日本語訳
The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series
キリスト再臨アドベント15
イエスは死ぬはずではなかったという聖書的証明
文信俊三代王
翻訳&提供:Michiyo H.
Biblical Proof that Jesus was NOT Supposed to Die
原則シリーズ4d -
イエスは死ぬはずではなかったという聖書的証明
伝統的なキリスト教神学は、神がイエスを遣わされたのは、人類の救済計画のためにイエスを十字架上で死なせるためだと、長い間主張してきました。しかし、イエスはご自身の使命を何だと考えていたのでしょうか?メシアの使命についてのシリーズを続けながら、私たちは、神が御子のために計画された栄光のビジョンと、彼が悲劇的に殺される理由を理解し始めるでしょう。どうか、このビデオを楽しみ、祝福された一日をお過ごしください。
メシアは死ぬはずではなかったという見解は、イエス御自身の証言だけでなく、旧約聖書と新約聖書の両方の預言に、聖書的な強い根拠があることを見てきました。
イエスが死ぬはずではなかったという証拠を見る前に、
私たちはまず、願われた第一のコースから悲劇的な第二のコースへの段階的な移行が、いつ始まったのかを問わねばなりません。
まず、ヨハネによる福音書から、キリストのミニストリー(公生涯)には4つの過越の祭があったことがわかります。(ヨハネ2:13、5:1、6:4、13:1)
このことから、第一次から第二次への移行は、キリストの宣教(公生涯)の3年目近くから始まったことがわかります。(マタイ14:13、マルコ6:31-32、ルカ9:10、ヨハネ6:1-4)
およそ最初の2年間、イエスは神の王国が近づいていると力強く宣言されました。
(マルコ1:15) 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
そして、引用すると、
(マタイ4:17) 「悔い改めよ。天国は近づいた」。
イエスの言う福音とは、キリストの死と葬りと復活のことではありません。
福音とは、王国の福音です。次の言葉を引用します。
(ヨハネ6:29) 「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。
苦難の道の表明を私たちが目撃し始めるのは、宣教(公生涯)3年目のことです。
マタイによる福音書16章21節には、次のように書かれています。
(マタイ16:21) この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
「この時から」という言葉は、弟子たちがその時まで十字架刑の運命について聞かされていなかったことを示しています。
キリストが苦難の道を歩まなければならないと告げた後の弟子たちの混乱した反応にも、突然の使命の転換が表れています。
ルカによる福音書18章34節に、他の節と同様に記されています。(ルカ9:45、マルコ9:32)
(ルカ18:34) 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われたことが理解できなかった。
さらに、弟子たちが昇天の直前にイエスに尋ねた質問、
(使徒行伝1:6) 「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時なのですか」。
イエスがイスラエルを通して神の実体的な王国の到来を告げるはずだったという期待が証拠です。
この3年間、イエスとともに毎日を過ごしてきた弟子たちは、なぜイエスが王国を復帰してくださると期待したのでしょうか。
もし、イエスが最初から受難のメッセージを説いていたのなら、期待したでしょうか?
弟子たちは、メシアの使命について誤った観念を抱くほど愚かではありませんでした。
なぜなら、弟子たちは、3年間毎日、神の御子と話すという貴重な機会があったからです。
このように、キリストの発言に加え、前述の理由のすべてが、メシアの本来の使命における重大な変更の証拠です。
キリストは、イスラエルが御自身との一体化に失敗したことを悟り、イスラエルのために泣かれました。
(マタイ23:37-38、ルカ13:34-35)
「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
エルサレムの強情な不服従に対するイエスの嘆きは、別の聖句にも表されています。
イスラエルがイエスを十字架につけようと画策するのではなく、神の恵み深い呼びかけに耳を傾けてほしいというイエスの願いを証しています。
イエスは、御自身も含めて、神の預言者たちを殺すというイスラエルの一貫した繰り返しが、天の父の御心とは正反対であると明言されています。
神が、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、集めようとしたと表現された願いを果たすことができないのは、神の無条件の愛に直面したとき、彼らが頑なであると決めた彼らの決断のためです。
(マタイ23:37-38、ルカ13:34-35)
イエスはイスラエルの将来を宣言されます。
(ルカ13:34-35、マタイ23:37-38) 見捨てられてしまう (荒れ果ててしまう)
メシヤ時代に関するイザヤ書62章の預言とは真っ向から対立しています。
(イザヤ62:3) また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
(イザヤ62:4) あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、
イエスは涙を流しながら、イスラエルはイスラエルの黄金時代をもたらすはずの方を受け入れることができなかったと、聴衆に率直に語っています。
それゆえ、イスラエルは、「見捨てられてしまう」 (ルカ13:34-35)。
彼らが救い主を十字架につけたので、荒れ果ててしまうのです。
ルカ19:41-44で、イエスはさらに付け加えて、
(ルカ19:42) 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を、知ってさえいたら...」
44節で、イエスは裁きを宣言し、イスラエルを明確に呪われました。なぜなら、
(ルカ19:44) 神のおとずれの時を知らないでいたからである」。
イエスが「この日に」と明確に述べたのは、イスラエルの民が、「平和をもたらす道を、知って(ルカ19:42)」いるのはイエスに違いないとわかることができたことを証明します。
イエスが祭司長や律法学者の手によって十字架につけられることが神の本来の御心であったならば、なぜイエスは彼らがおとずれの時を知らなかったと嘆くのでしょうか。
イエスが涙を流されたのは、御自身の初臨によって、実体の王国が築かれないことを認識され、神の第一の願いを実現するために再臨しなければならないことを悟られたからです。
このように、エルサレムに関するイエスの悲痛な御言葉は、神の御心がイスラエルを通して成し遂げられないことを示しています。
神の摂理の変化を嘆くのは、イエス一人に限ったことではありません。
サンヘドリン(ユダヤ教の最高法院)の聴衆の中に立ったステパノは、正義の憤りをもってユダヤ人指導者たちを非難しました。
(使徒行伝7:51-53)
(7:51) ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
(7:52) いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しい方の来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しい方を裏切る者、また、殺す者となった。
(7:53) あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。
ユダヤ人の振る舞いを罪深い彼らの先祖たちと比較しながら、ステパノは、自分たちを救うために遣わされた正しい方を裏切ったと主張しているのです。
しかし、もしキリストの十字架刑が世の初めからの神の御心であったなら、なぜ「裏切る者、また、殺す者」になるのでしょうか?
ユダヤの指導者たちが聖霊に抵抗したと宣言することによって、ステパノは、彼らの行動が神の願われた御心に反していたことを明確に示しています。
さらに、最初の殉教者の、パリサイ派に対する怒りは、イエスが本来ユダヤ教の指導者たちによって殺されるはずではなかったことを表しています。
そうでなければ、イエスの十字架刑が神の最初からの御心であったなら、彼らに対する彼の侮辱は完全に筋違いということになります。
もしユダヤ人がイエスを十字架につけることによってのみ神の第一の御旨を行なっていたとすれば、なぜステパノは、神の願われた御心が今、成し遂げられた喜びの賛美を叫ばなかったのでしょうか。
歴史上、神の預言者たちと聖徒たちが拒絶され、殺害されたることによって、神の御旨が成就された時代がかつてあったでしょうか?
従って、ステパノのイスラエルの民に対する非難は、ユダヤ人の手によって、イエスが「裏切られ、殺され(使徒7:52)」るはずではなかったという、もう一つの実例を提供しています。
神はイスラエルを通して地上に王国を築こうとされました。
イスラエルはキリストと一つになるはずでした。
伝統的なキリスト教神学は、イエスのゲッセマネの嘆願、「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」を、イエスの人間性の表現として解釈してきました。
この説明が成り立たないのは、一つの中心的な理由からです。
イエスの唯一の使命が十字架であったというのが真実であるならば、「わたしが天から下ってきたのは、わたしの心のままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである(ヨハネ6:38)」と言われた方でしょうか?
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている(マタイ16:23)」と、ペテロをサタンだと厳しく非難した彼が、御自身の宣教(公生涯)の最も重要な時に、ひるむでしょうか。
死ぬべき運命のもとで、崩れていくのでしょうか。
彼の中心的弟子に対して「誘惑に陥らないように祈りなさい(ルカ22:40)」と命じる程、イエスは偽善者でしょうか?
その次の瞬間に、衝動に駆られて、歎願しながら、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。(ルカ22:42)」と言うキリストの悲しみが、彼の揺らぐ信仰の結果であるのでしょうか。
イエスの十字架の必然的な結果として、その後のすべてのキリスト教の殉教者は、「わたしと父とは一つである。(ヨハネ10:30)」よりも大きな愛と信仰を持つことになります。
これは私の主張ですが、
十字架を避けようとするよりも、キリストは神とイスラエルの民の摂理を案じておられたのだという説明の方が、キリストがそのような祈りをされた動機について、より筋の通った説明になります。
しかし、この解釈は、十字架が堕落した人類を救う唯一の選択肢であったと主張するメシアの使命に関する伝統的な見解では、不可能であることに注意してください。
旧約聖書も新約聖書も、実体的な王国の樹立を支持しています。
神の第一の願いは、イエスの御言葉と行動、そしてこれまで述べてきたすべてのことから、メシアが神の主権を全世界にもたらすことであったことを圧倒的に示しています。
イエスは父の願いを認識していたはずです。
イエスは許諾して下さるように主に歎願されました。
神の本来の御旨を成就するためにもう少し時間が必要だったというのが、キリストの絶対的な誠実さを貶めることのない唯一の説明です。
天の父の地上王国への熱烈な願望に対するイエスの親孝行な態度が、イエスの必死の歎願を引き起こしたのです。
「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。(マタイ26:39)
伝統的なキリスト教の解釈に反して、神は、イエスの時代には神の御心が現れないことがわかりました。
イエスの父に対する忠誠心のハイライトです。
と同時に、イエスが昔の預言者たちによって語られた、統治する王となることを意図していたという、もう一つの証拠も示しています。
しかしながら、この説明もまた、キリストの本来の使命は十字架につけられる運命ではなかったという考えを示して初めて理路整然としたものになります。
このように私たちは、キリストの運命が十字架ではなかったことを示す、旧約聖書と新約聖書の膨大な証拠の数々を見てきました。
歴史と絡み合ったキリスト教神学の一面に飛び込んでいくと、神の新しいイスラエルに向けられた神の祝福の継続が見えてくるでしょう。(ガラテヤ 6:16)
このシフトが歴史と現在進行中の復帰摂理に甚大な影響を及ぼすことが、これからわかるでしょう。
それまで、あなたとあなたのご家族が祝福された日々を過ごされることを願っています。
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