2016年1月31日日曜日

2016年1月26日韓国語説教■『暗闇に打ち勝つ光』♥<ヨナニムの証>


2016年1月26日火曜日
韓国語説教「어둠을 이기는 빛」
▼妍雅任(韓国語15分半)


(亨進様)
今から妻が、、しばらくの間、皆さんと共に話を交わす時間がなかったのですが、今回、簡単に証を分かち合いたいと思います。


(ヨナニム)
ありがとうございます。ありがとうございます。ティム本部長、ありがとうございました。
韓国では寒波が来ていると聞いています。アメリカでも、東部側に豪雪が降りました。それで多くの食口たちが祈ってくださり、心配してくださって本当にありがとうございました。この場を借りて感謝申し上げます。
亨進様が、今日、私に証をしなさいとおっしゃった内容は何かというとですね、本当に大変な時にも、全て放棄してしまいたいと思う時にも、主の名前も呼びたくないと考える時にも、何故、私たちが讃美と礼拝をしなければならないのか、それについて、亨進様が今日、証をしたらいいとおっしゃいました。とても足らない証ですが、それでもしてみようと思います。


私たちが初めてペンシルベニアに来た時、私の人生で、私はいくらも生きていませんが、私の人生でとてもどん底にいました。
全ての人々が、私たちはもう終わったと、教会の食口たちも私たちを悪いと言うだろうし、宮からも追い出され、そして手中にもお金はいくらも無く本当にどうやって生きていったらよいのかと目の前が真っ暗に思えました。


それで、ダビデ王が洞窟に入っている時と私が同じ心情だったと思うようになりました。ダビデ王がサウル王に追われ、さ迷いながら、サウル王がずっとダビデ王を殺そうと探して回ります。そして自分の妻も失い、自分と親しいヨナタン将軍も失い、自分の敵国に行き、狂ったふりをして正気でない人のふりをして生きて帰ってきます。そしてそのようなことを全て経てきて洞窟に入って、どん底の心で激しく泣きます。ダビデ王が激しく泣いた後に、また勇気を出して神様を讃美するそのような詩篇が、詩篇57章にあります。
まさに私の心情がそうでした。
それで初めてペンシルベニアに来た時、全ての否定的な考えと、もう終わりだ終わりだという、崖っぷちにいるという考えでいたのですが、ある日、こんなふうに思いました。こんな複雑で、子供たちの学校の世話でも忙しく、食事の支度やら洗濯やらで慌しい中で、このまま行ったら自分は霊的に死ぬだろう、そんな思いが湧きました。それで「私ができることは讃美をすることしかない」という知恵をお父様がくださいました。アメリカにもゴスペルソングが良いものがたくさんあるんですね。その歌詞をプリントしてキッチンの壁に貼り、洗濯場の
壁にも貼り、クローゼットや机にも貼り、全てに貼りました。
「私が何処へ行こうとも、無条件、私が私自身に否定的な考えができないようにしなければならない。私の口から主の讃美が去らないようにしなければならない。それが私が生きていける道だ。」という知恵をお父様がくださいました。それでずっとそのようにしました。
それである日は大声で泣きたくなる、そんな日もたくさんありました。おそらく食口の皆さんもお父様の権限圏に戻ってこられて、そのような経験をたくさんされたと思います。
ある食口は、「自分は3年間牢獄に閉じ込められているようだった。」そんなお話もされたのですが、そんな時は、私は本当に腕のひとつもあげる力が無いくらいの時に、わざと選んで無理にでも讃美をしました。「主は私の全ての苦痛を、主の喜びに全て変える!」そのように大きく讃美し、「主は私の生命の泉だ。」「主は私の主なので、私に決して悪いものはくださらないはずだ!」このように私は叫びました。讃美しました。
そうするので、力が全く無かったのに、主が私を起き上がらせてくださる、そんな経験をしました。それで讃美というものはこれほどまでに力があるのだな、弱い私を強くしてくださる主が共にいてくださるのだな、ということを私は経験しました。


何週間か前に家庭礼拝がありました。家庭礼拝は私たちは2ヶ月に1回づつ、偶数の月の最後の週に日曜学校の子供たちと一緒に連合礼拝のように行います。
讃美礼拝の時間になりました。讃美礼拝をするのですが、9歳の息子がこちら側に立ち、11歳の息子が(反対側の)私の横に立っていました。私の手をずっと引っ張って垂れ下がって「オンマ~、これ何時終わるの?何時終わるの?」と言いながらむずがって「オンマ~オンマ~オンマ~」と叫ぶのです。
そしてアメリカの兄弟であるロバート氏がいるのですが、ロバート氏がいつも私の後ろ側に座られるのですが、その方は歌を鳥のように歌われます。この方は一度、合唱団に行かれたことがあるのですが、合唱団の先生がこうおっしゃったそうです。「ロバート氏、ロバート氏はどうして、そのように、歌を鳥のように歌われるのですか?」このように話されたそうです。「私はそんな話を人生で一度も聞いた事がないのに。歌を鳥のように歌うだなんて。」と言うと、「ハゲタカのように、そのように鳥のように歌われます。」と話されたと、(笑)今もこの場にいらっしゃるのですが、、一緒に笑っておられます。
それで私の立場では、9歳の息子と11歳の息子と、ロバート氏の鳥のような声と三重奏があり、その日は私は本当に讃美をしたくありませんでした。「あぁ、讃美も何も投げ出して出て行きたい。」(笑)本当にそんな思いが湧きました。その時、思ったのは「あぁ、それでも四面楚歌ではない。そうだ。この3箇所は塞がれたけれど、主は前で讃美しておられるので、それを見て前に行かなければならない。」(笑)このように思いながら、その日もまた讃美しました。(笑)
とても小さな勝利でしたが、主がもし私たちを育ててくださる牧師であり、私たちが主に従い育てられる羊であるならば、主の声をいつも聞かなければならないでしょう?神様の声を聞いてそれについて行けたなら、どれほど本当に、信仰というのがどれほど興奮して、「あぁ、私は神様が大好きだ。主が大好きだ。」とならないでしょうか?
私たちの問題は神様の声を聞くことができないということでしょう。私たちが神様と相互共感できないという大きな問題があります。そうでしょう?そのため、私たちがどうなるかというと、神様の声は聞きたいけれど、私の道をどう行けとおっしゃるのか知りたいのに、声が聞こえないので、私たちはアウトソーシング(外部委託)をたくさんしました。私たちの人生で。それで清平に頼るようになり、霊媒に頼るようになり、祈祷する方に、お父様が、、(笑)亨進様が(おっしゃるのですが)四柱八字に頼るようになり、えぇ、、私たちがそのような姿ではなかったですか?


ですが、そうなれば、私たちもよく知っているでしょう?私たちが呑みこまれていくようになります。そしてその人たちの言うことが、神様の言われる言葉よりも重要になります。そしてその人たちの信仰が落ちて底をついた時、私たちもまた一緒に底につきます。


しかし、主は決してそうではないでしょう?主は永遠の泉であり、そして主は主の玉座から降りて来られません。いつもそこに絶対基準でおられます。しかし私たちは一緒にまごつくでしょう?


私は以前はこうでした。「誰かが神様の声を聞いたって。」「私に神様がこのように話されたんだけれども。」こう言えば、私は「アイゴ~あなたがどうして。神様があなたに直接話すものですか?」(笑)そのように思っていました。それが、そうであった私が神様の声を聞きました。(笑)ある日、私が本当に神様の声を聞いたのですが、、実は私がこのように話せるまで大きな勇気が必要でした。それでそれまでの過程で助けをくださったのが文牧師(亨進様)であり、多くの助けをくださいました。


「神様の言葉」を聞くということは、私のここ(頭に手を当て)が大きくなるのではなく、私がこれを聞いて、「これを利得のためにどうやって使おうか?」そういうものではく、神様の言葉を聞けば、私が本当に低い位置に行くようになります。そして自身を本当に本当に省みるようになります。
「あぁ、私はこんな人だったのか。」「全ての人が私に真実を話してくれない時に、神様は私に真実を話してくださるのだな。」私はそれを胸の奥深くで学びました。そういうことがあってからは「神様、私にも神様の声を聞かせてください。行く道を見せてください。」このように祈りが出てきました。


食口の皆さん、考えてみてください。私たちが本当に神様の息子であり娘であり、そして主の新婦であり、主の身体であるならば、私たちは神様の言葉を直通で聞かなければならないということはその通りではないでしょうか?
しかし、私たちはその道が塞がれていました。それで今日、食口の皆さんもお父様に、神様に「主よ。主の声を聴かせてください。」と言われる皆さんになられたらといいなと思います。


それで、また(話が)戻りますが、神様が私に話されました。夜中の3時でした。夜中の3時に私を起こされました。それで私は起き上がりました。「何故、眠れないんだろう?眠れないんだろう?」と思ったのですが、神様が私を起こされて私に話されるのを感じました。何とお話されたかというと(笑)私の部屋に、アメリカには小さなクローゼットの部屋が、洋服を置いてある部屋があります。そこに明かりがついていたのですが、「その明かりがついている方を見なさい」とおっしゃるのですが、「見なさい。お前のクローゼットがどれほど散らかっているか。」と話されました。(笑)それで私は言いました。夢うつつで「あぁ、神様、ところでクローゼットは片付けるつもりです。今ちょっと散らかっているのは後で片付けます。これは夜中の3時に話されることではないと思います。」(笑)私がそのように話しました。


すると神様が話されたのですが、このように話されました。「お前のクローゼットはこのように散らかっているだろう?お前の霊的生活もそのように散らかっているんじゃないかい?」そのように私に問い返されました。私はそれで衝撃を受けました。
その時、夢うつつであったわけですが、それでも衝撃を受けました。「あぁ、そうか。霊的生活でも、ただ何でもそのまま受け入れて、ただそのままそこに置いておき、あぁ~もう分らない。明日整理でもしよう。あぁ~分らない。もうなるようになるだろうとしたならば、私のクローゼットのように散らかってしまうのだな。」
ここでポイントは私のクローゼットが散らかっていたというのがポイントではありません。(笑)
ある方が来て私にこう言われたのですが(笑)それがポイントではないです。(笑)


「あぁ、そうだな。私の霊的生活も私がチェックをしなければ、そうなるのだな。」それを大きく見せてくださいました。そしてその日、私はクローゼットを整理しながら、このような考えをしました。「私の思いでは、私はできないと思っていたことが、、あぁ、私は罪がとても深い。だからそれは主は罪を許してくださらないだろう。これは誰にも話してはいけない。これはしっかりと隠しておかなければいけない。誰かがこれを見たら、自分をとても嫌いになるだろう。」と思った多くのことがですね、、主はそれを整理する方法をご存知です。主は、それをどのように私たちの心の中から溶かし落とすかをご存知です。そして主の御名で私たちの心をいっぱいにしてくださる方法をご存知です。そして主は、私たちも知らない私たちを、主がご存知だからです。


それでその日もクローゼットを整理しながら、私が何をしたでしょうか。讃美しながら喜んで、「主の喜びは私の力だ」「主の喜びで私はまた立ち上がろう」
今日は主の生命の泉で、文牧師の説教から生命の水を飲まれ、また主を讃美されながら、永遠の光でおられる主の暖かさと、全ての喉の渇きを解決できる主の生命の水を飲む時間となれば感謝致します。ありがとうございました

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