2024年2月2日金曜日

キリスト再臨アドベント14 苦悩する魂のためのビデオ_文信俊三代王◆A video for the Suffering Soul _The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント14

苦悩する魂のためのビデオ

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.


14. (2024.0130) 

A video for the Suffering Soul


苦悩する魂のためのビデオ


世界の歴史を通して、多くの人々が、神の存在を不用として捨てるために、悪の問題を提示してきました。実際、多くの人がそのために信仰を失ってきました。しかしながら、新しい神義論(弁神論)を、すでにある擁護論に融合させることで、私たちが今日生きている堕落世界における悪の問題を、克服(解決ではなく)できると私は信じています。このビデオが一人でも多くの魂に触れ、キリストの大義のために信仰が新たにされることを祈っています。なぜなら、私たちの天のお父様は、私たちの偉大な医師であられるので、どんな傷も癒すことができるからです。


私は最近、家族全員を失い、生計を失ったある母親の話を聞きました。

それはごく普通の一日でした。

そして、それは起こりました。

25,000発の核爆弾に匹敵する威力の地震が、彼女の村に向かって時速500マイルで60フィートの波を打ち上げたのです。

津波は激しく押し寄せ、進路上にあるものを破壊し始めました。

彼女は高台に逃げなければなりませんでした。

わずか数時間のうちに、彼女はすべてを失いました。夫と子供達と生計を。

平和はひとつも残されていませんでした。


戦争による貧困、そして自然災害によって引き起こされた、このような信じがたい悲劇に直面したとき、神は果たして存在するのかと疑問を抱くのは自然なことです。


最愛の人の死に直面したとき、20世紀の最も有名なクリスチャンの一人であるC.S.ルイスでさえ、同じような思いを抱いたことを表現しています。



「神はどこにいるのだろう?絶望的なとき、他のすべての助けがむなしいとき、あなたは何を見つけるのだろう?あなたの目の前でドアはピシャリと閉められ、内側では閂がかけられ、二重にかけられる音がする。そのあとは、沈黙。」


私たちの神は、他のすべての宗教とは異なる神であると言われています。

関係の神、絶対正義の神、愛の神。 

しかし、愛する者を失うことのどこに正義があるのでしょうか?


家庭は崩壊し、女性は残虐に扱われ、子どもたちは飢死しています。

愛の神に似たすべてが。

この壊れた世界は、全知の神の御心の壮大な計画だったのでしょうか?


違います。

神はもともと、この世界が、天国を反映する地上天国とする意図で創造されました。

この地上の地獄の王国の正反対です。


アダムとエバがその責任分担を成就していれば、神の王国、私たちの主がすべての弟子たちに祈るように命じられた正にその神の王国が、人類の始まりとともに築かれていたでしょう。



アダムとエバがその責任分担を成就していれば、神の王国、私たちの主がすべての弟子たちに祈るように命じられた正にその神の王国が、人類の始まりとともに築かれていたでしょう。(マタイ6:10)


私たちの世界は、愛によって支配された道徳的で罪のない社会となり、エデンの栄光を全宇宙全体に拡大するはずだったのです。これが神の願いでした。



しかし悲劇的なことに、人類は罪を追い求め、罪の奴隷となり(ヨハネ8:34)、「はなはだ良かった創世記1:31)」のが汚れたのです。


その結果、神の子どもたちによる自由意志の誤用によって、本来の創造計画は迂回することになりました。

堕落がなければ、私たちの文明全体が絶対的に神を中心としたものとなり、その結果、道徳的な悪はほとんど存在しなかったでしょう。(創世記 1:28


罪がこの世になければ、私たちの精神的・知的能力は、自然災害を支配することを可能にしていたでしょう。

私たちが雨や雪に対処する方法を学んだのと同じように、自然災害を支配下においていたことでしょう。



しかし、堕落が起こったために、創造と、サタンに支配された人類は、徐々に衰退し悪化しながら、今日のような悪と苦しみへと落ちて行ったのです。

堕落のために、神は深く苦悩されました。

「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛められた(創世記6:6)」



全宇宙の歯車を回転させ、現実の基礎構造を噛み合わせる偉大な建築家が、どうして心が引き裂かれることがあるのでしょうか。

それは、彼が私たちの天のお父様だからです。

彼は私たちをご自身の子供として見ていらっしゃるのです。人間の親としての愛とは比べものにならないほどの大きな愛で。

私たちが自分自身を愛する以上に、私たちを愛していらっしゃいます。


ですから、私たちがとてつもない苦しみに直面したとき、私たちの天のお父様は私たちの苦しみを知っていらっしゃることを悟らなければなりません。

神は、ご自分を褒め称えるために、あなたの子供が癌で苦しみながら死ぬように仕組んだのではありません。 

自然災害によって家族全員を失った彼女を、神のせいにすることはできません。

共産主義政権下で何百万人もの人々が傷つけられ、虐殺されたとしても、神に罪はないのです。

むしろ、私たちとともに泣いてくださるのが神様です。

私たちの悲しみから切り離されることのない神様です。

私たちの天のお父様は、最も苦しんでおられる方です。


エレミヤ書9章1節にこうあります。

「ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる。」


しかし、私たちの天のお父様が苦しみに直面された時に、なさったことに目を向けましょう。

私たちの天のお父様が何千年間も耐え忍んでこられた、気の遠くなるような悪行の実例にもかかわらず、それでも天のお父様はあきらめていません。決してあきらめないでしょう。

すべての苦痛、すべての悲しみ、すべての苦悩にもかかわらず、彼はこの世界が復帰される日を待ち望みながら、熱烈に積極的に前進し続けてきました。


神はイザヤ書46章11節で揺るぎない決意を語っています。

「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。」


涙を流しながらも、彼はこの世界をより良い場所にするために根気強い努力を重ねながら、偉大な光となりました。

ですから、私たちもそうでなければなりません。

たとえ、ある時期、私たちが死の陰の谷を歩むとも、主が私たちと共にいてくださるという安心があります。(詩篇23篇

この希望を胸に、私たちは、千の太陽のように輝く神の光のようには決して輝けないけれど、この世のあらゆる悪の中で、私たちは暗闇を照らす小さな光になろうと努力することができます。


天のお父様のように、私たちは決してあきらめてはなりません。

たとえ自分に落ち度がないのに苦しむことがあっても、私たちは暗闇の中でも耐え忍び、神の誠実さを証ししながら、周りの人々の希望とならなければなりません。

逆境の中にあって、私たち自身は弱いのですから、苦しみの中で私たちを導いてくださる神に寄り頼まなければなりません。



苦しみに慣れていないわけではなかった使徒パウロが証言しています。

第2コリント12:9

「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。わたしの力は弱い所に完全にあらわれる」。


私たちが苦しみにもかかわらず耐え忍ぶとき、神の恵みによって、神は、私たちに加えられたどんな悪からも善を生み出すことができます。神は、どんな悪の例も、神の摂理にプラスに働くものに変えることができます。

偉大な医師として、彼は私たちの壊れた器を癒し、彼の御旨の成就のために使われるように形を変えて下さいます。

結局のところ、それが聖書全体の物語なのです。

エデンを復帰し、サタンの主権をきっぱりと終わらせる物語です。

この復帰摂理の頂点は、メシアが現れ、地上に天の王国、すなわち新しいエルサレムを建国するときです。

その王国には、

(黙示録21:4)

死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。


王国は最初は小さな苗木として芽を出すかもしれませんが、この模範的な社会は最終的には宇宙全体に枝分かれし、すべての人々に豊かな実りを与えるでしょう。

このように、クリスチャンとして私たちは、私たちの苦しみが決して無駄にならないことを確信しています。

私たちは、最悪の瞬間でさえも、キリストのために私たちをより強い器へと形作ってくださることを祈ります。


使徒パウロはこう書いています。

ローマ書5:3-4

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。


私たちは、現世の後の将来の希望が天の御国にあることを知っています。

私は、死の床にあった忠実なクリスチャンが最後の言葉をささやいていたことを思い出します。

「私の光、私の光、私の光は消えゆく。陽は昇ったのだから。」



私たちを待ち受けるこの未来の栄光について、使徒パウロは、次のように書いています。

第2コリント4:16-18

だから、わたしたちは落胆しない。たとい私たちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。


この軽い一瞬の苦難は、私たちが生涯追い求めてきた方と遂に一つになる時、比較にならないほどの永遠の栄光の重みを得るための準備なのですから。

私たちが直面した苦しみは、永遠の栄光の重みに比べれば淡いものとなるでしょう。



C.S.ルイスは『天国と地獄の離婚』の中でこう書いています。

「彼らは、ある一時的な苦しみについて、『将来の至福はそれを埋め合わせることはできない』と言う。天国は、いったん到達すれば、逆に働いて、その苦悩さえも栄光に変えることを知らない。」


現在の苦しみは、まだ若かった頃に膝を擦りむいた痛みを忘れてしまったことに似ています。

天国では、質的にも量的にも、すべてを受け継ぐことになります。


最後に、理解しがたい悪に腐敗した世界に対する強力な答えが、シャロン・ダークス(Sharon Dirckx)の問いかけにあるように、受肉にあることを忘れてはなりません。


「壊れた世界に対する解決策は...壊れていない何か、あるいは誰かではないのか?壊れていることを理解しているが、その一部ではない何か、あるいは誰か?」


言い換えれば 神であるキリストが人となられた。

神が「果てしない栄光の玉座から土の揺りかごに」移られたとき。



キリストは、十字架という二次的な道を通して、私たちが遭遇するすべての苦しみを負われました。

苦しみ、裏切り、痛み、死、すべてを負われました。


そのような悪に直面したとき、イエスはどのように対応したのでしょうか。

怒りを爆発させることもなく、自分を十字架につけた者たちを呪うこともありませんでした。

神に向かって拳を振り上げることもありませんでした。

むしろ、愛と赦しで応えられました。 


ルカ23:34

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」


ですから、私たちも、日々つまずきながらも、この絶対的な愛の威力を熱心に見習わなければなりません。

私たちは、キリストの姿に倣うよう懸命に努力し、愛をもって苦しみを乗り越えなければなりません。(ローマ書8:29

キリストは人類の罪を贖うために、想像を絶する苦難の道を歩まなければなりませんでした。


天の父とキリストが最も苦しんでおられるにもかかわらず、私たちの重荷を彼らに負わせるよう招いていらっしゃいます。

神の恵みによって苦しみを克服することによって、神はその苦しみを、天の王国を地上にもたらす神の摂理に適うように創り変えることができます。


この美しく測り知れないほど深い愛の表出によって、私たちは安心します。

どんなに大きな苦しみがあっても、

神は誠実であられることを私たちは知っています。


「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

マタイ11:28-29


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