貧しい人、天国は彼らのものである、次。
5:5 
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

ストップ。はい、これで見えますね。全く不思議なことはヤコブ書にも特別に貧しい人と裕福な者達、このような大型教会で出てくる裕福な者達だけでなく、彼らによくしたらいけないということが出ます、2章で。それで、見て、2章、2章にも、一度読んでみよう、また。ヤコブへの手紙2章1節から。
(妍雅王妃:ヤコブ書2章1節です。)
2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

ここでも、私たちはただ裕福な者達だけ好んではいけないということが出ます。このような文化がとても重要です、教会の中で。

このような心がとても重要なことです。だから私たちの3代王と若い奴らも自分の体を使って仕事をする人達、それを労働者といいますね、韓国人達は。韓国人達はとても低く差別しますね。たくさん差別するでしょう。

神様はどのように仰いますか。そのような人達、裕福な者達、服をよく着る人達とそのような労働者達、そのように差別したらいけない、それは悪いことだ、それは良くない心、良くない心情、良くない態度です。

何故?貧しい人達に、何だ?「こころの貧しい人たちが天国を相続するだろう。」とマタイ福音書5章で出ますね。それこそ同じように「こころの貧しい人たちを信仰で富ませ神様の相続者とされた。」このように出ます、ここに。

ある時、富んでいる人達が信仰と神様のために戦うことができません、たくさん。その富を保護するために。
ところが、ある時こころの貧しい人達、何もない人達は信仰に火が付けば、聖霊の火が付けば、ただ狂ったように人々の救援の役事が参与することができるように走るでしょう。何故?そのような自分が掴んでいる内容があまりないから。

それこそヤコブの手紙で出てくることが、ただ信仰ではダメだ、行動しなければならない、また、行動でお前は大きく差別してはいけない。神様の教会から来る人は皆、感謝、ありがたい方達だ。尊い方々だ。神様を追求して、神様のことを知りたい人達は尊い方々だ。ただ裕福な者達によくして、貧しい兄弟姉妹によくしないのはいけない。
私たちは愛の道で私たちはお互いに個人的に個人の選択でお互いに保護し、お互いに共に戦い出ることができる、そのような内容だ、ということが出ています。

そのために、このような部分を見ればイエス様のみ言とヤコブに出てくる言葉はとても似ています。

その内容として、 ヤコブの手紙に出てくるのはただ信仰だけではありません。 それはただ自由ではないですか。自由と責任が出てこなければなりません。 信仰がただ自由であれば 、自由選択であれば責任の部分は、信仰の部分が自由の部分であれば、行いは責任です。 どういう話かわかりますね。

自由と責任ですね天一国では。 信仰と行いがあります。自由と責任、信仰と行い 。 不思議ですね、これは。
信仰は自由を象徴し、 行いは責任を象徴します。 そうですね。それも不思議ですね。

その内容を通しながら、 天一国の国民は誰だ信じることだけではなく、 自由があるだけではなく責任もあります。責任、行動も行います。行い。
真実の行いとは何でしょうか?鉄の杖の王国では平和軍警察 、隣人を愛する 保護することができる 警察軍の心。
ヨハネによる福音書18章に出てくる自分の命をかけて死ぬことができる愛。他の人のために。

その愛が最も偉大であるとイエス様は言われました。

そのような愛を実践するために、 平和軍警察が責任を持つのです。平和軍警察の責任。平和組警察はただ自由ではありません。自由は多いですが責任もあります。信仰もありますが行いもあります。そうですね。

ですから、国を保護する為に隣人を保護する為に、しなければならない時には自分の命を隣人の為に死ぬ事ができるそのような心。

続けて訓練するために、平和警察訓練を継続していくのです。羊飼いの訓練です、それは。平和軍警察は羊飼いの訓練なのです。牧者の訓練です、牧者。自分が面倒をみている羊達のために死ぬことのできる心。訓練です。

自分よりもっと大きなものの為に良いアベル圏警察、良いアベル圏軍人のように、自分の命を差し出す事のできる、人。

銃器所有するようになればその内容をしなければなりません。鉄の杖を持って歩くようになれば、その決定をしなければなりません、警察のように。もしも私が死んでも、貧しい者たち、孤児たち、不幸な人の為、罪の無い人たちを助ける為に、私が死ぬと分かっていても、死に行く、そういう決定をしなければなりません、銃器所有する時には。

これと同じように、行いのない教会は死にゆく教会です。
信仰と行い、自由と責任。これが天一国と神様の王国の新しい二つの翼のように、いっしょに翼の役割をするのです。

このような驚くべき歴史を今、掘って掘って入って歴史に入って研究に入って博士たちと一緒に、このように驚くべきを歴史を発見しながら、こらからは、キリスト教世界を完全に目覚めさせるということなのです。

恐ろしい責任があるのです。すべての宗族の王と王妃達の王冠に恐ろしい責任が込められています。神様の国を保護し神様の王国を、牧者のように命をかけて保護する責任があるということなのです。

どうしてキリスト教は再びイエス様とヤコブの内容に新しく目覚めなければならないのか?
プロテスタントは、なぜマルチン・ルターとパウロが言うソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)だけではなく、自由がいつも責任とあるように、信仰にいつも行いがあるようにならなければならいということなのです。

行いだけでは義とされず。

2019年4月21日 日曜礼拝 英語説教より

良い行いによって救われることはありません。私は良い人間だから神様が救ってくれる、というのが救いではありません。

神様の神聖さに照らして正直になるなら、誰も罪がないとは言えないのです。
神様は我々のやることに感心しません。良いことをしたことで救われるということはありません。自分の罪を告白して悔い改め、神様を心に受け入れ、「あなたを頼りとして信頼します」「私の命を捧げます」と言う時に救われるのです。

三原:(信仰=キリスト的善行=日々の悔い改め謙虚)であるとき救われるのです。
ヤコブはもちろん信仰を説いていました。しかしまた、自分の生活を転換しなければならないとも教えていました。

信仰さえあれば何をやっても良いという過激なパウロ主義によって、教会に多文化主義的な異端が持ち込まれました。
極端な万人救済論者は悪魔崇拝者も救われると言います。

イエス様の犠牲は非常に偉大なものなので万人が救われるということです。もちろんこれは全くの異端です。自由意志を排除しているからです。
人は、神様に従うか神様を拒否するかを選択することができなければなりません。(万人救済論には)責任がありません。

三原:完成期祝福を受け、210代先祖解怨を受ければ、天一国天国圏に行けるという信仰感がありますが、サタンが滅んでも神主管の地獄があります。ましてや今はまだサタン主管の地獄があります。完全なるメシア任せはありません。自由と責任は最後まで付いてきます。

我々はそれを発見しました。お父様は5パーセント(の責任分担)のことを語られました。誰もが自由意志を持ちます。5パーセントの責任分担があるので神様が全てを行うことはできません。

我々は5パーセントの責任分担という贈り物を与えられています。

これが初代教会で大きく議論されていました。ヤコブの教会では王冠を被っていました。

ウィリアムズ博士は実に、我々は実際に最初の教会であったイエス様とヤコブの教会だと言っていました。
なぜ初代教会で・・・なぜ彼らはヤコブを殺そうとしたのでしょうか。ヤコブは原始教会で王冠を被っていました。
彼らは王冠をかぶらせておけませんでした。自分たちは国の奴隷だと思いこまなければなりませんでした。国に対する良い奴隷になるのだと。

キリスト教が唯一の希望です。なぜならみなさんは今、西洋のキリスト教の中では少数派だからです。しかしみなさんはまだお父様を守り、お父様を尊重し、お父様が誰であるか知っている人たちです。そして偽りの神である国に自分を明け渡していません。

それが今話していることです。我々は奴隷になってはいけません。王、聖職者となるべきです。王の王の似姿、羊飼いとして

ー聖霊役事祈祷会ー
聖霊治癒_聖霊洗礼_祈祷会
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