2024年1月13日土曜日

キリスト再臨アドベント13_神の計画は失敗できるのか?_文信俊三代王◆ Can God's Plan Fail?_The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント13

神の計画は失敗できるのか?

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.


13. (2024.0109) 

Principle Series 3a - Can God's Plan Fail?


1月9日に文信俊3代王様が挙げて下さった動画です。これは、昨年9月26日に挙げて下さった動画を手直しされたものです。


原理シリーズ3a -神の計画は失敗できるのか?


信俊二ム(The Advent)のコメント

皆さん、こんにちは!祝福された一日を過ごしていらっしゃることを願っています。

このビデオでは、神が摂理の中でどのようにご自身の子女たちに対されるかについてお話しします。



これは以前のビデオからの再アップロードですが、この聖書の教理をより明確に説明するために、スクリプトとグラフィックに手を加えました。このビデオを楽しんでいただければ幸いです!


キリスト教神学では、神の予知の問題をめぐって多くの議論が交わされてきました。

このビデオでは、首尾一貫した聖書神学を提供することによって、預言の二重性を論じ、神の予知を明らかにします。


このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。



聖書によれば、神はご自身の子女たちにどのように対されるのでしょうか?

申命記の中で、神ははっきりとこう語っていらっしゃいます。


(申命記11:26-28)

11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。

11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。

11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。


主は、後の章でもこの思いを繰り返していらっしゃいます。


(申命記30:19)

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫とが生きながらえることができるであろう。


この箇所でわかるように、神はご自身の子女たちが祝福の道を選ぶことを常に願っていらっしゃいます。


しかし、神が私たちに自由意志を与えられ、それによって私たちは神に逆らうことができ、その行為は結果的には私たちの不利益になるのに、それを許されたのは、神の愛に満ちた本性に基づいているのです。


さらに、主はご自身の民が選ぶことのできる、祝福か呪いかという2つの道を提示していらっしゃいます。


申命記には明確に記されていますが、祝福か呪いか、生か死かという概念は、創世記からヨハネの黙示録に至るまで、神のすべての命令において暗示されています。


園では、アダムとエバが神の定めの時まで自制するかどうかによって、善か悪か(祝福か呪いか)が決まったのです。

残念ながら、彼らは後者を選びました。


終わりの日において、キリストに仕えることを選ぶ者は神の国を受け継ぎ、この世を追い求める者は聖なる者から引き離されます。


この祝福か呪いかの話から、2つの結論が導き出されます。

第一に、神の祝福か呪いかの表明は、ほとんどの場合、人々の従順に依存しているということです。

第二に、私たちは神の子としての責任を負っているということです。


まず、前者について詳しく見てみましょう。

聖書全体を通して、神が 「if もし」、「may かもしれない」、「perhaps おそらく」といった条件付きの言葉を用いている例が数多くあります。


さらに、神が明確に条件付きの命令であることを述べていなくても、聖書は、神の命令はほとんどの場合、民の反応に依存していると述べています。


この考え方は、エレミヤ書18章ほど明確に示されているものはありません。


(エレミヤ書18:7-10)

18:7 ある時には、わたしが民または王国を抜く、破る、滅ぼすという事があるが、

18:8 もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。

18:9 またある時には、わたしが民または王国を建てる、植えるということがあるが、

18:10 もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

エレミヤ書に表現されているこの神の悔いと暗黙の条件という原則は、ヨナの明白な宣言によって証明されています。


(ヨナ書3:4) 「四十日を経たらニネベは滅びる!」


この滅亡(あるいは呪い)の重大な警告によって、町全体がその放蕩を悔い改め、その結果、町は荒廃せずに済みました。


ヨナの宣言に条件的な要素がないことに注目してください。


(ヨナ書3:9) あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼさないかもしれない。誰がそれを知るだろう。


このことは、神が自分たちを赦してくださるかどうかについてニネベの民が不安を抱いていたことからも明らかであるばかりでなく、この神の憐れみ深さこそが、そもそもヨナがニネベへの旅に抵抗した理由なのです。

ヨナ書4:2で彼が言っているように。

4:2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。」


聖書には、神の悔いの例はもっとたくさんあります。

この神の心変わりという概念をよりよく理解するためには、例え話が役に立つと思います。


次のようなことを想像してみてください。

あなたは強大な国を治める王です。

あなたが高齢になり始めたので、王国をあなたと同じ心と使命を持つ息子の一人に譲らなければなりません。

長男が忠実さを示し始めたので、あなたは王国を長男に譲ろうと考え、示唆し始めました。

しかし、王国譲渡の数週間前、彼は不当に軍隊を集め、同盟国を攻撃します。


そのため、あなたは彼が相続権を得るだろうと言っていたとしても、彼の行動の変化を考慮すると、彼は王国の相続人にはならないでしょう。

別の人が彼の代わりになるのです。


この例えの中で、あなたが気まぐれだからとか、あるいは何らかの単なる理由で考えを変えているのではないということに注目してください。

むしろ、王位は、長男の忠実な行いが続くことが条件だったのです。


言い換えれば、一見無条件に見えるあなたの発言には、その中に条件的な要素があることが暗黙のうちに含まれていたのです。


これは現実世界では誰にとっても常識です。


しかし、私たちが神学を行うとき、なぜか不思議なことに、この自明の概念を、聖書の生きていらっしゃる人格的な神から切り離してしまいます。

同じように、神が何かを宣言するとき、一見無条件に見える発言にも暗黙のうちに条件が含まれています。


誤解が生じないように、このことをはっきりさせておきましょう。

神は誠実な御方であり、約束を実行されます。

神は、イザヤ書46:11でこう述べていらっしゃいます。


(イザヤ46:11) わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。


しかし、エレミヤ書に記されているように、主が国に対して祝福を宣言されるとき、その国が主の戒めを守り続けるならば、主はその約束を果たされます。


(エレミア18:9-10)

18:9 またある時には、わたしが民または王国を建てる、植えるということがあるが、

18:10 もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。


別の聖書の例を挙げると、サムエル記上13:13に記されているように、神はもともとサウルの王国をイスラエルの上に永遠に維持するつもりでした。


(サムエル記上13:13) サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう」


しかし、サウルの度重なる不従順によって、神は15章で、サウルを王にしたことを二度も嘆きます。


(サムエル記上15:11) 「私はサウルを王としたことを悔いる」。 

(サムエル記上15:35) 主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。


これらの例から、厳密に言えば、最初に変わるのは神ではないことを明確にしなければなりません。

むしろ、私たちの不従順のゆえに、神はご自身の計画を変更しなければならないのです。


個人レベルから国家レベルに至るまで、神の命令に直面したとき、人は2つの道を歩むことができます。すなわち、神に従順であり、その結果、真の幸福を知り、永遠の命を受け継ぐか、あるいは、この世を追い求め、目先の快楽と霊的な死を得るかです。


この預言の二面性を、私たちは二重預言と呼んでいます。

別の言い方をすれば、預言の結果は人々の反応に大きく左右されます。


しかし、イスラエルが歩むことのできる道は2つあるとはいえ、神の愛に満ちた本性と前述の文章から明らかなように、神はイスラエルが呪いよりも祝福を選ぶことを切に願っていらっしゃいます。

私たちの天の父は、私たちに歩んでほしいと望んでいらっしゃる道があります。


(申命記30:19) わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。


しかし、それを決めるのは私たちの自由意志です。

私たちに責任の一端があるということは、私たちがすべてを行い、神はほとんど何もしないということではありません。


その逆です。 

聖書全体がこのことを証言していますが、イザヤ書5章1節から5節は特に重要です。

この物語の中で、神はぶどう園の所有者として描かれており、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。


神は、豊かな収穫をもたらすために、可能な限りのことをなさいます。

選び抜かれたブドウの木を植え、石を取り除き、肥沃な丘を選び、望楼を置き、そして当然のように豊かな収穫を期待されます。

しかし、ぶどう畑は良いぶどうの代わりに野ぶどうを実らせました。


そのため、神はこうおっしゃいました。


(イザヤ書5:4) わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。


この責任の大きさの違いを象徴的に示すために、私たちは神の責任を95%、人間の責任を5%と表現します。

結局のところ、私たちの存在そのものが神の恵みによるものなのです。

私たちの責任は、御言葉を聞き、それを信じ、人生の第三段階である霊界に到達するその日まで、御言葉の戒めを生活の中で実現することです。


神の95%に比べれば、私たちの5%は微々たるものかもしれませんが、その小さな5%には100%の努力が必要なのです。


しかし、これだけははっきりさせておきたいです。 

このこと(私たちの5%の責任をなすために100%努力すること)によって、私たちが救いを得ることができると言っているのではありません。

救いは100%神の恵みによる賜物なのです。


しかし、贈り物をくださる神を信じ、贈り物を受け入れ、自分の人生を捧げ、神のために生きることは、5%によって表されます。

言い換えれば、神の恵みに協力することによって、私たちは真のクリスチャンであることが証明されるのです。私たちの主がヨハネ福音書14:15で述べていらっしゃるように。


(ヨハネ福音書14:15) もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。


したがって、その5%さえも、私たちをこの世で神の手足として用いてくださる神の恵みによってのみ可能なのです。

祝福か呪いかの成就において、私たちは神の御言葉を信じ、それを実現するという責任の一端を果たさなければなりません。知的な向上や、神の命令を単に聞くだけでは十分ではありません。

主が述べていらっしゃるように、

あなたがたの神、主の命令に聞き従いなさい」申命記11:26-28。


このように、預言は本来、分かれ道であるため、私たちは神の戒めに注意深く耳を傾け、私たちの責任分担を果たすべき生活の中でそれを実現させなければなりません。


しかし、この重大な実現は、私たちの個人的な生活にとって不可欠であるだけでなく、預言は責任分担と切り離せない関係にあるというこの聖書の深遠な公理を認識することによって、私たちはメシア預言に関する二重の預言的性質に進むことができるようになります。


この聖書の概念がしっかりと確立された今、私たちはこう問います。

メシアの使命とは何であったのか?


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