2022年2月1日火曜日

LIVE 第55回 真の神の日 真の御父母様・イエス様御聖誕日(零時集会)◆天基13年天暦1月1日(2022年2月1日)

LIVE 第55回 真の神の日 

真の御父母様・イエス様御聖誕日

天基13年天暦1月1日(2022年2月1日)


年頭標語揮毫

天宙清平鐵杖王國億萬歳


・第55回真の神の日式典

・真のご父母様御聖誕日 

・21周年神様王権即位式 

リチャード・パンザー米国大陸会長挨拶


まず私たちは、第55回真の神様の日、真のご父母様である文鮮明真のお父様と康賢實真のお母様様、そしてイエス・キリスト様のお誕生日のお祝い、そして神様の王権の戴冠式21周年を意味のあるものにするために、心からの祈りを送りたいと思います。


テネシー州ソーンヒルにある清平(チョンピョン)では、この聖なる行事に間に合うように、数十人のボランティアが熱心に訓読ウエルカムセンターの建設に取り組んでいます。



二代王様は日曜日に納屋で行われる年度最後の礼拝を行いました。火曜日の真の神様の日の祝賀会からは、新しく建てられたウェルカムセンターに移る予定です。

JチームとKチームが大きな石を運び、木を切って、新しい池を作るための場所を作ってくれたことに感謝しました。3月には滝の近くに花を植えるそうです。


16:1わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。 16:2人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。 


ヨハネ16章で、イエスは弟子たちに「宗教的な権威者たちは、神を知らないので、あなた方を殺して、神の御心を行っていると思うだろう」と警告しました。


神様とキリストの関係は、テレビゲームのクリエーターと、そのゲームの中で自分が選んだアバターとの関係に例えられます。創造主のアバターの姿がイエス様です。

イエス様と信徒たちは、宗教家や政治家から憎しみを受けていました。ローマ帝国は崩壊しつつあった。バプテスマのヨハネが全国でイエスを証しをし、イスラエルもイエスと一体化していれば、自由な国が立ち上がる好機でした。


しかし、当時の宗教的・政治的指導者の失敗により、悪質なキリスト教徒への迫害が行われました。現代では、多くの国で、そしてアメリカの「ブルーステイト(民主党の州)」で、警察を使った過酷な強制捜査が行われています。


そのため、天一国では、法執行機関のトップが地元で選出される「保安官モデル」があります。保安官は、大都会の市長ではなく、市民に対して責任を負います。また、ほぼすべての大人が武装しており、真のお父様が話された「平和警察平和民兵」の一員です。


悪魔は混乱を起こして、遺産を盗み、破壊するためにやってきます。主に仕えるということは、必要であれば艱難辛苦の中にあっても、神の愛と真理を証言するために契約するということです。


聖霊が来ると、悪魔に仕えている人たちは裁かれます。私たちが裁かれるのは、神様に害を与える罪を持っているからです。私たちは、犯罪者や大量殺人者に比べれば良いと思うかもしれませんが、神様の絶対的な善良さと比べればどうでしょうか。



二代王様が2008年に真のお父様に任命され、2009年に油を注がれた時、二打王様は自分に罪があることを認めました。1万回のお辞儀をして油を注がれた相続人であると自分に言い聞かせることはできましたが、それでも彼は自分に罪があり、キリストが必要であることを知りました。

聖霊は、二代王様に告白する力を与えました。


第2世代のリーダーや責任者の多くは、彼のその言葉を聞いて喜んではいませんでした。彼らの多くは傲慢で、自分は罪がないと思っていました。

二代王様はエコノミークラスに乗り、彼らリーダー達はビジネスクラスやファーストクラスに乗っていました。彼らは真のお父様と、日本からの献金で成り立っている赤字企業を一掃していた國進様を嫌っていました。


真のお父様は、末っ子が自分には罪があると告白されたことをとても喜んでおられました。

 奴隷は自分の命も体も所有権がありません。

世界中の政府は、人々に未知の物質を体内に注入することを強要し、子供たちにマスクの着用を強要しながら、自らはパーティーではマスクをしません。

一流の科学者たちは、ワクチンに含まれるスパイクタンパクが免疫力を損ない、癌への道を開くなどと警告しています。

プロジェクト・ベリタスは、ファイザー社の科学者たちが、ワクチンが自然免疫よりも効果が低いことを認めながらも、ワクチンが唯一の解決策であると宣伝しているビデオを公開しています。


韓鶴子が真のカインとアベル、2人の兄弟に「私には絶対的な力がある」と言ったとき、彼らは自分たちが聞いていることを信じられませんでした。彼女は平和な世界がやってくると予言しましたが、数年のうちに世界レベルのパンデミックが起こり、中央集権的な全体主義的監禁が行われるという、これまでにない事態が発生しました。


家庭連合は二代王様の評判を落とし、彼とサンクチュアリ教会を訴えて破産させようとしましたが、神は統一サンクチュアリを守り、導いておられます。


政府の手にある鉄の杖は非常に邪悪なものですが、2021年1月6日、神の、王と王妃様と愛国者たちが一緒になって、世界最大の祭壇であるワシントン・モニュメントと米国連邦議会議事堂で、神から与えられた権利のために立ち上がったのです。そこには、悪魔による権力の盗用に立ち向かうための正義の団結がありました。


現在では、政府のエージェントが挑発行為を行い、フェンスを破壊して連邦議会議事堂への入り口を開いたことが明らかになっています。

1月6日の "暴動"に関するタッカー・カールソンのドキュメンタリーは、ディープステートの関与をうまく記録しています。彼らの邪悪な計画は、ますます明らかになってきています。


私たちは、11月の選挙まで熱心に祈らなければなりません。最良の事態に備えて祈り、最悪の事態に備えて準備し、訓練するのです。悪魔がアメリカを根絶やしにしようとしていますが、神はまだ王座におられます。闇の中に大きな光がやってくるのです。


訓 読翻訳提供:江利川大陸会長


統一教会は、救われるときに個人では絶対に救われないと考えるのです。そうでしょう? 個人では天国に行くことができません。一人では行けないのです。原則がそうです。エデンの園のアダムとエバが二人で一緒に天国に行くようになっているのであって、夫だけが天国に行くようになっていますか? 妻も天国に行くようになっているでしょう? 夫婦が一つになり、家庭が一つにならなければ天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行ってよいのですか? 父母は天国に行き、息子、娘は地獄に行ってよいのですか? それが何の天国でしょうか?


天国は夫婦が行かなければならず、家庭が行かなければならず、家庭だけでなく、家庭の八親等の一族が行かなければならず、その国家全体が行かなければなりません。全体が行くことのできるその世界を天国と言うのです。それが統一教会の行く道です。統一教会は個人救援が目的ではありません。ですから、合同結婚式も、この原理原則に一致させるためにやらなければならないのです。今日では、合同結婚式が嘲弄の対象で見せ物と思っていますが、内容を知ってみれば、驚くべきことが起こっているのです。そのようになっているでしょう?


この宗教時代(天使長圏宗教時代)では、結婚しなければなりませんか、してはいけませんか? できないでしょう? イエスが死んだので、二つの群れに分かれたのです。ここから分かれてきました。これがキリスト教です。


ここに新郎が来て、アダムが来てエバと一つになり、この夫婦は天使長を愛して、神様の前に帰らなければなりません。歴史はそのようになっています。見ていてください、そうかそうでないか。


ですから、これからは、天国でも結婚時代に入っていくのです。地上で比丘(びく)が勝つか、妻帯僧が勝つかというとき、妻帯僧が勝つときが来たのです。分かりますか? 旧教の神父、修道女が残るのではなく、これからは天主教も、そのまま行けばすべて地獄に行くというのです。今、天地の運勢が新郎新婦の因縁を求めることができる時が来ました。天主教も「結婚しなければならない」と言うときが来たので、結婚することに反対していては、そっくりそのまますべて滅んでしまいます。それで統一教会は、滅ばないように新郎新婦を探して祝福してあげるのです。ですから、イエスが雲に乗ってきてよいのですか? 幻で来てよいのですか、幻で! それでは来ても来なくても同じなのです。


このように考えるとき、イエスが行くべき路程、イエスが行く道は何ですか? イエスの行く道は、神様の愛をこの地上の人たちに伝授してあげることです。それがイエスの行く道です。それでは、神様の愛を握りしめて、幼いときからそのまま伝授してあげられる場とはどのような場ですか? 母の懐に抱かれてお乳を飲むとき、物心がついていないときに母の胸に入りこんでお乳を飲みながら、母の顔を触って喜ぶところです。そうではないですか? 喜ぶとき、世の中と同じように喜ぶのではなく、神様の愛を中心として、神様のみ旨を中心として喜ばなければなりません。神様のみ旨を中心として喜ぶのであって、それができないときは怨讐になります。


考えてみてください。マリアが本当の意味で、この地上のサタン世界のどんな母よりもイエスを愛する、その愛の道を求めていかなければ天理法度にはずれる、というのは正しいですか、正しくないですか? マリアはイエスのために選ばれた女性です。ですからマリアは、イエスの母として、イエスを身ごもり生んだのなら、誰よりもイエスを愛さなければならないのです。愛するとき、世の中のどんな母よりも優れた立場で愛さなければなりません。自分の命を捧げ、自分が引き裂かれて死ぬとしても、愛を守るために行かなければなりません。死と引き換えにすることがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。


ヨセフがぼんやりしていれば、足で蹴飛ばしてでもイエスのために大喧嘩し、足が折れ、頭が割れたとしても、イエスを愛することに狂わなければなりません。それにもかかわらず、ヨセフと暮らすのですか? イエスを愛したという立場で育て、愛することができるときになれば結婚させ、愛することができる場にまで送り出さなければならないのです。そうではないですか?


ところが、ガリラヤのカナで行われた婚礼の宴に行ったのです。イエスは、自分の親戚が婚礼の宴をすれば、しかたなくご馳走になるためにいかなければなりません。そうではないですか? 「イエスは神様の息子なのだから、お腹が空けば、奇跡で何でもつくって食べればよい」と思いますか? それは天法に違反する行動です。家を出たイエスは、親戚の家で婚礼の宴をするというときは、すべて知っているのです。エルサレムなら車に乗って4時間あればすべて回れます。その町はそのような町です。聖書66巻(の福音書)を見れば、すべて2里内外で起こっています。ですから、すべて知ることになります。そこに行ってみれば、絶望するというのです。声の通る人がこの町で叫べばあの町に聞こえる、そのような広さの町で、聖書66巻(の福音書の出来事)がすべて起こりました。聖書は広大だと思っているでしょう? あぜんとします。嫁ぎ先の親類が暮らす町までの距離よりも近いのです


ですから、その地域でイエスが家を出たとしても、はっきり分かります。自分の親戚が何をするのかすべて分かるのではないですか? 自分の親戚が宴をするのですから、貧しいイエスは仕方がないではないですか? 宴の家に行けばご馳走になるようになっているので、ご馳走してもらうために行かざるを得ないのです。それでこっそり宴の家に行きました。行ってみると、そこに自分の母親も来ていたのです。ところが、母親がイエスのところに来て「ブドウ酒がなくなった」と言いながら、あれこれとせわしく心配しているので気分が悪かったのです。自分が結婚するべき日を心配しなければならないマリアに対して、「婦人よ、いつそれを心配したのか。これ以上に私のために考えたことがあったのか」、そのような思いで「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ福音書2章4節)と言ったのです。「この宴の日は私とは関係ない」という意味でした。そこには、皆さんの知らない曲折の事情が絡み合っているのです。


考えてみください。この地に来て、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ福音書12章49節)と言い、火が燃えていないのを見るとき、イエスの心のもどかしさはどれほどだったでしょうか? このような嘆息の言葉を語ったでしょう? それは安らかでそのようなことを語ったのですか? その火とは何ですか? 愛の火を燃やそうとしたのです。


イエスは幼いときから母の愛を受けて、「私の母は、天上天下に2人といない母です。お1人しかいない母です。神様、この母は愛さざるを得ない私の母ですので、あなたの国に私の母として入籍させてください」と言わなければなりません。イエスが決定してこそ、マリアも天の国に入籍できるのです。ところが、入籍できなかったマリアを天主教では聖母と言います。聖母とは何の聖母ですか? 天の国に入籍できなかったのです。


洗礼ヨハネその人は、イエスのために生涯を捧げ、「いなごと野蜜」(マタイ福音書3章4節)を食べながら町の内外で噂になり、放浪してイエスに出会ったなら、それで十分であって、どうして自分は滅びてイエスは栄えなければならないのですか? イエスに従っていけば、イエスが栄えるのに、自分がなぜ滅びるのかというのです。「ヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ福音書11章12節)と言いましたが、それはどういうことですか? ヨハネの時から今まで天国は激しく襲う者が奪い取ると語ったのですが、その「激しく襲う者」とはペテロについて語った言葉です。


ペテロよりも洗礼ヨハネが激しく襲っていれば一番弟子になります。一番弟子の中の一番弟子です。洗礼ヨハネは、生まれながらにしてイエス様の一番弟子になるために神様が定めて送ったのです。このような洗礼ヨハネを、弟子たちがユダヤ教全体の局面を中心として預言者として迎え、環境をより分けてイエスに侍ることができるようになっていれば、ユダヤ教はゆっくりと音もなく、すべてイエスの前に引かれていくのです。


そのようになれば、ユダヤの国もどうにもできません。ユダヤの国さえつかめば、その当時のローマの国は、末端組織がすべて麻痺状態に入っていたので、アラブ圏12支派の一族を一度に動員するようにして、ローマを打ち破ることができたのです。このようにできる絶好の天地運勢を逃してしまったので、イスラエル民族は滅びるようになりました。


それを考えるとき、母がイエスを愛しましたか? 夫も知らない、誰も知らないという立場で、イエスだけを愛することに夢中にならなければなりません。世界史にない母として、外的な環境がどうであれ、イエスに愛を施すことができ、イエスのために一生の精誠をすべて捧げて息子を愛する母にならなければなりませんでした。最上の母にならなければならなかったのです。そうなりましたか? それができなかったので、イエスから「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」という言葉を聞いても当然です。これ以上ないほど当然なのです。

 考えてみてください。イエスが少し物心がつくようになるとき、兄弟たちが生まれて一緒に育つなか、弟たちがイエスを冷遇したのです。考えてみれば、イエスは義理の息子であり、その兄弟たちは実の息子なのです。それで、マリヤとヨセフは、イエスのために度々トラブルが起こりました。起こったでしょうか、起こらなかったでしょうか? 考えてみてください。私生児として生まれたイエスは、あぜんとしたのではないかというのです。彼らが喧嘩をすれば、弟たちはいつも誰のところに行くかというと、母のところに行くのではなく父のところに行き、「兄がどうだこうだ」と言うのです。ですから、もともとイエスに対して心安らかでない立場のヨセフが、よい言葉を言うだろうかということです。


すべて禍根になったのです。ヨセフもそうで、弟たちもそうで、その環境というものがあぜんとする……。皆さん、そうではないですか? 義父のもとに行けばそうです。では、イエスが父の愛を受けましたか? 弟たちの愛を受けましたか? そうであれば、なぜ家を出てきたのでしょうか? 家を出てくる必要がないというのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど、12弟子がどうして必要ですか? 自分の親戚たちを中心として導いていけばよいのです。ところが、そのようにできなかったので、ヨセフの一族は跡形もなく滅びたのです。彼らがイエスを擁護し、イエスを中心として進み出ていれば、イスラエルの国は滅びなかったのであり、ユダヤ教が滅ぶことはなかったでしょう。


それでは、イエスにおじいさんがいましたか? イエスのおじいさんという言葉を聞いたことがありますか? この地上の誰よりも孫としての愛を受けてみなければなりません。そうしてこそ、この地上に愛の因縁が結ばれるのです。イエスのおじいさん、おばあさんがいましたか? おじさんがいましたか? いたことはいたでしょう。いましたが、彼らがマリヤとヨセフがしきりに喧嘩するのを見ていたのではないですか? 未婚のヨセフが婚約した女性を連れてきたので、町の子どもたちまで手に唾をつけて穴を開け、覗き込んで見物したのではないかというのです。喧嘩をすれば、「お腹の中にいる赤ん坊の父親は誰か」と言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? そのような話をしながら喧嘩するのを、町の人たちがみな聞いたのです。生まれる前に、すでに噂が広がっていたというのです。


ですから、ヨセフの父母と兄弟たちが「イエスは私生児だ」という噂を聞き、ヨセフを呼んでおどし、脅迫しながら「事実を話しなさい」と問い詰めることが起こっていたでしょう。そうだったでしょうか、そうでなかったでしょうか? その当時、モーセの律法によれば、未婚の女性が子を宿せば、すぐに打ち殺すようになっています。それにもかかわらず、法を破ったそのような人が自分の家門にいるので、「天の法度に背く恥だ」と言ってあらゆることをしたのです。


ですから、おじとしてイエスを愛せる人がいたでしょうか? そのようなおばさんがいたでしょうか? そのようなイエスの妹がいたでしょうか? 直系の妹はいなくても、親戚の妹はいたのではないですか? 父はどこに行き、弟はどこに行き、親戚たちはどこに行ったのか! すべて怨讐なのです。この一味が……。そうだったと思いますか、そうでなかったと思いますか?


もしイエスを心から愛する人がいたなら、イエスが家を出ていくときについていかなければなりませんか、ついていってはいけませんか? ついていかなければならないのです。ところが、親戚たちがイエスを捕まえようと探し回ったでしょう? イエスがバアル神にとりつかれたと言って捕まえようとしたのです。


イエスがこの地上に来て誰よりも愛を受け、その愛をありがたく思い、そこに神様の愛を贈り物として返してあげるべきイエスの家庭的基盤が、このように終結するとは、神様は考えもしなかったのです。家庭が終結したので教会、教会が終結したので国、国が終結したので世界が終結し、死亡世界になってしまったのです。


そのことを知らないままキリスト教は、「イエス様は私たちのために亡くなった」と言うのですが、霊界に行ってみなさいというのです。そのような牧師の群れは、霊界に行って再教育を受けなければなりません。皆さんは、霊界に行って再教育を受けますか、再教育を受けませんか? 再教育を受けますか、受けませんか?(「受けません」)。それでは、イエス様を愛する皆さんになりなさいということです。ですから、統一教会の「食口(シック)」という言葉は、そこから出てきたのです。


イエスを中心として、おじの年齢の人は、幼いイエスのような年齢の少年がいれば、昔に愛することができなかったイエスのおじの立場で、今日この時の現実において、その少年をイエスのように愛しなさい、姉の年齢の人は、イエスのような年齢の弟がいれば、その弟をイエスのように愛しなさい、ということです。また、幼いイエスのような年齢の人は、神様の愛に代わり得るイエスの立場で姉を愛し、おばさん、おじさんを愛しなさい、おじいさん、おばあさんの年齢の人は、自分の孫のような人がいれば、イエスのように思って愛しなさい、孫のような人は、イエスのような立場で、イエスが愛することができなかったおじいさん、おばあさんを愛しなさい、ということです。こうしてイエスが愛することができなかった怨恨を、愛を中心として解かなければ天国に行くことができない、というのが統一教会の食口観です。


イエスが民を愛することができず、イエスが国を愛することができず、その民なら民を、大韓民国なら大韓民国を、イエスが愛したかった国のように、民のように愛しなさい、その国とその民は、イエスを愛せなかったことを、1人の少年を中心として愛することができる国になり、民になりなさい、そうしてイエスと一つになって喜ぶことができる愛の交流圏が世界化すれば、その世界が地上天国なのです、地上天国。分かりますか?


これが食口だということです、統一教会の食口。食口というのは、父母や兄弟のことを言うでしょう? 喧嘩をする兄弟ではないというのです。天道に背く兄弟ではないのです。ですから、ペテロより優れていなければなりません。マリアより優れていなければなりません。ヨセフより優れていなければならず、イエスの兄弟より優れていなければならないのです。イエスの弟子たちより優れていなければ、天国に行くことができません。


(『文鮮明先生御言選集』 50-60~67 1971.10.31)

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