菅井教はキリスト神学センスゼロの超絶勘違い異端教
序文
「お父様はこのように言っている」とニセキリストを語る菅井教はサンクチュアリ教会宣教本部でも祝福の相手が菅井派であることを理由に破談、或いは離婚することは正当な理由として認められている公認異端教です。参照:日本サンクチュアリ協会の菅井教に対するアナウンス
文亨進牧師(二代王様)は菅井派にたいする警告や啓蒙をしなさいと指導しておられます。これはその指導にもとづくものです。
文亨進師は騙されて地獄に行ったものが悪いと明確にいっておられます。騙されて地獄にいかないようにしてください。
ペテロ第二の手紙第 2 章
1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。
菅井教、文亨進師の現代神学説明部分を文亨進師独自の神学と勘違
菅井氏: それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。
**引用終了**
二代王様が語られているのは、創造前と言うだけではなく、神様がたった一人でおられ、対象を必要としていない段階から、キリストは共におられたと語っているのです。そこには神様の存在以外には、なにものをも存在していないのです。
しかし、二代王様は「三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答しているわけです。」と表現しています。この表現に、二代王様のみ言に込めた真意を理解するヒントがあるのです。三原氏の場合は、自分の理解力を超えてしまうと、「ただ信じればよい」と、天一国基準にあるまじき思考展開になってしまうのですhttps://kuruto.muragon.com/entry/332.html
以上の菅井教ついて分析します。
菅井教は、「二代王様が語られているのは」「二代王様のみ言に込めた真意を理解するヒントがある」と断言しているのですが、え?その文亨進師の説明は現代神学の説明であって、文亨進師の自説ではないのですが?と驚きます。
その解説の前に、菅井教の得意技、詐欺捏造から説明します。
◆「ただ信じればよい」誰が言った?菅井氏の得意技、嘘捏造詐欺
菅井教は面と向かって、こんなことは文亨進師(二代王様)には言えないので、文亨進師(二代王様)の三位一体キリスト論を純粋に素直に信じる我々をバカにするのですが、実質は文亨進師(二代王様)に向かって罵り喧嘩を売っているのです。文亨進師を心底見下し詐欺暴力する菅井教
上の写真の通り、「純粋に素直に信じる我々」と書いていますが?どこに「ただ信じればよい」と書いていますか?
我々は文亨進師(二代王様)の三位一体キリスト論を純粋に素直に信じています。
だから、今までの文鮮明師の教えてとかなり違うので、我々は懸命に文鮮明師の遺言ともいうべき夜の神論を研究しています。文亨進師と文信俊師でさえも研究しておられます。
それを「ただ信じればよい」と言ったと?
菅井教は「純粋に素直に信じる」を「ただ信じればよい」と捻じ曲げ、得意の嘘をついてきましたが、ここに菅井教の文亨進師を心底馬鹿にしている本音が爆発しています。
『「純粋に素直に信じる」だと?何ておろかで馬鹿!俺の比喩解釈が文亨進二代王より優れているのだ、俺のがお父様が導く真理だ!』という本音が!
菅井派の人々は以前から、私たちは文亨進師のキリスト論を純粋に信じていると言ってきましたが、二度と純粋に信じているという嘘は言えないのです。
しかし邪悪が菅井教の本質ですから「純粋に信じている」と言って騙してくるでしょう。
菅井教の詐欺が暴かれても、菅井派で有り続けるのは、信じているのは菅井睦雄氏であって決して文亨進師ではありません。文亨進師を利用する見せかけだけの詐欺信仰です。
ペテロ第二の手紙第 2 章
1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
菅井教はこの聖句の通りの”にせ教師”であり”滅びに至らせる異端”です。
菅井教は面と向かって、こんなことは文亨進師(二代王様)には言えないので、文亨進師(二代王様)の三位一体キリスト論を純粋に素直に信じる我々をバカにするのですが、実質は文亨進師(二代王様)に向かって罵り喧嘩を売っているのです。文亨進師を心底見下し詐欺暴力する菅井教
という菅井教に対する評価が、正に真であることが天宙天下に証明されたのです。
日本サンクチュアリ協会にも、「文亨進師(二代王様)の三位一体キリスト論を信じる者は馬鹿だ」という教会長もいますが、詐欺や嘘でもなく、正直なので罪はないのです。
それにしても
「あるまじき思考展開」これには笑いました。
なぜなら
◆第一、菅井教の勘違い思い込み
2021年3月23日キングスリポートからの上記引用部分の、基本的文章構成がまったく理解できず、単なる文亨進師のキリスト教現代神学の説明を文亨進師の論説だと思い込んでしまい、その思い込み勘違いで菅井教を展開していることに菅井氏はまだ気づかないからです。
菅井氏は
【「二代王様は「三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答しているわけです。」と表現しています。】
と言っているように完全に文亨進師がこのような自説の神学を語っていると思い込んでいます。
いいえ、それは大いなる勘違いです。
「三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答しているわけです。」この説明は、現代神学の学説を文亨進師が単に紹介解説しているに過ぎません。
この「三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答」とは、三位一体論で有名なペリコレーシス(相互内住・愛の循環)の事だと伝えても、菅井氏は、いや二代王様の表現だと言い張るのですから手におえません。
この文亨進師がこの2021年3月23日に読んでおられたその文献そのものではありませんが、ペリコレーシスに関する文献を紹介します。フランシスコ会日本管区宣教基礎論の10ページをご参考ください。
文亨進師はもちろんこのような神学は十分ご存知です。
菅井教はハーバード大学神学大学院で学ばれた文亨進師の学問としての神学説明を比喩だ比喩だと言ってバカにしすぎです。
まさに「あるまじき勘違い」です。
◆第二、現代神学を比喩象徴ポエムとしか理解できない
菅井教: 2021年3月23日キングスリポート二代王様み言
『キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。』
私は二代王様のこのみ言を、真のお父様と同じように比喩と象徴の詩的文体で語られているという観点で受け止めています。つまり、創造前の一人の神様の、性相を神様自身に例え、形状を神様の体となるキリストと例えて語られていると、私は受け止めています。
ところが三代王権天一聖殿の天ちゃんは、二代王様が語られたみ言通りに、神様とイエス様と真のお父様が共におられたと信じているようです。https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12890881777.html
第一で指摘した通り、文亨進師が「これが現代神学の主たる結論です。」と言っておられるのに、その現代神学の解説に向かって、「比喩と象徴の詩的文体で語られているという観点で受け止めています」とトンチンカンになっているのは、
要するに、この説明された、その現代神学が自分の理解能力をキャパオーバしてしまったので、この現代神学の論を「比喩と象徴の詩的文体で語られているという観点で受け止めて」理解してまっているのです。
菅井教の問題は、この文亨進師が説明された現代神学論のキリスト論を詩的文体程度にしか受け取れない神学的センスの無さ、理解力の無さが根本問題です。
まさに「あるまじきセンスのなさ」です。
● 第一の大いなる勘違い、思い込みについての説明です。
これは実に簡単な文章構成ですが、
菅井氏には、
冒頭の「キリスト教(Christianity)では」と
最後の「これが現代神学の主たる結論です。」で結ばれる文章構成が完全に理解できていません。
つまり冒頭の「キリスト教(Christianity)では」と最後の「これが現代神学の主たる結論です。」の間にある
「 人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。
三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。
それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。」
という説明は、文亨進師の現代神学の結論を紹介説明しておられる部分であって、文亨進師御自身の神学を言っておられるのではないことは、小学校4、5年の国語力があれば誰でも理解できるでしょう。
ところが菅井氏は、文亨進師自身の神学だと思い込んでいます。
現代神学の説明を「二代王様のみ言に込めた真意を理解するヒントがあるのです。」とまで言ってしまっています。そして二代王様のみ言ではなくて現代神学の説明なのに、二代王様がこのみ言に込めた真意はという論理展開。
これは完全に間違った理解であり、当然その展開された理論も大間違いになるのは当然です。
つまり菅井教そのものが大間違いだということです。
まさに「あるまじき勘違い」です。
文亨進師匠が言いたいのは、このキリスト教の現代神学について説明された後の文です。
『ですから、原理講論の内容だけを見ると、我々はメシアに対する低いキリスト論を持っているのです。メシアを神として見なかったのです。女性から生まれた人としては見ましたが、神としては見なかったのです。
お父様が夜の神、昼の神の神学の内容を明らかにされた時、お父様はそのキリスト論を昇格させられたのです。
「いや、お父様はメシアなので特別だ。ただの人間ではない。お父様は神から来られたのであり、夜の神から来られたのだ。創造以前の神から来られた。」ということです。
つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられたということなのです。
文亨進師匠が言いたいのは、ですからで繋がるこの部分であることは、誰が2021年3月23日キングスリポートを読んでも明白です。
つまり、この文亨進師の結論は、端的に言えば「現代神学の結論が言っていることと同じで、再臨のキリストである真のお父様(文鮮明師)は創造以前から神と一緒におられたのです。」ということです。
そしてもう一つ理解できること読み取れることは、「これからは、このキリスト教現代神学で再臨のキリスト文鮮明師を理解しなさい」と言っておられるということです。
菅井教は、それにもかかわらずその現代神学の説明部分を、文亨進師の自説だと大いに勘違いして次のように言っています。
菅井氏:私は二代王様のこのみ言を、真のお父様と同じように比喩と象徴の詩的文体で語られているという観点で受け止めています。つまり、創造前の一人の神様の、性相を神様自身に例え、形状を神様の体となるキリストと例えて語られていると、私は受け止めています。https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12890881777.html
「このみ言を、真のお父様と同じように比喩と象徴の詩的文体で語られているという観点で受け止めています」
・・・いや、その観点、受け止め方、完全に間違っています。勘違いです。
「このみ言を、」このみ言とは現代神学の紹介説明部分であって、文亨進師御自身のみ言ではありません。
当然の帰結として「つまり、創造前の一人の神様の、性相を神様自身に例え、形状を神様の体となるキリストと例えて語られていると、私は受け止めています。」
この菅井氏の「受け止め」も、この大いなる勘違いによりアウトプットされた大間違いであることがわかります。
この「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです」 の文亨進師の説明の箇所は、現代神学を紹介して説明しておられるのであって、決して文亨進師の言葉ではないことがどうしてこうも理解できないのでしょうか?
以前、その部分は一般のキリスト論のことを文亨進師は言っておられると、菅井氏のその勘違いを伝えたつもりですが、「あるまじき思考展開」という返答・・・、笑うしかありません。
こんな完全無敵の勘違いと思い込み、そして勘違いから展開された論理は手におえません。
分からなければ巷の国語の先生に「ここは引用紹介部分ですか?それとも文亨進師ご自身の論ですか?」と確認して下さい。きっと優しく教えてくださることでしょう。
● 第二、菅井教はキリスト教神学を、「比喩と象徴の詩的文体の観点で受け止め」ることしか出来ないことについての説明です。
それにしても現代神学の説明を「比喩と象徴の詩的文体の観点で受け止め」て、
この現代神学の説明の本当の意味は「創造前の一人の神様の、性相を神様自身に例え、形状を神様の体となるキリストと例えている」と力説してきたということになりますから、この誤解は笑えます。
”真の父母様の本体論”とは実は”お笑い”だったということでしょう、
これは文亨進師の神学ではなくニカイア公会議(325年)から1700年も続く神学論の事です。その現代神学の紹介説明です。
菅井教の問題は、文亨進師がキリスト教弁証論を学びなさいと言っておられるのに、このようにキリスト教神学を基本的にまったく理解出来ていない、いや受け止めることすら出来ないので「比喩と象徴の詩的文体」だと決めつけてしまうのです。
このように理解できなければ全て「比喩と象徴の詩的文体」で片付けられてしまいます。
極めて自己都合のよいロジックでその神学に対するセンスのなさや理解不足を補おうとするのですから客観性はまったくありません。
菅井教の問題は、この文亨進師が紹介説明された現代神学論のキリスト論を詩的文体(ポエム)程度にしか受け取れない神学的センスの無さ、理解力の無さが根本問題です。
まさに「あるまじきセンスのなさ」です。
しかし、これほど現代神学に向かって言い張るのですから、牧師、神父のところに行って、あなたたちが言っているキリスト論は「比喩と象徴の詩的文体」であって「創造前の一人の神様の、性相を神様自身に例え、形状を神様の体となるキリストと例えている」のだ!と力説すればいいでしょう。
このキングスリポートの御言は2021年3月の御言ですが、この後、菅井教は自分たちは低位キリスト論でありながら、日本サンクチュアリ協会は低位キリスト論だと騒ぎ始めたのですから
”真の父母様の本体論”もこの大いなる勘違いから作り上げられた大いなる勘違いの間違った言説であるという結論になります。
そして日本サンクチュアリ協会さんは、この間違いを使った詐欺に、まんまと騙されてきたということが分かります。
しかし、そんな6年も前からこんな初歩的勘違い、思い込みに気付かず「お父様の聖霊はこう言っている」と言って騙し続けてきたのですか?”真の御父様の本体論”は勘違いからうまれた間違った教えなのに!
呆れた。これは邪悪すぎます。
だからそのお父様の聖霊を名乗る霊は悪霊としか言いようがないのです。
それでも「文亨進師の御言を信じている。ただし比喩と象徴の詩的文体として信じている」つまり実質は信じてなどいないのですが、自分はさも文亨進師を信じているかのようなふりをして言い続けるでしょう。本質が邪悪だからです。
◆ 決定的キリスト教神学のセンスの無さ
イエス・キリストの三位一体を分身と捉える菅井教
菅井氏:はっきりと「一人の男性」と説明していますが、ここにどうやってイエス様と真のお父様が存在できるのでしょうか。一人から三人に分身したというなら、分身する経緯も解説しなければ「試論」と言えどなりたちません。
「一人から三人に分身した」「分身する経緯」…
「分身」…何という絶望的キリスト論のセンスのなさ。
キリスト教はこのような非難を批判を受けて、多くの迫害を受け続けました。
この菅井教の揶揄はキリシタンを磔にして殺害してきた日本民族のまさにその感性です。
菅井教のキリスト教三位一体論に対する無学と日本民族のイザナキ・イザナミ古事記的感性では絶対に「キリスト教三位一体論」は理解出来ないと以前書きましたが、菅井教は本当に心底キリスト教三位一体論に対する感性霊性が絶望的にゼロの人たちであることがよく分かる記述です。
三位一体論を言うキリスト教では
父なる神は父と子(イエス)と聖霊の三位一体の唯一神である
これが常識です。父ですから男として捉えています。キリスト教とは、これを中心的神学としています。
牧師であれ、神父であれ、これは基本中の基本です。
ネットでも牧師たちは、このような言い方を沢山しています。
日本大学 髙橋 清隆氏の論文C.S.ルイスの三位一体論 C.S.Lewis's Trinityからです。
「天地の創造主である唯一無限の神が三つのペ ルソナ、すなわち聖父と聖子と聖霊とにおいて 存在するということはキリストによって啓示さ れたキリスト教の基本真理である
小林珍雄編『キリスト教百科事典』エンデルレ書店、 1960、p.691。
これを敷衍すれば唯一の神に三つの位格、すなわ ち、父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、 聖霊があるという考え方である。」
C.S.ルイスの三位一体論 C.S.Lewis's Trinity 日本大学 髙橋 清隆氏」
この図は有名な「父なる神は3つの位格の三位一体で唯一神として創造前からおられたことを表す三位一体の図です。
神は父と子と聖霊が「IS」で同じ本体一体であることを表しています。
文亨進師はもちろん、キリスト教の牧師として父なる唯一神にして三位たる三位一体論のことは十分理解し、夜の神論により大いなる統一思想の転換点を既存の統一思想に訴えておられるのです。
それを菅井教は「比喩と象徴の詩的文体」であると、その理解力・センスの無さが問題なのに、その絶望的センスの無さで馬鹿にするのです。しかも大いなる勘違いをもって。
これだけでも菅井氏がいう、お父様の聖霊はニセお父様の聖霊であることが分かります。
この「IS」と「IS NOT」「SON」の関係性と意味、三位一体自体が唯一神を表すことなど、菅井教には絶対に理解できません。これを受け止められる霊性も感性も絶望的にまったくありません。
キリストとは人格を表すのに、統一原理の本性相と本形状の二性性相が三位一体、キリストを表すなどと、私も信仰最初期にやってしまったド素人の思いつきで無理やり当てはめる程度が精一杯。
菅井教には絶対理解できません。
だから、これからも「一人の男性がどうやって三人に分身したんだ!」と叫びに叫び続けることでしょう。絶望的にキリスト神学のセンス霊性がない事実はどうしようもないからです。
まさに「あるまじきセンスのなさ」です。
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