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2021年9月23日木曜日

2012年6月20日 第50回真の萬物の日の御言 ◆いたたまれず逃げだす韓氏オモニ

 2012年6月20日 第50回真の萬物の日の御言

いたたまれず逃げだす韓氏オモニ

お父様が韓氏オモニを直接責められ、韓氏オモニが会場を出て行くという、今まで明らかにされていなかった重要な部分です。


2012/06/20 Lecture - The 50th Day of All True Things 

1:14:561:21:39 :ディクテーション ジョン・クンナム 翻訳 fanclub

1:14:56

白樺の実が芽を出したというのだ。 全部剥がれて、エ?純な芽になれるのが、白樺の子爵様、 言ってみてください。 (子爵様)子爵様は誰ですか?オモニの王、王のオモニである。


 

(韓氏オモニを掴まえられて)


この王のオモニ、韓鶴子(ハン・ハクジャ)だ。私の母や、私、父の役割と、母の役割。アボジ、私を産んでくれて私を作ってくれる根源が関係ないということだ。 「あなたと一緒に眠れて一緒に暮らせるますが、愛はできません。 子供はできません」 それが韓鶴子の母親の哲学です。 


その哲学が伝統があったのが何かというと、崔先吉(チェ·ソンギル)の崔氏お母さんの、私を殺そうと殺そうとしても、離婚をしてくれないから殺そうと八代十三人の先祖が来て、銃刀の武器をを持ってきてその妻と一緒に離婚をしてくれない日にはこの武器を、あなたの前に撃つからと。 恩讐だと思うなら、オモニから撃って、オモニ、アボジから、七族八族十三人のこの人たちを消していしまった。 ある武器を私に渡しながら、恩讐、恩讐、恩讐が男の前に、男の前ではなく女であった、まさに女。 


女が誰だ? オモニだったし、私を生んでくれる太初の創造主までも、そのまま出ることが出来るためには、母親の陰部を通さなければ出られないのに、創造主を追い出してしまい、心と体を切り離したのは誰か?

男ではありません。


(お父様はご自分の上着をふって男とは、自分であることを示される) 


(韓鶴子オモニを捕まえながら)


このオモニなのです。エバが!エバが誰を焼いてしまったというのか? 


神様の弟の尻に走る… 三代の祖先として天下の花であり、香り高く生命の源泉を中心にして、万の町を食べさせ、千年万年働かずに、見もしない、それでも寝ながらも暮らせるその根本の跡地をひっくり返してしまった。 


誰が?男ではありません。 文龍明(ムン·ヨンミョン:お父様の幼少時代のお名前)は知りません。 水沢里を開発しました。 そこで悪口を言われながら死ぬ… 私を殺そうとしても私は死なずに水沢里を残って、残ってからオモニに追い出され、あるまじき追放された水沢里が。 去ることができない 去るのが何かと言うと 、私の進むべき道は、オモニが立てておいた鐘を吊したところが、自分とその肌を当てて、愛をこすりつけ、息子と娘をこすりつけ、一緒に産むと言ったその家庭の跡地ではありません。 


うわ~おじいさんのおばあさんが、どれほどお父さんを恋しがったか、アダムはおばあさんの代わりにお母さんの代わりに、合わせてアダムとエバを作りました。 神様と誰と? 神様のしっぽにいる誰ですか? 息子なら···垂直には息子です。 2人の息子と娘です。 垂直の一人息子だよ、一人でない。 ここに養子, 女養子. これは回ります。 回って、回って。 この柱は、差し込んで億万年回って、180度回って、180度は上がっても、180度を変えて、下がったり上がったりしながら、大きな車輪が回るのだが…。 その足の歯を合わせていって、大きくなれば、大きくなるままに、小さくなれば小さくなるままり。 小さいのを変えて持ってきて。 この小さいところに移して持ってきて、 大きいものをくわえて回すために あっという間に変えられる役割をしたということは 誰も知らない。 私も神様は、神様がしたので、アボジがいると思ったのに、オモニもこの… アボジ、アボジはいるのだけれど オモニどこに行った? それはお前が探さないといけない。 お前が作って、どうして? お前が無くしたのだから… さぁ、こんな反乱はどこから? 


義理もなく伝統もなく、本道もなく、学べる道でもない。 母の行く道は、私がどうして母のように後を従って行きながオモニを作ることはできません。 アボジは作ることができるアボジ、弟をつくることが出来るが、オモニは龍を作ることができない。 なぜ?そこで故障したから。 お前も何千年も待って何をするのですか? 先生が手帳の真ん中に出たら、 手帳の中を見ると2001年10月3日。


(たまらず、出て行く韓氏オモニ)


どこに行きましたか?オモニ?

いつもこの時になるとオモニがいない時。え? 私の左手なのか? 正しい手なのか?これが無くなった? 私は正しい手でどうにかして捕まえようとしても捕まえるものがない。 わぁ、わぁ、わぁ。 いくら親指の小指があっても掴めません。 どこから建て始めたら… 正しい方から作り上げて、降りて下の左から作り上げてきました。 どこで?存在の起源は左手から。 


だから先生、その、あの原本の原理本を持ってきて。 今日は教えないといけません。  


1:21:39 



2012년 6월 20일 제50회 참 만물의 날 말씀

참다못해 도망가는 한씨어머니

아버님께서 한씨어머니를 직접 책망하시고 한씨어머니가  견딜 수 없어 그 자리를 나간다는 지금까지 밝혀지 않은 중요한 부분입니다.

https://youtu.be/tCWFzPtjncY?t=4495 에서


2012/06/20 Lecture - The 50th Day of All True Things 

1:14:561:21:39 딕테이션 전국남

1:14:56

자작나무 열매가 싹이 텄다는 거야. 다 벗겨지고 에 베이 베이 베이 에 베이 베이 순 싹이 될 수 있는 것이 자작나무 자작님 해봐요. (자작님) 자작님이 누구야? 어머니의 왕 왕의 어머니야. 이 왕의 어머니 한학자. 내 어머니 나 아버지 노릇 어머니 노릇과 아버지 나를 낳아주고 나를 만들어 줄 수 있는 근원이(?) 상관 없다는 거야. "당신과 더불어 잘 수 있고 같이 살 수 있지만은 사랑은 못합니다. 새끼는 못 칩니다." 그게 한학자 어머니의 철학이에요. 


그 철학이 전통이 왔던 것이 뭐냐면 최선길이의  최씨 어머니의 나를 죽여버려 죽이려고 해도 이혼을 안 해주니 죽이려고 팔대 열세 사람의(?) 조상이 와서(?) 총칼 무기를 가져와 가지고 그 아내와 더불어 이혼을 안 해주는 날에는 이 무기를 당신 앞에 쏠테니. 원수로 생각하거든 어머니부터 쏘고 어머니 아버지부터 이 칠족 팔족 십삼명의 이 사람들을 없애버렸어. 있는 무기를 나한테 주면서 원수 원수 원수가 남자 앞에 남자가 아니고 여자였다 그해야(?) 여자. 


여자가 누구야? 어머니였고 나를 낳아주는 태초의 창조주 까지도 그냥 나올 수 있기 위해서는 어머니의 음부를 통하지 않으면 나올 수 없는데 창조주를 쫓아내 버리고 몸 마음을 갈라놓은 것이 누구냐? 남자가 아닙니다. (한학자 어머니 잡으시면서) 이 어머니에요. 해와가! 해와가 누구를 타 버렸냔 말이야? 하나님의 동생의 꽁무니에 달리는.. 삼대의 조상으로서 천하의 꽃이고 향기 반반하고 생명의 원천을 중심삼아서 만 고을을 먹이고 천년만년 일하지 않고 보지도 않은 그래도 자면서도 살 수 있는 그 근본 터를 뒤집어 놔 버렸어. 


누가? 남자가 아닙니다. 문용명이 몰라요. 수택리를 개발했고. 거기에서 욕을 먹으면서 죽을.. 나를 죽이려 해도 나 죽지 않고 수택리를 남한이(? 나만이) 남아 가져가지고 어머니한테 쫓겨나 가지고, 있을 수 없어 쫓겨난 수택리가. 떠날 수 없어 떠난 것이 뭐이냐면. 내가 갈 길은 어머니가 세워놓은 종 들은 것이 자기와 저 살을 대고 사랑을 비비대고 아들딸을 비비대고 같이 낳겠다고 하던 그 가정의 터가 아니고. 


우와 할아버지의 할머니가 얼마나 아버지를 그리웠던지 아담 할머니 대신 어머니 대신 합해가져지고 아담 해와를 만들었어요. 하나님하고 누구하고? 하나님 꽁무니에 있는 누구에요? 아들이면.. 수직에는 아들이요. 프렛(?)은 두 아들딸이요. 수직의 외 아들이야 독자가 아니야. 여기에 양자 여자 여자 양자. 이건 돌아가요. 돌아가. 돌아가. 이 기둥은 꽂꽂히 억만년 돌아갈 때는 180도 돌아갔터는(돌아가서는) 180도 올라가도 180도 바꿔가지고 내려갔다 올라갔다 하면서 큰 바퀴가 돌아가는데. 그 발 이빨을 맞춰 가져 가지고 커지면 커지는 대로 작아지면 작은대로. 작은 것 바꿔쳐 가져 가지고. 이 작은데 옮겨 가져 가지고 큰 것을 물고 돌리기 위해서 순식간에 바꿔칠 수 있는 놀음을 했다는 걸 누구도 몰라. 나도 하나님이는(?) 하나님 했더니 아버지 있는 줄 알고 터니(?) 어머니도 이... 아버지 아버지는 있는데 어머니 어머니는 어디갔어? 그거 니가 찾아야 돼. 네가 만들어 왜? 네가 없애 버렸으니.. 자 이런 반란이 어딨어? 


의리도 없고 전통도 없고 본도 없고 배울 수 있는 길도 아니야. 어머니의 가는 가는 길은 내가 어떻게 어머니와 같은 뒤를 따라가면서 어머니를 만들 수 없습니다. 아버지는 만들 수 아버지, 동생은 만들 수 있지만 어머니는 용을 못 만들어. 왜? 거기에서 고장났기 때문에. 너도 몇 천년 기다려 가져가지고 뭐에요? 선생님이 수첩 가운데 나오면은. 수첩 가운데 보면 2001년 10월 3일 어데갔어요? 어머니? 언제나 요때 되면은 어머니가 없어 때(?) 어? 어? 내 왼손이야? 바른손이야? 이거 없어졌어? 나 바른손으로 어떻게 잡으려니까 잡을 것이 없어. 와 와 와 와. 아무리 엄지 손가락 새끼 손가락 있더래도 잡을 수 없습니다. 어디에서 부터 짓기 시작하(냐)면.. 바른쪽부터 지어 내려가지고 아래왼쪽 부터 지어 올라와서요. 어디서? 존재의 기원이 왼손에서부터. 


그래 야 선생님 그 저 원본 원리책 가져오라고. 오늘 가르쳐 줘야 돼요.  


1:21:39 


2021年8月9日月曜日

2021年8月4日水曜礼拝<全文> 一つの神様と一つの世界宗教◆文鮮明師・司会ティム・エルダー本部長

 一つの神様と一つの世界宗教2021年8月4日水曜礼拝<全文>

文鮮明師・司会ティム・エルダー本部長

監修編集タイトル:fanclub


20210804 하나의 하나님과 하나의 세계종교 (성전교회 수요예배) 

翻訳:お父様の御言含め全文minion


皆さんこんにちは。今日は天基12年6月26日の韓国礼拝を始めます。今日は二代王様が早朝にテネシーに出発されました。今、皆さんの祈祷、そして神様の恩恵のおかげでテネシー州清平の土地の本契約を締結することができる時が迫ってきています。まだですが、迫ってきています。必ずそれはなさることでしょう。


そのために二代王様は出発されて他の関係者達も二代王様に仕え、(テネシーに)向かっている途中です。


それで、今日の水曜礼拝は・・・、礼拝は私たちが神様に約束したもので、霊界にも約束したものです。二代王様がいらっしゃらなくてもいらっしゃる場合と同じ基準を維持しなければなりません。


しかし誰かが説教を準備するよりもお父様の講演を読むことがより適当ではないかと考えて今日はお父様の615巻ある御言選集から講演文を選びました。


この講演文が何かと言えば、お父様が1971年の年末に米国に到着されました。60年代も米国を訪問されたことはあったのですが、71年に到着されたことは米国の公的路程を始めるために来られたのでした。


そして陽暦の次の年に72年2月初めに初めて一般の米国国民の前で講演をされました。それがどこかと言えばニューヨークシティーのマンハッタンにあるリンカーンセンターでされました。その時はおそらくアリス・タリー・ホールという、リンカーンセンターにはいくつか建物があるのですが、その中のアリス・タリー・ホールの講堂で初めて御言を語られました。


そしてお父様は米国人を初めてご覧になりながら、もちろん食口はいますが、食口ではなく一般米国人を初めてご覧になりながらどのような御言を語られるのか、これは特に米国がこのような危機にあるのでその時語られた御言をもう一度私たちが確認して、私たちが活動するのですが参考にすることが良いのではないかと考えてこの講演文を選択しました。


お父様のこの日の題目は「一つの神様と一つの世界宗教」です。私たちが、私とユ・ノスク勧士と代わる代わる読みますが、まず私が読みます。そんなに長くないです。11ページなので、それほど長くはありません。


-----                   8:10 ~ 38:22

一つの神様と一つの世界宗教  文鮮明師

期:1972年2月3日 於:リンカーン・センター


紳士淑女の皆様!今夜このように天候が思わしくないにもかかわらず、沢山お集まりいただき、心より感謝いたします。


「皆さんにこのように会いたいという思いは、数十年前からしてきました。今夜初めて皆様にお会いでき、まず皆様に感謝を申し上げると同時に、神様の前に心から感謝を申し上げます。


今夜、皆様の前に申し上げようとする題目は「一つの神様と一つの世界宗教」です。ここニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言うと神は死んだと連想するかもしれません。しかし神様はいらっしゃるのに、いらっしゃる神様を持って神様は死んだと言ったら、これ以上の罪はないと見ることができます。神様がいないのに神様がいるという事は、いらっしゃる神様を死んだというよりはまだ良いと言えます。


今夜、お話しする「一つの神様と一つの世界宗教」という題目を置いて見ても、ここに人がいなければ何の問題になりません。人がいるからその人とひとつの神様が必要なのであって、人がいるからその人と神様が合わさってなされる宗教が必要なのです。


もし、絶対的な神様が一人でいらっしゃるなら、その神様がいる場所は幸せな場所ではないと考えるしかありません。


もし、米国の大統領が一人でいながら喜んで笑って神様だと言っても、神様一人好きで喜んでこのようなら、その神様は正常的な神様ではないと言うのです。


しかしその神様が誰もいないところで、小さな対相対一つを見ながら「ハハハ」と笑いながら好きになれば、それは正常的なのです。いくら小さなものを見て笑ったとしても、その笑う神に対して狂ったと言うならば、狂ったと言う人がむしろ狂った人になるでしょう。ですから、相対的存在がどれほど尊いかについて、まず皆さんにお話ししたいと思います。不幸だとか悲惨だとかいう言葉は、相対がいないところから始まる言葉です。


それならば、神様が相対を好むなら、この世界でいったいどのような存在が好きだと思いますか?感覚のない鉱物ですか?違います。植物でもありません。植物よりは動物はより関心事になるでしょう。このように見ると、この被造物の中で神様の関心事となり得る中心的存在は何かと尋ねたら、それは幼稚園児であっても人間だと指摘するでしょう。皆様はそう考えませんか?こうして見ると、人は被造物の中で最高傑作品だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねて行くならば、人間を除いては訪ねて行く対象がないという結論になるのです。



今日のこの複雑な情勢の中で,今後のアメリカの運命とか,あるいは世界の運命を考えるとき,神様がいたら良いのか,いなければ良いのか,という問題は,深刻に考えてみる問題であるに違いありません。


絶対者がおり、真は真とみなし、悪は悪として処断できれば良いのですが、そのような方がいなければ今後の世界が問題にならざるを得えません。そのため、神様がいないことよりいたら良いということが私たちの願いであるに違いないのです。それでは、神様がいるのかいないのか、これが問題です。


二性性相の神様


この宇宙は存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには力がなければならないということを知っています。その力があるためには、力が先か存在が先かということが問題なのです。力がなければ存在もありません。ところが、その力というのは作用せずには現れないというのです。力が出る前に作用という現象が必ず必要です。


また、作用するならそこには力がある前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることが否定できません。この主体と対象がやり取りすることで働き、働くことによって力が存続するのです。つまり、力が出る前になければならないものが何かというと、主体と対象だということです。


主体と対象はお互い異なる立場にあるため、これらが作用するためにはお互いが相対的内容に合わせてこそ、そうでなければ作用できないのです。そのため、主体と対象が作用するときには主体の目的と対象の目的が合わさる起点がなければなりません。そうでなければ作用しないのです。


私たちの人で言うなら、何かの事で外部に出ていく時、自分が損をするために出る人はいないでしょう。ここニューヨークのタイムズスクエアに多くの人が行き交っていますが、その人たちが家から出てくるとき「私は今日、1ドルでも損をするために家から出る」と言って出てきた人は一人もいないでしょう。出てくる時は必ず自分の利益になれることを望んで、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです。


皆さんが友達に会う所にいても、或いは好きな所にいても、お互いマイナスになり、今よりも悪くなるかもしれない場所では絶対に会いません。しかい、甲という人と乙という人の2人がお互いに会う所では、今よりより良くなるお互いの目的を見るために、そこで作用が起こり1つに合わせることが起こるのです。このように見ると、力が作用する所は二重目的、つまり主体と対象が、お互いの目的をプラスさせるようなものがなくては一つに合うこともなく、作用もしないという結論になります。


原子なら原子を見るとき、原子には陽子を中心として電子が回っています。それもやはり二つの目的を結合することができる、与えて受ける場所にあるために、それが一つの原子の形を形成するのです。ですから電子の目的と陽子の目的を兼ねる目的を中心に合わさっているのです。


大きく見ると、神も存在者です。神も存在するなら実存体でおられるのです。それならば、神様もまた主体と対象の関係になっていて、完全に授け受けすることができる二重の目的性を中心として結合された位置に立たなければ永遠に存在できないのです。ということは、神様も結局は主体性と対象性が合わさって一つの神様としていらっしゃるというのです。


人間の良心作用から見た神の実存性


聖書の創世記1章27節を見ると、「1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」という言葉があります。それを帰納的に追求すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせた方、という結論になるのです。


そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要として、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで建てられたのが神様の一人の男性で一人の女性です。人を見ても、人には心と体があります。この心と体が授け受けするのです。これが万が一、間違えるようになるとき、痛みを感じます。どちらかが傾くというのです。しかし、これが合わさって上がるようになれば嬉しくなるのです。これが完全に一つになった男性がいたら、彼は完全な男性でしょう。


もし絶対者がいるならどんな男性を要求しますか。そういう男性を要求することでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるなら、神様はそういう女性に会おうとせずにはいられません。絶対者の威信を見ても、人が会うところには、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように天を探すことを望み、天の前に堂々と出られる人を天は要求するのであり、私たちも要求するのです。


私たち人間を見るようになれば、原因的な存在ではないということを否定することはできません。人は結果的な存在なのです。皆さんが存在するしないを自由にできますか?できません。原因にならないので結果的な立場にあることが否定できません。結果的な存在も原因が絶対的であれば、絶対的な相対の座に立つことができるわけです。

1930

人体の神秘を通じて見た神の実存性.


皆様!簡単に神様がいるかいないかについて、少し話してみましょう。私たちが人類の始祖を訪ねて上がっていけば、最初の人類の始祖が現れるでしょう。その人類の始祖は地上に生れたのです。

その生まれた最初の人間が地上に生まれながら太陽があり目で見ることを、それ自体が自ら準備してきたのか、そうでなければそれ自体を知らずに出てきたのか、ということを考えてみましょう。


この地に出てきて、目は太陽があることを知るようになることを、その生まれた自分は知らなかったとしても、すでに天体に太陽があり、見ることができると知り、目がそのように生じたのです。


皆さんの目を見れば瞬きをします。それは大地の熱を受けて目の水分が蒸発するので湿らせなければならないことを知ったから瞬きするのです。また、まつげは埃があるので、埃を防がなければならないことを知って生じました。これを見ると、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。


皆様、目を見て下さい。目は汗をかくことがわかりましたね。分かってこの貴重なところに異物が入ると大変なことになるので、防波堤を作っておいたというのです。そして、人が立って歩くことが分かったということです。また耳を見てください。これはすでに三方向に音波を聞くことができるようにすべて分かってできたというのです。また鼻を見てください。鼻がどうしてこのように下に向いているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤を作って下に向けたのです。すべて分かって作られたというのです。それが自分勝手に生じることができるのかというのです。


このように、私たちの人体を見ると、神秘的な王宮のようになっています。これは、ただ生じることはできません。人間が生まれた時、自分自信は知りませんでしたが、それを知っている方が存在したのか存在しなかったのかという問題になります。そのように生まれたことを分からないで、ただ生まれたと言うことはできません。それを事前に分かっていた方が誰かと言うと、神様です。


神様との関係から見た人間本来の価値


それでは神様が人間を造られたとしたら、私たち人間をどのような位置に置いてどのような関係を結ぶために造られたのか、神様が私たち人間とどのような関係を結ぼうとされたのかを見てみましょう。神様がもし人間を造られたなら、作った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人ならば、その人自身にも目的があるのです。造られた人の目的と造られた神様の目的が別々に離れてはいけません。必ず一致点がなければならないということです。その場所は神様も望み、私たち人間も望むでしょう。


ここに来られた方の中に世界的な大統領がいらっしゃったら、どの大統領よりも低くなりたい人がいますか?高くなりたいですか、低くなりたいですか?高くなりたいのです。最高に高くなりたいのです。世界で最も高い方がいれば、その方と関係を結びたいのが人間の欲望です。


そしてその高い人を中心にして一つになったとしても、それよりさらに高い人がいれば、その方とも一つになりたいというのです。それは男性も女性もそのような心を持っています。どんなに劣った人でも、そんな考えをすべて持っているというのです。もし、天地を創造した絶対者の神様がいらっしゃるとしたら、その神様と関係を結びたいですか、結びたくないですか?


そして、その神様を占領したとしても、神様の中に一つしかない愛を占領することができない時は安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛まで占領したら、万事が全てオーケーなのです。その方の愛だけを占領する日には、その方のものは私のものになるというのです。良心は私たちをそこまで追い出す作用があると言うことを、そういう本来、人間の価値的な場所があるので、そのような作用をしていることを私たちは否定できません。


神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならどんな場所で愛したいですか。また、私たち人間はどんな場所で神様の愛を受けたいでしょうか。このように追求するとき、その場所は親子関係、つまり父と息子の場所しかないというのです。


ですから今日キリスト教において天の父と呼ぶことは、人間にあっては当然のことです。父親と息子なら上下関係です。人間の欲望と見るとき、その高い父の所に私も一度行きたいと望むしかないのです。そうなるとき父が駄目だというなら大変な事になります。ですから父はそれまでも気遣って私たちの心、すなわち内的な場所に入って来て、私たち人間自身は外、すなわち神様の体のようになる場所まで私たちに許すというのです。そうすると同等な位置に立つようになります。


人間として見たら、その父が貴重なら、一つしかないその父をどこかに保管する場所がないというのです。遠くに置きたくないというのです。常に私と共に、私だけが会って、私だけが好きな場所に置いておきたいのです。ですから神様が見えないことを願うのです。神様をどこかに置いてはいけないというのです。自分だけが知っている心の中に置きたいのが、人間の欲望に違いありません。


ですから、創造主である神様は被造物である私たち人間を神様と同じ位置に置くと言うのです。私たち人間を神様の息子の席で愛されるようにして下さり、神様と同等の席に立たせてくださろうとしたのです。


神様は天地を創造した能力を持った方なので、その創造能力までも持たせたかったというのです。神様が人間を創造してから、私たち人間を作って見たとき、どれほど可愛らしくどれほど愛おしかったか、それまでも、そのような妙味までも、私たち人間に感じさせたかったという事です。


その神様の創造能力を受けようとするなら、神様は一人の中に完全な男性と女性の姿としていらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も完全な男性と女性が一つになって神様の相対にならなければなりません。神様の相対になることによって創造的役割を代身することができます。


ですから、夫婦の愛を通じて一つになることによって、神様と同じ立場で創造能力を実現できることが子女だというのです。子供を産んで神様がどれほど喜ばれたかということを私たちに知らせるために、神様は子供に対して愛することのできる心を私たちにくださいました。


このように見る時、神様は一番良いものを私たち人間にすべて注いでくださったというのです。このように永遠な神様の愛と一つになって幸せと満足の中で平和なエデンで暮らすように私たち人間を造られたのです。そうなることによって、絶対的な神様の前で、人間は神様の愛を中心として、永遠に相対となる立場で、分かれても分かれることのできない幸せな人として生きることが、人間本来の姿だったということを、私たちは知る必要があります。


世界を救うべき宗教の使命


絶対的な神様が建てた存在物は一つの目的を持たなければならないに違いないのです。ところで、先ほどお話しした神様の愛を中心にして絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか?いません。絶対的な神様が立てたのですから、一つの目的を目指す人間になるべきなのに、私たちを見ると、二律背反的な反対の目的になったもう一つの道に立っていることが分かります。ある人はこれを人にとっての主体と対象の関係と見ていますがそうではありません。良心作用が内的なプラスだとすると、私心(ししん)はもう1つのプラスです。つまり、反発が起こるのです。そういう立場に立っているのが、この地上に生きている私たちの人生です。


神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対的価値の理念を喪失してしまい、私たち自身は反対的な二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければばりません。言い換えると、壊れた人になっているというのです。ところで、絶対的な神様は、人間を相対にするしかないので、人間を放っておくことができず、歴史の過程を通して再生させる運動をしてこられたのです。すなわち、修理工場を作らなければならないというのです。それが宗教だというのです。


世界には数多くの宗教があります。文化が異なり、または民族の背景が異なる基準に従って、数多くの宗教を立てて糾合してこられたのです。宗教が望む目的は世界を救うことです。神様が望む目的も世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ長くは残りません。


宗教指導者は民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とする世界的運動を提示した人々です。私たちが今、四大聖人だといって4人を挙げることを知っています。イエス·キリスト、釈迦牟尼、孔子、マホメットを挙げます。ある人はソクラテスを選んでいますが、ソクラテスは哲人であり聖人ではありません。知識を持っては命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです。


そのため、四大聖人がどんな人々かというと、すべて世界的な大宗教の宗主になっています。天に仕えない人はいません。皆さん、聖人は尊重視しながら、天を無視する人になってはならないというのです。


世界的中心宗教はキリスト教


それでは、この修理工場のような使命を宗教がしますが、神様が絶対者であるなら、絶対者が最も好む宗教がどのような宗教なのかを、この四大宗教の中で知る必要があります。これが問題です。


儒教を見ると、神様に対する確かなことを教えてあげることができませんでした。善を行うと天が福を与え悪を行うと怒りを与えるということしか教えることができませんでした。仏教を見たら、法的な神様は認めますが人格的な神様は知りません。またイスラム教を見ると、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です。これはコーランか剣かという武力的な宗教です。これは天が喜ぶことではありません。


しかし、ただイエス·キリストだけが主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神様の独り子だ」と言いました。人類の歴史上で神様の独り子だと主張した人はイエス様しかいないのです。次に「私を見た人は神様を見た人だ」と言いました。「私があなたの中にいて、あなたが私の中にいて、父は私の中にいて、私は父の中にいる」と言いました。それだけでなく「私は新郎であり、あなたたちは新婦だ」と言いました。


このようなことを見ると、誰を中心にしてこれを成し遂げようとしたかと言うと、神様を中心にして成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心とし、息子となって一体となり、ひとつの新郎新婦を築き、ひとつの家庭を作ろうというのがキリスト教の目的なのです。前に述べた私たち人間にとって、最高の価値として与えられた息子の地位と同等の地位、そして創造の偉業と創造したその後の喜びを感じることができる家庭的な起源を、イエス様は教えて行かれたのです。


キリスト教の限界


ところで、イエス様は神様の息子であり、天のお父様と一体になりましたが、相対できる新郎新婦の席を用意することができませんでした。もしイスラエルの国とユダヤ教が、その当時イエスと一つになった場所でイエス様が新婦を迎えることができていたら、イエス様は神様と直接的相対になって創造の能力を発揮できる基盤を持つことができたのに、それを果たすことができませんでした。


このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくり、新しい宗族、民族、国家、新しい世界になっていたら、この地球上はすなわち天の国になっていたはずです。神様を中心とした天の国になったはずです。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教の人々が信じることができなくてイエス様が死んだのであって、信じていたならイエス様は死ななかったでしょう。


もし、あの時イスラエルの国とユダヤ教が、イエス様を信じて神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新たな出発をしていたら、イスラエルの国の人々は、そのように分かれ、第2次世界大戦中に6百万人のユダヤ教徒がヒトラーに虐殺されることはなかったはずです。歴史以来初めて出た、神様の対象になって神様が愛せる方を打ってしまったからそうなったのです。これ以上大きな罪はないというのです。


今ここにもイエス様を信じる人がたくさん来られたと思います。今信じているキリスト教ではだめなのです。そうしていくと、イスラエル民族のようにばらばらになってしまうかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として、一つになり再び来られる主が、この使命を持って来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなくては、これからのこの世界の展望は悲惨だと考えざるを得ません。


その方が来て、新郎として新婦を迎えて婚姻を挙げるというのがヨハネの黙示録にある子羊の宴です。堕落したため私たちは堕落した偽りの親を持ちました。神様がモデルとして考えた善な真の父母は現れませんでした。この計画したものを終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて再び生み、再び接ぎ木する事をしなくては、世界中のすべての人は救われないのです。皆様、これを確実に知らなければなりません。


​新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教会​


これから、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落しないで善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けることができる道を開くために来られるお方が、再臨主だと言うことをしらなければなりません。


神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くことが幸福でしょうか。現在、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、宗族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません。


このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから因縁を持ち、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした新しい文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上天国になるのです。


そのようになるためには、ここで皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知るべきです。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命であると知っています。


膨大な内容をこのように短くして短い時間で話そうとしましたので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。


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以上、お父様の公演の内容でした。


お父様が公的な場所で講演されるとき、原理を主として御言を語られることが多いです。創造原理から始まって堕落論、イエス様の使命、キリスト論、そして救いをどのようにして受けるか、ですから、原理講論の順序と殆ど似たように今日も御言を語られて、このような講演文はこのような順序で語られることが多いと言う事をわたしが今まで見てきました。ですから、お父様の講演文は原理講義だと見ることが出来ます。


お父様が初めて一般のアメリカ人に会って、まず、神様は実際にいらっしゃると話されて、しかし今、神様と人間の関係がどのようにならなければならないのか、しかしできなかった、それをどのように再び回復するのか、このような内容を語られました。


実際、この講演文はリンカーンセンターで、私が知っていることは3日間御言を語られた前日の御言で、お父様は7大都市を巡回されました。ニューヨークから始められて米国の全国の人達を集めて御言を語られました。


その時は本当に恥ずかしいことに、米国の食口達もお父様の使命がよく分からず初めは良く協助できませんでした。しかしそういう事にもかかわらずお父様は私たちを忍耐心を持って導いて下さり巡回講演がなされたと、その時私はまだ入教していない時でしたが、例えば私はリンカーンセンターで御言を語られた時も「チケットを売りなさい」と言われたそうです。


食口達は「チケットを売る?私たちがどのようにして?お父様を知っている人なんて全くいないのに、どうして人々がお金を出して来るのだ。」と言って反対しました。しかしお父様は「必ずしろ」と言われてリンカーンセンターの場所を予約することも最初は米国教会の指導者達はしないようにしました。反対、反対、反対して結局はお父様が直接リンカーンセンターの事務所に行かれて直接場所を予約されたそうです。そのくらい私たちは無知でした。


この講演文を見るたびに私たちはそれを考えて、もう一度・・・、その時、私はいませんでしたがその時いた人達の代わりに悔い改めたい気持ちがあります。実際、私はその時ニューヨークにいました。しかしメシアがこのように講演されることも知らず、自分の思いのままに生きていました。それも悔い改めます。


お父様はこのように71年から始められて数十年間米国の人に投入されました。今も二代王様を通して米国を生かそうと愛を投入されて私たちを導いておられることを考えるとき、本当に感謝申し上げます。最後にお祈りして終わります。


- 祈祷 ー


天のお父様感謝申し上げます。今日はお父様が1972年2月リンカーンセンターのアリス・タリー・ホールで3日間された御言の中から前日の御言を訓読しました。お父様が米国市民に訴えられた内容、神様は確実にいらっしゃり、私たちを再び救いたいそのような神様でいらっしゃることを教えて下さいました。


その時、全ての米国国民が何も知らない所に来られて私たちを教育して下さいました。特にキリスト教徒達を対象に「今の現在のキリスト教を持ってしては駄目だ。キリスト教が一つになってこそメシアに会うことができる、救世主に会うことができる」このように御言を語られた事を考えるとき、今日の日も米国のキリスト教が一つになる事ができていないことを本当にお父様の前に悔い改めるしかありません。


二代王様は今、アベル的キリスト教、すなわち、キリスト教の教会に通っていなくても、キリスト教の基本的信仰を信じて、基本的倫理道徳を守る人達、その様な人達を集めて摂理をされていることを知っています。


本当にこれを持って私たちが米国を救い、米国をもう一度神様の前に立つことができる国として立てたいです。


神様、感謝申し上げます。この機会を下さったことを感謝申し上げます。今、現政権の前にこの国が間違った方向に行っていますが、本当にトランプ大統領が継続して戦い出て、この間違った流れを再び善の方向に戻すことができる、その様な事がなされるように導いて下さる事を懇切にお願い申し上げます。感謝申し上げます。


この全ての内容を祝福中心家庭ティム・エルダー、ユ・ノスクの名によってお捧げし報告申し上げます。アジュ


では、今日の水曜韓国礼拝をこれで終わります。皆さん来週までさようなら。


神様王権樹立勝利億万歳、天宙天地人真の父母様三代王権勝利億万歳、天一国創建億万歳


ありがとうございました。


45:00

2020年7月30日木曜日

再臨主とサタン国家日本の解放、そして驕りし選民


再臨主とサタン国家日本の解放、そして驕りし選民

非常に分かりやすい内容になっていますので、是非御覧ください。

PDF:「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」

PDF:「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」

PDF:「新解釈 文鮮明氏6度の受難」

PDF:「再臨主を中心とする復帰摂理」


聖殿の方は、知り合いの聖殿の方や家庭連合の方々にお伝え頂ければ幸です。
もちろん家庭連合の方々も、よろしければ知人にお伝え頂ければ幸です。

また、先に紹介しました、天一国創建と3つに分裂した統一教会、そして真の後継者 下記PDFもお伝え下さい。

PDF:「新解明 韓お母様の天一国創建」


以下、ブログ主、愚直さんのブログからの文章転載です。

                                                       

以前「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」と題してブログで連載した内容を、今回再編集しました。
PDFファイル162ページの大容量となってしまったために、時間をかけてじっくり読まなければ読み切れないくらいの分量ではありますが、日韓の摂理歴史を学ぶための参考として一度お読みいただければ幸いです。

PDF:「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」

サタン国家日本、罪の呪縛からの解放

昨年反日種族主義という本が韓国、そして日本で出版され、大変な話題となりました。
そこには「日帝下徴用等強制動員・日本軍慰安婦被害者・独島領有権」などについて、今まで韓国で反日勢力によって一方的に宣伝、教育されてきた内容が、実は違っていたということを、実際の資料などを示しながら証明した、画期的な歴史解釈書でした。

最近はここブログ村でも、心ある食口たちによって、日韓の歴史に関して、正しい歴史観が語られることが多くなりましたが、しかしそれはまだ少数勢力に過ぎず、まだまだ日韓の歴史の真実は一般食口には知られていないのが現状です。
日本人は元々、GHQによる東京裁判史観で洗脳され、戦前の日本は全て間違っていた、日本は軍部が暴走し、世界を戦争に巻き込んだというような自虐史観が常識となっていました。

そのため教会でも、日本は元々サタン側のエバ国家だった、サタン国家日本は主の国韓国を40年間、歴史上最悪の迫害を加えたという教育を純粋に受け入れ、その蕩減として経済に対し責任を持たなければいけないと洗脳され、自分の家を売り、家庭を犠牲にし、自分の親にまで借金をし、高額商品を売りつけ、それでも足りないとしてカードを使って借金しまくり、挙句の果てに自己破産という一つの流れが出来上がっていました。

その結果生活保護を受け、貧しい生活を甘受しながらも、そのまま報われることなく、聖和された先輩食口たちの姿も何度も目にしてきました。
それら日本人食口たちの犠牲は、日本がサタン側のエバ国家だったという事実、そして主の国韓国を40年間歴史に類を見ないほどの迫害を加えたという歴史観を、真実として受け入れたからこそ果たせた犠牲でした。

しかしその事実として受け入れてきた歴史が、捏造された歴史、間違った歴史だったとしたら、日本はサタン側のエバ国家だったとしても、それはあくまでも神のみ旨の中での一役割分担であり、全ては神の摂理の一環であったとしたら、話は違ってきます。

反日種族主義は韓国人はもとより、日本人も信じて疑わなかった日韓の歴史が、実は捏造された、嘘の歴史であった、事実は日本は朝鮮半島に多大なる貢献をしていたということを告げる一つのきっかけとなりました。

2020年を迎え、新型コロナウィルスのパンデミックにより、新しい時代の到来を誰もが感じる今のこの時は、同時に今までの悪がはびこり、人を騙してでも自分が利益を得る、サタンが栄える時代の終わりをも告げています。
つまり今まで信じられてきた価値観が崩壊し、嘘が暴かれ、真実が明らかになる、いわゆる正午定着の時代の到来でもあるということです。

今まで教会では、日本はサタン側のエバ国だったと教育することで、献金を搾り取れるだけ搾り取り、ボロボロになってもさらに搾り取ることで組織を維持してきました。
しかしもし日本が言われるような罪深い国でなかったら、それどころか神のみ旨を担い、神の御心のままに朝鮮半島を統治することによって、再臨主をこの地上に迎えることができていたとするなら、話は全く違ってきます。

日本は言われるように歴史上最も罪深い国なのか、それとも今までは語られることのなかった真実の歴史が他にあるのかについて、このブログの姉妹ブログ「驕りし選民、繰り返される摂理の失敗」の中の、「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」に掲載した内容を、今回再編集しました。

PDFファイル162ページの大容量となってしまったために、時間をかけてじっくり読まなければ読み切れないくらいの分量ではありますが、いままで10年、20年・・・50年という期間、洗脳されてきた洗脳を解くためには、ほんの数時間貴重な時間を割いてでも読むだけの価値はあるものと自負しています。

もし今回真実の歴史を知り、真のお父様による活字になっていないみ言を知ることによって、洗脳が解かれ、自分で正しい歴史を学ぶようになれば、今後とも何年続くかわからない信仰生活においても、両班に搾取される奴婢のような日本人食口の現状から解放され、主体的、自立的信仰を確立できるかもしれません。

ダウンロードリンク「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」


今の統一教会?は、李氏朝鮮時代末期の様子に酷似しています。
一部の両班が自らの権力を誇示し、既得権益を守るためにほとんど大多数の一般大衆を奴婢のように扱い、無慈悲なまでに搾取するのが当たり前の世界です。

それは調べてみると、歴史的に超大国に挟まれた朝鮮民族が築いてきた身分制度と、そこで生き残るために生まれた恨の精神が韓民族のDNAに刻まれて、今日に至っても脈々と生き続けているということを感じさせます。
その韓国人のDNAに刻まれた恨の精神は、韓民族が経験したような身分制度を経験したことのない日本人には、決して理解することはできないものではないでしょうか。

韓国人が日本人を恨み、反日運動を展開しているのは、日本によって迫害され、虐待され続けたからではありません。
日本人によって搾取から解放され、近代化を果たし、生活が向上したとしても日本人を恨むことしかできない、韓国人特有の恨の精神によってなのです。
どんなに愛されたとしてもその愛を愛と感じることができずに、恨むことしかできない人間はいるものです。
つまり日本人と韓国人とは、ものの感じ方、ものの見方が根本的に違っているということです。
日本人的感覚で韓国人を見てはいけないということです。

もちろん韓国人と一口に言っても、日本に来て家庭を持っている韓国人(夫人)の多くは、日本で生活しながら、日本人と同じように献金のノルマに追われ、苦しい生活の中から精誠を捧げる生活を強いられていますから、日本人と同じような感性になっている方も多いことでしょう。
それは李氏朝鮮時代の朝鮮人も、そのほとんどが搾取される側、弱い立場の身分でしたから、今の日本人食口と同じような境遇にいましたので、共通する心情の世界は多いと思います。
問題は搾取する側、つまり両班のような既得権益を持った立場の韓国人にあります。
李氏朝鮮時代両班は、どんなに奴婢を迫害し搾取したとしても、心の痛みなど感じることもなく、500年間その体制を維持し続けてきました。

同じように統一教会においても、いくら日本人が犠牲の道を行ったとしても、両班に相当する教会幹部たちは日本人の痛みを自らの痛みとは感じることもなく、500年だろうが1000年だろうが同じような体制をいつまでも維持していこうとすることでしょう。

日本はサタン側のエバ国家だ、世界で最も罪深い民族だと言えば、従順な日本人は疑うこともなくその言葉を信じて、いくらでも献金を捧げ続けるわけですから、彼らにとってそんな美味しい話はありません。
特に信仰に関係なく、日本人を見下したい韓国人にとって、韓国人というだけで選民として仰ぎ見られる統一教会は、居心地の良い、自分の欲望を満足させてくれる団体ですから、決してそんな特権を自分から手放そうとはしません。

日本人がそんな罪の呪縛から解放されるためには、自分自身が主体的に日韓の歴史の真実を学び、神の摂理を学ぶ以外に方法はないのです。
自分自身が主体的に日韓の歴史を学び、神の摂理を学ぶ上で、この「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」が、一つのきっかけとなれれば幸いです。

ダウンロードリンク「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」


                                                       

驕りし選民繰り返される摂理の失敗

原理に出会う前、私は他の信仰を持っていました。
その宗教の教祖は私が入信した時には既に亡くなられていたのですが、自らをメシヤに先駆けてくるものとして、洗礼ヨハネであると啓示的に感じ取り、「魁のメシヤ」と名乗っていました。

私はその宗教に出会う以前から救世主・メシヤを捜し求めていましたが、聖書の黙示録を読み、私が入信した宗教は、メシヤ直接の宗教ではないことを知り、実は安心していました。
それは何故か、黙示録7:14~17を見てみます。
「彼はわたしに言った、『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう』」。

神の御座の前で、メシヤと共にある者たちは、「もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」という、とてつもない恩恵に与れる人たちではありますが、その恩恵に与る前に、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」とありますので、私にはとてもそのような艱難に耐え得るだけの信仰は持てないなと思い、メシヤに直接侍る信仰ではなくて良かったと思った次第です。

実際私たちが知るクリスチャンへの迫害は、ローマにおいてはコロッセオでライオンや獣と闘わせられたり、十字架につけられ火あぶりにされるという迫害でした。
また日本においても隠れキリシタンを炙り出すために踏み絵をさせられ、キリシタンと分かると十字架につけられるという迫害を受けてきましたから、メシヤに直接侍ることで受けるだろう迫害は、キリシタンが受けてきた迫害程度では済まされないだろうと思い、まさしく命がけの信仰が求められ、自分などにはとても耐えられないと思った次第です。

ですからメシヤ直接ではなく、洗礼ヨハネ教団に入信できたことで、ある意味安心し、満足していました。
しかし神はそんな私の甘えた根性は許されずに、結局統一教会へと導かれてしまいました。

そんな形で導かれましたから、私が原理を聞く観点は、1から10まで文鮮明氏はメシヤか否かの一点で聞き、4回主の路程を聞くことでようやく入教する決意ができました。
しかし入教する決意はしたと言っても、文鮮明氏はメシヤかどうかは最後まで自分では判断できませんでした。
イエスキリストやお釈迦様に勝るとも劣らぬ路程を歩んでいることは理解できたのですが、だからと言ってメシヤであるとは断言できなかったからです。

それは幼稚園児が大学の高等数学の講義を聞いても理解できないのと一緒で、私には文鮮明氏がメシヤかどうか判断できるだけの心霊も知能も持ち合わせていないことが分かり、最後にはメシヤであることに賭けると決意をしたのでした。
それは残念ながら数十年経った今でも変わらず、一度賭けた賭けを最後まで全うする思いだけで今日まで来ているような気もします。

前置きが長くなりましたが、何が言いたいかというと、選民とはあくまでも「大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くした」者でなければいけないということです。
「神様の摂理から見た南北統一」を見ると、「神様のみ旨は、イスラエル民族を祭物とし、メシヤ自体も人類の僕の立場に立って、人類のために生きるということだった。」とあります。

つまり選民とは、神のみ旨の為に命を捧げられる人でなければいけず、自分自身を祭物として捧げられる人であり、命がけで神を愛し、人類の前には僕の僕となって仕える人でなければいけません。
それは同時に、真のお父様が実践したような真の愛を実践する者であり、恩讐をも愛する愛を実践し、勝利した者でなければ選民にはなれないということです。

私たち日本人は統一教会に入教することにより、日本はサタン側のエバ国だった、主の国韓国を迫害した罪深い国だ、だから日本人は誰よりも犠牲の道を行かなければいけないと洗脳され、教育されてきましたが、そんな日本と日本人を誰よりも愛し、僕の僕の立場に立って侍り、真の愛を実践された方こそが真のお父様でした。
まさしく真のお父様がそのような真の愛を示され、恩讐である私たち日本人を愛してくれたからこそ、日本人は誰よりも犠牲の道を歩み、全てを捧げてみ旨の道を歩むことができたのです。

韓国人が選民だというなら、韓国人たちは真のお父様が示されたような真の愛を、恩讐である私たち日本人に対して実践しなければいけないのです。実践し勝利して初めて韓国人たちも本当の選民になれるのです。
しかし現実の韓国人はどうでしょうか。
教会においては、日本はサタン側のエバ国だった、日本人はその罪の蕩減の為に万物を全て捧げなければいけないと、終わることなき献金路程へと駆り立て、日本人に犠牲を強いながら、幹部たちは自分たちの私腹を肥やすという図式が成り立っています。

原理に照らし合わせた時、彼ら幹部たちは真のお父様が開拓された真の愛の実践の機会を喪失し、既に選民としての使命に失敗してしまっているのです。
その結果今の韓国における反日運動の盛り上がりの原因まで作っているのではないでしょうか。

統一教会が率先して日本を愛し、許そうという運動を行って初めて、アダム国家韓国とエバ国家日本が本然の夫婦のごとくに一体化し、日韓が一体化した基盤の上に、創造本然のエデンの園を迎えることができるはずでした。

しかし現実は統一教会は反日の急先鋒に立ってしまっており、率先して慰安婦問題の罪を認め、謝罪し、韓国における反日勢力を勢いづけさせております。

まさしく驕りし選民により、摂理の失敗は繰り返されているのです。
そんな選民、韓民族の摂理の失敗の歴史を姉妹ブログ「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」に投稿した内容を再編集しまとめたものを、今回PDFファイルにして期間限定で配布いたします。

  ダウンロードリンク「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」


「サタン国家日本、罪の呪縛からの解放」「新解釈 文鮮明氏6度の受難」において、日本は言われるように罪深い国などということはなく、逆にメシヤ降臨に多大なる貢献を果たした国であり、韓国の近代化にも大きく貢献した国であるということを、実際の歴史と真のお父様のみ言から解説しました。

「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」では、真のお父様の路程を中心に、真のお父様をメシヤとして、再臨主として迎えるべくして用意された韓民族は、果たして神の願いに応え、摂理に勝利することができたのかどうかを、真のお父様の生涯路程を中心として解明しました。

そこから見えてくる唯一の結論は、韓民族は神の摂理にことごとく失敗していたという否定しがたい真実です。
南北の分断もその結果であり、真のお父様の40年荒野路程もその結果であり、統一教会の分裂もその結果に過ぎません。
このような結果を厳粛に受け入れ、悔い改めることなくして韓民族には希望の未来も、将来も、何もありません。
摂理に失敗したユダヤの10部族の末路は悲惨なものでした。
イエスを十字架につけたユダヤ民族の悲劇は2000年間続き、故郷の地を復帰した今も紛争は続いたままです。

私たち日本人も愛があるならば、摂理にことごとく失敗した韓国人に真実を知らせ、これ以上罪を重ねることのないように指導してあげることが、真の愛の実践になるのではないでしょうか?
そのためにも一度「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」をお読みいただき、私たちが果たすべき使命を再考する参考としていただければ幸いです。

  ダウンロードリンク「驕りし選民繰り返される摂理の失敗


                                                       

PDF:「新解釈 文鮮明氏6度の受難」

新解釈 文鮮明氏6度の受難


私たちは、統一教会に関わると洗脳されると言われ恐れられてきました。
しかしいわゆる洗脳を受けた私たちとしては、洗脳などというオドロオドロシイものではなく、人としての正しい教育を受けただけだと思ったものでした。
しかし統一教会食口と話して感じることは、確かに統一教会食口は洗脳されているなということです。

ものの見つめ方、考え方が一方向的であり、俯瞰して物事を見ることができず、自分の考え方に固執し、自分の考え方と相容れない考え方は一切受け入れない傾向が強いということです。

特にその傾向は、統一教会が3つに分裂した今、強くなっていることを感じます。
自分立場を擁護し、他の立場は一切認めない傾向がますます強くなっているのです。
日本の罪を考えた時、私たちは常に人類の救世主、メシヤとして降臨された真のお父様を最初に逮捕し、拷問にかけたのは日本人だ!日本人がメシヤの身体に最初に鞭を打った、罪深い存在だと言われてきました。

その事実に関しては一切の弁解も、反論の余地もありません。
事実は事実として受け入れるしかありません。
しかしそれ以上の事実に関しては、誰も何も語ってくれませんでした。

本当は日本人以上に罪深く、人類の救世主、メシヤとして降臨された真のお父様を死の寸前にまで追い詰め、イエスの十字架に相当する極致まで追い詰めた存在がいることは、ほとんど語られてきませんでした。

つまりこのような日本人の罪と教えられてきた真のお父様の受難に関しても、私たちは洗脳され、一方向的な見方しかできなくなっていたのです。

真のお父様の受難に関しても、一歩引いた立場で俯瞰し、大局を見た時、全く違った罪の存在を発見することができるのです。

今回「新解釈 文鮮明氏6度の受難」では、「驕りし選民繰り返される摂理の失敗」に投稿した真のお父様の6度にわたる獄中路程についてまとめた内容を再編集し、PDFファイルにしてまとめてみました。

真のお父様の路程の中でも、クライマックスともいえる苦難の路程について、今まで聞かされてきた観点とは違い、より俯瞰した立場で新しく解釈した真のお父様の路程となっています。

ダウンロードリンク「新解釈 文鮮明氏6度の受難」


メシヤにおける公生涯とは、メシヤの使命を果たすために歩む公式の路程のことを言います。

イエスに対する迫害は、公生涯が始まってからでした。
イエスの公生涯に相当する真のお父様の公生涯はいつからだったのでしょうか?
真のお父様に対する日本の警察による迫害は、公生涯が始まる前か後か?
また真のお父様が公生涯を歩む中で行われた迫害は、いつ、どこで、誰によってなされたものなのか?

この公生涯か否かという観点が、非常に重要になってきます。
何故ならば、人類がイエス以降2000年の時を経て迎えたメシヤを、人類はどのように迎えたのかが直接に問われるからです。

何故洗礼ヨハネがイエスを不信したのが、あれほどまでの罪となったのかは、メシヤとしてのイエスを受け入れなかったからです。
例えば洗礼ヨハネが、洗礼ヨハネほど修行をしているようには見えない従弟のイエスを見下し、受け入れなかったとしても、公生涯を出発する前であったならば、それほどの罪とはならなかったでしょう。

洗礼ヨハネが犯した罪は、公生涯を出発したイエスを洗礼し祝福したにもかかわらず、イエスを不信し、従わなかったから大きな罪となったのです。
同じように真のお父様を迫害するにしても、その迫害が文鮮明氏個人に対する迫害なのか、メシヤ、再臨主としての文鮮明師を迫害するのとでは、意味合いが全く違ってくるとみなさなければいけません。

「新解釈 文鮮明氏6度の受難」では、真のお父様の生涯において、特に迫害を受けた時期、その経緯と結果について分析することにより、メシヤを迫害した張本人、最も罪深い存在は本当は誰だったのかについて焦点を当てて分析いたしました。

今までとは違った観点での真のお父様の苦難の路程を、是非ご参照いただければ幸いです。

ダウンロードリンク新解釈 文鮮明氏6度の受難


                                                       

PDF:「再臨主を中心とする復帰摂理」

最終回、イエス路程を踏襲した真のお父様の路程、

「再臨主を中心とする復帰摂理」


今回姉妹ブログへの投稿内容を、6回にわたってPDFファイルにまとめたまとめファイルの配布を行いましたが、今回7回目で最終回を迎えました。

最終回はイエス路程を踏襲した真のお父様の路程、「再臨主を中心とする復帰摂理」についてです。

真のお父様は生きてイエスの十字架を超え、イエスが成し遂げることのできなかった真の家庭を築き、弟子たちにも祝福を与え、その権能さえも付与することに成功しました。

イエスはたった3年間の公生涯で十字架についてしまった為、その救いの恩恵はイエスの十字架を信じることによる霊的救いのみに限定されてしまいました。
しかし真のお父様は、生きてイエスの十字架を超えて、実体的に数々の勝利的基盤を打ち立てられ、90年の生涯を全うされましたから、イエスの路程を超え、人類史上初の路程を歩まれたと思っていました。
何度も死の境地を生きて超えられ、数々の勝利圏を確立されましたから、その生涯はイエスの生涯を超えて、人類史上誰も歩んだことのない未開の路程を歩まれてこられたのだと思っていたわけです。

しかし今になって改めてイエス路程と真のお父様の路程を比較してみると、そこには見事なまでのシンクロが見られ、真のお父様は90年かけてイエスの33年の人生を見本として、同じような路程を歩まれていたということが分かりました。

もちろん教会ではそのような解説をされる方はなく、ただただ勝利者として証しされるばかりですので、異端的解釈ととらえられるでしょうが、真のお父様の90年の生涯にプラスして、今日に至るまでの路程は、まさしく33年のイエスの生涯と、霊的復活以降の路程を見本として、摂理は進んでいるとしか思えない内容が多々あるのです。
是非一度ご自身で確かめて判断いただければ幸いです。

ダウンロードサイト「再臨主を中心とする復帰摂理」



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