2025年9月19日金曜日

2025年9月17日 テネシー清平韓国語水曜礼拝◆ 人類の歴史と神様の創造理想実現<1> 權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師

2025年9月17日 テネシー清平韓国語水曜礼拝

人類の歴史と神様の創造理想実現<1>

權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師

監修fanclub三原

人類の歴史と神様の創造理想試練韓国水曜礼拝 09 17 2025 


今まで私がYouTubeや礼拝の御言葉を通して、主にその独生女の、その偽りのダムと家庭連合の裏切り、それから郭グループについて、私がその映像をたくさんアップし、御言葉もアップしました。 

しかし、今はもうほとんど終わりそうな気がしますね。 


ですから、これからは、その家庭連合や郭グループに焦点を当てるのではなく、私たちの御言葉を世の中の人も見て理解できるように、その聖書と原理を関連づけて、このように御言葉を申し上げようと思います。 


神様の創造理想


それで、今日準備した私の御言葉は、「人類史と神の創造理想実現」というタイトルで御言葉を申し上げたいと思います。

ppt(プレゼン資料)は、今はダメですか?


神様を信じない人や、神様の摂理を理解していない人は、人類歴史の背後に神様がおられるという事実を知りません。

人類の歴史は、人間の誰がどのようなことをして、どのようなものを作り、誰がどこで誰とどこで戦争をして、こんなことで占められているのではなく、その背後には神様の摂理が介在しています。 


つまり、神様が人類の歴史のハンドルを握っておられるということです。 


では、なぜ人間の歴史に神様の御心が介在しなければならないのか? 

それは、神様が人間を創造された理由は、神様が創造の理想を持っておられたからです。それを実現するためです。 


したがって、神様は創造をしてもいい、しなくてもいいのではなく、必ずしなければならなかったのです。 

また、堕落した人類の歴史に神様が干渉されるその理由も、やはり神様の創造の理想を実現するためです。 

神様が創造の理想を実現するためには、たとえ人間であっても、その人間を通して創造の理想を実現しなければならないので、神様は堕落した人類を訪れるのです。 


なぜなら、神様の創造の理想が実現できず、その創造の理想を実現するためには、人間を通してしなければならないからです。


救いの摂理


ですから、創造の理想を実現するためには、まず神様が堕落した人類を救う摂理を行わなければなりません。

このように人類の歴史は、神様の創造理想を実現するため、すなわち創造理想を創造する目的です。 創造目的を再び回復するために、神様が導いてくださった救いの足跡が、私たちが見る人類の歴史であるという事実を知らなければなりません。 


このように、そのため、すべての宗教では人間の救いを標榜しています。

宗教は、自由と平和と幸福の理想世界につながることができる新しい世界を主張しています。 

では、宗教は救いを標榜していますが、救いとは何でしょうか? 宗教人であっても、救いに対する概念が漠然としていることが分かります。

私たちが住んでいる世界が苦痛と不安の世界であり、また、人間はこのような生で希望を失い、疲弊した生活を送っています。 

ですから、人間は現在の生活は辛くても、来世では、来世ではより快適な天国に行くことを希望します。 


だから、宗教の教えは、救われなければ天国に行くことができないというような希望を教えます。

このように結局、宗教では天国を提示するのですが、実際、宗教家に天国はどんなところですか? と尋ねると、彼らの答えは曖昧になるのです。 

まさに漠然とした考えで、天国は豊かで幸せが溢れ、争いもなく、愛だけが溢れる世界だろう。

このような漠然とした期待をしているわけです。 


さて、原理が教える救いとは何でしょうか? 

人間に救いという言葉が必要になったのは、人間が堕落したからです。 

その堕落とは何かというと、人間が神様から離脱して出てきたこと。これを堕落といいます。 

人間が本来あるべき場所から外れて不幸になったので、再び元の位置に戻ることなのです。


 ですから、救いという言葉は、複雑に説明するのではなく、ただ自分が楽で、もっと暖かいところで眠ることができ、もっとお腹いっぱい食べて、もっと仕事をしなくても快適であることが救いの目的ではありません。 

救いというのは、元々堕落していなかった位置に、神の子として再び戻ることを言います。


ですから、原理では救いの歴史は復帰の歴史です。

本来の創造の理想世界を探さなければならない。このように教えます。


堕落とその結果


本来、人間は神様が子として造られたのです。 子として造られたのです。 

ですから、人間は神の子として考えるのが本来の位置です。神様の主管権と愛権、その中で生活する位置は、悲しみや苦痛の位置ではありません。 

人間が神様を父母として迎え、自由と平和と幸福と豊かな生を営むことができました。 

ところが、堕落によってその位置を失ったのです。 

どのようにして、それを失ったのか? 


人間の祖先が完全にその位置に向かう成長過程の中にあったのに、天使長であるサタンの誘惑を受け、計画がなかった堕落の事態が起きたのです。 


人間が神様の前で直接主管を受け神様の御言を守っていたら、堕落はあり得なかったでしょう。 

ですから、堕落というのは、堕落前の状態、つまり堕落前の状態に戻ることが救いであり、これが人類の願いとして残されたのです。 

堕落によって、神様は愛する子どもを失った苦しみと悲しみの神様になりました。 

だからこそ、救いというのは、神様の願いであり、人類の願いなのです。

堕落により、人間は父母である神様の主管圏を離れ、サタンの主管圏、つまりサタンの奴隷に落ちることになりました。 

人間は堕落後、6000年間、サタンの拘束を受け、サタンを主人として仕えなければなりませんでした。 


原理的に見ると、人間は神様の息子として造られ、天使は人間の僕の立場です。 ところが、サタンは僕の立場を離れ、主人を主管して僕の奴隷にしたのです。主管して僕の僕に落としたのです。 


人間が完成して万物の主管主義の立場に上がれば、天使は当然、人間の僕の立場に戻らなければなりません。 

しかし、堕落した天使長サタンは成長段階にある未完成期の人間を誘惑して堕落させました。 


このサタンは未完成期の人間より賢く、また力も強いのです。 ですから、人類の歴史は神の主管圏内ではなく、サタンの主管圏内で今まで続いてきたのです。 


しかし、これは本来、神の御意志ではありませんでした。 人間が望んだ結果でもありませんでした。邪悪なサタンの策略に陥り、主人である位置から、人間が僕の僕の位置に落ちました。


しかし、人間は自分の力でサタンの拘束の鎖を断ち切って解放されることができません。 

その理由は、エバがサタンと愛の関係を結んでサタンの血統を受けたからです。 そして、そのエバがアダムさえも堕落させました。 

ですから、人類は堕落した先祖によって、みんなサタンの血統を受けて堕落性を持つようになりました。

したがって、人間は生まれた時からサタンと血縁関係を持ち、堕落性を持って生まれてきたのです。 


メシアと血統転換


このように人間にはサタンの血が流れているので、人間の中に流れているこの血は、自分で人間がこれを取り除くことができません。

 血を抜いたとしても、それでは人間は死にます。 

ですから、神様はサタンと関係のない完成された人間、すなわちその方がメシアです。

サタンと関係のない完成された人間をメシアとしてこの世に送るのです。 

それで堕落した人間は、そのメシアを信じて従うことによって、神の血統を受け、サタンの血を清め、サタンの拘束から解放されることができるのです。 

ですから、人間の願いは、メシア、すなわち神の御子が来てサタンを追い出し、神の子に戻ることを期待することです。

これが救いの摂理であり、メシア思想です。 

これが実現された世界が天国です。 


ですから、天国は転んでも血が出ないような世界ではありません。 好きなように腹いっぱい食べて仕事をしないで暮らせるような世界を言っているのではありません。 

私を主管していたサタンを追い出し、神の子に戻ること。その世界、それが天国です。


善と悪の基準


この地球上には数多くの宗教があり、信仰している人もたくさんいます。 しかし、彼らに宗教を信じる目的は何かと問われると、明確な答えを出すことができません。

ただ、宗教を信じることで救われるのではないか?というような漠然とした世界です。

たいていの場合、答えが上手な人は、宗教の教えを受け、罪を犯さず、善良に生きることで救われるために宗教を信じていると答えます。

人間が悪だから善良な人間にならなければならないと言いますが、結局人間は何が善で何が悪なのかも分かりません。

善と悪の基準が明確ではありません。 だから喧嘩をする時、お互いに自分が正しいと言います。


なぜかというと、善と悪の基準が違うからです。 善の科学は絶対的なものであるはずなのに、その基準が違うのです。 だから、人がお互いに自分が正しい、あいつは悪い奴だ、と言って戦うのです。 

このように、人は漠然とした善の概念を持っていて、それを通して救われたいと思っています。


救いとは何か? これまでは、人々が救いとはこういうものだという確定的な基準を知りませんでした。 

しかし原理では、救いとは何かというと、「救いは復帰である。再び戻ることである」。

このように明らかにしています。 


旧約と新約


では、救いの摂理の目的地はどこなのでしょうか? 救いは、人間が堕落したので、本来の状態、つまり堕落前の世界に戻ることを言います。

しかし、人間自身はどのように堕落である堕落前の状態に戻らなければならないのか、その道を知りません。

だから、神様は救いの道に導いてくださる救い主メシアを送ることを約束されるのです。 


皆さん、聖書に旧約聖書と新約聖書がありますが、これは何を言っているのでしょうか? そして、旧約聖書と新約聖書というのは約束ですが、神様が人間に約束をされたということですが、どんな約束をされたのでしょうか?


神様がサタンの奴隷になってしまった人間を解放するために救い主を送ってくださるという約束です。

旧約はイエス様が降臨される前の約束です。旧約聖書は、神様がモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約を中心に記録された本です。

)イスラエル民族が神の御心に従えば祝福を与え、逆らえば罰を受けるという条件付きの約束です。 


神様がイスラエル民族に与える最も大きな祝福は何でしょうか? 人類に下さる最も大きな祝福、それはメシアです。 

つまり、メシア・キリストをイスラエル民族に送ってくださるという約束が旧約聖書です。

メシアは、神様が堕落した人間を救うために世に派遣する神の息子です。

メシアは来てサタンの世界を裁き、失われた神の創造の理想を回復するために来られる方です。 


ところが、無知なイスラエルの民がメシアを不信し、彼を十字架に吊るして殺害しました。


それでイスラエル民族は祝福を受けられず、神の裁きを受けるような民族になりました。 そして、神様は再び新しい約束をされました。 これが新約聖書です。

新約は、イエス・キリストを通して立てられた新しい契約を意味します。イエス・キリストが来られることによって人類はサタンから解放されるのです。 

しかし、イエス様が来られたことで、イエス様はメシアとして人類の救いのために努力されましたが、イエス様の宝血によって人間は霊的にサタンから解放されました。 

しかし、この世界はまだサタンが王です。 

ですから、神の創造目的、つまり創造の理想は、イエス様によってこの地上に完全に実現されませんでした、この地上に完全に実現されず、半分の救いがなされたのです。


ですから、新約聖書の新しい約束は何かというと、「イエス様を再び送ってくださる。」このような約束です。

「神様が堕落した人類を救うためにメシアを再び送ってくださる。」このように約束されました。 

だから、人間を神様は深め、救い出すという確固たる約束と意志と意思を持っておられます。 だから、人間はサタンの贖いから解放されたいので、メシアの再臨を切望しているのです。 


再臨のメシアの降臨で神様の約束が成就し、人類が解放される時が成約です。

成約とは、再臨のメシアの降臨によって神の約束が成就することを言います。 ですから、再臨のメシアは十字架を背負うために来られる方ではなく、神様の創造の理想を実現するために来られる方です。


キリスト教の救い、三位一体論と予定論


キリスト教では、メシアと終末の救い、このようなことをどのように教えているのか、一度見てみましょう。 

キリスト教では、メシアは神様と同じく三位一体でおられる方である。キリスト教では、メシアは神々と同じように三位一体でおられる方である。 

メシアとは、人類を救ってくれるために来られる方なのに、キリスト教ではメシアが最初からおられたと主張します。


このような主張には問題があるのです。 

なぜなら、堕落の出来事が起こる前から最初からメシアがいたということになるからです。 

そうすると、これは堕落も神の摂理の中にあったということになります。このような主張は、神の創造の理想について無知だから出てくるのです。


もし堕落が神の創造プログラムの中に元々あったとしたら、深刻な問題が現れます。 

つまり、神は人類に良い方ではなく、悪くて残酷な神になります。 

そして、人間の堕落は人間のせいではなく、神の責任になります。

神様が地獄を作っておいて、人間を地獄に送るために、サタンと協助して人間を堕落に堕落させた責任があるというような論理になるのです。 

<監修者注>二代王、三代王の高キリスト論、夜の神三位一体論とは見解が違います

◆二代王様:私達は極めて高いキリスト論 ◆2025年1月26日MAGA勝利英語日曜礼拝 ”教会”

◆三代王様:キリスト再臨アドベント36◆文信俊三代王

・参考:二代王様の信仰告白


そしてまた、キリスト教では予定論を主張します。

すべてのことは神の予定によって行われた。このような予定論が出てきて混乱させます。

このような主張は、神様は愛であり、全能全知全能なのに、なぜ人間の堕落を防がなかったのか、このような質問に対して、窮屈な答えになります。

愛であり全知全能である神様はなぜ人間の堕落を防がなかったの? と尋ねるとき、ああ、それを堕落と愛全知全能と結びつけるのがとても難しいのです。 

だから、ああ、それは元々全部神のプログラムの中にあったのだ。 と答えるということです。 

このように、予定論は神の摂理の中では相容れない矛盾した理論です。


もし堕落が予定であれば、堕落した人間を見て人間の創造を嘆かれたという聖書の箇所と矛盾します。

創世記6章6節を見ると、神様が地上に人を造られたことを嘆き、心を悩まされ、このような節があります。 

ですから、これが合わないのです。

もし神様が堕落を予定されたなら、神様の創造の歴史で人間を地獄に送るための摂理が必須だったという論理が成立します。

このような矛盾した神学理論が今までキリスト教の神学を主導したという事実が信じられないのです。

___________________________

キリストのリバイバル、クリック感謝です。


0 件のコメント:

コメントを投稿