2019年5月10日金曜日

2019年5月5日英語説教 <全文> イエスの弟ヤコブと真のお父様


2019年5月5日英語説教

<全文>

イエスの弟ヤコブと真のお父様

とても重要な内容です。同じ主題の5月1日の韓国語説教と合わせて読んで頂ければより理解が深まることでしょう。参考:2019年5月1日 韓国語説教 文亨進二代王


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載です。字幕化は2nd Israelさん。

いつもありがとうございます。注:カラー太文字写真挿入はファンクラブ


2019年5月5日 日曜礼拝 英語説教

翻訳:BANBOOS

ところでNRAショーは素晴らしかったです。45分ほどで216冊の本が飛ぶようになくなりました。信じられないことに1日目でなくなりました。
前回は1箱だけ持ってきました。それで十分だと思ったからです。それで3箱でも十分だと思っていました。すぐになくなってしまって話にならないほどでした。次は6箱くらい持って行かないといけません。本当にすぐになくなってしまったからです。

資金集めをしたことのある人は分かりますが、いつも人々から断られます。7割とか8割は断られる場合があります。
その正反対でした。アベル型の人たちです。神様が与えた自由や鉄の杖について話してみると、もうすでに彼らは羊飼いの文化の中にあります。

「イエス様のことは聞きたくない」などということはなく、彼らは「聞きたい」のです。216冊の本で要らないと言ったのは2人だけだったと思います。1パーセント弱というところでしょう。つまり99パーセントの人が是非聞いてみたい、もっと知りたいと答えたということです。
これまでと正反対の経験なのです。

ジョンは泣いてしまったほどだと言っていました。ジョン、ここに来てください。彼にマイクを渡してください。
(ジョンさんの証し)
「茶色の顎髭を生やした少しぽっちゃりした若者の写真がありますが、彼はとても感謝していました。ありがとうと言って、亨進様をあがめていました。映画スターと写真に写るかのようにとても興奮していました。彼は本当に感動していました。

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しかしもっと大きな奇跡がありました。王様がサインを始める前のことですが、その人は所在なさげにブースの中を見回していたのです。あごひげを生やして縞のシャツを着た人でした。それで王様だけが彼が誰か分かり、『ドニー(訳注:ドナルドの愛称)・トランプ・ジュニア!』と言われ、写真を撮ると彼は行ってしまいました。

ペンを手に取ろうとする直前に、トランプの血統の後継者・相続者がやってきて再臨主の後継者・相続者に会い、一緒に写真を撮ったのです。神様がトランプファミリーを鉄の杖の王国のための道を開くために導いていると本当に感じます」
あれは大きな前兆でした。ありがとう、ジョン。あれは前兆でした。我々が全てを準備してあと3分でサインを始めようとしていた時、この人がそこに立っていました。トミー・ガンがあちらにあって、彼はそこにいました。それで私は「あれはドニー・トランプ・ジュニアだ。待っていてください、ドニー」と言って・・・。

國進兄さんはルーカス・オイルのCEOと話し込んでいました。その時アレン・ウェストがいなくてルーカス・オイルのCEOと國進兄さんは話をしていました。私が「國進兄さん、こっちに来てください。ドニー・トランプ・ジュニアがここにいますから」と言うと、國進兄さんも来て素晴らしい時間を過ごすことができました。
ドニーはトミー・ガンの大ファンです。ベビー・デザート・イーグルで育ちました。我々は「あなたの弟に会いました。エリックはトミー・ウェアハウスに来ました」と言いました。

驚くべきことであり、本当に信じられないようなことでした。神様が彼をそこに導かれたのでしょう。ところで私は金曜、土曜、日曜のどれにするか選ぶことができました。マーケティング・ディレクターのジョディーが「どの枠にしたいですか」と言ったので、私は土曜日の10時にすると答えたのです。ちょうどその時にドナルド・トランプ・ジュニアがカー・アームズのブースにやって来るとは、誰も分かりませんでした。主に賛美を。神様に賛美を。

天の神様だけが知っておられることであり、そのような偶然を全く狭い範囲でお膳立てすることはできません。本当に驚くべき、驚くべき、驚くべきことでした。

それに私は弾丸の王冠を着けて狂った人のような姿で歩いていたのです。それは最初威圧的でした。みなさんはいつも見慣れているので大丈夫でしょうが、外であれを着けているととても威圧的です。この場所は安全ですが、私がいたのはNRAのスタジアムであり、8万人から10万人の人がそこにいました。特殊部隊の人や強い男たちがいます。最初はここで王冠を被りたくないと思いました。みんな頭がおかしいと思います。そういう感覚、不安を感じていました。
カーのブースにいた時まだそれを被っていませんでした。そこで話をしていて写真を撮ることになって、そのために王冠を被ったのです。それで弾丸のついた金色っぽい王冠を被るとすぐに、全員がこちらを振り向くのです。もう狂っています。常軌を逸しています。
通路を歩こうとすればそこにはものすごい殺人者たちがいます。この人たちはみな、危険な殺人者のような人たちです。その人たちが全員私のことを見つめているのです。大変な経験でした。子供たちは見ましたね。そうでしたか。まったく異常でした。本当に気違いじみていたからです。NRAショーで弾丸の王冠を被って歩くのを見たことがある人はいないでしょう。

しかしいったん王冠を被ると、通り過ぎる人はみな「いいね」と褒めてくれました。信じられませんでした。不安があったのです。悪魔が私に不安を与えようとしていたようでした。
しかし我々の側には聖書の真実があります。なぜ不安にならなければならないでしょうか。その撮影のチャンスを利用して、じゃあそれ(王冠)を持って来ようと・・・。するとその瞬間にエネルギーがどっと・・・それで被りました。
我々はわざと全ての通路を歩きました。本当に全員に見つめられて極めて落ち着かない気持ちでした。人々は心に刺激を受けて、「あれは何だ」と言いました。私の後ろをついてきていた下の子供たちが、「バイス(VICE)に出ていた人だ」という声を何度も聞いたそうです。
普通の帽子を被っていたら、気付く人もいれば気付かない人もいます。しかし弾丸の王冠を被るとすぐに・・・全ての人が「あの番組で見たよ」と言うのです。あの番組を徹夜で見たという人もいました。「一緒に写真を撮らせて欲しい」と言ってきました。あっちに行け、聞きたくないと言われるような普通の資金集めや伝道に比べると正反対の経験のようでした。

多分次回はブースを設けて、祝福を受けた青年たちに弾丸の王冠を被ってもらいます。田代さんは忙しくなりますね。彼はよくやってくれました。ありがとう、田代さん。素晴らしい仕事です。彼は弾丸の王冠を作るシステムを開発しました。

今年はバイスに出た1人の男が歩いて回るだけでしたが、来年は聖句を書いた弾丸の王冠を被った一団が歩き回ることになるでしょう。イエス様が我々を王と祭司にしたという黙示録1章6節の聖句です。それはキリストの体のことであり、大胆さを主張しているのではありません。キリストの体はその大胆さを主張しなければなりません。それは聖書にあり、我々はそれを読み、信じて、受けました。それに尻込みしません。

しかし、最初私はあれを被ることが不安でした。自分の小さなバッグに隠していました。スタジアムに入ってからもそれを被ることに不安を感じていました。あれを被ると非常に注目を集めます。注目を集めたくてたまらないなら・・・そういう目的ではやらないで欲しいですが・・・(被れば)多くの注目を集めます。

(略)

誰も神様のみ言について大胆である人はいません。主権はどこから来たものだと考えているのでしょうか。愛国者はみな神様から来たものだと言います。神様からというのはどこから来たのでしょうか。聖句で示しましょう。そこに書いてあります。
イエス様は初めて死を乗り越えた誠実な証人であり、地上の王たちの支配者であり、我々を愛され、ご自身の血で我々の罪を清め、我々を王と祭司にしました。そこに書いてあります。我々を王にしました。主権というのはそこから来ています。建国の父の「城の原則」はそこから来ています。つまりあなたは自分の土地の王だということです。それはどこから来たのでしょうか。誰も示してくれませんでした。聖句があります。そこに書いてあるのです。主権のことを言っているのです。

NRAショーは素晴らしく、カー・アームズのブースには熱気がありました。最もわくわくするブースだったと思います。元海兵隊員や女性たちが憲法修正第2条を推進していました。インスタグラムの有名なインフルエンサーもいました。アラン・ウェストもドニー・トランプ・ジュニアもいました。ブースは文字通りに熱狂的でした。

NRAは多くの面で衰退しているので、元に戻さなければなりません。左翼やグローバリストによって衰退するのではなく、再び愛国者にしなければなりません。GOAの協力でそれができます。

ルカ13章20節に行きましょう。パン種のたとえがあります。

20:また言われた、「神の国を何にたとえようか。21:パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

つまりイエス様ご自身が神様の王国を、パンを膨らませる働きのあるパン種に例えています。パンを素晴らしいものにするのを助けてくれるものです。パン種は聖句の中で悪とは限りません。罪を表すこともありますが、イエス様はパン種のことを、パンを活性化させるような働きを王国にもたらす物として説明しています。
つまり王国の福音はそのパンを活性化させ初め、全く異なる文化のような物を作り上げるのです。文化の菌のようなものです。王国の人々が菌だと言っているのではありませんが、まだ活性化しておらず準備ができていないこのものを活性化させ、作動させます。
まだ準備できていないところにパン種が入れられると、活性化して膨らんできます。

(略)
ところでヤコブは教会で最初の君主でした。彼はイエス様の兄弟でした。教会の最初の指導者でした。そのため使徒行伝21章では、パウロと、イエス様から教会のカギを与えられたペテロはどちらもヤコブに屈服していました。
ヤコブは彼らを叱責して、ナジル人(びと)の誓願に従わなければならないといった話をしました。それは厳しい修行の誓約のようなものでした。ワインを慎むといったことをして、精神修養をするようなものです。

宗教改革の過程でパウロ主義・・・もちろんパウロは信仰だけを重視していた信仰義認の人であったわけではなく、その後に起きたことの種をまいただけでした。マルティン・ルターという信仰義認の中心者がいて、カルバン(カルヴァン)も信仰義認派でした。

マルティン・ルターは特に「ヤコブの手紙」を嫌っていました。それには証拠があり、新しく出る本にもマルティン・ルター自身が書いた内容の引用があります。ヤコブの手紙がとても嫌いだったので実際彼は自分の聖書から破り捨てました。宗教改革を主導し、神様のみ言を信じているはずの人ですが、ヤコブの手紙を破り取ったのでした。ヤコブは教会の最初の王でした。なぜなら彼はイエス様が王の王だと信じていたからです。

調べてみるとヤコブは実際王冠を被り、初代教会の君主でした。それだけでなく、ヤコブはイエス様の兄弟だったので血縁と血統の関係がありました。初代教会は血統をとても重視していたのです。アナナス(大司祭)がヤコブを殺した時、ヤコブは石打ち刑に処されましたが、その相続者はイエス様の叔父の息子、つまりいとこでした。こちらもまた血縁者だったのです。

これは教えられていません。というのも、我々は非常に強く極端なパウロ主義、極端なカルバン主義の影響を受けてきたためです。つまり彼らは一度救われたらずっと救われると言っています。一度イエス様の前に告白すれば、どんなことをしても、人を殺しても、大量虐殺しても、レイプしても、救われるということです。

通常説明されるのは、十字架の力は人間のどのような罪よりも偉大だという話です。しかし、ヤコブの手紙が言っているのはそうではないのです。救いを失うこともあるのだと明確に言っています。
実際彼は、孤児の世話をしなければ、未亡人の世話をしなければ救いを失うかもしれないと言っています。これは驚くべきことです。ヤコブは、クリスチャンの生活は聖霊に対する悔い改めにあるのだということを重視しています。聖霊を自分の心に招き入れるのです。なぜなら使徒行伝2章にあるからです。悔い改めて罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けるということです。そして聖霊の贈り物を受け取ります。

すると聖霊は心に入り、悪に導くことはありません。なぜ聖霊が悪に導くのでしょうか。一度救われたらずっと救われるということなら、悪も行えます。なぜ聖霊が悪に導くのでしょうか。聖霊は変革へと導き、神聖さに導きます。聖霊と呼ばれているのです。放蕩に導くことはありません。

マルティン・ルターの自身の記録の中におかしなことがあります。おかしいと感じますが彼自身が書いたことです。その証拠があり、新しい本の中で1つの章に書いています。
マルティン・ルター自身が、牧師と聖職者に教え込むことについて語っていました。分かりやすく言うと、強烈な罪人にならないといけないということです。大酒飲みと共に酒を飲まないといけない。罪人と一緒に罪を犯さないといけない。多くの異性と関係を持たないといけない。すると神様は罪の中でもっとその人の栄光を称えるというのです。これは信じられないことです。
マルティン・ルターの初期の宗教改革でも、牧師と聖職者に、聖書的な観点で不道徳なことを教え込んでいたのです。まったくどうかしていますが、自分でそう書いています。衝撃的なことですが歴史的な事実です。

今これは極端なパウロ主義、あるいは最終的にカルバンが作り上げた、一度救われたらずっと救われるという教義で問題となっています。なぜなら救われた後は人間の全ての責任が取り去られてしまうからです。

自由には責任がつきものです。責任なしに自由を得ることはできません。建国の父はいつも言っていました。道徳的市民がいなければ自由はないと。失ってしまうのです。
自由は責任ある市民なしには生まれません。ジェファーソンやワシントンが言っていた、自己統治できるという話です。責任ある市民でなければならず、道徳的でなければなりません。十戒などを守らなければなりません。自由を守るには道徳的な人でなければなりません。

(略)

聖書には明確に、神様が与えた律法の中で喜ぶとあります。詩篇に書いてあることです。12篇や19篇などでも。神様が律法を与えてくださったことに感謝しています。
律法自体が救いをもたらすことはありません。キリストが対価を支払い、キリストを通して救われます。しかし、そうした救いによって改心させられ、清められるはずです。神聖さの中で律法に従うことを自然と示すようになる人になるはずです。

これは興味深い内容ですが、なぜ教会で教えないのでしょうか。一度救われたらずっと救われるというのは、聞こえはいいです。しかしそれはとても無責任です。あなたが保守的な人だとしても、それはとても無責任ではないでしょうか。

子供をレイプした小児性愛者の犯罪者も天国の収穫を味わうというのでしょうか。彼らが一度イエス様の名で告白したという理由で。極端なカルバン主義、信仰義認の教義によってどうなってしまったか分かるでしょうか。イエス様から大きく逸脱してしまいました。原始教会、初代教会から大きく逸脱してしまっています。

彼らは人々に、清くありなさい、姦淫をしてはいけないと教えていました。性的不道徳を慎みなさい、と。これは教会内の重要なメッセージでした。もちろんそれは現代の教会では死んでいます。デートや婚前交渉の文化。聖書では姦淫と呼ばれます。大罪です。姦淫をしていながら神様の王国に入ることはできません。そう書いてあります。

現代の教会はパウロでも信じないほどのこの非常に極端なパウロ主義を取り入れました。極端すぎてパウロも信じないでしょう。初代教会では認められないし、イエス様には認められないものです。ヤコブにも認められません。
それがどれほど無責任な教義であるか考えてみてください。

極端なカルバン主義の教義が現代の教会を侵略しました。本の中で取り上げていますが。こうした極端な教義に資金援助したのが、ハリー・エマーソン・フォースディック師でした。マンハッタンの人です。グローバリストの牧師でした。誰と親友になったと思いますか。ロックフェラーです。

彼はマンハッタンの自分の教会で演説しています。彼は要するにヤコブの手紙が嫌いだと言っています。とても極端になっていました。イエス様は復活の前、実際に律法を重視していました。律法において不屈の精神を持つように言っていました。しかし聖霊が来た後、全てが解放されたというのです。
しかし、イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じなのだとあります。どうしてそれほど極端に変わることができるのでしょうか。性的な不道徳はいけません、してはいけませんと言っておいて、聖霊が来た後では大丈夫です、やりなさいというのでしょうか。それは根本的な変化です。

(略)

マルティン・ルターは他の面ではとてもいいことをしました。再臨主が来る土台においてはとても重要でした。しかし原理でいう5パーセントの責任分担を捨て去ってしまったのです。原理では決して全ての責任を取り去ってはいません。信者には責任があります。

今神様は我々の道を照らしていますが、我々は歩くことを決断しなければなりません。これは深刻な問題です。現代の教会では相対主義を教え、社会主義を教え、そしてこの一度救われたらずっと救われるという教義を教えており、人々に道徳的責任を持たせないのです。道徳的責任を持たずに、人々がどうやって羊から羊飼いになることが期待できるでしょうか。

驚くべきことに、ヤコブの手紙にある初代教会のことを明らかにすることで、お父様が原理について言っておられたことの確証が得られたのです。アンチテーゼではなく、血統の確証、自由と責任の確証が得られました。

(略)

パウロは霊についても多く語りました。霊は全て純粋であり肉は全て悪だというものです。しかし聖書は常に復活の約束をしています。つまり、土から出てきて体が復活する、と人々が通常信じていることです。
神様の王国は地上にできるので肉体を持って住むことになります。しかし私は肉体的な物は全て悪いと思っていましたが・・・いいえ違います。神様は肉体そのものを悪いものとして作りませんでした。アダムとエバが堕落して、それが神様から離れてしまったのです。

「今日アダムを設計しよう。彼の肉体的な物は全て悪にする」。どこにそんな聖句がありますか。神様は人を作られてから、それは悪いとは言われませんでした。良いと言われました。

神様はアダムの霊を作りました。アダムの体も作りましたか。肉体は悪だと言われましたか。何と言われたのでしょうか。良いと言われました。肉体は良いものでなければなりません。神様の王国は物理的にできます。人々は物理的に住みます。肉体は本質的には悪ではありません。

パウロが霊は純粋で肉は悪だと書いたのを見て、人々はそれを極端なものとして受け取ります。肉は全て悪だと。それは極端です。聖書が言っていることではありません。神様は我々の体を悪にしませんでした。神様はそれが清く、純粋で良いものであって欲しいのです。ですから結婚という制度を与えています。また体は清く、純粋で、良いものになることができます。

多くの混乱がありますが、もちろん終わりの時には予測されることです。キリストの体は不可欠な要素だからです。これは最後の戦いです。羊やサタンの僕のままでいるのでしょうか。彼らは同性愛の政治リーダーシップやトランスジェンダーによってそうなっています。

教会で姦淫が許されるという信じられない状況。姦淫がだめだと教える牧師はいないのでしょうか。それなら信徒を殺していることになります。なぜなら彼らは神様の王国に入れないからです。聖書はそう教えています。

姦淫から守らなければならないのです。深刻です。それは大罪です。不倫やレイプのように。同性愛のように。大罪なのです。デートの文化は姦淫の文化でしかありません。そうなっているということです。

(略)

真実を話すと最初は不快に感じられ、嫌われるかもしれません。しかし最後には勝利します。なぜなら真実は真実だからです。作り話でも嘘でもありません。そして社会は真実に従い、快楽主義に乗っ取られない限り、豊かな社会となります。しかし、だからこそ我々のコミュニティは尊いのです。自慢するつもりはありません。我々もキリストの体にある者として責任を持とうとしているからです。

我々は主権の問題を真剣に捉えようとしています。真剣に実践と訓練をしようとしています。それは我々の5パーセント(の責任分担)であり、それによって人々のためのより偉大な羊飼いとなれます。他の人に力を与えることのできる人に。膨大な力を持っていても、安全な家庭と安全なコミュニティを作ることのできる人に。

神様の王国の市民は、鉄の杖という武器で膨大な力を持ちます。しかし道徳性がなければならず、倫理がなければならず、訓練がなければなりません。神様の王国に生まれたら、すぐに鉄の杖の使い方がわかるでしょうか。あり得ません。正しいおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんの訓練が必要です。ですから我々のコミュニティは尊いのです。

世界が揺れ動いたとしても・・・。私たちには安定性があります。初代教会を見てください。使徒を見てください。イエス様の兄弟だったヤコブを見てください。彼がイエス様と一致していたことを見てください。

山上の垂訓を読んでも、イエス様が富について語っておられるのではないことが分かります。全ての人に無料で物をあげるとか、王国で怠惰に過ごしなさいとかいう話はしておられません。社会主義のことは話しておられないのです。

神様の霊は我々全員を勇気づけます。ですから私は全員が本当に進歩していることを誇らしく思います。あなたの中の神様の霊が勇気づけているのです。それがあなたを前進させます。守護者となりなさい、羊飼いとなりなさい、と言って。その声に耳を傾けてください。
我々にはそうしたとても尊いものがあります。
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《聖霊役事は贖罪精誠が重要です。感謝できる方のみお問い合わせ下さい。

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