文顕進氏の正反合父子対立闘争論
2025年12月17日 テネシー清平韓国語水曜礼拝
「喜びの報告」<1>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
翻訳minion 監修fanclub
テネシー清平韓国語水曜礼拝權教授한국 수요예배 12 17 2025
こんにちは。もう12月も深まってきましたね。
来週はクリスマスで、それから少し経つと年末年始になります。一年を過ごす中で、皆様がしっかりと締めくくられますように。
本日の礼拝の御言を捧げる前に、コメント欄に寄せられた内容のうち二点をご紹介し、コメントに対する立場をお話しします。
もちろん、私たちの礼拝を通して疑問に思っていた真実を見ることができたという賛同のコメントもありましたし、一方で、罵詈雑言や呪いの言葉で埋め尽くされたコメントもありました。
数あるコメントの中で、ああ、このような内容については私の信念を明らかにしたり、受け入れる必要があると考えました。
そのような理由から、本日はまずコメントを紹介し、私の立場をお話ししたいと思います。
何故、攻撃性のある対立説教をするのか?
一つ目は、
「サンクチュアリ教会の牧師は、礼拝を通じて食口たちに神の福音を伝える恵み深い御言よりも、なぜいつも家庭連合や家庭平和協会の非原理をつついて指摘し、対立する説教で食口たちの心を緊張させ、他団体に対する攻撃性を起こそうとするのか?」
という内容です。
忠告の御言に感謝いたします。
私はもともと牧会の志を持っていたわけでもなく、実際牧会に関心もありませんでした。
30年近く、ただ表に出ない一般食口として信仰することを望んでいました。
私より先に 信仰の道を歩んできた先輩たちを尊敬し、彼らから信仰を学びたいと願っていました。
全世界が違うと反対しても、真の父母様と原理への確信があり、統一教徒であるという事実に誇りを持っていました。
だから反対する人々の前でも信仰を隠さなかったのです。
しかし真の御父様の聖和前後、誇りであった真の家庭が崩れるのを目撃し、信仰の誇りが墜落するのを感じました。生涯の信念が否定される真の心情を覚えました。
その後、私は当時の状況に対する本当のことを知るようになり、真の御父様の御言に関心を持つようになりました。
そして御言を研究する中で、当時真の御父様周辺に存在した善と悪をはっきりと見るようになりました。
その後、後継者である文亨進様の中に真の御父様の御心を再び見出し、その時から三代王権の証人となることを心に決めました。
以降、私の関心は、私が悟った善と悪を食口達と共有したいという思いを持つようになりました。
私は包容や愛、理解や共に歩むことよりも、善悪の分離と義を選んだ者です。
したがって、恵みの言葉や内面の深い悟りを追求する方には、私の礼拝の言葉は助けにならないと思います。
聖殿には恵み深い言葉を語る優れた訓師様や立派な牧師様がいらっしゃいます。YouTubeを通じて、キリスト教牧師の説教を通して、恵み深い心の糧を得ることもできます。
しかし、統一教会の現実に対して怒りを感じ、真実と義を追求する方に、私の礼拝の内容が助けとなることを願います。
何故敬称を付けないのか?
そして二つ目のコメントを紹介します。
「家庭連合の韓鶴子総裁が原理から外れたとはいえ真の母であり、家庭平和協会の文顕進会長も真の御父様を離れたが真の子女であるのに、どうして敬称をつけずに韓氏オモニあるいは文顕進氏と呼ぶのか?
真の家庭の子女であるならそう呼べるかもしれないが、食口の立場としてそのように軽々しく呼んではならない。礼儀を守ってほしい」。
このような内容でした。
もちろん、このような忠告の言葉は、今後礼拝の言葉を準備する際にもう一度考えてみようと思います。
私は40年近く身を置いていた家庭連合を離れ、荒野の三代王権に従う者です。
御父様を裏切った人物が真の家庭の中から出てきたという事実に非常に混乱しましたが、今は心を整理しました。
私は御父様に背き裏切った者たちに対しては、敬意の念を全く持っていません。
彼らが真の御父様の夫人であったとか、息子や娘であったとか、かつて私が尊敬していた牧師であったなどは重要ではありません。
私は現在の彼らの行いと主張によって判断しています。
したがって私は、真の御父様を裏切り傷つけた者には、その人物が誰であれ、「真の」という接頭辞や「様」という敬称を付けようとは思いません。
私は彼らを真の御父様の理想として見ることはできません。
この点をご理解ください。
しかし基本的な礼儀は今後守るようにします。
以前、郭グループの幹部キム某氏が真の御父様が立てられた後継者について「偽キリスト」「悖倫者」「偏執的な狂気に満ちた多重人格障害者」などと述べ、誹謗中傷を平然と撒き散らすのを見ました。
その理由で私は郭グループに対する敬意はなくなりました。
とはいえ私はあの人物のように無分別な暴言は吐きません。
したがって私は暴言は避けつつ、事実は躊躇なく明らかにしようと思います。
これから、多くのご意見とご評価をお願いします。
ありがとうございます。
郭グループの、愛と美がない三対象目的
本日の礼拝の題目は「喜びの報告」です。
まず郭グループの主張について見ていきましょう。
郭グループでは、統一教会の信仰は御父様神格化に基づく信仰だと言います。
『指導者たちは食口たちに「御父様は全てをご存知でおられ、間違うことがなく、我々とは次元の異なる神的な存在だ」と このように信仰教育を行いました。
このように御父様を神格化することで、食口たちは真の父様の言葉と指示に絶対服従することが正しい信仰だと考えるようになりました。
この信仰は、神様と人間の親と子女の関係を主人と奴隷の主従関係に墜落させてしまいます。
原理的に主体と対象の関係がどのようなものか見てみましょう。主体と対象は指示と服従の関係ではない。
神様を中心とした授受作用・正分合作用・四位基台において、主体と対象の関係は主従関係ではなく相互補完的関係である。
妻は無条件に夫の言うことを従わなければならない。
また子女は親の言うことを無条件に従わなければならないと原理は教えない。
愛を与える側が主体であるため、子女が主体となり親が対象となることもある。
創造原理で明らかにした三対象目的は、たとえ子であっても愛の主体となれば、四位基台の他の格位である神様、父、母も対象となることを教えている。
御父様の指示に服従するという食口たちの御父様との関係は、真の子女の心情とはかけ離れている。
それはまるで親子関係ではなく、主人と奴隷の関係である。
創造本然の父子関係である御父様と顕進様との間の父子関係が指示と服従の関係であったはずがない』。
このように郭グループで語られています。これは原理の三対象目的にある内容です。
しかし郭グループで特にこれを強調する以外に、明らかな落とし穴があります。
郭グループでは指示と服従の関係は主人と奴隷の関係だと言います。もちろん必ずしも間違っているとは言えないでしょう。
しかし統一原理の正分合理論は、愛と美を与え受けする授受作用を語っています。無条件的な指示服従の関係ではないにせよ、大いなる目的のために存在する一つの目的的な関係です。
郭グループでは子女が主体となれば、神様、父、母も対象となるのだと主張します。
もちろん三対象目的において、子女も愛の主体となることができ、神様と父も対象となることができます。
しかし原理で言うのは、各格位が神様と愛で一体となった状態を言います。無条件にそうであるというわけではありません。
では文顕進氏は個性完成を成し遂げ、神と一体となったのでしょうか?
メシアの血統だからといって自動的に完成して生まれる恵沢があるわけではありません。
むしろより厳格な人間の責任分担が求められるのです。フリーパスでただ乗りできるものではないという話です。
このような主張は、文顕進氏が真の御父様に背いて出て行った事実を正当化するための言い訳に過ぎません。
は?父子関係だから背くことができる?
真の御父様と顕進氏は主従関係ではなく父子関係だから背くことができると正当化します。
これが何という荒唐無稽な主張でしょうか?父子関係だから背くことができる?
真の御父様が私たちに指示と服従の主従関係であれとおっしゃったことがあったでしょうか?
真の御父様は私たちに一心、一体、一和の関係を教えられました。
これは主従関係ではありません。主体と対象が一つであることを教えられた御言です。
そして文顕進氏と真の御父様の関係が創造本然の父子関係だと言うのですが、根拠はどこにあるのでしょうか?
あまりに誇張された表現ではないでしょうか?
人間の責任分担を完成し、個性完成に至った時に創造本然の関係となるのです。
創造本然の父子関係とは、真の御父様と文顕進氏が一心一体となった状態を意味します。
聖書を見てみましょう。
ヨハネの福音書にはこうあります。
(ヨハネによる福音書 14:11-12 )
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
また17章には
(ヨハネによる福音書 17:21 )
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。
という聖書の言葉があります。
一つにならなければなりません。
しかし文顕進氏は真の御父様と、このような関係ではないことを、統一家全体に明らかに示したではないですか。
真の御父様に背いて飛び出していきました。
それもただ出て行っただけではありません。真の御父様の摂理基盤を許可なく無断で持って行き、所有権を自分のものにしてしまいました。
対立し、争い、飛び出した者がどうして創造本然の関係だと主張できるでしょうか?
これは嘘をつくのでなければ、原理を無視するかの2つの内のどちらかです。
そして真の御父様と真の子女の関係ならば、一般の食口たちにとってなおさら模範となるべきです。文顕進氏の言葉と行動が他の食口たちの模範となり、信仰の基準とならなければならないということです。
もちろん子女だと言っても、愛の主体となれば神様や御父母様の前でも主体となることができます。
しかし原理の御言は正しいが、少なくとも三対象目的を成すには前提条件がなければなりません。主体と対象が絶対に一つにならなければなりません。
文顕進氏が見せた正反合父子対立闘争論
ところが文顕進氏が見せた関係は、真のお父様に対して対立し闘争していませんでしたか?
二つの存在が原理において関係を築く時、相対基準を造成すると言います。相対基準とは、二人が授受作用を良く行えるよう関係を築くために準備するものです。二人がいても互いに相対基準を造成しなければ授受作用はできません。
アダムの目的も神様の中から出てきて、エバの目的も子女の目的も神様の中から出てきます。存在する位置は違っても目的は一つです。
しかし対立と闘争は目的が異なるために生じるものです。
したがって郭グループが主張する授受作用、正分合作用、四位基台は原理的ではありません。
むしろ弁証論の正反合作用です。正反合理論は真理を追求せず、代理と闘争を擁護し革命を起こさせる目的です。
だから正反合理論を取ると対立と闘争を正当化します。
郭グループでは文顕進氏の脱落と離脱行為を擁護するために三対象目的を主張しますが、それは正反合理論に基づく主張です。弁証法的唯物論です。
即ち真理を追求する理論ではありません。
正分合理論は目的が一つであり、主体と対象は相互協力する一つの目的性を帯びています。
真の御父様と文顕進氏の関係は、指図と服従の主従関係ではなく、創造本然の父子関係だと言います。
しかし創造本然の父子関係では、真の御父様に背いて出て行くことはできないのです。
文顕進氏と真の御父様との関係は、一般食口の関係とは異なり特別だと主張します。
なぜこのような特権意識を持ちたがるのでしょうか?
食口の前では自分が真の子女であることを強調して自らを高くし、真の御父様に対しては神格化は間違っていると批判します。
これは何でしょうか?自己偶像化に陥っているのではないかと考えます。
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