【真の子女の日訓読のみ言】(江利川大陸会長提供)
まず教会生活を徹底しなければなりません。そうするためには、公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席しなければならない時間に対して、模範にならなければならないのです。
その次には、公式的活動において模範にならなければなりません。皆さんは、み旨の生活の中で、蕩減復帰路程をよく知っているでしょう。自分が行かなければならない、運命をかけて行かなければならない路程だということをよく知っているはずです。これを皆さんがよく知っているように、皆さんの子女たちもよく知っているのです。
ところが、子女たちが見るとき、父母が行くべき道を行くことができなければ、子女たちがそれを批判するようになるでしょう。そのようになれば、父母たちが子女たちに影響を与えることができないのです。父母が責任遂行できなかったという弱点があって、子女に影響を及ぼすことができなかったなら、それは父母がみ旨の生活をおろそかにしたという問題に結びつかざるを得ません。
ですから、皆さんが公式集会に参席したか否かが問題になるのであり、その次には、公式活動において責任を遂行したか否かが問題になるのであり、その次には、家庭生活で子女の前に父母として模範になったのかなれなかったのか、ということが問題になるのです。
公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝時間に合わせるために早朝から精誠を尽くし、その日を神様にお捧げする、それを生活化することを子女たちに教育しなければならないにもかかわらず、自分たちがすることをすべてして……。「み旨の生活をしている」と言いながら、祈祷をしているか、精誠を尽くしているか、原理の勉強をしているか、伝道をしているかというと、それらを何もせず、聖日の礼拝時間が10時30分ならば10時30分、その時間に合うように参加するためには、9時30分か10時に出発してこそ礼拝時間に到着するのに、時間になってから家を出発し、礼拝中に入ってきてこっそり座るというのです。このようにしていれば必ず批判されるのです。いくら父母の立場で子女を教育したとしても、受け入れられません。
ですから、皆さんは、公式生活において模範を見せなければなりません。言い換えれば、教会生活を徹底しなければならず、公式活動も徹底しなければなりません。この二つが問題になるのです。
皆さんは、村なら村のある班に所属して暮らしているでしょう。そこで皆さんが生活するとき、その班全体をみ旨の前に吸収させるためにどれほど努力したのかということが、子女教育にとても大きな影響を及ぼします。み旨を中心として生きるようになってからの生活の違い、つまり村でどれくらい模範的な生活をし、対人関係でどれくらい模範的な関係を結んだのかということが、子女たちの批判の対象にならざるを得ません。したがって、公的な生活を強固にしなければならないのです。
その次には、皆さんの私的生活です。夫婦が家庭でみ旨の生活をするとき、祝福を受ける前も、祝福を受けたあとも、変わったことが何かあるのかということです。夫は夫で自分の考えを押し切り、妻は妻でうんざりしながらガミガミ言う、これが昔よりもひどければ、子女たちの手本にならないのです。昔とは違わなければなりません。格段に違わなければならないのです。昔とは変わって、子女たちに尊敬され得る条件をどのようにつくるか、ということが重要な問題です。ですから、私的生活でも模範にならなければなりません。
み旨を知っているので、昔よりは大方、よくなっていると思いますが、子女たちには、彼らなりに見つめる標準があるでしょう。15歳以上なら、もうその子なりの批判基準が立っているので、父母のよしあしがすべて分かるのです。10歳になれば、母親が正しいのか間違っているのか、すべて分かるというのです。15歳くらいになると、もう社会に対する目も開きます。友達の家庭に対しても、どの友達の家庭はどうで、その父母はどうだということを、すべて批判できる基準が立っているのです。
したがって、子女たちが昔に見ていた父母と、現在に見ている父母に何の違いもなければ、その父母たちは子女たちを教育することができません。ですから、過去とは格段に違わなければなりません。家庭生活やその村での対人関係で、このようなことが問題にならざるを得ません。子女は、自分なりに「み旨を中心として行く人はこうでなければならない」という観をもって父母を見つめ、自分なりの目星をつけているのです。
それで、自分が目星をつけている基準以上の父母になるときは、子女たちは、黙ってその父母に従います。そのようになれば、父母が父母の権限をもって「こうでなければならない」と言うとき、「はい」と言うのです。そこには応じないということがあり得ません。
しかし、子女が「父母はこうでなければならない」と目星をつけている基準以上の父母になることができず、その基準以下のときには、父母を不信任するようになるのです。その基準との差が10であれば、10だけでなく、その3倍以上、父母を不信任するようになります。これらの問題が内在していることを皆さんは理解して、私的な生活で模範的な家庭生活を営為しなければなりません。
それでは、祝福家庭の中に、聖日の礼拝時間の前に先に出てきて準備する人が何人いるか考えてみてください。聖歌をすべて歌い、説教の時間になると、その時にぴったり合わせて入ってくるのです。そのような人たちを、どうしてみ旨に従っていく人たちだと言うことができるでしょうか。そのような人たちは、いくら弁明しても、公的生活をすることができずに私的生活をしているというのです。そのような人たちには、何かの希望をかけて期待する、何の内容もないのです。ですから皆さんは、今回の集会を通して新しくみ旨の前に覚醒し、公的生活の徹底化、私的生活の模範化を決意していかなければなりません。
ですから、祝福家庭は、一人もかけることなく礼拝時間の前に来て、礼拝に参席するたくさんの命に恩恵の雰囲気をつくってあげ、恩恵を受けるようにしてあげなければなりません。そうして、地区長なら地区長、地域長なら地域長が壇上にあがる前に、そのような心情的基盤をつくって支えてあげれば、説教者が説教をするときに、食口たちの切実な表情を見て、刺激を受けることができるのです。そのような教会員が多ければ多いほど、その教会は発展するのです。
それでは、私たちの体制の中で、誰がそのような教会員にならなければなりませんか? 祝福を受けていない家庭がならなければなりませんか、祝福を受けた家庭がならなければなりませんか? それは言うまでもなく、祝福を受けた家庭がならなければなりません。今後、祝福家庭の皆さんは、所属した地域なら地域、地区なら地区の教会で、責任者を中心として結束しなければなりません。いまだこのようなことが体系化されていないというのが、全体の地方教会の実情ではないですか。もちろんそのようにしている人もいると思いますが、全体がそうでなければなりません。
(『文鮮明先生御言選集』 31-268~271 1970.6.4)※み言の題目「既成家庭の責任」
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