2023年11月20日月曜日

キリスト再臨アドベント1~9 ◆文信俊三代王◆日本語訳 The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント1~9

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.

1. (20230619)

Principle of Creation 1a - The Tree of Life

https://youtu.be/mAApz8jqK4M



創造原理1a - 生命の木


旧約聖書と新約聖書を比較しながら、完成された聖書神学について議論するチャンネル、「The Advent アドベント(降臨)」へようこそ。


今日は、「創造原理」(天地創造の本質的な原理)についてお話したいと思います。

堕落以来、人は天の父との正しい関係を阻む罪の束縛から解放されることを切望してきました。

新約のキリスト教徒が、私たちの救いの必要性を強調するのは、まさにこのためなのです。


しかし、堕落によって私たちは罪を受け継いだので、堕落がなければ罪はなかったことになります。


これは、まさに「聖書」の物語です。

聖書は、本然の世界、罪の穢れのない世界を復帰しようとする、神の歴史における行為なのです。


堕落する前、私たちは命の木を見せられ、決められた時間が過ぎれば、アダムとエバはその木を食べる権利を得ることができました。

それにも拘らず、アダムとエバは堕落し、園から追い出され、命の木はケルビムによって守られるようになりました。


しかし、この話はこれで終わりではありません。

黙示録には、命の木が復帰されたことが書かれています。

黙示録2章7節には、「勝利を得る者には、命の木の実を食べる権利が与えられる」と書かれています。

したがって、命の木の復活は、聖書に記されている「復帰摂理」なのです。


したがって、もし人間を本来の創造理想に戻すことが神の願いであるならば、まず本然の理想が何であったかを確認する必要があります。

そのためには、罪によって人間が束縛される前、つまり堕落前に目を向ける必要があります。

しかし、ここで一旦立ち止まりましょう。


創造原理を確認する前に、まず神様の本質を把握する必要があります。

ローマ人への手紙1章20節に、こうあります、 

「天地が創造されて以来、人々は大地と空を見てきました。神が造られたすべてのものを通して、彼らは神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性をはっきりと見ることができます。ですから、彼らは神を知らないという弁解の余地がないのです。」

パウロは、神は目に見えないが、神の創造物を通して、神の力や性質といった目に見えない性質の一部を確認することができると主張しています。

さらに、画家が自分の内面を絵という外形に表したり、歌手が歌詞において自分の内面を反映させたりする例もあります。

つまり、創造物には、少なくとも創造主の特徴を読み取ることができるものがある、というのが原則です。

これを宇宙に当てはめると、神が天と地を創造されたのですから、宇宙を観察すれば、神の特徴のいくつかを知ることができます。


では、宇宙にはどのような特徴があるのでしょうか。

宇宙には、さまざまなパターンがあります。

しかし、特に印象的なのは、創造された秩序全体に普遍的に存在するペアシステムです。

基本的なレベルでは、プラスとマイナスの原子があり、それが相互に作用して物質の分子を形成しているのです。

さらに、植物や動物にも、雄しべと雌しべ、オスとメスというように、プラスとマイナス、つまり男性的な面と女性的な面があります。


そして、神の創造の頂点である人間にも、この男と女の概念が反映されています。

しかし、このことは最近、疑問視され始めていますが。


創世記1章27節には、こうあります、

「そこで神は人を神のかたちに創造し、彼を神のかたちに創造し;彼らを男と女とに創造された。」

この聖句は、男と女が神の本性そのものを反映したことを教えています。


しかし、これは2人の神が存在するという意味ではありません。

聖書は、神が唯一であることを明確に示しています。

申命記6章4節に「われわれの神、主は唯一の主である」とあります。

神の中に男性的な特徴と女性的な特徴の両方があることを、私たちは意味しています。

つまり、神は男性的な性質と女性的な性質が調和している、ということです。


さらに、この世界に存在するものには、内的な性質と外的な形と呼ばれるものがあることが分かります。

つまり目に見えない性質があり、その目に見えない性質から流れ出る、目に見える性質があります。

例えば、人間には、心や魂、精神といった目に見えない性質があります。

しかし、その反面、心によってコントロールされている肉体があります。


また、どんなものでもそうですが、アイスボックスを例にとると。

アイスボックスというアイデア、デザイン、機能、そして様々なロジスティクス(物流管理)があるはずです。

それがアイスボックスの内的性格を象徴しています。

しかし、この内的性格が現実に実行されるとき、アイスボックスは物理的、物質的な物体となり、それがアイスボックスの外的形態となるのです。


したがって、聖書と批判的思考を通して、宇宙はそのシステムに男性と女性の両方の特性、内的性質と外的性質を備えていると結論づけられます。

これを創造主に当てはめると、神にも男性性と女性性があり、内的性質と外的形状があると結論づけることができます。


神が内的性質を持つというのはどういうことかというと、神は行動やアイデアを考え、熟考することができる非物質的な心であるということです。

使徒ヨハネを通して、私たちは、神の多くの肯定的な性質の中で、この非物質的な心の中心的な性質が「愛」であることを知っています。

ヨハネ第1の手紙4章8節にあるように、「神は愛である」のです。


では、神の外的な性質はどうでしょうか。

ヨハネ福音書4章24節に「神は霊である」とあるように、それは神の霊体であると言えるでしょう。


この結論を踏まえて、このセクションの第2部では、創造原理をさらに深く掘り下げていきましょう。



2. (20230711) 

Principle Series 1b - Back to the Blueprint

https://youtu.be/uSkiDnXDPnY



原理シリーズ1b - 設計図(青写真)に戻る


このように、神は男性的な性質と女性的な性質を持って存在し、内的な性質と外的な形状とともに存在すると結論づけた私たちは、創造の本来の理想を知ることができます。

罪のない純粋で理想的な世界。

では、中断したところに話を戻しましょう。


この「原初へのアピール」は、マタイによる福音書19章4節から8節に記されているように、イエスがパリサイ人を叱責する際に用いたのと同じ方法でした。

イエスはこう答えました。 

「あなたがたは、初めに彼らを創造された方が、彼らを男と女に造られたことを読んだことがないのか。」

モーセの離婚法について尋ねられたとき、イエスは再び、結婚の契約に関する神の本来の枠組みを訴えます。

「初めからそうではなかった。」


この原点回帰の原則を、例え話で説明しましょう。

あなたがインフラ企業のトップで、将来のビルに関する壮大なビジョンを持っているとします。

あなたの計画委員会は、建設の基礎となる青写真を描き始めます。

熱心なブレインストーミングの結果、設計図(青写真)が決定されます。 

その後、建設チームはビルの建設を開始し、完成間近になります。

しかし、不満を抱いた従業員の一人が土台を破壊し、残骸だけが残されてしまいます。

しかし、このビルを完成させる決意を固めた従業員たちはどうしますか?

彼らは、破壊されたビルを再建するために元の設計図(青写真)を見ます。


同じように、私たちは神が望んだ世界を再構築するために、創造の当初の青写真に目を向けます。

では、この最初の計画とは何だったのでしょうか?

神が地球を創造された後、神はアダムとエバに、彼らがどのようにしてモデル社会である地上天国を建設するかについて、3つの偉大な祝福を与えました。すなわち、 

「実を結び、増え、地に満ち、地を治め、海の魚、天の鳥、地を動くすべての生き物を支配せよ。」 

(創世記1:28)


まず順序に注目しましょう。

実を結んでから増えなさい。

増えてから実を結ぶのではありません。

理想的な世界は、実を結んでから増えるところです。


実を結ぶとはどういうことか、定義してみましょう。

私たちが実を結ぶのは、私たちの基本的な本能を超えたものに心を置くときだけです。


運動はその好例です。

私たちの心は、運動が体に実を結ぶことを知っています。

しかし、私も含め、人は怠惰で、運動したがらないことがあります。

精神と肉体が一体となることによってのみ、精神と肉体の健康のために実を結ぶことができるのです。


だからこそ、パウロは私たちにこう指示しているのです。(コロサイ人への手紙 3:2)

「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」

神が最高の善であるように、私たちの中心が神であればこそ、私たちの心と体が一体となり、神の王国のために豊かな実りをもたらすことができるのです。


このように、実るということは、心と体の一体化を意味します。

しかし、最初に言っておかなければならないことがあります。

何事も実を結ぶには、まず一定の成長期間を経なければなりません。


実りある世界と聞いて、私たちは木を思い浮かべます。

例えば、木を見てみましょう。

木が実をつけるようになるには、一定の成長期間を経なければなりません。種から始まり、心を込めて育てられ、ゆっくりと苗木に成長し、やがて実をたわわにつけた木になります。

同様に、神の創造におけるすべてのものは、肉体的に成熟する前に成長期を通過しなければなりません。


これらの成長段階は、神が数字の3を実質的に表していることから、数字の3で表されます。

私たちはこの3つの成長段階をそれぞれ、形成期(蘇生期)、成長期(長成期)、完成期と呼んでいます。

この個人の完成は、まさにマタイによる福音書5章48節にある「あなたがたの父なる神が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」とイエスが命じられたときに指摘していたことです。


聖書のStrong’s exhaustive Concordance(ストロング・コンコルダンス)によると、perfect(完全)は、ギリシャ語のteleios(テレイオス)で、「(労働、成長、性格などの様々な応用において)完全であること、すなわち成人に達すること」を意味します。


したがって、第一の祝福の達成を明らかにするということは、三段階の成長段階を経て、罪を犯さず、心身統一を達成することです。

したがって、アダムにおいては、それぞれの場合において、この三段階の成長段階を経て実を結んで初めて、夫婦として結ばれることが許されるのです。


私たちの大半は、今すぐこの人生で第一の祝福を得ることはできないかもしれませんが、結婚という神聖な枠の外での性的関係を断つことは、第一の祝福を完成させ、第二の祝福を得るための重要な前提条件です。


第一の祝福が成就することによって、アダムとエバの心の中心は絶対的に神となり、罪は望ましいものではなく、むしろ憎むべきものと思われるようになります。

厳密に言うと、まだ罪を犯す可能性はあるが、実際に罪を犯す者はいないでしょう。

彼らは、天の父が完全であるように、完全であれというイエスの命令を果たすことになります。

マタイによる福音書5章48節に書かれているように。


新約聖書のクリスチャンは、私たちが罪を犯さない可能性のある世界が存在するという、このような主張に難色を示すかもしれません。

さらに、使徒ヨハネはこう書いています。(ヨハネ第1の手紙1:8)

「もし、私たちに罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いているのであり、真理は私たちのうちにない。」

私たちが主張していることは冒涜ではないでしょうか?


私は2つの点を指摘したいです。

第一に、創造の本来の理想は罪のない世界であったことを思い出してください。

使徒パウロはローマ人への手紙5章12節で、こう述べています。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、全ての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである。」

アダムが罪を犯したので、罪がこの世に入り込んだのです。


異議を唱える人に質問させてください。

私たちの完全な天の父が、私たちが今生きている世界を望んだと本当に信じますか?

道徳的に完璧な存在であり、その核となる属性は愛であるなら、私たちの多くが理解することさえできないような、とてつもない悪で荒廃した世界を望んだでしょうか?

自分自身をかたどった者たちがレイプされ、拷問され、大量虐殺されるような世界を?


確かに、これは神が望んだ世界ではありません。

そのため、神は歴史を通して、私たちを元の青写真である創造の原理に戻すために、たゆまぬ努力を続けてきました。


第二に、新約聖書のキリスト教神学は、いつの日か私たちが3つの異なる方法で罪のない存在になれると断言しています。


1. キリスト教神学における完全性の教義は、蘇った信者が聖霊の清めの火によって完全に聖別されれば、罪を犯すことができない状態に達するというものです。

キリスト教界でも、この完全な聖化は天国に到着したときにのみ可能なのか、それともこの物質的な面で達成可能なのかという議論があります。

私たちは明らかに後者の立場を取ります。

パウロはエペソ人への手紙4章13節で次のように書いて、このビジョンに同意しているようです。

「私たちが皆、神の御子を信じる信仰と神の御子を知る知識の一致とに到達し、成熟して、キリストの満ち満ちた全き量(徳の高さ)に至るまで。」


2. 天国の現実は、信者が最終的に永遠の重い栄光に結ばれ、その結果、信者が罪の中に生きることがない状態です。


3. 最後に、キリスト教の終末論によれば、死者が復活し、天地が再創造された後、キリストと共にあるクリスチャンは、完全で罪のない世界に君臨します。


従って、信者は罪のない境地に達するという概念は、キリスト教の伝統の中で圧倒的優位に立っています。


では、第二の祝福はどうでしょうか。

成熟した個人として結ばれたアダムとエバは、偽りの父母ではなく、人類の真の父母でした。

その結果、すべての子孫は人類の真の父母に導きと教えを求めるようになったでしょう。

さらに、原罪は人間の堕落の結果です。

その子孫は原罪を持たず、完全で罪のない社会を創造します。

その結果、罪のない人間は、被造物を支配するという神から与えられた使命を果たすことになり、第三の祝福を満たすことになります。


第三の祝福は、人類がより良くなるように環境を利用することはできますが、私たちは責任を持って、神から与えられた贈り物を管理し、神の御業を通して神に愛と美を反映させることです。


三大祝福の中には、与え始める主体と、贈り物を受け取り美を増殖させる対象の両方があります。

この主体・対象双方のギブ・アンド・テイクの相互作用によって、結果として結合が形成されるのです。


第一の祝福において、

肉体が心を支配するので、心は肉体を支配する主体の立場に立っています。

心と体の絶対的な結合は、理想的な人、つまり、心が神の意志と直接一致する人を生み出すでしょう。


第二の祝福で、

主体的な立場に立つ男性が愛を与えることによって始まり、女性は美しさでそれに応えます。

家父長制的な上下関係とはほど遠く、男は神から、王として祭司長として彼女を導き、彼女のために命を捧げて、愛し、慈しみ、仕えるように命じられています。

エペソ5:25-27、黙示録5:10。

その見返りに、神は彼女に彼を敬い、彼に従順であるよう命じています。

これは聖書の命令であり、家父長的な一方的な作り話ではありません。


彼らの愛の結果、第三の祝福のために子供が生まれますが、人間が神の被造物と関わるとき、その被造物を通して幸福を経験するとき、私たちは神に喜びを返すのです。

その結果、その後に起こる世界は、創造の再生である地上天国となるでしょう。


アダムとエバは第一の祝福を成就したならば、個々の自己を完成させたでしょう。

第二の祝福の完成によって、アダムとエバは罪のない家庭を築き、この理想的な家庭を部族、社会、国家、世界へと拡大していったでしょう。

アダムとエバが生きている間に、地上に天の王国が築かれたことでしょう。

最後に、第三の祝福が成就すれば、アダムとエバは子々孫々の真の父母として全宇宙を主管し、神を中心とする全人類文明を創造したでしょう。


神の願いは、アダムとエバが完全な個人となった後に、彼らが家庭、部族、社会、国家、世界、そして宇宙へと枝分かれすることでした。


大きな疑問は、何が間違っていたのか、ということです。



3. (20230725) 

Principle Series 2a - Biblical Proof that Lucifer had Sex With Eve

https://youtu.be/Kw65BhONXqg



原理シリーズ2a - ルシファーがエバとセックスした聖書の証拠


これまで見てきたように、神は、人間が繁栄し創造主と一体となって生きる、ユートピア的ビジョンを持っていました。

しかし残念なことに、この熱烈な願いは堕落によって叶えられませんでした。

堕落の時に実際に何が起こったのか、聖書を調べてみましょう。


創世記の物語には、神、アダム、エバという既に特定された登場人物を除いて、4つの象徴的表現があります:命の木、善悪を知る木、蛇、善悪を知る木の実です。


蛇から始めましょう。

聖書は蛇の正体を明らかにしています。ヨハネの黙示録12:9を引用しましょう。

「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され…」

それゆえ、サタンは蛇によって象徴的に表されます。そのスプリットタン(縦に裂けている舌)は欺瞞の性質を持っていることを示すので。


しかし、私たちはさらに踏み込んで見ると、 

創世記1:31で神は創造された秩序全体を「はなはだ良かった」とみなされているように、サタンがもともと悪の存在であったはずがありません。

したがって、サタンは元々善なる被造物であったに違いないのです。

ヨハネの黙示録12:9の続きには、次のように書かれています。

「その使いたちも、もろともに投げ落された。」

つまり、追放される前のサタンは、自分の指揮下に天使たちを従える地位を享受していたことを意味します。

これだけではありません。

黙示録12:7では、ミカエルとその天使たち、龍とその天使たちを対比させています。

ユダ1:9は、ミカエルが大天使であることを教えています。


したがって、推論によって、サタンも元々は大天使であったと論理的に結論づけることができます。

イザヤ書14:12によると、天から投げ落とされた者の名は「黎明の子、明けの明星」、ラテン語ではルシファーと言います。

従って、園の蛇は、天使の群れを指揮下に置いていた大天使ルシファーということになります。

ルシファーについては、また後で触れましょう。


命の木についてはどうでしょうか?

聖書の記述にあるように、命の木を得ることは人類の根源的な願望です。

堕落の後、神がアダムをエデンの園に入れないようにしたことからもわかるように、これはアダムの願望でもありました。


前回のビデオ(創造原理)によれば、アダムの使命はとりわけ、心と体を一体化させ、完全性を達成することであったと結論づけました。

しかし、成長期があるので、アダムはまず善悪を知る木の実を食べないように従順でなければなりません。

したがって、アダムの願望が命の木であり、心身の統一を達成することであるならば、この2つの願望は実は同じものであることを示唆する証拠となります。

言い換えれば、命の木こそがアダムが追い求めるべきもの、つまり理想的な人間だったのです。


聖書のさらなる証拠が、この事実を裏付けています。

箴言11:30にはこうあります、

「正しい者の結ぶ実は命の木である。」

さらに後の第15章では、

「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。」(15:4)

これらの聖句から、命の木は、知恵に満ちた理想的で正しい人間として象徴的に表されていると言えます。


善悪を知る木はどうでしょうか?

生命の木が理想的な男性を象徴しているなら、善悪を知る木は理想的な女性を象徴していると考えるのが自然でしょう。

このことは、この2本の木が庭の中央に隣り合って植えられていることからもわかります。


命の木が聖書の残りの部分にしか出てこないのは、完全な人であるメシアに接ぎ木されることによってのみ、私たちは天の王国に入ることができるからです。


善悪を知る木が理想的な女性を表しているとすれば、その果実は何を意味するのでしょうか?

まず結論から言うと、それは文字通りの果実ではありません。

中でも、文字通りの果実であることを最も強く否定しているのは、マタイによる福音書15:11のイエスの御言葉です。

「口に入るものは人を汚すのではない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。」

主の御言葉で、果実が文字どおりの果実でないことは十分明らかではないでしょうか。

そればかりではなく、果実を食べることによって原罪が人類全体に受け継がれるものではありません。


では、その果実は何を象徴しているのでしょうか?

もう一度聖書に目を向けてみましょう。

雅歌(ソロモンの歌)の作者はこう書いています、 

「わが妹、わが花嫁は閉じた園、閉じた園、封じた泉のようだ。あなたの産み出す物は、ざくろの園で、選び抜かれた果実ばかり...」、花嫁はこたえて言う、「わが愛する者がその園にはいってきて、その良い実を食べるように」(雅歌 4:12-16)。

箴言30:20に、こうあります。

「遊女の道もまたそうだ、彼女は食べて、その口をぬぐって、‘私は何もわるいことはしない’と言う。」


このように、果実は性的なレベルでの愛を象徴しています。

この事実によって、善悪を知る木がなぜエバのあるべき姿、理想的な女性を象徴していたのかがより深く理解できます。

彼女の果実とアダムが与える命(命の木)によって、善と悪のどちらの文明がもたらされるかが決まるのです。


堕落が起こった直後、アダムとエバは何をしましたか?

イチジクの葉を縫って下半身を隠しました。

これは、堕落が彼らの生殖器の誤用であったことを示しているのではないでしょうか?

罪を犯した場所を隠すのは人間の本性です。


数年前、私の友人が従兄弟のお菓子箱からキャンディを取ったことがありました。

そのキャンディがどこに行ったのか問い詰められたとき、彼はすぐにイチジクの葉を縫い合わせて下半身を隠したでしょうか?

いいえ、そんなことはしませんでした。

彼はジョリーランチャーキャンディを食べた口を覆ったのです。


同じように、もしそれが文字通りの果実であったなら、アダムとエバは生殖器ではなく口を覆ったでしょう。

したがって、アダムとエバの堕落は性的な堕落でした。


しかし、ルシファーはどうでしょうか?

注目すべきは、アダムとエバの性的堕落の後、アダムはエバを指さし、エバはルシファーを指さし、引用すると、

「へびがわたしをだましたのです。それで、わたしは食べました」(創世記3:13)。

私たちは今、果実が性的なレベルでの愛を表していることを知っていますし、人は自分自身とセックスできないことも知っています。

定義によれば、愛を交わす相手がもう一人いなければなりません。

ルシファーがそうさせたというのなら、ルシファーはエバとセックスしたことになります。


何ですって?

天使が人間とセックスできるのですか?

まず、私たちは霊的な存在であると同時に肉体的な存在であることを忘れてはなりません。

私たちが愛し合うとき、セックスには肉体的な要素だけでなく、精神的、感情的な要素も内在しています。


これが私たちが信じている出来事です。

完全な肉体的な性的堕落ではなく、霊的な性的堕落だったかもしれません。

エバとルシファーはともに霊的な要素を持っていたので、彼らの性的関係は霊的なレベルで起こったに違いありません。


さらに、聖書が、天使が人間とセックスできると主張している例はこれだけではありません。

他の聖句としては、創世記6章、創世記19章、あるいはユダ6-7章が含まれます。

霊的な性的堕落の後、良心の呵責に苛まれたエバは、自分の正当な伴侶はルシファーではなくアダムだと悟りました。

そのため(今や、堕落したエバとして)、彼女はアダムに自分と性交渉を持つよう説得し、その結果、肉体的な性的堕落が生じました。


この性的堕落の概念を裏付けるさらなる証拠は、神が選ばれた民に割礼を命じたことに示されています。

イスラエル人の生活のあらゆる面で、善と悪、清さと汚れの分離によって象徴されていました。

植える種、身につける衣服など、その他あらゆる些細なものがサタンから分離することを常に思い起こさせるものでした。

これこそ、正に彼らが割礼で行ったことです。

これについては後で詳しく話しますが、サタンが性的堕落によって人類を支配したように、割礼を施すことによって、彼らは象徴的にサタンの血統から自分たちを切り離し、それによって神に選ばれた民となる条件を整えたのです。


性的堕落の説明は、堕落に対するエバへの罰である妊娠出産の苦しみとも関連しています。

結論として、聖句は明確です。

人間の堕落は、ルシファーとエバ、そしてアダムとエバから始まった性的堕落です。


さて、明らかに、私たちの行動には結果が伴います。

そのため、堕落の悲劇によって何が起こったかについては、このセクションの第2部で詳しく説明します。



4. (20230808) 

Response: Proof That Lucifer had Sex with Eve

https://youtu.be/Smzr7tDiyyc



「ルシファーがエバとセックスした証拠」に対するコメントへの回答


新約聖書のキリスト教では、堕落は文字通りの果実を食べたことに起因すると長い間信じられてきました。前回のビデオでは、なぜそうではないのかについて述べました。このビデオでは、コメントで寄せられたいくつかの異論・疑問にお答えします。



皆さん、こんにちは。 アドベントへようこそ。

実は、コメントに答えるためのビデオを別に作るつもりはありませんでした。

しかし、皆さんからの誠心誠意の質問が多かったので、その質問に答える為だけのビデオを挙げるのは効果的だと考えました。

もし、「ルシファーがエバとセックスした聖書の証拠」というビデオをまだご覧になっていない方は、このビデオの全内容を理解するために、ぜひご覧ください。


簡単にまとめると、創世記の物語では、蛇はサタンを表し、「命の木」と「善悪を知る木」はそれぞれ理想の男性と理想の女性を表していました。

果実はエバの愛を象徴していました。

サタンはエバに果実を食べるよう説得し、それからエバはアダムに与え、アダムはそれを食べました。

これが人類始祖の霊的そして肉体的堕落でした。


前回のビデオでは、これらの結論が確固たる聖書的証拠とともに示されました。

一つの例を挙げましょう。果実です。

私はそれが文字通りの果物ではないことを、6つの異なる証拠で示しました。

1. マタイ福音書15:11のイエスの御言葉。

2. キリスト教の原罪の教義。

3. 果実が性的な性質を持つという聖書の他の箇所。例えば、雅歌4:12-16や箴言30:20など。

4. アダムとエバは堕落した後、下半身を覆った。

5. イスラエルの割礼の掟

6. エバへの罰は性的堕落と関係がある。(創世記3:16)


私は、なぜあの果実が文字通りの果実でないのかについて、数多くの聖句と教義上の理由を述べました。

それを裏付ける証拠もないのに、ただ断言したのではありません。

したがって、反証するためには、導き出された結論が正しくない理由を実際に示さなければなりません。

それを念頭に置いて、前のビデオで提起されたさまざまな疑問や反論を見てみましょう。


それでは、最初の質問を引用します。

『つまり、セックスは果実であったということですか?それなら、実を結んで(成熟して)繁殖しなさいという聖句の部分とどう整合性をつけるのですか?』


その質問に関して、私たちは果実がエバの生殖器であると言っているのではなく、果実がエバの愛を表していると言っているのです。

しかしながら、エバの愛や果実が顕現したのは、ルシファーとエバの霊的な性的結合と、エバとアダムの肉体的な性的堕落でした。


2つ目の質問については、前回のビデオ「原理シリーズ1b - 設計図(青写真)に戻る」でお答えしました。

この質問の答えのためだけでなく、今後もこのビデオを参照することになるでしょうから、そのビデオをご覧になることをお勧めします。

しかし、手短に言うと、創世記1:28の「実を結び(成熟し)、増えよ」という命令の順番に注目してほしいです。

実を結ぶ(成熟する)ことは、第二の祝福 「増えなさい」を受けるための基準です。

アダムとエバが実を結ぶようになった(成熟した)後、初めて増やすことが許されるのです。

しかし、堕落することによって彼らはまだ熟していない果実を食べてしまいました。

これについては、「設計図(青写真)に戻る」で詳しく説明しています。


では、次の質問にいきましょう。

2番目の人が言います、 

『でも、もしその果実がセックスを意味するのなら、サタンもアダムとセックスしたことになるのでは?

アダムもその果実から食べたからです。

そして、もし彼女がアダムとセックスしたとしても、それは罪とみなされるべきではないです。なぜなら、神様がエバをアダムの為に創り、彼らは一体となるとおっしゃられたからです。(創世記2:24)』


コメントありがとうございます。

先に述べたように、果実はエバの愛を表していました。

しかし、もっと重要なことは、聖書にはサタンがアダムとセックスしたとは書かれていないことです。

これは、堕落後、アダムはサタンではなくエバに果実を食べるよう説得されたと言うからです。

2つ目の質問については、別の方も同じ質問をされたと思います。


では、次のコメントにお答えします。

3番目の質問はこう書かれています。

『ルシファーは大天使だと言っています。聖書にはケルブと書かれています。』


ルシファーは大天使ではなくケルブであったという様々なコメントを見ました。

しかし、この二つは相互に矛盾するものではありません。

天使は大天使であると同時にケルブでもあり得ます。

ギリシャ語で大天使‘αρχάγγελος(archángelosアルガンゲロス)’という言葉は、archo(アルコ)とangelos(アンゲロス)という2つの単語からできています。

archo(アルコ)とは、政治的な地位や権力、支配において第一位であることを意味します。

そして、angelos(アンゲロス)とは天使や使者を意味します。

これを合わせると、天使長という意味になります。

従って、天使は両方になることができます。

ルシファーは大天使です。エゼキエル書28:14に、「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」とあるように、投げ出された存在は元々は大天使でした。

聖書における油注ぎとは何を意味するのでしょうか?

ダビデ王やイエスの油注ぎの例は、油注がれた場合、特定のグループに対する地位や権威が与えられたことを物語っています。

つまり、サタンは堕落する前、他の天使たちの上に立つ天使長であったので、叙任された大天使であったということです。


これに似ているのが王子です。

王子は人類の一部ですが、国民に対する法的地位(本質的な価値ではない)も持っています。


同様に、大天使とは、天使またはこの場合はケルブのことで、他の天使たちに対して権威ある立場にあります。

ケルブは正に神の玉座の間(ま)にいた天使であり、玉座を担う者たちの中の長であるため、ルシファーは、裏切る前は神と重要な関係を持っていたはずです。

このことについては後で触れることにしましょう。


この人はこう書いています、 

『いいビデオですが、あなたの議論には欠陥があると思います。果実は性的なレベルでの愛を表していません。その理由は3つあります:

第一に、彼(この人)は創世記2:16-18を引用し、神がアダムに命令を与えた時、エバはまだ創造されていなかったことがここに示されているのに、どうして果実が性的なレベルでの愛を表していると言えるのでしょうか?アダムは誰と性的な愛を持つつもりだったのでしょうか?神がアダムのために女性を創造されるまで、アダムは自分が女性を必要としていることさえ知りませんでした。』


この反論に対しても、前のビデオで部分的に答えています。

神は最初から、アダムの相対になる女性が存在することを計画していました。

神の人類に対するビジョンは、アダムとエバが男性性と女性性の実質的な代表として、地上の王国で神の愛の中に住むことでした。

神は、全宇宙を創造する前に、アダムとエバの両方を計画されたのです。

神は男を創造し、その後で、男のために女が必要だと気づいたのではありません。

さらに、創世記1:27で、神が男と女を創造されたと述べているところにも、アダムとエバに関する前表示が見られます。

したがって、創世記2章の前に証拠があるだけでなく、前のビデオでお話しした創造の原理は、神が世界を創造される前に壮大なビジョンを持っていたことを証明しています。


しかし、もし創世記1:27を考慮に入れないとすれば。

果実を食べるなという神の命令は、エバを創造する直前でした。

エバもまた成長期を経なければならないので、神はアダムのために助け手を創造するという創造計画に潜在的な、しかし必要なリスクがあることを見抜いていました。

このリスクを軽減するために、神はエバを創造する前にアダムに警告を発し、アダムに備えをさせたのです。


彼(この人)の2つ目の反論については、上述の質問の答えで述べたと思います。


では、3つ目に行きましょう。

『3. 創世記2章24節に、「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」と書かれています。そして、彼(この人)はこのように書いています、

聖書はすでにアダムの妻としてエバを描写しています。男は妻との性的な愛を持つことを神から許されています。』


まず、このことをはっきりさせておきましょう。セックスは本質的に悪いことではありません。

良いことです。

神はセックスを天から定められた結婚という関係の中で、喜びと満足を与える楽しいこととして創造されました。

神に喜びをもたらすためにセックスをするのか、それともサタンの王国を地上に広めるためにセックスをするのかによるのです。


しかし、異議のある方は、「設計図(青写真)に戻る」をご覧ください。

実を結び(成熟し)、増え、被造物を支配しなさい。

増えてから、成熟しなさいではなく、成熟してから増えなさいという順序です。

このことにはこれ以上は触れないことにします。死んだ馬を叩いているに過ぎないと思われるからです。


しかし、もっと重要なのは、この聖句(創世記2:24)はアダムとエバのことを言っているのではないということです。

未来の世代について語っているのです。

その証拠に、語り手は「人はその父と母を離れなければならない」と述べています。 

なぜなら、アダムとエバは人類の始祖であり、彼らには父と母がいなかったからです。

次の25節では、「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」

この節を引用して、エバがすでにアダムの妻であったことを証明することもできるでしょう。

しかし、この節で妻と訳されているヘブライ語‘ナワシム’は、おもに男に向かい合わせる言葉として使われています。

このコメントの結論として、果実がエバの愛として表現されたと結論づける十分な根拠がまだあると私は思います。


他にもいくつか異論があったのですが、前のビデオのコメント欄で、私や他の人たちがある程度詳しく議論したと思います。


私が間違っていたと主張するのではなく、誠心誠意の質問を投げかけてくださった皆さん、

コメントをくださったこと、そして、実際の議論をしようという姿勢に感謝します。

このことは聖書の命令に従順であるだけでなく、真心と知的尊敬の精神があればこそ、このような議論を前進させることができるのです。


もう一度感謝の言葉を申し上げます。今日も良い一日であります様に。



5. (20230823) 

Biblical Proof that Satan is our Father

https://youtu.be/z7qBDgbEjVM



サタンが私たちの父であることの聖書的証明


前回は、ルシファーがエバとセックスしたことを示す良い証拠を見ました。このビデオでは、性的堕落の結果としてのいくつかの影響をみていきます。



堕落の結果、父なる神様との永遠の住まいが断絶されました。

神の子らに対する神の栄光に満ちたビジョンは、ルシファーの惑わしとアダムとエバによる自由意志の誤用によって狂わされました。

本来の理想は、人類が神を中心とした家族を作り、ひいては文明を築くことでしたが、人類はサタンを中心とした文明を築きました。


私たちが天の父を追い出し、サタンを私たちの父として取り替えたことで、3つの大いなる祝福は、サタンが罪によって人類を支配するための3つの呪いとなりました。

こうして人間は矛盾した存在、即ち、二人の主人に仕える無節操な存在となりました。

神とサタンの中間位置に立ち、人類の大半は(知ってか知らずか)サタンを主人として仕えることを選びました。


イエスの言葉を借りれば、サタンは堕落時に人類を事実上殺したのです(ヨハネ福音書8:44)。

この死は霊的な死でした。

言い換えれば、堕落前の私たちの肉体は不滅ではありませんでした。

神の創造の原理における成長段階を反映し、神は人類が人生の3つの段階を経るように創造されました。

そのため、肉体的な死は神の創造の自然な一部であると私たちは信じています。


生命の最初の段階は水の世界、あるいは胎内です。

この時期、私たちはその世界のものに慣れますが、徐々に別の世界、すなわち地上の世界のためにと成長していきます。

最初のうちは、古い世界を離れたくありません。

その世界の先に何があるのかわからないからです。

そうして、私たちは水の世界の中で叫びながら、死を嘆きながら、この世に生まれて来るのです。


それと同じように、地上での肉体生活は霊界への準備期間なのです。

このように、肉体的な死は、神の創造において、「はなはだ良かった」とあるように、自然な段階に過ぎないのです。(創世記1:31)

もし、肉体の死が堕落の前には起こらなかったとしたら、エデンの園には虫やその他の動物がたくさんいて、ユートピアと呼ぶには無理があるのではないでしょうか?


さらに、霊的な死は肉体的な死よりもはるかに重要であり、霊的な死によって永遠の霊界における私たちの居場所が決まるのです。

さらに、神がその果実を食べてはならないと命じたとき、神は次のようにおっしゃいました。

創世記2:17に、「それを食べたその日に、あなたは必ず死ぬ」とあります。

しかし、アダムはその日に死ぬことなく、創世記5:5に書かれているように、930歳まで生きました。

反面、アダムとエバは堕落の日に園から追い出され、神との関係が断ち切られました。

このように、堕落は人類の霊的な死をもたらしました。


堕落の結果、サタンが人類を支配するために用いる4種類の罪があることがわかります:

原罪、遺伝的罪、集団的罪、そして個人的罪です。


私たちは個人的な罪について最もよく知っているので、そこから始めましょう。

このタイプの罪は、個人レベルで犯す罪を指します。

この種の罪の例としては、十戒に挙げられているような罪が挙げられます。

「私の前に他の神々があってはならない。そして、殺人をしてはならない。」


次のタイプの罪、集団的な罪とは、中心的な人物の罪のために、集団全体が罰せられる罪です。

2つの例を挙げましょう。

歴代志上21章で、ダビデ王は神の力ではなく人間の力に頼って、イスラエルの国勢調査を行いました。

ダビデの高慢な振る舞いを罰するために、神はダビデに3つの選択肢を与えました。

その結果、ダビデは3日間の疫病を選び、7万人のイスラエル人を死に至らしめました。

集団的な罪のもう一つの例は、レビ記4:3です。

「もし油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、」

これら2つの例は、集団的な罪、つまり中心人物の失敗によって、より大きな集団が罰を受けることが、聖書に先例がある概念であることを明確にしています。


遺伝的罪について話を進めましょう。

遺伝的罪とは、先祖が犯した罪が代々受け継がれることです。

ヤハウェがアブラハムの子孫を400年間奴隷にしたのは、彼が鳩を真っ二つに裂かなかったからです。創世記15:13にはこうあります。

「主はアブラムに言われた、『あなたの子孫は、自分たちのものでない土地で寄留者となり、そこで僕となり、四百年間苦しめられることを、よく心にとめておきなさい』。」

さらに、列王紀下5:27には、エリシャの僕ゲハジが遺伝性のハンセン病の呪いを受けたと記されています。

最後に、出エジプト記20:5、出エジプト記34:7、申命記5:9には、主は「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす」とあります。


従って、個人の罪、集団的罪、遺伝的罪が聖書的に擁護されたところで、原罪の話に移りましょう。

原罪とは、その名の通り、ルシファーとエバ、エバとアダムの性的堕落という原罪のために、血統を通じて受け継がれる罪のことです。

霊的・肉体的な性的堕落により、サタンは罪によって霊と肉体の両方を支配しています。

天の父を主とするクリスチャンでさえ、罪への傾倒を嘆くのはこのためです。


使徒パウロはこう書いています。

「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか。」(ローマ書7:22-24)

使徒パウロでさえも、堕落の結果として罪に縛られている自分の肉体を嘆いていることがわかります。

なぜなら、イエスへの信仰によって霊的にサタンの支配から解放されたとはいえ、私たちの肉体は依然として(原罪によって)サタンの権威下にあるからです。

パウロがローマ人への手紙の次の章でこう述べているのは、まさにこのためです。

「私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ書8:23)


私たちは、私たちの体が本質的に悪いものではないことを知っています。

結局のところ、私たちは元々、「はなはだ良い(創世記1:31)」、「神のかたち(創世記1:27)」として創造されました。

しかし、性的堕落とその結果としての原罪によって、サタンは人類の父となり、私たちの肉体(クリスチャンでない場合は霊も)を支配する権利を持つようになりました。


全人類に対するこの肉体的(クリスチャンでない場合は霊肉共の)な主張が、第2コリント書4:4で語られているように、サタンがこの世の神となり、空中の権を持つ君(王子/支配者)となった方法です。

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、」

また、エペソ書2:2には、「空中の権を持つ君に従っている」とあります。


さらに、養子縁組という用語が、この原罪の概念を裏付けています。

ローマ書8:23、「私たちは、子としての養子縁組(adoption as sons)、すなわち私たちのからだの贖いを切に待ち望んでいます」。

エペソ書1:5、「神は、イエス・キリストによって、私たちをご自分の子として養子にするように定められました」。

そして、ガラテヤ書4:3-7、「私たちは、子として養子縁組を受けるのです。あなたがたは子ですから、(中略)もはや奴隷ではなく、子であり、子であるなら、神から生まれた者なのです」。

これら全ての聖句が、救いを受けたとき、私たちは神の家族に養子として迎え入れられたと証言しています。


それでは、養子になるとはどういうことでしょうか?

それは、私たちが別の血統から生まれたにもかかわらず、新しい血統と家族の一員になることを意味します。

それだけでなく、パウロが「私たちは代価を払って買い取られた」と述べているのは、キリストに買い取られるまではサタンの支配下にあることを示しています。


最後に、割礼というユダヤ人の習慣は、イスラエル人であるための前提条件であり、私たちがサタンの血統から象徴的に分離していることを証明しています。

この割礼の習慣は、初期キリスト教において幼児洗礼の儀式へと変化しました。

パウロはコロサイ書2:11-12で、「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼を受け、(中略) バプテスマを受けて、彼と共に葬られたのです」と言っています。


このように、サタンが人類を支配する方法である原罪は、多くの聖句によって証明されています。

キリストが堕落のプロセスを逆転させるために再臨されない限り、そして再臨されるまでは、原罪はサタンが私たちを自分の子どもとして要求する手段なのです。


メシヤの使命については、もっと深く議論するつもりですが、原罪を取り除くことがメシヤの使命において重要な役割を果たすことは確かです。

私たちは、メシアの降臨を切に待ち望んでいるのです。


要約すると、堕落という破壊的な出来事によって、サタンは4種類の罪を用いて人類を支配し、人類の大多数はサタンを主人として仕えることを選んでいます。

性的堕落のために、人類はサタンの血統を受け継ぎ、サタンを父として仕えるようになりました。

クリスチャンでさえも原罪が残っている以上、私たちはサタンの支配から救い出してくれるキリストの再臨を期待しなければなりません。


しかし、堕落がこれほどの大惨事であったなら、なぜ全知全能で慈悲深い神は介入しなかったのでしょうか?


次のビデオでは、この疑問に答えるだけでなく、カインとアベルのような堕落のさらなる結果、堕落した人間の地位についても探っていきます。


乞うご期待。そして神のご加護を。



6. (20230906) 

Principle Series 2c - Why Didn't God Stop the Fall?

https://youtu.be/8oPCai9EpkU


原理シリーズ2c - なぜ、神は堕落を止めなかったのか?


皆さん、こんにちは。タイトルが示すように、今回はとりわけ、神がなぜ堕落を止めなかったのかについてお話しします。このビデオを通して何かを学び、祝福された一日をお過ごしください!

[このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。]



前のビデオで見たように、堕落の結果、サタンは人類の父となり、原罪、遺伝的罪、集団的罪、個人的罪という4種類の罪によって人類を支配するようになりました。


人間としての本来の価値は神の創造の頂点にあったにもかかわらず、堕落という出来事によって、堕落した人類は神の創造の本来の基準より下に落ちてしまいました。

神の被造物である虫でさえ、本来の創造主であり主人である神に仕えています。


しかし、それとは対照的に、堕落した人間は、サタンに支配され、4種類の罪を犯し、第2コリント書4:4やエペソ書2:2で語られているように、偽りの神と支配者に仕えています。


(第2コリント書4:4): 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。


(エペソ書2:2): あなたがたは、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。


こうして、天使や動物よりも低い地位に落ちました。

多くのキリスト教界では、天使は私たちよりも地位が高いと主張してきました。

これは人類史の大部分において間違いなく真実でした。人間は上記の4つの罪によって、サタンの牙城から逃れることができなかったからです。


しかし、復帰の摂理とイエスの犠牲によって、霊的に新生した人々は神の養子として昇格しました。

こうして人類は、神の摂理によって、堕落以前の人間の本来の価値を少しずつ取り戻しつつあります。

この神の摂理の頂点において、メシアが来て、原罪を取り除きます。


私たちが天使たちよりも劣っているのは、私たちが、「よろずの物よりも偽るもの」(エレミヤ書17:9)となったからにほかなりません。


パウロは、神の養子である私たちが天使たちよりも上位にいることをはっきりと示しています。

彼は、コリント人への第1の手紙6:3で、「あなたがたは知らないのか、私たちは御使いをさえさばく者である」と述べています。

ヘブル人への手紙の著者はさらに、天使とは「すべて仕える霊であって、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたもの」であると、ヘブル人への手紙1:14で明言しています。


さらに、神は私たちの天の父であるため、私たちは神と親子関係を享受しています。これは、神と天使との主従関係とはまったく異なるものです。

私たちが天使たちよりも低いレベルにまで落ちたのは、堕落のせいでしかありません。

私たちは下僕の下僕となったのです。


元来、神は人間を一人の主人に仕えるように創造されました。

しかし堕落によって、人間は神にもサタンにも仕えることができる中間の立場に立ちました。


このように、もし神がアダムを使おうとしても、サタンは性的堕落が生んだ血縁の結果としてアダムを要求できる条件を持っていました。


神は、私達の創造主でいらっしゃるので、私達と関わりを結ぶ方法を持っていました。


私たちはサタンによって主張されましたが、神は私たちの創造主であったので、神はまだ私たちと関係する方法を持っていました。

そこで神は、サタンの支配から子らを取り戻すために、アダムとエバのすぐ後の世代であるカインとアベルから、ただちに善と悪を分けようとしました。


イエスが善と悪を分ける神の方法の象徴として麦と籾殻、羊と山羊を分けたように、神はアベルとカインに代表されるように善と悪をそれぞれ象徴的に分けられたのです。


(ルカ福音書3:17): 箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦を倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう。


(マタイ福音書25:32-33): すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくであろう。


ですから主は、「ヤコブは愛しエサウを憎んだ 」と言われたのです。


パウロがローマ人への手紙9:13で再び繰り返しているマラキ書第1章には、「わたしはヤコブは愛し、エサウを憎んだ 」と書かれています。

よく言われるのは、古代の文脈では、憎むという言葉は私たちが思っているような意味を含んでいないということです。

ただ単に、嫌われているという意味なのです。


それでは、

なぜエサウは不遇だったのでしょうか?

それは、エサウが地獄で永遠に天罰を受け、永遠の火にさらされるよう、あらかじめ予定されていたからなのでしょうか。


創世記25:23で、なぜ神はエサウが生まれる前に呪われたのでしょうか?


(創世記25:23): 主は彼女に言われた、「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民より強く、兄は弟に仕えるであろう」。


その理由は何だったのでしょうか?

なぜ神はアベルの供え物は受け入れ、カインの供え物は受け入れなかったのでしょうか?

なぜカインを好まれなかったのでしょうか?


それは、カインが、最初の性的堕落の結果として、サタンと関係を持つ立場に立ったからです。

私たちが証明したように、性的堕落はルシファーとエバの間の霊的な性的堕落と、エバとアダムの間の肉体的な性的堕落の2段階で起こりました。


第二の性的堕落は、やはり罪ではありますが、より神の本来の創造原理に沿ったものであったため、次男アベルは善の象徴として選ばれました。

反面、長男はルシファーとエバの間の全く非原理的な性行為を象徴していたので、カインは当然悪を象徴しました。

しかし、もしカインが神に必要な条件を整えたなら、神はアベルの犠牲と同じように、その犠牲を受け入れられたでしょう。

「正しい事をしているのでしたら、あなたは受け入れられるのではないですか。しかし、もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。罪はあなたを手に入れようとしていますが、あなたはそれを支配しなければなりません。」

この聖句は、カインは神の御言葉に忠実であるべきであり、たとえ神が彼の捧げ物を受け取らなかったとしても、アベルを高めるべきだったことを示しています。


さて、これは「蛇の種の教義」ではないでしょうか?


[蛇の種の教義は、二重種または二種系統の教義としても知られ、論争の的になっているキリスト教の非主流派の宗教的信念であり、人間の堕落に関する聖書の記述を、エデンの園で蛇がエバと交わり、その子孫がカインであると説明する。この出来事によって、天罰を受ける運命にある蛇の邪悪な子孫と、永遠の命を持つ運命にあるアダムの正しい子孫という2つの人種が生まれた。教義では、人類の歴史はこの2つの民族の対立として描かれ、アダムの子孫は最終的に蛇の子孫に勝利する。]


いいえ、違います。


一見似ているように見えますが、蛇の種子説はカインとその子孫はサタンの直系であると主張しています。

さらに、蛇の種子説の論者は、カインとその血統とは異なるアベルとセツは神から生まれたと主張します。

しかし、この見解は、原典の旧約聖書よりもむしろ、沈黙からの議論とタルグムに依存しています。


[沈黙からの議論(ラテン語:argumentum ex silentio)とは、歴史的文章に記述が存在するのではなく、記述がないことに基づいて結論を述べること。古典研究の分野では、ある著者があるテーマについて言及していないことを根拠に、その著者がそのテーマについて無知であると主張することを指すことが多い]。


もし、SS(Schutzstaffelシュッツシュターフェル/ナチス・ドイツの親衛隊)論者が主張するのと同じ聖句が、創世記の物語の文脈で定義されれば、この解釈は破綻します。


私たちの主張を明確にするために、純粋に霊的な存在であるルシファーがエバとの間に人間の子供をもうけたと言っているのではありません。


増えよとは神の子だけに与えられる祝福であり、天使には与えられません。


対照的に、私たちは原罪という霊的そして性的堕落によって、全人類が良くない状況に立たされてきたと主張しています。

カインだけが悪魔のものなのではなく、全人類が悪魔のものなのです。


しかし、もっと重要なことは、私達は、カインが文字通り悪魔の子であったから神に嫌われたと主張しているのではないということです。

むしろ、性的堕落の順序のせいで、カインは象徴的に悪の立場に立ち、サタンと関係する立場に立ったため、神に嫌われたのです。


この話題は後のエピソードで必ず触れますが、これこそが神がアベルを愛し、カインを憎んだ理由です。

これまでずっと、堕落した人間の悲惨な結果について話してきました。


しかし、そもそもなぜ神は堕落を止めることができなかったのでしょうか?


堕落のせいで、神の子どもたちすべてが、罪の力によりしっかりつかまれ奴隷にされ、傷つき汚されたのだとしたら、なぜ神はこの災いが起こるのを止めなかったのでしょうか?


私たちは、神が堕落を止めなかったのには2つの理由があると考えます。


1. 神が創造原理の絶対性を維持するため。

2回目のビデオを思い出したと思いますが、人間が第一の祝福である「実を結ぶ」、つまり神を中心とした心と体の一体化を成すためには、3つの成長段階を経なければならないことがわかりました。

アダムとエバが第一の祝福を成し遂げさえしたら、神は彼らの心を直接支配することができ、彼らは基本的に罪を犯すことができなくなったのです。

しかし、もし神がこの成長期に干渉したとしたら、それは神が創造したシステムを無視することに等しいのです。

しかし、神の本性が完全性と絶対性である以上、神が創造する原理も完全で絶対的なものです。

神は、この絶対性という性格を、イザヤ書46:11で明らかにしています。

「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。」

このように、神の永遠の原理の絶対的な性質に反することになるので、神は堕落を止めることはできなかったのです。


2. 創造において人間が主権を持つため。

最後に、神はアダムとエバに自由意志を与えたので、人間の堕落に介入することはできません。

定義によれば、愛には、相手のために善を成すという自由な選択が必要です。

そのため、もし神がアダムとエバに性的堕落に加担しないよう強制したとしたら、それは神が、神を愛することを選択する人間の責任を無視することになります。

神はオートマトン(ロボット)だらけの世界を望んでいるわけではありません。

神と私たちは、お返しとして相手を愛するようにプログラムされた愛の関係ではなく、実際の愛の関係を望んでいるのです。


人類の大多数が神ではなく、偽りの父に走るのを見て、神は深く悲しんでいらっしゃいます。

創世記6:6-7には、人間の堕落によって天の父が耐え忍ぶ、心を引き裂かれるような悲しみが描かれています。

(創世記6:6-7): 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛められ、「わたしはこれらを造ったことを悔いる」と言われた。


この堕落した世界を新しい天と新しい地に復帰するために、神は御子メシアをこの地上にお連れするために絶え間なく働かれました。(黙示録21:1)

神がメシアを遣わされるとはいえ、私たちの責任は次のようになります。

ヨハネによる福音書6:29: 「神がつかわされた者を信じること」。


しかし、メシアの使命について語る前に、神が時の流れの中で、私たちとどのようにダイナミックに関わっていらっしゃるのかを把握することが不可欠です。

そればかりでなく、神が私たちと関わっていらっしゃる方法は、首尾一貫した聖書神学を創造する上で極めて重要です。


神が私たちとどのように関わっていらっしゃるのか、聖書は何と語っているのでしょうか?



7. (20230926) 

Principle Series 3a - Can God's Plan Fail?

https://youtu.be/1VFUlCee1DQ



原理シリーズ3a - 神の計画は失敗できるのか?


キリスト教神学では、神の予知の問題をめぐって多くの議論が交わされてきました。

このビデオでは、首尾一貫した聖書神学を提供することによって、預言の二重性を論じ、神の予知を明らかにします。


[このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。]



聖書によれば、神はご自身の子女たちにどのように対応されるのでしょうか?


ヤハウェは申命記11:26-28で次のように語っています。

「わたしが今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の戒めに従うなら、祝福があり、あなたがたの神、主の戒めに従わないなら、呪いがある。」


主は、後の章でもこの思いを繰り返していらっしゃいます。

申命記30:19

「わたしは今日、天と地を呼んで、あなたがたに対する証人とする。わたしはあなたがたの前に、命と死、祝福と呪いを置いた。それゆえ、あなたとあなたの子孫が生きるために、命を選びなさい。」


この箇所でわかるように、神はご自身の子女たちが祝福の道を選ぶことを常に願っていらっしゃいます。

しかし、神が私たちに自由意志を与え、それによって私たちが神に逆らい、自ら不利益を被ることを許されたのは、神の愛の本性ゆえなのです。


さらに、主は、祝福か呪いかという、神の民が選ぶことのできる2つの道を提示されます。

申命記では明確に言及されていますが、祝福か呪いか、命か死かという概念は、創世記から黙示録に至るまで、神のすべての御旨において暗示されています。


エデンの園では、アダムとエバが神の定めの時まで自制するかどうかによって、善か悪か(祝福か呪いか)が決まったのです。

残念ながら、彼らは後者を選びました。


終わりの日において、キリストに仕えることを選ぶ者は神の国を受け継ぎ、この世を追い求める者は聖なる者から引き離されます。


この祝福か呪いかの話から、2つの結論が導き出されます。

第一に、神の発言(祝福か呪いか)は、ほとんどの場合、人々の従順に依存しているということ。

第二に、私たちは神の子としての責任を負っているということ。


まず、前者について詳しく見てみましょう。

聖書には、神が条件付きの言葉(つまり、“ifもし"、“mayかもしれない"、“perhapsおそらく"のような言葉)を用いている例が数多くあります。(出エジプト記4:8-9、エレミヤ書26:3、エゼキエル書12:3)

さらに、神が明確に条件付きの命令であることを述べていなくても、聖書は、神の御旨はほとんどの場合、民の反応に左右されると述べています。


この考え方は、エレミヤ書18章ほど明確に示されているものはありません。

「もし、わたしが、ある国や王国について、わたしがそれを抜き取り、打ち壊し、滅ぼすと宣言したとき、わたしが語ったその国が悪から立ち返るなら、わたしは、わたしがその国に与えようとした災いをやめる。また、ある国や王国について、わたしがそれを建て、植えると宣言したとき、その国がわたしの目に悪を行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしは、その国に対して行おうとしていた善をやめよう。」 (エレミヤ書18:7-10)


エレミヤ書に表現されているこの神聖な悔い改めと暗黙の条件という原則は、ヨナの明白な宣言によって証明されています。

「四十日を経たらニネベは滅びる!」 (ヨナ書3:4)

この滅亡(あるいは呪い)の重大な警告によって、町全体がその放蕩を悔い改め、その結果、町は荒廃せずに済みました。

しかし、ヨナの宣言には条件的な要素がないことに注目してください。

このことは、神が彼らを赦すかどうかについてニネべ人が確信がなかったことからも明らかです。

「あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。誰がそれを知るだろう。」 (ヨナ書3:9)

とありますが、この神の憐れみ深さこそが、ヨナがそもそもニネベへの旅に抵抗した理由なのです!

ヨナ書4:2にあるように、

「『主よ、私がなお国におりました時、このことを申したではありませんか。わたしはあなたが恵み深い神、憐れみあり、怒ることおそく、慈しみ豊かで、災いを思いかえされることを知っていたからです。』」


神聖な悔い改めの例はもっとたくさんありますが、神が考えを変えるというこの概念をよりよく理解するには、いくつかの例えが有効でしょう。

次のようなことを想像してみて下さい:  

あなたとあなたの家族はドライブ旅行に出かけています。

旅行中、子供たちはとてもお行儀よくしていました。

ママのお手伝いをしたり、犬をトイレに連れ出したり。

そのため、あなたは次に駐車した所でチックフィラ・チキン・テンダーを買ってあげると言いました。

しかし、次の駐車エリアまでの運転中、彼らはチョコレートミルクセーキを天井にぶちまけました。それから...何か他にどんな例があるでしょうか?

彼らは犬を犠牲にし始めます。

この奇妙な行動(もしかしたら悪魔的な行動かもしれない!)のせいで、あなたは「もうチックフィラ(Chick-fil-A)には行かない」と言います。


つまり、「チックフィラへ行く」というあなたの無条件の発言は、実は無条件の発言ではなかったのです。

それは、子供たちが良い行いを続けることが条件だったのです。

さらに重要なのは、あなたが気まぐれだからとか、「ただ単に、~だから」という理由で考えを変えているのではないということです。


これはとても重要な概念なので、もうひとつ例えを出させてください。

あなたが27の事業の責任者だとしましょう。

あるアシスタント・マネージャーの仕事ぶりがよく、お金を生み出す能力もあることから、あなたは彼に近々昇進させると約束しました。

ところが、この1カ月ほどの過渡的な待機期間中に、あなたが昇進を約束した後、彼がマネーロンダリングを始めたことが発覚しました。

さて、あなたは彼がヘッド・マネージャーになることを保証していたにもかかわらず、彼の行動が変わったため、あなたには彼を追い出して別の人物と交代させるという選択肢しかありません。


前の話と同様、あなたは理由もなく考えを変えているわけではありません。

そうではなく、一見無条件に見えるあなたの発言の中に、条件的な要素があることが暗黙のうちに含まれていたのです。「昇格できる」(優秀であり続ければ)。


これは現実世界の誰にとっても常識です!

しかし、私たちが神学をする時、なぜか不思議なことに、この自明の概念を、聖書の生きていらしゃる人格的な神から切り離してしまいます。


同じように、神が何かを宣言するとき、一見無条件に見える宣言の中にも暗黙のうちに条件が含まれています。

誤解が生じないように、このことをはっきりさせておきましょう。

神は誠実な方であり、約束を実行されます。

イザヤ書46:11で、神は御自身の性質の絶対性を次のように語っていらっしゃいます。

「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。」


しかし、エレミヤ書に記されているように、主がある国に対して祝福を宣言されるとき、その国が主の戒めを守り続けるならば、主はその約束を果たされます。(エレミア書18:9-10)

「またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見える事を行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとした事を思いかえす。」


別の聖書の例を挙げると、サムエル記上13:13に記されているように、神はもともとサウルの王国をイスラエルの上に永遠に維持するつもりでした。

「主は、あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。」

しかし、サウルの度重なる不従順によって、神は15章で、サウルを王にしたことを二度も嘆きました。

「『私はサウルを王としたことを悔いる』。 (中略) 主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた」。(サムエル記上15:11,15:35)


これらの例から、厳密に言えば、最初に変わるのは神ではないということを明確にしなければなりません。


むしろ、私たちの不従順のゆえに、神はご自身の計画を変更しなければならないのです。


個人レベルから国家レベルに至るまで、神の命令に直面したとき、人は2つの道を歩むことができます。すなわち、神に従順になり、その結果、真の幸福を知り、永遠の命を受け継ぐか、あるいは、この世を追い求め、目先の快楽と霊的な死を得るかです。


私たちはこの預言の二重性を二重預言と呼んでいます。

別の言い方をすれば、預言の結果は人々の反応(この2つ道のどちらを選ぶか)に大きく左右されます。

しかし、イスラエルが歩むことのできる道は2つあるにせよ、神の愛に満ちたご性質(と上述の文章)から明らかなように、神はイスラエルが呪いよりも祝福を選ぶことを切に望んでいらっしゃいます。


天の父が私たちに歩んでほしいと願っている道があります。

「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。」(申命記30:19)


しかし、それを決めるのは私たちの自由意志です。

私たちに責任の一端があるということは、私たちがすべてを行い、神はほとんど何もしないということではありません。

その逆です。


聖書全体がこのことを証言していますが、イザヤ書5:1-5は特に重要です。

この物語の中で、神はぶどう園の所有者として描かれており、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。

神は、豊かな収穫をもたらすためにあらゆることをなさいます。

選び抜かれたブドウの木を植え、石を取り除き、肥沃な丘を選び、見張り台を置き、そして当然のことながら豊かな収穫を期待します。

しかし、ぶどう畑は良いぶどうの代わりに野ぶどうを実らせました。

そのため、神はこうおっしゃいました。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。」(5:4)


この責任の大きさの違いを象徴的に示すために、私たちは神の責任の部分を95%、人間の責任を5%と表現しています。

結局のところ、私たちの存在そのものが神の恵みによるものなのです。

私たちの責任は、御言葉を聞き、それを信じ、人生の第三段階である霊界に到達するその日まで、御言葉の戒めを生活の中で実践することです。

神の95%に比べれば、私たちの5%など微々たるものかもしれませんが、そのわずか5%のために、私たちは100%の努力をしなければなりません。


しかし、これだけははっきりさせておきたいです。

このこと(私たちの5%の責任をなすために100%努力すること)によって、私たちが救いを得ることができると言っているのではありません。

救いは100%神の恵みによる賜物です。


しかし、贈り物をくださる神を信じ、贈り物を受け入れ、自分の人生を捧げ、神のために生きることは、5%によって表されます。

言い換えれば、神の恵みに連携することによって、私たちは真のクリスチャンとしてあがなわれるのです。


主がヨハネによる福音書14:15で述べていらっしゃるように。

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。」

したがって、その5%でさえも、私たちをこの世で神の手足として用いてくださる神の恵みによってのみ可能なのです。


祝福や呪いの成就において、私たちは神の御言葉を信じ、それを実行に移すという責任の一端を果たさなければなりません。知的な同意や、神の命令を単に聞くだけでは十分ではないのです。

主が述べていらっしゃるように、「あなたがたの神、主の命令に聞き従いなさい」(申命記11:26-28)。


このように、預言は本質的に分かれ道であるため、自分の責任分担を果たすべき生活の中で、私たちは神の戒めに注意深く耳を傾け、それを実現しなければなりません。

しかし、この重大な実現は、私たちの個人的な生活にとって不可欠であるだけでなく、預言は責任分担と切り離せない関係にあるというこの聖書の深遠な公理を認識することによって、私たちはメシア預言に関する二重の預言的性質に進むことができるようになります。


この聖書の概念がしっかりと確立された今、私たちはメシアの使命とは何であったかを問います。



8. (20231017) 

Principle Series 4a - Why Jesus is a false messiah for Jews

https://youtu.be/Y2a7fi3NF8o



原理シリーズ4a - イエスがユダヤ人にとって偽の救世主である理由


キリスト教の伝統は常に、メシアの使命は何よりもまず第一に死ぬことだと主張してきました。しかし、この伝統的な理解は、聖書の教えと一致しているのでしょうか?今日は旧約聖書を深く掘り下げ、預言者たち、メッセンジャーたち、そして神がメシアの道をどのように考えていたかを見てみましょう。


[このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。]


イエスは偽メシアだったのでしょうか?

いいえ。


しかし、人々が(特にユダヤ人が)そう考えるのは理にかなっています。

その理由はこうです。

前回のビデオで見たように、預言の完全な完成は人間の責任分担にかかっています。(エレミア書18章、ヨハネ福音書4章、出エジプト記4:8-9)

人間には神の御心に従うか従わないかという自由があるので、預言は二重の意味で存在します。


このように、旧約聖書には二つのメシア預言があります。

メシア王を預言するもの(詩篇48:8, 111:5, 111:9b、イザヤ書2:1-4, 65:17-25、ホセア書2:16-20,)

苦難のメシアを預言するもの(イザヤ53章、詩篇22篇、ゼカリヤ書12:10)


旧約聖書の預言の圧倒的多数は、カリスマ的な外交関係と正しい裁きによって永遠のエルサレムを築き、全世界に平和と繁栄をもたらすメシア王を預言しています。

(オリーブの枝、平和と団結、私たちはどうやってそれを手に入れようか?)

その反面、苦難のしもべの路程を(議論はありますが)証言している預言も一握りあります。


これらの預言には、メシア時代の概要について様々詳細に記されていますが、苦難に満ちたメシアに関する一握りの預言(イザヤ書53章、詩篇22篇、ゼカリヤ書12:10)に比べて、王として君臨することを証言する預言は少なくとも80はあることからもわかるように、この2つの預言の数の比率の膨大な差は、神の意図された計画が、イスラエルがメシアに従って永遠の都を築き、受け継ぐことであったことを示しています。


犠牲の子羊の預言については、すでに多くの人が知っているでしょう。


王として君臨する預言のいくつかをより深く見てみましょう。

最も有名なメシア預言の一節、イザヤ書9章1節から7節にはこうあります。

「後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。(…)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その王国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。」


預言者は、メシアが秩序と正義をもってその王国を治めるので、エルサレムがもはや苦悩することのない時代を預言しています。

イスラエルの民に与えられた男の子は、「大能の神」、「永遠の父」、「平和の君」といった様々なメシア的称号が与えられていることから、キリストであることが明白であり、引用すると、「まつりごとはその肩にあり」、「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく」、「ダビデの王座に座して」、「その王国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、『永遠の王国』を確立する」と記されています。


ミカ書においては、預言者はエルサレムの将来の輝かしい地位について、極めて詳細に概説しています。

(ミカ書4:1-2)

「末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる。多くの国民は来て言う、『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道を歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。」と記されています。

次の章でも続けて、預言者はこう述べています。

(ミカ書5:2-15)

「あなた(ベツレヘム)のうちから、イスラエルを治める者がわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。(…)彼は大いなる者となって、地の果てにまで及ぶからである。これは平和である。彼らは剣をもってアッスリヤの地を治め、ニムロデの地をその入り口で治める。(…)あなたの手はもろもろのあだの上にあげられ、あなたの敵はことごとく断たれる。(…)そしてわたしは怒りと憤りとをもって、その聞き従わなかいもろもろの国民に復讐する。」

預言者ミカがメシア時代を預言したとき、何を思い描いたかは言うまでもなく明らかです。


新しいエルサレムが山々の頂に築かれ、律法はエルサレムから平和を告げ出て、国々の間に正義を実行し、その結果、もはや戦争を知らない子孫を残すことになります。


創世記12:1-3、22:17-18、49:8-11

民数記24:17-19

サムエル記上2:10

サムエル記下7:24-26、22:50-51、23:5a

列王紀上2:45

列王紀下8:19

歴代志上17:11-14; 17:22, 22:10

歴代志下33:4; 33:7b

詩篇2:2;6-12、18:50、48:8、72、89:3-4、89:20-29、105:8-10、110、111:5;111:9b、125:1、132:13-18、145:10-13

イザヤ書2:1-4、9:1-7、10:20-34、11:1; 4-16、14:1-4a、16:5、19:18-25、24-26、27:1-6、27:12-13、29:17-24、42:1-17、49:1-12;22-23、51:4-5、52:1-10、59:15b-21、60、62、65:17-25、66:12-24

エレミヤ書3:14-18、16:14-15、23:5-6、30:8-9、31:1-36、33:14-22

エゼキエル書16:59-60、28:25-26、34:23-29、36:8-15、36:33-38、37:15-28、40-48

ダニエル書2:36-44、4:3、7:13-14、7:26-27

ホセア書2:16-20、3:4-5

ヨエル書3章

アモス書9:11-15

オバデヤ書1:17-21

ミカ書4:1-8、5:2-14

ゼパニヤ書3:9-20

ハガイ書2:6-9

ゼカリヤ書2:1-12、6:12-15、8:3-17、8:20-23、9:9-16、10、12:6-9、13:1-2、14:3-12

マラキ書3:1-5、4


このビデオですべての預言を網羅することはできませんが、旧約聖書からのメシア待望論はこれ以上ないほど明確です。


これらの80の預言は、主の宣言がダビデの義なる枝の出現へと頂点に達する時を預言しています。 

「彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。」(エレミヤ書23:5-6)


メシアの受肉によって、彼は

「ダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建て」(アモス書9:11-15)、

「わが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟り」(エゼキエル書37:15-28)、

「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、(…)すべての国はこれに流れてき、」(イザヤ書2:2)。

すべての国々が主の家に流れ込んで来て、

メシヤは「その肩の上にまつりごとを担い、そのまつりごとと平和とは、増し加わって尽きることがなく」(イザヤ書9:1-7)、

「義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている」(マラキ書4:2)。


彼らの背後には、癒しを翼に宿した義の太陽が輝いています。

「エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり」(イザヤ書11:1; 4-16)、

「公平と正義を地に行う」(エレミヤ書33:14-22)。

そのころ、「律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出」(ミカ書4:1-8)、

「諸民、諸族、諸国語の者が(メシアに)仕え」(ダニエル書7:13-14)、

すべての敵を自分の足台にする。

「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と(詩篇110篇)。


詩篇72篇に「もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕えるように!」とあるように、

すべての国は彼に仕えますが、 

イザヤ書29:17-24に「人の中の貧しい者は、イスラエルの聖者によって楽しみを得る。」と記されているように、これは専制的な主権ではありません。

なぜなら、メシアの平和で正しい支配のためだからです。

(イザヤ書10:20-34,11:1;4-16,19:18-25,60、エゼキエル書36:8-15、ゼカリヤ書9:9-16)


この新しい主権を恐れるどころか、あらゆる国の民は喜び、専制的な支配者の鉄拳の下に捕らわれた人々に自由を宣言するシオンの光を待ち望むでしょう。


「彼はもろもろの国びとに道をしめす。真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」 (イザヤ書42:1-4)。

その日、さまざまな国の10人の男がユダヤ人をつかまえて、 

「『神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」(ゼカリヤ書8:23)。

なぜなら、「暴虐は、もはやあなたの地に聞かれない」(イザヤ書60章)からです。

主は「地の果てまでも御子の嗣業として与え」(詩篇2:2-12)、

「『わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」(歴代志上17:11-14)。


これまで見てきたように、旧約聖書には、主権者として勝利するメシアへの期待が、非常に詳細に描かれています。

イエスと同時代に生きたユダヤの民が、栄光の王を熱烈に待ち望み、今日までその信仰を持ち続けてきたのは、まさにこの非常に優れた聖書の裏付け(80の預言を思い出してください!)があったからです。

(マルコ15:43、ルカ1:71-74;23:50-51)


しかし、イザヤ書53章や詩篇22篇のような犠牲の子羊の預言はどうでしょうか?

メシアは初臨で死に、再臨の時に栄光の主となって戻ってくるはずだったのでしょうか?


これらの差し迫った疑問に答えるだけでなく、新約聖書の預言書も検証し、メシア信仰が新約と旧約の間で一貫していたことを示します。


ご視聴ありがとうございました。良い一日を。



9. (20231101) 

Principle Series 4b - The Real Reason God Sent Jesus

https://youtu.be/8DiONz8DdWo



原理シリーズ4b - 神がイエスを遣わされた本当の理由


メシアの使命について論じている、この進行中のシリーズでは、新約聖書の預言と、天の父がイエスに歩ませたかった人生にまつわる追加的な疑問を検証します。より深く掘り下げていくことで、神がイエスを遣わされた本当の理由をより深く理解することができるでしょう。


[このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。]



数世紀にわたる忠実な預言者たちやメッセンジャーたちを通して、神はやがて、ご自身の契約の民のために、栄光の審判者であり正当性を証明される方、正義の支配者であり贖い主、不滅の神の都を築かなければならない勝利の平和の王子という、完全なメシアの構想をお与えになりました。


しかしながら、このようなメシアの壮大なビジョンは、旧約聖書の中だけにかけ離れて存在しているわけではありません。

王の中の王の受肉が目前に迫る中、天はイエスの生涯における主要人物に影響を与え、イエスの使命のために彼らを準備させました。


ザカリヤは聖霊によって満たされ、預言し、こう述べています。(ルカ1:67-75)

「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれを贖い、私たちのために救いの角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべて私たちを憎む者の手から、救い出すためである。こうして、神はわたしたちの父祖たちに憐れみをかけ、その聖なる契約、すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いを覚えて、わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。」


この信仰深い宣言を通して、ザカリヤは、彼の民が千年以上にわたって抱いてきたのと同じ、メシアの使命に対する確信を抱いていたことがわかります。


ザカリヤが言及している救いの角は、詩篇132:17-18を思い起こさせます。

「わたしはダビデのためにそこに一つの角を生えさせる。わたしはわが油注がれた者のために一つのともしびをそなえた。わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし彼の上にはその冠が輝くであろう。」


神殿の祭司であったザカリヤは、幼い頃からTanakhタナハ(ユダヤ教の聖書、ヘブライ語聖書を指す)に親しんでいました。

そのため、彼が前からあった契約の約束を思い起こし、メシアの使命についてその時代と未来の聴衆に思い起こさせたとしても不思議ではありません。


マリアのマニフィカト(マリアの賛歌、ルカ1:46-55)を見ると、彼女もまたザカリヤと同じメシアのビジョンを持っていたことがわかります。

世の救い主を産むために選ばれたマリアは、何世紀にもわたってイスラエルの民を踏みにじってきた悪魔の支配からの解放を賛美して主を讃美します。


さらに、イスラエルへの憐れみを思い起こし、神はその力強い御手を示され、アブラハムとの最初の約束を果たし、心の高ぶった者を散らされます。


旧約聖書のこれらの力強い預言は、三人の賢者が飼い葉桶に来た正確な理由です。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みに来ました」と、マタイによる福音書2:2に記されています。

ゾロアスター教である可能性は高いですが、それでも彼らには、世の王となるべき方がお生まれになったことを認識する啓示と霊的な開放性がありました。


最後に、イエスが神殿に入ってきた時、女預言者アンナは、イスラエルの救いが間近に迫っていることを主に感謝し讃美します。


このように、イスラエルのあらゆる階層において、金持ちから貧乏人まで、老いも若きも、男も女も、昔の預言者たちと同じメシアへの期待を抱いているのがわかります。


前述の宣言は、勝利の解放者という確実なメシア的期待を与えるものですが、もともと賛美の火付け役となった預言はさらに格別なものです。


神の意志を直接伝える天使ガブリエルは、マリアの前で次のように預言しています。 

「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼にその父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その王国は限りなく続くでしょう」(ルカ1:32-33)。


旧約聖書の預言の確固たる土台の上に立って、キリストに関するガブリエルの預言は、ダビデ家に対する約束のすべてを表していました。即ち、ダビデの子孫から生まれるメシアは、永遠の肉的・霊的王国をもたらし、その祝福を全世界に広げるでしょう。


このように、ユダヤ社会全体がエルサレムの救い主の到来を信じていただけでなく、聖書は、神の第一の使者もメシアの使命に同じ期待を抱いていたことを明らかにしています。


しかしながら、ユダヤ人はメシアの使命が何なのか誤解していたのではないでしょうか?

キリストは一度目に来て十字架で死に、それから再臨の際にエルサレムを建国するはずではなかったのでしょうか?


もし、ユダヤ人がメシヤに対する誤った概念を千年以上にわたって代々抱き続けてきたのだとしたら、なぜ神はこの途方もなく誤った期待を正されなかったのでしょうか?


それは、神の御心を知っているすべてのメッセンジャー、預言者、そして天使が、メシアの初臨ではなく再臨で起こると知っているメッセージを伝えていたことになります。


それだけでなく、神が直接語っている80の預言のうちの大部分は、再臨で成就すると神ご自身は知っておられるにもかかわらず、あたかも初臨で成就するかのように語っていることになります。

君臨する王を預言する80の預言のひとつひとつが、主にとって、この最も重要な教理を明らかにする機会だったのです。


もし、この説を真実とするならば、神は千年以上もの間、選ばれた民を根本的に欺いてきたことになり、私たちの聖なる神(『聖なるかな』と三度讃美される神、イザヤ書6:3、ヨハネ黙示録4:8)に何かしらできないことがあることになります。


ユダヤ教の偉大なラビ、マイモニデスによって信仰の13の原則の一つとして挙げられた内容に、メシアという人物はユダヤ教における最も中心的な教義の一つであるとあります。

神がこの信仰の核となる信条を、選ばれた民の前に意図的に隠しておくとは考えられません。


しかしながら、イエスが偽メシアだったというわけではありません。

後述しますが、イエスの公生涯におけるいくつかの重要な場面は、(キリスト教の神学と歴史とともに)イエスが犠牲の子羊の悲劇的な道を歩むはずではなかったことを示しています。


では、イザヤ書53章や詩篇22篇など、イエスが死ぬはずだったことを証明する聖句はどうでしょうか?


以前のビデオでお話ししましたが、申命記11:26-28に記されているように、神の御計画と子供たちに対する対処は常に祝福と呪いという二面性を持っています。

「わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、呪いとを置く。」

民が神の声に聞き従い、その戒めに耳を傾けるなら、いのちの道と祝福が与えられます。

しかし、もし彼らが主に背を向け、善と聖なるものを破壊するなら、神は必然的に人々を罰することになります。


このように、旧約聖書には、前述の二重預言のパターンに合致する、メシアの運命に関する二通りの預言があります。つまり、君臨する王としての預言と犠牲の子羊としての預言です。

もし、人々がメシアを受け入れるなら、永遠の聖都が建設され、全世界に平和と繁栄がもたらされるでしょう。

一方、もし民がメシヤを受け入れないなら、メシヤは殺され、イスラエルを受け継ぐのは別の民となり、後にキリストの再臨が必要となります。


この祝福と呪いの概念は、マラキ書の最後の章に正確に示されています。

旧約聖書の最後の預言者として、400年の沈黙の前に、マラキはメシアの使命に関する重要なビジョンを示しています。


彼はこう書いています。

「見よ、すべて高ぶる者と、すべて悪を行う者が焼き尽くされる日が来る。しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽がその翼に癒しを宿して昇る。あなたがたは悪人を踏みつける。わたしのしもべモーセの律法、すなわち、わたしが彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。これはわたしが来て、呪いをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。


ここに見られるように、終わりの日において、イスラエルが歩むことのできる道は2つあります。

それは、イスラエルの決断にかかっています。

「義の太陽がその翼に癒しをもって昇る」のか、それとも、

「その地は完全な滅びの命令によって撃たれる」のか。


エリヤの到来を約束した彼のイスラエル人に対する厳しい警告は、旧約聖書のメシア預言の二面性の雛形となっています。


神の子の受肉によって、終末論的ビジョンは預言の域を超えました。

つつましい飼い葉桶の中で、旧約聖書を通して広く知れ渡ったすべてのメシア的預言が、ついに実現の可能性に達したのです。 天の王国は目前に迫っていました。


問題は、メシアがその使命をどう考えていたかということです。

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