2025年9月11日木曜日

モーセの出エジプトと私達 2025年9月10日 テネシー清平韓国語水曜礼拝 あなたは何を見ているのか<1> 權寧畢(クォン・ヨンピル)教授

 モーセの出エジプトと私達

2025年9月10日 テネシー清平韓国語水曜礼拝

あなたは何を見ているのか<1

權寧畢(クォン・ヨンピル)教授

監修fanclub三原

「あなたは何を見ているのか」韓国語水曜礼拝権寧畢(クォン・ヨンピル)韓国水曜礼拝


翻訳minion

モーセの出エジプト


今日私がそのお話しする題目は「あなたは何を見ているのか?」と決めました。


今日は私がそのモーセの話をしてみようと思います。

モーセはイスラエル人です。エジプトで生まれ、ファラオの宮廷で王子になりました。そのため40年間、エジプトの王子として宮廷で暮らしました。

しかし、同族のイスラエルの民を虐待するエジプト人を見て怒り、彼を殴り殺し、その後荒野へ逃亡します。ミディアン荒野で40年間寂しく過ごした後、80歳になった時、ホレブ山で神の召命を受けました。


彼はエジプトのファラオを屈服させ、イスラエル民族を解放し、その民族をカナンの地へ導きました。モーセに従って出てきたイスラエル民族はエジプトを脱出し荒野へ出ましたが、その荒野生活は苦痛と苦難の道程でした。彼らは不足な水、食料、厳しい環境のために荒野で皆死んでしまうとモーセを怨みました。


聖書の出エジプト記を見てみましょう。

16:3イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。


4そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。


「わたしが試みよう。」という御言があります。イスラエルの民が荒野に出て、あまりにも辛いとモーセを非難したので、神はイスラエルの民を憐れみ、食料としてマナとうずらを与えられました。最初はマナを与えられました。しかし、肉が食べたいと不平を言ったので、さらにうずらを与えてくださいました。


これはイスラエルの民に対する神様の驚くべき愛と権能を示されたものです。

寝て起きたらマナがこのように降り積もっていたのです。しかし神は無条件に愛を施されるわけではありません。神は条件を告げられました。「わたしが試みる」と。このように言われたのです。神が食料を与えて、イスラエルの民が神の律法に従うか背くかを見守るためだという意味です。

この民は神に感謝を捧げ、モーセに従いました。しかし彼らはまた恵みを忘れ、不平を言い始めました。もちろん彼らはマナとうずらを毎日食べていたでしょうが、荒野で食べる食物はエジプトの食物より美味しくなかったでしょう。


実際、奴隷であっても肉を焼く火のそばに座っていれば、肉を幾片かでも分けてもらえたでしょう。ところがモーセに従って荒野に出てくると、あまりに辛くて不平を言うのです。イスラエルの民は神の愛と権能を経験しても、試練が来るたびに不平と不満を口にしました。そうしながら彼らはむしろエジプトでの生活を懐かしんだのです。


実際、彼らが不平を言うのは水と食糧が不足していた理由もあったでしょう。家もなく荒野の地面で寝なければならないのは大変辛かったでしょう。

しかしそれ以上に重要なのは何か?彼らには神へ対する信仰が欠けていたことがより大きな理由でした。そこで神はイスラエルの民にマナとうずらを与え、彼らが律法を守るかどうかを見るとおっしゃったのです。



彼らはエジプトからイスラエル民族を解放し、カナンの地へ導かれた神の恵みを忘れていました。

そのためエジプトでの奴隷生活を再び懐かしみ、不平を唱えたのです。

これに対し神はイスラエルの民に罰を下されました。聖書を見てみましょう。民数記


21:5民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。


神様がくださったマナとうずらを粗末な食物だと酷評したのです。


6そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。7民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。8そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。9モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。


このような御言があります。神様がくださったマナとうずらを粗末な食料だと言って神様の愛をその人たちは冒涜しました。神様はこれに対して怒られて火の蛇を送られてその民たちを火の蛇にかませて死ぬようにされました。その時人々は神様の前に恐れを感じてモーセに集まって懇願しました。「私たちが間違っていました」と悔い改めるので蛇が噛まないようにしてください。


そこでモーセは神に祈りを捧げます。モーセは本当に性格が良いですね。私なら「お前たちがやったことだから、お前たちで解決しろ」と言うところですが、モーセは神に祈りを捧げます。

神は「ではお前は青銅の蛇を作り、さおの上に掲げよ」と言われました。火の蛇に噛まれて死にかけた人々が、その青銅の蛇を見上げれば助かることができる。モーセが青銅で蛇を作り、さおに掲げたので、人々はそれを見て助かりました。


出エジプト記や民数記を読むと、本当に胸が痛みます。なぜイスラエルの民は、いつも不平ばかり言うのでしょう?荒野での生活が辛いのは当然です。何もかもが不足しているのが荒野なのです。


ですからイスラエルの民の困難はある程度理解できます。彼らはカナンの地へすぐに入ることができると思っていたのに、入ることができずに荒野でぐるぐる回りました。また道があまりにも険しかったので、不平や怨みが出ることもあったでしょう。彼らの苦難は理解します。しかしイスラエル民族はエジプトでの奴隷生活を再び懐かしみました。カナンだの何だの全部投げ出してエジプトへ戻ろうと。彼らはこのように要求しました。


これほどまでになるとこれは問題です。イスラエル民族がそのように主張するなら、神の罰を受けるほかありません。神の恵みをこれほど多く経験したイスラエル民族が、なぜ不満を言い続けるのでしょうか?神はイスラエル民族が困難を克服できるような信仰を持つことを望んでおられました。そこで神はイスラエルの民が確信を持てるよう、多くの奇跡を見せてくださったのです。


三つの奇跡と十の災いでファラオを屈服させました。そしてイスラエルの民が荒野を通る時、紅海を割く奇跡を示されました。さらに毎日マナとうずらを降らせてくださいました。彼らが喉が渇いたので岩を打って水を出させ、飲ませました。

そして昼は雲の柱、夜は火の柱でイスラエルの民を導かれました。多くの奇跡を見せてくださいました。

しかし彼らは常に不平不満を口にしました。では何が問題だったのでしょうか?イスラエル民族の目がカナンの地に向けられていなかったのです。彼らは現実だけを見つめていました。


現実は荒野です。

乾いて苦痛と迫害の地です。関心が現実に固定されているため、苦しみだけを見つめ、心も現実に囚われてしまうのです。もしイスラエルの民が関心を転じて神を見上げていたなら、状況を違ったように認識していたでしょう。


イスラエルの民がエジプトを離れて荒野に出た理由は何でしょうか。エジプトの奴隷生活から離れ、神が導かれる約束の地カナンへ行くため出てきたのです。そこには自由と平和、幸福があり、理想を実現できる本郷の地です。神があなたの民を愛して、彼らをその地へ導いておられるのです。


しかし彼らは現実だけを見て、絶えず不平不満を言い続けるのです。


出エジプトと私達


皆さん、私がモーセの話をしている理由は何ですか?出エジプトの出来事を通して、私たちの姿を映し出そうというのです。私たちがイスラエル民族の過ちを繰り返さないことを願うからです。


イスラエル民族の状況が私たちの現実と重なる部分がたくさんあると考えるからです。私たちは韓氏オモニの堕落と裏切りを知った後、家庭連合から出てきました。荒野におられる真の御父様の代身者・後継者の召しを受け、私たちは荒野に出てきたのです。

もちろん私たちの現実が、実際に荒野に出てきたイスラエル民族に比べられるほど困難な生活ではないでしょう。


しかし私たちも荒野に出る時、私たちも家庭連合を離れて荒野に出る時、多くの困難を経験したのは事実です。

突然の信仰の変化で夫婦が互いに理解できず別れたケースもあります。親子間で縁を切った家庭もあります。やむを得ず勤めていた職場を失った人もいます。また、数十年間信仰を共にしてきた同僚から背教者だと罵られ非難されました。


その一方で、私たちは大きな恵みも受けました。私たちだけが受けたのです。全世界がコロナと毒注射に襲われる中、私たちは二代王様の御言によって保護を受けました。御言に従うことで肉体の命も守ることができ、魂も救われたのです。それだけでなく、聖書に出てくるように、私たちは聖霊の初穂の果実を受けました。


私たちは天地人真の父母様の完成祝福式に破格的に参加する栄光を受けました。そして私たちは永生の祝福式、すなわち生命の書入籍祝福式を受けました。神の生命の書に私の名が記されたのです。


ゆえに私が立っているこの場所は、命の木へと至る道です。この道は堕落したアダムとエバが入れないよう、神が火の剣とケルビムで守らせたあの道です。私たちは大いに不足しています。能力も足りず、性格も良くありません。しかし、真の御父様を裏切らなかったというその条件一つで、最高の恵みを受けたのです。もちろん、命の木の道を最後まで歩むか否かは、私自身の責任分担です。


しかし神様は、命の木への道を阻む火の剣とケルビムを私たちの前から取り除いてくださったのです。これはイスラエル民族がカナンの地に入るのと比較できない大きな恵みです。聖書ローマ人への手紙をご覧ください。


使徒パウロは、

8:16御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。18わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。


使徒パウロの言葉の通り、私たちは神の子として復帰され、神の相続者となりました。そしてキリストの栄光にあずかるためには、苦難に同参しろという御言です。苦難に同参しろ。この御言は祝福です。


しかし私たちの中には、神の摂理を見ることができず、イスラエルの民のように不平を言う人がいます。大きな恵みを受けたことを感謝することができず、自分の立場を忘れ、些細な感情に埋もれています。

だから不満を持って信仰を離れた人もいれば、再び家庭連合に戻った人もいます。

ある人はこの道が正しいことは分かっているけれど、あまりに辛い。だからついていけない。ごめんなさい。そう言って去っていった人もいます。


今は天一国が実現した時代ではありません。私たちの現実はまだ荒野の時代であり、開拓の時代であり、サタンの勢力と戦わなければならないそんな時代です。

そして私たちが望む天一国、その天一国は私たちが探して行かなければならない約束の地です。未来の地です。実際の天一国建設へ向かう道は荒野を通って進まなければなりません。荒野を突き抜けて行かなければなりません。私たちが進む道にはサタンが隠した多くの障害物があるため、私たちを倒そうとします。

したがって荒野を通過する前にエジプトの安楽な生活を懐かしんではなりません。戦わなければなりません。そして実際、考えてみれば私の姿も天国人になることができていませんでした。


天国人になる


皆さん、明日天一国が来るとしても、私が天国人になっていなければ全て無駄な苦労です。私がまず天国人にならなければならず、私の家庭がまず天国家庭にならなければなりません。


王様は私たちに天一国市民と家庭生活について多くの教育をしてくださいました。夫婦デート訓練、子女と一対一訓練、子女教育、子女伝道、野生訓練、体力訓練、富と相続に関する御言、このように天一国市民の生活に関する訓練をさせてくださいました。


それゆえ天一国を望む前に、私がまず天国人にならなければならず、私の家庭が天一国家庭にならなければなりません。そうして、私は天一国市民の資格を持つことができるようになります。もちろん、私がこのような話をしたからといって、皆さんが個人完成や家庭完成をなすことができなければ、静かにしていなさいと抑圧するような意味ではありません。


私もやはり天国人になれておらず、家庭完成も簡単ではありません。私が申し上げたいのは、私の努力なしに天一国が自然に私のもとにやって来るものではないということです。


皆さん、ご覧ください。王様はサタン勢力を滅ぼし天一国を建設するために昼夜を忘れて準備していらっしゃいます。

アメリカでトランプ大統領を立てるために命をかけて戦われる姿を私たち皆が目にしました。そしてアメリカで勝利された後、勝利ケーキを切ったり祝賀パーティーを開く余裕すらありませんでした。真の御父様のご命令を受けて、すぐに荷物をまとめて新たな荒野を求めて台湾へ旅立たれたのです。


中国解放と北朝鮮解放、定州の地回復のために初心に戻り、開拓者の心境で独り荒野におられます。そんな王様の前で、自分の立場だけを前に立てて不平を並べ立てれば、イスラエル民族と何が違うでしょうか?それは神様と真の御父様が立てられた三代王権を無視し、不信することではないでしょうか?


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