2021聖霊大学春学期 リーダー会議
二代王妃 文妍雅様のみ言葉 2021年4月29日
翻訳:Kaori.s & toshiko.o
−聖霊大学はどのように作られましたか。
コロナが来ることを予期しませんでしたが、コロナによって画像で会って対話するのが自然に出来るようになるのを見て、聖霊大学を通して学ぶことが、神様の知恵だったということを最近よく考えます。もし、教会にこのような聖霊大学のようなオンライン信仰共同体がなかったら、信仰の空白期が出来てしまったでしょう。それで、聖霊大学を考えたら本当にありがたいと感じます。聖霊が指示してくださり出来るようになったと思います。
教会に人も少なく、遠くから通う人もいたし、日本にも韓国にも食口がいらっしゃるので、距離上、時間上、空間上さまざまな制約がある状況で、オンラインでコミュニティを作ることを考えました。
初めは、オンラインだけでなく、直接会ってする授業も両方しましたが、オンラインが段々増えてきました。聖霊大学は、2代王様が、「どのようにすれば食口の人達が、礼拝後に小グループなどで集まり、信仰共同体を成していけるか?」という課題を下さり、ケリー氏と私とそしてジャニーチャーチという教会のモデルを使って作りました。1年間に3学期制で運営しています。
内的目標は色々ありますが、実質的目標は、ひとつの授業をしたら授業のリーダーがいて、リーダーが助力者(アシスタント)を立てて、その助力者が次の授業のリーダーになります。授業の中でリーダーひとりを発掘するのです。このようになっています。
私たちは、小グループを色々やって来ました。天福宮(チョンボクグン)と青波洞(チョンパドン)でも試してみましたが、度々失敗しました。その理由は、目標が大きすぎたからだと思います。そしてリーダーの方々が、とても疲れてしまったのです。この2つが大きな壁となっていたので、聖霊大学を準備しながらこれらを最大限考慮しなければならないと考えました。
まず、聖霊大学のリーダーは、1年に3学期のうち2回を行ったら、1回は休む構造としました。リーダーがやりたくなかったり、休みたいのに、誰もする人がいないのでお願いされたりします。教会の婦人会長のような方たちは礼拝にも出ずに食事や洗い物の奉仕ばかりして疲れて、引退したりします。運動をするときにも、足の運動ばかりしませんよね。足の運動をして、腕の運動もして、交代でしながらそうして筋肉を休めることが出来ます。
次に、段々リーダーがいなくなってはいけないので、授業の中で助力者が次のリーダーをしていくのです。このようにしています。
聖霊大学の良い点は、教会という大きな集団の中で、あるプログラムをしたい時、聖霊大学システムとして簡単に適用できることでしょう。教会全体でしなくても、例えば、この子女養育講座が良いようだと思ったら自分でまずやってみるのです。そして、反応をみて、修正する部分をチェックしながら、規模を拡大することもできるし、一種の実験のようなの役割を果たします。
そして、「愛と尊敬」クラスを通して、夫婦教育や祝福夫婦教育などもすることができて良かったと思います。これからも続けてやっていくと良いです。米国で聖殿教会の教育局長を務めているケリー氏とよく話し合いをするんですが、どうしたら1年に1回でも「愛と尊敬」の授業を、固定的にすることが出来るだろうか。その年に祝福を受けた方々がこの授業を経験することができるように。
今、現地での教育を考えています。聖殿で一緒に会ってすることを考えています。1年に一回、その年に例えば2020年に祝福を受けた人たちは、夏に授業を受けて、もし10月に受けて、授業期間が過ぎてしまったなら、次の年に受けられるように、名簿も作って直接勧めたりして。
新しいプログラムを始めようとすると、難しいことが多いですが、聖霊大学のプログラムの良い点は、他の人を探さなくても、構成が出来ているので、授業の中で1つだけ選べば良いのです。リーダーがいて、どんな授業をしようか選べば、例えば、韓国語の授業だとか、キムチ作りだとか、10回のクラスで1学期になりますが、4回にするとか計画を立てて、前もって提出しますから、4回にしても良いし、3回にしても良いし、融通が利くという利点もあります。
また、聖霊大学の良い点はもう一つあります。2代王様は、とても速く前に進んで行きますよね。まず聖書に関して強調し、愛と尊敬も強調し、そして次の話題に移ってしまうじゃないですか。でも私たちは愛と尊敬がまだよく分からないのに、2代王様は先に行ってしまうのです。私たちは、天一国憲法はよく分からないのに、他の事に進んでしまったのです。
では私たちはどうしたら良いでしょうか。2代王様が天一国憲法の話をされる度に、私たちはまだよく知らない、そんな風に考えてしまい、宿題として残されるのです。でも、この聖霊大学で学んでいたら、「あ、2代王様が天一国憲法について話される。あ、このみ言葉のことなのだな。」とより深みのある学びが出来るのですね。
今、天一国憲法クラスや聖書のクラスなどありますが、新しいリーダーが増えているのが本当に希望的だと思います。
「聖霊大学」という名前は、 2代王様が付けてくださいました。
国進様も最初は心配されましたが、「中央集権にならないように」と助言を下さいました。公教育のように、洗脳する組織、中央集権的な教科指針を下したり、「こうしたらいけない」というように人を縛り付けることをしてはならないし、リーダーには自由を与えるけれども、聖書やお父様のみ言葉をベースにした教材なら構わないとおっしゃいました。 2代王様も簡単な指針だけ示してくださり、聖書中心ならどんな教材でも良いとおっしゃいました。
以前、ある方が、「丹田(人体のツボの1部)」に対して、イエス様のイメージを描く、そんな本を持ってきてやりたいと言いました。ニューエイジスタイルでイエス様の聖句をいくつか引用はしますが、瞑想とか自己の離脱とか、どうやって丹田を開くかとかそんな内容でしたが、2代王様はだめだと言われ、その方はリーダーを出来ませんでした。
聖霊大学には限界もあります。仲間同士でするクラスもありますね。クローズクラス(closed class)もかなり進んでいます。クローズクラスは馬が合う人同士と言うか、他の方にオープンすることができず、仲間同士に限る現象や、何と言うか中を見つめるというか。中を見つめる小グループは後でお互いをダメにすると言うんですよ。ですから、中を見る小グループから外を見る小グループになるためには、自分たちだけで固まらないように、かなり気を付けなければなりません。 このようなクラスが何が問題かというと、伝道が難しいです。新しい人を招待するのが難しいのです。それで、自己満足になってしまう問題が出てきますから、そのような部分は聖霊大学コーディネーターがよく見て、警戒しなければならない点だと思います。
そして、聖霊大学だけしていると、活動や、2代王様のされる救国運動などをおろそかにする恐れがあります。その様な部分に対してバランスをよく取りながらやっていかなければならないのが宿題です。
それでは、聖霊大学についてご質問がありましたら、質問を受けましょうか。
◆質問: 妹がいるんですが、まだ家庭連合にいて、半分半分の状態です。完全に王様を受け入れる立場でない人にも、聖霊大学を誘ってもいいですか。どんな立場の人に限定されますか。
2代王妃様: それは、あなたの判断にまかせますが、妹の性向をよく把握して、また授業のテーマをよく選ばないといけないと思います。 例えば、天一国憲法の場合でしたら、2代王様を完全に認めなければ聞くことができないでしょう。なぜなら、基本的に家庭連合にも憲法がありますから、聖殿の憲法を聞くということ自体が、2代王様を認めて初めて聞くことが出来る授業じゃないですか。ところで、もし聖書のクラスなら、招待しても構わないと思います。根本的に、行ったり来たりするということは妹さんが、どこかで詰まっているということです。ある部分で、救いに対して確信がないとか、メシア観がはっきりしないとか、自分では判断が付かない所、信仰でどこかに詰まっている部分があるんです。私たちにはわかりませんが、聖書の勉強などで信仰的な部分を公有してみたら、そんな部分が出てきて、真のお父様が聖霊を通して教えて下さるので、そんな部分がいいと思います。個人的に私はいいと思います。
事実、世間の人を伝道するのも、家庭連合の人を伝道するのも、子供たちを伝道するのも、みんな似ています。私たちの感情が違ってくるからなんですが、それは私達の問題で、実際は全部同じです。子女たちもみな同じです。私は個人的にはそう思います。 もちろん細かい所はちょっと違いますが、世間の方も家庭連合の方もお子さんもみんな似ていると思います。基本的な所は。
個人的には家族に伝える場合は、1対1教育をお勧めします。例えばお子さんや、お姉さんのような家族とは、どうしても感情的になりやすいじゃないですか。それで、1対1で聖書の勉強をしたらいいのですよ。 1対1で聖書の勉強をしながら、たくさんの話をしたり、また、結局こんなことだと思います。子供たちもそうだし、兄弟たちもそうだと思いますが、私の兄弟たちも私が知らない私の部分をよく知っているのです。だから私たちが嘘をつくことができないようです。
だから「あ、 聖殿に入ってお姉さんがなんであんなに変わったんだろう?前は傲慢な部分があったのに、なんであんなに謙遜な人になったんだろう? どうしてあんなに平穏な人になったんだろう?どうして神様との関係であんなに平和になったんだろう?なんで経済的な問題を気にしないでいられるんだろう?」
実は、このようなことはお父様に従いながら、私たちに聖霊の実がみのっているのです。実際、そのような聖霊の実を見ながら、1世の方々も、信仰の親のそのような姿を見て信じるようになったのではないですか。結局、考えてみると妹であれお姉さんであれ子供であれ、そんな姿を見ながら、私たちが何とか隠せるものではありません。本当に変化したその姿を見ながら来るのだと思います。特に、家族と繋がっている方々は そうだと思います。
皆さん、お子さんがいらっしゃると思いますが、お子さんには、聖書の勉強をとてもお勧めします。子供たちには原理講論がとても難しいです。私も2世で、私はあまり賢い人ではないので、原理講論が難しいのかもしれませんが、原理講論がとても抽象的です。若い世代が理解するにはですね。
私は、アブラハムのストーリーも知りませんでした。私はアブラハムが将軍だとは知りませんでした。アブラハムは、鳩を裂かない人だとばかり思っていました。イサクを献祭した人だとばかり思いました。
でも、そうではないじゃないですか。神様がアブラハムをどれほど愛され祝福されたか、子孫が空の星ほど増えるだろうと祝福されました。鳩を裂かなくて子孫が400年エジプトで苦役をするとおっしゃっいましたが、それでも一刀のうちにアブラハムを殺しはしなかったのです。
その後も神様と交流を続け、ソドムとゴモラを救ってほしいという様々なことがありますが、そのような部分については私たちは全く何も知らず、アブラハムについてはハトを裂かなくてイサクを捧げた、そんな印象でした。
原理講論をとても断片的に知っていたので、聖書をとても断片的に知りながら摂理史的に解釈した模範解答を学んだというべきでしょうか。その模範解答をいつも暗記しているので、どんな感じかというと、全体的な韓国史、全体的な世界史を知らず、ただ試験に出そうな所を暗記する学生のようになってしまったのです。 多くの二世たちが。
だから、神様の愛だとか、神様の偉大さだとか、神様の憐みだとか、私の人生にどうやって聖霊の実が結ばれて、私が神様に似た人になるだとか、これがもっと重要な核心じゃないですか。私が罪人だったのに、どのようにして赦され、どんな恩恵を受けて立ち上がり、こんな部分を1世の方々はお父様と一緒に生活しながら経験しましたが、2世の方々は「堕落したら絶対だめ!」「鳩は絶対に裂かないと!」「最後までサタン分立しないと!」このように原理講義を聞きながら子供たちはとても恐れを感じるようになったのだと思います。神様の恐ろしさを先に経験したようです。だから怖いんです。
神様のことを考えると楽しく、私が間違っても、私が悔い改めたらまた見守ってくれるだろう。私は祝福を受けましたが、私は堕落性も多く、相手も堕落性が多く、それで祝福がダメになったのです。それで私は離婚することになりました。ところが、こうなる場合に、2世たちがほとんど帰ってこれません。私が間違って高校の時に堕落をしました。すると、ほぼ2世達が教会から離れます。教会内に許しの文化がないと思います。恩恵の文化がないと思います。なぜなら、自分が原理講論で学んだ神様は、非常に正義の神様なので一刀で切り捨てるんです。「お前はこれくらい罰を受けなさい!」と言って。それが出来ないと摂理史が壊れるんだ!そんな非常に大きな重圧感で原理講論が迫ってくるんです。
私は聖書を通じて2つのことを学びましたが、1つ目は「愛の神様」「恩恵の神様」を学びました。「私が罪人だな、私がいくら偉くて、2世で、お父様の言うことに全て従ったとしても私は罪人だな、それはどういう意味なのか私に」 そして、私がなぜメシアが必要なのか、これらは、信仰において当然で、とても基本的なことなのに知らなかったと言うべきでしょうか。そういうことを学ぶようになりました。恩恵の神様、愛の神様に出会いました。
2番目は、聖書を通じて「メシアの重さ」を学ぶことになりました。お父様は再臨メシアだという話をよく聞きますが、知っているようですが、私は再臨メシアの重さが何なのか知りませんでした。聖書を知らなかったからです。どんな準備を通じて、どんな罪悪の事件を乗り越え乗り越えて、神様が再臨メシアをどのように準備されたのか、その過程について抽象的で表面的に考えていました。どれだけ神様がイスラエル民族を準備してエルサレムの土地を与え、そこをどれだけ戦ってまた堕落し、また戦って堕落して、それをどれだけ多く繰り返しながら、そして捕虜生活もして。このような具体的で実際的な状況を通じて、多くの人々が待ち望んだ救世主再臨メシア、それに対する重さ。またイエス様を送ってくださいましたが、そのイエス様が亡くなったことでの痛み、そしてイエス様に従った弟子たちの姿。こんなことなど。それで2番目にメシアの重さについて学びました。
もう一つありますね。3つ目は、1世の方々を理解できました。聖書の勉強を通じて、私は個人的に1世の方たちを理解するようになりました。何かと言うと、2世たちの立場ではこういうのがあります。2世の立場では、「私は両親のようには信仰できない」「あれがもし信仰なら、私は放棄」こんな感じがあります。
自分の国も全部捨てて、国籍も捨て、自分の学歴をあきらめて、職業もあきらめて、すべて諦めて自分の信仰だけを見てついて行こう、そんな雰囲気があるじゃないですか。 2世たちは、こういうのを見ると「あれ? なんだ?私にはこんなことできない!」こういう感じがあります。だから、こんな話があるじゃないですか。目標がとても不可能に見えると、人々は諦めてしまうというじゃないですか。どんなに大きな目標でも一歩ずつ行けば行けるのに、目標があまりにも遠く見えるのでそのまま諦めてしまうんです。私はそこには絶対に行けない。あそこはまるで月の国みたいだ。月に行くためにはどれだけたくさんの準備をしなければなりませんか。だからただ諦めてしまうのです。月の国がなくても豊かに暮らせる。こう言って、そうやって生きるんです。しかし、「月」なら大丈夫ですが、神様は私たちを作ってくださった、創造してくださった方なので、話は違ってきます。でも、そこまでは考えられないんです。2世の方々のことです。 私も同じです。
しかし、聖書を読みながら、ペトロに対して、イエス様が歩いて行って、ペトロに会って「さあ、網を下ろしなさい。行こう!私について来なさい。お前を人を捕る漁師にしてやろう。」こうおっしゃった時、ペテロはそのまま網を置いてついて行くじゃないですか。これを見ながら私は思いました。あ~これが1世の方々の姿なんだ!これは神様だけが要求できるんですね!そして神様が要求されたとき、1世の方々は「はい、行きます。網を下ろします。」イエス様が、私たちの真のお父様が私たちを人を捕る漁師にして下さるなら、私が喜んでついて行きます。こういう気持ちで来たんです。そして、十字架に逆さまにかかって死ぬペトロ、ペトロも葛藤が多かったでしょう。イエス様を否定して…。 しかしイエス様を否定しましたが、最後までイエス様を守ろうと努力しながら私はまともに死ぬことができません。それで十字架に逆さまについたペトロ、初代教会を作ったペトロ、そしてパウロ。
このような色々な人々の姿を通じて私自身を見るのです。あ、私はパウロみたいな存在だったんだ。主は生きていらっしましたが、私は主に石を投げる人だったんだ。それで、私は本当に主を否定する人だったんだ。こういうことを学ぶことが出来て、あ~、じゃあこれが1世の方々の道だったんだ。それで私は私の両親世代を聖書を通じてたくさん理解するようになりました。そして、主の仰ること、また、主の願うこと、心には本当に多くの葛藤があるけれど、これらを乗り越えるということを考えると、十字架で本当に殉教する気持ちでこれらをやり遂げられたのですね。
このように私は大きく3つを学びました。いろんなものが、たくさんありますが。そして究極的にイエス様を通して、この3つをまとめてみると、結局は一言で言えば、イエス様を通じて真のお父様に会ったのです。ひとつの文章にまとめたら、イエス様を通じて主がどんな方なのか知ったので、お父様がどなたなのか知ることができました。それで、「あぁ、お父様とイエス様は1つなんだな!」ということがわかりました。
事実、この過程が多くの2世たちに必要です。2世の方々には、1世のような信仰が難しいのです。そして2代王様は、はっきりとおっしゃいました。「私は祝福でパートナーを結ぶことはしない」「それ(祝福マッチング)は親マッチングに回す。お父様はその伝統を続けてきたけれど、私はマッチングしない。」と言われました。
また最近、教会の経済問題で、ファンドレイジングチームを作ることについて意見が出たのですが、2代王様に提案されたのですが、2代王様はファンドレイジングチームを取り消しにしました。ファンドレイジングチームをしないと言いました。でも短い期間のファンドレイジングをするのは大丈夫だと言われました。例えば今回、防御と創建のための献金で、子供たちも1~2ヵ月毎週土曜日に出て、7時間から8時間くらいファンドレイジングをしました。約8回出て500ドルから1,000ドルくらい復帰し、それで献金をしたのですが、子供たちはその時良かったと言いました。1週間に1回なので、自分で時間を作って、お金がないので、そんなふうにして献金をして良かったと言いました。
ただ、ファンドレイジングチームは少し違う問題ではないですか。「ファンドレイジング·チームはしたくない。下手をすると、それが教会全体の組職にずっとお金が入ってくるので、教会が人を搾取し、また教会も、まるで中央政府に税金が入ってくるように、そのように次第に本意がぼやけ、本質がぼやけ、人を利用する誤ったシステムになる恐れがあるため、そのようなものすごい誘惑は最初から手をつけないでほしい。」 そのようにおっしゃいました。
そして2代王様が明らかにした部分が、清平みたいに霊媒はしない。この言葉もとても強くおっしゃいました。霊媒のような場合は聖書でも非常に強く禁止されていますよね。『申命記』にも出てきますし、皆さんご存知だから言わなくてもいいでしょうが、サウル王もサムエル預言者を霊媒します。
霊媒する人のところに行ってするのですが、お父様がいらっしゃる時は、全ての霊がお父様の主管下にいるので、お父様が清平を主管される時は、もちろん私たちは疑っているのではありません。その時は本当に私達が多くの恩恵を受けましたし、お父様も承諾してくださったので大丈夫でしたが、2代王様は自分はメシア再臨主ではないので、それをしないとはっきりと言いました。私がこの言葉をなぜ話すのかと言うと、皆さんご存知の部分ですよね。これから2代王様は、神様のみ言葉を中心に天聖経とか真のお父様のみ言葉中心、そして聖書中心に行くことを強調していらっしゃるんですよ。
私たちが昔は、様々な活動もし、救国運動もし、動員もしましたが、(2代王様は)動員もしないとおっしゃったんです。動員とか数字を満たすための祝福もしないとおっしゃいました。これも非常に重要な部分ですね。皆さんご存知の部分ですが、ストレスを受けながら動員、動員、動員… もちろん、今回は防御と創建の献金がありましたが、ご存知のように韓国がいくら負担し、日本がいくら、10倍を負担して、そのようにはしなかったでしょう。全部できる部分だけやればよかったではないですか。そうでしょう?自発的にするんだととても強調されました。もちろん、個人的に多くの負担になったでしょうし、その部分で私達はとても感謝しながら、本郷苑も建てて、法的訴訟部分でもとても感謝しているのですが、昔はそれがたくさんプッシュされたではないですか。
ですから、この部分もされないとおっしゃったので、私達がこのように出来るのも時代的な恵沢じゃないですか。事実、私たちはみな、献金のために一度は泣い来たではないですか。みんな泣いて…私も日本の教会に行ってみたらとても心が重くて申し訳なかったし、またこれではいけないなのに..こんな考えを本当にたくさんしたんです。
ですから、この部分は蕩減の部分だと言わなければなりませんね。日本の方々は、蕩減期間なので、蕩減しないといけないと言われて。2代王様は、それを個人に任せることにしたのです。自由と責任として任せてくださったから、本当にみ言葉の中で喜び、み言葉の中で復活し、また神様に出会い、また聖霊と共に、そのように私たちが生活できる、信仰が生活化されるそこに焦点を合わせ、私たちがこのようにできるという時代的な恩恵を受けたことは、嬉しくて良いことです。
この時代的な恩恵があるのに、子供たちにつなげてあげることができないなら、実際にはとても悲しいではないですか。ですから、子供たちと聖書の勉強をしてみると良いと思います。私がしたい話をしてもいいのかわかりませんが、子供たちと聖書の勉強をする時、私は3つぐらいの方法を使ったようです。
ただ、男の子たちは親としたがりません。これは訓読会とはまた違うことです。訓読会とは、少し違う性格です。私は1対1ですることをお勧めします。特にいつが良いかと言うと、少なくとも祝福を受ける1年前(祝福を準備しながら)にはしないといけません。祝福を受ける1年前頃になると自分から聖書の勉強をしたがります。男の子たちはですね。面白いのですが、男の子たちは祝福を受ける1年前くらいになると、自分が聖書の勉強をすると言うのです。自分が家庭の頭(かしら)にならないといけないから、やるって言うのです。だからその時に機会をつかむのです。そこで機会を得て、3つの方法があります。
時間を正確に決めなければなりません。時間をしっかり守らなければなりません。お母さんたちは聖書の勉強時間に自分の話したいことを話しがちですが、そうしてはいけません。30分なら30分、1時間なら1時間正確に守ってください。聖霊大学も時間をきっちり守っていますね。
カウンセリングクラスは異なる場合がありますが、それは同意を求めてしなければなりません。私の場合、男の子たちはこうしました。子供たちは10代、12歳から17歳くらい、その時は約30分に決めて、私が聖書の一節を選びます。その言葉を英語で読んで、韓国語で読んで、私が準備した例えとか、例話を一つ話して、イエス様のみ言葉か、お父様のみ言葉、例話を話すのに、それを5分以内に終わらせます。
その次、25分は質問があればしてみなさいと言います。すると、自分がしたい話をします。ゲームがどうだとか、友達が変だとかなど。私は話をずっと聞いてあげます。ある時は、子供の服の形がおかしくても、足を伸ばして変な姿勢をしていても放っておきます。とにかく聖書の時間に子供が座っているじゃないですか。気になる部分は全て考えないようにしてお茶を一杯持ってきて、「そうか、そうか」と言いながらカウンセラーのようにして聞きます。そして、30分経って終わろうとする時、子供がもっと話をしたいと言ったら「お母さんは30分で終える所を、お前がもっとやりたいと言ったんだよね」こう言うといいですね。30分で終わろうとしたことをはっきり伝えます。それで30分以内に正確に終わるという確信を子供達に与えなければなりません。 そうしないと男の子たちはほぼ失敗します。
小言を言わないこと。時間を守ること。そしてお話は短くすること。12歳くらいから子供たちは親と時間を過ごしたがらないではないですか。
順序は、最初に私(お母さん)がお祈りして、最後のお祈りは息子がします。息子がお祈りは難しいと言うなら、「すごく簡単だよ。今日勉強した聖書の句節をそのまま読めばいい。」と言います。「神様、お父様、ありがとうございます。今日、私は青年時代をどうやって清く過ごすことができるでしょうか。ただ神様のみ言葉に従うだけです、という神様のみ言葉を読みました。」と言いながら、自分が1、2節話します。「今日はありがとうございました。三代王権の名前でお祈りします。アーメン」 こんな風に終わるのです。
女の子たちは、次のようにやりました。子供の性向を見てください。 書くことが好きな子供がいますが。 聖書の中に「開かれたノート聖書」というのがあります。聖書の句節が真ん中にあって、脇には書き込みができるように空いているのです。子供たちは聖書は絶対読まないのですよ。ホコリが溜まる本棚用です。ラーメン鍋の下に敷いて食べないのが幸いです。
女の子の場合、キリスト教書店に一緒に行って「開かれたノート聖書」を買います。種類がとても多いのですが、その中からきれいなもの、文字がよく見えるものを一つ選ばせます。自分が好きなものを選ばせて、準備してください。そして、この本ではないですが、「聖書の60の物語」のように12歳程度が読める本を一つ買います。まずお母さんが祈祷して、例えば今日はサミュエルについて読みます。絵もあったりして読みやすいですね。そしてサミュエルが出てくる聖書の部分を一緒に探してみます。色々な話が出て来ますが、お母さんが読んだなかで、息子、娘が理解すると良いなと思う部分を1~2段落ほど子供に読ませます。その部分を説明してあげた後、子供に5分与えます。母親は席を外して、子どもが一人で聖書のノートの部分に自分の感想を書けるようにします。
ここで大事なことは子供が書いたそのノート部分を絶対に見てはいけません。絶対に見ないと子供と約束します。私は絶対に娘のノートを見ません。
私は子供にこんな風に言います。「お母さんは後で死ぬ。お母さんは死んでいなくなるよ。お母さんがあなたに伝えられるのは、神様が私たちをどれだけ愛していらっしゃるか、どれほど恵み深い存在でいらっしゃるのか、それしかあなたに伝えられるものはありません。ところでそれをお母さんがあなたにただ伝えることができないから、神様のみ言葉で、神様の霊がみ言葉になったのだから、あなたに本当に伝えてあげたい。でも結局はあなたと神様との関係であって、お母さんと神様との関係はあなたには意味がないでしょ。」こんな話をしてあげます。そうして自分たちが聖書に少しずつ書き始めると、後にそれがだんだん積もっていくんですよ。すると自分がリマをしたり、その聖書を教会に持って行ったり、聖書を見た時に、自分が書いたものを見ますね。聖書は読まなくてもそれは見るようになります。そして少しずつこの聖書が自分の聖書になるのです。「あ、私がこんなことも書いたなあ。」そのような部分が積もっていけば聖書とだんだん親しくなるということです。これが第1段階として娘たちにとても良かったんですよ。最後に、ああ、悪を行ったことが、後でそれを善に変えられたのだな。そんなヨセフのメッセージのことを考えながら、子供たちは、知識も増えますが、神様の恩恵と感謝の気持ちが積もり、後では祈りもするようになります。
まず、時間を30分と短くすること。2番目はノート聖書、そして、3番目に子供たちが信仰について体系的に学ぶ必要があります。
長男の場合は、長男なのでとても厳しく教えようとした部分があったのです。それでも彼はよく付いてきてくれました。そのため、図表とかこんなもので勉強していました。(薄い冊子を見せながら)この教材を使っています。どんなものでも構いません。始めなければならないので私がお見せするんです。英語教材ですが、こんなに薄いです。 厚くても薄くても構いません。
ところで、何が重要かというと、救いに対する確信、神様はどんな方なのか、イエス様は誰なのか、主の中に住むとは何の意味なのかといったことが説明されていますが、この本はトゥランノ(出版社名)から出た韓国教材ですが、「1対1弟子養育」。目次を見ると、イエス様との出会い、救いの確信、神の属性、神の言葉聖書、祈祷はどうやってするか、教友とは何か、伝道とは何か、聖霊に充満した人生とは何か、試練に勝つ人生とは何か、従順に従う人生とは何か、使役する人生とは何か、このように私たちが信仰において重要な要点を1度ずっと見て、聖書で探して、話をしてみて、私たちがどのような面で神様との関係が詰まってしまったのか、こんな部分を一緒に話し合ってみるのです。
例えば、統一教会の人々は、責任分担を強調するあまり、責任分担も神様の恩恵だということを忘れてしまいました。責任分担は実は神様の恵みなのです。多くの2世の方々がこれを理解できません。「何だって?どういう意味?」こんなふうに理解できません。ところが、責任分担があるという事実、私が、神様とこの仕事に一緒に参加できるという事実、神様は素敵なケーキを作るのに私の助けは必要ないです。ところが私に「さあ、ケーキにデコレーションしてみて。ケーキの飾りのために赤い色を持ってきて。」 こうおっしゃること自体が、私には恩恵なんです。 神様が素敵なケーキを作ろうとした時、私がそこに共に参加した。それだけでも私には大変な恩恵なのに、私たちはそれを忘れてしまいます。これは非常に小さな例ですが、多くの方がいろいろと閉ざされています。それで信仰が前に進ことができません。だから、そんな部分を開いてくれるのです。
長男はこうしていて、娘はノート聖書をしています。 信得(シンドゥク)の場合、今までは最初の方法でしたが、最近はキリスト教弁証論をホームスクーリングで行っているんですよ。とてもレベルが高くなりました。本当に今は私よりレベルが高いです。それで、私が教えるよりも、一緒に話をするやり方でやっています。だから、子供たちと聖書の勉強をしてみると良いです。
祝福を控えている息子には聖書の勉強をしながら最後にこれを入れることをお話しいたします。何かというと、息子さんに、お母さんの手を握って、もう一方の手を肩に置いて祈ってほしいと言うのです。最後の祈りの時です。始めの祈りはお母さんがします。これは男の子たちにとって非常に重要です。なぜなら、息子は家庭の頭(かしら)にならなければならないのです。しかし、家庭の頭がどういう意味なのかわかりません。そしてとても怖いのです。
「家庭の頭」という言葉が。私たちが子供を産んだら、とても怖いではないですか。「私が良いお母さんになれるかどうか。」とても心配ではないですか。
ところが、男性は2つの怖いことがあります。
1つは、私が奥さんを養っていけるだろうか。もう1つは私が果たして家庭の頭、牧師になれるだろうか?この2つが、本当にすごく怖かったのです。この2つがとても怖いのですが、まずは食べさせていかせないといけないので、この部分は忘れたいのです。今まで見た多くの男性の方がそうでした。そうではない方もいるでしょうが、多くの若い男性の方がそうでした。
息子たちを見ても家庭の頭になるべきだという事実に、「ええ、僕が?どうやって? 自分一人のこともうまくできないのにどうしよう?」こんな感じなんです。男の子たちは。それで私がこう言います。 2つだけやればいい。最初はわずかでも良い。最後に大きく立派になればいいのだから。ところで、わずかなスタートを何ですれば良いかというと、いつも神様に聞いてみることです。
「神様、私がこうするのが合ってますか。」こうして神様に祈ってみて、み言葉を探して、神様に訊ねる姿勢、それが1つです。 2つ目は、奥さんに祈ってあげること。
祈ってあげる時は手を握って、肩に手を置いて奥さんに祈ってあげるのです。奥さんが赤ちゃんを産むことを心配する時よく祈祷をしてあげますね。
エルカという食口が、とても恐れていたのですが、ご主人は運転中でしたが、自分が祈祷ができないので妻に祈祷をするようにと言いながら手を握ってあげ、私が一緒に祈るから祈ってみなさいと励ましました。少し変形された形ですが。初めは女性はどう祈ればいいか分かりませんでした。ご主人が手を握って肩に手を置いてお祈りをすると、奥さんは「あ!私がこの人の相手としてついて行けるんだな。」このように感じるんです。ところが、こんな事をしたことがないと初めはとてもぎこちないです。ぎこちなくても間違った訳ではないですが、ぎこちないからしないようになり、しないから出来なくなります。だから、この訓練を男の子たちと必ず行うと良いと思います。
子供たちと聖書の勉強をしながら、その中に原理講論を入れればいいです。このように、聖書の勉強の3つの方法があります。もちろん、他にも良い方法がたくさんありますので、そんな良い方法を使っても良いです。
親が変わらない状態で子供にみ言葉について話そうとすると、神様が非常に私たちをとがめます。子供たちを叱る時、神様が私たちを厳しくたしなめて、「おい!お前、子供によくそんなこと言うね。お前はちゃんとやっているのか?」叱りながら私たちが良くなるようにしてくださいます。実に驚くべきことだと思います。
神様の弟子作りの中で、最も難しいのが子供のようです。なぜなら、私たち(両親)の一挙手一投足をすべて見ているではないですか。 フフフ、見てないようですが、息子は部屋でゲームをしているようでも、全部知っています。これは驚くべきことです。それだけ親が努力して変わろうとし、主の中で努力して奮闘する姿に最もよく気付くのも家族だと思います。そういう面ではありがたいし… ちょっと時間がかかりますが。
息子ごとに性向が違いますね。私が色々な方法でやってみたのも息子たちが皆性向が違うからです。
娘の場合は、やってみて何度か失敗しました。私は長男に教えたスタイルで、2番目も3番目も教えようとしましたが、次々に失敗してしまいました。それで、もう少し直して簡単に作って、知識的なことを全て除いて、ただ恩恵に集中して、知識的なことは後でもう少し学べばいいから、やっているうちに神様がまた知恵をくださるでしょう。
年を取った40代の子供の場合、聖書の勉強をして効果があるだろうかと考えがちですが、40代、50代こそ本当にみ言葉が必要な時期だと思います。なぜなら、すでに経済的に独立したではないですか。自分も母親だし、忙しいし、ある程度は知るべきことは知っていて、賢くなる時期じゃないですか。20代の場合は、何か自信がなく萎縮していますが、4、50代は、はばかることのない年齢なので、むしろ神様と遠のいていく歳ではないでしょうか。私はもう全て知っていると思うからです。
どのように始めるかは祈ってみて、(年を取っていも)子供と親との時間、1週間に1時間でも良いし、1ヵ月に1度でも良いので、持ってみるのがいいと思います。子供が30歳、40歳で、すっかり成長して結婚もしたのに、多くの人がとても気の毒に思えるのです。
今週もテキサスへ行ったときそんな人に会ったのですが、子供たちは皆祝福を受けたと言うんです。子供たちが祝福を受けていない親の場合、「子供たちが祝福だけでも受けたらいいのに」とよく考えますよね。祝福を受けて2人で仲良く生活したとしても、これが信仰に結びつかないことがとても多いです。 私たちが、子女教育のフォーカスを間違って置いたのです。
子女教育のフォーカスは「主の弟子になること」であり、その主の弟子になる過程で自然に、「ああ!私が主のみ言葉どおりに生きるには、理想家庭を成さなければ」と思って選択するのが祝福でなければならないのに、主の弟子化としての結果が祝福でなければならないのに、私たちはまず結果から結ぼうと大騒ぎしたのです。「祝福から捧げないと!」とやっていたのです。
そうするうちに、前後が変わってしまいました。子供は満たされていないのに、「私は家庭の頭として役割をできないと思うんだけど。私は妻として夫を尊敬できないと思うんだけど。」まあ、そんな状況で祝福を受けてしまうので、子供たちが祝福を守ることだけでもとても大変なんです。祝福を守ることに、すべてのエネルギーを注いでしまうんです。ところで、世間の人でも結婚を守っている人は本当に多いです。でも、彼らは皆、主の弟子たちではありません。
ですから、私たちは子供たちが祝福がうまくいかない、難しい、そこにフォーカスをたくさん置くのですが、そこにフォーカスを置くのではなく、子供が本当に主の弟子の姿になったか、ここにフォーカスを置くことが正しいと思います。
それで男の子たちは聖書の勉強をしながらキリスト教弁証論もたくさんしなければならないと思います。例えば、「神様が善良だというのにどうして世の中にこんなに悪が多いの? 神様が公平であるなら世の中で悪い人たちがどうしてもっとうまくいくの?」こんなことは本当に単純なことなのです。「会社で悪い事をする人たちの方がうまくいくよ。お母さん。よく知らないで言ってるんだよ。」
こんな話をする時、私たちも萎縮するではないですか。これは事実、神学的問題と言うよりはキリスト教弁証論に近いんですよ。考えてみれば、こんな部分は、私たちが先延ばしにしておいたので、この部分に対して確立することが非常に重要だと思います。そんなことを言える雰囲気を作ることも、とても重要だと思います。
それで30分なら30分、怒らないで。本当に子どもとの信頼回復というのは、難しい話題ですが、でもどうしますか。親の役割は終わらないのです。祝福を受ければ終わると誰かが言ってましたけど、絶対に終わりません。こんな言葉がありますよ。子供が小さい時は問題も小さく、子供が大きくなると問題も大きいと。ですから少しでも幼い時、私がまだ生きている時に、少しでも子供たちに、小言を言う信仰伝道ではなく、もしこの子が一般の人だったら、私がどう伝道するかと考えて、攻略して念入りに祈ったり、み言葉を伝えたりする過程があります。でも、私たちは、子供たちは当然そうなると思ってきた、という考えをよくします。何だか、私より上手な方々の前で小言を言う感じがして、申し訳ありません。
― 聖殿アカデミーについて
聖殿アカデミーは2代王様が 枠組みを作ってくださいました。 2代王様が、様々なみ言葉をくださり、多くの訓練をなさっておられます。 私が平和軍平和警察訓練についてまとめた内容を申し上げたのですが、2代王様が「それでいい」と承諾をしてくださいました。 私たちが平和軍と平和警察で訓練すれば、銃の訓練をすることだけ、鉄の杖訓練だけすると考えがちですが…。 もちろん鉄の杖もありますが、この平和軍平和警察訓練は第1祝福、第2祝福、第3祝福、すなわち、生育せよ。繁殖せよ。万物を主管せよ。 この第1、第2、第3祝福を完成させるそういった祝福、そういう訓練が平和軍平和警察訓練だ。 このように見ることができます。 そして、第1、第2、第3の祝福を我々が享受できるように、訓練できるように保護する役割をするのがまさしく鉄の杖だ。 このように枠組みを作ってくださいました。 あまりにも理論的になるのがちょっとあれですが、第1祝福は個人で、第2祝福は家庭、そして第3祝福は万物主観。 これの説明は少し、長くなるのですが…。
第1祝福はお分かりだと思います。 バイク訓練、祈祷室訓練など様々、ブラジリアン柔術訓練、生死主観訓練、訓読会訓練などたくさんありますね。 第2祝福も、2代王様が たくさん語られましたね。夫婦の日をすること、1:1の子供の日をすること、こういったみ言葉をたくさん語られました。ところで、第3祝福の万物主管について、2代王様がおっしゃったことの中で私が思いつかなかった部分があります。
万物主管は経済的な部分もありますが、家庭菜園やタイニーハウスも万物主管に入ったりもしますが、2代王様がこうもおっしゃっていました。 「女は夫に対しては対象の立場だが、万物に対しては主体の立場だ」こうおっしゃったんですよね。 私はそれがとても不思議でした。 私にとって非常に大きな悟りを与えられました。
女性達の場合、最近バイク訓練をするのですが、最初は私がなぜバイクや、鉄の杖訓練をしなければならないのか、ただ男性達だけがすればいいんじゃないのかと思ったんです。男性たちの方が強いっていうのに、なんで私がやらなきゃいけないの? こう思いました。
しかし、2代王様がおっしゃることは、「女性は男性には対象の立場だけれども、万物に対しては主管する立場にある。」 女性たちは昔、馬にも乗って···。 箴言31章に、箴言はずっと、「息子よ、息子よ」と言っているのですが、一番最後の31章は、この知恵の本が女性で終わります。 どんな女性がいい(賢く淑やかな)女性なのか、そのように終わります。 だから…え? これは何だろう?ちょっとおかしいなと思うほど、どんな女性が神様が望む女性なのかが、ずらっと出てくるんですよ。 ところで、この箴言31章の女性像とは、万物主管する女性なんです。 商業もしているそんな女性です。 腕をまくって仕事をし、こんな女性像が出てきます。 ですから、女性が万物に対しては主体の立場になるということをとても強調しているんですよ。
それで、この万物主管は男性は当然のこと、聖霊大学の先生方も女性が多いじゃないですか。 それがバイク訓練であれ、実際我々の体も、ある意味神様が作ってくださった万物の一つではないですか。 「この万物も、心と体の統一も、第1祝福にも入るけれども、体を主管することも万物主管に入り得るんだな」とも思い、私たちが怖がること、困難なことも、万物主管の一環になるのだなとも思いました。
それで、その部分は今日たくさんお話ししたので、そのまま短く話すことにしましょうか。
聖殿アカデミーでは、このように平和軍平和警察の訓練として第1祝福、第2祝福、第3祝福を訓練する場である。 こう考えることができると思います。 一つだけ付け加えると、第1祝福、第2祝福、第3祝福を可能にし、天一国を保護するのが鉄の杖だ。 このようにおっしゃいました。 そこに鉄の杖が入ると言われました。
― バイクに乗る息子を持つ方に助言
バイクに乗り始めて6ヶ月くらいから、気をつけなければならないそうです。 2代王様も道が交差する交差点に入ると、いつも「パン!パン!パン!」と大きなクラクションを鳴らしていました。 そちらの道に車が少しでも見えるとしたら、車が出てこなくてもパン!パン!パン!~~~~パン!パン!パン!と鳴らすのです。 なぜかというと、車からはバイクが見えないらしいのです。 バイクが小さいから目に入らないそうです。
2代王様が一番前にいらっしゃるじゃないですか。 私がずっと見ていると、いつもパン!パン!パン!と鳴らされ、交差点からも一時様子を見てから出発されます。そのままでずっと行かれずに。なぜなら、たまに信号を守らずに来る車もあるんです。 私達も黄色信号の時アクセル踏んで 行く時があるじゃないですか。 そのため、その2つの点にいつも気をつけるのだそうです。 そして、道路が2車線から1車線になる地点では、速度をいつも落とします。 なのでほぼ、その3つの点に、気をつけておられるようです。 そして夜にはほとんど乗りません。
そして、お酒を飲んではいけませんね。 普通、事故はお酒を飲んだ時に起きる場合が多いんですよ。
そして息子さんには「ねえ、息子君。気をつけて乗りなさいよ!」この言い方はあまり役に立ちません。 「2代王様も交差点などでは、パン!パン!と(クラクションを鳴らして)乗っているそうだよ。 お前もそうした方がいいよ。」と、このように正確に言ってあげるほうがいいです。
10代が一番嫌がる言葉はこうだと思います。 「ちょっと、気をつけて乗りなさいよ。」 でなければ「もうちょっときれいにしたらどうなの?」
なにを具体的にどうしろというのか? ヘアロールをしろだとか、化粧を赤色でしろだとか、何か正確な注文がなければいけないのに、あいまいに「何とかしたらどうなの。」 なにかしらこういった言葉は、本当に役に立たないし小言のように聞こえます。 「気をつけて乗りなさい」とかよりは、 「こうこう、こういうのは危険なんだって。」 具体的に言ってあげる方が良いと思います。
― ミーティングに参加している2世に(母も一緒に参加)
お母さんに、自分に合った聖書の勉強方法を具体的に話してみてください。 お母さんも一緒に話し合われたらいいと思います。 親たちは、(子供たちに)してあげたいことがとても多いのが問題です。 「お母さん。私、このくらいだったらできそう。」 と正確に言うべきです。 そうでなければ一気に5時間ずつくらいするかもしれませんよ。(笑) 「祝福を受ける前に、これは絶対やらなければならない!!」こういうやり方ですると、2人とも疲れてしまいます。 二人とも疲れてしまうので、自分にできるだけの量を正確に話すのがいいです。 うちの娘は話すんですよ。 「お母さん、今日はアルバイトがあるのでできません。」 という話もします。 だからそんな時は休んであげるんです。無理やりにさせるのも良くないのですよ。
◆質問:最近、息子が、自分には神様がいるとは思うが、確率は50:50だと思うと言うんです。 息子が小学校の時「神様は(自分が)望めば答えてくださる。声が聞こえる。」と答えてあげたことがあるのですが、「自分は神様の声が聞こえなかったから、だから50:50なんだ。」と言う息子をどのように導いていけばいいでしょうか?
2代王妃様:
信仰教育について、私たちが知っている分だけを話してあげるしかないのですが、具体的にお話することが非常に重要だと思います。
私の場合も、祈祷に対する不信感がいつ生じたかというと、障害をもって生まれた弟を治してほしいと祈ったことがあるんです。 それなのに、いくら祈っても聞き入れてもらえませんでした。 ところが私の母親は、祈れば聞いてもらえるものだと言うんですよ。 それで私は「あ~、神様は必要ない。私とはなんの関係もないんだ。」 そう考えるようになりました。 その質問が私にとってそれほど大きな質問だったとは思いもしませんでした。 これが本当に不思議です。 私にとって非常に重要な人生の質問だったのに、これを誰にも口に出すこともできず、またこれが私の心の中の大きな葛藤となっていたということさえも認知できていなかったので、ただそうやって生きてきました。
ですから、我々が祈りについても体系的に説明することが必要だと思います。 2代王様も以前語られたと思いますが、神様は私たちが祈った場合に3種類の返事を下さいます。.
神様はYesとも答えられ、Noとも答えられ、待ちなさい。 ともお答えになる。 ところが、私たちが知らなければならないことは、“神様は私たちを、私たち自身よりもあまりにもよく知っておられる。”ということです。 私たちが10億がほしくても、この職業につきたくても、私たちに必要でなければ神様は「No」と答えられるのです。
また、祝福がうけたくて仕方がないのに、神様はしきりに「No」と答えられるという人がいますが、それは「No」ではありません。 それは「待ちなさい」という返事です。「おまえの祝福を受けたい気持ちは分かった。 しかし待て。 彼ではない。 しかし待て。」 ところで待てと言われたとき、私たちは待つのが難しいのですね。 そうですね。それではその待つこともどのように待つのか、ということも話してあげられなければなりません。
そして、Noと言われる時もあります。 「私はこの職業を本当に願っていました。 それなのに、神様がダメだ! と、試験で落とされました。 この大学に本当に行きたかったんですが、弘大美術大学に行きたかったんですが。 それなのに神様がだめだと言われました。 私に不合格を下さいました。 それで、また浪人していたんです。 浪人しながら、僕がここに来ることになったというわけです。 もし、その大学に入っていたら、おそらく遊びに夢中で、そしてあまりにも純粋だったので、おそらく先輩たちを通じて堕落していたかもしれません。 あまりにも純真だったから。 とても切実な思いでした。 一生懸命準備したし、勉強してきたから。 けれども、(今思うと)神様が僕を不合格にされたのは、僕のためだったのかもしれません。」
「あの人と、祝福を受けたくて仕方ありません。 この人のことがとても気に入ったんです。」 けれどもその人に、神様はNoと言われました。 それがその人にとって祝福であるということです。
そういうケースを、たくさん見ました。 ある人が、ある人と本当に祝福が受けたくて泣いて、泣いて、泣いたけれども、結局かないませんでした。 けれどもそれがその人にとっては良いことでした。 私がその子に、「その人はそんなにいい人じゃないよ。 もう、あきらめたほうがいい。」 このように言うことはできないじゃないですか。 両方を知っているから、 両親のことも知っているじゃないですか。 でも、この子とは合わないのです。 祝福を受けていれば、もっと大変なことになっていたでしょう。 お互いに。 でも、とてもとても祝福を願っていたんです。 一方のほうから。 でもこの2人の問題は、よく整理ができました。 そんな場合は、もちろん私が神様という話ではありませんが、神様がこの子のためにNoと言われる時もあります。
ですから「祈祷をしたら、神様が叶えてくださるわよ」と話した時、子供は5年生の時の経験だけを言うのです。
「息子君。考えてごらん? お前がバイクについて切実に望んでいた時、神様に祈ったら聞いてくださったんじゃない。 そうだよね?」そして、他のことも話してあげるんです。 そうしながら私たちが聖書を見る時に多くの人物が祈りを捧げるのですが、ある時は待つことが出てきて、ある時はNoという答えも出てきて、Yesという答えも出てきて、様々な答えがたくさん出てくるんですよね。
Noという答えが出た時はある人物を連れてきて、ヨセフのような場合、ポテパルの妻が謀略を働いて刑務所に入れられた時、神様に「悔しいです。自分を刑務所から出してください」と祈ったのではないでしょうか? けれども神様が3年間監獄にいさせたじゃないですか。
お父様も神様が燦爛たる約束、「お前が再臨主の使命を担え」と言われたにもかかわらず、興南監獄に入れられたではないですか。 神様がお父様に苦難を与えたましたがその時、神様はお父様のその姿勢を見たのではないですか。「お前はどうやってこの苦難をやりとげようとしているのか?」 このように見られたじゃないですか。 けれども、お父様は『栄光の恩賜』を神様に捧げられたのではありませんか。 そのようになさいながら、「神様にもっとして差し上げることができないことに申し訳ない心を禁ずることができません。(栄光の恩賜)」こう答えられましたね。
神様との会話なのです。 結局は「天一国歌」その歌詞が…。 お父様が神様に捧げる独白じゃないですか。 だからお父様を興南監獄に送られたのですが、それが神様のお返事だったというのです。だから、そのような信仰の姿勢について話をしてあげるのです。
2代王様が、信俊と信得に特に強調されているのは「キリスト教弁証論」です。 キリスト教弁証論を勉強しろと強調されていますが、私は全部は見ていないのですが、「ウィリアム·レイン·クレッグ」という方がいます。 この方のキリスト教弁証論の講義があります。 検索をしてみたら 7分位のビデオがずらっとあります。
そして、【답답함에 답을 하다.(もどかしさに答える)】 (ユーチューブ:チョ·ジョンミンの답답답)この牧師も答えを簡単に比喩的によく説明してくれています。 ですからそういった部分(信仰生活における質問と答え)が出てきます。 どうすれば 神様とお話がよくできるのか。 よく祈れない時にどうすればいいのかなど、その牧師さんのチャンネルも良さそうです。 そして、若い方が見る分で良いものは、【성서학당 (聖書学堂)】でもいいですが、少し長いので。短く軽い気持ちで見れるものは、【CBS 날마다 새롭게 (毎日新しく)】ではなく、YouTubeで見れますか? あ!ここにありますね。 【CGN TV SOON】というのがあります。 これも良かったですね。
このような映像を見ながら、私たちが勉強する必要があります。 子供のこういった質問は一生に一度の質問です。 ただの質問ではありません。 伝道対象者からの質問です。 とすると、私は最高の答えをしなければなりません。 伝道しないといけないじゃないですか。 この祝福を。祝福を伝えないといけません。 神様の前に主の弟子として育てなければなりません。 とても深刻な問題です。 子供がその質問をしたということは。 「お前がそういう話をしたからお母さんがちょっとじっくり考えてみたんだけどね。 そんな質問をしてくれて母はとてもうれしかったよ。」 嬉しくなくても嬉しいと言うべきです。(笑)お母さんが演技者の気質がなければなりませんね。 半分は努力でなされるものなのかもしれませんね。 それは仕方がないようです。
神様のことがよく分からないというのにはいろいろあります。 祈りの問題もあり得るし、私には霊的体験もない。 私が二世だというけど一体何が特別なの? 神様と話すこともできないのに… 子供の中には本当に多くの質問があります。 その質問をこうやって引きださなければなりません。 引き出して子供が質問したいことが何であるのかを見つけなければなりません。 その作業は私たちに言語というものが与えられているので、それを通じて行うしかありません。 心を開いて見ることはできませんから。 その努力が必要なようです。 その二つのサイトが役に立てばいいですね。
2代王様はバイクのマフラーをエンジン音が大きくなるものに変えました。 できればマフラーやクラクションの音が大きければ安全なので、変えるのがいいかもしれませんね。
◆質問:深いお祈りをするためにはどうすれば良いでしょうか。
2代王妃様:私もそれほど深い祈祷をする人ではないので、お話しするのが少し申し訳ないですが。私が長い間、気になっていたことが一つあります。 関連した内容なので言いますが、クリスチャンは疲れることなく信仰生活するのに、統一教徒はなぜ信仰生活のなかで疲れてしまうのか? とても気になっていました。
どうしたら私は楽しく信仰できるのだろうか。 どうすれば神様に出会って信仰することができるだろうか? それが私にとってとても大きなテーマでした。 そういう部分についていつも悩んでもみたし、 いろいろな方法もやってみました。
今も色々やっているのですが、 最初は祈祷の部屋がいいと思いました。 男性の方には合わないかもしれません。 でも女性の方々には確実に良いと思います。
イエス様も、人々が見える所で祈らずに小部屋に入って、静かな密かな所で神様と1対1で祈れるような場所を作りなさいとおっしゃったので、マタイによる福音書6章ですか? そこでそう祈りなさいとおっしゃったから。 ここに出てきますね。 (聖書を見ながら)マタイによる福音書6章6節に "あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。" また、マルコ福音1章35節に" 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。"こんなみ言葉もあります。
真のお父様も 16歳でイエス様にお会いした時, 猫頭山に一人で登られ、家から 1時間半位かかる所なのに一人で登られ、密かに 1対 1で神様に会える所で祈りをされ、そこでイエス様と出会いました. だから、イエス様もそうですし、真のお父様もそうですし、神様と会えるそういった隠れた密かな場所、私達は普通、隠れた場所で若者達はアダルトサイトを見たり、女性はドラマを見たり、ウェブトゥーンやウェブ小説とか見るじゃないですか。 最近は、アダルトサイトの10%の顧客が女性だそうです。 アダルトサイトを見るその10%は、 地下鉄のど真ん中で見ないですよね。 隠密な所で見るのではないですか。 そうですよね?
神様と会えるような秘密の場所がなければいけないと思います。 それが祈祷部屋でも良いし、家の庭の石でも良いのですが、女性の方には祈祷部屋をお勧めします。 部屋の片隅でもいいです。 でも自分のスタイルに合うといいですね。 この前、私が祈祷はひざまずいてしなければならないと思い、そんな場所を作ってひざまずいて祈祷していたのですが、何度も居眠りするようになってしまったので、私にぴったりのやり方ではないんだなと思いました。(笑) なので今は椅子に座ってお祈りするやり方で、祈祷部屋を変えてみました。 だから祈祷部屋は、 自分のスタイルがないといけないようです。 祈祷の部屋は自分が好きなスタイルに飾ればいいです。 好きなみことば集とかお祈り集とかもいいですね。
二番目はQUIET TIMEです。 「敬虔の時間」ともいいますが、 最近私がこの敬虔の時間をしています。毎日すれば良いといいますが、毎日はできないのですが努力はしています。
私たちは、信仰生活がすべて訓読会を中心に動いているじゃないですか。 訓読会は、あえて言うならば第2祝福に近いです。 訓読会は集まってみことばをを一緒に読むものじゃないですか。 それで訓読会は第2祝福の信仰生活により近いとみることができます。 もちろん、第1祝福として一人で訓読をしても良いですが、お父様が訓読会をしておられたのを見ると、多くの人と一緒に訓読会をなさいましたね。 訓読会と言えば、多くの人と家族が集まってすることだと考えると思います。
でもQUIET TIMEは少し違います。 QUIET TIMEは何かというと、 主と私の1対1の時間です。 最近、私がやっていることは朝起きてから20分ほどQUIET TIMEをしてみようと思っています。 とても簡単です。 聖書に様々な人物が出てきます。 例えば、この前ヘロデをしたんですが、 ヘロデについて聖書に出てくる部分を読み、ヘロデについて考えるのです。 ヘロデのある部分は悪く、ヘロデにも良い部分があるんだな、こんな部分は私が真似てはいけないな…と。今日神様が私にくださったみ言葉を一つ一つ書きだすんです。(ノートを見せながら)サムエル、スルバベルと書きます。
並行して勉強している本があります。 「敬虔の時間を過ごせる6つの秘密」(Six Secrets to a Powerful Quiet Time)という本です。 この本でどうすれば敬虔な時間を上手くできるのか、今しています。 その日の気分によって聖書の勉強の中で良かったみ言葉を書いたり、み言葉の映像を見て良かったみ言葉、苦難というのはいつも悪いことだと思うが、いつも日光があれば砂漠になり、いつも波のない海には潮流が生じます。 こんなことも誰かがおっしゃったんですよ。 それで、そのようなみ言葉も再び書き取ってみて、私の人生に苦難があれば、私はこれを神様が私をもっと素敵な陶磁器で仕上げてくれるための痛みなのか、どうすれば神様の方法で私がこれを解釈できるのかなどを話す人がいましたが、そんなことも適用してみたりします。 ところが、これの焦点は常に絶え間なく続けることです。
ところが、私がこれをなぜするようになったかというと、さっき言ったたように、どうすれば祈祷生活がもっと深まるのかと悩んだ挙句、色々なことを探してみたのですね。多くのキリスト教宣教師の方たちが宣教に行くとだんだん枯れてきてしまい、仕事だけをしていたら神様も忘れて、恩恵も忘れてしまうような場合が多々あるというんです。 そこで、そのような状況をどのように克服したのかを聞いた時、「Six Secrets to a Powerful Quiet Time」があるという話を聞いたんです。 それでやってみているところです。 簡単に言えば、これが神様との1対1の訓読会です。 誰かに見せるために集まって行う訓読会ではありません。 私が神様からみ言葉を直接受ける時間です。
核心はこれです。 神様にいただいたみ言葉を一日中黙想することです。 そうすることで力が生まれるのです。 一日中、神様のことを考えることができる力が生まれるのです。 今日のような場合は、「私にある苦難が、私が大きいと感じていたのも、あぁ、今まで苦しいとばかり思っていた苦難に対して、それをきちんと解釈できる能力が私になかったからだったんだな。これは神様が私に下さる鍛錬の課程、訓練の過程なのだな。」このように考えて解釈できる能力がなかったからだと思います。
それで、そういった部分を反省してみて、この部分は私が反省しなければならない、この部分は神様が私に祝福を下さるのだなと、このようにするのです。 毎日いいことばかりではありませんよね。 (笑)ある時は欠かしてしまったり、完璧ではないがそのように努力をしてみる。
たぶん、私より信仰が深い方々はもっと良いアドバイスをしてくださると思います。 私がお話しできる部分はこういったところです。 祈りだけで終わるのではなく、祈りとみ言葉を並行していけるようにすることが大切なのだと思います。
私にお金がなく、状況が切迫していて本当に何もなくても、「神様、私の力ではできませんが神様の力によるならば、全て成すことができるということを信じます。」こうして私の祈りではなく、神様のみ言葉が私の祈りになるのです。 神様を通じて私は全てのことができると信じます。 今は神様が待ちなさいと言われたので、私は喜んで忍耐し、そしてこの喜びの忍耐の中で神様の栄光がより現われるように私にできる知恵をください。
このように、私の言語ではなく、神様の言語が私の言語になるように、神様のみ言葉が絶え間なく祈祷の中に入ってくるようにする作業が非常に重要だと思います。
私が今思い起こしてみると、お父様も同じようになさっておられました。 お父様は訓読会を5時にされるではないですか。 お父様は朝起きられるとお祈りをされ、その次に運動をなさいました。 ほぼ4時に起きられて、祈って、運動して、今日のみ言葉のことを考えられ、また祈っていたことを考えられて、お父様においてはそれが完全に生活化されたものでした。
ヘリコプター事故の前には、お父様はいつも白い下着のズボンを着て走られました。 今思うと、お父様はただ運動だけされていたのではなく、その時間が神様との1対1の時間だったんだんだな。 そうだったんだ。 私がそれを逃していたんだな。 お父様もすでに敬虔の時間を神様としてらっしゃったんだな。 私たちはお父様の見えるお姿だけを見てきましたが、お父様は神様と1対1の時間をしていたということをもう一度悟りました。 私たちもお父様に似て、同じようにやらないといけないですね。 イエス様がされていたように。またお父様がされていたように。
それで、神様との関係が深くなるということは、一番目は神様とお会いする密かな場所、二番目は敬虔な時間、神様と1対1の関係、そして三番目を一つ付け加えると、神様のみ言葉を私の祈りとすること。
このように3つを地道に実践してみると、そこにおいて祈りの深さが生まれる実ができるのではないかと思います。
― 2代王妃様の祈り
愛と恩恵の多い天のお父様、ありがとうございます。
お父様、私どもは本当に不足で主の前には本当に身の毛ほども価値のない者であるにもかかわらず、あなたが一人一人を立ててここまで導いてきてくださいました.
神様の裾でもつかんでここまで来る思いで、お父様、私たちは孤軍奮闘して出てきたと思っていますが、結局はあなたがすべて導いてくださり、あなたが注いでくださる恩恵、あなたが注いでくださる信仰で、ここまで大きくなることができました。
振り返ってみると、実に多くのことがありましたが、過ぎればすべて愛だったとおっしゃったように、私たちが通過した苦難も障害物もすべて主の前におろし、また私の栄光の王冠もすべて主の前におろし、私たちの父、お父様お一人だけを見つめながら信仰できることを、改めて感謝申し上げます。
お父様、私たちは時には主の前で本当に申し訳ない姿ですが、主が恩恵の神であり、あわれみの神だということを知っております。
また、この難しい時局において、私たちの体は殺せるが、私たちの霊を殺すことのできない、そういったものを恐れずに、私たちの体と霊を地獄の火で焼き尽くすことができるような、神様お一人だけを恐れる信仰の道となるようにしてください。
貴重な再臨主に私たちの人生で出会い、私たちがどれほど祝福された者であるのか、私たちがもう一度考える時、主から与えられたその恩恵が、返しても返すことができない、主に差し上げても差し上げることができなかったことを申し訳なく思える、そのような姿になるよう切に願い申し上げます。
私たちは、お父様、まだ幼くて足りないですが、主が導いてくださったことをもう一度感謝し、私たちの人生を通じて主だけがお一人、栄光を受けられることを切に切に願っております。
本日、ここに送ってくださったすべてのリーダーとサブリーダーの方々の人生においても、主が光となり、踏み出すための光となり、主が導いてくださり、彼らの道をあなたが真っ直ぐにしてくださることを願います。
全てのことに感謝をささげ、祝福中心家庭の文亨進、李妍雅家庭の名前でご報告申し上げます。 アーメン。アジュ。
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